さくらの長い休日(その10)――<大神家の人々>――


 

「一郎、十郎坊殿のお住まいへご挨拶に行って参れ」

 虎太郎がそんな事を言い出したのは河原でさくらと美鶴の持って来た弁当を平らげた後、全員でぞろぞろと母屋に戻って二度目の朝食をかき込んでいる最中だった。

「俺はそのつもりだったけど、どうするかな……」
「何じゃ、一体?」
「爺さん、十郎坊様は本当にさくらくんを連れてきて欲しいと仰っていたのかい?」
「そのことか。相違無い、確かにそう言われた」
「えっ?お山にさくらさんをご案内するんですか?…危なくありません?」

 口を挿んだのは男達の食欲に呆れ顔を浮かべながら一緒に重箱をつついていた美鶴だった。

「美鶴……お前がそれを言うかの?」
「姉さんにそう言われると大丈夫かなという気になるんだけど……」
「お爺様、それに一郎さん。一体どういう意味かしら?」

 美鶴の冷ややかな声と視線にさり気なく顔を背ける二人。

「ですが、姉さんのご意見ももっともです。お山は女人禁制が掟。姉さんがお目こぼしして頂いていると言っても、危険が無いとは言い切れません」
「十郎坊殿が信用できないということかの?」
「お山に住まわれているのは十郎坊様だけではありませんでしょう。もしかしたら、十郎坊様のご意向が行き届いていない新参者がおるかもしれません」
「その危険は何もお山の領域に限った事ではあるまいよ。山は基本的に彼らの領域。儂らは間借りを許されておるに過ぎん。だからお前は太刀を持って来たのじゃろう?お前一人なら不要の物じゃからな」
「そりゃそうだけど」
「一郎従兄さん、真剣をお使いになるんですか!?」

 何故か顔を輝かせる鷹也。豹馬まで興味津々という視線を送ってきている。

(どういうことかしら?大神さんが刀を使うと何が起こるというのかしら?)

 さくらの中に甦る疑問。

「必要なら使う。お山に入るとなればさくらさんにも荒鷹を持たせる。ただ、冒す必要の無い危険なら、止めておいた方が良いと思うんだが」
「一郎、お前は特に、十郎坊様にお世話になっているはずだ」

 それまで黙って話を聞いていた熊作が重々しく言葉を挿んだ。

「一郎さん、行ってらっしゃい。十郎坊様はきっと楽しみにしていらっしゃいますよ?」
「母さん……」
「貴方がついていれば大丈夫、なのでしょう?」
「もちろん、そのつもりだよ」
「さくらさん、悪いんですけど息子に付き合ってあげて下さいませんか?」
「はい、わかりました」

 千鳥の言葉で決まりだった。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 さくらの手には二人分のお弁当(但し普通の量の)、腰には霊剣荒鷹。大神の手には手土産の革袋(中身は当然酒)、腰には神刀滅却。
 それ程険しい山ではなかったが、道は有って無いような物だった。辛うじて下草に占領されていない、山道と獣道の区別が微妙な道を大神の先導で登って行く二人。

「大神さん」
「なんだい、さくらくん」

 前を向いたまま声だけで応える大神。

「ところで、十郎坊様ってどんな方なんですか?」

 ずっと抱えていた疑問なのだが、中々言い出す機会が無かったのである。

「ああ、そうか。ごめんごめん、説明してなかったよね?
 十郎坊様はこの山の主みたいな方で、俺が子供の頃時々稽古をつけていただいたんだ」
「そうなんですか!大神さんの先生だったんですね」
「俺の先生、という訳でもないんだけどね。ご自分でも武術がお好きなんだよ」
「へぇ……あたしはまたお坊様か行者様だと思ってました」
「ははっ、そう言えないことも無いかな。十郎坊様はね」

 核心。
 さくらが耳を傾けたときだった。

 げらげらげらげら

 樹上に轟く哄笑。

 手にしたお弁当を慌てて足元に置き、荒鷹に手をかけるさくら。
 大神も立ち止まり、両手を自由にしている。

 げらげらげらげら

 それは、静寂そのものだった山中に響き渡るかと思われる大笑だった。山中から響いて来る様で、声の主が何処にいるのか見当がつかない。
 右からも左からも、前からも後ろからも聞こえてくるような笑い声。その出所を探る内に、前も後ろも右も左もわからなくなってしまうようなボーッとした気分になってくる。

「さくらくん!」

 大神の鋭い呼び掛けに、さくらはハッと意識を取り戻した。

「無理に声の方向を探ろうとするな。意識をしっかり持っていれば良い」

 久々に聞く、花組隊長の声。それだけで、言いようの無い安心感がさくらの中に広がる。

(それにしても……これは「天狗笑い」というやつじゃないかしら?)

 以前権爺に聞いた昔話を思い出す。自分の住処である山に踏み込んできた人間を追い返すため、天狗が高笑いを響かせることがあると。
 注意を樹上に向けるのを止め、大神に目を移すさくら。やや半眼気味になりじっと立ち尽くす大神の姿は、さくらにとって何より確かな現実だった。彼の姿を見詰めているだけで、意識がぼやける事も無くなる。
 不意に、哄笑が止んだ。
 木の葉の鳴る音。大神の眼前に跳び降りて来る人影。荒鷹を握る右手に力を込めるさくら。
 だが。

またぁ!?

 直後、さくらは脱力してしまう。
 高下駄、山伏装束、錫杖、白蓬髪、赤ら顔、そして細長く伸びた高い鼻。

(この辺りでは天狗の仮装が流行なのかしら……)

 カチッ

(!)

 しかし、次の瞬間緩んだ心は一気に引き締まった。

(大神さんが……抜く!?)

 大神の左手が神刀滅却の鯉口を切っていた。
 痺れるような緊張がさくらの背筋を走る。
 予感がした。何かが起こる。自分が見たことも無い、何かが。自分の知らなかった、何かが。それは戦慄に近かった。
 赤ら顔がにやりと笑みを浮かべる。

 シャン……

 錫杖が鳴った。杖の先が大神に向けられる。

 ギャアギャアギャアギャアギャア

 突如、頭上が陰る。振り仰ぐ視線の先には、今にも襲いかからんと妖しく目を光らせている鴉の群れ。

「大神さんっ!」

 その視線にただの鳥には持ち得ぬ明確な意志を感じて、さくらは思わず警告の叫びを発した。

 シャッ……

 太刀の鞘走る、小さな音。大神が遂に、神刀滅却を抜いた!

 雷光が疾った。

 刀身に銀光が踊る。

 風が吹き出した。

 抜き放たれた神刀滅却から放たれた力の波動が圧力となって樹々を揺らす。思わず左腕で顔を庇うさくら。
 鴉の群れが消える。落ちたのではない、空気に溶けるように、ただ消えたのだ。

(幻術?)

 圧力が消える。だが、神刀滅却の刀身は激しい閃光を纏わせたままだ。それは、研ぎ澄まされた刃から迸る「気」の閃光。鋭い刃が、闘気の放電極になっているのだとさくらは直観した。
 同時に、さくらは気づいた事がある。周りの空気が変わっている。ついさっきまでは、様々な気配が自分を雑然と取り巻いていた。だが今は、全ての気配が息を潜め、遠ざかろうとしている様に感じられる。

(怯えている……の?)

 神刀滅却を正眼に構える大神。二刀流の剣士は一刀を使えない、というものでは無い。片手で刀を操る利点は自由度であり、両手で太刀を支える利点は威力である。片手で太刀を変幻自在に舞わせる腕が両手で太刀を構えた時、全てを一刀両断する剛剣を生み出す。その迫力が、眼前に立つ「天狗」以外の全ての「命」を平伏(ひれふ)させているのだ。
 「天狗」はますます愉快そうに唇を歪め、遂には破顔した。それにしても、随分表情豊かな「面」である。ゴムででも出来ているのだろうか?
 すっ、と錫杖が引かれる。その両眼から、急に邪気が消えた。別人の様に親しみの込められた眼差しに変わる。
 大神が神刀滅却を鞘に収めた。圧力が消えたのがハッキリわかる。自分もまた、大神の「気迫」に呪縛されていたと今更の様に気づくさくら。
 「天狗」が歩み寄ってくる。

「腕を上げられましたな、一郎殿」
「お久しぶりです、十郎坊様。それにしても随分思わせぶりな御歓迎でしたね」
「はっはっはっ、許されよ、一郎殿。我等は元来このような存在」
「許すなどとんでもない!ここはあなた方の領域です。そちらの作法に従うのは当然のこと。
 無論、譲れないものもありますが」
「それはその娘子のことかな?お主があれ程闘志を剥き出しにしたのは初めてのような気がしますぞ」

 じろっ、とさくらへ視線を投げる十郎坊。怒っている訳ではなく、そういうギョロ目なのだ。とてもとても、作り物の顔には見えない。

「一郎殿、紹介してもらえないかな?あちらがお主の許婚殿であろう」
「これは失礼しました。さくらくん」

 大神に呼ばれて、さくらは慌てて小走りに彼の隣へ走り寄った。

「許婚の真宮寺さくらさんです。さくらくん、こちらが十郎坊様だよ」
「初めまして、真宮寺さくらです」
「おお、貴女が真宮寺の姫君か。想像以上にお美しい。儂はこの山を住処とする十郎坊と申すもの。一郎殿とは彼が子供の頃からの付き合いでな。許婚殿を伴い帰郷すると聞き、是非お目にかかりたいと虎太郎殿に無理をお願いしておったのじゃ。
 よくおいでなされた。山は女人禁制が定めなれど、貴女はその埒外といたそう。此度のみならず、我が意の続く限り」

 軽く目を見張る大神。

「凄いね、さくらくん」
「あ、ありがとうございます」

 何故大神がそれ程感心しているのかその理由がわからず、戸惑いながらもとりあえず十郎坊に頭を下げるさくら。

「うむ。
 立ち話も無作法じゃ。儂の庵に来てくれぬか」
「はい。
 行こう、さくらくん」

 足元からたっぷり酒の入った皮袋を拾い上げ、さくらを促す大神。同じ様にお弁当の包みを拾い上げ、さくらは二人の後を続いた。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「祖父より言付かってまいりました」
「おお、いつもすまぬな!」

 囲炉裏を挟んで向かい合う大神と十郎坊。差し出された皮袋に相好を崩す十郎坊。気の所為か、長い鼻がひくついたようにも見える。

「こればかりは山よりも里の方が美味いでな。なかなか、人の技も侮れぬ」

(それにしても何時までお面を被っているのかしら?)

 さくらとしては当然の疑問を心に浮かべ、思いきって尋ねてみる事にした。

「あの、十郎坊様」
「んっ?何じゃ、さくら殿」
「お目に掛かったばかりで不躾かと存じますが、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「そのような他人行儀はいらぬよ、さくら殿。貴女は何と言うても一郎殿の奥方になられる方であるし、儂は貴女が気に入ったでな」
「ありがとうございます、十郎坊様。それではお言葉に甘えさせていただきまして……」

 ここでチラッと大神に目をやる。彼は僅かに首を傾げながらも、目線で頷きを返して来た。

「あの、そのお面でございますけど、とても素晴らしい出来ばえでいらっしゃいますね?どのような材料でお作りになられた物か、先程から気に掛かっておりまして……」

 この言葉に、十郎坊も大神も奇妙な表情を見せた。自信たっぷりに勧められて断るに断りきれず、甘過ぎる酒を無理やり呑み込んだ時のような、奇妙な無表情。

「さくらくん、あのね」
「さくら殿、良く出来ているというのは、例えばこの鼻の辺りかな」

 十郎坊の表情は、すぐに笑いを堪えているようなものに変わった。狼狽気味の大神の言葉を遮って、芝居がかった口調で逆に問いを返す。

「はい、あの……?」
「こんな風に時々動くところとか?」

 そう言って、ヒクヒクと鼻を上下に動かして見せる」

「はいっ、……すごいですね……」
「こんな風に高さが変わるところとか?」

 するする、と鼻が縮んで普通の人とあまり変わらない高さになったかと思うと、再びするする、と伸びて元の天狗の鼻に戻る。

「あの……?」
「触ってみぬかの?」
「えっ…?」
「遠慮はいらぬよ。さあさあ、触ってみなされ」

 そう言って目を閉じる十郎坊。
 一瞬、躊躇したさくらだが、すぐに好奇心に負けて手を伸ばす。大神が諦めたように一つ、首を振った。

「本物みたい……」

 それは全く、素肌の感触と変わらなかった。温かく、僅かに潤いがある。思わず、鼻先をつまんだ指に力がこもる。

「さくら殿、その様に力を入れられては……」

 痛そうな、十郎坊の声。

「は、はいっ、すみません」

 痛い……?

「あの、まさか……」

 おそるおそる、大神の顔を窺う。
 諦め顔で頷く大神。

「本物……?」
「そうじゃよ。儂はこの日光に住まう天狗、十郎坊じゃ」

 ……………

「さ、さくらくん!?」

 遠ざかる意識が最後に認識したのは、慌てふためいた大神の顔だった。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 ……くらくんさくらくん、さくらくん

 自分を呼ぶ声が少しずつ近づいてくる。それが、自分にとって誰よりも大切な人の声だと気づいて、さくらは大急ぎで返事を返した。

「大神さん!」

 パチッ

「ああ良かった、さくらくん、気がついたんだね」
「大神さん、あたし……あっ!」

 記憶が繋がる。自分を見下ろす大神の顔を押し退ける様にガバッと体を起こすさくら。

「天狗!、天狗が何で…!」
「さくらくん落ち着いて!」
「だって大神さん、天狗です、天狗なんですよ!」

 さくらはすっかりパニックに陥っていた。それも無理はない。天狗は日本に住まう人外の者の中でも指折りの力を持つ。人に近い姿を持つ大天狗ともなれば、妖怪ではなく神の列に数えらる事もあるほどだ。しかも、天狗は必ずしも善なる者とは限らない。乱を好み、乱を煽る、禍津神としての側面もあると言われているのだ。

「さくら殿、落ち着いてくだされ」

 大神の腕の中で尚も暴れていたさくらがピタリと止まった。十郎坊の落ち着いた声に含まれる、深い哀しみを感じ取って。

「如何にも儂は天狗じゃ。あなた方とは別の世界に住む生き物じゃ。
 儂の仲間達の多くがあなた方人にとって、邪悪な者であることも存じておる。人が我らを恐れるのも致し方ない事なのじゃろう。
 じゃがな、さくら殿、人にも善人と悪人が居る様に、天狗も人の尺度に照らして邪悪なる者ばかりではないのじゃよ。天狗の中にも稀に、人が好きな者も居る。人と共に生きていきたいと思っておる者も居るのじゃ。……儂のようにな」

 ポツリ、ポツリと語る十郎坊。その姿は、さくらの抱いていた邪悪な天狗のイメージとは余りにかけ離れていた。

「信じて欲しい、と言っても難しいじゃろう。特に貴女は、邪悪な魔物と戦い続けて来た破邪の血統の後継ぎじゃからな。
 いきなり儂を信じてくれと言うても無理かも知れぬ。じゃがな、さくら殿。儂を信じてくれておる一郎殿なら信じられるのではないか?儂を信じてくれておる一郎殿を信じてはくれぬか」
「………」

 さくらは穴があったら入りたい気分になっていた。十郎坊が一体さくらに何をしたと言うのだろう。それは、初めは驚かされた。だがそれだけだ。十郎坊はさくらに礼儀正しく、好意的だった。人に、さくらに友誼を求めるこの心の何処が人と違うというのだろう。

「ごめん、さくらくん」

 振り返った視線の先には、十郎坊以上に哀しそうな大神の顔。

「最初からハッキリと教えておいてあげるべきだったんだ。君が驚くのも無理はない。俺は別に、君をビックリさせるつもりなんか無かったんだ。ごめん、無神経過ぎたと思う。
 ただ、俺にとっては当たり前の事だったんだ。十郎坊様は俺の稽古相手で、友人で、いらっしゃるのが当たり前の方だったんだ。
 十郎坊様、申し訳ありません。全ての責任は私にあります」
「一郎殿、気にしないで下され。里に暮らす人にとっては、無理のないことなのじゃから」
「いいえ、いいえ!ごめんなさい、ごめんなさい!!
「さくらくん?」

 激しく頭(かぶり)を振り、バッと額を床につけるさくら。

「ごめんなさい、十郎坊様。ごめんなさい、大神さん!あたし、何もわかってなくて!あたし、何もわかろうとしなくて!」
「さくら殿、頭を上げてくだされ……」

 十郎坊の眼差しは虎太郎の目に似ていた。千鳥の目に似ていた。ここに来て、何度も何度も繰り返し見た、達観と慈しみの目。

「貴女はわかって下さったではないか。人外の化け物にそうして礼を尽くしてくださるではないか。
 一郎殿、ありがとう。儂に、新しい友人を紹介して下さって」

 潤んだ目で十郎坊を見詰め、大神の目を見詰めるさくら。

「ありがとう、さくらくん」

 さくらは涙を浮かべたまま、心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

「……鞍馬殿が稽古をつけた源家の末っ子も中々の腕だったそうじゃが、儂が稽古をつけた一郎殿には敵うまいて。一郎殿を是非、鞍馬殿にもお引き合わせしたいのう。どうじゃ、一郎殿、これから京へ一っ飛びせぬか」
「いえ、今日は家の者を待たせておりますし、それ程長く帝都を留守にするわけにも参りませんので……」
「あの、十郎坊様、「げんけ」の末っ子と仰られますと、もしや九郎判官義経卿の事でいらっしゃいますでしょうか……?」

 十郎坊はすっかり出来上がっていた。大神の持参した土産の酒をさくらのお酌で気持ち良く呑んでいた。

「そうじゃよ、我ら天狗の頭領、鞍馬殿が武芸の手ほどきをされた源九郎の事じゃ」
「……十郎坊様って、位の高い天狗様でいらしたんですね……」

 心底感心したという顔で十郎坊に酒を勧めるさくら。

「いやなに、この日の本に十二万を数える天狗の内で、まあ、二十位は下るまいて」
「わあ……すごいです!」
「いやいや、はっはっはっはっ」

 ……すっかり順応していた。
 そんなさくらを微笑ましそうに見詰めていた大神は、ふと庵の外に気配を感じて十郎坊に視線を向けた。

『十郎坊殿、おられるか?』

 案内を請う声。

「どうやら疾風(はやて)殿のようじゃな」
「そうですね、私がお迎えに出ましょうか?」
「いやいや、客人にそのようなお手間を取らせるわけには参らぬて。どれ」

 身軽に立って土間へ出て行く十郎坊。その足元がすこしばかり覚束無くなっている。天狗といえど酒には酔うものらしい。

『一郎殿が来られておると聞いてな』
『相変わらず耳が早いのう。許婚殿も参られておるよ』
『おお、それは楽しみじゃ』

 そんな声が聞こえてくる。

「大神さん、疾風様って、やはり天狗様ですか?」
「いや、疾風様はね」

 ガラッ

 襖が開き、十郎坊と共に顔を見せたのは……巨大な銀狼だった。

「一郎殿、久し振りじゃの」
「御無沙汰しております、疾風様。
 ご紹介します。私の許婚の真宮寺さくらさんです」
「お初にお目に掛かる。疾風じゃ。一郎殿とは十郎坊殿の縁で知り合うての」

 牙が並ぶ巨大な口から流暢な日本語が流れ出る。

「い、犬神様……?」
「おっ、これは自己紹介が足りなかったかの?儂は関八州の狼が族を統べる銀の疾風(しろがねのはやて)じゃ。よろしく頼む」
「………」
「さくらくん?」

 目を一杯に見開いて何も言おうとしないさくらの顔を、大神が不思議そうに覗きこむ。

「も…もう……」
「?」
もう嫌ーーっ!

 

 奥日光の一角に位置する大神の実家。
 山の奥深く。
 そこは、人の世界から遠く離れた摩訶不思議なものの住む世界だった。
 人の都、帝都は遠い。
 さくらの長い休日は、まだまだ終わりそうに無い。

 

――<了>――

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