さくらの長い休日(その9)――<大神家の人々>――


 

 さくらはどちらかと言えば早起きな方だ。公演の夜の部がある時、遅くまで反省会や打ち合わせをやっていた時はついつい寝過ごしてしまうこともあるが、それでもお日様が高くなってからようやく布団から這い出す、などという事は無い。前の日がどんなに遅くても、早朝稽古を欠かしたことはほとんど無かった。
 この日も、日の出前にさくらは身支度を終えていた。客とは言え自分はこの家に嫁いで来る身である。実際に同居することは無くとも。だから、朝食の仕度の手伝いくらいはするつもりでいた。
 ところが、である。さくらが少し迷いながら台所へ顔を出した時には既に千鳥と美鶴が忙しそうにおにぎりを握っていた。調理台には中身の詰まった重箱がいくつも積み重ねられている。

「おはようございます!」

 やや焦りを感じて二人に声をかけるさくら。

「あら、さくらさん、もうお目覚めになったの?」
「昨日はお疲れでしたでしょう?もっとゆっくり休んでいらしたら?」

 振り向いて笑顔で答える母娘の声には嫌味な調子など欠片も無かったが、それでもさくらは少しばかり身の置き所の無い思いを感じてしまう。

「でもお母様、せっかくだからさくらさんにも少しお手伝いしていただきません?」
「そうですね。さくらさん、お客様にこんな事をお願いするのは申し訳無いんですけど、美鶴とおにぎりをこしらえていただけません?私はお茶の用意をしますので」
「はいっ!」

 そんなさくらの心の動きがすぐにわかったのだろう。美鶴と千鳥の申し出に、さくらはパッと表情を明るくして美鶴の隣に並んだ。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「これだけあれば大丈夫かしら?」
「そうね、あの人達がいくら沢山食べるといっても、朝からこれだけ用意すれば大丈夫でしょう」

 それはまさしく、おにぎりの山だった。お米の量にすれば一升近くあるのではないだろうか?何故こんなに沢山のおにぎりを作るのだろう?
 さくらの不思議そうな顔を見て、美鶴は昨日から散々見せている意味ありげな微笑と共にさくらにこう提案した。

「お母様。あたしはさくらさんと一足先に持って行けるだけ持って行こうと思うんですけど」
「そうね、じゃあ、お願いしようかしら?」

 こちらも何処と無く面白がっているような表情である。こうして見ると、親子だという事が無条件に納得できてしまう、良く似た笑顔だ。

「さくらさん、これからちょっとお弁当を届けますので少し持っていただけませんか?」
「あの、どちらへ……」
「少し離れた河原へ。そこで一郎さんがみんなと朝稽古をしていますので」

 さくらは慌てて頷いた。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「重いでしょう?もうすぐですから」
「いえ、私の方は……」

 と応えてはみたものの、正直言ってさくらの腕には少々重かった。おかずとおにぎりで大型の重箱五段重ねである。だが、美鶴はさくらと同じだけの重箱を持っている上に、バケツのような大きさの水筒を提げているのだ。力が強いのは昨日の晩からわかっていたものの、想像以上の腕力、そして体力である。

「何もさくらさんがいらっしゃっている時にお稽古なんてしなくてもよさそうなものだって、あたしは言ったんですけどね。久し振りに一郎さんが戻って来られたものだから鷹也くんや豹馬さんばかりか父も祖父も我慢ができないみたいで」

 やれやれ、という感じで美鶴は首を振っている。

「一郎さんが起きてきたところを誘拐するみたいな勢いで連れ出しちゃったんですよね……全く男の人って幾つになっても子供なんだから……」

 今度は声に出して溜息を吐く美鶴。

「それにしたってこんな朝早くから乱取なんてしなくてもよさそうなものなのに……だからこんな山奥に引っ込んでいなくちゃならないのよね……」

 美鶴の嘆息に重なって聞こえる、木と木がぶつかり合っているとは思えない鋭い連続音。おそらくは、木刀で打合っている音。しかし、時折混じる爆発音は一体何なのだろう?
 美鶴も本気で愚痴を言っている訳ではなかったのだろう。後は時々さくらの方へ振り返って短く声をかけるだけで歩調を乱さず歩き続ける。重い荷物と、凸凹の山道にも拘らず。
 不意に、木々が途切れた。今まで打撃音にかき消されていた水の音が聞こえる。小さな崖の下に、かなり広い河原が広がっていた。

「さくらさん、少し見物していましょう?」

 粋な感じで片目を瞑って美鶴が提案する。しかし、その時には既にさくらの目は眼下の光景に釘付けになっていた。

「はい…」

 上の空で返事をするさくら。美鶴は別に気分を害したりしなかった。仕方ないな、という感じで肩をすくめると、さくらと同じ様に熱心に稽古風景を見詰める。
 河原では、大神と豹馬が向かい合っていた。手にする得物は共に双刀。ゆったりと構える大神に対して、豹馬はやや身をかがめ、大神を中心とした弧を描いて慎重に足を進めている。
 豹馬が動いた。消えた、と錯覚するほど鋭い突進。お互いの間合いに入る直前、今度は本当に姿を消した。さくらの目で追えない程急激に進路を変更して大神の左手から襲いかかったのだ。

 キンッ!

 木の打合う音と言うより金属音のような響きが生まれる。

 キンッ キンッ キンッ

 豹馬の野獣のような敏捷さに全く惑わされる事無く、一の太刀を受け止め返しの太刀、二の太刀、三の太刀と流れるような連続攻撃を繰り出す大神。
 たまらず豹馬は後方に跳ぶ。前への突進にほとんど遜色無い後退速度。だが、間合いは開かなかった。
 全く同じ速度で肉薄する大神。豹馬が一刀を振り下ろす。その太刀筋は、僅かに乱れていた。

 ゴァン…!

 先程首を捻った爆発音が聞こえる。地面に刻まれる一本の溝。それは、豹馬の空振りした木刀の剣圧が地面を抉る音だった。
 空振り。
 豹馬の前に大神の姿は無い。
 体を回す豹馬。
 横薙ぎに襲いかかる剣撃に辛うじて木刀を合わせ、
 そのまま川面まで弾き飛ばされた。

「お願いします!」

 声と同時に跳躍する鷹也。
 優に十メートル以上の間合いを跳び越え、大神の頭上より襲いかかる!

 キンッ…!

 薙ぎ上げた大神の一刀と鷹也の木刀が衝突する。鷹也は空中で姿勢を整え、間合いの外に危なげなく着地する。
 と、同時だった。一瞬で着地の衝撃を殺し、大きく右手に跳び退る。大神の左の一刀はギリギリで空を切った。
 即、返しを打とうとする鷹也。だがその瞬間彼の顔は強張った。大神の右の一刀が左の一刀を追いかけるように伸びてきていたのだ。
 心臓を狙った突き。通常の剣道の突きと違い、体の中心目掛けて伸びてくる突きは体を捻ったくらいではかわせない。交差させた双刀で撥ね上げて突きをいなそうとする鷹也。
 瞬間、大神の突きが静止した。
 鷹也の受けは止まらない。
 僅かな時間のずれ。下から撥ね上げるはずの十字受けの、十字に重なる交点へ大神の一刀が突き刺さる。

 ギンッ!

 途中で止まったにも拘らず、突きの威力は少しも消えていなかった。二刀対一刀、両手対片手にも拘らず、後方へ弾き飛ばされる鷹也。派手な水飛沫を上げて、鷹也もまた川の中に叩きこまれる。

「熊作、共に掛かるぞ!」
「応!」

 一際長い木刀を両手に構えた熊作の、左の一刀が頭上に落下する。

 ゴァン!

 激しく飛び散る細かな砂利。だがその時には既に、大神の体は熊作の真横まで来ている。

 キンッ!

 打合わされる虎太郎と大神の一刀。
 さくらには何となくわかって来た。何故、木刀を打ち合わせてあのように鋭い音がするのか。大神たちの木刀は、おそらく『気』の作用によって、硬化しているのだ。鋼に等しいほどに。あの金属音は、木と木のぶつかる音ではなく、気と気のぶつかり合う音なのだ。
 乱戦の中に水を滴らせた豹馬が割り込んでくる。いや、良く見れば虎太郎の着物も熊作の袴もたっぷり水を含んでいた。

「綺麗でしょう、一郎さんは」

 美鶴にうっとりとした声をかけられて、さくらはようやく同行者の事を思い出した。
 もっとも、相手の存在を忘れていたのは美鶴も同様のようだ。彼女はさくらの返事を待たずに、夢見るような口調で呟いた。

「美しさというのは調和と均衡、そして生き生きとした命の輝き。
 あたしは、偏ったもの、歪んだもの、変わらないものを綺麗とは感じないの。だって、偏りや歪は不健康だという事だし、変わらないという事は生きていないという事だもの。あたしの目は、歪を見つけ出す眼だから。歪を見つけ出し、治すのがあたしの技だから」
「美鶴さん、お医者様だったんですか!?」
「そうですよ。西洋医学全盛のこの時代では到底医者の資格なんて取れないけど」

 ようやく二人の視線が一致した。

「だからあたしは健康なものが好き。綺麗なものが好き。人でも、物でも、歪の無い、調和し均衡したものが好き。生き生きしていればもっと好き。
 だからあたしはさくらさんの事がとっても気に入ったし、一郎さんの事が大好きなの」

 何だか、さくらは複雑な気分だった。美鶴の「好き」というのは、どうやらさくらが邪推していたものとは少し性質が違うらしい。だがこれほど熱っぽく、しかも正面から「好き」と言われると、やはり尻込みしてしまうものがある。

「一郎さんはとても綺麗。全てが調和し、均衡し、そして力強く息づいている。
 力だけならお父様の方が上、技だけなら多分お爺様の方が少し上だろうし、速さだけなら豹馬さんが、身の軽さなら鷹也くんが僅かに勝っているかもしれない。だけど一郎さんには全てがある。全てが調和し、均衡して一郎さんの中にある。
 だから一郎さんは『一郎』なのだけど」
「美鶴さん、あの、それは一体……?」

 美鶴は不思議な笑いを浮かべた。泣いているような、同時に誇らしげな。

「大神一郎という名前は、大神一族の内で最も優れた男に与えられるものなのです。単に強いだけじゃなくて、その時代でもっとも優れていると認められた男に。何代目、誰それ、というのに似てますね。
 だから本名は別にあるという事ではないんですよ?確かに子供の頃は別の名前で呼ばれていましたけど、十四の時から『大神一郎』が一郎さんの唯一つの名前です。一郎さんは、僅か十四歳で最も優れていると認められましたから」
「………」
「僅か十四歳で、父も祖父も、誰も一郎さんに敵わなくなってしまった。孤独だったんじゃないかって、時々思うんですよ。一郎さんが海軍に入ったのも、『水平線の向こうへ行きたい』というのが理由でしたから。広い世界に行きたかったんでしょうね。自分と対等に張り合える相手が欲しかったんじゃないかしらって、そんな事を考えてしまうんです。一郎さんは、そんな寂しさを感じさせる少年でした。
 だから、久し振りにじっくり顔を合わせて、少し驚いたんですよ?随分感じが変わっていて」

 今度は花のような笑顔を浮かべる。

「寂しさの影がすっかり拭い去られていて。
 さくらさん、弟は、帝国華撃團で皆さんに好かれていますか?」
「はい。みんなからとても慕われています。みんな、一郎さんの事が大好きです」
「そう……良かった。やっぱり、皆さんのおかげだったんですね。そして何より、さくらさん、貴女のおかげですね」

 美鶴の微笑みは、とても艶やかで、優しかった。

「あたしは……あたしの方がお、一郎さんに一緒にいて欲しいって、いつも一緒にいて欲しいって、それがあたしの一番の願いで……」
「そんな貴女だからですよ、さくらさん。そんな風に真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる貴女だからきっと、弟は変わることが出来たんです」

 見交わされる視線。
 続けざまに三つの水音が聞こえる。

 くすっ

 二人の若い美女は、どちらからとも無く小さく吹き出した。

「そろそろお弁当を届けてあげましょうか。いい加減、お爺様たちも満足したと思いますし」
「はい!」

 さくらは何時の間にか、このちょっと変わった大神の姉が大好きになっていた。

 

その10へ続く

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