魔闘サクラ大戦 第三話
その1



『これにて帝国歌劇団花組公演「シンデレラ」を終了させていただきます。本日のご来場、まことにありがとうございました』

 大帝国劇場受付。ようやく板についてきた愛想笑いを顔に貼り付けて、大神は客の見送りをしているところだ。本人は切符切り以上にこの見送りというやつに苦手意識を持っていた(照れくさいのだ)が、元来引き締まった涼やかな容貌の上、姿勢が大変よろしいので、結構見栄えがする外見である。客にはなかなか好評であった。一説によると、早くも隠れファンがついたとかつかないとか。

「お疲れ様、大神さん」

 ようやく人の波がまばらになったころ、かすみが声を掛けてきた。

「やあ、かすみくんこそお疲れ様。今回の公演もなかなか好評のようだね」
「ええ、前回に続いてマリアさんとさくらさんのラブシーンが特に人気のようですね。さくらさん、張り切ってますよ」

 そういうかすみの目付きは何か意味ありげである。

(なんでさくらくんのことばかり強調するんだ?)

 どうもかすみは、大神の前でさくらを話題にすることが多い様な気がする。そういう時、決まって意味ありげな目付きをするように大神は感じていた。

「でも、マリアさんの方はどうも元気が無いみたいで…」
「マリアが?」
「ええ、今日も台詞を間違えたんですって。マリアさんがそんなミスをするなんて信じられませんよね?」
「うーん、何か悩みでもあるのかな…」
「気になります?」

(何だその期待に満ちた口調は?)

「そりゃあね…仲間だからな」
「ふふ…それだけですか?」
「おいおい…からかわないでくれよ。ところで何か用事だったんじゃないか?」
「そうそう、大神さん、支配人がお呼びです。地下に来て欲しいとの事ですが」
「地下に…?わかった、ありがとう」

 地下に呼び付ける。それは即ち、華撃團の用であるという事だ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(おっ、重い)

 大神は両手に余る程の大きな箱を抱えて、階段を上っていた。

(何の用かと思えば…いくら人手が足りないからといって…)

 大神の言いつけられた用事とは、あやめ宛てに花屋敷から届いた資料をあやめの自室に届ける事であった。

(昇降機ぐらいつけろよな…)

 最新の設備が揃っている銀座本部だが、まるで意図的であるかのようにこの手の基本的な設備が無い。

(ふぅ…)

「大神さん!」

 荷物を足元に降ろして踊り場で一休みしている大神に声を掛けてきたのはさくらだった。舞台の熱気を残しているようで、襟元から覗く少し上気した肌がいつになく艶めかしい。黒目勝ちの大きな瞳にもいつにも増して眩しい煌きが宿っており、大神は心臓の刻むリズムが速くなるのを感じた。

「や、やあ、さくらくん、お疲れ様。今日の舞台、どうだった?調子いいみたいじゃないか」
「ありがとうございます。シンデレラの公演で主役をやらせてもらえるなんて、私、嬉しくて」
「張り切っている訳だ」
「ええ、シンデレラのお話は女の子の夢ですもの」
「なるほど…」
「でも…」

 それまで上機嫌だったさくらの表情が、急に翳りを帯びる。

「何か心配事かい?」
「ええ…」
「もしかして、マリアの事か?さっき、かすみくんも元気が無いと心配していたが」
「そうなんです。あのマリアさんが今日も何度か台詞を間違えてしまって…それに最近よく眠れないらしくて。私、心配なんです」
「さくらくん…」
「大神さん、機会があったら、マリアさんとお話してみていただけませんか」
「わかった。だからさくらくんもそう気を病まない様にね。君まで落ち込んでしまったら大変だ」
「くすっ、大丈夫ですよ。じゃあ私はこれで。失礼します」

 明るく笑うさくら。見る者の心に活力を吹き込むような笑顔である。大神は、ますます心臓の鼓動が速くなったような気がした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コン、コンッ

「失礼します。あやめさん、大神です」
「あら、大神君? 今手が離せないの。一寸待っててくれないかしら」
「はい」

 上官に「あやめさん」と呼ぶのはかなり抵抗があった大神だが、他ならぬあやめ本人の強い希望により、「藤枝副指令」ではなく「あやめさん」という呼び方が定着している。あやめの談によれば「そんなに年も違わない大神君に『副指令』なんて呼ばれると急に年をとったみたいな気分になる」そうである。

「お待たせ、中に入って」
「はい、失礼します」

 あやめの部屋は、他の隊員達と違って、和風の間取りになっている。理由を尋ねてみたら、しばらく海外任務に就いていたので和風の部屋が懐かしくなったのよ、と笑っていた。

「あやめさん、花屋敷から資料が届いていましたので、お持ちしました」
「わざわざ持ってきてくれたの?ありがとう、大神君」

 あやめは匂いたつような大人の魅力にあふれた女性だ。今見せているような落ち着いた笑顔を向けられて、憧れを感じない若い男はいないだろう。無論、大神といえど心が動かない訳ではない。

「ごめんなさいね、待たせちゃって。報告書を仕上げてたものだから」
「閻魔帳ですか?」
「うふふ、面白い表現ね。海軍の流行(はやり)なの?」
「いえ、士官学校の流行です」

 つまり、戦闘指揮に対する評定報告である。花組の戦闘内容、大神の指揮についての評価だ。何故大神にわかったかといえば、あやめが手に持っている報告用紙の束の表紙に『芝公園戦闘について』と書かれていたからだ。種を明かせば簡単なことである。
 大神のあやめに対する態度は、堅すぎず、かといって馴れ馴れしくも無い節度を保っている。憧れを感じていることは否定できないが、上官としてのみ、あやめに接すると大神は決めていた。初対面の時の違和感が、大神の潜在意識に貼り付いているのだった。

「丁度いいわ、大神君。花組隊長として、何か聞いてみたい事はない?」

 実は、これは大神に対するあやめのテストなのだ。大神監視の任務の一環、大神の意識調査。だが、大神の質問は完全にあやめの予想を裏切っていた。高い次元で。
 報告書の内容には一切触れず、次のように尋ねた。

「あやめさん、実は以前から疑問に思っていたことがあるのですが」
「なあに、大神君」
「帝国には陰陽師や密教僧など力ある術者が少なくありません。何故彼らを光武の操縦者に採用しないのですか?」

 意表を突かれあやめは考え込んでしまった。つまり大神は個別の戦闘技術や戦術指揮だけではなく、華撃團の戦力編成の事まで考えているということだ。

「…難しい質問ね。それを説明する為には魔術・呪術・法術と呼ばれるものの性質を理解してもらう必要があるわ。大神君は魔術についてどの程度知っている?」
「士官学校には対魔術戦闘の講義もありましたので、初歩的なことについては知っているつもりです」
「では、魔術とはどのような力なのかしら?」
「象徴を媒介とすることで現象に干渉する力、と教わりましたが」
「どうしてそんなことが可能になるのだと思う?」
「自分なりに研究したことですが、現象は法則に従い情報を伴います。ある現象は法則に従い因果関係にある現象を引き起こし、ある現象が起こると、それが起こったという記録が時間と空間に刻み込まれることになります。ですから、法則に干渉してこれを書き換えることで正常な因果関係に無い現象を起こすことができますし、時空間に架空の記録を書き込むことで逆にその現象が起こったかのような因果関係を生じさせることもできます。魔術とは象徴を利用して、法則や記録という情報を書き換えることで現象に干渉する技術だと解釈しています」
「さすがね、大神君。最新の魔術理論をよく研究しているわ。魔術とは時間と空間に刻まれた情報を制御する技術、と言えるわね。ところで、技術というのは一通りではないわ。武術に剣術、体術あり、剣術にも諸流派、体術にも柔道、拳法、空手といった技の体系があるように、魔術・呪術・法術と呼ばれるものにもいろいろな体系がある。そして、ある体系の術者が別の体系の術を習得することは、武術で別流派の技を身につける以上に難しいことなの。密教僧に陰陽術は使えないし、陰陽師に巫術は使えない」
「はい」
「ところで、霊子機関は霊力を動力や攻撃力・防御力に変える機械だけど、魔術と似ているとは思わない?精神の力で現象に干渉するという意味で、霊子機関は新たな魔術の体系なのよ」
「なるほど。確かに共通点が多いですね」
「光武を操るには、霊子甲冑を動かす術が必要なの。密教術や陰陽術とは別の体系の術が、ね」
「つまり、霊子甲冑で戦う為には、既存の魔術・法術はかえって邪魔になるというわけですか」
「そうよ、大神君。花組のみんなやあなたのように、魔術に染まらずに、しかも強い霊力を持つ者でないと光武で戦うことはできないの。ただ、わからないのは黒之巣会がこの問題をどうやって解決しているのかということだけど…残念ながら、向こうには帝撃以上に優れた技術者がいるようね」
「なる程、わかりました」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(戦力の補充を考えていたのかしら。一分隊に満たない人数では無理も無いけど…)

 実戦はわずかに2回、しかも霊子甲冑という全く新しい要素を持つ兵器を使っていきなり戦う事を余儀なくされているのだ。2ヶ月にも満たないこの時点で、普通なら霊子甲冑の性能を把握し、それに応じた戦術を考えるだけで手一杯のはずだ。しかも、これまで2度の戦闘は完勝といっていい。苦戦したのならともかく、戦力不足はまだ感じていないはずである。目先の勝利だけに重きを置く指揮官なら。

(外見や雰囲気は本当に普通の青年なんだけど、それに誤魔化されてはいけないという事ね)

 普通というにはハンサムだけど、などということを考えているあやめも、その外見に似合わず少々能天気な性格かもしれない。あるいは大物なのだろうか…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(やはり、彼女たちを戦いの場に駆り立てなければならないという事なのか…)

 実は、これが大神の本音であった。少女達に戦いを強いる。いかに帝都を守る為とは言え、大神の信条に反する事だ。大神は別に騎士道精神の持ち主という訳ではない。結局の所女性を男性の付属物と見ている西洋の上っ面な『騎士道精神』とは違う。力弱き者を守るのが力有る者の務め。強者の倫理を大神は幼いころから叩き込まれていた。誰に?まだそのことを語る段階ではない…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン
 ………
 コンコン
 ………

(いない様だな。部屋にいないとなると、書庫か、テラスか?)

 マリアは部屋を留守にしていた。

(俺に悩み事を打ち明けるマリアでもないと思うが…)

 とりあえず、話を聞いてみようと思ったのである。大神は書庫へ向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…リア、マリア」
「え!?ああっ、少尉でしたか」

(これは本当にらしくないぞ)

 マリアはテラスにいた。銀座の景色を眺めている風であったが、その目には遥か遠くの別の場所が映っているようでもあった。それにしても、マリアが呼ばれていることにも気付かないほどボーっとしているなど、これまでに無かったことだ。

「どうしたんだ、マリア。様子が変だぞ。何か心配事でもあるのか」
「いえ…大丈夫です」

 そう言いながらも、まだ心ここにあらずといった感じだ。

「…少尉、つかぬ事をお伺いしますが…」
「ああ、なんだい」
「少尉は昔の夢をよくご覧になりますか」

 大神の気遣わしげな視線に気付いたのか気付かないのか、唐突にそんなことを言い出した。

「ああ、よく見るよ。最近のことも、ずっと昔のことも。夢でしか思い出さないこともある。でもどうしてだい」
「いえ…なんでも無いんです」
「夢見が悪いのか。人に話してみるだけで、気が楽になるということがある。もし、俺には話せないような事なら、あやめさんに相談してみてはどうだ」
「すみません、少尉。ご心配をおかけしまして…私は大丈夫ですから。では、失礼します」

(やはり俺には相談してくれないか。しかし、夢、か。厄介だな)

 自分の意志を制御できる人間でも、夢を制御する事は出来ない。悪夢に食い殺されてしまう人もいる。心に巣食った悪夢の重圧は、他人に相談してみるだけで随分和らぐものだ。しかし頑なな心では、夢という心の内側からの攻撃に対抗できない。立ち去るマリアの姿に危ういものを感じる大神であった。




その2



「…以上が大神少尉の経歴です。次に大神少尉の血統についてですが…」

 大帝国劇場支配人室。だが、いつもと趣が違う。
 薄暗い。まだ昼だというのに、外から全く光が入ってきていない。部屋を飾る額も置物も無く、あるのはただ、いつもの執務机と実用一点張りの書類棚のみ。執務机には二束の報告書。ひとつは『芝公園戦闘について』。もう一つは丸秘の朱印が押されているだけだ。

「彼の母方の祖父虎太郎は水戸藩の脱藩志士で、五稜郭まで従軍、維新後何故か故郷には帰らず、日光に居を構えています。先祖は元々鹿島地方の土豪でした。父親が少年時代に虎太郎の養子となり、そのまま、虎太郎の娘を娶っていますので、大神姓は母方のものです。父方は祖父の代まで日光の二荒山一帯を縄張りとする猟師という事になっていますが、実際は山の民だった様です」

 米田の指示により諜報部隊、月組を動かして調査した大神の血筋について、あやめが報告しているところだった。

「山の民か…詳しい事はわからないのか?」
「はい、山の民は太正の今になっても、尚独自の社会を維持していると言われています。まして維新前の事となると、月組の力をもってしてもわからない事の方が多いのが実状です。それに…」
「それに、何だ」
「母方の家についても、鹿島地方の出身というだけで、詳しい事はわかりませんでした。調査を担当した者の話では、まるで意図的に記録が隠されているようだ、とのことです」
「うーむ…ところで、大神の使う二刀流については何かわかったか?」
「はい、どうやら母方、大神の一族に伝わるもので、宮本武蔵と共に修行した祖先が武蔵と別れた後独自に編み出したものと称しておりますが、実際にはもっと古くから伝えられたもののようです」
「古くから…というとどの位だ?」
「実は、月組の調査が行き詰まった段階で夢組にも調査をさせてみたのですが、彼らが陰陽寮と共同で調べたところ、平安以前の神楽舞に似たところがある、とのことでした」
「むう」
「とすると、大神少尉の一族は平安以前からの伝承を受け継ぐことのできる組織力を持つ一族という事になります」
「…普通じゃねえな。それ程古くからの伝承を守り伝える事が出来るとなると…神職の家柄か」
「大神少尉の一族が鹿島神宮に関係しているとお考えですか?」
「いや、それなら月組はともかく、陰陽寮と緊密なつながりを持つ夢組にはわかるはずだ…まあいい、ご苦労だったな、あやめくん」
「調査はいかがいたしましょう。続行いたしますか?」
「いや、もういい。それより、本人を監視してくれ。特に、霊的にな」
「はい…」

 あやめの返事に頷くと、米田は何かを手許で操作した。すると、天井の頭上三畳ほどが左右に割れ、米田とあやめ、それに執務机ごと床がせり上がっていくではないか!床が天井の穴にはまると、そこはいつもの支配人室だった。そう、支配人室は地上と地下の二重構造になっていたのである。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「新記録達成ですわ!」

 大帝国劇場地下、帝国華撃團施設内鍛練用プール。地下とは思えない広さのプールで、歓声が上がった。

「流石ですわね、少尉」
「ははっ、だいぶ勘が戻ってきたかな」

 結局、すみれは大神を「気晴らし」に引きずり込むのに成功していた。まあ、あの水着姿で一緒に泳ぎましょうと言われて断る男がいるとも思えないが。

「いやぁ、それにしても思ったよりなまっていたな」
「海軍少尉殿が泳ぎを忘れては様になりませんわよ?」
「全くだ」

 顔を見合わせて笑う二人。もしここに昔のすみれの同級生でもいたら我が目を疑った事だろう。屈託ない、真っ直ぐな笑顔を見せるすみれ、それは彼女たちにとって別人としか思えないものに違いない。

「そろそろあがろうか、すみれくんも明日の舞台がある事だし」
「そうですわね」

 ほんの一瞬、残念そうな翳がよぎったことに大神は気付いただろうか。すみれはあくまでにこやかな表情を崩さない。「恰好悪い」振る舞いを決して大神には見せまいとするすみれ。口元まで出掛かって飲み込んだ言葉を聞き取る事は大神にはまだできなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その日も大神は多忙だった。もっとも、半分以上は自主的に多忙なのである。米田は先刻の荷物運びのような雑用以外、ほとんど大神に指示を出す事はない(普通は逆だと思うが)。従って、劇場の事務がよほど溜まっている時以外は結構時間が自由になったりする。しかし、今日も大神は光武の整備についての方針を紅蘭や他の整備員と意見交換の後、花組装備の消耗品補給申請書に取り掛かっていた。(これは本来、補給担当のかすみ、由里の仕事)。長時間の事務仕事で体が疲れてきた所に、すみれが声を掛けてきたのである。
 プール室から出てきた大神は、隣のすみれにふとこんな事を言い出した。

「すみれくん、今日は俺がコーヒーでも入れてあげようか。海軍の友人の土産物なんだが」
「えっ?」

 珍しい事だ。大神が、自分からすみれに誘いを掛けるのは。

「コーヒーは嫌いかな?」
「いいえ、いただきますわ」

(へえ、いつもと感じが違うな)

 常日頃のすみれであれば、「そうですわねぇ、おつきあいしてあげてもよろしくてよ」くらいの返事が返ってくるものだが。すみれは大神に誘われた事が意外すぎて、いつものように体裁を付ける事すら忘れているようだ。

「じゃあ、サロンで待っているから」
「はい」

 その返事は、意外なほど素直だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…わたくしは意地悪な継母役ですの。最近こんなのばっかりですわ」

 大神の煎れたコーヒーを飲みながら、上機嫌に最近の流行の事などをお喋りしていたすみれだが、公演のことに話が及んで、不満気な、というか沈んだ表情になってしまった。帝劇のトップスターを自任する彼女としてはマリアが主役ならともかく、さくらに主役を取られているというのはやはり面白くないのだろう。以前なら盛大に愚痴をこぼしていたところだ。少しは進歩したということだろうか。

「でもシンデレラは好きなお話ですから、まあ、我慢できますわね」
「へえ…」

(さくらくんも似たようなことを言っていたな。すみれくんには、魔法使いなんて必要ないと思うが)

「少尉…シンデレラに掛けられた魔法は12時に解けてしまいますけど、どうしてかご存知?」

 不意に問い掛けられて、大神は少し驚いた。自分の思念を読まれたのかと思いすみれの表情を窺い見るが、すみれは自分の思考に没頭し、夢を見ているような表情である。

「…魔法とはそういうものさ。いつかは消えてなくなってしまう、かりそめの約束。それが魔法なんだ」
「少尉…おっしゃりたいことはなんとなくわかりますわ」

 まだ、半ば夢見るような瞳ですみれは応えを返す。今のすみれは妙に頼りなげで、儚い印象がある。普段の自信に溢れたすみれとは別人のようだ。すみれの隠された素顔を垣間見たような気がして、大神の心臓は大きく一つ脈を打った。

「12時に解けてしまう魔法なんて、所詮まやかしに過ぎませんものね。私はそんな魔法を欲しいとは思いません」
「なるほど、すみれくんらしいね」
「私が欲しいもの…それは真実の『魔法』ですわ」
「真実の『魔法』?」
「ええ、女性を永遠に輝かせる力…それは……やめにしておきましょう。言葉にしてしまうのはあまりに野暮というものですわ」

 急にいつもの調子に戻るすみれ。しかし、大神はすみれが「シンデレラは好きなお話」という理由がなんとなくわかったような気がした。真実の『魔法』が何かは、今の大神にはわからなかったが。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あら、大神さんにすみれさん、お二人でお茶ですか?」
「やあ、さくらくん」
「あ、さ、さくらさん」

 ちょうど二人して黙り込んでしまったところにさくらの登場だ。まるで謀ったようなタイミングである。

「い、いえ、たまたまごいっしょさせて頂いただけですわ。そうですとも、偶然です!少尉、ごちそうさまでした。わたくしはこれで部屋に戻りますので。失礼いたします」

 すみれは動揺を押し隠すようにそそくさと部屋に戻っていった。誰が見ても、らしくもなく慌てていたし、見る人が見れば明らかに照れ隠しであったが、何を照れているのか話の前後を知らないさくらにはもちろんわからなかったし、大神に理解できることでもなかった。無防備に心の裡を見せる事にも、素直に自分をさらけ出す事にもすみれは慣れていなかった。そして、自分の想いを誰かに悟られることを、その結果自分の心と正面から向かい合わなければならなくなることをある意味で恐れていた…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…どうしたんだろう、急に」
「大神さん、すみれさんと何をしてらしたんです?」

 責めるような口調。だが、それはすみれを心配してというより、嫉妬の込められた口調だった。
 しかし、大神には通じない。単純に、すみれに対してけしからん振る舞いをしていたのではないかと疑われている、そう受け取った。

「な、何も変なことはしていないぞ。コーヒーに付き合ってもらっていただけだ」
「コーヒーですか?」
「そうだよ、海軍の友人から土産にもらったものだ。書類仕事で神経が疲れていたんでコーヒーが飲みたくなったんだが、一人じゃ勿体無いからね。そうだ、さくらくん、一緒にどう?」
「えっ、ご一緒させて頂いてよろしいんですか!?」
「もちろん」

 パッとさくらの表情が明るくなる。素直な心と素直な態度。自分の心に素直になることが出来る、この点がさくらという少女の最大の魅力かもしれない。さくらとすみれ、全く対照的な二輪の花。
 まだまだこの後も仕事が山積している大神であったが、向かい側で嬉しそうにミルクのたっぷり入ったコーヒーを飲んでいるさくらを見ていると、忙しい一日から解放されたような落着いた気持ちになっていくのだった。
 大帝国劇場の、そして大神の夜が更けていく…




その3



「これで終わりかな」
「はい、お疲れ様でした、大神さん」

 大帝国劇場事務室。休演日である。休演日となれば待っているのは、そう、伝票整理である。今日も朝から大神はかすみと由里の二人にこき使われていた。

「そうそう、大神さん、カンナさんのこと聞きました?今日東京に着くらしいですよ」

 いつもの様に、由里が噂話を持ち掛けてくる。おかげで大神は帝劇の事情に一人蚊帳の外になるという事がないので、情報源として結構重宝している。

「カンナ?ああ、今留守をしている花組最古参の隊員とかいう人か」
「ええ、さすがによく知ってますね。大神さんが来られる少し前に修行で沖縄に発ったんです。ずいぶん予定が遅れていたんですけど、ようやく戻ってこられるみたいですね」
「修行か。わざわざ沖縄まで出向くとは熱心だな。どんな人なんだい」
「違いますよ、カンナさんは沖縄の出身なんです。どんな人かは…ご自分で確かめてみることですね」
「もっともだね」

 納得顔になる大神に、由里がイギリスの某物語に出てくる猫のような笑みを見せる。

「おいおい、何だよ、由里君。その意味ありげな笑いは?」
「いいえ〜、何でもありませんよ。そうだ、大神さん、最近さくらさんと仲がいいみたいね」
「そう?」

 内心はともかく、大神は由里の強引な話題転換、かつ、つっこみに平然と応じた。そうそういつもからかわれて堪るか、という意地もあるのだろう。

(あら、面白くない反応…)

「さくらさんって大人にも子供にも幅広く人気があるのよね」
「そうだろうね」

 何の気無しに応えた大神だが、由里の顔を見て自分の犯した過ちに気付いた。由里の表情はそれこそあの有名な猫のように意味深な笑いだけになっている。

(しまった)

 そう、大神はうっかり本音で応えてしまったのだった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あっ、大神はん!ええところに来たわ」

 四つの、よく動くその口よりもなお雄弁な視線からほうほうの体で逃げ出した大神は舞台袖に来ていた。花組の全員が何やらセットの柱を囲んでいる。

「どうしたんだい?」
「少尉、ここのセットが倒れそうなんです。支えて下さいません?」

 と、すみれ。

「皆で修理しようと思って…」

 これはさくら。本人達は別に張り合っているという意識はないだろうが、大神の前だと相手の台詞を奪い合う様な形になることが多い。

「ねえ、マリアさん?」
「え…そ、そうだったわね」

 いつもと違うのは、話を振られたマリアが口篭もってしまうというおよそ彼女らしくない有り様だったことだ。

「ねーねーマリアぁ、なんか元気ないよー。どうしたの?」

 アイリスだけでなく、全員の目がマリアに向く。必然的にセットへの注意がそれる。倒れそうなセットの柱への注意が。

「うわああ!セットが!!」

 異変に気付いたのは大神だった。さすがに隊長。しかし、その後がいけなかった。かわせばいいのに、二百キロ以上ある重い柱をまともに受け止めてしまったのだ。

「きゃあああ!お、大神さん!!」
「ぐぉぉぉ〜〜〜!!おっ、重い」

 無理して受け止めたのは、無論傍らにいたさくらとすみれを庇ってのことなのだが、どう考えても二人を突き飛ばすなり何なりして身をかわさせる方が簡単だった。大神も内心しまったと思っていたぐらいだから。

「うひゃあ…すごいすごい!大神はん、ごっつう力持ちやな。うち、感心したで!」

 紅蘭は能天気に手を叩いているが、大神にしてみればそれどころではない。

「…い、いいから、はっ、早く何とかしてくれ……」
「す、すぐにロープで引っ張りますから」

 さくら一人青くなってあたふたしている。しかし、ロープを掛けてさらに起重機に繋ぐなど、土木作業の経験のないさくらにすぐできることではない。

「お兄ちゃん、大丈夫?汗びっしょりだよ」

 大丈夫な訳もないが、そこはアイリスの無邪気なところだ。

「はっはっはっ…な、何のこれしき…」
「少尉…見栄を張るのはおよしなさいな。誰が見てもやせ我慢ですわよ」

 まさに男の見栄、やせ我慢である。すみれが冷たく突っ込みを入れるのも無理はない。

「すみれさん!そんな言い方ってあんまりじゃないですか!頑張って下さい、大神さん!!すぐに引っ張り上げますから」

 健気というか純朴というか、真剣に心配しているのはさくらだけだ。ほかのメンバーはというと…

「大神はん、ファイトォ!ここが踏ん張りどころや!!」

 この調子だ。
 青くなってダラダラと汗を流す大神に、さすがに何か感じたのか、アイリスが手ぬぐいを持って来た。

「お兄ちゃん、アイリスが汗を拭いてあげるね」

 なかなか気がつく、と言いたいところだがあいにくアイリスの背丈では大神の脇あたりまでしか手が届かない。必然的に、手ぬぐいは大神の胸や脇を擦ることになって…

「わっ、ちょっと、よせ!くすぐったい!」

 笑いの刺激に筋肉が弛緩する。するとどうなるか。

「きゃあああああっ!お兄ちゃあああん!!」

「アイリス、伏せろ!」

 落下する柱から何とかアイリスを庇おうとする大神だが、たった今まで自分が頭上に支えていたものだ、いくら大神でも到底かわせない。

(南無三!)

 パン

「……あれ?」
「…あれぇ?お兄ちゃん…アイリスたち、生きてるよ」

 何とかアイリスを体の下に庇った大神は目を閉じて襲い掛かってくるであろう衝撃に備えた。しかし、いつまでたっても重力の暴虐は襲ってこない。
 恐る恐る目を開けた大神は、大柄な人影が柱をなんと片手で!支えている光景を見た。

(すごい…片手で支えている…)

 実際の所、大神は決して非力ではない。むしろ見た目よりも遥かに力があると言っていい。二刀流を遣う大神は片手で真剣を自在に振り回す腕力の持ち主だ。しかし、この人物は大神を更に、しかも遥かに上回る腕力の持ち主らしい。

「カンナ!」
「カンナ!無事でしたの!?」

 その人影を見てアイリスとすみれが叫んだ。

(カンナ?じゃあこの人が!?)

「あ〜あ、だらしないねぇ、この程度のことで。ほら、早くロープで引っ張り上げなよ」
「あ、ああ」

 柱の下からようやく這い出した大神はさくらに代って起重機にとりついた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ようやく柱を立て直した大神は改めてその人物と向かい合った。
 大きい。身長で大神を完全に頭一つ上回っている。マリアより更に上背があるようだ。しかし、均整の取れた体つきは鈍重さを全く感じさせない。むしろしなやかな印象がある。その巨体が見かけ倒しでないことは、たった今まであれだけ重いものを支えていたにも拘わらず全く息を切らしていないことから分かる。しかし、それ以上に驚くべきことに大神は気付いていた。

(女性だ…)

「まったく…何を騒いでいるかと思えば」

 その一言で我に返った大神はようやく言うべき事があるのに気付いた。

「ありがとう、おかげで助かったよ。俺は大神一郎。君は桐島カンナ君だろ、花組の」
「ああ、そうだぜ。新入りかい?」
「ああ。前は海軍の少尉だったが今は花組の隊長ということになっている」
「へー、あんたがあたいたちの隊長か!どうりでいい面構えをしてるじゃないか」
「カンナぁ、おみやげは?」

 視線を落とすとアイリスがカンナの服の裾を引っ張っていた。しかし、こうして見るとアイリスの倍は有りそうだ。

「すまねぇな、アイリス。荷物が全部流されちまってさ」
「?」
「いや、沖縄からの帰りの船が沈没してね。泳いできたんだよ。さすがに船が沈み始めた時には肝を冷やしたね」

 大神の訝しげな表情に気付いたのだろう。それにしても驚くべきことを平然と口にする。

(いったいどのくらい泳いだんだろう…?)

「フッ、あいかわらずだね」
「まあ、誰もあなたのことは心配していませんでしたから」
「でも、一番心配していたの、すみれだよねー」
「しっ、おだまりなさい!」
「あはははは!相変わらずだな、みんな。安心したぜ」
「カンナ、新人のさくらと紅蘭よ」

 展開についていけず目を白黒させていたさくらがぴょこんと頭を下げる。

「真宮寺さくらです。よろしくお願いします」

 紅蘭はいつもの調子だ。

「うち、李紅蘭や!よろしゅうな〜」

 カンナを囲む皆の表情はとても明るい。すみれもいつもの構えたところが無いし、あのマリアでさえ張り詰めた雰囲気が無くなっている。そばにいる者に安心感を与える、まさに南国の太陽の様な、おおらかで力強い雰囲気を発散している。

(人徳だな…)

 いろんな意味で、大神は感心することひとしきりであった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 張り詰めた空気が漲っていた。ぎりぎりまで引き絞られた弓がまさに矢を放とうとする瞬間の如き緊迫感が充ちている。
 大帝国劇場、地下。帝国華撃團銀座本部地下武道場である。向かい合うは大柄な男性と更に巨大な人影。大神とカンナである。見守るは米田とあやめ、さくら、すみれ。カンナは左手を顔の前に掲げ右手を腰に引き腰を落とした構え。大神は右肩を前にした半身でひじを軽く曲げた両手を下ろしわずかに膝を曲げただけの立ち腰の構えである。
 何故こんなことになったかというと、大神に伴われて支配人室に帰還報告に出頭したカンナが海軍仕込みの格闘術を見たいと言い出し、それなら修行の成果の披露も兼ねて大神と立合ってみればいいと米田が唆したからだ。しかし、あやめがこの場にいるのはわかるとして、何故さくらとすみれがここにいるのだろう。

「単なる気晴らしですわ。たまにはこういう野蛮な見世物もいいかと…ほほほほ」
「わ、私は武道家としての興味が…」

 おいおい君たち、誰に言い訳してるんだい?

 閑話休題

 カンナが動いた。津波の如き迫力の踏み込みから岩をも砕く勢いの正拳逆突き。大神は体を捌き、手刀を合わせてこれをいなす。間髪入れず襲い掛かる竜巻のような下段回し蹴り。当時回し蹴りは日本でほとんど知られていない技法だ。まして下段の蹴りである。後ろに躱せただけでもたいしたものと言える。しかし、後退したことでカンナに主導権を握られてしまう。怒涛の連続正拳突き。だが、大神はその全てを掌で捌き、カンナの脇を摺り抜けて大きく距離をとる。見ている者全てが息を呑む攻防。

「やるな、隊長!あたいの攻撃を全て防ぐなんてたいしたもんだぜ!!」

 カンナの表情は明るい。とても楽しそうだ。一方、大神は舌を巻いていた。士官学校時代、並み居る俊英を押しのけて首席を守り続けた大神だが、中でも特に抜きん出ていたのは、戦術指揮、人型蒸気戦技、そして無手の格闘術であった。意外なことに、防具をつけた竹刀剣道では十指に入るか入らぬかという程度だった(それでも十分すごいが)。全国から集まった強者の中には印可の保持者や皆伝級の腕前の者も数十人を下らなかったが、教官を含めて、大神を地に這わせることの出来る者はいなかったのだ。その大神が反撃の糸口すら掴めないでいる。こんなことは少年時代以来だ。

(強い、ここ数年で立合った誰よりも)

 再び向き合う大神の視線に真剣さが増す。同時に体から一切の力みが抜ける。全身から力を発散しているカンナと対照的に空気に同化していくかのようだ。カンナの表情に戸惑いが浮かぶ。その姿が目に映り、肌のしびれるような気迫が伝わって来ているのに、そこにいるという感じがしないのだ。カンナの表情が引き締まる。

「チェストォォ!」

 気合を発してカンナが踏み込む。桐島流が薩摩示現流から取り入れた気合と踏み込み。そこから強烈無比な右の正拳突きを繰り出す。
 だが、示現流なら大神も良く知っていた。勝負の綾は意外とこういうところにある。踏み込みに合わせて体を開く。両の掌で正拳を受止めそのまま左に流す。同時に右の肘を前に突き込む。完全な交差法だ。

「哈っ!」

 大神の肘が水月に食い込まんとする刹那、カンナが気合を発した。その圧力で大神の肘が押し戻される。中国武術に言う硬気功だ。同時に左の正拳突きを大神の脇に打込む。カンナの左手が大神の体を突き抜ける!

「きゃっ!」

 思わず悲鳴を上げるさくら。すみれも腰を浮かせている。
 しかし、突き抜けたかに見えたのは錯覚だった。大神は相手の体に接触した右肘を軸に体を回転させ身を躱すと共に、相手の体にも逆向きの回転を与え突きの軌道を狂わせたのだ。カンナの左手は大神の右を擦り抜けていた。

「それまで!!」

 ここで米田から制止が掛かる。左右に分かれ、礼をする二人。途端にカンナが破顔した。心から嬉しそうな笑顔だ。

「いや〜ぁ、やるねえ、さすがあたいたちの隊長だ。気に入ったよ!これからよろしく頼むぜ、隊長!」
「こちらこそよろしく。君のような人が仲間で頼もしいよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。桐島カンナ、必ず隊長の役に立ってみせるぜ」

 大神はすっかりカンナの信頼を勝ち得たようだ。確かにカンナのような生っ粋の武術家の信頼を得るにはこれが一番手っ取り早い方法だろう。もしかしたら、それが米田の狙いだったのかもしれない。




その4



 12時の鐘が鳴る。少女は王子の手を振りきって階段へと駆け出す。



 大帝国劇場6月公演「シンデレラ」。舞台はまさに山場に差し掛かっている。だが、舞台袖では混乱が起きていた。

「出動といわれても、まだ劇の真っ最中だぞ!?」

 舞台を見に来ていた大神のもとに伝令が届けられる。そこには今まさにクライマックスを演じているさくらとマリア以外の花組全員が集まっていた。

「何とか幕をおろしませんと…」
「そやけどアドリブがきく場面やないで?」
「お兄ちゃん、どうしよう」
「隊長、どうする?」

 全員の視線が大神に集中する。しかし、演劇に関していうなら大神はこの中で一番の素人だ。

「プロンプターで二人に出動のことを知らせるんだ。とにかく、舞台上のことは舞台に上がっている者に任せるしかない」
「そうですわね」

 急いですみれがプロンプターに指示を出す。

「マリアはんならなんとかしてくれるやろ」
「でも、マリア最近元気ないみたいだし大丈夫かなあ」
「確かに、いつもの冴えがねぇよな…」

(何だってこんな時に!)

 黒之巣会が劇団の都合にあわせる訳もないので、公演中の襲撃は当然考えられることだった。対策を練っていなかったのは迂闊と言うしかない。大神は内心ほぞを噛んでいた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(出動!?マリアさん、どうします?)

 さくらが狼狽を押し殺してマリアに目で問い掛ける。マリアなら、どんな事態でも即座にアドリブで切りぬけることができる。これまでの舞台経験からさくらはそう信じていた。
 しかし、マリアはいつものマリアではなかった。何も反応できずにいたのである。いつまでも動こうとしないマリアにさくらは焦りを感じた。このまま劇を進めたのでは、幕を下ろすまでに時間がかかりすぎる。かといって、さくらが立ち尽くしている訳にはいかない。ここは、走り去るさくらをマリアが見送る場面なのだから。
 階段へ足を踏み出す。しかし、やはり焦っているせいだろう。自分がいつもと違う裾を引き摺るドレスを着ていることを忘れてしまっていた。

「きゃあぁぁぁぁぁ!」

 階段の半ばで裾を絡ませ、足を踏み外してしまったのだ!階段を下まで転げ落ちてしまうさくら。満場息を呑む。
 マリアがさくらのもとへ駆け寄る。さくらのそばへしゃがみ込み、舞台袖へ目で合図を送った。幕の合図だ。

「よし、急いで幕だ。伝令、あやめさんに連絡。負傷の疑いある者一名」

 大神が装置係と伝令に告げる。しかし、それをすみれが止めた。

「お待ちになって。まだお芝居が続いてますわ」
「えっ!?」

 舞台を見ると、さくらはマリアに取り縋り、ぎこちないながら台詞を紡いでいる。

「ああ、12時の鐘が終わってしまった。王子様、どうかみすぼらしい私の姿を見ないで下さいまし」
「何をおっしゃっているのですか、美しい人。いまこそ私にお名前を」
「美しい?何故かしら、約束の時が過ぎているのに」

 台詞回しがどうも素人臭いが、マリアとそしてすみれにはさすがにさくらの意図がわかったようだ。

「アイリス、わたくしの言う通りに台詞を繰り返して」
「う、うん」

 魔法使い役のアイリスが舞台の端に立つ。

「魔法はいつか消えてしまう、偽りの約束。でも、偽りを真実に変えるものもある。それは愛の奇跡。シンデレラの下に訪れたものこそ愛の奇跡!」

 すみれが大神に振り返る。

「少尉、今ですわ」
「よし、照明を落とせ。幕だ」

 幕が下りた舞台上、大神はさくらに走り寄る。

「さくらくん、大丈夫か!?」
「え、ええ。うまく受け身を取れましたので…」
「よくやったぞ、さくらくん。さあ、皆、司令室に集合だ」

 隊員達に指示を出した大神は、さくらを抱え上げる。

「お、大神さん!?」
「しょ、少尉!?」

 さくらは真っ赤になって、すみれも別の意味で赤くなって大神の突然の振る舞いを咎める。

「さくらくん、君はすぐに走らない方がいい。確かにうまく受け身をとっていたが体を打っていることにかわりはない。とりあえず更衣室まで連れて行くから、怪我が無いかどうかあやめさんに見てもらうんだ」

 あやめには治癒の力がある。

「それからすみれくん、見事だった。感謝する」
「……」
「少尉…」
「行くぞ!」

 そして、先頭に立って舞台裏に設けられた秘密通路へ走った。(地下への秘密通路は宿直室だけでなく何個所かに設置されている)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「帝国華撃團花組、集合しました」

 さくらもどうやら(奇跡的に)怪我はなかったようだ。

「うむ、早速だが、黒之巣会の魔装機兵が築地に現れたという市民からの通報があった」
「築地…ですか」
「魔装機兵は河口付近の倉庫街に出現したわ。近くの住民への被害はまだ出ていない様だけど、犠牲が出ない内に鎮圧する必要があるわ」
「なるほど、わかりました。市民の安全確保が今回の出動目的ですね」

 大神が米田に確認する。

「そうだ。それから、カンナは初の実戦出動だ。よろしく頼むぞ、大神!」
「はっ!よーし、みんな!全員が揃った帝国華撃團の力を見せてやろう。帝国華撃團、出撃せよ!」
「了解!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「帝国華撃團、参上!」

 築地の倉庫街から住居区域に向けて、既に魔装機兵が溢れ出てきている。警察が必死に住民を誘導しているが、魔装機兵を押し留めるすべを持たない為、思うようにいっていない。上空からあやめの指示が下される。

「大神君、住民の避難活動を支援して」
「了解!」

(しかし、この数では…)

 大神は内心、困惑していた。花組の現有戦力は六機、攻撃なら一点集中突破で指揮官をしとめるという戦法も可能だ。また、各個撃破による敵殲滅も不可能ではない。現に過去二回の戦闘は各個撃破、殲滅戦だった。だが、避難活動支援は言ってみれば拠点防衛である。一定地域を確保しつつ、敵を撃退しなければならない。拠点防衛の為には面を分かつ線を作らなければならず、線を作る為に相応の点、つまり数が必要だ。六機では倉庫街と住宅街を遮断する戦線など作りようが無い。

(陽動で敵を引きつけるしかない…となれば、指揮官機を狙う!)

「翔鯨丸、敵指揮官機を判別できますか」
「ええ、突堤の一番奥にいるわ。あれは黒之巣会幹部、蒼き刹那の機体ね。どうするつもりなの」
「敵の注意を引きつける為、敵指揮官機へ突撃します。戦術地図を転送して下さい」

 敵機の位置を確認すると、そちらに向かい拡声器を最大音量にして叫んだ。

「帝都に仇なす者は我ら帝国華撃團が退治してくれる。黒之巣会を名乗る薄汚い叛徒よ、我が刀の錆となれ!」

 むろん、はったりが主な目的である。芝居気たっぷりに大神は見栄を切った。この手の悪党の定石で、案の定、蒼き刹那は誘いに乗ってきた。

「フン、現われおったな、帝都の犬どもめ。だが遅かったようだな。六破星降魔陣、第二の封印はこの蒼き刹那が既に解き放ったわ!我が下僕どもよ、奴等を生かして返すな!!」

(よし、乗ってきたな。だが、六破星降魔陣とは…?後で調べてみる必要が有りそうだ)

「カンナと俺で敵に切り込む。さくらくんとすみれくんが第二線、マリアと紅蘭は後方から援護。あくまで陽動が目的だ。派手に暴れろ」
「よーし、腕が鳴るぜ!」
「まず警官隊前の魔装機兵を掃討、その後突堤へ前進!」
「了解!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 移動の足を遅らせ、敵をわざと引き寄せながらの危険な戦闘だ。下手をすれば一気に包囲されてしまう。それでも細心の戦術指揮で一人の負傷者も無く、住居地区の魔装機兵を全て撃破し、大神達は突堤へと踏み込んだ。

「敵の親玉が見えたぜ!」
「突出するな、カンナ。我々の目的はあくまで市民の避難を助けることだ。翔鯨丸、避難は完了しましたか」
「もう少しよ。大神君」
「皆、現在位置確保。魔装機兵を住居街へ入れるな!」

 だがそのとき、倉庫の陰から、数人の人影が走り出してきた。逃げ遅れた市民が光武を見て飛び出してきたのだ。魔装機兵が丸腰の市民に襲い掛かる!

「大神さん!逃げ遅れた人が!!」

 さくらが市民を救うべく走り出す。だが、大神機がその横を、光武の設計速度をはるかに上回る速さで擦り抜ける。大神の光武は走っているのではなく、着地用の橇を出して滑っていた。そのままの勢いで魔装機兵を切り伏せる。さくらはこの動きに見覚えがあった。

(確か、あの朝の…)

 そう、大神が雨の中で練習していた足捌きである。これぞ海軍蒸気隊の秘技、「滑走」だ。
 だが、その背後に突如、蒼き刹那の魔霊甲冑「蒼角」が姿を現す! 刹那は「転位」の能力の持主だったのだ。そのまま、大神機の背面に鋼球の一撃を浴びせた!
 蒸気機関を背負う背面は、人型蒸気の弱点だ。当然、霊子甲冑にとっても泣き所である。背後より予期せぬ敵の一撃を受けては、いかに大神といえど耐える術はない。

 ボン

 鈍い音を立てて、大神の光武が蒸気を吹き上げる。

「大神さんっ!」

 止めを刺さんと蒼角が腕を振り上げるのを見て、さくらが悲鳴と共に飛び込もうとする。しかし。蒸気機関を一撃され、動かぬはずの光武が旋回すると同時に蒼角の胴を薙いだ!

「ぐわっ」

 大神の一撃を受けた蒼角が姿を消す。同時に突堤の奥に姿を現し、そのまま岸に止めてある舟に乗り込む。どうやら転位はごく短距離に限られるようだ。刹那の撤退と共に魔装機兵も退いていく。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「やりましたわね、さすがは少尉」
「大神さん、大丈夫ですか」

 すみれが、そしてさくらが声を掛ける。だが、返事が無い。

「大神さん?」

 さくらが機体を大神機の側に寄せる。そして、背面装甲が大きく陥没しているのを見て取った。

「大神さんっ!?みんな、大神さんが!」
「少尉!」
「隊長!」
「大神はん!」

 すみれが、カンナが、紅蘭が次々駆け寄る。だが、その時マリアは何故か立ち尽くしていた。




その5



 日の射さぬ闇の中。わずかに揺らめく蝋燭の灯りが闇をなお濃いものに見せている。

「刹那よ、油断したな」
「申し訳ありません、天海様。まさかあの損傷で動けようとは」
「ふむ、叉丹よ、どう思う」
「確かに、あの状態では動けないと判断するのも無理ないことかと…」

 黒き叉丹は黒之巣会の魔装機兵、魔霊甲冑の開発者。専門家だ。

「ふむ」

 心ならずも叉丹に弁護された形になった刹那は焦ったように言葉を継いだ。

「ですが、天海様。奴等の一人から、面白い夢を読み取りました」
「ほう」
「これを使い、奴等の隊長を葬ってご覧に入れます」
「面白い。刹那よ、やってみるがいい」
「はは、おまかせあれ」

 蒼き刹那、その妖力、転位のみに非ず。彼は夢を操る妖術士だったのだ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あやめさん、大神さんの具合はどうなんですか!」

 行動不能となった大神は翔鯨丸によって回収され、今、銀座本部の医務室で治療を受けていた。さくらがあやめに詰め寄る。その背後ではすみれをはじめとする全員が心配そうな顔で見つめている。

「大丈夫よ、みんな」
「本当ですの!?」
「でも、隊長の意識、戻ってないんだろ?」
「お兄ちゃん、大丈夫なの?」
「医療ポッドを使うてはるんやろ?ほんまに大丈夫なんですか?」
「あやめさん、本当に大神さんは大丈夫なんですか!?」

 次々にあやめに詰め寄る。心から大神のことを案じているようだ。あやめは内心、舌を巻いていた。これほど短期間で隊員達の心を掴んだ大神に。

「大丈夫よ」

 安心させるように笑顔を見せる。

「体を強く打っているけど、外傷もたいしたことはないし内臓の異常もないわ。鍛え方が普通じゃないから」

 あやめの笑顔の効果は絶大だ。全員がほっとした表情を見せる。ただ一人、さくらを除いて。

「でも、それじゃどうして意識が戻らないんですか!?」
「意識を失った原因は敵の攻撃による衝撃のせいじゃなくて、一度に大量の霊力を放出しすぎたせいよ。意識不明というより、消耗した霊力を回復する為眠っているだけ。医療ポッドを使っているのは、その方が霊力の回復が早いからよ。心配いらないわ」

 これを聞いて、ようやくさくらも安堵した表情になる。

「でも、どうしてそんなことになったのでしょう。あの程度の敵、少尉のお力をもってすれば、いつもの力で十分撃退できたはずですわ」
「いや、すみれはん、無理もないで。大神はんは、蒸気機関を壊されて本来動くはずのない光武を霊子機関だけで動かしはったんや。全く信じられんお人やで、うちらの隊長は…」

 期せずして、あやめも含めた全員の眼が医務室の方へ向いた…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神さんの意識が戻ったわよ!」

 公演が終わったばかりの楽屋に飛び込んだ由里の第一声は、そこにいる皆にとって、待ちに待ったニュースだった。

「ほんまか、由里!?」
「ええっ、とっ、さくらさん!?」

 それを聞いたさくらは、着替えの途中にもかかわらず(別に下着姿という訳ではない。脱ぎ掛けた衣装を引っ張り上げただけだ)、由里を突き飛ばさんばかりの勢いで楽屋から駆け出した。

「あっ、あのっ、…ああ、行っちゃった。精密検査中だから少し待った方がいいのに…」
「待つ必要などありませんわ。由里さん、医務室ですわね?」

 すみれも急いで着替えを済ませ、返事も待たずに急ぎ足で楽屋を後にする。

「あたいらも行こうぜ」

 カンナ、紅蘭、アイリスもその後に続いた。何故待った方がいいのか、その理由を聞きもしないで…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神さんっ!きゃああ!!」

 医務室の扉を開け中に飛び込むさくら。だが、途端に悲鳴を上げ踵を返した。

「ご、ごめんなさい!」

 後ろ手に扉を閉め壁にもたれかかる。顔は蒼ざめ、苦しげに胸を抑えている。

「あら、さくらさん。あなたって人は殿方の前に出るのに身だしなみも整えないで…どうなさいましたの?」

 そこにすみれがやって来た。本当はすみれもすぐに駆けつけたかったのだが、そこは身についた習癖、着替えを済ませもせずに大神の前に出ることなどできなかった。嫌味はその悔しさの故である。だが、さくらのただならぬ様子に表情がこわばる。

「まさか、少尉に何か!?入りますわよ!」

 声を掛けると同時に勢いよく扉を開け、そのまま中へ突進していくすみれ。

「少尉!きゃああ!!」

 だがすみれも先程のさくらと全く同じように回れ右で医務室から出て来た。

「どうしたんだ、すみれ!」

 血相を変えるカンナ。だが、この問い掛けに答えはなかった。何故なら。

「ほっ、ほーっほほほほほ!」

 すみれがいきなり高笑いを始めてしまったからだ。一同、訳がわからず顔を見合わせる。
 そこへ扉が開き、大神が顔を覗かせた。

「隊長!」
「大神はん!」
「お兄ちゃん!」

 ゆっくり視線を巡らし、胸を抑えているさくらと錯乱しているすみれに大神はこう言った。

「ノックくらいしてくれると助かるんだが…」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ほんなら、さくらはんとすみれはんがおかしゅうなったんは、大神はんの裸を見た所為っちゅう訳ですか?」

 紅蘭の問いに無言で頷く大神。その横では、さくらとすみれが耳まで赤くなって俯いている。
 大帝国劇場二階、大神の部屋である。検査を終えて部屋へ戻って来たところに皆で押しかけて来たという訳だ。
 大神はベッドの中で胡座をかいていた。本人はそういつまでも寝てはいられないという気持ちだったが、花組の面々に強制的にベッドへ押し込められた次第である。

「まったく、蒼くなってるから何事かと思ったぜ」
「だって…」
「まったくですわ。おかげでわたくしとしたことが、とんだ早とちりをしてしまったではありませんか」
「そういうすみれはんこそ、突然高笑いを始めた時には何事かと思いましたで」
「そ、それは、その…」

 まあ、無理もない。大神は猿股一つのほぼ全裸状態だったのだ、花も恥じらう乙女としては赤くなるを通り越して蒼くもなろうし、錯乱もするだろう。しかし、さくらはともかく、すみれはプールで大神の裸など見慣れているのではないか?

「み、水着と下着姿は違いますわ!」

 そんなもんかね。ところですみれくん、誰に言い訳してるんだ?

 閑話休題。

「皆、心配かけたようだな。ところで、あの人達はどうなった?」

(大神さん…)

「無事に避難できました」

 にっこり笑ってさくらが答える。最初に訊くことが、自分のことでも敵のことでもなく、自分が庇った市民の安否だったのは、いかにも大神らしい。この、どこか軍人らしくないところがさくらには好ましかった。

「わたくし、正直言って少尉のこと見直しましたわ」

 すみれも珍しく衒いのない賞賛を捧げている。頬を染めながら。

「いや、覚悟はあってもなかなか出来ることじゃないね。惚れたぜ、隊長!」
「うん、お兄ちゃん、エライ!!アイリスも大好きっ!」
「大神はん、あんた、ホンマよくやったで!」

 カンナも、アイリスも、紅蘭も手放しで誉めてくれる。大神はただ、照れ笑いするしかなかった。

「ところで、俺、どうなったんだ。背後から強い衝撃を受けたところまでは憶えているんだが」

 これには全員が驚いた。

「大神さん、憶えてらっしゃらないんですか?」
「ああ、衝撃に意識を失ったような気がするんだが…」
「隊長の反撃を受けて敵は退却したんだぜ。痛み分けってとこだ。じゃあ、気を失った状態であの一太刀を繰り出したのか?すごいぜ、隊長!」
「体を随分と強く打ったようですけど、幸い怪我はたいしたことございませんでしたわ」
「ただ、霊力の使い過ぎでな。大神はん、丸一日眠ってはったんやで」
「そうか…」
「あの、大神さん…痛むんですか?」

 思案顔になる大神に、おずおずとさくらが問い掛けた。難しい顔をしているのを痛みに顔を顰めていると勘違いしたらしい。戦場でこういう問いに対する強がりは禁物である。自分の体に不調個所があれば、正直に申告しておかないと仲間を巻き込むことになり兼ねない。有害無益な精神論とは無縁の兵士教育を受けてきた大神はこの時も正直に答えた。いや、答えようとした。

「少し…頭が痛むかな」
「大変!すぐにお薬を飲んで休んで下さい」

 まあ、これくらいなら大丈夫、と大神は続けたかったのだが、さくらの剣幕に台詞を飲み込んでしまう。

「大袈裟だなあ、さくらは…」

 その一所懸命なさまは横で見ているカンナが呆れるほどだ。だが、客観的に見れば、そう大袈裟でもなかったらしい。

「そうでもないで。大神はん…並みの人間なら、絶対安静のとこやで。はい、薬や」

 そう言いながら紅蘭が薬包みを差し出す。

「お兄ちゃん、お水だよ」

 アイリスからコップを受け取り、薬を喉に流し込んだ大神は途端に奇声を上げてしまった。

「★◇▼☆※△…何だこれ!?に、苦すぎる!!」

 それはあまりにも苦い薬だった。いや、薬と呼べるものだろうか。人が口にするものとは到底思えないような代物だった。

「紅蘭…そのお薬、本当に大丈夫ですの?」

 大神のあまりのしかめっ面に、すみれが疑惑の目を向ける。だが、胡散臭げな視線を向けられているというのに、紅蘭はどこか得意気である。

「こんなこともあろうかと、うちが開発しといた霊力回復薬や。心配あらへん」
「霊力回復薬ぅ?なんだい、そりゃあ」

 カンナだけでなく大神以外の全員の顔に疑問符が浮かんでいる。

「仙道の霊薬、仙丹の伝承を研究して作った特性漢方薬や。神農様もびっくりの代物やで。消耗した気力、霊力の回復を助けると共に体の傷まで治してしまうっちゅうすぐれもんや!」

 妙に感心させられる口上だが、大神にはもっと気になることがあった。

(紅蘭が作ったのか…まさかと思うが…)

「それで紅蘭、臨床試験はどのくらいやったんだ…?」
「あっ、ひどいな、大神はん。試験も済ませんもんを大神はんに飲ませる訳あらへんやないの」
「そっ、そうだよな」
「ちゃあんとうちが自分で確かめてます」
「紅蘭、もしかして、それだけ…?」

 引き攣った顔でさくらが尋ねる。いや、さくらだけではない。すみれも、カンナも、そして大神は特に引き攣った表情になっている。

「いややわ、さくらはん。医務室のお墨付きかてもろうとるで。だからこうして飲ませられるんやないの」

 ほっ

 という擬音が特大の立体文字になって浮かび上がってきそうな空気だ。気が緩んだ途端、大神は猛烈な眠気に襲われた。

「あ…れ…急に…か…らだ…が…」
「お兄ちゃん?」
「ふふふ、そうや、効き目は抜群。ぐっすり眠った後は、すっかり力も回復しとるっちゅう寸法や。おやすみ、大神はん。あとのことはマリアはんに任せればいいやろ。…あれ、マリアはんは?」
「それが…」
「…とにかく、外に出ましょう。少尉が目を醒ましてしまいますわよ」
「そうですね…じゃあ、大神さん…おやすみなさい」




その6



 コツ、コツ、コツ

(なんだろう…誰かが…そばに…いる…)

 夢と現の狭間で、大神はぼんやりと思った。薬の所為だろう、完全に目を醒ますことが出来ない。

(あ…額に…手が……冷たい手だな…だが…心地良い…)

 その人物は何も言わない。目を開けられないので誰なのか確かめることが出来ない。

 コツ、コツ、コツ…カチャ

(行ってしまった…あの…冷たい手…誰…だったん…だろ…)

 再び大神は眠りに引き込まれた…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

(ん?また、誰か来たようだな)

 今回は体を目醒めさせることが出来た。

「どうぞ、開いてるよ」

 カチャ

「ご気分はいかがですか、大神さん」
「さくらくん」

 入ってきたのはさくらだった。手に重箱を抱えている。

「大神さん…おなか、すいてませんか?お食事作ってきたんですけど…」
「…ああ、ありがとう」

 確かに、大神は空腹をおぼえていた。いつも本当によく気のつく娘だ。

「よかった、元気そうで」

 明るく笑うさくら。その笑顔が全く混じり気のないものだったことが、かえって大神にあることを感じさせた。

「皆には本当に心配かけたようだね」

 真摯な大神の口調にさくらの鼓動はちょっぴり速くなる。

「そんな…いいんですよ」

 動揺を隠して、さくらは応えた。

「この間のこと…私が大神さんでも同じことをしますよ」
「さくらくん…」

 さくらはいつも大神の心に救いを与えてくれる。その言葉の内容より、その思い遣りが大神には救いとなっている。

「いえ…やっぱり、私には出来ませんね。あの時の大神さんの勇気、すごいと思います」
「そんなことないよ、君も走り出していたじゃないか」

 照れ隠しにそんな事を言う大神に、さくらの目の光が真剣なものになった。

「大神さん、あの時の光武の動き、あれ、あの雨の朝に練習していた足捌きですよね」
「あ、ああ」

 さくらには全く驚かされる。頷きながら大神はそう思っていた。一度見ただけで良くわかったものだ。

「あれは一人で敵の中に飛び込んでいく動き。大神さんは今度のような場合にすら備えて、日頃から技を磨き、そして日頃から覚悟を作ってるんですね……私は思わず飛び出しただけ。私には何の備えもなく、何の考えもなかった。だから、間に合いませんでした。大神さんの勇気とは全然違います。大神さんの勇気、やっぱりすごいです」

 思わぬ賛辞に、正直大神は面映ゆかった。だが、あくまでさくらは真剣だ。茶化して逃げる訳にも行かない。

「あの人達も助かって…大神さんも怪我はしたけどこうして無事だったし。これで良かったんですよ、きっと…それに…」
「それに…なんだい?」

 雰囲気が変わったのにほっとしながら大神は尋ねる。

「それに…こうして大神さんとたくさんお話できるのも…大神さんの勇気のおかげなんですから…」
「さくらくん…」

 はにかんだ顔が何とも言えず可愛い。今度は意識ではなく、自制心を無くしそうだ。大神は懸命に耐えた。

「…じゃあ、お大事に。私はこれで失礼します」

 食べ終わった重箱を持って、さくらが部屋を後にする。

(…やっぱり、皆にはかなり心配かけたようだなあ……だめだ…また…頭が…)

 自制心を保つ為に必死で気力を振り絞っていた反動だろう。大神の意識は再び闇に落ちていった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 人の気配に目が醒める。目を開けると、枕元にマリアが立っていた。

「少尉…」

 マリアは少し驚いたようだ。何の前触れもなく急に目を醒ました所為だろう。

「あっ、マリア。どうしたんだい?」

 体を起こして大神が尋ねる。マリアが大神の様子を見に来ても別におかしいという訳ではない。なんとなく訊いてみただけである。

「い、いえ…ちょっと通りがかったものですから…」

 ほとんど意味のない言い訳で、大神には逆にマリアが心配して様子を見に来てくれたことがわかった。

「そうか…ありがとう」
「いいえ…こちらこそ、勝手にお邪魔してしまって申し訳ありません」

 マリアもそれ以上言い訳しようとはしなかった。

「すまないな、隊長の俺がこんなことになってしまって…」
「……」

(どうしたんだ?)

「……何故……飛び出したりしたのですか…」

 それまで穏やかだったマリアの表情が暫しの無言の後、思い詰めたものになる。マリアの口から出てきたのは意外な問い掛けだった。

「…え?」
「何故あの時、飛び出したりしたのかとお聞きしているんです!」

 質問の意味は最初からわかっていた。しかし、何故マリアがこんなことを聞くのか、それが大神には理解できなかった。

「市民の命を救う為だ。あの場で市民を救える位置にいたのは俺だけだった。だから飛び出した。だが、君が訊きたいのはそんなことではあるまい。マリア、何が言いたい?」

 水を向けられて、決心したようにマリアが口を開く。

「…少尉、これだけは言わせて頂きます。今回の戦闘での少尉の負傷は、少尉御自身の責任です!そればかりかわずか五人の民間人に気を奪われたばかりに、敵をみすみす逃がしてしまいました。その結果、より多くの市民の命が危険に晒されることが、あなたにはわからないんですか!?」
「それは違う!!」

 思いがけないことだった。マリアがこんな風に思っていたとは。

「帝国華撃團の任務は帝都を守ること。帝都を守るということはそこに住む市民を守るということだ!そしてなにより、市民の保護があの闘いの目的だった。敵を倒すことだけが闘いじゃない!」

 少なくともマリアには戦うことの意味がわかっていると思っていた。大神はある種のショックを受けていた。だが、マリアは大神の言い訳に(少なくともマリアはそう思ったようだ)怒りを露にする。

「わからないんですか!?大神少尉!!そのような短絡的思考が今回の結果を招いたのですよ!わずか数人の民間人の為に花組の隊長が命を懸けるなんてナンセンスです!!」
「マリア!言い過ぎだぞ!!」

 これには大神も黙っていられなかった。だが、怒り以外の何かの所為でうまく言葉が続かない。それは哀しみだったのかもしれない。

「…では仮に、市民を救った代わりに少尉が死んだとしましょう。その後、誰が帝都を守るのですか。少尉、あなたはそれで花組隊長としての責任を果たしたと言えますか?」

 それは、重い指摘だった。だが、大神の口に蓋をするものではなかった。命を懸けることの意味を大神は常々考えていたから。

「マリア、君の言っていることは正しい。俺達軍人にとって任務の半ばで死ぬことは、責任を果たせずに死ぬことだ。だから俺達は、例え命を懸けることはあっても命を粗末にするようなことはしない。してはならない。だが考えてくれ。あの時市民を見殺しにすることが、果たして帝撃の責任を果たすことになるだろうか?わずか五人、と君は言った。では、十人では?百人では?いったい何人なら『わずか』でなくなるんだ?」
「それは詭弁です!」

 そのまま睨み合う二人。だが何故か、二人の目にあったのは、怒りではなく哀しみの色だった。やがてマリアが独り言のようにポツリと漏らす。

「…もし少尉が死んでしまったら…あの時と同じなんです」

(…あの時?)

 だが、それは一瞬だけの素顔だった。氷の仮面を被りマリアは大神に言い放つ。

「一時の感情に流されて大局を見失う様では指揮官は勤まりません。大神少尉、あなたは、隊長失格です!」
「!」
「申し上げたいことはそれだけです。…失礼します」

 部屋から出ていくマリアに、大神は言葉を掛けることが出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(マリアがあんなふうに考えていたなんて…)

 大神には信じられなかった。マリアが「命」よりも「勝利」を重んじる戦士だ、などということは。
 確かに、マリアはほとんど大神に心を開いてみせたことはない。だが、花組の皆に対するマリアの態度から、マリアが決して心の冷たい人間ではないということをわかっていたつもりだった。

(いや、俺の思い違いではない。マリアは人の命を軽視するような人間じゃないはずだ。あんなことを口にするのは、何か事情があるに違いない。…何かに対する拘り、か?そんな感じだ。だが、それは…)

 いくら考えても埒があかない。大神はマリアのことを知らなさすぎる。かといって、今のマリアを放っておく訳にも行かなかった。今のマリアには自分の拘りを守る為なら、例えそれが破滅へと続く道だと知っていても自ら突き進んでしまいそうな、そんな危うさがある。なんとか、今度のことだけでもわかってもらう必要がある。

(一人で考えていても仕方がない)

 事情がわからないなら、事情を知る者のところへ相談に行くこと。大神はそう結論した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「それで、相談したいことというのは何かしら?」
「実は、マリアのことなんです」

 帝国華撃團副司令、藤枝あやめ。彼女はまた、世界中を巡って花組の隊員を集めてきた人でもあると大神は聞いていた。今、大神はマリアのことを最も良く知っているであろう彼女の自室に来ていた。
 大神はあやめに「隊長失格」宣言に至る先程の会話を打ち明けた。そして。

「マリアのことが心配なんです。彼女は別段おかしな事を言っている訳ではありません。確かに、一方の道理から言えば私のとった行動は一部隊の指揮官として、失格といわれても仕方の無いものでした。しかし、今のマリアには危ういものを感じます。あやめさん、何かご存知ではありませんか。マリアが抱いている拘りについて」
「…そうね、確かに、大神君の言うことに心当たりがあるわ。でも、マリアのことが心配なら、彼女の悩みを理解できるようにまず大神君自身が努力すべきだわ。マリアのことだから自分の悩みを自分から口にすることはまずないでしょうけど、それでも直接マリアと話しをしてみるべきじゃないかしら。駄目で元々くらいの気持ちで、ね?」
「……はい、そうですね」
「うふふ、よろしい」

 どうやらあやめから手掛かりをもらうことは出来ない様だ。マリアを訪ねるべく部屋を辞去しようとする大神をあやめが呼び止めた。

「あ、大神君」
「はい、何でしょうか」
「前回の戦闘は私の判断ミスだったわ、ごめんなさい」
「……?」
「花組の兵数では敵を撃退することは出来ても、敵の攻撃を防ぐことは出来ない。市民保護を命じた私の判断ミスよ。あなたは私の命令を忠実に実行しただけ。あなたに落ち度はないわ。自信を持って」
「!、ありがとうございます」

 思いがけぬ励ましに大神は敬礼を返し、謝意を表す。短い言葉に心からの感謝を込めて。実際、今の大神には勇気づけられる言葉だった。それが単なる事実だったとしても。

「では、行きなさい。マリアのこと、頼んだわよ」
「はっ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「………」

(部屋にはいない様だな)

 マリアを捜して歩き回る。書庫、舞台、地下…途中いろいろと道草を食うことになったが(紅蘭を部屋に運んだり、すみれの肩を揉まされたり…)ついにロビーでマリアを見つけた。大神の姿を見たマリアは、何故か動揺の色を浮かべる。後悔と虚勢が入り交じったような。そのまま、大神に背を向ける。

「マリア、待ってくれ!」
「少尉…!もう私にかまわないで下さい!」
「マリア、話を聞いてくれ!」
「お話することは…何もありません!」
「待ってくれ、マリア!」

 大神を振り切るように劇場の外に出ていくマリア、それを追う大神。ようやく大神はマリアの腕を掴まえる。
 その時、どこからとも無く嗤い声が響いてきた。妖しいかな、人影はない。いや、嗤い声に引き寄せられるが如く、道の一角に靄が集まり、小さな人影を形作った!

「……!」
「こいつは!?」

 人影は不安定に揺らめいている。どうやら幻像のようだ。

(この気配は先日の戦闘の…?黒之巣会、蒼き刹那か!?)

「帝国華撃團、タチバナ・マリア、ロシア革命の闘士…あるいはクワッサリーとでも呼んだ方がよろしいかな?」

(何故我々の名を!?)

 マリアは今や帝都で名を知られた俳優である。そのマリアが帝撃の一員であると黒の巣会に知られているということは、帝撃の隠れ蓑を暴かれてしまったということだろうか?大神は心中焦りを感じた。

「貴様の正体、我が黒の巣会が見破ったり!帝都を守る正義の戦士とは仮の姿…して、その真実は、冷酷無比な鬼畜よ!」
「…くっ…!」

 帝国華撃團と帝国歌劇団のつながりが知られてしまったかどうか、それも気になることだったが、今刹那が口にしたことと、それに対するマリアの反応は更に大神の注意を引くものだった。

(…革命の闘士?クワッサリー?)

「貴様の素性を仲間に知られたくなくば、今すぐ姿を見せよ!先日の場所で待っているぞ。ククク…ハハハハハハ!」

 神経に障る嗤いを残して、幻影は文字どおり霧散する。

「消えた…」

(だが、姿を見せよ、とは?ここが知られた訳ではないのか?いや、それよりも)

「マリア…もし行くつもりなら俺もついていくぞ」
「…大丈夫です。少尉は、私があんな挑発に乗るとお思いですか?では少尉…失礼します」

 仮面のような表情、いや、無表情という名の仮面を被り、マリアは劇場の中へ戻っていく。大神の部屋で見せていた苛立ちにも似た感情もロビーで見せた動揺も、完全に押し殺した声で応えを返して。

「マリア…」

 マリアの背を見送る大神の中で、危機感は募るばかりだった。




その7



(それにしても今のはいったい…「クワッサリー」とか「ロシア革命の闘士」とか…まさかマリアがロシア革命に参加していたということか?当時はまだほんの少女のはずだが…)

 もっとも、さくらやすみれ、紅蘭もまだまだほんの少女といっていい歳だし、アイリスは当時のマリアより更に幼い。ありえないことではない、大神はそう思い直した。

(では「あの時」というのは、革命戦争の時の出来事だろうか…マリア、やはり俺には何も話してくれないのか…)

 自室で物思いに沈み込んでいた大神を現実に引き戻したのは、荒々しいノックの音だった。

「隊長っ!隊長、大変だ!開けてくれ!!」

 カンナだ。この声の調子からいってただ事ではない。

「どうした、カンナ!?」
「隊長!マリアが、マリアが光武で出ていっちまった!!」
「何だって?いったいどうやって…」

 光武で外に出る為には轟雷号を使うか、地下の発進口を使うか、いずれにしても出撃管制操作が必要である。光武ごと空間転移するなら話は別だが。単身劇場を抜け出すならともかく(それに備えて、大神は守衛に厳しく外出を見張らせていた)、光武で出ていくなど完全に大神の予想の外である。

「隊長、説明は後だ。司令室へ急ごうぜ!」
「わかった!」

 確かに考え込んでいる場合ではない。大神はカンナを伴い地下へ走った。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「マリアは!?」
「…紅蘭が止めようとしたんだけど…間に合わなかったそうよ」
「いったいどうやって出て行ったんですか。管制室は何をやっていたんです!?」
「マリアが隊長を務めていた時の非常出撃コードがまだ生きていたのね…迂闊だったわ」

 大神には珍しい、責めるような口調にあやめはやや力無く応えた。出撃管制は風組の担当、風組の最高責任者はあやめである。

「…すみませんでした。言葉が過ぎたようです。それで、マリアはどこに?」
「轟雷号で築地へ向かっているわ」

 轟雷号は自動操縦、非常コードがあれば、光武の通信機で行き先を設定できる。

「築地…まさか刹那の誘いに乗って…」
「大神君…何か知っているの?」

 そこで大神は先程の出来事をそこにいる全員に語って聞かせた。

「…それで、黒之巣会の刹那らしき幻影がマリアのことをクワッサリーと呼んで挑発したのですが…」
「…!」

 あやめが驚きの色を露にする。

(やはり、あやめさんは何かご存知のようだ)

「ねぇ、クワッサリーって、なぁに?」

 アイリスの無邪気な疑問にあやめは心を決めたように口を開いた。

「あなたたちにも…話しておかなければならないでしょうね…」

 そして語り出す。クワッサリー、「火喰い鳥」がロシア革命当時のマリアのコードネームであり、マリアの所属していた部隊の隊長が彼女の目の前で銃弾に倒れたことを。

「…マリアはその時砲火に脅えて援護射撃が遅れてしまったことをいつも悔やんでいたわ…彼女はそれ以来、戦場での判断ミスにとても厳しくなったのよ。そして大神君、彼女はきっと、あなたにかつて自分の目の前で倒れた隊長の姿を重ねて見たのだと思うわ」

 一同、言葉無く聞き入っている。やがてさくらが口を開いた。彼女は大神とマリアの確執に気付いていたようだ。

「それでマリアさんは大神さんを責めたりしたんですね…悲劇を繰り返させない為に」
「だからといって、一人で出て行くことはない…」

 誰に言うとも無い大神の反論には力が無かった。「仲間に知られたくなければ」という刹那の台詞が甦る。

「きっと…知られたくなかったんだ、マリアは。今にして思えばあいつは自分の過去を憎んでいるようなところがあった。過去を他人に知られたくなかったんだ…特に隊長、あんたには…きっと…」

 カンナの、握り締めた拳と、声が震えている。

「…マリアはんがそんな重い過去を背負ってはったとは知らんかったわ」
「あたいとは長いつきあいなのに…水臭いなあ!カッコつけすぎだぜ、あいつ」
「例えおせっかいと言われようと、話を聞いてしまった以上、放ってはおけませんわ!」
「お兄ちゃん、マリアをお願いね!」
「行きましょう、大神さん!」
「ああ!!長官、帝国華撃團、出撃許可願います」
「よし、行ってこい、大神。マリアを頼んだぞ」
「はっ!帝国華撃團、出撃せよ!!」
「了解!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 通常搬送車両を使った為、花屋敷まで3倍の時間がかかる。わずかそれだけの違いが今の花組にはもどかしい。記録に残るような速さで翔鯨丸に乗り込み、全速で築地へ向かう。

「大神さん、あれを!」

 いま、光武の受像盤には翔鯨丸の霊子撮影機で見た眼下の様子が映し出されていた。勿論、当時の技術だ、鮮明な映像ではない。だが、状況を把握するには十分である。

「マリア!」

 カンナが声を上げる。マリア機は敵の直中に孤立していた。
 だが様子がおかしい。全く交戦している様子が無いのだ。マリア機はピクリとも動かず、魔装機兵もそれを攻撃しようとしない。

「あやめさん、マリアと交信できますか?」
「いえ、先程から応答無いわ」

(遅かったか…いや、何事であろうと、遅すぎるということなど無い!)

「全機、降下。マリア機救出に向かう!」
「了解!」

 救出を命令したものの、その実大神は予想していた。おそらく、マリアはいずこかに連れ去られたであろうと。光武が残されているのは、何らかの誘いであろうと。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 花組の戦い振りは凄まじかった。仲間を助ける、その一念がいつも以上の力を生んでいた。特にカンナの突進は津波の如く、特殊な拳当てを装備した両手は一撃で魔装機兵を打ち砕いていく。破壊力だけなら大神を上回っているかもしれない。それにしても一撃とは。カンナはこの時闘いに没入している状態だった為疑問を感じる余地は無かったが、いかに性能差があるとはいえ、確実に一撃だけで葬り去っているのはいささかできすぎである。明らかに性能以上の攻撃力だ。
 先頭を切って敵陣を突破したカンナが、やはり真っ先にマリア機のもとまで辿り着いた。

「隊長!マリアいねぇぞ!!」

(やはり…)

 嬉しくない予想的中である。だが、隊長が諦める訳には行かない。

「何か手掛かりになるものが残されているはずだ。機体の周りを捜せ!」

 敵、最後の一機を斬り倒しながら、大神が全員に指示する。
 大神自身、マリア機の脇で光武から降り、あたりを見回す。

(ん…これはロケットというやつか?)

 くすんだ銀色の鎖の先についた金色の首飾り。そういえば、マリアの首にいつも鎖が掛かっていたような記憶がある。地面より拾い上げ、目の前にかざしたその時。

「フハハハハハハ」

 聞き覚えのある妖しくも不快な嗤いが響く。水面に靄が湧き出し、人影を形作る。

「女は預かった。返して欲しくば、帝国華撃團の隊長よ…お前の身一つで来るが良い!それまで女の命は預かっておく。フハハハハハハ…」

 薄れゆく幻影の背後より小舟が姿を現す。今まで靄に隠れていたようだ。

「隊長!あれをご覧になって!」

 これにいち早くすみれが気付いた。

「これに乗れ…ということでしょうか?」

 その声には不安の色が隠せない。

「そうだろう」
「少尉、まさか敵の言うままに出向かれるおつもりではありませんでしょうね」
「そのつもりだ」

 そして大神の応えは、すみれが不安を抱いた通りのものだった。

「大神さん!これは罠です!!」
「そうだ、やられるってわかっているのに行くなんて無茶だぜ!!」

 さくらが、カンナが口々に制止する。しかし、大神は全く動じる風が無かった。

「部下を救うのは隊長の勤めだ」

 当たり前の事実を当たり前に口にしている、そんなごく普通の口調が、かえって大神の決意を物語っていた。

「大神さん…」
「少尉…」

 さくらも、すみれも、わかっていた様な気がしていた。大神が決してこういう場面で退く男ではないことは。

「必ずマリアを救出してくる」

 食事の予定を告げるような、平然たる口調、平然たる表情。そのまま、生身の体一つで大神は舟に乗り込む。同時に舟は発進し、すぐに靄に飲まれて見えなくなる。

「大神さぁぁん!」

 後には、大神を呼ぶさくらの声だけが響いていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「良く来たな、誉めてやろう」

 先の場所からさほど遠からぬ倉庫街の一角。舟の行きついた桟橋より最も近い倉庫の中にその男はいた。蒼き刹那。実物を前にするのは初めてである。
 小さい。その短躯は子供と見まごうばかりだ。しかし、その身に纏う忌まわしき妖気はまさに黒之巣会の幹部にふさわしいものだ。

「マリア、無事か!」
「見ての通りだ。さあ、女の命が惜しくば銃を捨てろ!」

 言われるがままに、おとなしく銃を放る大神。だが、何が無事だと言うのだろうか。確かに見たところ外傷はない。しかし、マリアは壁に荒縄で十字に磔され、小型の魔装機兵に刀を突き付けられている。あまりに酷い姿だ。

「少尉、何故来たのですか!」

 大神の姿を目にするや、マリアが叫ぶ。その気丈な声を聞いて、大神はようやく胸を撫で下ろした。

「部下を助けるのは当然の義務だ」
「これは罠です。逃げて!」

 必死になってマリアが叫ぶ。自分の為に誰かを犠牲にしたくなかった。自分の落ち度の為に誰かが命を落とす姿を二度と見たくなかった。だが、大神は動こうとしない。慌てもしない。

「罠かもしれない。俺の判断ミスかもしれない。だが、俺には君を見捨てることは出来ない」

 虚勢ではない。ただ事実としての宣言。

「少尉、私なんかの為に…本当に…」

 不覚にもマリアは涙ぐんでしまいそうになる。人として当然の心の動きか、あるいは、自身も知らなかった女性の部分か?
 そしてこの取り乱すことの無い大神の姿は刹那の期待とは大分違ったものだった。

「臭い芝居はそこまでだ!続きは冥土でしてもらおう!!」

 苛ただしげな声と共に右手を眼前に掲げる。すると見よ!五指の爪が30センチ程の長さまで伸びたではないか。妖異な五本の刃と化した爪を振りかざし、刹那は目にも止まらぬ速さで大神に切りかかった。

 ビシッ

 そこに響いたのは肉を打つ鈍い音。
手首を抑え、膝を突いているのはなんと刹那だった。では、大神は?
 目を転じたその先にはマリアを脅かす魔装機兵。その頭部に、極めて肉厚の短刀、鎧徹しが突き立っている。騒々しくもゆっくりと崩れ落ちる魔装機兵の背後から現れたのは、まさしく大神の勇姿であった。

「くっ…」

 ようやく刹那は悟った。帝撃の隊長を、大神を甘く見過ぎていたことに。刹那の攻撃は確かに目にも止まらぬ速度を伴っていたが、若くして達人の域にある大神の技を凌駕するものではなかったのだ。振り下ろす手首に手刀を打込み刹那の攻撃を止める。同時に3メートルの間合いを一気に詰め、尚且つ魔装機兵の背後に回り込む。この時大神の右手には既に、懐より抜き出した鎧徹しが握られていた。跳躍一番、手にした刃を魔装機兵に突き立てる。全ては一瞬の出来事である。
 それにしても、何という手練であろうか。かつてさくらは同型の魔装機兵を上野公園で切り伏せているが、あれは霊剣の力を借りての事だった。だが大神は今、己の技だけで魔装機兵の装甲を貫いたのだ。
 立ち上がった刹那は外套の下より先端が刃となったトンファーを取り出した。大神は背後にマリアを庇うように立ち、鋭い目で刹那を見据えている。その手には魔装機兵より抜き取った鎧徹し。
 ふいに、刹那の姿が揺らいだ。次の瞬間、大神の脇を風切り音が疾り抜ける。大神の横に転位した刹那がトンファーを振り下ろし、それを大神が身を翻して躱したのだ。振り向きざま、大神は刹那へ刃を突き込む。しかし、既に刹那の姿はない。

 ピュッ

 再び風を切る音。背後に転移した刹那の攻撃、それを躱す大神。幾度と無く続く攻防。いかに大神といえど、空間を渡り背後に出現する敵の攻撃は躱すだけで精一杯だ。わずかな空間の揺らぎを察知し、そこから繰り出される攻撃を読み取る事が出来るのも大神ならではである。だが、形勢は見た目ほど圧倒的ではなかった。そのことは、大神にも刹那にもわかっていた。体力が無限ではない様に妖力にも限りがある。そして、いつまでも転位を繰り返すことができないのと同様にいつまでも躱し続ける事も出来ない。

 ドォゥン!!

 均衡を破ったのは、大神におぼえのある轟音と地響きだった。その場に響き渡る凛々しくも澄んだ声!

「そこまでよっ!」
「さくらくん、来てくれたか」
「みんな!?」

 驚くマリア。対照的に、この展開を予想していたかのような大神の信頼に溢れた呼びかけ。

「ど、どうしてこの場所が!?」

 そして刹那は目の前の事実を受け容れられないでいる。

「こないな時の為に、各隊員の制服の襟に発信機がつけてあるのんよ」
「霊波を感知する事は出来ても、電波を感知する事は出来なかったようだな」

 紅蘭の種明かし、大神の駄目押し。

「何の用意も無く現れると思ったか!勝機は自ら広げるものと知れ!!」

 この言葉に衝撃を受けたのは、刹那よりむしろマリアだったかもしれない。

(勝機は…可能性は自分で広げるもの…)

 どんなに無茶に見える行為も、その裏付けとなる準備があれば無茶ではなくなる。何故大神が無謀とも思える捨て身の行動をとれるのか、マリアは理解した様な気がした。鍛えぬかれた技と周到な手配、大神の行動には裏付けがあるのだ。

「ちいぃっ!!貴様ら如きが何人来ようと、知れた事よ!」

 そして優位に溺れ布陣を怠った刹那は虚勢を張る事しか出来ない。その姿に自分と大神の違いを見た様な気がした。

(隊長…)

「おぅおぅ、粋がってくれるねぇ。さぁて…マリアをいたぶってくれた落とし前、たっぷりつけさせてもらうよ!」
「お二方!この場はわたくしたちにお任せになって、早く光武へ!」
「マリアはんの光武もまだ使えるよって、二人とも早よ合流しいや」

 すみれが、紅蘭が二人に促す。誰も勝手な行動をとったマリアを責めようとはしない。

「馬鹿だよ…あんたたち…」

(でも、一番愚かなのは私だわ)

「マリア、行こう!今度は俺達の番だ!」

 そしていつもと全く変わらぬ大神の声。

「はいっ!隊長!!」

 初めて、マリアが大神を『隊長』と呼んだ。




その8



 敵は刹那一機。妖術士としては優れていても用兵家としては完全に素人だ。手持ちの魔装機兵ほとんどを罠につぎ込んで自分を護衛する兵力を手元に残していなかったとは。わずかな脇侍もすべて一次攻撃で撃破されている。
 それでも刹那の抵抗が続いているのはひとえにその特殊能力、転位の術による機動性の故である。幾度となく包囲の網を飛び越え、小癪にも反撃してくる。

「邪ァ!」
「くっ!」

 今もさくら機の背後に現れて一撃を加えようとする蒼角を大神機の一刀が防ぎ止めた。

(このままでは埒があかない)

「二手に分かれて敵を挟撃する。カンナ、すみれくん、紅蘭は迂回して刹那の背後に出ろ」
「そやかて大神はん、相手は包囲を飛び越えるんやで」
「無限に転位が可能な訳ではない。俺との白兵戦でも、奴は能力を消耗している。一撃、有効打を加えれば転位の足は止まるはずだ」
「承知いたしましたわ!」
「了解、隊長、あんたに任せたぜ!」

 三機の迂回行動と共に大神はとんでもない命令を出した。

「さくらくん、敵に突っ込んでくれ」
「えっ!?」

 声を上げたのはマリアの方。確かに、誰が聞いても無謀な命令だ。

「刹那は必ずさくらくんの背後に転位する。マリア、君の力で刹那の影を捕らえ撃ち落とすんだ。君になら妖力の航跡が見えるはずだ」
「しかし隊長、危険過ぎます!」
「大丈夫だ。さくらくん、俺は必ず君を守る。俺を信じてくれ」
「大神さん、私、大神さんを信じます!」

 単機、刹那に突進していくさくら。大神はマリアの防御にまわって動かない。それを見た刹那は、大神の推測通り蒼角を転位させる。
 マリアの翡翠の目が青く輝く。空間を渡る影、転位の軌跡がマリアにははっきり見えていた。浄眼、青く光る、この世のものならざる存在を暴き出す目。霊的な存在、霊的な力の流れを「見る」浄眼の力をマリアが自覚したのは初めてのことであった。

(この敵だけは私の手で!)

 必殺の気迫と共に影の航跡の終着点に向けて感応弾を撃ち込む。

「ぐわっ!」

 狙い過たず、マリアの弾丸は蒼角の装甲を穿っていた。しかし、蒼角の攻撃は止まらない。さくらの機体に向けて鋼球の一撃を振り下ろす。

(さくらくん!俺は君を守る!!)

 大神の周りで時間が停止した。一瞬の内に存在する無限の時を認識し使いこなす。武術の究極にあるといわれる境地にも似た時間の凍結現象。大神の意識は時間の軛から逃れ、さくらを守るべく飛翔する。
 さくら機の霊子機関に流れ込む大神の霊力。さくらの全身を包み込む大神の霊気。霊気の抱擁。そしてさくらの光武を覆う大神の守護。

 バシィ!

 爆発的に解放された防禦の霊力が敵の攻撃を無力化する。大神はこの能動防禦の術を自分のものとして使いこなすに至っていたのだ。

「ありがとうございます!」

 さくらの歓声。

「お前だけは許さない!」

 同時に撃ち込まれるマリアの二撃目。

「ええぃ!」

 振り向きざま、さくらの斬撃。
 同時に迂回してきたカンナ機が蒼角を強襲する。紅蘭の砲撃。すみれの一突き。
 刹那は腕を振り回して反撃するだけで転位しようとしない。いや、出来ない。

「くそぅ、お前ら、寄って集って攻撃しおって…」

 刹那の身勝手な泣き言に応える者はいない。
 接近する白い機体を見た刹那の目が狂おしい光を帯びた。

「貴様さえ、貴様さえいなければぁ!」

 急激に増大する蒼角の妖気。最後の力を振り絞った術を刹那が放つ。

「魁、空刃冥殺!!」

 空中に無数の刃が出現する。夢を操る刹那が生み出した幻の刃。幻に斬られた者は現実に切り裂かれる。悪夢の刃が大神とその横にいたマリアを襲う。
 大神の機体から再度光が放たれた。今度はマリアの光武に向かって。マリアの機体に重なるように白い機体の幻影が出現する。爆発的な光が降って来る刃を全て打ち砕く。だが、防禦をマリア機に向けている大神の機体はどうなるのか。
 何と大神の光武でも同様の現象が起こっているではないか!大神機に向かう幻影の刃も全てが白い輝きによって砕かれていく。
 能動防禦は大神一人の力によるものではなく、庇われる隊員の霊力を土台としてその上に大神の力場を展開するもの。防禦の力は大神から一方的に放射されている訳ではなく、大神が相手の力を取り込む形で発現している。大神の機体と庇われている相手の機体は完全な共鳴状態にあり、相手の機体上で起こっている現象は大神の機体においても生じているのである。

(隊長、私なんかの為に…)

 もう長いこと、マリアは誰かに守ってもらったことが無かった。あの革命の日々、あの隊長にすら庇われた記憶はない。あの時には誰にも、誰かを庇う余裕など無かった。それどころか、自分は当然為すべき援護射撃すら出来なかったというのに…
 誰かを庇うことが出来る。大神はそれだけの力を持っているのだ。

「隊長、作戦指示を願います!」

 マリアが完全に大神を隊長として認めた言葉。いや、自分を導くものとして認めた証。

「カンナ、一撃後離脱!マリア、カンナ離脱後、特殊攻撃!」
「おぅ!」

 カンナが咆えた。真紅の機体に力が漲る。

「哈ぁーっ、一百林牌!!」

 全力を込めた正拳突きを蒼角に見舞う。その波動に大地が呼応し、拳の軌跡に沿って衝撃波を吹き上げた。正拳と大地の気の複合攻撃により大きく揺らぐ蒼角。

(地の気…あたいは地の気を会得したのか?)

 後方に跳び退きながら、カンナは疑念に囚われていた。今回の修行でも、五行の気を会得するには至らなかったのだ。だが、一流の武人らしく闘いの場でいつまでも一つの想念に囚われはしない。意識をすぐさま眼前の敵に切り替えた。

「マリア、頼むぜ!」
「スネグーラチカ!」

 マリアの光武から凝縮された霊気の塊が射ち出され敵を捕らえるや急激に膨張して蒼角を包み込む。
 断熱膨張という現象がある。熱交換無しに空気を急膨張させると空気塊の温度が急激に低下する現象だ。マリアのスネグーラチカは凝縮した霊気塊が急膨張することで霊的な断熱膨張を起こしているのだ。霊気塊に込められた氷雪のイメージが一種の念動力として作用する物理的な低温と霊的断熱膨張による妖力の凍結。物質的側面、霊的側面の双方から相手を凍結させ、脆くなったところを感応弾で打ち砕く。マリアらしい周到な攻撃。

「狼虎滅却・快刀乱麻!!」

 そして一切の魔を滅ぼす神の雷にも似た大神の一撃。その破壊力の前に蒼角は四散した。「黒之巣会に栄光あれ」という、敵ながらなかなか天晴れな刹那の断末魔と共に。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「隊長、ありがとうございました」

 翔鯨丸の艦橋。マリアは最近に無い穏やかな顔をしている。

「いいんだよ、マリア」
「すみません、隊長。私、今まで…」

 驚くほど「女らしい」柔らかい表情でマリアが大神に頭を下げる。その態度は「しおらしい」と表現しても差し支えないものだった。大神を除く全員、とりわけカンナとあやめは目を丸くしている。

「もういいんだよ」

 爽やかな大神の笑顔。その笑顔がマリアに向けられているのを見て、さくらは胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。

「そうだ、これを返しておかなければ…」

 大神が差し出す右手の上には、くすんだ銀の鎖につながれた金色のロケット。

「私の…ロケット」

 心なしかマリアが赤面したように見える。大神以外の面々は気のせいだと思った。

「中を開けて…いませんよね」
「ああ、見てないよ」
「そうですか…ありがとうございます、隊長」

 今のマリアからは普段感じられない「女」の魅力が滲み出している。そして、それが向けられている先は明らかに大神だ。その雰囲気を感じ取ったすみれは無意識の内に意味不明の腹立ちをおぼえた。さくらとすみれから漂うなんとなく気まずい空気。だが。

「皆、よくやってくれた。マリア、さくらくん、すみれくん、紅蘭、そしてカンナ」

 大神が一人一人の名前を呼び笑顔で頷く。邪念の無いその笑顔を向けられて、さくらのわだかまりもすみれの苛立ちもいつのまにか消えてしまった。

「大神少尉。あなたは、私達花組の隊長です!」

 言葉以上の感情が込められたマリアの台詞にも素直に気持ちが同調する。

「がんばろうぜ、みんな!」
「おーっ!」

 カンナの気合に全員が声を合わせた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「以上が今回の戦闘経過です。大神少尉は完全に花組を掌握しました」

 帝国華撃團、地下司令室の更に下層。この部屋に、米田とあやめ以外の姿が見られることは久しく無い。

「それから、例の特殊防禦を自在に操れるようになった様です。大神少尉の霊的能力は確実に上昇しています。これが戦闘中計測した霊力値です」
「俺の方にも新しい報告が入っている。士官学校の訓練記録だ。被暗示耐性訓練担当の術師が、大神は何か特殊な精神制御の訓練を受けている可能性があると指摘している。その時は武術修行による精神鍛練の成果ということで落着いたが、この短期間でこれ程の霊的能力向上が見られるということは、やはり何か特殊な土台があるのかも知れねぇな…」




附記



 六月公演「シンデレラ」も無事楽日を迎え、大盛況の内に幕を閉じた。前半精彩を欠いていた王子役のマリアも、後半に入ってからいつも以上のすばらしい演技を見せ、観客の喝采を浴びていた。今日はその翌日。花組の少女達は皆休日、大神は舞台の後片付けと劇場設備、備品の点検を行っていた。乙女達から次々に手伝いを申し出られた大神であったが、全員を説得してゆっくり休みを取ってもらっている。特にさくらの説得には苦労したのだが。

(全く、さくらくんも言い出したら聞かないところがあるからなあ…気持ちは嬉しいんだけど)

「大神さんが働いていらっしゃるのに、ゆっくり休んでいる訳には行きません」という具合に、舞台の後片付けを手伝うと言って聞かなかったのだ。言っていることは大人なのだが、何故か子供が駄々をこねているように見えたから不思議だ。

(さくらくんらしいと言えばらしくて可愛いんだけどね)

 思い出し笑いを浮かべながら大道具部屋に足を運ぶ大神。そこには人の気配。

(おかしいな…荷物の搬入は終わっているはずだが)

 既に大道具の収納は終わり、今は誰もいないはずである。かすみが照合にでも来たのか、そう思い中を覗き込むと、そこでは赤い大きなリボンと長い黒髪が揺れていた。

「さくらくん!」

 思わず大神が声を上げると肩をビクッと震わせ恐る恐るという感じでその人影は振り向いた。凛とした中にも可愛らしさが感じられる美貌。やはりさくらである。大神が近づくと決まり悪そうな笑みを浮かべる。笑って誤魔化せ、という奴だ。

「まったく…ゆっくり休んで疲れをとるように言っただろう?」

 大神のお説教も苦笑混じりだ。怒ってない、とわかるとほっとしたような素振りを見せ、上目遣いで甘えるように訴えた。

「でも、大神さんが働いていらっしゃると思うとゆっくり休んでいられなくて…それに私、何もしないでいるのが苦手で、お掃除している方が落着くんです…」

 珍しいことだ、さくらが甘えたような態度をとるのは。拗ねることは良くあるが。だが、さくらに甘えられるのは悪い気がしない。このあたり、大神も普通の男だ。
 結局、一緒に道具部屋の掃除をすることになった。正直言って、大神もさくらと一緒の方が楽しかったのである。鼻歌混じりに、楽しそうにモップがけをするさくら。くるくると良く動く。いつものことだが、さくらは「手抜き」とか「いやいやながら」といった素振りを見せることが決してなく、何をしていても見ていて気持ちが良くなる。

「大神さん、次は舞台をお掃除しましょう」
「さくらくん」
「はいっ?」
「舞台は楽しいかい?」

 駆け寄ってきたさくらの楽しそうな顔を見て思わず大神は訊くつもりの無かったことを口にした。

「えっ?…はい!最初は戸惑うことばかりでうまくいかない時は落ち込んだりもしましたけど、最近ようやく楽しいって感じることが出来るようになりました」

 にこにこ笑いながらさくらが答える。それを見詰める大神の眼は優しさと哀しみが入り混じった複雑な色をしていて、さくらは少し胸の鼓動が速くなるのを感じた。

「もしも…」
「はいっ?」
「いや、何でもない」

 何かを言いかけて、言葉を濁す。

「?」
「さあ、それじゃあ小道具部屋へ行こうか。舞台はさっき一通り拭き上げてたから」
「はいっ」

 もう、いつもの大神である。その目から何とも言い難い色は既に消えていた。さくらは一瞬感じた違和感をすぐに忘れて大神の横を嬉しそうに歩いている。だが、表には出ずとも大神の脳裏には先日の米田との、少女達には過酷な内容のやり取りが浮かんでいた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その日、一連の築地戦闘の報告書を持って大神は米田の前に立っていた。帝国華撃團地下司令室。珍しくあやめはいない。花屋敷支部での打ち合わせに出掛けていた。
 一通りの報告の後、大神はかねてからの意見を具申した。

「現状では、花組の隊員達にかかる負担が大き過ぎます。光武操縦者の補充を御考慮頂けませんでしょうか」
「考えちゃあいるんだがな。適任者がいない。大神、お前の様な奴は例外中の例外なんだぜ。花組の連中だって、あやめくんが世界中駆けずり回ってそれでもこれだけの人数なんだ」
「霊子甲冑の改良で搭乗者の間口を広げることは出来ませんか」
「今の所難しいな」
「そうですか…」

 しばし、考え込む大神。実は考えていたのではなく、迷っていたのである。これから言おうとしていることは、大神としては口にしたくなかったことだ。

「それでは、このまま彼女たちが舞台を勤めるのは無理があるのではないでしょうか。公演と戦闘の二足草鞋が肉体的に負担になるというだけではありません。公演の真っ最中に黒之巣会が出現する可能性もあります。舞台の流れ次第では、出動が遅れることもありますし、なによりいつ出撃で中断されるかわからない状態では、彼女たちも舞台に集中できないでしょう」
「おまえの言うことももっともだ。だがな、大神。歌劇団には偽装以上の大きな意味があるんだ」
「大きな意味…ですか」
「そうだ、他ならぬ彼女たち自身が舞台を勤める必要があるのだ」
「……」
「戦闘は血塗られた行為だ。たとえ正義の為、善の為、愛の為、力無き者を守る為と言っても、敵を倒すという殺伐たる意志がなければ戦えない。武道と違い、戦闘に道が生じる余地はない」
「…はい」
「戦闘の中に身を置いて、心の闇が力を増すことを避けられる者はいない。大神、例えお前のように精神を徹底的に訓練された者でもな」
「……」

(長官は俺の何を知っているんだ?)

「人の心は、己のうちに生じた闇を自ら浄化することが出来る。個人差はあるにしてもだ。周りの人間が手を差し伸べ、笑顔を向けることで、浄化を助けてやることも出来る」
「はい。隊員達の心を見守ることも隊長の勤めだと心得ております」
「うむ。だが、機械に自浄能力はない。霊子甲冑の搭乗者が抱く負の想念は霊子機関にも当然影響する。霊子機関の中に負の想念場が形成されていく」
「……」
「霊子機関に累積していく負の想念は、やがてそれを生み出した搭乗者の精神を蝕む事になりかねないのだ」
「では、どうやって霊子機関を浄化するのですか」
「正の想念を注いでやれば良い。そのための舞台なのだ。彼女たちに向けられる憧れ、賞賛、感動。あるいは笑いや涙さえも正の想念だ。大勢の観客が生み出す正の想念は、舞台の上だけでなく、地下の光武にも波及する」
「それなら、別に彼女たち自身が舞台に立たずとも、公演さえ続ければ良いのでは?」
「それでは駄目なのだ。彼女たち自身に向けられた想念だからこそ、彼女たち自身が生み出した心の闇を駆逐する事が出来る。そして、彼女たちに向けられた想いは霊子甲冑の中に貯えられ、彼女たちが敵に激しい殺意、憎悪を抱くような事があっても、彼女たちの心が闇に堕ちていく事を防いでくれるだろう」
「そういう訳だったんですか…」

(それだけじゃねえんだがな。今はまだ教える訳にはいかねえ)

 納得する大神を見て、米田は心中呟く。しかし、そんな色は微塵も見せず、一転して軽い口調になって続けた。

「何も彼女たちだけに限ったこっちゃねえ。大神、お前にも言える事だ」
「えっ?」
「お前にモギリをやらせているのも伊達じゃねえぞ。客はお前に期待を込めて切符を渡し、満足を持ってお前の見送りに応える。その想いもまた、地下の光武に届いているんだ」
「そうなんですか?でもそれは、別段私に期待している訳でも、私に満足している訳でもないのでは…」
「いーや、モギリは劇場の顔だ。劇場が受ける想いを代表して受け取ってるんだ。だから大神、モギリはお前がやらにゃあいかんという訳だ。ガッハッハッハ」
「はあ…」

(どこまで本当なんだ?)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 あの時の米田とのやりとりでわかったことは、舞台さえも戦闘の為にあるものだったという冷酷な事実だ。そして今、大神が問い掛けようとしたのは…

(舞台と闘い、どちらかを選ばなくてはならないとしたら、さくらくん、君はどちらを選ぶだろう。いや、俺はどちらを選んで欲しいのだろう…)

「どうしたんですか、大神さん。ぼんやりしちゃって」

 気がつくとさくらが顔を覗き込んでいる。

「いや、何でもないんだ」

 努めて明るく応える大神。

「変な大神さん」

 それ以上気に掛けず、ご機嫌な様子で先に立って歩いていくさくら。その可憐な姿に心が光で充たされていく自分に気がついた時、大神は答えを見つけた様な気がした。

(俺はきっと、さくらくんに…)


――続く――
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