決戦――かえで雄一の物語――特別編

決戦<その14>


 大地の記憶を媒体として築き上げた黄泉の幻影。
 静かなる眠りの世界。死の領域。
 加山の作り出した幻術結界に、突如、正反対の力が溢れた。
 大気が震える。
 大地が脈動する。
 結界の中だけではなかった。
 彼を取り巻く世界、帝都の大地と大気に、命の力が溢れていた。

 雄叫びが聞こえた。
 天空の彼方から、宿命を食い破る獣の、咆哮が聞こえた。

大神

 もう一度、友の名を呼ぶ。今度は、彼自身の意志で。
 彼の声は、世界に満ちた生命の力と共に、天の彼方へと翔け上った。

 世界が、白く染まった。

 全ての光を内包する純白の光が、虹色の輝きを従えて彼の視界を覆った。

 思わず手を翳し、瞼を閉じた加山が、再び目を見開いた時。
 全てが、止まっていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 全員が目を覆っていた。
 米田も、かえでも、かすみ、由里、椿、薔薇組の面々も。
 艦橋にいる全員が、突如視界に広がった眩い白光に目を閉じていた。
 目を閉じていても、眩しかった。
 光は一瞬で消えた。
 何事も無かったように。
 残像すら残っていない。
 目を開けた時には、艦橋は今まで通りの姿を取り戻していた。
 誰もが、暫し、呆然としていた。
 見慣れた制御盤の上に、着信のランプが点る。
 由里が慌てて受信機を耳に当てた。

「月組より、入電」

 全員の視線が集中する。

「……帝都の降魔兵器が、…活動を停止しました!?」
「やったか!!」

 半信半疑の表情で通信内容を報告する由里に、米田は強い頷きを返した。

「二剣二刀の儀が、成功したようね!!」

 かえでの笑顔と力強い宣言に、ようやく現実感がわいたのだろうか。
 艦橋に、歓声が上がる。
 花組を、大神を称える言葉が交わされる。

「まだだっ!まだ終わっちゃいねえ!」

 だが、その浮ついた空気を米田の一喝が断ち切った。
 そうだ。まだ武蔵は彼らの目の前に浮いている。
 そして彼女たちは、彼は、まだ武蔵の中だ。
 全員の表情が一気に引き締まる。

「長官、砲撃を加えますか?」
「いや。それよりも、探査装置を武蔵の全周に撃ちこむ」

 かえでの問い掛けに米田は首を振って新たな指令を加える。

「わかりました」

 米田の意図はすぐに分かった。これは花組の位置を捕捉し、脱出を援護する為の措置。勝った後の、勝利を完全なものにする為の用意だ。

「ミカサ回頭。微速前進で武蔵を一周しつつ探査装置を撃ち込む」
「機関微速前進」
「左舷副砲塔準備よし」

 巨体をゆっくりと回転させるミカサの艦橋で、かえではちらりと足元に目を向けた。安堵と、不安が、綯い交ぜになった瞳で。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「終わったな、兄貴……」

 呆然と空を見上げている兄の傍へ歩みより、ホッとした表情で同じように空を見上げながら雄次郎はそう話し掛けた。

「それにしても、予定より随分早かったんじゃないのか?まだ三十分ちょっとしか経っていないぜ?」

 悪戯っぽい視線を兄に向け、からかうような口調でこう続ける。
 突如、もたらされた終結。
 それが天空の彼方から、兄の友人によってもたらされたものだと彼にも分かっていた。

「それにしても、聞きしに優る力だね……手にしたばかりの霊剣で、ぶっつけ本番で二剣二刀の儀を成功させるなんて……」

 全く信じ難い力だ。霊剣を自分のものとして使いこなすには、霊剣と交流を持つそれなりの時間が必要とされる。自分だって、この聖(星)刀芒鋭を使いこなせるようになるまでには数年の歳月を必要とした。それを、たった今まで敵の手にあった、触れたことも無い霊剣まで従えて伝説の祭儀、二剣二刀の儀を成功させるとは!
 驚きよりも呆れる気持ちが先に立つ。全く、この兄が一目置くだけの事はある。
 一人でそんな事を考えて、改めて兄に目の焦点を合わせて、雄次郎は異変に気がついた。

「兄貴?」

 加山はまだ空を見上げたままだ。呆然と、虚ろな目で。雄次郎の声にも全く反応を見せない。

「兄貴!?」
「隊長!?」

 異変に気づいたのは雄次郎だけではなかった。柴田、穂積、そして意識を取り戻した迎木、三上、四人の幹部が次々と加山の様子がおかしいことに気づき、彼の周りへ駆け寄ってくる。

「隊長!?加賀見さん!!?」

 一際若い音の術者・児玉が――彼は幻術結界に加わっていなかった――狼狽した声をあげる。立ち尽くす加山の背後で、前のめりに次々と倒れていく仲間の姿に。

「静まれ」

 ざわめきの波を治めたのは四人の中で最も年長の水の術者・三上。

「児玉、ミカサに報告」
「はっ、はい」
「内容は、帝都の降魔兵器が全て活動を停止したこと、のみ。味方の士気を損なうような報告は一切無用」
「わ、わかりました!」

 三上の落ち着いた口調と態度が、仲間達の動揺を沈静化させていく。

「加山副隊長」
「あ、はい」

 自分の事だと分かるまで、一拍の間が必要だった。

「隊長と仲間達を白鯨丸に収容してもらえませんか」
「それは、構いませんが、白鯨丸には応急設備しかありませんが……」
「川崎の神崎重工病院に秘密治療室があります。あそこは表向き飛行船工場附属の緊急医療施設ですから白鯨丸が降りてもそれほど目立ちません」
「あの図体ですから…目立たないということはないと思いますが……」
「こんな時ですから、問題ないでしょう」
「……そうですね、分かりました」

 一礼して負傷者と昏倒者の収容作業を指揮すべく、他の三人を促して背を向けた痩身の術者に、同じように目礼して雄次郎は兄の前に立った。

「兄貴」

 やはり、返事はない。
 立ったまま気を失っているわけでもないようだが、こちらの呼びかけには反応しない。声が聞こえていても、それに応える意識が機能していないようだ。

「兄貴……」

 一時的な心神喪失なのか、それとも精神が深刻な損傷を受けているのか。精神感応や心霊治療の能力を持たない雄次郎には判別がつかない。
 雄次郎の右手が動いた。霊剣を左手に持ち替え、空いた右手で拳を作り、兄の鳩尾へ。
 声もなく崩れ落ちる兄の身体をそのまま抱えあげて、左手首につけた通信機で白鯨丸の艦橋を呼び出した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 帝国華撃団は勝利をつかんだ。
 最後に少々危ない場面があったが、花組は誰一人欠けることなく無事、ミカサに帰還した。
 武蔵は太平洋に破片を撒き散らせながら、空の彼方へと姿を消した。おそらくは、元の異界へと戻ったのだろう。
 大神は見事、京極に止めを刺した。その骸は魔操機兵『新皇』に取り込まれ、武蔵と共に空の彼方へと消えた。
 大神はまたしても勝利を現実のものとした。魔神器も破邪の力も使わず、巨大なる魔の侵攻を退けた。
 仲間達の目には、最早「奇跡の勝利」とは映らなかった。
 当然の結果のようにすら思われた。
 彼がいれば、勝利は間違いない。どんな絶望的な状況であろうと。
 絶対的な信頼は、信仰へと姿を変えつつあった。

 英雄が生まれる時

 人々は 忘れがちになる

 勝利は、ただ一人の手で完成されるものではない、という当たり前の事実を。
 多くの兵士達の、命懸けの戦いを。
 戦場は、ただ一つではなかった事を。
 英雄の勝利。
 その影に隠された、いくつもの決戦があったことを。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 夢を見ていた

 約束

 真剣すぎる眼差しに、思わず頷いてしまった約束
 難しい約束だった
 理不尽な約束でもあった
 求めた側にも、求められた側にも
 最初から、守れそうにない約束だった
 だが、彼は頷いた

 果たせなかった約束
 守ろうとして、守れなかった約束
 悔いはなかった
 彼は、全力を尽くしたのだから
 ただ
 ……約束を破ってしまった謝罪と言い訳を出来ない事が、少しだけ心残りだった

 彼を責める言葉
 嗚咽交じりの
 彼の胸を叩く、震える手
 ……涙

 これは、夢だ
 彼女は泣いたりしない
 彼女が、彼の為に、泣いたりするはずは、ない

 だから

 これは 夢なのだ……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 春風の温もりを感じていた。
 寒さが去った、春爛漫の午後、陽だまりの草の上に横たわり、うとうとと微睡む心地良い一時。
 そんな気怠さを伴う、しつこくまとわりつく眠気を苦労して引きはがし、彼は自分の意識を少しずつ覚醒させていった。

 自分の名は?
 加山雄一

 自分は何者なのか?
 自分は帝国華撃団・月組隊長

 自分は何をしていたのか?
 自分は降魔兵器と戦っていた

 自分は何をしていたのか?
 降魔兵器との戦いは終わった

 自分は何をしていたのか?
 あいつの声が聞こえた
 そして、戦いの終結を確認した

 自分は何をしているのか?
 自分は………

 一つずつ、記憶に欠落がないかどうか確認するように自問自答を繰り返す。そして

 自分は今、何をしているのか?
 自分は今、何処にいるのか?

 ようやく意識が「今」に追いついて、加山は身体の左側に軽く引っ張られるような、抑えられているような違和感を覚えた。
 自分の物とは思えぬ重い瞼を苦労して持ち上げ、顔を左側へと向ける。
 自分がベッドに横たえられていることは既に分かっていた。その、自分に掛けられた布団の左側を、重ねた腕の上に載せた頭で抑えている人物に焦点が合った瞬間、彼の意識はもう一度真っ白になってしまっていた。
 その人物が身動ぎする。肩口で切り揃えた髪が揺れ、彼女はゆっくりと上体を起こした。
 整った美貌に悪戯っぽく輝く巴旦杏の双眸。

「――――」

 確かに、口は動いたのだ。舌も唇も動いたはずなのに、声が聞こえない。自分は耳がおかしくなってしまったのだろうか。

「おはよう、加山くん。ようやくお目覚めね?」

 悪戯っぽいのは視線だけでなかった。そして、おかしくなったのは耳ではないと認識する。

「副、司令…?」

 今度はちゃんと声が出た。どうやら、喉にも言語中枢にも損傷はないらしい。

「副司令?」

 悪戯っぽい声音に、不機嫌そうな色が混ざる。

「随分と忘れっぽいのね、加山くんは」

 いや、憶えている。憶えてはいるが、そんな事まで気の回る状況ではない。

「副、いえ、その、かえでさん」
「何だ、憶えているんじゃない」
「いえ、その、そんな事より何故かえでさんがここに……?」
「加山くん?」

 からかうような口調が、呆れ声に変わる。

「いきなり、それ?もっと他に訊きたいことがあるんじゃないの?」

 もっともだ。自分に対する苦笑いがこみ上げる。

「そうでした……ここは、神埼重工病院ですか?」

 失笑を何とか押さえ込んで、短い観察から得られた推論を口にする加山。
 かえでも、笑みを含んだ目線を向けながら、いつもの落ち着いた柔らかな声で答える。

「ええ、そうよ。よく分かったわね。流石は月組の隊長だわ」

 月組隊長。その一言に、加山の表情が消える。

「あいつらは、どうなりましたか」

 かえでの表情も、生真面目な、帝撃副司令のものに変わる。

「全員、命に別状はないわ。加山くん、意識を取り戻したのは貴方が最後よ」
「そうですか……」
「ただ……」
「………」
「ただ、何人か、霊力の過剰行使で霊体に損傷を受けていてね……長期の心霊治療が必要になるわ」
「治療は可能ですか……?」
「一人だけ……加賀見隊員は、残念ながら、術者としてはもう……」
「……そうですか……」

 重苦しい雰囲気。
 命があれば良い、というものではない。確かに、死んでしまうよりは比べ物にならないくらい、良い。だが、術者が術を失うということは、普通の人間が片腕を失うに等しい喪失感をもたらすものだ。

「…彼には今後、副隊長として月組の内部統括をやってもらいましょう」
「……そうね、加賀見さんは月組の中でも最年長グループに属する人だし。彼の豊富な経験は、単なる術者として以上に帝撃に貢献してくれるはずだわ」
「ええ……」

 短い沈黙。
 重苦しい雰囲気を振り払うようにかえでは一つ、深く息をつき、加山の方へ、あの、しっとりとした落ち着きと妙に居心地の悪さを感じさせる蠱惑が同居した笑顔を向けた。

「でも、あの状況で戦死者がゼロというのは立派なものよ。例え――月組だけでも。
 そして、月組の援護のおかげでミカサは無事飛び立つことが出来たし、こうして武蔵を『沈める』ことも出来た。
 本当に、ご苦労様でした」

 身体の奥から、じわじわと心地良い疲労感が湧き上がってくる感覚をおぼえる。彼女の「ご苦労様」の一言に、加山はようやく任務の達成を実感できたような気がしていた。
 孤独な戦い。勝利も、栄光もない影の戦い。だが、彼らが求めているのは地位や勲章、喝采ではなかった。影に生き闇に戦う者だからこそ、たった一言で満たされることもある。ただ一人の、ただ一言から得られる喜びを、彼らだからこそ実感出来ることもある。
 彼らだからこそ知っている。打算や野心とは無縁の、認められたい者から認められる喜び。それがあるから、彼らは影として生きることが出来る。影となって支えたい者がいるからこそ。
 彼はそのことを知っていた。同時に、軽い驚きも感じていた。どうやら彼女は、彼が自分で思っていた以上に彼にとって大きな存在であるらしい。あの、「親友」のように。

「ありがとうございます」

 心に広がっていく満足感。
 だが、心地の良い時間は、残念ながら、長続きしなかった。

「ところで加山くん?」
「……なんでしょう?」

 特に、口調や表情が変わったというわけではなかった。だが、何かが違っていた。何かが加山に警戒を呼びかけていた。
 緊張を押し隠した加山に、かえではにこやかな笑顔でこう、言った。

「約束、破ったわね?」

 心の中で、二、三歩よろけてしまう加山。全く予期せぬ台詞ではなかったが、予想以上の、頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。きっと、金属製の大タライが天井から降って来るより何倍も効いているに違いない、そんな、脈絡のないことまで考えてしまうほど動揺させられていた。

い、イヤだなぁ〜、かえでさん♪
 オレはこうして、生きているじゃないですかぁ♪
 約束どおり、死んだりしませんでしたよォ♪♪

 手元が寂しい。いつものギターが恋しかった。
 お茶らけた拍子をつけて言い訳。深い考えがあったわけではない。咄嗟の策だった。だがこの時は、こうしてお道化てみせるのが一番良い対処法のように思えてしまったのだ、何故か。

「ふ〜ん……」

 そんな加山の道化師ぶりに対するかえでの反応は、何故か、あるいは当然、冷ややかだった。

「そう……そんなこと言うんだ……」
「あ、あの」
「そうね、分かったわ。じゃあ私はこれで。今はゆっくり休養を取ってね、加山くん」
「か……」

 パタン

「えで、さん……」

 さっと立ち上がってさっと身を翻し、扉を開けたところで振り返り、にっこり笑ってそんなお見舞いの言葉を残し、かえでの姿は扉の向こうへと消えた。
 加山の呼びかけは、間抜けなくらいタイミングを逸していた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「加山、具合はどうだ」
「大神か、ノックくらいしろよ……」

 ベッドに上体を起こしていたまま呆然としていた加山に、何の前触れもなくいきなり病室の扉を開けていきなり話し掛けたのは彼の同僚であり親友でもある青年だった。

「ノックが必要だったか?加山、横になっていなくて大丈夫か?」
「いや……そうじゃないさ。ちょっとな、考え事をしていただけだ」

 軽い調子の問い掛けが、いきなり心配そうな口調に変わる。苦笑気味に首を横に振って友の懸念を否定する。
 傍で他人が聞いていても、おそらく話が見えないだろう。だが大神にとって、気配を隠してもいなかった自分の来訪に加山が本当に気づいていなかったという事実は、本気で心配する十分な理由となるものだった。

「考え事?何だか、ボーっとしていたように見えたぞ?」
「目ざとい奴め……ほんの一瞬だぞ」

 尚も気遣わしげな視線を向けてくる親友に、加山は苦笑するしかなかった。

「ちょっとな、気になることがあって……」

 そして何故か、この友人に話してみたくなった。普段は決してないことだが、極めて個人的な、悩みとは言えないような悩みを。

「さっきまでな、かえでさんがお見舞いに来て下さっていたんだが……」
「お見舞いに、来る?」

 奇妙な語調。二人は、お互いに首を傾げるような表情をしていた。

「それで、どうもかえでさんの様子が腑に落ちなくて……」

 だがお互い特に問い質す事もなく、大神は聞き役に、加山は語り手に徹した。

「かえでさんはどうしてあんなに機嫌を悪くなさったんだろう?あの程度の冗談はいつもの事なんだが……」

 短いエピソードを語り終えて、そんな質問を口にする加山。
 別に、答えを期待してのことではない。と言うか、全く答えは期待していなかった。この朴念仁に女性心理を相談するなど、鰯の頭に願をかけるのと同じくらい無意味な事だと加山は思っていた。
 だが、予想に反して。
 大神は訳知り顔で、深々と溜息を吐いて見せた。

「加山……そりゃ、まずいだろ……」
「なに?何か心当たりがあるのか?」
「お前、今日が何日だと思っている?」
「そんなの一月の……そういえば、今日は一月何日だ?」

 我ながら間が抜けた質問だと加山は思った。場所を確認したのは「もしも」の際の逃走路を確保する為の、教育と実践が彼に与えた習慣。だが、当然気にして然るべき日時を訊く事をすっかり忘れていたとは。我ながら偏った生活をしていると思わざるを得ない。

「今日はな、一月七日だ」
「……俺は四日間も眠っていたのか……?」

 愕然と問い掛ける加山。だが、友の答は彼に更なる衝撃を与えるものだった。

「まだ朝だから正確には丸三日間だな。それに、お前は眠っていたんじゃない。目を開けたまま意識を失っていたんだ」
「なに……?」
「お前は自我を失っていた状態だったそうだ」
「………」
「実際にお前がどういう状態だったのかこの眼で見たわけじゃないし、詳しいことも聞かされてない。お前は昨日まで完全な面会謝絶だったんだからな。
 かえでさんが大丈夫だと仰るんで騒ぎにはならなかったが、皆心配していたんだぞ」
「みんな……?」
「そう、皆だ。花組も米田司令もお前の部下も。皆、かえでさんの手当てが上手くいくのをじっと見守っていたんだ」
「手当て……?どういう事だ、大神?」
「どういう事もこういう事も、かえでさんはこの三日間、ほとんどつきっきりでお前の看病を為さっていらっしゃったんだぞ。
 確かに負傷者が多くてしかも帝都も帝撃もこの状況だ、医者の数が不足しているという事情もある。特に、心霊治療が出来る『治療師』は絶対数が限られているからな。
 だがそれにしたって、お前の治療はかえでさんがずっとお一人で為さっていたんだ。お前の病状には、ご自分の『手当て』が有効だと仰って」
「………」
「あの人がこんなに『力』の強い『治療師』だとは知らなかったな……とにもかくにも、お前は昨晩、ようやく普通の睡眠状態に戻って面会謝絶が解けたんで、こうして顔を見に来てやったというわけだ」
「そうだったのか……」
「かえでさんはお見舞いに来て下さったんじゃない。ずっと、ここに泊まり込みだったんだ」
「そう、だったのか……」

 少しの間、加山はベッドの上でじっと考え込んでいるようだった。大神もベッドの脇の椅子に腰を下ろしたまま、無言で彼を見詰めていた。

「加山」

 布団をはがし床に足を着けた友人の邪魔にならないよう立ち上がって、着がえを始めた背中に大神は呼びかける。

「何だ」
「かえでさんは一階の院長室を借りて泊まり込んでいらっしゃった。今も、そこにおいでのはずだ」
「そうか……」

 素早く身だしなみを整えながら短く応える。無意味な照れ隠しの韜晦は無かった。
 丸三日間も横になっていたとは思えない滑らかな身のこなしで部屋を後にしようとする加山。彼が扉を開けようとした時、大神はもう一度、友人の名を呼んだ。

「加山」
「何だ」
「ご苦労様」
「……いや」

 軽く首を振って振り向いた顔に刻まれる微かな笑み。
 小さな照れ笑いを残して、加山は病室を後にした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 月組隊長である加山の頭の中には帝撃関係諸施設の見取り図がほぼ全て入っている。帝撃所有の施設ばかりでなく、友好関係にある民間施設の間取りについても。
 この神崎重工病院は神崎重工の附属病院として一般の患者には門戸を開いていない企業内病院であり、特に霊子技術を扱う技術者の健康管理の必要から霊体の障害と心霊治療の研究に力を注いでいる医療機関だ。帝撃の隊員が表向きに出来ない治療を受けるにはうってつけの病院であり、帝撃にとって最も重要な民間協力施設の一つとして位置づけられている。
 だから当然、加山はこの病院の間取りを隅から隅まで知っていた。もちろん、院長室の場所も。

「かえでさん……?」

 控えめなノックの後、躊躇いがちに呼びかける。

「かえでさん、加山ですが…」

 控えめと言っても十分室内に届く声のはずだ。だが、応えはない。
 気配を探る、のは躊躇われる。彼女はこういう意識の触手に敏感だし、それでなくても気配を探るのは一種の覗き見だ。敵ならともかく、任務でもないのに、女性の部屋の中を探るのは抵抗があった。
 さんざん躊躇した挙げ句、加山はノブを回してみることにした。どうしても後で出直してくる気にはならなかったのである。鍵がかかっていたら諦めるつもりだったし、声が聞こえていなくてもノブが回る音には気づくかもしれないと思ったのだ。

「失礼します……」

 予想に反して、扉は呆気なく開いた。おそるおそる室内に足を踏み入れたが、それでも何の反応もなかった。

「かえでさん…?」

 部屋の奥、マホガニーの巨大な机の前に求める人の姿はあった。不必要に存在感を主張している立派過ぎるデスクの上で、彼女の両肩はいつになく小さく、細く見えた。
 扇形に広がった髪の前に、報告書用の紙とキャップの外された万年筆。小さく上下する肩と微かな、規則的な呼吸音。
 加山は宿泊用の続き部屋の扉を、音を立てないようにそっと開け、中から一枚の毛布を手にして戻ってきた。そして、机に伏してうたた寝しているかえでの肩にそっと掛けた。
 先程は気づかなかった。彼女がこれほど疲労していることに。よくよく見れば、髪の間から僅かに覗く美貌にも、蓄積された疲労の痕跡がうっすらと窺える。
 猫よりも足音を持たない加山が物音を立てぬよういつも以上に注意して彼女が顔を伏せたデスクから離れる。そのまま、背中を向けた、その時。

「何か用があったんじゃないの?」

 音も無く振り返った視線の先には、相変わらずデスクの上に広がった髪で表情のほとんどを隠したかえでの姿。だが、彼の鋭すぎる耳に届いた息遣いが違う。彼女が既に目を醒ましていることは明らかだった。

「……お人が悪いですね。起きていらしたんですか?」
「今、起きたのよ。ありがとう」
「はっ?」
「毛布。ありがとう」
「い、いえ」
「それで?何か用があったんじゃないの?」

 ゆっくり上体を起こし、手櫛で髪を直して、たった今まで眠っていたとは思えないしっかりした視線を真っ直ぐに加山へ向けるかえで。
 居心地が悪かった。それはもう、今すぐにでも床を爆破してその穴に潜り込みたいくらいに。
 だが、ここで逃げ出してしまってはますます気不味さがつのるだけだと加山には分かっていた。だから、彼は魔を相手にした時、決して吹かれることのない臆病風を強引に捩じ伏せて用意していた台詞を切り出した。

「かえでさん、その、大神から、話を聞きました」

 だが、一旦喋り始めたからといって、スラスラと続けられる台詞でもなかったのだ。

「ええと、報告書を作成されている最中だったのでは?随分お疲れのようにも見えますが……」
「……報告書もあるし、疲れてもいるわ。だから、加山くんの用を手早く済ませてくれると助かるんだけど」

 にこやかな笑顔にくるまれた氷の刺。今までになかったよそよそしさ。
 だが、これは自業自得だ。加山は潔く、今度こそ覚悟を決めた。

「大神から聞きました。かえでさんが、私などの為に大層お骨折りいただいたことを。
 ありがとうございました。
 それから、先程は大変失礼を致しました。申し訳ございません」
「お骨折り、ですって?」

 深々と頭を下げる加山の頭上を、刺の生えた声が通り過ぎる。顔を上げてみれば、最早不機嫌を隠そうともしないかえでの仏頂面があった。

「加山くん、貴方、『離魄障害』になっていたのよ?」

 その瞬間、加山は顔から血の気が引くのを自覚せずにはいられなかった。
 離魄障害、それは幻術や精神干渉、幽体投射といった精神に関する能動的な術を多用する術者に見られる霊障の一種。精神の一部を外部に、精神次元に伸ばす術の使い過ぎで精神体が疲弊し、霊体と肉体を繋ぐ幽体、つまり魂魄の「魄」が麻痺してしまい、意志が身体に届かなくなってしまう症状のことだ。
 この症状が長く続けば、その者は生ける屍となってしまい、やがては衰弱して死に至る。だがこれは最悪の事態ではない。離魄障害で最も悲惨なのは、霊体が留守になった肉体を他の「意志」に乗っ取られてしまうことだ。魔物や悪霊の器となってしまうこともあれば、他の術者の操り人形となってしまうこともある。自分の肉体が、自分以外の邪悪な意志の道具となる。これは、加山のような男にとっては、否、大抵の人間にとって最大の悪夢であろう。離魄障害は彼らのような術者にとり、最も警戒すべき病なのだ。

「貴方の『意志』を呼び戻すのに、私がどれだけ苦労したと思っているの!?幽体に『力』を注ぎながら漂い出していこうとする霊体をつなぎ止めるのがどんなに重労働か分かってるの!?
 それを『お骨折りいただいた』ですって?そんな義務感で、あんな自分の命を削るような真似が出来ると思ってるの!?」

 台詞の合間に、バンッ、という机を叩く音がした。台詞の終わりには、かえでは机の向こうで仁王立ちになって加山を睨み付けていた。

「死ななきゃ良いってものじゃないでしょう!!私がどんなに貴方のことを心配したと思っているのよ!!」

 激しく息を継ぐかえで。
 息の出来ない加山。
 対照的な表情で視線を交錯させる二人。

「……すみませんでした」

 やがて、数秒の沈黙を経て、繰り返される謝罪。同じ言葉、だが、数倍真摯な声。

「約束を守れず、申し訳ありませんでした。
 決して、かえでさんとの約束を軽んじた訳ではありません。自分を犠牲にするつもりもありませんでした。ですが、最後の最後に、諦めてしまったことは事実です。
 申し訳ありませんでした……」
「事情は、聞いているわ……」

 かえでの声が、落ち着きを取り戻す。瞳の中の、刺が消える。

「貴方たちがどんな状況で戦っていたのか。貴方が、どんな想いで最後の術を使ったのか。
 理解しているつもりだったわ。貴方が、そうせざるを得なかったことも。あの『約束』が私の我が侭に過ぎないことも。
 それでも、私は、貴方に約束を守って欲しかったのよ。もう、あんな想いは二度としたくなかったから。大切な人を犠牲にする辛い想いは二度としたくなかったのに、貴方に、あんな任務を押しつけてしまったから……」
「すみませんでした……」

 再び深々と頭を下げる。潤んだ瞳から、目を逸らすために。
 そしてもう一度顔を上げたとき、かえでの美しい顔はいつものにこやかな笑顔に彩られていた。

「いいわ、もう。約束を破ったことは許してあげます」

 加山は、混乱していた。自分の奥底から浮かび上がって来た思いがけない感情の渦に呑み込まれそうになって。
 それは、安堵と、喜びだった。
 自分にあるまじき感傷的な心の動き。
 そんな自分を認めたくなくて、咄嗟に加山は余計なことを口走っていた。

「ところでかえでさん」
「な、何よ?」

 今までと違う意味有りげな口調に、かえでは思わず身構えてしまう。

「そんなに私のことをご心配下さったんですか」
「なっ……」

 サッと、かえでの頬が染まる。
 加山は、人の悪い笑みを浮かべた。

「そうですか、かえでさんがそんなに俺の事を……
 俺は、幸せ・だ・なァ〜♪
「なっ、なっ、なっ、………」

 絶句するかえで。
 この瞬間、加山は勝利の快感に酔っていた。
 目先の、無意味な勝利の。

 ふう……

 かえでが一つ、大きく息を吐いた。
 そして、あの、加山を居心地悪く感じさせる悪戯っぽい視線を向けた。

「そう言えば加山くん、約束を破ったことは許してあげたけど」
「はい?」

 一瞬で雪崩れ込んできた不吉な予感に加山の頬が引きつる。

「過重労働の貸しが、まだ残っているのよね……」
「あの……?」
「貴方の『離魄障害』を直すのに、私の寿命、五年は縮んだんじゃないかしら……
 あ〜あ、こんな事じゃ、私、すぐにおばさんになっちゃうわね……」

 哀しげに伏せられた瞳。

「………」

 虚しく開閉する唇。

「この貸しは、しっかり返してもらうわよ、加山くん」

 かえでの面白そうな笑顔を前に、加山は激しく後悔していた。

(目先の勝利に惑わされて大局を見失うとは!だから俺は大神に勝てないんだ!くそっ、大神の奴め!!)

 ……と、かように激しく、加山は動転していた。

「そうね、まずは、私の代わりに報告書を書いてちょうだい」
「あ、あの……」
「私は疲れちゃったから、隣で仮眠を取らせてもらうわ」
「か、かえでさん……」
「三時間は起こさないでね。誰が来ても追い返してちょうだい。例えそれが、米田司令でも。
 分かったわね、加山くん?」
「かえでさん!」
「じゃあ、頼んだわよ。しっかりね、か・や・ま・くん」

 にっこり笑い、更にはウインクなど残して、かえでは隣の部屋へと消えていった。
 パタリと閉じられた扉。
 机の上に残る、真っ白な報告用紙。

(一体何についての報告書を書けばいいんだ……?)

 天井を仰いでも、もちろんそこに答はない。
 加山は己の浅知恵を呪い、自己嫌悪の底無し沼に沈んでいった……

 

[これにて、ひとまず閉幕]

 

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