魔闘サクラ大戦 第五話
その1



 パチパチパチパチパチパチパチ……
 パラパラパラパラパラパラパラ……
 パチパチパチパチパチパチパチ……
 パラパラパラパラパラパラパラ……

 タッタッドタドタタッタッドタ……

「大神さん、っ……!」

 軽快な、と言うにはいささか狼狽の色濃い足音と共に駆け込んできたのは少女と女、いや、美少女と美女の中間の、今が盛りの乙女である。緑の黒髪の形容そのままの艶やかな長い髪とそれを高い位置で纏めた大きな赤いリボン、薄紅色の小袖と緋の袴を身に纏う彼女の名は真宮寺さくら。大帝国劇場の花形女優である。清楚な美しさに溢れた彼女の美貌の中でも一際目を引くのはくっきりした黒目勝ちの大きな双眸。だが、いつもは強い意志の光で満たされているその瞳には、珍しく怯んだ色が浮かんでいた。

「……どうしたんですか?」

 重苦しくのしかかる空気。まるで重力結界が張られているかのように、足を踏み入れただけのさくらまで押し潰されそうな圧迫感を感じるほどの。

「さくらくん?少し待ってくれないか」

 問い掛けられた男は顔も上げず手もとの伝票を鮮やかな手さばき、と言うにはいささか乱暴な、だが速さだけは申し分の無い手付きで捲りながら一心不乱に算盤を弾いている。その横では落着いた藤色の着物を個性的に着こなし(座ったままでも普通の着付けとは微妙に異なるのだ、これが。立ち上がるとその型が如何に独創的かがはっきりわかる)色合いの違う同色のリボンで片側に寄せた髪を結んだ、さくらよりやや上の年頃のしっとりした風情の美女が無言で帳簿を睨み付けながら(!)やはり算盤と格闘していた。

「さっきからどうしても計算が合わないのよ」

 恐る恐る、といった感じの囁き声でさくらに耳打ちしたのは明るい赤を基調としたハイカラな洋装の、さくらと同年代か、あるいは少し上かと思わせる、やはりなかなかの美人。彼女は名を榊原由里という。劇場の事務と受付と案内をしている女性である(女優でも十分通用しそうだが)。

「見つけたぞ!」

 ビクッ

 突如響き渡る男の叫び。…という程大声ではなかったのだが、そこにいた三人が待ちに待ったその一言は重苦しい雰囲気を切り裂く力を秘めていた。事情を知らないさくらまで震えた程に。

「ほらっ、これだよ、かすみくん。同じ費目の地下の伝票が混入していたんだ。枚数は合っているから何処かで入り繰ったんだと思う」
「ああ、本当ですね。良かったわ…」

 本当に、心の底からほっとした風情で実際に胸を撫で下ろす仕種までしている女性の名は藤井かすみ。大帝国劇場の事務と経理を取り仕切っている女性である。一説には、大酒呑みの劇場支配人最大の天敵とか(酒代の付回しを厳しく糾弾するからである)。一気に脱力したといった感じの、疲れきった笑顔を彼女と交わしている若い男は大神一郎。名目上はこの大帝国劇場の経理責任者であるがあくまでそれは名目上の事。実際にはもう一つの役目であるモギリ、兼雑用係が彼の仕事内容である。
 だがそれも全て表向きの事。彼こそは対魔物・対魔術帝都防衛秘密部隊、帝国華撃團花組隊長、霊力を糧とする機械の甲冑「光武」を操る特殊部隊、帝撃花組を率いる事の出来る現在只一人の男。劇場のモギリや雑用係は世を欺く仮の姿…の筈である……

「お待たせ、さくらくん。何か用かな?」

 さくらに応えた顔は今までの憔悴を微塵も感じさせない、爽やかと言っていい笑顔。まあ、さくらほどの美少女を相手にするとなれば不機嫌な顔をする男の方が珍しいであろうが、この切り替えの速さは彼の特徴の一つである。

「えっ…?あっ、そうでした!」

 事務室においては頻繁に発生する修羅場の雰囲気に免疫の無いさくらは、圧倒されて(精神的に)隅の方で小さくなっていたが、この一言で我に返った。

「すみれさんとカンナさんが大変なんです!すぐに来て下さい」
「またか…」

 我に返って焦る(妙な形容だが)さくらと対照的に、達観したような表情で大神は深々と溜息を吐いた。

「そんな、大神さん、落ち着いてないで一緒に来て下さい」
「やれやれ…じゃあ、かすみくん、悪いけど俺はこれで」
「はい……お疲れ様です、大神さん」

 かすみの返事が「お気の毒様です」に聞こえたのは、決して大神の気のせいばかりではないはずだ。

「がんばってくださいね〜」

 由里の励ましを背に受けて、大神は何もしないうちから重度の疲労を感じていた……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……」
「……」

 それはまさに一触即発。いつ血の雨が降り出してもおかしくない最前線の空気。いや、正規の軍隊同士の衝突は普通、それなりの計算と秩序の下に行われるから、これはむしろ暴動勃発寸前の群集の直中にいるかの如き雰囲気である。ここは大帝国劇場の楽屋の筈なのだが。その源、お互いわざと顔を合わせない様にして、各々塗り薬や絆創膏を手にしている二人は自称帝劇のトップスター(確かに言うだけの実力はある)神崎すみれと帝劇一の人気者(ただし、子供達に)桐島カンナである。

「…今日はまたずいぶん険悪な雰囲気だな…」
「…お二人とも舞台が終わってからずっとあの調子で…大神さん、何とかなりませんか」
「一体何があったんだい?」
「それがなぁ…」

 応えを引き取ったのは丸眼鏡を掛けた、愛敬あふれるチャイナドレスの乙女。美しいというより、可愛いという形容の方が似合う少女である。彼女、名を李紅蘭という、の語るところによれば、事ここに至った事情は次の通りである…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「やいやいやい、古今東西の、あっ、妖怪変化ども!この三蔵法師の一番弟子…」

 舞台はまさに最高潮、最大の山場、カンナ扮する孫悟空とすみれ扮する妖鬼婦人の対決の場面を迎えていた。ここまでは珍しく大きな失敗も無く、後は殺陣を残すのみ。空手の達人たるカンナはもとより、舞踊に通じたすみれも殺陣を得意としている。このまま久しぶりに無事幕を迎えられるかに見えた。が、その時。

「ああっ!」
「うわあぁぁぁ!」

 ドタッ

 悲劇は起こった。

 舞台の真ん中でうつ伏せに倒れ伏す妖鬼婦人、いや、すみれ。それは演出ではなかった。見栄えの良さを優先した結果やたらと長いすみれの舞台衣装の裾(周りの制止にも耳を貸さず、すみれがこのデザインを主張した)をカンナの右足がしっかり踏みつけていたではないか。いっそ演出なら見事なコントであったのだが、残念ながらそれは事故だった。運動神経はいいのに何故かいつも、倒れる時はまともに顔面から床に突っ込むすみれ。倒れたままの姿勢でしばらく痙攣していたが、やがてむくりと立ち上がる。その顔には当然、覆い難い怒気。役柄上、かなり恐いメイクをしているのだが、今ならそれも必要ないと思わせる形相でカンナに詰め寄る。

「カンナさん、下手なのは仕方ないですから、せめてちゃんとお芝居して下さらないこと!」

 客観的に見れば、確かにすみれの方が上手である。だがものには言い方というものがある。これでは喧嘩を売っているようなものだ。そしてカンナは決して傍若無人な物言いに黙って耐えるような女ではないし、売られた喧嘩に背を向ける玉でもない。

「あんだとぅ、そっちこそトロトロすんなよ、この鬼婆ぁ!!」

 確かにすみれの役柄は鬼婆。だが、この台詞は決定的。宣戦布告だ。

「なんですってぇ!この馬鹿猿間抜けがさつ女木偶の坊!!勝負ですわ!」

 …どうでもいいが、よく一息でこれだけ立て続けに悪口が言えるものだ。

「おーおー上等だ!かかってこい!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ちゅう訳で、乱闘劇の内に舞台は幕。お客さんを巻き込まずに済んで、ほんま幸いやったで」
「……」
「大神さん…」

 話を聞いて天を仰ぐ大神。正直、最早手に負えないというのが実感だったが、さくらのすがるような口調と訴えかけるような眼差しに退路を塞がれてしまう。他の二人は、紅蘭はともかくアイリスまでも、呆れ顔で傍観を決め込んでいたのだが。いい加減さくらもこの程度の事には慣れるべきではないだろうか。
 …とは思ってみるものの、口に出して言える訳が無い。仕方なく、本当に仕方なく、大神は二人の仲裁を試みる。だが

「カンナ、」
「今、頭に来てんだから話し掛けないでくれよ、隊長!このザマス女の所為でとんだ赤っ恥かいちまったぜ」

 あえなく玉砕。それでも気を取り直し、

「あー、すみれくん?」
「何ですの、少尉?わたくし、非常に苛ついてますの。理由はどこぞのサル女ですけど」

 二連敗。

「何だと、このイヤミ女!」
「何ですってぇ〜、この筋肉女!だいたいあなたの野生丸出しの演技がいけないんですわ!おかげでわたくしの完璧な演技が台無しじゃありませんか!!」
「へっ、笑わせんじゃねぇよ!おめえ、裾踏まれてコケるのこれで何度目だ?よっぽど顔面着地がお気に入りらしいな!?」
「キーッ、何ですってぇ!!」
「面白ぇ!さっきの続きをやるか!?」

 事態は一層の悪化を見る。睨み合う二人。かえって燻っていた熾火を煽る結果になってしまった。いつ掴み合いの喧嘩が始まってもおかしくない。

「あ〜あ、いつまでやってるのかなぁ?」

 呆れたように呟くアイリス。10歳児に呆れられるというのも少々情けないのではなかろうか。

「二人とももう止めときゃいいのに」

 これも呆れたように紅蘭。だが、紅蘭の場合、聞こえよがしという意図も含まれている。

(あれっ?)

 何かがいつもと違う。今更のようにそれに気がつく大神。

「マリアはどうしたんだ?」

 いつまでもいがみ合いが収まらないと思ったら、ただ一人仲裁能力を持つ人物、帝国歌劇団花組(帝国華撃團、ではない)リーダー、マリア・タチバナがこの場に不在ではないか。こういう状況を放置するような性格ではない筈である。

「マリアはんは作家の先生と打ち合わせや。まっ、打ち合わせっちゅうよりは弁明やな。ここんとこ脚本通りに進んだ試しがないさかい」

 聞こえよがしの紅蘭のこの台詞に、さすがに動揺の色を見せるすみれとカンナ。だが、そこでしおらしく反省するような二人なら苦労は無いのだ。お互い、相手に責任を擦り付け合う罵詈雑言、二人の間に張り詰める空気は益々激しさを増していく。
 ところで、マリアがわざわざ弁明に出向くほど脚本家に気を遣うのは訳がある。いや、普通なら気を遣うのが当たり前だが、殊舞台のことで支配人を初めとする劇場関係者にとかく失敗の多い花組が気を遣う事はほとんど無い。何故なら、劇場関係者はそのほとんど全てが秘密部隊、帝国華撃團の構成員でもあるからだ。そして花組が本来は、華撃團で最も危険な任務を背負う実戦部隊であるという事を知っているからである。
 だが、華撃團の関係者だけで公演が出来る訳ではない。仮にも帝国の名を冠した劇場に恥ずかしくない脚本や演出の才能を持つ霊力者や軍関係者など、そうそういる筈も無いのだから。つまり、脚本家や演出家は部外者なのだ。当然、身内に対するものとは別の気配りが要求される。普通の劇場なら当たり前の気配りが。
 それでも、彼らが帝撃の内情をまったく知らないかというとそうではない。確かに帝撃の実状は最重要機密に属する事だが、帝撃に出入りする彼らが事情を何も知らないとなると色々と不便である。そこで、多少の脚色を混ぜた当たり障りの無い、だが彼らには国家機密の重みを十分感じさせる説明をしてある。曰く、大帝国劇場の真の姿は帝国の秘められた祭器を保管する極秘施設であり、帝撃の公演は祭器に奉げる神楽である。軍人の自分が劇場支配人を務めているのはこの祭器を守る為である、と。

(まさか、祭器が秘密兵器、霊子甲冑とは思わないだろうな。霊子甲冑に正の霊波動を送り込むのだ、確かに神楽には違いない)

 この話を聞いた時、大神はその脚色の巧みさに妙に感心したものだ。だが、この時点で大神が教えられていた事も全てではない。この部外協力者向けの説明が、彼の知る以上の深い真実を内包している事を、彼はまだ知らない…

「大神さん、何とかしてもらえませんか?」

 横から袖を引っ張られて現実に戻る大神。さくらが心底困惑した顔で大神を見上げている。同時に大神なら何とかしてくれるだろう、と頼っている訳でもある。こんな美少女に頼られるなど果報者だ。だが、頼りにされた大神はさくらが仰天する事を言い出した。

「よぉしわかった!二人とも、この際だ、お互い気の済むようにしろ」
「大神さん、何てこと言うんですか!」
「一度、お互いに言いたい事を全部言わせた方がいいだろう。そうでなければ明日また同じことを繰り返すだけだ」
「無茶ですよ、そんなの!」

 目を一杯に見開き大神に抗議するさくら。だが、水を差すようにしたり顔で紅蘭が口を挿む。

「いや、うちも大神はんと同意見や。機械かて、時にはガス抜きが必要やろ。すみれはんもカンナはんもたまにはガンガンやりあったらええねん」

 紅蘭らしい喩である。

「アイリスもこの前、街でガス抜きしたよ〜」

 無邪気な顔でとんでもない事を言い出したのはアイリス。

「あれは破壊活動って言うのよ!アイリス、もう二度と街を壊しちゃ駄目よ!」
「はぁ〜〜い」

 あくまでも生真面目にこれをたしなめるさくら。その間にも二人の険悪な睨み合いは臨界点に達しようとしていた。だが、次の瞬間、二人は急に固まってしまった。

「どうした、遠慮は要らん。誰にも邪魔はさせんから思い切りやるがいい」

 はっと振り向くさくら、紅蘭、アイリス。大神の声に込められた静かなる迫力。大神の眼に宿る強大な意志の力。そこにいたのは別人だった。つい先程まで乙女のいがみ合いに途方に暮れていた気のいい青年ではない。この大帝国劇場では滅多に無い事だが、それは帝国華撃團、花組隊長、戦場において花組を指揮し、敵を討ち倒すもう一人の大神であった。

「…どうしたの、みんな?」

 黙り込んでしまった一同。沈黙を破ったのは、打ち合わせから戻ってきたマリアだった。

「いや、何でもないんだ。マリア、打ち合わせご苦労様」

 ふっと、空気が和らぐ。振り向いた大神は、人当たりのいい好青年の顔に戻っていた。今までの迫力が錯覚だったと思わせる程の変わり身の速さ。
 その場に漂う緊張の残り香からマリアは何事かを感じ取ったようである。だが、それには触れずマリアは全員にこう伝えた。

「隊長、長官がお呼びです。皆も地下作戦室に集合よ」
「わかった。皆、行こう」
「はっ、はい」

 大神ほど素早く意識を切り替えられないさくら達は戸惑いながらも頷き、大神の後に続く。二人を残して。

「わたくしは部屋で着替えてから参りますわ」
「あたいも部屋で着替えてくるぜ」
「あ〜ら、貴方にはそのボロ服がお似合いじゃなくて?」
「なにーっ!?」
「……」

 再びいがみ合いを始めそうになる二人。だが、無言で投げかけられた大神の視線にお互い顔を背け、さくら達を押しのける様にして楽屋を出ていった。




その2



「深川で黒之巣会らしき一団を見たとの通報があった」

 大帝国劇場にある筈のない地下施設。それは秘密部隊・帝国華撃團銀座本部。参集した花組を前に帝国華撃團総司令米田中将はこう切り出した。

「深川…ですか。確かに工場の多い地区ですが、何か攻撃目標になるようなものがあったでしょうか。彼らが民間の経済活動を標的にするような戦略思考を持ち合わせているとは考え難いのですが」
「そう言えば、彼らの攻撃目標は関連性が今一つ良くわかりませんね…」

 大神、マリアが続けざまに疑問を提示する。上野公園、芝公園、築地倉庫街、浅草寺。上野には寛永寺、芝には増上寺があり、築地には本願寺がある。宗教的な目印があるのだろうか。それにしては、寺社仏閣に直接攻撃を仕掛けたのは浅草戦闘の時のみだ。どうも、攻撃対象に一貫性が欠けているように見えて仕方がない。

「黒之巣会らしき一団は、今は使われていないとある没落華族の元屋敷の周りで何やら土木作業らしき真似をしていたらしい」
「魔装機兵の工場でも作ってるんやろか?」
「いや…それにしては立地がそぐわないな…魔装機兵の部品は米国から供給されていると見てほぼ間違いないだろう。組立施設ならもっと海運の便が利用しやすい所、それこそ工場街の近くに作る筈だ」

 没落華族屋敷に印をつけられた地図を見ながら、大神は紅蘭の推測に首を振った。
 これまでの戦闘で華撃團は多数の魔装機兵の残骸を試料として回収していた。その分析により、かなり早い時機から魔装機兵の部品、材料は主に米国製であるという事が判明している。米国が日本を仮想敵国と見なしているのは軍事上の常識であり、黒之巣会への部品供給も米国政府自身が何らかの形で関わっているのは確実と思われた。おそらく国防省の情報部あたりが秘密工作の一環として指揮を執っているのではないか、というのが黒之巣会の存在を知らされている帝国軍上層部の一致した見解である。大神自身、最も早い時機からこの説を唱えた一人だ。ただ、今のところ証拠が全く掴めていない。米国関与の証拠どころかその供給路、組立工場の位置にいたるまで一切手掛かり無し。忍びの技を受け継ぎ霊力を備えた月組の精鋭まで繰り出しているにも拘わらず、である。流石は大国、アメリカというところか。

「他に土木作業というと…一体何をしているんでしょうね」
「何かを掘り出そうとしているのか、或いは何かを封じようとしているのか…情報が少なすぎるな」

 自分の方に向かって問い掛けてくるさくらに大神が自分なりの推測を口にする。その言葉に、あやめが軽い驚きを示す。

「封じる…?どうしてそう思うの、大神君」
「彼らの基盤は魔術、それもおそらく陰陽術にあるようですから。何か魔術的な陣を作っているのかと…単なる思い付きですが」

 顔には出さないが、あやめの驚きは益々大きくなっていた。大神は華撃團に来るまで、魔術については士官学校で教えられる程度の、通り一遍の知識しか持っていなかった筈である。それがこの短期間に、数年来に渡り魔術的なものと関わり続けてきた自分に匹敵するほどの知識を身につけつつある。いや、単なる知識ではなく、魔術に対する理解と判断力だ。

(転属時の調査では魔術的な素養は一切無いという事だったけど…単に頭がいいだけとは思えないわ)

「いや、大神、お前の推測はいいとこついてると思うぜ」
「長官、何かわかったのですか?」
「いや、お前の言う通り俺達には情報が不足している。だが、推測する事は出来る。俺は、奴等の目的に一つの仮説を立てた」

 全てを知る事が出来るのなら、戦争は将棋や囲碁と同じ。だが、情報が制限されるが故に、戦争では情報収集が最も重要になるし、それを補う為の将帥の才能がものを言う事になる。それは直感力であり、推測力だ。米田もまた、知将として名高い男、普段どんなにだらしなく見えても直感的推測力は群を抜いている。

「それは、魔術だ」
「長官もそうお考えですか」
「ああ、深川は今でこそ工場が建ち並ぶ賑やかな町になっちゃあいるが、以前は神社仏閣の立ち並ぶ帝都有数の霊地だった。俺達にはわからん、何かがあるのかも知れん」
「そう言えば、築地戦闘の際、刹那が『六破星降魔陣』という言葉を口にしましたがこれと何か関わりがあるのでしょうか。六破星降魔陣についてその後何か判明しましたか?」
「いや、残念ながらまだ何もわかっちゃあいねえ。だが、おそらく今回の一件もそれ絡みだろう。しかし、何度も言うように俺達には余りにも情報が不足している。そこでだ、大神、お前の目で深川を調査してきてくれ」
「長官、調査は月組の任務では?」

 それまで黙って二人の会話に聞き入っていたマリアが冷静に指摘する。冷静な口調、いつものポーカーフェイスだが何故か、大神に余計な負担を掛けさせまいとしているようにも見える。

「そうです、それにいくら大神さんでも不慣れな偵察任務ではもしもの事が無いとも限らないじゃないですか」

 これはさくら。こちらは大神に危険な事をさせまいとする意図がはっきり出ている。

「勿論月組も動かしてはいるが、奴等の手腕でも肝心の所がなかなかわからない。大神の洞察力なら、専門家の奴等にわからない事も見えるんじゃねえかと思うんだがな。それに大神の腕なら万が一にも奴等に不覚は取るまい。それでも反対か?」
「……」
「…ですが……」

 まだ何か言いたそうにしているさくらを遮るように大神が立ち上がる。

「わかりました。これまでに判明した事実をご説明いただけますか」
「行くか…言い出した俺が言うのもなんだが、十分気を付けろよ。偵察任務では光武は使えんからな」
「はっ、心得ております」
「詳しい事はあやめくんから説明を受けろ。出動は明日だ。明日はちょうど休演日だしな…」
「……」

(モギリの仕事が無いから俺を使うという訳でもないだろうに…)

 それでも、完全に否定しきれないものを感じてしまう大神であった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 そのまま解散、となるかと思われたその時。

「大神さん、私もご一緒させて下さい!」

 勢いよく立ち上がったのはさくら。

「任務が調査なら必要とされる力は感応力…わたくしの方がお役に立てると思いますわ」

 優雅に立ち上がったのはすみれ。

「光武が使えないんだろう?じゃあ、あたいの出番だ。生身の戦闘ならあたいに任せてくれよっ!」

 自信たっぷりに立ち上がったのはカンナ。

「隠密行動は私が一番慣れていると思います。隊長、私を同行させて下さい」

 静かに立ち上がったのはマリア。
 出遅れた感のある紅蘭やアイリスも何か言いたそうな顔付きで大神を見ている。もし、この現象が楽屋やサロンで起ったなら、大神は蛇に睨まれた蛙の如く、立ち竦む事しか出来なかっただろう。だが、彼にとって幸いな事にここは華撃團の作戦室。彼の縄張りである。

「そんなに心配しなくても、一人で敵の中に飛び込むほど俺は無謀じゃないつもりだ」

 この言葉に六人の目の光が一層強くなる。

「だが、さくらくん、残念ながらすみれくんの言う通りだ。君の能力は偵察には向いていない。それよりも、いざという時の為に翔鯨丸で待機していてくれ」
「…わかりました。大神さんに危険が迫ったらすぐに光武で駆けつけます」
「頼りにしているよ」

 この台詞にさくらはあえなく撃沈。

「すみれくん、確かに君の感覚は頼りになると思う。だが、もし敵に見つかった場合、魔装機兵と生身で戦うのは君には無理だ。長刀を担いで帝都を歩き回る訳にはいかないからね」
「……」
「君にはアイリスと一緒に翔鯨丸から周りの様子を見張っていて欲しい。何か異変が起ったらすぐに合図してくれ」
「…わかりましたわ」
「うん、わかったよ、お兄ちゃん」
「俺には残念ながら霊感が乏しい。頼んだよ」
「はい…お任せ下さいな」

 すみれ、撃沈。

「カンナ、君なら生身で魔装機兵を倒す事も可能だろう。だが、今回の任務では敵を倒す力よりも逃げ足の方が重要なんだ。敵に後ろを見せる事をよしとしない君には少々難しいと思うよ」
「うっ、まあ、確かに逃げるのは性に合わねえよな…」
「それよりも危なくなったら助けに来てくれよ」
「任せときなって!」

 カンナ、撃墜。

「マリア、君には俺が不在の際、代わりに花組を統率するという役目がある。今度がまさにその場合だ」
「…そうですね、おっしゃる通りです」
「頼むぞ、マリア」
「わかりました」

 マリアもあえなく撤退だ。
 ここで一人だけ残された人物がいる。だが、そのあたりこの半年弱ですっかり気配りを鍛えられた大神に抜かりはない。

「紅蘭、君は翔鯨丸の探知器で俺の動きを追尾してくれ。場合によっては、俺の方から連絡できなくなることも考えられるからな。それと同時に、霊子レーダーで魔術的な力の流れを測定してくれ。彼らがどんな術を仕掛けようとしているか、手掛かりが得られるかも知れん」
「任せときぃ!しっかり大神はんをフォローさせてもらいまっせ」

 というわけである。

「長官、以上の布陣でよろしいでしょうか」
「ああ、それでいいだろう。作戦会議は以上だ」
「解散っ」

 大神の言葉に全員が立ち上がる。他の五人と一緒に作戦室を後にする途中で、何事か思い出したように紅蘭が引き返してきた。大神の前まで来ると、にこにこしながら口を開く。

「大神はん、実は光武の整備の事で相談したい事があるんやけど後で格納庫に来てくれまへんやろうか」

 嬉しそうなのは好きな機械いじりに関する事だからだろうか、それとも?

「わかった、あやめさんから説明を受けた後で顔を出すよ」
「大神君、私は資料を用意しなければならないから先にそっちを済ませてきてくれる?」

 これを耳聡く聞きつけたのか、あやめがそつなく言葉を挿んできた。

「わかりました、じゃあ、紅蘭、行こうか」
「はいな、お手数かけます」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「長官、大神少尉のことですが…」
「……」

 大神の姿が見えなくなったのを見計らって遠慮がちに話し掛けるあやめに、米田は無言で先を促す。

「いくら士官学校主席卒業といっても彼の能力は少し異常じゃないでしょうか。演習と実戦は自ずと別のもののはずだと思うのですが。彼は…有能過ぎます」
「だが、士官学校入学以降の奴の経歴に疑問の余地は無い。士官学校に入る前といえばほんのガキだ。どっかの工作員って事はあるまいよ」
「それはそうですし、彼の精神に後ろ暗いところは全く見られません。むしろ、一点の曇りも無いと言ってもいい位ですわ…ただ、気になるんです。あの能力は普通に育った者が身につけられるものとは到底思えません」
「普通の生まれで無いことは確かだろうな」
「…何か?」
「こないだの実験の件で陰陽陣の親玉から伯爵の方に抗議が寄せられてたぜ。あの後、少佐以外の連中は一週間以上使い物にならなかったらしい」
「……」
「あの加出井ですら、二、三日気分が悪かったって言ってる位だからな」
「ですが、大神少尉は翌日から全く普段と変り無く任務に就いておりましたが…」
「だからだよ。生まれつきのものだけであるはずがない。それこそ、生まれた時から特殊な修行を課せられてきた者だけが持ちうる能力だろう。加出井の奴も大神がどんな修行をしてきたのか知りたがってたぜ」
「……」
「だが、野郎がどんな生まれであろうと、今の俺達には大神の傑出した能力が必要だ。あいつ以上に黒之巣会や、奴等と戦える者はいないだろう。もし何かあったとしてもそん時はそん時だぜ。今の俺達に手段を選んでる余裕はねぇからな」
「長官…」

 口調にそぐわない真剣な目の色は、米田が言葉ほどお気楽でいる訳ではない事を示している。やがて、自分を納得させるように米田はこう付け加えた。

「まあ、それ程心配はいらんだろう。あいつは、俺達に牙を剥く事はあっても花組の連中を裏切るような真似は決してしないだろうからな…」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「すんまへんな、大神はん。明日の準備もあるやろうに」
「いや、光武の管理も俺の仕事だからね。遠慮なんか要らないんだよ、紅蘭」
「へへへー、おおきに」

 相変わらずにこにこ笑っていた紅蘭も光武を前にすると途端に真剣な顔付きになる。それは紛れも無く玄人の目付きだ。

「実は大神はん、霊子機関の設定変更で光武をパワーアップできそうなんや」
「何だって?それはすごい。よく気がついたな、紅蘭」
「まあ、実のとこ偶然なんやけどな。霊子機関の整備中にたまたま初期値を変える方法を見つけましたんや。ただ、一つ問題がありましてな」
「問題?」
「そうや。パワーアップは一つの機体につき、攻撃面、防禦面のどちらか一方に限られるんですわ。それで、大神はんに皆の機体のどちらをパワーアップさせるか決めて欲しいんやけど」
「成る程ね…判った、確かにそれは俺の仕事だ」
「よかったー、実は結構頭を悩ましてましてん」
「何か早口言葉みたいだな…まあ、そんなことはどうでもいい。さて…」

 しばし、考え込む大神。紅蘭はその邪魔をしない様に無言で大神を見詰めている。
 霊子甲冑の整備についての打ち合わせ、それは紅蘭が大神を独占できる時間だ。紅蘭は、自分では気が付いていないかもしれないが、花屋敷で霊子機関を整備していた頃より銀座に来てからの方が、機械に向かうのが余計に楽しみになっていた。それは、誉めて欲しい人が出来たから、誉めてくれる人が出来たから、なのかもしれない…

「さくらくん、カンナ、マリア、紅蘭は攻撃力、すみれくん、アイリスは防御力の強化だ」
「ははー、それぞれ長所を伸ばす訳やな」
「それから、俺の光武は防御力を強化してくれ」
「大神はんは防御力ですか…」

(いつも皆の盾になってくれてはるからなぁ、きっとそのつもりなんやろうな…)

 大神の意図を自分なりに読み取って、胸にじんと来るものを感じる紅蘭。だが、それを表に出すには照れがあった。

「わかりました。ほな、今日中に仕上げときますさかい」
「ああ、頼んだよ、紅蘭。君に任せておけば安心だ」
「大神はん、それ、誉め過ぎやで。照れるやないの」

 言葉だけでなく、本当に赤くなっている紅蘭。だが、大神はこういう場面で加減を知らない。

「いや、お世辞でも何でもないさ。君は命無き機械に命を吹き込む人だから」
「おっ、大神はん!?」

 完全に赤面して絶句する紅蘭。もっとも、実の所大神は言葉通りの意味で言っているに過ぎなかったのだが。紅蘭の霊力は命無き器物に仮初めの命を吹き込む式神法術。器物に霊力を込めるエンチャント魔術。紅蘭が機械技術と相性がいいのもその霊的特性によるものだと大神は考えていた。だから、「命無き機械に命を吹き込む」なのだが、まあ、この時点ではまだ、大神には乙女心が全く判っていなかったということだろう。

「でも余り遅くならない様にな。霊子甲冑は乗る者の体調の方が重要なのだから」
「わかってますって。どうもおおきに」

 どうにかいつもの笑顔を取り戻して応える紅蘭。愛想のいい笑顔の下でどうしても本心を表に出すことが出来ない。紅蘭もまた、好ましい異性に臆病な、年頃の乙女であった…




その3



(………)

 まだまだ夜も宵の口、夕食を済ませて幾らも経たない時刻、大帝国劇場二階。扉の前で逡巡した様子を見せる少女。叩く手が空中で止まり、言問う唇も半ば迄開かれたままである。
 大神の部屋の前で、さくらは迷っていた。どうも僭越であるような気がして、珍しく躊躇していたのである。

「さくらくん? 開いてるよ、今ちょっと手が離せないから入って待っててくれる?」

(!)

 だが、さくらが何も合図をしていないにも拘わらず、部屋の中から声が掛けられる。気配を読んだのだろうか。それにしても、誰彼構わずこんなことをしていたら気味悪がられると思うのだが。

 カチャッ

「失礼します…」

 さくらは大神の能力をよく知っていた。だから、自分の気配を読み取る位大神には何でも無いということは頭では理解できる。だが、やはり驚きを禁じ得ない。

「あのっ、どうしてわかったんですか?」

 机に向かって何やらペンを走らせている大神に恐る恐る尋ねる。自分はそんなに騒々しい気配を撒き散らしていたんだろうか、それが少し気になった。

「君の視線を感じた。俺に用だったんだろう?どんな騒ぎの中でも自分の名前を呼ぶ声は聞き分けられる、あれと同じだよ。もう少しかかるからベッドにでも掛けていてくれないか」

 振り向きもせずペンを走らせながら、それでもしっかり大神は答えを返した。こともなげに。自分が特別なことをしているとは少しも思っていない口振りだ。

(……)

 呆れたような視線を大神に向けるさくら。普通とは逆の意味で、大神は己を知らなさすぎるようだ。
 しばし、ペンを走る音だけが部屋を満たしていた。きちんとした文書を作っている訳ではなく、分厚く綴られた書類を見ながら、しきりと何かを書き散らしている感じだ。

「ふう、お待たせ、さくらくん」

 やがてペンを置くと、大神は椅子ごとさくらへ振り返る。今までは大神の陰になって見えなかったが、机の上には大量の書付が散らばっていた。

「何をなさっていたんですか?」

 なんとなく興味を覚えてさくらが尋ねる。

「この前花屋敷で行った実験の報告書が送られてきたんで検証していたんだ。ほら、君の誕生日に急に呼び出されたやつだよ」

「あの時の…何の実験だったんですか?」

 あの時のことならとても無関心ではいられない。ひょいと机の上を覗き見るさくら。

「うっ……」

 だが、書付の中身を見た途端、思わず仰け反ってしまう。そこに並んでいたのは大量の数式と訳の判らない記号の羅列。
 引き攣ったさくらの表情に気付かぬ様子で大神は報告書の束を手に説明を始める。

「この時の実験は霊子波動の…」

 扉越しにいきなり声を掛けられた時以上の驚きを持って、まるで異星人でも見るような目付きでさくらは大神を見詰めていた…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 二人にとって幸いなことに大神の説明はごく簡単なものだった。もしこれが紅蘭だったら一時間は難解な解説を聞かされただろう。それでもさくらにはチンプンカンプンだったのだが。実の所、さくらには理解できないとわかっていたから大神は簡単であっても一応本当の事を説明したのである。紅蘭が相手だったら適当に誤魔化していただろう…

「ところでさくらくん、何の用なんだい?」
「えっ……?」

 可哀相に、すっかり混乱しているさくら。いきなり霊子技術の専門的な解説を受けたのだ、無理も無い。

「えっと、あのっ…あっ、そうでした」

 途端に逡巡が甦る。

「さくらくん、俺に出来ることなら何でも相談に乗るよ?」

 言いたいことがあるけど言い難い、そんな様子でもぞもぞしているさくらに大神が助け船を出す。

「いえ、あの、そうじゃないんです…あのっ、大神さん…」
「うんっ?」

 晴れた日の穏やかな大海原のように何もかも受け容れる、そんな包容力を感じさせる大神の微笑みに、意を決してさくらは切り出した。

「明日のことなんですけど、私も連れていってもらえませんか?」
「さくらくん…」

 大神が困ったような顔になるのを見てなけなしの勇気が萎んでいくのをさくらは感じたが、自分を鼓舞して一気に言葉を続けた。

「私、きっとお役に立ちます。お役に立てるように頑張ります。大神さんのお力はわかっていますけど、でもやっぱり一人じゃ、私なんかが出る幕じゃないと思うし、かえって足手まといかもしれないけど、あれっ?」

 緊張のあまり混乱して自分が何を言っているのかわからなくなったようだ。あたふたとしたその意外と子供っぽい仕種に大神の表情が緩む。

「さくらくん、ありがとう。心配してくれるんだね」
「いえ、そんな…」

 照れもせずに真正面からそんな事を言われて、かえってさくらの方が赤面してしまう。

「でも、やはり明日は俺だけで行くことにするよ」
「やっぱり足手まといですか…?」
「いや、さっき色々言ったのは実の所口実に過ぎないんだ。俺は…なるべく君達を危険な目にあわせたくないよ」
「大神さん…」

 益々赤くなって俯くさくらだが、あることに気付いてはっと顔を上げる。

「大神さん。じゃあ大神さんも危険があると思っていらっしゃるんですね?」

 意外と鋭いさくらの指摘に大神が苦笑いする。

「偵察というのはいつも危険なものだよ、さくらくん。偵察任務には交戦とは違う、独特の危険が付きまとう。慣れない兵士には務まらないんだ」
「だったら大神さんだって…」
「務まらないと思うかい?」

 これはちょっと意地の悪い質問だ。たちまち黙り込んでしまうさくら。手をぎゅっと握って俯いてしまう。その顔には「大神さんの意地悪」とはっきり書かれていた。

「ごめんごめん、ずるい言い方だったかな?でも大丈夫だよ」

 やけに自信ありげな大神の台詞。

「大神さん、そんなことまで出来るんですか?」

 士官学校という所はそこ迄多くのことを教え込むのだろうか。

「俺の親父は山育ちでね。子供の頃は親父から山の生活について、ずいぶんいろんな事を仕込まれたよ。猟の手順、罠の張り方や獲物の追い方、危険な獣を避ける方法、身を隠す技。野生の獣を相手にする技術は斥候の技術と相通じるものがある。実際、任官してから偵察任務についたことがあるけど、その時の技がちゃんと役に立ったからね」

 尋ねられる前に、また本当ならその必要もないのに、大神は自分から自信の背景を説明する。部下だから、年下の少女だからといって蔑ろにしたりはしない。それが大神という人物だ。だが、それよりも自分のことを話してくれたことが何故かさくらには嬉しかった。大神が家族のことを話すのは始めてだ。別に隠している訳ではないだろう。それでも、極々個人的なことだから尋ねるのも何となく憚られた。が、それを知りたいという気持ちは確かにさくらの中にあったのだ。

「大丈夫、無茶はしないよ」

 それ以上さくらには、何も言えなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大帝国劇場は上空から見ると劇場部分が大きく膨らんだ回廊型の構造になっている。南棟が劇場、西棟一階が食堂、二階がテラスとサロン、北棟一階が事務関係、東棟一階が楽屋や衣装部屋、大道具、小道具部屋等公演の裏側の為の部屋になっている。そして北棟と東棟の二階が劇場関係者の居住に供されていた。
 北棟、東棟それぞれに6部屋ずつ、合計12人が起居できるようになっている。これだけの広さに6人ずつだから一部屋一部屋がかなり大きいことがお判りいただけるだろう。だが、現在ここで暮らしているのは都合8人。東棟に花組の6人の部屋が、北棟に大神とあやめの部屋がある。
 大神は東棟の廊下を歩いていた。だが、夜の見回りにはまだずいぶん早い時刻である。

 コンコン

 ある部屋の前で立ち止まり、扉を叩く。

「どなたですの?」
「大神だけど」
「あら、少尉ですか。少々お待ち下さい」

 足音をたてず気配だけが扉に近づく。ほとんど音も無く開いた扉から姿を見せたのは、肩のあたりで切り揃えた日本人にしては色の薄い栗色の髪をカチューシャでとめ、紫色の振り袖を大胆に纏った、切れ長の双眸が印象的な華やかな美少女だった。ただ、扉を開けて出てきただけなのに周りの空気が染め替えられたように見える。一つ一つの些細な仕種までが鮮やかな、天性の華がある少女だ。大帝国劇場の(自称)トップスター、実際暴走する癖さえなければその名に恥じないと思う、神崎すみれである。

「お珍しいですわね、少尉の方からお見えになるなんて。何かご用ですの?」

 そっけない口調でそっけない台詞、だが、その切れ長の双眸がそれを裏切っている。すみれの両の瞳には隠しがたい喜びの光が踊っていた。
 そっけない口調にも熱いまなざしにも全く頓着しない風で、何かの話の続きのような感じで大神は口を開く。

「実は友人が紅茶を送ってきてね。結構上物らしいんだが、残念ながら俺には味が良く分からないからな。それで、すみれくんと一緒に楽しもうかと思ったんだけど」

 紅茶の缶を軽く振ってみせながら、さりげなく笑いかける大神。すみれが、つい引き込まれてしまう笑顔。人間関係にはどちらかといえば気難しい、不器用なところのあるすみれだが、大神の前ではどういう訳か身に纏う目に見えない甲冑が解けてしまうようだ。

「よろしいですわよ、わたくしが味見して差し上げますわ。どうぞお入りになって下さいな」

 普段のもったいぶった流儀も忘れて、すみれは大神を部屋へ招き入れた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「まあ、これはセイロン産の最高級品じゃありませんか。国内ではなかなか手に入りませんのに…気前のいいお友達ですわね」
「へぇ、そうなのか。戻ってきたら飯でも奢ってやらなきゃいかんかな?」
「戻ってきたら…?」
「ああ、そいつの部隊は今インドシナ方面へ派遣されているんだよ」
「…ああ、そうでしたわね。少尉は海軍の方ですものね。南方へ行かれているご友人の方がいらっしゃっても不思議はございませんわねぇ」

 やけに納得した様子ですみれが何度もうなずくのを見て、大神は少し情けない顔になる。

「そんなに意外かな…?」

(もしかして俺が海軍士官だったてこと、みんなには忘れられているのかな…)

「いえ、決してそのような…少尉が海軍ご出身だということを忘れたりはいたしませんわよ!?」

 …つまり、忘れていたということである。肩を落とす大神。だが。

「ただ、少尉がわたくしたちと一緒にいてくださるのが何だかすごく当たり前のことのように思えてしまって…おかしいですわね、まだお会いして半年にもなりませんのに…」
「すみれくん…」

 すみれの何気ない一言に大神は何と応えていいのかわからなかった。
 生死を共にした者同士が期間の長短に拘わらず強い連帯感を抱くのは広く見られることだ。だが、すみれのような少女たちが軍人である自分と生死を共にしているという事実はどう考えても理不尽なことだった。本当なら、彼女たちは自分などとは無縁でいられたはず、自分のような、罪深い軍人とは無縁でいるほうが幸せだったはず、大神はそう思ってしまう。だから、何も応えられなかった。

「少尉?どうかなさいましたか」

 口を閉ざしてしまった大神の顔を、微かな笑みをたたえたすみれが覗き込んでいる。

「そんなに気をお落としにならないで下さいな、少尉。普段はともかく、光武に乗っていらっしゃるときはちゃんと軍人に見えましてよ」
「……誉めてくれているんだよな?」
「もちろんですとも、オホホホホ」

 げんなりとした顔で聞き返す大神に明るく応えるすみれ。お得意の高笑いつきで。
 げっそりした表情を見せる大神に、すみれは手練の業を尽くした逸品を差し出す。立ち上る芳香と見事な琥珀色。口ではどんなにからかって見せても、すみれが大神をおざなりに扱うことは決してなかった。素直でないのは、どうやら口だけらしい。
 他愛もないおしゃべりで芳醇な味わいを楽しむ二人。カップの中が残り少なくなったころ、すみれがやや表情を改める。

「少尉、紅茶を飲むためだけにいらした訳ではございませんでしょう。何かお話がおありなのではございませんか」
「相変わらず鋭いね。すみれくん。だけど、そこまでわかるんだったら俺が何を話にきたのかも判るんじゃないかな」

 対する大神はまったく表情を変えずに茶飲み話の続きのような口調で応える。だが、目の色だけは真面目だった。

「カンナさんとのことですわね…ですが、少尉のお執り成しでもわたくしの方から頭を下げることだけはできませんわ」

 途端に表情が硬くなる。頑な、と言ってもいいだろう。そんなすみれを見ながら、むしろのんびりとしたと言っていいような調子で大神は口を開いた。

「別に仲直りしろというつもりはないし、ましてや頭を下げろと言うつもりなど毛頭ないよ?」
「えっ…?では、一体何を…」

 頭の回転が速いすみれは、はるかに歳が上の者を相手にする社交界でも意表を突かれたことはあまりない。だが、大神と話をしていると予想を外されることばかりだ。

「うん、すみれくんはカンナのどこが気に入らないのかと思ってね」
「別にカンナさんが特別気に入らない訳ではありませんわ。何度も何度も失敗にわたくしを巻き込むのが我慢できないだけです」

 気色ばんだ様子ですみれが応える。大神の問いが心外だったというだけにしてはいささか過敏な反応だ。

「そう?だったらいいけど」

 だが、相変わらず大神はのほほんとした感じで紅茶の残り香を嗅ぎながらついでのように言葉を返す。柳に風、暖簾に腕押し、これではすみれも、いつまでも尖がってはいられない。ふっと小さく息をつく。

「少尉、おかわりはいかがですか」
「そうだね、頂けるかな?」

 大神からカップを受け取り、ポットから琥珀の液体を注ぎ込む。ソーサーの上にカップを戻しながらすみれは全く脈絡の無いことを尋ねた。

「少尉、少尉がご年少の頃のことをお聞かせいただいてよろしいでしょうか…?」

(おやおや、すみれくんもか)

 ついさっき、さくらに子供の頃の話をしたばかりである。偶然とは言え、面白いものだ。

「何を話せばいいのかな」

 もちろん、大神にも話せることと話せないことがある。

「少尉がお小さい頃、ご両親はよく少尉の相手をして下さいましたか…?」
「…そうだなあ。親父はよく相手をしてくれたな。と言っても、しごかれたという意味でだけど。お袋は、家のことで忙しかったな」

 しみじみとした調子で語る大神の話にじっと耳を傾けるすみれ。

「家は薬屋でね。親父が山から薬草を採ってきて、お袋が店を切り回していた。だから親父が相手をしてくれたといっても仕事の手伝いが半分だったな。普段親父が山にこもっている分、家のことはお袋が全部やっていた。そう言えば、お袋に構ってもらった記憶は余り無いな…でも、男の子なんてどの家でもそんなもんだろう。子供にばかり手を掛けてはいられないからね」
「そうですか…」

 すみれがとても寂しげな目をしている。そのさまは、大神に同情したというだけにはとても見えない。

「すみれくん?」
「少尉、これからわたくしが話すこと、誰にも言わないって約束してくださいますか」
「ああ」
「そうですわね…少尉は無責任なお喋りをばら撒く方ではありませんでしたわね…」

 少しの間。大神は何も言わない。急かす素振りも見せない。

「…わたくしの父は神崎重工の社長。母は活動写真のスター。二人とも、娘の誕生日にさえ家にいられないほどの忙しさでした」
「……」
「大勢の招待客と大勢の使用人たち。賑やかなパーティー、豪華なプレゼント。確かに恵まれた少女時代だったと思います。少尉のおっしゃる様に、普通の家庭ではパーティーなんて開いてもらえませんものね。ここで暮らし始めて、わたくしにもそれがわかってきました」

 大神はただ静かにすみれを見ている。見守っている。

「ですが、パーティーが賑やかであればあるほどわたくしの中では寂しい気持ちが強くなっていきました。これだけ大勢の人が、自分の娘でもないわたくしの為に来て下さっているのに、父も母もわたくしの側にはいてくれない。今ではつまらない子供の僻みだと思いますわ。でも、わたくしはあの時の、寂しくて泣きたかった、でも涙を流せなかった子供のわたくしを忘れることが出来ずにいるのですわ、きっと…。……わたくし、どうかしてますわね。何故こんな話を…」
「カンナが羨ましい?」
「なっななな、何をおっしゃいますの、少尉!そんな訳ないじゃありませんか!!」

 大神の一言に激しくすみれが動揺する。自分でも思っても見ないほど心乱れるすみれ。羨ましいなどと思ったことは確かに一度もなかった。なかった筈だ…

「自慢の親父さんだからな、カンナの父上は。いつも付きっ切りで空手を教えていたらしいし」
「少尉!」
「…だけど、修行だけの親子関係というのも寂しいものだよ…」

 大神が口にした言葉の内容よりもその口調にはっとするすみれ。それはカンナを弁護したものとは思えなかった。他人を弁護したものとは到底思えない切実な響きを持っていた。

「まあいいさ。好き嫌いは理屈じゃないし、他人が言ってどうなるものでもない」

 一瞬後には元の口調に戻って大神は話を戻す。

「少尉、ですから嫌いなわけではないと…」
「そうか、それならいいんだ。じゃあすみれくん、ご馳走様。でも、やっぱり俺には紅茶の味はよくわからないな。せっかくの品がもったいないから、残りはすみれくんが使ってくれよ。お邪魔したね」

 引き止める言葉を挟めない絶妙の間で大神は立ち上がり部屋を後にする。閉じた扉をじっと見詰めるすみれ。

(わたくしはカンナさんが羨ましかったのかしら…)

 扉の向こうに消えた大神の残像を見詰めながら、すみれは気付かなかった自分の気持ちについて考えていた。

(そういえば、あの時からですわ…)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 …その日、8月公演、西遊記の稽古も仕上げの段階に入っていた。珍しく時間が出来た大神が通し稽古を見に来ていて、すみれもカンナも思わず力が入っていた。

 パチパチパチパチ

「二人とも見事なものだなぁ。すばらしい身のこなしだ」

 最後の殺陣を終えた二人に衒いの無い賞賛を投げかける大神。

「すみれくん、長刀だけじゃなかったんだね。それだけの動きが出来るなら、無手でもすぐに目録位の腕にはなれるんじゃないか」
「当然ですわ、このすみれ、どこかのお鈍さんとは違いますもの。知性教養だけでなく、ダンスや護身術にも通暁していなければ真のレディとは言えませんわ。オーホホホホホ」

 「どこかのお鈍さん」とは誰のことだろう。とにかく、何と応えていいのやらわからず、大神には笑って誤魔化すことしかできない。
 これ以上話題が危ないほうへと進むのを避けるように、大神はカンナに話を振った。

「カンナも空手だけじゃないんだなあ。実のところ、すみれくんが無手でカンナが棒というのは逆じゃないかと思っていたんだが。カンナは棒術もたいした腕なんだね」
「隊長、意外とわかってねえなあ。空手と棒術は表裏一体、空手家は本来、棒術も学ばなきゃいけないんだ。そうでなきゃ、本物の空手家とは言えないんだぜ」
「へぇ…」
「あたいの親父は本物の空手家だった。棒術の方も達人の腕前だった。その親父からみっちり仕込まれたんだ、この位、出来て当然だぜ」
「なるほど、桐島流棒術というわけか。君の父上は君に自分の全てを注ぎ込んだんだね」
「よせやい、そんな言い方。照れるじゃないか。まあ、朝から晩までしごかれたのは事実だけどな」

 ………

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(あの時からですわ…あの話を聞いてから、わたくしはどこか、カンナさんにわだかまりのようなものを感じていたのかもしれない…少尉、あなたにはわたくし自身にもわからないわたくしの心がおわかりになりますの…?)




その4



「チェストォ!」
「ほっ」
「トォリャァァ!!」
「よっ」
「……隊長、その掛け声、何とかならねえか?気合が抜けちまうぜ」
「ははっ、悪い悪い」

 構えた手を下ろして呆れ顔で文句を付けるカンナに大神は頭に手をやりながら謝った。決してふざけている訳ではないのだが、確かに気が抜ける掛け声かもしれない。もっとも、相手の気勢を逸らす技に伴うものだからある意味当たり前なのだが。

「この位にしておくよ。悪かったね、カンナ。付き合わせてしまって」
「もういいのか?あたいはまだまだ全然構わないぜ」
「いや、それじゃ逆効果だ。ありがとう」
「いいってことよ。あたいも練習相手が欲しかったからちょうど良かったよ」

 カンナが彼女らしい太陽のような笑顔を見せる。大神だけに向かって。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大帝国劇場地下、帝国華撃團銀座本部鍛練室。薄らと浮かんだ汗を手ぬぐいで拭っている長身の若い男と空手着を纏った更に長身の影。大神とカンナだ。

「でも隊長の方から声を掛けてもらえるなんて、なんだか嬉しいな」
「そう言ってもらえると助かるよ」

 二人が稽古しているのは珍しくないが、どうやら今日は大神の方から声を掛けたらしい。

「明日は久々に無手の体術が必要になるかもしれないからね。少し体を慣らしておかないと」
「なんだい、だらしないぜ、隊長。鍛練ってのは毎日の積み重ねがものを言うんだ。一夜漬けじゃいざって時に役に立たないぜ?」
「面目ない」

 カンナの正論に苦笑いする大神。だが、カンナも真面目に言っている訳ではない。明らかに冗談で言っていると判る笑い顔だ。大神がその激務にも拘わらず、一日たりと鍛練を欠かしたことが無いのをカンナもよく知っていた。

「それにしても、相変わらず隊長の守りは堅いなあ。まるであたいの次の動きがわかってるみたいだ」
「うーん、なかなかその境地には辿り着けないな。相手が技を出す前に相手の攻め手を封じることができれば理想的なんだけどね」
「へぇ、そんな事が出来るのかい?やっぱり、相手の気の動きを読んだりするのか?」

 興味津々という様子でカンナが尋ねる。カンナは昔、そういう相手と闘ったことがあった。

「いや、それは技の起こりを読むということで予め技を見極めるのとはまた違う。気が動くということは相手が既に技に入っているということだ。そこから動いたのでは、相手の技を防ぐことは出来ても相手に技を出させない様に封じることは出来ない。相手が技に入る前に、相手が技を出せないように動くことが出来れば相手を闘えない様にすることが出来る。そうすれば、どんな相手であろうと負けることはない。闘わずして勝つというのは、きっとそういう境地のことなんじゃないかな」
「闘いを避けるのではなく、相手を闘えない状態にしちまうってことか!なるほどねぇ…」

 しきりに肯くカンナ。それは、すごく新鮮な考え方だった。戦わずして勝つのが兵法の上策と言われているが、それは闘いの技を磨くことに生きるカンナには承服できない常識だった。戦わないことがえらいのなら、自分たち武道家は何の為に技を磨くのか。だが、相手に闘いをさせない程の域にまで己の技を高めることが戦わずして勝つということだ、そう大神は言うのである。自分はただ、誰よりも強くなりたいと思っているだけ、誰と闘っても勝てる力と技を身につけることが自分の目指す頂だった。だが大神が見上げている山は、最も尊敬する武道家である父親の口からも聞いたことの無い、高い高い理想の境地である。自分とほとんど同い年なのに、これ程迄目指している頂上の高さが違うというのはカンナにとってかなり衝撃的だった。

「なあ、隊長、一つ聞いてもいいかい?」
「ああ、何だい?」
「隊長は誰に武術を教わったんだい?やっぱり子供の頃から修行してたんだろう?」

(おやおやまたか。今日はよくよく子供の頃の思い出話に縁があるらしい)

 心の中で目を丸くする大神だが、顔には出さず表面上は素直に答えた。

「剣術と組打術は母方の爺さんから、体術は親父から仕込まれた」
「体術?武術じゃなくて?」
「親父は元々山の人間でね。仕込まれた体術というのは山の中を駆け巡り、山で生きる技術だよ。つまり、生き延びる為の術を親父から、闘う為の術を爺さんから叩き込まれたことになるのかな」
「へぇ…厳しい修行だったんだろうな」
「そうだね、今にして思えば厳しい修行だったな。毎日それこそ日が暮れるまで、時には夜中までしごかれていたからなぁ。でも当時はそれが当たり前だったからね…考えてみれば、同じ年頃の子供と遊んだことなんてほとんど無かったなあ」
「…へえ、隊長もか……」
「カンナ?」

 どこか遠い眼差しになるカンナ。珍しく感傷に浸っているような風情に、大神は戸惑ってしまう。

「…あたいもそうなんだ。ガキの頃から修行、修行、とにかく修行。親父の口から、空手以外のことを聞いたことなんて一度だって無かった。親父の背中を追い続けて、走り続けて…仲良さそうな親子連れや、大勢で遊んでいる同じ年頃の子供達が、時々無性に羨ましかった…」

 しみじみと語るカンナ。やはり、カンナの中にも武道家として以外の、少女だった頃の桐島カンナがいるのだ。当たり前のこの事実を、改めて再認識した大神は慈しみのこもった眼でカンナを見詰めていたが、ややあって口を開いた。

「今でも羨ましいかい?例えば、すみれくんが」
「なっ、なに言ってんだ、隊長。そんな訳ねえだろ!」

 大神に食って掛かるカンナ。人が本心を見透かされたときに共通の慌て振りで。
だが、大神の無言の視線に段々と自信無げな顔付きになっていく。

「…あたいはすみれが羨ましいのかな?なあ、隊長、どう思う。あたいは心の底じゃあすみれを羨んでいるんだろうか?」
「……」

 大神の応えはない。だが、カンナはかまわず続けた。まるで、独り言のように、自分に言い聞かせるように。

「どういう訳か、あたいはすみれの言うことだと腹を立てなくてもいいようなことまで腹が立っちまう。他のやつの口から出たんだったら笑って聞き流せるようなことでも、すみれのあの調子でいわれると無性に腹立たしくなるんだ。いままでは、あいつの高飛車で人を人とも思わないような物言いの所為だと思っていたけど、あたいの中にも何か含むものがあったのかな…?」
「よく、人は自分の心が一番わからないというけど、でもやっぱり、自分の心は自分にしかわからないものだよ。俺に出来るのは問い掛けることだけだ。答えは、自分で見つけるしかない。
 ただ、これだけは言ってあげられる。並大抵の想いでは、誰かを育てるということは出来ない。カンナの父上は君を一人の人間として育て、その上一人前の武道家として育てた。父上の愛情は、誰に劣るものでもないよ」

(それは隊長自身の経験かい…?)

 上辺だけの道徳論ではありえない実感のこもった大神の口調。だが、それを口に出すことは出来なかった。そこまで立ち入る勇気が無かった。

「ああ…よく考えてみるよ」

 カンナには、そう言えただけだった。

「そうだね、ゆっくり考えてみるといいよ。じゃあまた明日。もう遅いから、カンナも早く休めよ」
「お休み、隊長」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(二人とも、少しは落ち着いてくれればいいが)

 作戦室へと歩を進めながら、大神はすみれとカンナのことを考えていた。彼は二人が芯から嫌い合っているとは見ていなかった。今度の公演が始まってから何かむきになっているようなところが、特にすみれの方に見られる様感じていた。何故毎日のようにいがみ合っているのか、一度冷静になって自省してみれば落ち着くのではないか、それが大神の考えだった。
 もっとも、その原因がお互い相手の中に自分の得られなかった少女時代を見ていた故の羨望であったとは、本当のところ彼にはまだわかっていない。寂しさを埋めるものを求めている者同士の近親憎悪に近い感情だということは、大神には理解できないことだった。彼は、生来の卓越した才能と特殊な教育環境の所為で、嫉妬や羨望といった感情を知ることなく育っていた。軍隊という人の集団を統率する者として、嫉妬や羨望という感情について学び、理解はしていたし、その対処方法も心得ている。だが、それは全て知識でしかなかった。自分自身が嫉妬・羨望を抱くこと無いが故に、他人のそうした心の動きにどうしても鈍感になってしまう傾向がある。実感することが出来ない為、感情の奥底に潜む根深い心の動きに同情することができない。寂しいという気持ち、愛するという気持ち、怒り、慈しみ、そうした感情には人一倍豊かな人間であったが、人間の最も強い感情である嫉妬と憎悪に欠けているところがある。それ故に、余りにも公平に、余りにも公明正大に他人に相対してしまう。それは大神一郎という人間の数少ない、だが最大の欠点であったと評されている。彼はその生涯を通じて情実人事で非難されたことはないが、逆に能力、実績のある者を徹底して登用した為、普通とは逆の意味で「贔屓だ」との歪んだ逆恨みを受けることも少なくなかった。帝国華撃團当時の彼は、そうした事に悩まされることはなかった。だがそれは部下となった少女たちの無私の献身あってのこと。軍という組織の中で地位が向上するに連れ、彼には多くの人望と、称賛と、心酔と、そして嫉妬と逆恨みと敵意が寄せられることになる…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(さて、休む前にもう一度深川の情報を検討しておくか)

 彼が作戦室に向かっていたのは、先程あやめから渡された資料が作戦室にあるからである。別に置き忘れたわけではない。紙の資料だけではない為、部屋にもって帰っても無意味だったのだ。

「マリア、こんな遅くにどうしたんだ」

 作戦室には先客がいた。黒衣と、対照的に眩しいプラチナブロンドの髪の麗人、マリアである。

「隊長がいらっしゃると思いまして…」
「俺を待っていたのか?」
「はい、明日のことで少し打ち合わせをしておきたいと思いまして」

 だが、打ち合わせといわれても特に作戦があるわけではない。敵の布陣からしてよくわかっていないのだ。それ故の偵察である。心の中で首を捻りながらも大神は作戦卓の前に腰を下ろした。

「失礼かとは思いましたが、現時点における報告書を読ませていただきました」

 いきなり本題に入るマリア。

「隊長、かなり危険な任務です」
「……」
「当然隊長にはおわかりの筈です。この報告書は一人の手によるものではありません。かといって、共同調査にしては一貫性に欠けています。この調査では、既に何人かが犠牲になっているものと推測されます」
「…三人だ。あやめさんから教えてもらった」
「…やはりそうでしたか。隊長、それでもお一人で行かれるのですか?」
「ああ。地図でわかるとおり、問題の屋敷周辺の地形は複雑だ。光武が簡単に降下できる場所じゃない。もし敵に包囲されるようなことがあっても、救援は簡単ではないだろう」
「でしたらなおのこと…」
「いや、だから俺独りで行くんだ。一人の方が見つかる危険も少ないし、脱出も容易だ。勘違いしないでほしいが、君達が足手まといだと言っているんじゃない。これは向き不向きの問題だ」
「……隊長、お願いですからそんな嘘は止めて下さい。隊長は私達を危険な目に合わせたくない、それがご本心なのでしょう!?たまにはご自分のことも考えて下さい」

 マリアの口調は静かであった。だが、苦しさを堪えている、そんな静けさであった。大神の身勝手な優しさは、残された者の気持ちを考えない優しさはマリアを苦しい気持ちにさせていた。それはかつての悪夢に結びつくからだろうか?それとも?

「マリア、確かに君の言う通り、それが一方の理由だ。だが、俺が言ったことも嘘じゃない」

 揺るぎ無い自信に満ちた表情で断言する大神。

「ですが…、!」

 そしてそれは唐突に起こった。尚、反論しようとしたマリアの前で、大神の姿がいきなり消えてしまったのだ!

(そんな馬鹿な!隊長には幻術や瞬間移動の力はないはず…)

 半ば腰を浮かせたまま、驚愕に凍り付くマリア。マリアには霊力や妖力の流れを「見る」力がある。この世のものならざるものを暴き出す「浄眼」の力。だから余計に、自分が大神の姿を完全に見失ってしまったことが信じられなかった。

「これで少しは安心してもらえたと思う」

 不意に横合いから声を掛けられて反射的に立ち上がり銃を抜きそうになるマリア。その手を大神がすばやく抑える。それほどマリアは動転していた。

「す、すみません、こともあろうに隊長に銃を…」

 すっかり狼狽してしまっているマリアの手を抑えたまま、見る者に安心を与えるいつもの、力に溢れた笑顔で大神は首を振った。

「いや、今のは俺の方が悪い。完全な不意打ちだったからね。だから気にしないでくれ」
「は、はい…」

 ようやく少しは落ち着いてきたものの、驚きは薄れない。

「隊長、今のは一体…隊長は姿を消す術が使えたのですか?」
「いや、今のは法術でも妖術でもないよ。何の力も感じなかっただろう?」

 そうなのだ。それこそ、マリアが驚愕から抜け出せない最大の理由。光武であれほどの霊力を操る大神だから生身でも術の一つや二つ使えた所で何の不思議も無い。寧ろ、何の力も無いという方が不自然である。だが、今大神が示した技からは何の力も感じられなかったのだ。
 返事の出来ないマリアに大神が信じ難い種明かしをする。

「人はものを目だけで見ている訳じゃない。感じ取る力の強弱はあるにせよ、人はモノの放つ存在感、「気」を同時に見ているんだ。だから気配を空気の流れに完全に同化させてしまえば、人は目に映っているものも「見えない」と感じてしまう。単なる錯覚なのだが、感覚の鋭い者ほど騙されやすい錯覚だ。注意して見ている者ほど見えなくなる隠形なんだよ」
「そんなことが…」
「身を隠すなら本当は気配を消してしまっては駄目なのだ。彩色された景色の中でその部分だけ透明な影が出来てしまう。周囲の気配に同化してしまえば何かがあると感じられなくなる。見えないけど確かにある空気に気配を同化させれば、確かにそこにいるのに見えなくなる隠形が可能になる。現に今、俺がやったことは椅子から滑り落ちて一瞬机の陰に隠れただけで、後は立ち上がって君の横まで普通に歩いて来たんだよ」
「隊長、あなたは一体…」
「これは法術ではない。体術だ。野山で戦うことを前提とした兵法や、山で狩りをする者の間に伝えられる技術なんだ。子供の頃から正しい訓練を積めば、程度の差こそあれ誰でも出来るようになるんだよ。ただ、里ではそうした技術があることすら忘れられてしまっているだけなんだ」
「………」

 マリアの口からは最早疑問の言葉も出て来ない。大神の自信が決して虚勢ではなく、確かな「技」に裏打ちされたものであることをマリアは改めて思い知らされていた。

「明日は予定通りだ。マリア、花組の指揮を頼んだぞ」

 マリアは頷くことしか出来なかった。




その5



『翔鯨丸、こちら大神。現在屋敷前。何か判ったか。』
『屋敷より霊力の放出を探知。性質については不明。但し、妖力にあらず』
『了解。これより内部へ侵入する。』

 大神は通信機から指を離し懐へ仕舞い込むと、慎重な足取りで、かつ物好きな市民がたまたま散歩に来ているというような自然な歩調で屋敷へと近づいていった。
 ちなみに、先程の通信は勿論、音声によるものでは無い。いかに華撃團の技術力をもってしても、この当時目立たぬほどに小型の携帯通話機を作ることは不可能だった。大神は電波・霊子波複合発信機(築地でマリア救出の際使用したもの)を改造したモールス信号による無線通信機を技術班に作らせていた。指でボタンを叩くことにより発信し、振動板の動きを指先で読み取ることにより受信を解読するのである。操作がかなり難しいものの、これなら傍受どころか感知も難しい上、声を出す必要が無いので隠密行動にはもってこいだ。その着想の単純さと実用性の高さに花屋敷の技術者たちは一斉に感嘆の息を漏らしたと言う。もっとも、大神以外の者がこんな簡単な発明を思い付かなかったのには訳がある。帝国華撃團には軍人として正規の訓練を受けた者は少ない。技術者たちと交流の機会があるとなれば、大神くらいのものだ。そして、ライターほどの大きさの本体を手の平の中に持ったまま指先だけでモールスを打つなどという芸当は、余程訓練された人間にしか出来ないのだ。まして、微妙な振動でモールス信号を読み取るなどということは。自分で出来ない限り、そんな使い方を思い付かなくても当然なのである。
 この時翔鯨丸は問題の屋敷からやや離れた地点の上空に待機していた。空に特有の迷彩を纏って。つまり、雲である。霊子力は純粋な水と反応し、水の運動を制御できる性質がある(水分子の、ではない。概念、あるいは形相としての『水』)。光武と同様蒸気・霊子併用機関を動力とする翔鯨丸にとって機体の周りに蒸気の層を張り巡らすなどさして難しいことではない。自ら雲となって漂うのは空を行く霊子装甲飛行船・翔鯨丸にとって最も効率的で効果的な目くらましであった。

「お兄ちゃん、大丈夫かなぁ」
「そうね、大丈夫よ、きっと」

 翔鯨丸の艦橋から、外の様子を眺めながら(と言っても、人工の雲に覆われて何も見えないのだが)呟くアイリス。これに応えるさくらの表情にも不安の色が浮き出ている。いや、最も心配そうな顔をしていたのはさくらだったかもしれない。そんなさくらの方を振り返ってマリアが口を開く。

「大丈夫よ、さくら。隊長を害することが出来るものなどいないわ」

 それは慰め、力づけるというには妙に断定的な言い方だった。あやめも含めた全員が黙り込むほどの何かが込められた、一人危地に乗り込む仲間を見守るこの場には相応しくない、畏れすら含んだ口調。

「そっ、そうだぜさくら。隊長が不覚を取るなんて万が一にもありえないって」

 奇妙な沈黙を取り繕うようにカンナが明るい口調で続ける。もっとも、カンナは半ば以上本気でそう思っていたのだが。そんな根拠の無い信頼すら大神に対して感じるようになってきた自分をカンナは自覚していたかどうか。
 ふと、視線を感じてカンナは振り向く。そこにはカンナを見詰めるすみれの双眸があった。つい条件反射で「何だい、なんか文句あるのかい」と言おうとして、すみれの視線の中にいつもと違う光か込められているのに気付いた。当惑したような、自分の感情を決め兼ねているような色合い。

「隊長が屋敷内に侵入したで」

 受信機で信号を追っていた紅蘭が全員に注意を促す。

「さあっ、皆、配置に就いて!」

 あやめの指示。すみれは一瞬口を開きかけて、何も言わないまま自分の持ち場へ向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『屋敷内には至る所に呪符が貼り付けられている。妖力は感知できないか。』
「黒之巣会の連中、何やら呪符を貼って回っとるらしいで」
「すみれ、何か判る?」

 大神から送られてきた通信を翻訳した紅蘭の報告に、あやめが霊子探知器に就いているすみれへ尋ねた。霊子機関装置は霊的現象を機械的に起こすものであり、その動力源はあくまでも操作する者の霊力である。従って、探知機器は霊的感覚の鋭い者でなければ十分な性能を発揮できない。花組の中で感覚が鋭いのはすみれ、マリア、アイリスだがマリアは視覚、アイリスは意味という明確な形で知覚するのに対し、すみれは漠然とした「感じ」をそのまま知覚する。「気」を探知するような場合はすみれが最も向いているのである。

「屋敷の発する霊力が弱くなってきているようですわ」

 すみれの分析を紅蘭が大神に伝える。

『了解、この呪符は霊力を封印するものと仮定。調査を続行する。』

 即座に大神から返信があった。つまり、まだ敵と遭遇していない様である。艦橋では緊張が徐々に高まっていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「マリア」
「あやめさん」

 艦橋を紅蘭たちに任せ、機関室の様子を見に行く途中、あやめは格納庫から上がってきたマリアと廊下で行き会った。周りには誰もいない。

「マリア、どうしたの?さっきはあなたらしくなかったわよ」
「すみません…あの、あやめさん」
「何かしら?」
「私と隊長はほとんど歳が一緒です」
「ええ」

 マリアに似合わぬ遠回しなものの言い方。一体何を言おうとしているのであろうか。この時、マリアはあやめを見ていなかった。目に見えぬ何かに問い掛けているかのようだった。

「一体どうやったら、あれ程の力が身につくのでしょう。私は子供の頃から戦場に立っていました。実戦の経験では、失礼ながら隊長よりも私の方が遥かに豊富な筈です。また経験だけでなく、私は自分のことを有能な戦士だと思っていました。決して己惚れだとは思いません。にも拘わらず、戦士としての技量にこれほどの差があるなんて…」
「大神君があなたよりも優れているということ?」
「遥かに、です」
「…何かあったの?」

 そこでマリアは昨夜のことをあやめに打ち明けた。別に口止めされなかったということもあるが、自分の受けた衝撃を誰かに告白したかったのである。

「…それは忍術ね…」
「忍術?」
「ええ、戦国時代の頃から、主に偵察や撹乱を任務とした特殊な戦闘集団の間で伝えられた技術よ。今でも数少ないながらその技を伝える者達がいるわ。例えば月組の隊員達…」
「月組の隊員にも同じ事が?」
「…出来ないでしょうね。何の仕掛けも無く、ましてあなたの目を欺くなんて。恐ろしく高度な技だわ。長官はご存知だったのかしら…それで、あなたは大神君に自分の力が及ばないことにショックを受けていたの?」

 それこそマリアらしからぬことだ。

「いいえ…私は恐いんです。隊長に任せておけば全て上手く行くと思い始めている自分が。何もかも隊長に委ねてしまおうという心が自分の中に育ち始めていることが。自分が…弱くなってしまいそうな気がするんです」

 全くあやめらしくも無いことだが、この時あやめは掛ける言葉を持っていなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 背筋を伸ばして座り、目を閉じたまま微動だにしない。光武の前でさくらはじっと黙想していた。見ているのが辛くなる程張り詰めている。

「さくら、今からそんなに気張ってたんじゃ本番まで持たないぜ」

 格納庫に入ってきたカンナがそんなさくらの緊張を解きほぐそうと声を掛ける。

「カンナさん…そうですね」

 だが、さくらは言葉少なくこう応えただけだった。その微笑みもどこかぎこちない。再び光武に視線を戻す。但し、今度は白い光武に。祈るような視線。見ている方の息が詰まりそうになる程真摯な表情。

「大丈夫だって。隊長の腕はさくらが一番良く知ってるじゃないか」
「ええ…わかっています。私も大神さんの力を信じています。でも、今まさに大神さんが危険な目にあっているかもしれないのに私には待つことしか出来ない。紅蘭やすみれさんは大神さんの役に立っているのに…」
「さくら…」
「だめですね、こんな事じゃ。大神さんは待機する様おっしゃったんだもの。信じて待ってないといけませんよね?」

 にっこり笑うさくらの笑顔にはどこか無理があった。

「そうさ!それにあたいたちにはあたいたちにしか出来ないことがあるって。艦橋へ戻ろうぜ、さくら。ここにいてもしょうがないぜ。出動するにはどうせ翔鯨丸の高度を下げなきゃいけないんだから」
「そうですね」

 素直に頷くさくら。カンナにはその一途さと素直さが何となく眩しかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 花組全員が艦橋に顔を揃えていた。すみれは探知器の前でわずかな変化も見落とすまいと意識を集中し、紅蘭は受信機の前で大神の身につけた発信機の信号を片時も逃さず追いかけ、時折入る慣れないモールス通信に懸命に対応している。アイリスは先程からずっと窓の外を見ている。大神に言われた通り、何も見えない窓の外に何かを見つけようと心を凝らしている。残りの三人は大神の指令をただじっと待っていた。

「なっ、何ですの、これは!」

 突然、すみれが驚きの声を上げる。

「そんなっ!」

 同時に紅蘭も。

「どうしたの、すみれ、紅蘭?」

 鋭くマリアが尋ねる。

「屋敷から立ち昇っていた霊力が消えてしまいましたわ!同時に妖力が急激に膨れ上がっています!!」
「紅蘭、至急隊長に連絡」

 すみれの報告にマリアが直ちに指示を出す。だが、返ってきたのは慌てふためいた、そして一同を慌てふためかせる返事だった。

「それがっ、大神はんからの信号が消えてしまいましたんや!えいっ、このっ、だっ駄目や。やっぱり通じへん!!」
「!」
「どうします、マリアさん!?」
「考えるまでもありませんわ!すぐに出撃しましょう!」

(周りに注意してくれって言われてましたのに…)

 焦るすみれは最早走り出す体勢である。

「いや、隊長の連絡を待った方がいいぜ!闇雲に出撃して見当違いの方向だったらかえって隊長の所に駆けつけるのが遅れちまう」

(そうさ、隊長に万が一のことなんてあるもんか!)

 必死で自分に言い聞かせて焦る気持ちを抑えるカンナ。武の道に在る者として、焦りが時に致命傷を招くことをよく知っていたから。

「カンナさんっ!あなたは少尉が心配じゃないんですの!!」
「お前こそ隊長が信じられないのかよ!!」

(心配じゃない訳ないだろう!!)
(信じていますとも!でもそれとこれとは別ですわ!!)

 左右対称、互いの心を鏡に映した感情を抱いて二人は睨み合う。相手が同じ気持ちでいるとは気付かずに。

「二人とも止め…」
「止めて下さい!喧嘩なんてしてる場合じゃ無いじゃないですか!!」

 あやめが止めに入ろうとした台詞に被せるようにさくらが叫ぶ。いつもとは比べ物にならない迫力、睨み合っている二人が互いの視線を外してさくらを呆然と見やるほどの気迫だった。

「大神さんに何て言われたか忘れたんですか!?私はいざという時に駆けつけてくれって言われました。それはきっと、私の光武が一番足が速いから。本当は、大神さんには私の手助けなんて必要無いかもしれない。でも、大神さんは言ってくれました。私達が必要だって、私達の助けが必要だって。みんなも聞いてたでしょう!!」

 それは昨日のことではなかった。一月前、大神がアイリスを説得する際口にしたことだった。少女達を危険に晒したくない、それでも戦場で花組を率いて戦わなければならない苦悩。それに耐えねばならない理由。

「私の出来ることは大神さんに比べれば少ししかありません。でも、私は自分に出来ることに全力を尽くしたいと思います。大神さんの信頼に応える為に!お二人は違うんですか!?」

 その気迫に、純粋な想いに圧倒された様に沈黙が全員を覆った。だがそれも一瞬のこと。

「機関室!蒸気演算機にできる限りの出力を回したってや!」

 紅蘭が伝声管に叫ぶ。そして艦載蒸気演算機の入力盤に両手をつく。演算機に制御補助の霊力を注ぎ込む為に。

「紅蘭?」
「うちの力は機械に命を吹き込むもの。大神はんがそう教えてくれたんや。うちはうちに出来ることをやる。うちの力で大神はんの居所を割り出したる!」
「紅蘭、アイリスがアンテナになるよ!アイリスがきっとお兄ちゃんの声を捉えてみせる!!」
「カンナ、さくら、光武出動用意!紅蘭が探知に成功したら隊長の所へ駆けつけるわよ!あやめさん、翔鯨丸を降ろして下さい」
「マリア…」

 マリアの表情からは先程の迷いと弱気がすっかり拭い去られている。

「私は隊長に花組の指揮代行を任されました。私も自分に出来ることをします」
「待った、マリア」
「カンナ?」
「すみれも連れて行った方がいい。細かい居場所の特定はすみれの感応力に任せる方が確かだ」
「カンナさん?」

 この指名に誰よりも驚いていたのは他ならぬすみれであろう。

「すみれ、あたいにはお前のような感応力はない。あたいには戦うことしか出来ない!隊長の所へ一秒でも早く駆けつける為にはお前の力が必要だ」

(カンナさん……)

 交差する二人の視線。だが、そこに反発するものはなかった。

「わかりました。ですがわたくしの力は余り遠くからでは少尉の霊波を感じ取ることが出来ません。あなたの言う通り、闇雲に出て行っても少尉を見失ってしまうだけでしたわ。紅蘭が大体の位置を割り出したら、後はわたくしが少尉を探します。その後は…あなたの出番ですわよ?」

 頷き合う二人、いや、四人。すみれはカンナと、さくらはマリアと。花組が大神の意志を介さずに心を一つにしたのは、これが始めてだったのかもしれない。

「見つけたで!屋敷裏の崖のあたりや!!」
「よくやったわ、紅蘭、アイリス!!さあ、出動よ!降下後、すみれが隊長の位置を特定したらさくら、隊長の救出に向かって!カンナはその援護。私とすみれは翔鯨丸と連携して陽動。この妖気なら間違いなく魔装機兵が出てくるわ。紅蘭、あなたは隊長との通信回復と隊長機の自動降下の手配。隊長が脱出したら隊長の光武と一緒に降りてきて。アイリスはその補助」

 マリアらしいきびきびした指示。

「行くわよ、皆!!」

 六人はそれぞれ自分のなすべき事をなすべく走り出した。




その6



「破邪剣征・桜花放神!!」

 その一途な心の如く、どこまでも一直線に走り抜ける霊力の奔流。清なる霊気の刃が魔装機兵の群れを切り裂き一筋の道を作る。

(大神さん、今行きます!)

 この向こうに大神がいる。さくらは確かに大神の存在を感じ取っていた。ほとんど大気と見分けがつかない透明な気配、自然と一体化した霊気。だがそれは、さくらが幼い頃から慣れ親しんだ懐かしい波動だった。今は亡き、敬愛する父の波動。
 すみれが苦心の末探知した大神の居場所に向かって光武を走らせたさくらは、程なくして求める独特の気配を感じ取った。さくらの霊力は作用力に偏っており、感応力ではすみれに著しく劣る。にも拘わらず、すみれがあれほど探知に手間取った大神の気配を少し近づいただけで自然に感じ取ることが出来たのは不思議である。大神が帝劇に来た時から、何故かさくらだけはこの透明な気の波動に敏感に反応していた。

「待てよ、さくら!一人で突出するな!」

 群がる魔装機兵を蹴散らしつつ叫ぶカンナの警告にも構わず、さくらは敵の直中自ら切り開いた一条の間隙へ踊り込み、光武を全速で進ませる。

(くそっ、さくらの奴、周りが見えなくなってやがる!)

 舌打ちして後を追うカンナ。しかし薄紅の光武は、襲い来る魔装機兵を跳ね除けながらであるにも拘わらず、真紅の光武を上回る速度で駆け抜ける。
 光武は武装の違いを除き、アイリス機以外は同一の設計で作られている。武装の違いによる出力分配の調整はされているが、基本的な機体性能に差はないはずだ。だが実際には、各機体で明確な特徴が現れていた。さくらの機体は移動速度が最も速く、カンナの機体は機械的な出力の上限が最も高い。すみれの機体は最も姿勢制御に優れており、マリアの機体は最も稼動限界時間が長くなっている(紅蘭の機体は大幅な改造が施されている為、もはや同一の設計とは言い難い)。これは霊子機関を使った機械の大きな特徴の一つだ。霊子機関は使う者の霊力を現象に変換する。そこには、駆動者の霊的特性が大きく反映される。そして霊子機関は同じ人間が継続的に使用することにより、駆動者の霊子波動に適応した霊子力場が形成されるようになっていく。残留思念ならぬ残留霊力場とでもいうものが蓄積されていくのだ。全く同型の霊子機関も使用を重ねることによって別の物となっていく。霊子機関が形成する力場の性質の違いが霊子甲冑の性能差をもたらすのである。

「大神さん!返事をして下さい!」

 大声で大神の名前を呼ぶ。あろうことか、外部拡声器で。敵に大神の名を知られるかもしれないという懸念をきれいに忘れて。
 魔装機兵を蹴散らし大神の気配へ向けてひたすら光武を駆るさくら。だがそれは、やはり無謀な行動だった。遠距離砲撃用魔装機兵「大筒」の榴弾がさくら機のすぐ脇で炸裂する。思わず体勢を崩す光武に群がる魔装機兵「足軽」。二体までは切り伏せたものの三体目の刃がさくら機の装甲を叩く!

 ガン、ガン、ガン

 一の太刀を受けきれずに更に体勢を崩したさくらは懸命に機体を立て直して次の攻撃に備えた。だが、二の太刀は来なかった。鳴り響く銃声と共に足軽の太刀を振り下ろす腕が不自然に減速する。

 斬!

 この機を逃さず一気に足軽を両断するさくら。どうやら今のは腕の関節部に銃弾を撃ち込まれた為らしい。

「大神さん!?」

 普通の銃弾では魔装機兵の呪力障壁を突破することは出来ない。こんな事が出来るのはマリアか…大神くらいのものだ。銃声のした方を目で辿る。いない…いない…いた!直線距離にして二百米以上。

(あんな遠くから…)

 改めて驚嘆するさくらだが、すぐにそんな場合ではないことに気付く。今の銃声で魔装機兵が大神の方へ向かって行っているではないか。さくらは今度こそ、光武を限界一杯の速度で走らせた。

 ガン、ガン

 大神の手元で銃声が鳴り響く。殺到する魔装機兵がつんのめった様に足を止める。どうやら正確に膝関節を狙っているようだ。拳銃では到底魔装機兵を破壊することは出来ないが、関節の継ぎ目に銃弾を叩き込めば動きを奪う程度のことは出来るということなのだろう。素早い動きで魔装機兵を躱して近づくさくら機に駆け寄る大神。

「大神さん!!」

 さくらはハッチを開いて大神に飛びつきたくなるのを必死で堪えた。そんな場合ではないのだ。大神はまだ生身のまま。一刻も早くこの場を脱出する必要がある。

『さくらはん』

 この時突然、光武の通信機に紅蘭からの呼びかけが届いた。

「紅蘭、大神さんと合流したわ。すぐに脱出しなければならないの。後にしてくれる?」

 焦りがはっきり表れているさくらの応え。だが。

『その大神はんからの指示や。全速でカンナはんと合流したってや。』
「でも、光武に二人は乗れないのよ?いくら大神さんでも追いつけないわ!」
『さくらはん、大神はんの命令や』

 信じられない気持ちでさくらは光武のレンズ越しに大神を見る。それがわかったように頷いてみせる大神。

『さくらはん、大神はんからの伝言や。「魔装機兵の感覚器は強い霊気に過剰反応する」』

(そうか!)

 つまりここでさくらが派手に霊気を放出すれば、魔装機兵の注意はさくらの光武に集中するという訳だ。その隙に大神は脱出するという手筈であろう。目一杯派手な囮になることをさくらは決心した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「帝国華撃團、参上!!」

 勢揃いした7機の光武。緑と金色の機体に付き添われて降下した純白の機体に乗り込んだ大神はすぐさま魔装機兵の掃討を開始した。本当の意味で全員が揃った集団戦闘はこれが始めてである(前回の戦闘で全員そろったのは銀角に対してだけだった)。そして大神の真価は多数対多数、集団戦闘の指揮にこそある。その事を誰もが再認識した。次々に四散していく魔装機兵。対して、光武は相手に狙いすら定めさせない。残るは眼前の巨大な紅の魔霊甲冑のみ。

「妾は紅のミロク。お望みどおりお相手して差し上げましょう。わらわの忠実なる僕達に勝てれば、の話だが」
「何ぃぃ!」

 紅の魔霊甲冑「孔雀」に突っ込んで行く真紅の霊子甲冑。

「出でよ、妾が忠実なる僕、紅蜂隊!」

 突如として、その周囲に赤い魔装機兵が出現した!

「こっ、こいつら、一体どこから!?」
「カンナさん!」

 その魔装機兵は通常のものより高い性能を持っていた。特に動きが素早い。その紅蜂隊に四方より同時に襲い掛かられ、さすがのカンナも対処しきれない。慌てて救出に入るすみれ機も同様に忽然と出現した赤い機体に行く手を阻まれる。

「カンナ!」

(防御なら俺に任せろ!)

 真紅の光武がまさに背後から一刀を浴びせられようとしたその瞬間、白い機体が純白の霊光を放つ。光は何ものにも遮られること無く、カンナの機体を包み込む!

(隊長…これが、あんたの…)

 不破の守護、無条件の安心感。マリアやさくらから話は聞いていたがこれほどの安らぎをもたらすものとは、想像以上だった。思い浮かべるのは幼かった自分を抱き上げる揺るぎ無い腕。

「隊長、助かったぜ!」

 撃ち込む拳に勢いが増す。瞬く間に群がる魔装機兵を蹴散らす。ここがカンナのカンナたる所以だ。大神の力に触れて、一層の闘志を燃え上がらせる。大神に依存するのではなく。
 紅蜂隊の壁を突破して全機がカンナのもとへ終結する。周囲を取り囲む紅蜂隊。その数は尚増加していた。このままでは包囲から抜け出せなくなる。だが、下手に散開すればどこから出現してくるのかわからぬ紅蜂隊の奇襲を受けるだけだ。

「こいつら一帯どこから出て来るんや?」
「まるで地面から湧き出して来るようですわ」

(地面から湧き出す…?もしや!)

「すみれくん、胡蝶の舞だ!」

 広域掃討攻撃、胡蝶の舞。確かに包囲された状態では最も有効な攻撃だが、敵の奇襲攻撃に対する打開策とはならないのではないか?

「ただし、敵の足を薙ぐように気を放て」
「?、わかりましたわ」

 この指示の意味が理解できた者はいなかったが、疑念を口にする者もまたいなかった。言われた通りにすみれは技を繰り出す。

「神崎風塵流・胡蝶の舞!!」

 長刀の舞より繰り出される炎の舞。魔にあらざるものを焼くことの無い浄化の炎が地面をなめるように広がった。

「何やあれ!」
「そういう事なの!」

 足元を薙ぎ払われてひっくり返る包囲陣の外、地面に赤い影が透けて見える。

「紅蘭、マリア、あの影を撃て。残りの者は魔装機兵を殲滅せよ」

 すみれの必殺技により半壊した紅蜂隊はほとんど抵抗も出来ぬまま光武によって次々に破壊されていく。そしてマリアと紅蘭の攻撃を受けた影の後には赤い残骸が浮かび上がってくる。隠れ蓑のからくりを暴かれた今、紅蜂隊も華撃團の敵ではなかった。魔霊甲冑孔雀に殺到する七つの機体。

「これで勝ったと思わないことね!」

 だが流石は黒之巣会の幹部、そしてこれは女ゆえだろうか。捨てぜりふと共に、刃を交える素振りすら見せずその機体は地面に溶け込んで行った。見栄に拘らぬ見事な逃走振り、そして探知を許さぬ見事な術。花組も翔鯨丸も、その行方を捕捉することが出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「お兄ちゃん、お怪我は無い!?」
「大丈夫だよ、アイリス」

 翔鯨丸の艦橋上。大神を取り囲む六人の乙女達。

「でも、なんで急に発信機を切ったりしたんや?みんなえろう心配したんやで」
「すまない、紅蘭。敵に探知されそうになったんで慌てて切ったんだ。説明もせず皆には心配かけることになってしまったね。悪かった」
「いいんですよ、隊長。隊長がそう判断されたのなら、そうすることが必要だったのだと私達は皆信じています。それよりもご無事で何よりでした」
「ありがとう、マリア。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「まぁ、少尉のことですから何事もある筈が無いとわたくしは信じておりましたけど?」
「なぁに言ってやがる。一番血相変えてたのはお前じゃねぇか」
「カ、カンナさん!何をおっしゃいますの」
「いいじゃねぇか。あんなに素直なとこがあるなんてあたいはお前のこと見直したぜ」
「馬鹿おっしゃらないで!」

 そっぽを向くすみれ。照れ隠しであることが誰にでもわかる。そして、いつものすみれとカンナでないことも。

(何かあったのかな?)

 何があったのか大神にはわからなかったが、何かがいい方に回転したことはなんとなく感じ取れた。二人の間にあった壁のようなものに穴が開いていることを。お互いが相手を認め合うことで生まれた、小さな前進、だが大きな一歩。
 和気藹々とした空気。だが、その雰囲気から一人だけ、ぽつんと浮いているのに大神は気付いた。

「さくらくん、どうしたんだい」
「いっ、いえ、何でもないんです。大神さんがご無事で何よりです」

 にっこり笑うさくら。それは、なんとなく気がかりなものを感じさせる笑顔だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 濃密な闇。一本の燭台がわずかに闇を押し返し、かえって闇を深いものに見せている。

「ミロク!あのざまは何じゃ!!」

 年老いた僧形の影。だが、その身に纏う凶々しい気配はその者が到底仏に仕える精神の持ち主でないことを明瞭に示している。

「申し訳ありません、天海様!」

 平伏する花魁姿の美しい女。だが、その美しさはどこか空々しかった。美しさよりも魔性が際立つ女、魔性の美しさというより、美しさを装う魔性である。

「畏れながら天海様、ミロク殿は楔の設置には成功いたしました。あながち任務に失敗したとは言えぬかと…」

 陣羽織をはおった、侍風の男。ごく当たり前の外見、だが人とは思えぬ雰囲気。ことによっては僧形の老人よりも尚。

「叉丹殿…」

 ミロクの表情は複雑だ。ただ、競争相手に庇われたというだけでなくその相手に対する複雑な感情も相俟って。
 それを振り切るように、紅のミロクは黒之巣会総帥、天海に向かってこう言った。

「天海様、わたくしもただ逃げて参った訳ではございませぬ。一つ情報を掴んで参りました。帝国華撃團なる組織の指揮官はどうやら『大神』という名のようでございます」
「ほう」
「おそらく軍の関係者でございましょう。彼らに調べさせれば何か判るかと…」

 黒き叉丹が口を挟む。だが「彼ら」とは?

「面白い、やってみせい。あやつら如きの力を借りるは不本意なれど、向こうが望むとあらばせいぜい利用してやるがよかろう」
「ははっ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あの、大神さん…」
「なんだい、さくらくん」

 帝国華撃團銀座本部。花屋敷より搭乗のまま移送された霊子甲冑から降りた大神に背後から声を掛けたのは同じく光武から降りたばかりのさくらだった。他の隊員は既に格納庫を後にしている。降りる順番は轟雷号に積み込む順番で決まる。霊子甲冑は乗り込んでいるだけで気力を消耗するものであり、大神は常に自分が一番後になるようにしている。それ以外の隊員の順番はその時その時でまちまちだ。大体は早い者勝ち。今日はさくらが最後になったようである。

「すみませんでした、大神さん…」
「何が?」
「私、かえって大神さんを危険に…私やっぱり、足手まといなんですね…」

 それは戦いの最中、さくらを救う為に大神が自分から姿を見せたこと。何を言っているのか、大神にはすぐにわかった。

「誰かに何か言われたのかい?」
「いえ、そんなことはありません!」

 強い調子で否定するさくら。そのことが事実を雄弁に物語っていた。

「さくらくん、君は軍人じゃないんだ。戦術ミスを気にする必要なんか無い」
「やっぱり、やっぱり…」

 取り乱すさくら。自分の軽率な行動が大神を危険に晒したという事実を改めて大神の口から聞かされて激しく動揺する。

「さくらくん、落ち着いて」

 その声は特に強い調子ではなかったが、揺れ動くさくらの心を繋ぎ止める何かがあった。

「本当に気にする必要はないんだ。軍事的な観点から言えば、君が囮になってくれたおかげで俺の脱出は容易になった。あの時の状況では何時間も粘らなければならないと思っていたからね。そういう意味では、君は俺の脱出を助けてくれた。軍人は結果が全てだよ。生き残り、勝利すること。過程は余り問題じゃない」
「……」
「そして俺は、君達に必ずいい結果をもたらしてあげるよ。戦いは俺の仕事だ。君達は手伝ってくれるだけでいい」
「大神さん…」
「君は俺に全て任せてくれればいい。何も心配は要らない」
「……はい……」

 いつもは強い意志の光を宿しているさくらの瞳が霞のかかったような色になる。夢の中にいるようなぼんやりとした瞳。
 さくらを宥める為の台詞だったとしても、これは余りに不用意な言葉であった。大神は自分の力をまだ知らない。そして自分の力が覚醒しつつあることに気付いていない。少女達を呪縛する力。それが後に少女達の不幸を招くことになるということを、この時点では誰も気付いていない…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…黒之巣会は巨大な金剛杵状の物を呪力により地中へ埋め込んでいました」
「これがその絵か」
「はい」

 帝国華撃團地下作戦室。そこで大神は米田とあやめの二人を相手に調査の報告を行っていた。

「幹部らしき女、おそらく『紅のミロク』を名乗った者だと思われますが、その者が地脈の制圧と口にしましたのであの物体は地脈に影響を与えることを目的としていると思われます」
「そんな近くまで接近したの?」

 声を聞き取るまで接近してよく気付かれなかったものだ。

「いえ、唇を読みました」
「…わかった。ご苦労だったな。持ちかえってくれた情報を至急分析させよう。何か判ったらお前にも報告書を回す」
「わかりました」
「下がってよし!」
「はっ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あいつの話を聞いてると頭が痛くなってきやがるぜ」

 大神が退出した後、二人きりの作戦室で唐突に米田が呟いた。

「はっ?」
「唇を読む、か。こともなげに言ってくれるぜ。中野の出身でもねぇってのに、あの野郎、一体いくつの抽斗を隠してやがるんだ?」
「長官…やはり、もう少し詳しく調べた方が」
「いや、もういい。今更大神の代わりは誰にも務まらん。あいつらが納得しねえよ。こうなっちゃあ華撃團は大神と一連托生だ。…あやめくん、この資料を至急花屋敷と夢組に検討させてくれ」
「はっ!」

 作戦室を後にしようとしてちらっと背後を覗き見るあやめの目に映ったのは、疲れたように椅子に寄りかかる米田の姿であった。


――続く――
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