魔闘サクラ大戦 第八話
序章



 太正12年師走某日、大帝国劇場地下、帝国華撃團本部工作室。蒸気機関の轟音とモーターの回転音の中、忙しく動き回るツナギ姿の整備員達。その中に混じって、まだ年若い女性、いや、少女の姿があった。長い髪を邪魔にならない様にまとめ、大きめの丸眼鏡を掛けている可愛い少女。幼さを残す顔に目立つそばかすも彼女の愛敬を引き立てる役割を果たしている。だが、その顔に浮かぶ表情は周りの大人達に劣らぬ、それ以上に真剣なものだった。
 奇妙なのは、周りの男達が彼女を取り巻き彼女の所へ歩み寄っては言葉を交わして持ち場に戻っていくことだ。まるで彼女を中心に作業が進められているかのごとく見える。

「やはり、隊長機は徹底的な分解整備が必要だな」
「こないだ修理したばかりなんやけどなぁ」

 ひときわ貫禄ある整備員に返す言葉は全く物怖じの無いどこか奇妙な関西弁。

「しゃーないか。使うとるのが大神はんやもんな」
「それにしても、実戦ならともかく訓練でどうしてここまで機体が消耗するのかねぇ」
「…多分、光武では大神はんの力を受け止めきれん様になってしまったんや」
「光武の能力を超えてしまったってえのかい?バケモンかね、あの少尉さんは」
「大神はんやもん」

 少女の表情には、呆れ顔の中にも誇らしさと憧憬が混じっていた。

「自慢の隊長だもんな?紅蘭」
「なっ、何言うとんの!とりあえず、できるとこまでやってまうで!」
「はいはい」

 冷やかすような男の言葉に赤面した照れ隠しで怒鳴り返した少女の名は李紅蘭。帝国華撃團花組の隊員、霊子甲冑光武の搭乗員でありながら霊子機関に関しては秘密部隊・帝国華撃團の中でも一、二を争う技術者である。それはつまり、世界でも有数の技術を持っているということを意味していた。
 その彼女の最近の頭痛の種が、目の前の純白に塗装された霊子甲冑・光武。正確に言うなら、この機体に搭乗するある青年であった。帝国華撃團花組隊長、大神一郎。彼女の敬愛する隊長。彼女の心を支配する男性。と言っても、恋人という訳ではない。恋愛感情を持たぬといえば嘘になる。しかし、彼女は恋心を切ない痛みと共に心の中に秘め続けようと決心していた。彼には、お似合いの女性がいる。未だ言い交わした仲でなくとも、二人が魅かれあっているのは男女の関係に疎い自分にもわかる。何故ならその女性も大切な友人であったから。そう彼女は思っていた。自分の心に区切りを付けていた。
 少なくとも今彼女の心を占めているのは恋の悩みではない。技術者としての悩み、科学者としての悩み。霊子甲冑の計算を超えた消耗についてである。無論、霊子甲冑も機械である以上、能力に限界というものがある。霊子機関にも受け容れられる霊力に上限がある。 しかし、元々霊子甲冑は起動に必要とする霊力の下限が高すぎて、並みの人間どころか並々ならぬ霊能者にも動かすことの出来ない代物なのだ。容量の上限に達するなど、全く想定されてはいなかった。

(やっぱ、光武では限界なんやろか…大神はんには、もっと大きな、もっと高性能の霊子甲冑が必要なんやないやろうか…)

 かといって、新型の開発などおいそれと出来ることではない。時間、技術、人材、それ以上に、まず資金が必要だ。黒之巣会の脅威が遠ざかった今、新型開発に必要な予算などいくら米田でも調達は難しいだろう。

(とりあえず、あやめはんに相談してみよか…)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 まだ薄暗い師走の早朝。その幽かな光の中を二つの影が舞っていた。緩やかに見えて目にも留まらぬほどの速さで交錯する二つの影。激しく、美しい動き。肌を刺すほどに冷たい空気を切り裂く三筋の剣光。単なる木の棒が冴え冴えとした鋼の輝きを放っているかと錯覚させるほどの見事な太刀筋。
 太正12年大晦日、大帝国劇場中庭。風を切る音のみを喝采とした剣舞はやがて終わりを告げた。二つの影は互いに一歩退き、折り目正しく礼を交わす。あれほどの技に似合わぬ若い男と、更に意外なことにまだ少女と言ってもいい年頃の若い娘。天稟…この二人の舞を目にした者は、その言葉を思い浮かべずにはいられないだろう。二人の技の背後に、常人には思い及ばぬ苛烈な修行と過酷な実戦があったことを知らぬ者達には。

「ありがとうございました!」

 息を弾ませて、少女は男の元へ駆け寄ると共に手ぬぐいを差し出した。その顔が赤らんでいるのは、上気しているばかりではないようにも見える。

「ありがとう、さくらくん」

 手ぬぐいを受け取って優しく微笑む青年の息はほとんど乱れていない。あの激しい稽古の後にも拘わらず、その肌にはうっすらと汗が滲み出ているだけだ。かといって、道衣一枚でこの寒風の中鳥肌一つ立てていない。一見優男に見えるその男の肉体は、実のところ驚異的なまでに鍛えぬかれたものらしい。外見からはわからぬほどに鍛えぬかれた肉体。
青年は手にした手ぬぐいで少女の額から流れ落ちる汗をそっと拭う。途端に困ったような顔で俯く少女。その姿を穏やかな笑顔で見詰めながら、青年は少女を促した。

「風邪をひかない内に中に入ろうか」
「はい、大神さん!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 帝国華撃團花組隊長、大神一郎。帝国華撃團花組、真宮寺さくら。それがこの二人の名前であった。常は大帝国劇場の事務員兼モギリ係と帝劇の花形女優のこの二人は、科学と霊力の甲冑を纏って帝都を魔の手から救い、天変地異からまでも守り抜いた帝国華撃團の隊長と隊員である。この二人の朝稽古は大神がこの帝劇にやって来た翌日から天候と健康の許す限り毎日変らず続いている。型と約束稽古。決して奇を衒った稽古はしない。基本に忠実な、純朴な二人の性格を映したような変らぬ、地道な鍛練。
 しかし、大神の態度は変った。さりげない優しさを隠さなくなった。以前の彼は、親しい中にも意識して距離を置こうとしているようなところがあった。愛情と思い遣りを示しながらも、それはどこか生徒に対する教師の様な趣があった。親しくなりすぎない様に、ある一線を超えてしまわない様に。いずれ別れの時を迎えなければならない相手に対するように。彼女が、自分に特殊な想いを抱かない様に。
 今、彼はそんな隔意を捨てごく自然にさくらに接していた。彼女との間を隔てていた拘りを、負い目を捨て去っていた。負い目、彼を知る者には、彼がその様な後ろ向きのものを抱いていたとは信じられないだろう。確かに彼は負い目とか劣等感とか、そんなものとは対極に位置するはずの人間であったのだ。英才の集う海軍兵学校を他を寄せ付けぬ成績で主席卒業し実戦においていきなり余人に真似の出来ぬ奇功をあげた彼は、帝国華撃團に配属されてからも素人同然の少女達を率いて圧倒的に不利な戦況の中誰一人犠牲にすることなく戦い抜き、ついには女神とやらの手から勝利をもぎ取った。非の打ち所の無い経歴、そして実績。自らを誇ることはあっても負い目を感じることなどありえないと誰しもが思うであろう。
 しかし、彼は自分が少女達を戦場に引き出していること、少女達の命を危険に晒していることに誰よりも、おそらく彼の上官にも負けず劣らず、負い目を感じていた。それが彼の発案ではなく、彼自身他者から命令を受けてのことだとしても、結局は彼女達無しでは戦えぬ自分自身の責任であると。この苦悩故に、彼は可能な限り早く彼女達を戦場から解放しようと、そして彼女達から一日も早く離れられるようにと手を尽くしていた。自分の様な、戦いに囚われた人間と一緒にいることは彼女達にとって不幸の元でしかないと彼は思い込んでいた。彼は、ほんの幼い頃から戦火の中に身を投じていた彼の部下である女性より、自分の方こそが戦いに魅入られた人間であると知っていた。彼女が運命によって戦うことを強制されたのであるのに対して、自分は戦うことを選んでしまった人間なのだと。それ故に、自分と共にあることが、凄惨な戦いの渦に巻き込まれることだと、そう思い悩んでいた。
 ある時、彼は遂にこの思いと正面から対峙することを余儀なくされた。彼が大切に想っていた少女から、彼と共にあるということの意味を突きつけられた。そして、自分が彼女達に必要とされており、彼女達が自分の運命(さだめ)に巻き込まれるだけの無力な存在ではないと知った時、彼はそれまで心を縛っていた負い目を捨てた。彼はあるがままの心で少女達に相対することに決めた。それが、彼女達を対等の存在として扱うことだと、彼女達に対等の存在として接することだと彼は気づいた……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「今年ももう終わりですね」

 さくらが感慨深げに話し掛けてくる。見上げる視線には充実した年を送ることの出来た者の満足感と、それを共有できる者の隣に在ることの喜びが込められているように見えた。彼の隣に在ることの出来る喜び、さくらはもはやそれを隠そうとはしなかった。
 そう、いろんなことがあった、大神は一瞬の内に激動の太正12年が瞼の裏を駆け抜けた様な感覚を覚えた。そして、今自分の隣を歩む少女と時を過ごすことが楽しいと感じている自分を素直に受け容れる心境になっていた。彼女だけを贔屓にできない自分の立場を忘れた訳ではない。ただ、確かに自分の中にある、不安定に揺らぎ続ける感情もまた自分自身の一部なのだと認められるようになっていた。節度を保ちながらも、その想いに身を委ねる術を身につけていた。

「まだだよ、さくらくん」
「え…?」
「まだ大掃除が随分残っているよ。劇場全部の大掃除だ。大道具部屋どころじゃないと思うよ?」
「もう、大神さんったら!」

 片目を瞑ってみせる大神に笑いながら手を振り上げるさくら。他愛の無い遣り取り、他愛の無いじゃれあい。先刻見せた玲瓏たる月光の如き、透明で、かつ厳しさを含んだ剣舞の美しさからは想像できない平凡な若い男女の姿。しかし、これこそが本来の、あるべき二人の姿であったのかもしれない……

「ところでさくらくん、明日は稽古は無しだからね」
「お正月ですものね…わかりました!」

 少しだけ、残念そうな顔をするさくら。大帝国劇場はさくらにとって居心地のいい場所であった。花組の皆と過ごす毎日はいつまでたっても新鮮で楽しさに満ちたものだった。しかし、その中でも特に、さくらは大神と過ごす朝のこの一時が好きだった。静謐で鋭い真剣な視線、静かで力強い息遣い。鏡の如き水面の下に底知れぬ質量を秘めた深淵を思わせる気の波動。荒々しい中にも洗練されたものを感じさせる剣技。大神を全身で感じられるこの一時。幼い頃から修行は生活の一部になっており辛いと感じることもいつのまにか無くなっていたが、修行自体を楽しいと意識したこともまた無かった。喜びは自分が一歩一歩高みへと近づいていることを実感できた時のものだった。それが大神と一緒だと、鍛練の時間そのものが何にもまして楽しいと感じていた。

「じゃあ、大神さん、お掃除、頑張りましょう!!」

 少しの落胆をいつも通りの元気な笑顔に隠して、さくらは大神にこう応えた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大晦日の大帝国劇場。そこには、掃除道具を抱えて右往左往する少女達の姿があった。
 これだけの広さの劇場、隅々まで掃除しようと思えば一日で終わる訳はない。実のところ、何日も前から少しずつ進めていく手筈にはなっていたのである。しかし、結果的に花組の受持ち区域は進捗率半分にも達していない。こうして、土壇場でまさしくどたばたしている訳である。
 …ここだけの話、花組の少女達は家事が余り得意ではなかった。料理は皆そこそこのものを作る(アイリス以外は)。うち二人は店を出してもおかしくない腕の持ち主だ。しかし家事全般となると、まともにこなせるのはさくら一人という有り様だった。勿論、これは彼女達の生い立ちの所為であって、彼女達の才能の問題ではない(…多分)。母親から家事を教えてもらえたのはさくら一人であったのだ。…実は、花組でもう一人、家事全般をこなせる者がいることを付け加えておかねばなるまい。他でもない、大神隊長である。テキパキと掃除片付けをこなしていく彼の姿を見て、少女達は感心するというより呆れてしまった。どこでこんなことまで…六人の脳裏には一様にこの言葉が浮かんだ。その答えは、意外なことに士官学校である。入学早々から何かと目立っていた彼は毎日大量の雑用を上級生から押し付けられていた。その所為で、一年過ぎた頃には家庭の主婦顔負けの家事能力が身についてしまったのである。そして彼は今も、雑用の大海原を漂流する毎日である。…考えてみれば哀れな男かもしれない…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「苦戦してるな、紅蘭」
「紅蘭、手伝いに来たわよ」
「さくらはん、それに大神はん!おおきに、助かるわぁ〜!!」

 地下格納庫。紅蘭の受持ちは「光武の煤払い」である。勿論、当初の予定では一人で七体の霊子甲冑を受け持つ筈ではなかった。今、地下格納庫は整備員が総出で掃除をしている。光武の煤払いもその一環としてやるということになっていた。しかし、何せだだっ広い格納庫のこと、しかも格納庫は毎日何かしらの作業で使用しているから、地上部分のように前もって掃除をしておくということが出来ない。元々人手不足の甚だしい帝国華撃團、大掃除といえど十分な人数が集められる筈もなく、泣く泣く紅蘭が一人で霊子甲冑と格闘しているという状況に陥っていた訳である。…大体、自分の光武は自分できれいにすることになっていたのだ。それが、進捗の大幅な遅れの所為で誰も降りてこられない始末なのである。手の早い大神とさくらの登場は紅蘭にとって地獄に仏の心境だろう…
 柄付きブラシを長刀のように振り回して(この作業、意外とすみれ向きかもしれない)、一気に霊子甲冑の汚れを落としていく大神。その横では襷掛けに頭巾のお掃除姿のさくらが柄付きモップで磨いた後の水気をこれまた鮮やかな手際で拭き取っていく。惚れ惚れするような連携。二人の表情は微妙に異なるが(さくらが時々大神の方に目をやりながら楽しそうにモップを動かしているのに対して、大神は一刻も早くこの雑用を終わらせようとブラシ掛けに熱中している様に見える)、息の合った仕事ぶりは嫉妬する余地も無いほどに自然なものであった。我知らず溜息を漏らした紅蘭は、その音で大事な話があることに気がついた。溜息をつきたくなるような、だが重要な話。熱中する大神の後ろ姿に大声で話し掛ける紅蘭。

「大神はん、ちょっと話が…」

 あるんやけど、と続けようとして、そこで固まってしまった。

 シャカシャカシャカシャカシャカ……

 …聞こえてない。ここまで一所懸命になる必要もないだろうに…

「大神さん、紅蘭が呼んでますよ?」

 気付いたさくらが大神に声を掛けるがやはり返答が無い。(…いい加減、雑用に疲れているのだろう)

「お・お・が・み・さん!」
「痛てててっ!」

 目が点になるとはこういう事を言うのだろう。紅蘭は自分のことながらこう思わずにはいられなかった。さくらは大神に無視されたと見るや、ツカツカとその背中に歩み寄り、ギューッという音が聞こえて来るような錯覚を覚えるほど容赦なくその背中を抓り上げたのである。

「さ、さくらくん?」

 振り向いた大神は涙目になりながら顔中に疑問符を浮かべていた。何故自分が痛い思いをしなければならないのか、状況が把握できない所為で。まあ、わからなくて当然であるが。

「もう、聞こえなかったんですか!?紅蘭がお話したいことがあるそうですよ」
「あ、ああ、わかった。…何も抓らなくても(ボソッ)」
「えっ?何かおっしゃいました?」

 こそこそと抗議する大神へあっけらかんとした口調でさくらが問い返す。紅蘭には何やら、この光景が未来を強く暗示している様に思えてしまった。
 結局紅蘭は、その重要な問題を大神に伝えることが出来なかった。




その1



 黒から紫、群青、そして今、青に変じようとしている。体の芯まで透明に凍らせてしまいそうな冷たく、それ以上に澄み切った大気の中、男は東の空を見詰めたままただ立ち尽くしていた。身動き一つしない。ただじっと立っているだけであるにも拘わらず身震い一つしない。その表情はあくまで静かだ。刺し子に袴を着けただけの軽装であるにも拘わらず、まるで寒さを感じていない様に見える。その表情はむしろ、凍える、しかし澄んだ空気が体の中を吹き抜けていくのを楽しんでいるかのようにも見える。実際、その男の周りはまだ街が活動を始めていない夜明け前の一時であるからというだけでは説明できない清澄な気で満たされていた。
 太正13年元旦、大帝国劇場屋上。男はその年最初の日の光を待っていた。

「大神さん」

 男の背中に掛けられる美しく澄んだ声。清らかに澄んだ中にも柔らかい少女の声。あたりに漂う清澄な大気に引けを取らぬ清らかな波動。

「さくらくんか、ここにおいで」

 振り向きもせずじっと空を見詰めたまま、しかし優しく男は少女に応えた。

 ブルッ

 軽く身震いして、少女は男の傍らへと小走りに駆け寄る。美しい少女だ。薄紅の振り袖を纏い、緑なす黒髪を腰までなびかせている。真っ直ぐとおった鼻梁、慎ましい口元、そして何よりも目をひく、強い光を宿した黒目勝ちの大きな双眸。そこに溢れる意志の光が全体に可憐な印象の美貌を一本筋のとおった活き活きとしたものに見せている。
 自分の隣に立ち止まる足音を聞いて、男は漸く少女へと視線を向けた。まだ若い、涼やかな、だが引き締まった武人の顔。しかし、その顔に浮かんでいるのは力強さと優しさを併せ持つ微笑。近寄りがたい厳しさを含む容貌がこの上なく受容と包容力を感じさせる表情を浮かべていた。

「寒くないかい?」

 その顔に浮かぶ微笑みと同じ、優しい声で青年は尋ねる。

「はい、…あれっ?大神さんのお側にきたら寒くなくなっちゃいました」
「そう…?だったらいいけど」

 かわいらしく小首をかしげる少女に微笑みを広げながら、その身に纏う雰囲気からは意外に感じるほどの気さくな口調で青年は言葉を続ける。

「早いね。君も初日の出を拝みに来たのかい?」
「私は、何となく大神さんがいらっしゃるような気がして…そうかっ!今日お稽古がお休みなのは初日の出を拝まれるからだったんですね?」
「毎年の習慣だからね」

 そう言って、青年は再び東方へと視線を固定する。急に空が明るくなってきた様な気がする。少女がそう思った瞬間、まさしく青年が見詰めていた彼方から光が射した。

 パァァァン…

 鳴り響く柏手の音。光の到来に寸分も遅れること無く、青年が手を打ち鳴らしたのだ。帝都、東京の街の直中であるにも拘わらず、あたりに深山幽谷の如き峻厳な清浄さを持つ気配が満ちた。それはほんの一瞬のことだったが、少女は体の隅々まで清められたような気がした。
 合掌したまま彫像の如くじっと朝日を見詰める青年。その若さにも拘わらず、この青年は時々ひどく古風なものを感じさせることがある。その姿を見て少女はそう思っていた。そして、その姿に自分の最も深い部分が強く惹きつけられているのを感じていた。
 やがて青年が手を下ろす。緊張を解いたのを雰囲気で感じ取って、少女は青年に話し掛けた。

「大神さん」

 無言で少女へと向き直る青年。その顔には先刻と同じ微笑みが刻まれている。

「おめでとうございます。今年も良い年であります様に」

 極上の笑顔を添えて、青年にその年最初の挨拶をする少女。大神さんにとって、心の中でそう付け加えて。

「おめでとう、さくらくん。お互い、頑張っていい年にしようね」

 青年はごく自然にこう応えた。お互いに、と。そこに、一緒に、という意味が込められていたことを少女は違うこと無く理解した。この時少女は、冬の早朝の、肌を刺す冷たい空気をただ清々しく心地のいいものに感じていた。そして、体の中から湧き上がる暖かいものに満たされていた。
 さくらと大神は期せずして、お互いがその年最初に顔を合わせた相手となった。太正13年、新年最初に言葉を交わしたのが大神であったことを嬉しいと感じている自分にさくらは最早戸惑いはしなかった。桜の季節に大神と出会ってから9ヶ月、自分の中に育っている感情が何であるのか、今でははっきり自覚していた。しかし、未だそれを口に出すことは出来ない。何故なら、大神は花組の、皆の隊長でさくらだけの大神では……

「大神さん」
「うん?」
「あのう…」
「?」
「あ、あのう、今日のご予定は…?」
「今日は本部待機になっている。多分外出も出来ないだろうな。正月だというのに…」
「そうですか…」

 がっかりした内心を隠しきれないさくら。「一緒に初詣に行きませんか」、この台詞が喉元まで出掛かっていた。自分一人の大神ではないと心に言い聞かせていても、大神と時を、季節を共にしたいという気持ちを抑えることは難しかった。独占したかった訳ではない。花組の皆と一緒に、大神と一緒に、帝都で迎える初めてのお正月、初詣に行きたいとさくらは考えていたのだった。

(でもお仕事だから仕方ないな…)

 何とか自分を納得させ顔を上げると、大神が自分の方を気遣わしげに見ているのに気がついた。大神はいつも、優しく見守ってくれる。暖かい思い遣りをくれる。それが自分だけに対するものでなくても、それでいいとさくらは思った。
 さくらは明るく笑ってみせた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あけましておめでとうございます」

 六つの声がきれいに重なる。大帝国劇場食堂。花組の六人から隊長として新年の挨拶を受ける大神。そして、大神は同席する米田へ花組を代表して年賀の口上を述べる。米田の答礼。簡単におとそを回した後花組は解散。米田とあやめは風組、月組、夢組、雪組の隊長の挨拶を受ける為に支配人室に戻る。花組は帝国華撃團四組の中で特に人数が少ないので、米田の希望もあって全員と新年の顔合わせをしたのである。

 大神は自室に戻る前に一旦玄関へと顔を出した。いくら秘密部隊だからといって正月は正月、隊員の多くは休みを取って実家に戻っている(勿論、必要人数は非番ではなく戦闘待機ということになっている)。米田やあやめも華撃團に関わりのある実力者の元へ挨拶に回らなければならない。そこで、花組隊長の大神が留守番役として本部待機ということになっていた。今大神は、米田、あやめ不在中の本部責任者として、運悪く当番にあたった守衛係に声を掛けに来たのである。
 だが、大神がやって来たのを見計らったように正面玄関前に高級乗用車が乗り付けた。リムジンと呼ばれる型の蒸気自動車、神崎重工製「竜馬」。日本に10台しかないと言われている国産最高級車である。何故10台しかないかというと、英国製や米国製でなくわざわざ国産のリムジンに乗る物好きが少ないからだ。物好きでなければせいぜい神崎財閥縁の者くらいである。そして、使用人の手で開かれた扉から出てきたのは物好きではない方だった。大神はその人物の顔に見覚えがあった。直接面識がある訳ではない。しかし、写真は頻繁に目にしている。

「いらっしゃいませ、男爵様。本日は大帝国劇場にご用でしょうか?」

 守衛に先んじてモギリの仮面を被った大神が一行に、むしろ使用人に向かって声を掛けた。神崎重樹、神崎男爵家現当主。未だ実権は父忠義の手に握られているとはいえ、形式的には神崎財閥の総帥でありそして、すみれの父親である。
 大神の顔を一瞥する重樹。その表情から、大神が何者であるか認識したことが窺える。重樹もまた、華撃團の秘密を知る数少ない実力者の一人なのだ。

「いや、米田支配人に個人的な用件だ」

 劇場への用ではない。つまり、華撃團への用件だということ。大神の問い掛けを正確に理解して、自ら答える重樹。その声に意外と貫禄が無いことに大神は拍子抜けするものを感じたが、無論全く表情には出さずに丁寧に頭を下げた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 神崎男爵を支配人室に案内した後、大神は私服のまま地下司令室の自分の席についた。正月一日目から万が一に備えての連絡係。黒之巣会を倒した今、帝都にさしあたった脅威の影はない。それでも、大神の表情は緊張感を失っていなかった。海軍で訓練を受けた船乗りである彼は、来るかどうかもわからぬ嵐に備えて凪の海でいつまでも待つことが出来た。

『大神少尉、大神少尉。支配人室に出頭して下さい。』

 突如、司令室に響く呼び出しの放送。あやめの声だ。あやめは米田と共に外出している時刻の筈だが。神崎男爵の来訪が長引いているのだろうか。
 頭ではいろいろ考えながら、大神は遅滞なく上の支配人室へと向かった。

 予想に反して、支配人室には米田しかいなかった。机の前に自然体で立つ大神。米田から散々言われているので大神も支配人室では敬礼をしない。

「まあ、一杯どうでい」

 大神に赤ら顔で酒を勧める米田。しかし大神は、その目が笑っていないのを見落とさなかった。

「いえ、申し訳ありませんがご遠慮させていただきます」

 それでなくとも不在中の責任者として戦闘待機の身である。もとより飲酒などするつもりはない。

「…そうだ、それでいい」

 途端に真顔になった米田が言う。

「治にいて乱を忘れず、そういう心構えでなければ隊長は務まらない」

 口調までもが常になく真剣だ。何か異常事態が発生したのだろうか。大神の内を緊張が走る。

「だが、正月ぐれえのんびりしたいのが人情だしな」

 しかし、身を正した大神にこれまたいきなり崩した調子で米田が続けた。さすがに人の意表を突くのが上手い。すっかり米田の間にはめられてしまっている。

「俺の外出は午後からに変更になった。昼までブラブラ初詣にでも行ってこい」
「はっ?しかし……」
「大神、たまにゃあ息抜きするのも隊長の仕事の内だぜ?」
「…わかりました。お言葉に甘えて、外出させていただきます」

 少女達の相手をしてやれということだろう。米田の意図を自分なりに読み取って、大神は米田の厚意に預かることにした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さくらくん、今から初詣かい?」

 振り袖姿のさくらが階段を降りてくる。いつもの袴姿も凛々しくて可愛いが、今日のさくらは一味違ったお淑やかな可愛らしさがある。

「えっ、ええ……」

 珍しく歯切れの悪い返事。本当は、大神と一緒に行きたい、と言いたいのを我慢しているのである。

「支配人から外出許可をいただいたんだ。皆も誘って一緒に行かないか?」

 まるでさくらの心を写し取ったかのような、意外な大神の申し出。危うく頬をつねりそうになったさくらは、一も二も無く肯いた。

「じゃあ皆の部屋に行こうか。一緒にね」
「は、はい!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 スーツを着込みコートを手にした大神の隣には気合いの入った晴れ着姿のさくらがいる。出かける準備をするから少し待っててくれ、と言った大神に部屋で少しお化粧を直してきます、と言って結局大神を待たせたさくらであるが、待った甲斐があった、と朴念仁の大神に思わせるほどの出来栄えである。何せ大神が開口一番

「わぁ、さくらくん、きれいだねぇ!」
「この、着物がですか?」
「いや、君のことだよ」
「お世辞でも、誉められると嬉しいですよ…どうも、ありがとうございます!」
「お世辞なんかじゃないって。…きれいだよ、本当に」

 等という芸の無い誉め言葉を連発したくらいだから。
 美しい。元々清楚可憐な美しい少女だが、今のさくらはいつも顔を合わせている大神にすら特別に光り輝いて見える。特に手の込んだ化粧をしている訳ではない。振り袖も決して派手というのではない、むしろあっさりした色と模様である。だが、いつもと何かが違う。何が違うのかその時はわからなかった大神だが、後にして思えば大神はこの時、さくらの「女」の部分を強く意識していたのである。戦うことを前提として何時も動きやすい衣装を心掛けている「剣士」のさくらではなく、少女から脱皮しつつある「女」のさくらがそこにいた……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「はーい、開いてるでぇ」
「紅蘭、お邪魔するよ」
「あれぇ、大神はん、それにさくらはん。何か用なん?」
「実は支配人から午前中だけ外出許可をもらってね。皆で初詣に行こうと思うんだが」
「うーん、初詣かぁ。ホントんとこ、中国の正月はまだ先やさかいなぁ。それにちょっと気になることがありまして、今から花屋敷へ行こう思うとったんですわ…せっかく誘ってもろうて申し訳ないんですけど、うちは遠慮させてもらいますわ」
「…そうか、まあ、急な話だし、気にしないでくれ」
「すんまへんな」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「………」

 コンコン

「………」
「アイリス、入るよ?」
「………」

 カチャ

「………」
「…アイリス、眠ってるみたいですね」
「…そう言えば昨日、除夜の鐘を数えるとか言って遅くまで起きてたみたいだったな…朝は起きたもののまた眠くなったのか」
「大神さん、どうしましょう…?」
「起こすのもかわいそうだし、残念だけどこのまま寝かせといてやろう」
「そうですね…」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「開いてるよー」
「カンナ、お邪魔するよ」
「隊長にさくら、何か用かい?」
「実は支配人から午前中だけ外出許可をもらってね。皆で初詣に行こうと思ってさ…と言っても、紅蘭には断られたんだけどね。アイリスも眠ってるし」
「カンナさん、ご都合はいかがです?」
「いいねぇ、隊長達と初詣か。でも残念、あたいも先約があってさ。これから帝都に出てきてる琉球空手の師範達で正月を祝おうって話があってね。あたいも招待されてるんだよ」
「そうか…」
「なんせ発起人が御殿手の宗家なもんでね。琉球の人間としちゃあ断れないんだよ」
「…それはすごい。確かに、それじゃ無理だね。わかった。まあ、急な話だし、気にしないでくれ」
「悪いね」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

 カチャ

「あ、隊長。それにさくら、どうしたんですか」
「やあ、マリア……出掛けるところだったのかい?」
「ええ、今日は新年のミサで聖歌を歌うことになっているんです」
「そうか…実は長官に外出許可をいただいたんで皆で初詣に行こうかと思ったんだが…それじゃ無理だね…」
「すみません、隊長。せっかくのお誘いですが、司祭様と以前から約束していたものですから…」
「いや、急な話だし、気にしないでくれ。出がけに悪かったね」
「いいえ、本当に申し訳ありませんでした」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「………」

 コンコン

「………」
「すみれくんも不在か…」

 結局、さくら以外は全員に断られてしまった。もしかしたら自分は人望が無いのか、などとつまらない考えが頭をよぎる大神だが、実はさくらとの仲に遠慮してわざと予定を入れている者もいたということまではさすがに思い及ばない。

「すみれさんだったらサロンにいらっしゃるんじゃありませんか」

 本当は大神と二人だけで出掛けたい自分の気持ちに自分でも意識しない内に嘘をついて、さくらは大神にサロンを覗く様提案した。心の底で、二人だけになって気持ちを抑え切れなくなることを怖れていたのかもしれない。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……」
「大神さん?」

 サロンの扉に手を伸ばしたところでそのまま回れ右をしてしまった大神にさくらが訝しげな視線を向ける。

「来客中のようだ」

 短く、それだけを小声で応える大神。さくらは大神のこうした異常能力にもう驚かなくなっていた。超常のものに対する感応力は乏しい大神だが、人の気配に対する感覚は帝撃でも屈指のものを示す。やたらな霊力など到底及ばない鋭さだ。人が修行によってどこまで力を高めることが出来るか、さくらは大神を見ていてそんな思いに虜われることがある。

「大神くんね?中に入って」

 踵を返した二人の背中に掛けられる扉越しの声。こちらは感応力に優れたあやめの声だ。 大神が部屋の中に伸ばした感覚の触手に気付いたのだろう。
 遠慮しようとするさくらを促して一緒にサロンへ入る大神。そこにはあやめとすみれと、そして神崎男爵及びその随員の姿があった。

「大神くん、ご紹介しておくわ。こちらは神崎男爵様と神崎家筆頭執事の宮田さん。お二人とも華撃團のことをご存知よ」
「先程は正式なご挨拶をせず失礼いたしました。帝国華撃團花組隊長、大神一郎です」

 あやめの紹介を受けて大神の外見は瞬時に変化を遂げた。着ているものが早変わりした訳ではない。しかし、ごく普通の青年から鋼の規律を体現する帝国軍人へと外見が変わった。敬礼する姿が抜き身の白刃の如き迫力を感じさせる。身を震わせる緊張感を孕んだ美しさ。野暮ったい敬礼を美しいと感じさせる軍人などそうはいない。さくらはそう思った。普段人当たりのいい好青年の大神をエリート軍人と意識する一瞬。そして大神を挿んだ丁度反対側で自分と同じ目をして大神を見詰めているすみれに気がついた。すみれと視線が交差した。

「彼女は帝国華撃團花組・民間協力隊員、真宮寺さくら嬢です」
「真宮寺さくらです。男爵様、お目にかかれて光栄に存じます」

 大神に紹介されて、精一杯丁寧な仕種で挨拶をするさくら。彼女も武家とは言え旧家の出身であり、一通りの作法はこなすことが出来る。

「彼女にはご令嬢と同じく帝都防衛の力になってもらっています」

 簡単に、だが絶妙の間で大神が短く言葉を挿む。不要な詮索を一切許さぬ間で。何事かを言いかけた神崎男爵家当主・神崎重樹の表情が微妙に動いたが、一瞬で温和な笑顔に感情の全てを隠し大神へと視線を向け直す。

「やはり貴方が大神隊長でしたか。先の帝都騒乱における大功、聞き及んでおります」

 自分の息子の様な年頃の若造に丁寧な言葉で話し掛ける重樹。わざとらしさはまるで感じられない。慇懃さの中に本心を完全に秘匿している。さすがは神崎財閥の総帥の地位にある者、大神は内心で重樹に対する評価を改めた。

「光栄です。しかし軍人が国家の為命を懸けて戦うは当然の義務であります。か弱き女性の身で平和の為に命を懸けたご令嬢方こそ真に称えられるべきであると考えます。残念ながらその名誉を公にすることは出来ませんが、ご令嬢をはじめとする民間協力隊員達こそが帝国臣民の鑑、帝国の誉れかと存じます」

 顔中に不審を露にして大神を見詰めるさくらとすみれ。大神はこの様な美辞麗句を弄する人間ではない。何故今日に限ってこの様に大袈裟なことを言うのだろうか。

「……娘に対して過分なご評価を頂いているようですな。貴方の様な立派な方にそこまでおっしゃっていただけるのなら娘も少しは成長したということでしょう」
「ご令嬢はご立派な貴婦人でいらっしゃるかと存じます。男爵におかれましてはすみれさんとゆっくりお話になられるのもお久しぶりかと存じますので、私はこれで失礼させていただきます」

 まるで台本にかかれているかのようにスラスラと辞去の言葉まで会話の流れを運ぶ大神。余りに手際が良すぎて誰も口を挿めぬまま、サロンを後にした大神。ピョコンとお辞儀をしたさくらが慌ててその後を追いかけた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神さん、どうされたんですか」

 小走りに追いついてきたさくらが心配そうな顔で問い掛ける。何か気に障ることがあったのだろうか。

「ああ、余計な心配をさせてごめん。気にすることはないよ。ちょっとした演技だから」

 いつもの好青年の顔で大神が笑う。まるで意味はわからなかったが、別に怒っている訳でも不愉快になっている訳でもないとはわかってホッとした。大神が気にする必要ないと言っているのだから、さくらは今の一幕を忘れることにした。

「じゃあ、二人だけになっちゃったけど、初詣に行こうか。蒸気鉄道で明司神宮に行こう」

 待ち望んでいた言葉と笑顔に、さくらの頭から今の一幕がすっかり拭い去られた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あれが大神一郎少尉か…なるほどな……」

 大神とさくらの姿が扉の向こうに消えると同時に深く椅子に座り直し、溜息を吐くような呼吸で重樹は小さく呟いた。

「お父様、何かおっしゃいまして?」

 その言葉は傍らに控える執事の宮田にしか聞こえていない。娘の問い掛けにも曖昧に首を振るばかりで何も答えなかった重樹だが、急に表情を改めて真面目な声ですみれに話し掛けた。

「すみれ、ここに居たいという気持ちに変りはないか?」

 意外感に満ちた表情を浮かべるすみれとあやめ。実のところ、重樹はすみれを正月にかこつけて連れ戻しに来たのであり、大神が入って来る前はかなり険悪な空気が流れていたのである。ところが、今の重樹の口調からはむしろ理解の色が読み取れる。

「……無論ですわ。ここには私の為すべき事があります」
「それは、あの青年の為か?」
「な、何をおっしゃいますの!」

 絶句するすみれ。言われた言葉の内容にも驚いたが、父がこの様な鋭い洞察を見せたことの方がもっと大きな驚きだった。いつも祖父の光に圧倒され影の薄かった父が、別人の様な知性の閃きと静かな迫力を漂わせている。

「……いいだろう。型通りの淑女教育を受けるよりここに居ることの方がお前の為になるようだ。だが、一つだけ条件、いや、親として忠告しておく」

 余りに意外な重樹の急変。すみれが帝劇で暮らすことを認めようというのだ。

「何ですの、その条件とは?」
「あの青年は今のお前の手に負える相手ではない。あの青年に近づきたいなら、余程の覚悟と余程の精進をすることだ」
「お父様…?」

 すみれには、重樹の言うことの意味がわからなかった。大神が並みの人物ではないことくらい、すみれにも良くわかっている。しかし、そんな単純な意味とは思えない。

「藤枝さん、今しばらく、娘をよろしくお願いします」

 同じく、重樹の翻心の理由がわからぬあやめに軽く会釈して、重樹は帝劇を辞去していった。




その2



「あっ、汽車が来ました。乗りましょう!」
「うわぁ!すっごい人…これが東京のお正月なんですねぇ!」
「私達も行きましょうよ、大神さん!!」

 弾む声。踊るような足取り。光に満ちた笑顔。人込みの中で全身から喜びを溢れさせた少女は、その姿を見る者にも幸福な気持ちを分け与えていた。一年の最初の日、幸せを祈りに集う人々はその少女の嬉しくて仕方が無いといった様を見て皆一様に顔を綻ばせ、暖かな光が心に射すのを感じていた。人々の目を引き寄せる少女、しかしその目はただ一人の青年だけを見ていた。人々の心を光で満たす幸福の御使いの笑顔は、彼女に歓びを与えてくれるただ一人の青年にのみ向けられていた。

「さくらくん、はぐれるといけないから手を繋いで行こう」
「はいっ!!」

 青年の顔にも微笑みが浮かんでいた。この上なく暖かく、優しい、そして静かでいて力強い笑み。力弱き者に無条件の安心と信頼を感じさせるような包容力に溢れた、言うならば王者の表情だった。この二人を恋人同士ではないと思った者などこの人込みの中、ただの一人もいなかっただろう。この青年にこの微笑みを浮かべさせることが出来るのはこの少女だけ、この少女にこの笑顔をもたらすのはこの青年だけ。二人を見る者全てにそう思わせる、比翼連理の一対。美しい少女であるにも拘わらず、涼やかな二枚目であるにも拘わらず、少女と青年に邪心を抱いた者はいなかった。すれ違う人々の全てが清々しさに包まれ、気付かぬ内に微笑みを浮かべていた。
 そう、人々は皆……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大神とさくらは明司神宮に来ていた。歴史の新しい神社であるが、既に帝都屈指の人出で賑わう初詣の名所となっている。

「……?」
「大神さん、どうなさったんですか?」

 祭殿への順番を待つ列の中でふとあたりを見回した大神に不思議そうな顔でさくらが尋ねる。

「いや…なんでもないんだ」
「?」

 笑って応えた大神にかわいらしく小首をかしげながらもさくらもまた笑顔を返した。その輝きに大神は眩しさを感じて目を細める。
 幸せを願う人々の祈り、幸運を求める人々の熱気、その中に黒い染みの様な異質な気配を大神は感じたのだ。しかし、さくらの純粋な輝きに比べれば、全てが、自分も含めて、黒く煤けて感じるだろう、大神はそう思い直した。自分の気のせいだろうと…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 パンッ、パンッ

(………)
(………)

 祭殿を前に柏手を打ち鳴らし短く、しかし一心に祈る二人。一礼し顔を上げた時、奇しくも同時に互いの顔を見詰め合うことになった。
 大神さんが私の方を見てる、さくらの心臓は駆け足から全力疾走へ突入する。自分が大神の方を見たのは大神のことを祈ったからだ。今年一年も一緒に過ごせる様にと。じゃあ、大神さんが自分の方を見ていたのは?苦しいほどに高鳴る胸を何とか抑えて、ぎこちない笑みを浮かべることに成功する。その時

「さくらくんは何をお願いしたんだい?」

 ………!!

 いきなり大神に尋ねられ、危うく飛び上がりそうになった。

 大神さんのことです
 大神さんと一緒にいたいとお願いしました

 思わずその本心が喉元まで出掛かっていた。

「内緒です」

 顔が赤くなっているのが自分でもわかる。思い通りに動かない舌で苦労して当たり障りの無い答えを紡ぎ出すことが出来た。でも、重ねて問われれば最早本心を隠すことは出来ないだろう。

(それでもいい…)

 しかし、大神は礼儀正しく、それ以上の追求はしてこなかった。覚悟を肩透かしされて拍子抜けするのと同時にホッとして、それから少しがっかりするものを感じるさくら。

「さっ、行きましょう!」

 複雑な心境。だけど、今はこれでいい。にっこり笑って、さくらは大神を促した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 賑わう参道。夏祭時並みに屋台が出ている。あれから三ヶ月、帝都も漸く以前の活気を取り戻しつつある。呼び込みの声が争うように響き渡り、ぶつかり合う。耳に痛い程のざわめき。そして人々の明るい笑い声。鬱陶しいほどの人の流れに身を任せて、二人は平和を噛み締めていた。自分達が命を懸けた意味、苦しい戦いの日々が報われるような思いを。公演の喝采とはまた一味違う。自分達が雑踏の一部となり、笑いさざめく人々と共にこの一時を射的や型抜き、大道芸など童心に返って満喫していた。

「大神さん、ちょっと」

 雑踏の切れ目に目をやったさくらが恥ずかしそうな顔で囁きかけてきた。

「ちょっと、こっちへ」

 消え入るような声とは裏腹に強引とも言える勢いで大神の手を引き人込みの外へと、人影の見えない小道へと連れ出す。唐突ではあったが、大神はされるがままについていった。その顔にはただ穏やかな笑みが浮かんでいる。こんないささか子供っぽい行動も大神にはただ微笑ましく、愛すべきものに感じられる。

「ほら、あそこ、北辰権現様です。ちょっとお参りしてきてもいいですか?」

 北辰一刀流の剣士としては素通りできないというところか。それにしても最初からはっきりそう言えばいいところを、なんだか随分かわいらしいお願いの仕方だ。笑って頷く大神。だが大神と並んで歩きながらも、さくらはまだもじもじと、何か言いたそうな風にしている。

「どうしたんだい?」
「あのっ、……」
「…言ってごらん」

 ひどく言い難そうにしているさくらに大神が優しく助け船を出す。もっとも大神はこの時、また何かしくじったのかな、くらいにしか考えていなかった。さくらは基本的に何事にもしっかりしている娘なのだが、時々何で?と言いたくなる様なドジを踏むことがある。そんなところも大神にすればなんとも言えず可愛く感じられるのだが。
 だが、さくらの口から出た言葉に大神は息が詰まった。精神的にだけでなく、肉体的にも。

「あの、…初詣、私と一緒で本当に良かったんですか?」

(…判って言っているのかな…?)

 顔を赤らめるさくらをまじまじと見詰めながら大神は内心首を捻った。悩んだ。よりによってこの場所で、この脈絡で判っていて敢えて訊いてきたのだろうか?
 というのは、二人がその時北辰権現の祭殿の目の前まで来ていたからだ。北辰権現とは北極星の神格化であると同時に造化の三神の別神格でもある。造化の三神、つまり「産霊(ムスビ)」の神であり、転じて「結び」の神でもある…
 答えに詰まってただ目を見開いている大神をさくらは不安そうな顔で見ている。

(考え過ぎか…)

 その表情から、そこまで深く考えられたものではないと大神は読み取った。どうやら意識しすぎているのは自分の方らしい、大神は苦笑する思いだった。

「勿論だよ。何でそんなことを訊くんだい?」

 わざとおどけた感じで大神は答える。不自然に空いてしまった間を埋める為に。だが、大神の作為は大外れになってしまった。

「何でって、その……」

 ますます恥ずかしそうな様子でさくらは完全に俯いてしまう。否が応にも、先の疑心暗鬼が大神の心に甦る。気まずい沈黙の内にただ時が流れる。その時。

 フフフフフフフフフフ

 静寂を破ったのは妖しくも悪意に満ちた嗤いだった。同時に明らかになる人外の気配。

(この気配は、まさか!?)

「大神さん、あそこです!」

 恥じらう乙女から完全に剣士の顔になったさくらが指差す先、それはまた大神の感覚が覚えのある気配を感知した先でもある。そこに侍装束の妖異な影が立っていた。

「また会えましたね、帝国華撃團隊長・大神一郎…」
「黒き叉丹…!」
「フフフフフ…我が名は葵叉丹…」
「黒之巣会め、やはり生き延びていたか!」

 二人の前に姿を現したのは大神が探索の網を張り巡らしながら遂に捕えることが出来なかった黒之巣会幹部、黒き叉丹である。黒之巣会、半年にわたり帝国華撃團が死闘を繰り広げた反乱組織。首領、天海を失いながら再び大神たちの前に立ちはだかろうというのか。
だが、叉丹の口から出たのは意外な一言、同時に大神にとってはある程度予想された一言だった。

「黒之巣会…?フンっ、馬鹿馬鹿しい!天海如きではあの程度が限界さ。所詮、徳川に飼われていた坊主!」
「やはり貴様が…」
「どういうことです、大神さん!?」
「黒之巣会の本当の黒幕はそこにいる男だったということだ!」
「ほう…思ったほど馬鹿ではない様だな。誉めてやろう…だが、お前達の運命に変りはない」
「何っ!」

 嘲笑の波動を放ち続ける葵叉丹を名乗る男にいきり立つさくら。

「この葵叉丹は天海の様に甘くはないぞ。この帝都を根こそぎ破壊し、人間どもを恐怖のどん底に突き落としてやる」
「そんなことは、させはせん!」

 叉丹の挑戦に決然と応じる大神。だが、返ってきたのはやはり嘲りの嗤いだった。

「フハハハハハハ……大神一郎、女にうつつを抜かしているような惰弱な男にこの私を止めることは無理だ」
「言わせておけば!!」
「待て、さくらくん」

 すっかり頭に血が上り素手であることも忘れて飛び掛かろうとするさくらを大神が制す。

「でも…!」

 さくらも他のことならこれ程簡単には挑発に乗ったりしない。大神を侮辱されたのでなければ。父親を侮辱されること、それと同じくらい大神を侮辱されることは、さくらには耐えられないことだった。

「お前の目的は何だ」

 さくらのを背中に庇う形でさくらの暴発を押し止め、大神が叉丹に問う。感情を全く感じさせない声音。それ故にかえって底知れぬ迫力があった。叉丹から滲み出る冷笑の波動に微妙な変化が生じる。

「目的…?俺はただ、人間どもが幸せそうな顔をしているのが気に食わないだけさ…」

 嘲る調子は相変わらずだが、そこに初めて本音のようなものが透けて見える。

「人間どもが苦しみ、恐怖して泣き叫ぶ姿こそが、俺には堪らなく心地いいんだ…」
「そんなこと、絶対に許さない!!」

 さくらが叫ぶ。目の前に大神がいなければ、あるいは大神が少しでも動く素振りを見せれば、さくらは自分のいでたちも忘れて飛び出していただろう。だが、大神は叉丹の挑発に全く反応せず、ただ気迫を込めた視線で睨み付けるだけだ。
 神域の外れに緊迫した気配が高まる。明司神宮の片隅に、祭られた神のものではない気が、力がぶつかり合い火花を散らす。叉丹の妖気と大神の霊気が正面から衝突し、霊的視力を持つものには実際に見ることの出来る火花を生じさせている。

「俺は、おまえ達が愛する人や物の全てをぶち壊してやる!」
「その前に貴様を滅ぼす!」

 ガァァーン

 銃声。抜く手も見せず大神は上着の下に隠したショルダーホルスターの銃を叉丹に向けて撃つ。だが、銃弾は叉丹の体を素通りした!次の瞬間、側方から襲い掛かる妖気の塊を気を纏わせた左手で弾き逸らす大神。

「空蝉か…飛道具では転位の速度に追いつかんのか…」

 淡々とした中にも僅かに無念の色を覗かせて大神が呟く。大神の目には何が起こったかはっきり映っていた。
 銃弾が発射されて肉体に食い込むまでの一瞬の、そのまた何分の一かの短時間で叉丹は幻影を残して転位したのだ。そして幻影に気を取られた所を狙い撃ちするつもりだったのだろう。

「フハハハハハ…やるではないか」

 嘲弄の態度を崩さない叉丹。自分の攻撃が防御されたことに驚く様子はない。今の攻防がお互い小手調べであることを承知しているのか。その横には、新たな三つの影がある。人の形をしているが、人でないことは明らかだ。霊力に乏しい一般人の目にすら明らかだろう。それほど濃密な妖気。

「フフフフフ…来たれ、帝都の下層に息づく抑圧されし魔の者達よ!我こそは魔の解放者なり。出でよ、降魔!!」

 辺りに魔の気が満ちる。おお、何ということであろうか。神域の一角に逆聖別された空間が生じようとは。いかに六破星降魔陣の影響で帝都の結界が弱まっているとはいえ、それ程に叉丹の妖力が強大であるということだろうか。
 地の底より吹き上がる瘴気。その中から、醜悪な魔物が次々と実体化してくる!蝙蝠の翼、満たされぬ貪欲を象徴するかのごとき巨大な顎(あぎと)と巨大な牙。粘液質の皮膚に凶悪な爪を備えた手と太い足、長い尾。全体に、太古の二足歩行恐竜の想像図に翼竜の翼をつけたかのごとき姿。しかし、自然の生み出した生物では有り得ない忌まわしい姿。邪念の果実、怨念の結晶。人の心の闇のみが生み出しうる醜悪なモノ。

「降魔!?」

 さくらが声を上げる。

「Devil…そうか、降魔とは…」

 大神が呟く。耳聡く聞きつけたさくらは大神の横顔を仰ぎ見るが、すぐにそのような場合でないことに気づく。魔物、降魔は更にその数を増し、二人を取り囲もうとしていた。

「フハハハハハ…大神一郎、今日の所はその者達がお前のもてなしをしてくれよう。縁があればまた会おうではないか。ハハハハハハハ…」

 身を翻す叉丹。その姿は瘴気の中に開いた黒洞へと消えていく。

「我が名は猪。降魔、黄昏の三騎士の一人だ。また会おう。もっとも貴様らが生きていればの話だがな。ガハハハハハッ」
「俺の名は鹿。降魔の将、黄昏の三騎士の一人。もし生き延びることが出来たら次は俺が相手をしてやる。ハハハハハッ」
「アタシは黄昏の三騎士の一人、蝶。このアタシに会えるなんて幸せな奴等ね。オホホホホ…死ぬ前にアタシに会えたことを神とやらに感謝するのね。ホホホホホ…」

 そして叉丹の後に続く三体の魔物。黒い洞穴が消えると同時に降魔の出現が止まる。だがその時には数十の人間大の降魔と十を超える人の背丈の二倍はあろうかという巨大降魔が地上に姿を現していた。

「さくらくん、俺が食い止めている間に神宮前駅脇の出撃施設へ駆け込むんだ」
「そんな!大神さん一人を置いて行けません!!」

 さくらを背に庇ったまま指示を出す大神にさくらが食って掛かる。さくらは当然大神と一緒に戦うつもりだった。しかし、大神の返事は無情なまでに冷静だった。

「さくらくん、剣も無しでどうやって戦うつもりだ?既に本部へ緊急信号を送った。轟雷号が光武を運んでくる筈だ。君は皆をここへ連れてきてくれ」
「それを言うなら大神さんだって!いくら大神さんでも拳銃一つでこの数を相手に出来る筈ありません!!」

 食い下がるさくら。そこへ降魔が飛び掛かった!

 破っ!!
 鈍ォン

 気合一閃、そして肉を打つ鈍い音。

「大神さん…」

 こんな場面であるにも拘わらず、どこか呆然と呟くさくら。その目の前には掌を突き出した姿勢で残身をとる大神ともんどりうって倒れた降魔の姿。大神の荒い息遣いが聞こえる中、降魔は瘴気へと分解していく。
 大神が掌を突き出した瞬間、強烈な霊光が閃くのをさくらは見た。霊気を打ち込んで降魔を倒したのだ。それも素手で。確かに、自分にはこんな事は出来ない。しかし…

「さくらくん、この通り、俺なら大丈夫だ。行けっ!」
「いいえ!一匹倒すだけでそんなに消耗されるのにこれだけの数もつ筈がありません!」

 そう、たった一撃繰り出しただけ、それだけなのに大神は呼吸を乱していた。一時間以上剣を振り続けても僅かに息を弾ませるだけの大神が。

「さくらくんっ!!俺一人ならどうにでもなる。これは命令だ!行けっ!!」
「…!、わかりました。でも大神さん、絶対に無理をしないって約束して下さい」

 大神がただ自分のことを案じてこういう言い方をしているのだとわからないさくらではない。さくらは漸く心を決めた。自分が今すべきことは、大神の足手纏いにならぬ様一刻も早くこの場を脱出して、そして一刻も早く応援を連れて戻ってくることだと。

 破っ!!
 鈍ォン

「約束する。命を粗末にするつもりはない」

 二匹目を倒し振り向く大神。目と目で頷き合う。銃を握り、退路を開こうと視線を巡らせる大神。巨大降魔が動き出す前にさくらを脱出させなければならない。自分の力でも素手や小型拳銃では巨大降魔を食い止められないであろうことを大神は認識していた。

 グガァアアアア

 そこへ急に、群れの後方から降魔の苦鳴が聞こえた。

 急急如律令!

 意志あるものの如く宙を舞う符が見える。

「陰陽陣!漸く動き出したか」
「援軍ですか!?」

 大神の言葉にさくらが歓声を上げる。陰陽陣、近衛軍法術大隊。官幣神社である明司神宮は本来彼らの警護管轄である。「漸く」と大神が言いたくなるのもわからないではない。実際、大神は彼らの対応の鈍さに舌打ちする思いだった。だが、今はさくらを脱出させることが先決だ。

「さくらくん、俺から離れるなよ!」
「はっ、はい!」

 降魔の群れが最も薄くなっている方へ大神が駆け出す。銃声、爆発音、降魔の苦鳴。霊力を込めた銃弾は炸薬でも仕込んであるかのごとき気の爆発で降魔の体を削ることは出来ても、直接攻撃のように降魔を滅ぼすことは出来ない。それでも、新手によって乱れた不完全な包囲網を抜ける脱出路を作るだけなら可能だった。一気に群れの外側まで駆け抜け、降魔へと向き直る大神。二人の背中へ飛び掛かろうとした降魔の翼を銃弾で吹き飛ばし地に這わせる。

「行けっ!」
「すぐ戻ります!それまで、無事でいて下さい!!!」

 さくらが再び走り出すのを横目で確認しながら、大神は続けざまに引き金を引いた。




その3



「あやめさん、早く、早くして下さい!」
『落ち着いて、さくら。状況を報告して頂戴。』
「そんな事を言ってる場合じゃありません!早くしないと大神さんが!!」
『轟雷号は既にそっちへ向かっているわ。外出しているマリア、カンナ、紅蘭もすぐに翔鯨丸で現場に向かわせます。いい、大神君を助ける為にも正確な状況把握が必要なの。落ち着いて!』

 神宮前駅の脇に偽装された帝国華撃團の秘密拠点、霊子甲冑出撃施設へ駆け込んださくらは、そのままの勢いで通信機にへばりつきあやめを呼び出していた。彼女は焦りで我を失っていた。最初は轟雷号が既に到着しているものと決め付け、まだであると認識するや、早く早くとあやめに食って掛かったのである。大神を助ける為に、その一言に漸く自制心を回復し、華撃團の隊員に相応しい態度を取り戻した。

「すみませんでした。報告します。黒之巣会残党、黒き叉丹が明司神宮に出現、多数の降魔を呼び出しました。現在、大神隊長が近衛軍法術大隊と共同で迎撃中なるも、敵多数の上、生身では有効な攻撃を加えること難しく、苦戦中。私は隊長より光武を現場へと誘導する様指示されました」

 打って変わった正確な報告。その機械的な口調が、さくらが精神的な混乱から完全には抜け出していないことを示している。心の半分は大神の所にあるのだろう。

『了解しました。後1分ほどで轟雷号が到着します。』

 通信が切れる。さくらは予備の簡易戦闘服に着替えるべく更衣室へ走った。

 ぴったり1分で轟雷号が到着。さくらは既に着替え終わっている。流石は女優、早変わりで慣れているのか、着替えが早い。しかし、いかんせん共通用の簡易戦闘服、さくらの体形に完全に合っている訳ではないし、型も単純でそっけない。晴れ着用に美しく化粧したさくらの美貌にはこの上なく不似合いだった。もっとも、さくら本人はそのようなこと全く気にしてはいなかっただろう。確かに、さくらの心は半ば以上ここにはなかった。

「さくらさん、少尉は!?」
「さくら、お兄ちゃんは!?」

 轟雷号の格納室が開くや否や、外部拡声器で問い掛けてくるすみれとアイリス。その大音量に顔を顰める機関員、だが、さくらは一顧だにせず自分の光武へ駆け上がる。一瞬で起動する薄紅の光武。それ程にさくらの気は高まっているということだ。

「すみれさん、アイリス、ついてきて!!」

 応答を確認もせずにさくらは自機をカタパルトへと進ませた。

「さくら、出撃します!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「闘っ!」

 風を切る鉤爪を躱しぬめりを帯びた青黒い皮膚を切り裂く。動きが止まった所でもう片方の刃を頚部に叩き込む。倒れ伏す降魔の頭部に切っ先を突き込む。そこまでして漸くその体は動きを止め、瘴気へと分解していく。
 大神は二本のサーベルを手に戦っていた。この場に駆けつけた警察官から借り受けたものだ。無断で、だが。その警官達は降魔の吐き出す瘴気に昏倒していた。これは彼らにとって、不幸中の幸いであったかもしれない。霊力を持たぬ生身の人間が降魔に立ち向かった所で、その身を引き裂かれるだけだ。瘴気の後遺症は免れないだろうが、少なくとも確実な「死」の運命だけは避けられたのだから。
 大神の懐に最早銃弾はない。初詣に来るのに、それほど多くの弾丸を用意している筈も無い。手中にあるのは妙に軽い、頼りない剣であるが、素手で戦うより遥かに消耗は少ない。例え降魔に加えられる威力は劣るとしても。だが、それでいいのだ。今の大神の目的は、さくらが戻ってくるまでの時間稼ぎなのだから。彼はさくらが仲間を連れてくることを、花組の仲間が間に合うように駆けつけてくれることを露程も疑ってはいなかった。

「闘っ!」

 斬・斬・斬

 それでも大神は既に10匹以上の降魔を葬っていた。法術士達の戦果と合わせれば、半数以上を倒したことになる。しかし、十数匹の巨大降魔は無傷で残っていた。そう、大神の危惧は的中していた。人の倍以上の巨大降魔は、人間大の降魔に比べ桁違いの力を持っていた。呪符の集中攻撃を受けても、ほとんど痛手を被った様子が無い。救いは、その巨体故に俊敏な移動が出来ないことか。体が大きすぎてその翼では支えきれぬ様子だ。一応飛行により移動するのだが、それは飛ぶというより浮くという感じで高度もせいぜい地面から1メートル程度だ。しかも、余り長時間浮いてはいられないらしい。かといって歩くのも苦手のようである。その足の形状は歩く為というより生き物を突き刺し、踏み潰すのに適しているようである。その為もあって、かろうじてこの場に足止め出来ている。しかし、いつまでもそうはいくまい。

 ズシン……

 その時大神は覚えのある振動音を知覚した。硬く重量の有る物が落下した微かな振動。そして金属の擦れ合う音と蒸気の排出音が連続で聞こえてくる。

(来たか!)

 間違いない。霊子甲冑の着地音と走行音だ。

「もうすぐ私の部下が到着します。隊列をまとめて後退して下さい。奴等をこの場に足止め願います」

 降魔の攻撃をかいくぐり法術部隊の指揮官に指示を出す。大神は、合流してすぐ自分の身分を名乗っていた。頷く指揮官。階級は彼の方が上だが、この場の主導権は自然と大神が掌握していた。

「私は自分の機体をとってきます。しばらくこの場をお願いします!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「隊長!」

 外部拡声器でさくらが叫ぶ。この常と異なる呼びかけは、大神から外部音声を使う場合には名前を呼ばない様、念を押されていたからである。

「中型の降魔は標準装備の霊子小銃で倒せる筈だ。巨大降魔の方は俺が戻るまで足止めするだけでいい。守りに徹するんだ!接近戦は絶対に回避せよ!」
「はっ、はい!」

 意外な消極作戦だが、これ迄大神の作戦指揮には常にそれなりの理由があった。そして、常に正しかった。出撃施設へ走り去る大神の後ろ姿へ僅かに視線をやりながら、三人は心の中で命令を復唱した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「帝国華撃團、参上!」

 戦場の様相は一変していた。陰陽陣の術士達は一塊になり巨大降魔の攻撃を避けながら襲い掛かる中型降魔をかろうじて撃退している。ほとんどが多かれ少なかれ傷を負い、じりじりと後退していた。降魔を相手に傷を負うということはその身を瘴気に侵されるということである。それでも術を使うことが出来るのは流石と言うべきだが、霊力の低下は避けられない。

「ここはわたくしたちに任せて後方にお下がり下さい!」

 長尺の間合いを生かして法術士に襲い掛かる降魔を貫きすみれが叫ぶ。

「すみれさん、前に出過ぎない様に気を付けて下さい!」

 さくらが大神の言葉通りに霊子小銃で中型降魔を狙い撃つ。

「やあっ!」

 アイリスが念動力で飛び掛かる降魔を押し戻す。大神の指示に従い距離をとり牽制気味の攻撃を繰り返す三人。

『何とか、間に合った様ね。』
「あっ、翔鯨丸だ!」
「あやめさん」

 高度を下げる翔鯨丸。そこから銀と、紅と、緑の鋼の塊が降下する。

「さくら、大丈夫!?」
「遅うなってすんまへん!」
「待たせちまったな!」

 新たな光武。マリア、カンナ、紅蘭が到着したのだ。

「遅いですわよ、お三方」
「なっ」
「さくら、隊長はどうしたの!?」

 すかさずいつもの調子で口を挿むすみれ。言い返そうとしたカンナの言葉に被せるようにマリアが状況を確認する。

「大神さんは光武をとりに行かれています」
「ご無事なのね」

 ホッとしたようにマリアが問い返す。

「ええ、お怪我をされている様子はありませんでしたわ」

 答えたのはすみれだ。すみれも同じ様に感じたことがその口調からわかる。

「よーし、そうとわかればとっとと魔物どもを片付けようじゃねえか!」
「待って下さい、カンナさん。大神さんは自分が戻るまでこちらから攻撃するなとご命令されました。接近戦は回避して足止めするだけに止めろと」
「…?、了解したわ。紅蘭、行くわよ」

 今にも突っ込んでいきそうなカンナを押し止めるさくら。大神の指令の意味が完全には理解できないまでも遠隔攻撃の指示をするマリア。だが、花組の六人ほど大神のことを盲目的に信奉していないあやめには、光武の動きは全く不可解なものだった。

『どうしたの、皆!?降魔が市街地に出る前に仕留めないと!』
「あやめさん、大神さんの指示なんです。自分が戻るまで守りに徹するようにって」

 あやめの指令に何の疑いもなく逆らうさくら。否、さくらには逆らっているという意識はないのだろう。さくらにとって指揮官は大神一人であり、副司令といってもあやめは帝撃をまとめている素敵な女性、というだけに過ぎないのだから。その当たり前のような口調にあやめは思わず言葉を詰まらせた。

「皆、待たせたな!」
「大神さん!」

 その時。純白の機体が姿を見せる。大神機が漸く到着したのだ。

「皆、一撃離脱で大きな奴に一匹ずつ集中攻撃だ。決して足を止めるな。速さで撹乱しつつ戦え!」
「はいっ!」

 六人の声が揃う。これ程大神が警戒している相手だということを知り緊張感に囚われながらも、絶対の信頼を置く指揮官の登場による安心感の方が強かった。全員が揃い、改めて名乗りをあげる。

「帝国華撃團、参上!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なんて強さですの!」
「くそっ、倒れやがれ!」
「これでどないやっ!」

 花組は苦戦していた。中型の降魔は全て葬った。しかし、光武をもってしても巨大降魔を仕留めることは難しかった。損傷が蓄積していく光武。巨大降魔は移動の足こそ鈍くとも、攻撃に対する反応はその巨体から考えられないほど素早かった。そしてその攻撃力は防禦力場を突破しシルスウス鋼を軽々と切り裂く。不用意に接近戦を挑んでいたら、たちどころに全滅していただろう。

「狼虎滅却・快刀乱麻!!」

 今日何度目かの必殺攻撃を大神が放つ。漸く倒れ滅び行く降魔、そして軋みを上げる霊子機関。攻撃を一匹に集中すれば倒せぬ訳ではない。
 しかし戦況は極めて厳しかった。まだ敵が半数以上残っているにも拘わらず、光武の損傷は無視し得ぬ段階に達していた。既に何度も大神の秘術、霊体投射による能動防御が発動している。それでも、接近戦を主とするさくら機やカンナ機の装甲は限界に近づいている。また、防御の弱いマリア機などは機体運用に支障が現れるほどの損傷を受けていた。 そして連発される必殺攻撃に各隊員は疲労の色濃く、それ以上に霊子機関が悲鳴を上げている。とりわけ、立て続けに快刀乱麻を使用した大神の光武は霊子機関に異常加熱の兆候が出始めていた。少しずつ、後退を余儀なくされる花組。戦場は何時の間にか、明司神宮の一番外れまで移動していた。

「よし、全員、急速離脱!」
「えっ!!」
「あやめさん、翔鯨丸で砲撃して下さい!」
『りょ、了解!』
「急げ!!砲撃に巻き込まれるぞ!」
「了解!!」

 確かに上空から辺りを見回しても人影は全く無い。降魔の攻撃に押されながらも、翔鯨丸の砲を使える位置に戦場を誘導していたのか。いつもながら、大神の戦術指揮能力には舌を巻く思いがするあやめだった。

「霊子爆雷、撃てっ!」

 花組が十分距離を取った所で地上に霊子爆雷の霊力衝撃波が炸裂する。巨大降魔の移動速度が低いことまで計算に入れた戦術だったのだ。

「アイリス、全員の機体を修復してくれ」
「うんっ!イリス・マリオネッートッ!!」

 翔鯨丸の砲撃によってアイリスの回復能力を使う余裕が生じる。機体の損傷を一気に修復し、砲撃で弱った降魔に対し一斉反撃を開始した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(これで最後だ!)

「狼虎滅却・快刀乱麻!!」

 最後の一匹が消滅する。この世のものならざる魔の物の宿命、この世に破壊の跡以外何も、亡骸も残すことはない。

「…作戦、終了。全機、帰投する」

 何度快刀乱麻を繰り出しただろうか。いや、その前にも生身で降魔を相手取っていたのだ。さすがに疲労の色を隠せない。心なしか呼吸も荒い様だ。

「大神さん!?光武が!」

 背を向けた純白の光武が視界に入った瞬間、さくらは驚愕の声を上げていた。

「大神はん、霊子機関が!」

 その声とどちらが先だっただろうか。大神の機体が火を噴いた!
 操縦席から転がり出る大神。地面を一転して即、立ち上がった姿には怪我をしている様子はない。しかし、さすがにどこか呆然とした面持ちで霊子機関から煙を上げる光武を見詰めていた。

「大神さん!…何!?光武が動かない!」
「どうしたってんだ!?光武が!」
「どうなってるんですの!?」

 大神の元へ駆け寄ろうとして、同じ様に狼狽の声を上げる少女達。よく見れば、彼女達の機体からも各所から小さな火花が上がっている。

「皆、脱出するんや!光武は、光武はもう限界なんや!!」
「皆、急いで脱出しろ!!」

 紅蘭が悲鳴交じりで叫ぶ。最早異常は誰の目にも明らかだった。我に返った大神の語気に押されたかのような勢いで少女達は光武から飛び出した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「光武が壊れてしまったわね…」
「ああ、長い付き合いだったけど、こいつはもう使えないな…」

 真近で改めて見る光武は思ったより遥かにひどい有り様だった。異常事態に慌てて運び込まれた翔鯨丸の格納庫の中で光武を前に半ば自失状態の花組。装甲の各所に無数の爪痕が刻まれ、所々穴が空いている。だが、本当に酷かったのは目に見えない部分の損傷だった。全機体、霊子機関が過負荷に焼き切れていた。蒸気機関は分解寸前となっていた。それは、設計限界を遥かに超えた稼動を強制された結果以外の何ものでもなかった。

「クスン…機体の限界をとうに超えとったのに、このコたちホンマよう働いたで。なあ…ゆっくりお休み…ウチの光武…」

 涙ぐむ紅蘭。光武は彼女が愛情を注いだ一種の芸術品だ。その感傷を笑う者などいなかった。しかし、涙に暮れるその一方で、技術者としての紅蘭はこの事態に至った原因について冷静に分析していた。光武を限界以上に稼動させる能力、それは…
 彼女の視線が向く先には珍しく深刻な表情を露にして考え込んでいる大神の姿があった。




その4



「光武が全滅とはな…葵叉丹か。大神、お前の予想が当たっていたようだな」
「申し訳ありません。三軍の協力を得ながら今回の事態を予防できなかったのは私の力不足です。いかような処分も覚悟しております」
「馬鹿野郎!若造が生意気な口を叩くんじゃねぇ!!」
「申し訳ありません」

 太正13年1月1日。夜の帳の下りた帝都、銀座。大帝国劇場の、存在しない筈の地下に設けられた帝国華撃團本部地下司令室。

「いいか、大神。腹ぁ切るなんざぁいつでも出来るこった。その前にやるべきことがあるだろが」
「はっ!」

 大神、米田、あやめ、その表情にはいずれ劣らぬ疲労の跡が刻まれている。突如起こった明司神宮の戦闘は辛くも勝利した。だが、その代償は大きかった。光武、全機稼動不能。敵は撃退したものの、兵装の面から見れば全滅に等しい。人的損害が無かったのが奇跡のようだ。
 否、正確に言えば人的損害零とは言えない。同時に出動した近衛軍法術大隊の一小隊は全員負傷により戦闘不能の状態にある。

「…ああ、そう言えばお前に一つだけ確認しておくことがある」

 無表情に問い掛ける米田。

「お前、さくら達にこちらから攻撃するなと命じたそうだな」
「はい」
「…その所為で陰陽陣の損害が拡大したとの指摘があった。理由は何だ?」

 米田は畏れ多くも先帝を祭った神域が魔性に汚された、帝国の威信に関わるこの事態に帝都防衛の一翼を担う責任者として三軍の極秘会議に呼び出され、先ほど漸く戻ってきた所だ。軍部の中枢中の中枢とはいえ、官僚主義の責任転嫁の宿業からは逃れられないものらしい。それにしても華撃團の専用通信をよく傍受できたものだ。それとも、順風耳の術者でもあの場にいたのであろうか。
 米田の静かな質問に大神は眉一つ動かさなかった。

「兵力の逐次投入が避けられない状況では、戦線の拡大を最小限に止め後続との合流を最優先することが戦術の定石だからです」
「なっ…」

 余りにも非情な、内容よりもその口調に思わず声を上げたのは米田ではなくあやめだった。それはまるで、法術士部隊を犠牲にすることなど何とも思っていないかのような物言いだった。

「確かにその通りだ」
「……!」

 だが、米田までそれを当然であるかのように頷いている。軍人として半生を戦場で過ごしてきた者、軍人としての専門教育を叩き込まれた者と、霊力があるというだけで軍に招かれた者の違いであろうか。あやめは非情な軍人になりきれない。だが、米田と大神は結局「軍人」という同じ人種だ。そのことを思い知らされたような気がした。自分が彼らの「仲間」とはなり得ないことを…

「向こうにはそう回答しておこう。問題は今後の対策だ」
「…一晩、時間を頂けませんでしょうか」

 僅かに逡巡した後、返ってきたのは珍しく歯切れの悪い答だった。確かに即、対策を立案できるような生易しい状況ではない。米田は了承の合図をして大神を下がらせた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「大神はん、紅蘭です」

 自室で考え込む大神の耳に飛び込んできたのは扉を叩く紅蘭の声だった。

「どうした、紅蘭?」
「ちょっと、相談しときたいことがあるんやけど…」

 廊下に顔を出した大神に紅蘭は珍しく深刻な顔で切り出した。

「そうか、実は俺の方にも訊きたいことがあったんだ。ちょうどいい、中に入ってくれ」
「遅うにすんまへん」

 紅蘭を招き入れ閉ざされる扉。そこに忍び寄る人影があった。

「…紅蘭、こんな遅くに少尉と何のお話をするつもりかしら…?」

 紫の振り袖を纏った少女は、はしたないと自分で思いながらも扉に耳を寄せた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さて、じゃあ紅蘭の話から先に聞かせてもらおうか」
「わかりました。実は、光武のことなんです」
「ああ」

 真剣そのものの声音に短く応え、大神は先を促した。

「結論から言うと、光武を直せる見込みはほとんどありまへんのや」
「そうか…」

 さして衝撃を受けた様子もなく、短く嘆息する大神。

「その様子やと、やっぱり大神はんにもわかっとったみたいやね?」
「予想はしていたよ」

 極めて衝撃的な事柄を当然のような顔で話す二人。実際、戦闘後の光武の惨状を見れば、二人には大体わかっていたことだった。紅蘭は霊子甲冑の整備責任者だし、大神は本物の兵士だ。自分の使っている武器のことなら図面から引き直し組み立てられるほど知り尽くしていなければ本物とは言えない。

「それに、例え修理できたとしても今度の敵の強さから見て、今回の二の舞いになると思います」
「そうか…それで?紅蘭は新しい霊子甲冑の開発が必要だと言うんだな?」
「はい…そやけど、そう簡単にはいきまへんで。新しい霊子甲冑を開発するとなれば、人、時間、そして何より」
「資金が必要、だろ?」
「そうや。そうでなくても帝撃は金食い虫なんです。霊子甲冑の維持整備から、轟雷号や翔鯨丸の運用まで、いったい幾らかかっとることやらうちにも正確にはわからんくらいや。新しい霊子甲冑を開発するだけの資金が調達できるかどうか…」

 カタッ

 不意に、扉の外から物音が聞こえる。鋭く視線を投げる大神。

「な、何や、怖い顔しおってからに!?」

 その視線の鋭さに少し怯えた様子を見せる紅蘭。話が話だけに大神を不機嫌にさせてしまったのかなどと有り得ない不安が頭をよぎる。

「いや、何でもないよ」

 すぐに柔和な表情に戻る大神。紅蘭が他人の感情の動きに人一倍気を遣う性格だということを知らない大神ではない。案の定、紅蘭からはほっとした雰囲気が伝わってくる。しかし、彼の感覚は今の物音が何でも無い訳ではないということを正確に捉えていた。

(今の気配は…すみれくんか?話を聞かれてしまったようだな…)

 誰に知られてもいいという種類の話ではないが、とりあえず、すみれのことは後回しにする。今は紅蘭に確認しておくべきことがあった。

「紅蘭、仮に資金が調達できたとして、光武より強力な霊子甲冑を短期間の内に開発することは可能か?」
「そうやね…出来ると思います。実は前々から光武に代わる霊子甲冑の研究は進めとったんです。資金と、それから霊力の伝達効率を上げる装置を開発できれば…強力な霊子甲冑にはそんだけ大量の霊力を伝える必要がありますさかい。大神はんならともかくほかの皆は…」
「わかった。資金は長官と相談して何とかしよう。霊力の伝達技術については紅蘭に任せる。花屋敷のマル特班の研究が役に立つと思う」
「マル特班…?何やの、それ?」
「霊子波動補正装置開発の為の特別班だ。俺から連絡しておくから、明日にでも尋ねて見てくれ」

 紅蘭は何となく不審げな顔をしている。花屋敷に自分の知らない研究班があるということが納得できないのだろう。霊子波動補正装置というのも聞いたことが無い。だが、それについては特に説明せず、大神は紅蘭を部屋に返した。
 その夜、大神は深夜まで机に向かいペンを走らせていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「おはようございます、長官」

 帝撃地下司令室、入室と同時に敬礼を見せる大神。朝一番の挨拶を口にした後、軽く目を見開く。

「加出井少佐、おはようございます。このように早くからお見えとは、何か事態に変化が生じたのでしょうか?」

 時刻は8時丁度である。大神も朝稽古の後汗を流し、朝食を済ませたばかりだ。ちなみに大神がゆっくりしていた訳ではなく、集合時刻が8時だったのだ。
 言っている内容の割には、大神の口調に緊迫感はない。その場の雰囲気で差し迫った事態が発生したのではないことは判っていた。言わば、会話のきっかけとして口にしただけの台詞だ。

「いや、そういう訳じゃない。昨日はうちの司令が失礼なことを閣下に申し上げたと耳にしてね。お詫びに参上したのだ」
「加出井、お前も意外と細かい奴だな。俺も大神もいちいちそんなことを気にするような性質じゃねぇぜ?」

 これは当然、米田だ。

「いえ、そういう訳には参りません。皇家直轄の神域の守護は本来、我々陰陽寮の末裔の任です。昨日の不名誉な事件は我々陰陽陣の責任であり汚点。帝国華撃團は我々に助力して下さったものであり、責を問われるべき立場ではありません。しかも、大神少尉の奮闘が無ければあの小隊はとうに全滅、恥の上塗りをしていた所だったとの証言がありました。大神少尉は我々のなけなしの名誉を救ってくれたのであって」
「もうその辺にしときなよ、加出井。大神が困っているじゃねえか」

 熱く弁を振るう加出井を苦笑混じりで止める米田。実際、放っておけばいつまで続いたかわからない。
 礼儀正しく神妙な顔で沈黙を守っていた大神は、加出井が落ち着いたのを見計らっておもむろに口を開いた。

「少佐がお見えになっていたのは、こう申し上げては何ですが好都合でした。一つお訊きしたいことがあります」
「あ、ああ、何だね、少尉?」
「降魔、あの魔物どもをどの程度の期間封魔結界で抑えておくことが出来ますでしょうか」
「……それはどの程度の期間を想定してのことかな?永続的にというのであれば、残念だが…」
「いえ、一ヶ月程度の期間を念頭においているのですが、如何でしょうか」

 大神の質問の意図が判らず、顔を見合わせる米田とあやめ。一ヶ月程度の期間降魔を封じておくことにどんな意味があるのだろうか。

「…一ヶ月程度であれば可能だと思う。どの種の結界が有効であるか、それさえ判れば…」
「そう言えば、大神君。さくらに降魔について何か心当たりがあるようなことを言ったらしいわね。Devilとか何とか…」
「はっ、あの魔物の姿、そして波動からは以前インドシナで遭遇した、西洋黒魔術に召喚されたDevilと共通のものが感じられました。降魔はおそらくこの国の大地に源を発するものではなく、西洋より渡来したものではないかと…」
「インドシナで…?」
「はい、任官直後の訓練航海中のことです。ドイツ海軍の残党に黒魔術師が紛れ込んでおりまして…今にして思えばたいした力量ではなかったようですが」

(一体この人は…)

 初めて聞く大神の体験談に言葉を失うあやめ。では、大神は何の魔術的な手段も霊子技術兵器も使わずに魔物を撃退したことがあるということだ。おそらく、海軍では極秘事項になっている事件なのだろう。何ら魔術的な素養を持たないということが益々信用できなくなってくる。もっとも、これはあやめ自身の調査結果なのだし、魔術を修行していれば光武を動かせない筈なのだが。

「…西洋の黒魔術か。それは参考になる。判った、名誉挽回だ。降魔封印の件は我々が引き受ける」
「大神…そろそろ説明しちゃあくれねえか?」

 力強く頷いて請け負う加出井。いい加減、訳がわからないという顔付きで米田が口を挿む。

「一つには、新たな霊子甲冑開発に3週間以上は必要だろうということです」

 手に持った書類の束を米田に差し出しながら一語一語区切るような調子で大神が説明を始めた。

「昨晩、紅蘭に確認した所、技術面での新霊子甲冑の基本構想は出来ているとのことでした。花屋敷のマル特班で研究させている霊子波動補正装置を単なる伝達装置として使えば設計段階までは短時間に進行するでしょう。問題は資金面ですが」
「それで、これか?」

 手元の書類にざっと目を通しながら呆れたように米田が呟く。

「大神ぃ…こいつは説得じゃなくて脅迫って言うんだぜ?」
「……」
「結果は同じ、か?お前らしいっちゃらしいがな。それで?」

 続きを促す米田。

「はい、長官。暫く、帝都を離れることをご許可願えませんでしょうか」
「何ぃ!?」

 これにはすっかり意表を突かれたといった表情を見せる米田。驚いているのは米田ばかりではない。あやめも、話を横で聞いていた加出井も愕然とした顔をしている。
 戦場放棄、それはおよそ大神らしからぬ申し出だった。いろいろと欠点もある大神だが(主に情緒面で)、その責任感だけは全く文句のつけようが無いものだとこの場の誰もが思っていた。どんな不利な状況でも、決して指揮官としての責任を疎かにせず常に冷静な判断力を失わずに半年にわたり黒之巣会と戦い抜いたのだ。その大神が、この状況下で帝都を離れると言う。帝都守備という彼自身の任務を陰陽陣に、他人の手に委ねて。

「……理由を聞こうか」
「今の私の力では、残念ながら奴等を確実に葬ることが出来ません。このままでは、勝敗は五分五分です」
「………」

 自分のことを一片の感情も交えず冷静に論評する大神。誰も言葉を挿めないまま、僅かな間の後、口調を一転させて大神は続けた。

「一ヶ月、いえ、三週間時間を下さい。奴等を滅ぼす力を身につけて戻ってきます!」

 決して大声ではないがその言葉からは決意が迸っていた。

「…何か当てがあるのか?」
「はい。今は、ある、としか申し上げられません。ですが、必ずや!」
「…わかった。加出井、そういう訳で済まねえが一ヶ月ほど苦労してくれねえか?」
「長官?」

 言外に、よろしいのですか、との問いを込めてあやめが呼び掛ける。帝国華撃團は魔物から帝都を守護する為に各方面へ無理を通して米田が設立したものだ。にも拘わらず、魔物に対する帝都守護を他部隊に委ねるということは帝国華撃團の存在意義に関わることであり、ひいては軍部における米田の立場を危うくするものとなりかねない。あやめは、大神の無神経を責めたい気持ちだった。

「いいのだ、あやめくん。加出井、頼めるか」

 しかし、米田は達観した顔をしている。陰陽陣に帝都守護の任務を依頼するということの意味をわかった上でこう言っていることは明らかだった。

「無論です。この所華撃團に助けられてばかりですから。たまには我々も働きませんと」

 知ってか知らずか、加出井はどこか軽い調子で頷いた。

「少佐、お願いします」

 長めの敬礼を見せる大神。その完璧な姿勢と抑えられた表情からは何の感情も読み取ることは出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「長官、大神少尉の『脅迫』とは一体何だったのですか?」

 大神が退出してすぐ、あやめは好奇心を抑えかねるといった風情で米田の側に寄って来た。反対側を見れば、加出井も興味津々といった顔付きをしている。

「ああっ?まあ、これを見てみな」

 呆れた気分が甦ってきたのだろう。ぞんざいな手つきで手書きの書類を差し出す米田。あやめが手にした書類を横から加出井も覗き込んでいる。

「………以上の検討により、降魔を放置した場合その破壊活動が帝都経済、ひいては日本経済に与える損害額は最小に見積もっても…」

 読み進む内に段々胡乱なものを見る目付きになっていくのが自分でもわかる。要するに大神は、帝撃に金を出す方が出費は少なくて済みますよ、だから帝撃に出資しなさい、と言っているのだ。厚かましいと言えばこれ以上厚かましい言い種はない。

「くくくくくっ……」

 加出井は口に手を当て必死に笑いを噛み殺している。それでも、笑いが漏れ出てくるのを抑えられない様だ。

「し、しかし、この数字は正確なんですかね…」

 笑いの発作を鎮めようと努力しながらそれでも面白そうに加出井が茶々を入れる。大体二十歳そこそこの一軍人が一国経済の被る被害総額など算出できるものだろうか。

「それが正確だったりするんだよな、あいつの場合…」

 どこか遠い目をして米田が呟く。その口調に、急に笑いの衝動が遠のき背筋にうそ寒い感覚が走るのを加出井は感じた。




その5



「皆揃っているな。それでは作戦会議を始める」

 帝国華撃團銀座本部作戦室。ここは主に実戦部隊、花組の作戦会議に使用される。それを考慮してか、あるいは単に施設の容積の問題か、作戦室としては小さ目の部屋で椅子も10脚ほどしかない。

「まず、俺の方から連絡事項だ。俺は明日から三週間、帝撃を留守にする。向こう一ヶ月間は近衛法術大隊が対降魔帝都防衛の任務を代行することになった」
「大神さん!?どういうことですか?」
「隊長、理由をお聞かせいただけますか?」

 どよめきを見せる少女たち。突然の発表は余りにも意外な内容だった。

「霊子甲冑は乗る者の霊力がそのまま力となる。俺は奴等を倒す力を身につける為、とある所で修行をしてくる」
「霊力の修行ですか…?」

 戸惑ったようにさくらが言う。自分には霊力の修行の仕方なんてわからない。さくらは大神に取り残されるような気がしたのである。

「俺は法術士じゃないから霊力の修行の仕方は知らない。今更高野山辺りに弟子入りしたところで一ヶ月やそこらでは付け焼き刃にしかならないだろう」

 そこに返ってきたのは、まるでさくらの思考を読み取ったような大神の返事だった。何となく気恥ずかしさを感じるさくら。

「霊力とは、人の精神力、生命力、総合的な『気』の力だと俺は思う。自分が身につけている技を高めることで、霊力を向上させることが出来る。俺はそう確信している。俺は自分が修行してきた技を頂点まで高めることで魔を滅ぼす技を会得してくるつもりだ」

 強い決心の込められた言葉、それは一種の誓約に聞こえた。自分達を率いる者の、自分達に対する誓いの言葉、自分達に対する責任を果たす誓いにも聞こえた。

「初心忘るべからず…ですね」

 小手先の技に頼らず根幹に返る、いかにも大神らしい結論である。マリアは感心しながらも自分の唇が微笑みを形作っていることに自分で気付いていただろうか。

「原点に帰る、か。いいねえ!それならあたいは昔修行で篭った故郷の山でもう一度修行をやり直してきたいね!!」

 嬉しそうにカンナが続く。確かに彼女好みの展開だろう。

「私もお世話になった先生の元で自分の剣を見詰め直してみたいな…」

 これはさくらだ。彼女のことだからてっきり大神について行くとでも言い出すかと思えば、やはり武術家の血が騒ぐらしい。

「わかりました、隊長。皆、それでは」
「わたくし、嫌ですわよ。特訓なんて」

 方針をまとめようとしたマリアに異を唱える声。すみれであった。見せ掛けの上では如何にもという感じの台詞だが、彼女が人目を避けて人一倍鍛練していることを知っている者にはいささか意外な発言である。

「どうせ生身でかなう相手ではないのですもの。わたくしは新しい霊子甲冑を作った方がいいと思います」
「アイリスもそう思うよ」

 これはある意味正論である。この場の流れに正面から逆らうものだが、正論であるだけに何となく気まずい空気が流れる。

「すみれはん…それは」
「紅蘭」

 紅蘭が何か言おうとするのを大神が押し止めた。何を言おうとしたのか、すぐわかったに違いない。

「でもよ、結局最後まで生き残るのは自分の力を極限まで鍛えた人間だと思わねえか?」

 すみれも一流派皆伝の武芸者だ。カンナの言っている意味がわからない筈はない。

「そうお思いになるのでしたら、あなたは山に篭って空手の修行をするなり、ジャングルの王者にでもなるなりお好きになさったらよろしいですわ」
「何おぅ!」

 だが殊更に揶揄の調子で応えるすみれ。

「二人とも止めないか」

 そのことがかえってすみれが何かをしようとしていることを示しているように大神は感じた。修行という約定に縛られては成し遂げられない何か。

「隊長、どうなさいますか?」

 マリアが決を求める。ここは多数決の議会ではない。決定は隊長である大神の権利でありそれ以上に義務だ。

「…わかった、各人好きにするといい」
「お、大神さん!?」
「各人、自分が今何をすべきか、帝都を守る為に最良と思う方法を自分で考え抜いて、その上で行動してくれ。自由時間は明日より3週間。24日に銀座本部へ集合のこと。以上だ」

 投げやりとも思える決定だが、実のところ最も厳しい命令であるとも言える。自分で自分の行動に責任を持てということだ。そしてその責任は全て大神が負うという意味だ。

「それでは、わたくしたちは好きにさせてもらいますわ」

 すみれの口調には、無責任なようでいて微妙な揺らぎがあった。

「おおきに、大神はん…」

 紅蘭が口の中で小さく呟いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コン、コン

「はい?」

 その日の夜。丁度旅支度を終えたところに扉を叩く音がする。

「大神さん、あの、さくらです」

 訪ねてきたのはさくらだった。扉を開けて招き入れる大神。

「さくらくん、君はもう準備、終わったのかい?」

 さくらも大神と一緒で、明日仙台に戻る予定の筈だ。

「え、ええ、大体…あの、大神さん…」

 背中に手を回して何やらもじもじしているさくら。

「んっ?」

 気さくに笑いかける大神。大神もさくらのこういう態度には慣れたものだ。

「あの…お誕生日、おめでとうございます!!」

 顔を伏せ場違いなほど大きな声(無論、照れ隠しである)と共に両手を差し出すさくら。そこには大き目の紙袋が握られていた。

「俺に…?」
「え、ええ、その、一日早いんですけど、大神さん明日は早くに発たれると思って、それで今夜の内にお渡ししておきたいと思って、その」
「ありがとう、嬉しいよ」

 さくらの手から紙包みを受け取って礼を述べる大神。その声に上辺だけではない感情がこもっているのを感じて顔を上げたさくらは、視界に飛び込んできたとびきり優しい大神の笑顔に、一気に真っ赤になった。
 最近大神はとても優しい表情を見せてくれるようになった。うまく働かない頭の片隅でさくらはそんなことを考える。そう見えるのが自分の心境の変化の所為でもあることにはほとんど気付いていなかった。

「開けてみてもいいかい?」
「え、ええ…」

 本当は恥ずかしくて自分の目の前で開けて欲しくなかったさくらだが、とてもそんな事は言えない。

「マフラーか!暖かそうだね。これはさくらくんが編んだの?」

 袋の中から出てきたのは幅広長めの毛糸のマフラーである。象牙色の、なかなかこった模様が編み込まれているものだ。

「え、ええ。本当はセーターとかにしたかったんですけど、その、寸法が…」

 恥ずかしくて採寸を言い出せなかったのだろう。

「上手いもんだね。流石さくらくんだ」
「そんな…」

 何が流石なのかよくわからない大神の誉め言葉に誉められた当人は一層赤くなっている。大体本人のいる前でこんなにあけすけに誉め言葉を連発する様な男は信用できないものだが。全く軽佻浮薄な印象を与えないのは一種の人徳だろうか。
 手にとって広げてみる大神。一杯に手を広げてもまだ余る。…少し長過ぎはしないだろうか?

「あっ、それはその、編んでる内についつい長くなっちゃって、何となく解くに解けなくて…」

 大神が僅かに怪訝な顔をするのを見て慌てて言い訳するさくら。

「いいよ、長い方が暖かそうだ」

 大神は屈託無く笑ってみせる。だが実は、二人の頭の中に全く同じ映像がよぎったのを当人達は知らない。このマフラーは明らかに二人分の長さで、そして……
 軽く目を閉じてまさに軽薄そのものの思考を追い出す大神。同時に顔から笑みを消して真面目な声でさくらに話し掛ける。

「さくらくん、実は俺の方から訪ねて行こうと思ってたんだ」
「えっ…?」

 急に真剣な表情になった大神に戸惑うさくら。

「修行のことで少し助言できることがあると思う」
「はい」

 流派は違っても大神の技は達人の域にある。その言葉は貴重な教えになる筈。そう思い、居住まいを正すさくら。

「さくらくん、君は桜花放神を繰り出す時、どんなことを考えている?」
「考えて、ですか…?特にこれといっては……ただ、練り上げた気を刃に宿して細く、鋭く絞り込んだまま一気に撃ち出す、くらいのことしか」

 つまりそれは技の手順である。

「純粋に剣術の技ならそれでいいと思う。あれこれ考えず、なるべく無念無想の境地に近い方が技の切れは高まると思うし、相手に太刀筋を読まれることも無い」
「はい」

 何時の間にか二人は床に直接座り込んでいた。道場で向き合っている時の様に背筋を伸ばして正座している。

「しかし、霊力を使う時は自ずと別の心構え、というか心のあり方が必要のような気がするんだ」
「心のあり方…?」
「霊力には多分に、心に思い描いたことが現実になるという側面がある。強く心に描いた像が現実に反映される、そんなところが」
「……」
「俺はさくらくんの技、桜花放神を見るといつも一直線に吹き抜ける風、山を駆け下りる青嵐や激しくも清々しい海風を連想するんだ」
「風、ですか…?」
「そう、風だ。どうだろう、魔を吹き祓い清める、一直線に疾り抜ける風、霊気の嵐を心に思い描きながら破邪剣征の技を使ってみては。ただ気を練り上げるだけでなく、霊気が清く澄み渡って行く様を念じながら気を練って、剣風が魔を祓い倒して行く様を心に描いて技を繰り出すんだ」
「…わかりました。試してみます」
「上手くいくかどうかわからない。もしかしたら剣術家としてとんでもない廻り道をさせることになるかもしれないが…」
「いえ、きっと上手くいくと思います。私は大神さんを信じていますから!それにどんな修行でも本人次第で無駄にはならない筈ですもの」

 自分の思い付きに懸念を示す大神に、言い出した本人以上の確信を込めて笑顔で頷くさくら。

「私、正直言って何を修行したらいいのかわかりませんでしたけど、大神さんのおかげで行く先が見えたような気がします。私、頑張ります!」

 これは本当の事だった。さくらは故郷の道場では事実上免許皆伝の腕前。しかも、帝劇に来てからは毎日の大神との朝稽古で以前とは比べ物にならないくらい腕が上がっている自分を自覚していた。仙台に戻っても新たな力を身につけるあてはなかった。北辰一刀流の技を一つ一つ見直し、磨き上げることくらいしか考えられなかったのである。だが、大神の示唆で新たな道が開けたような気がした。
 さくらの決意に大神も力強く頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「すみれくん、大神だけど」
「あら、少尉。このような時間に…とにかくお入り下さい」

 夕食が終わってもう大分経つ。まだ夜更けというには早いが、さりとて女性の部屋を訪問するのに余り適当な時刻とも言えない。

「お珍しいですわね、少尉がこのような刻限においでになるのは。急なご用事ですの?」
「夜遅くに申し訳ない。昼の内にお邪魔するべきだとは思ったんだが何かとやることが多くてね…」

 こう言って、大神は手に持った平たい箱をすみれに差し出した。

「少し早いけど、お誕生日おめでとう、すみれくん。君のお誕生日には一緒にいてあげられなくなってしまったから先にプレゼントだけでも渡しておきたいと思ったんだ」
「まあ……」

 全く想像外だった。確かに8日はすみれの誕生日だ。しかし、今はそれどころではない筈である。プレゼントは前もって用意してあったとしても、こんな時に自分の誕生日のことまでしっかり覚えていてくれる大神の心遣いに、胸がじんわりと暖かいもので満たされていくような気がした。

「…ありがとうございます、少尉。嬉しいですわ」

 滅多に見せぬ無防備な笑顔で綺麗に包まれたプレゼントを胸に抱えるすみれ。こういう時すみれは、いつもの妖艶とすら言える華やかさが嘘のように幼い、可愛い顔を見せる。この笑顔を知っているのは大神以外に果たして何人いるだろうか。

「開けてみてもよろしいですか?」
「ああ、勿論」

 箱の中から出てきたのは

「まあ、綺麗な髪飾り。これは鳳凰ですか?」

 いつもすみれが使っている髪留めよりやや幅広の、紫を基調とし表面に朱金青銀の糸で刺繍の施された髪飾りだった。

「そうだよ。鳳凰は王者の徴たる霊鳥であり時に朱雀とも同一視される。炎を纏い空を舞う真紅の守護神にね。君に相応しいと思って」
「…ありがとうございます。お世辞としても少尉にお褒め頂くのが何より嬉しいですわ」

 それまでのはしゃいでいた様子が嘘のようにすみれは力無く俯いてしまう。

「わたくし、少尉がお怒りになっているものだとばかり思っていました。少尉のお言葉に真っ向から逆らうようなことを申し上げて、ご不興を被りましても仕方が無いと思っておりましたのに…」

 少し視線を落として呟くすみれに大神は笑って応えない。口にするつもりではなかった台詞だとすぐにわかったからだ。案の定、ハッとした表情になり、あらぬ方を見やり、慌てて言葉を接いだ。

「そ、そう言えば、少尉のお誕生日も明日でしたわね。実はわたくしも差し上げたいものがありますの。おいでくださったついでで失礼かとは存じますが受け取って下さいませんか?」
「ありがとう。喜んでいただくよ」

 机の上から細長い箱を取り上げ差し出すすみれ。持って行くばかりに用意していたことが、そして朝の一件を気にして言い出しそびれていたことがわかる。
すみれに促されて箱を開ける大神。それは空色のネクタイだった。

「神崎家の娘が用意したにしてはお粗末なものでしょう?本当はもっと立派なものを差し上げたいのですけど、少尉へのプレゼントに神崎のお金は使いたくなかったんです」

 そう言うすみれは少し恥ずかしげで少し誇らしげだった。少し震えて、それでも胸を張っている。

「つけてくれるかい?」

 いつもぶら下げるように締めているネクタイを解き、空色のネクタイをすみれに差し出す大神。

「…はい」

 手の震えを隠すので精一杯だった。大神の思い遣りが泣きたいほど嬉しかった。心の裡が完全に見透かされているとわかっていたが、それすら心地よかった。目の前の男の心が自分には無いということは薄々感じている。一つ年上の、でも全くそれを感じさせない、いつもひたむきな少女。自分はあれほど一途になれない。それだけで敵わないと感じてしまう。人を真っ直ぐに想うということで、負けていると思わされてしまう少女。それでも、心が引き寄せられて行くのを止めることは出来ない。

「似合うかな…?」

 照れ臭そうに笑う大神。戦装束に身を固めた凛々しい姿とは別人のような、どこか少年のような笑顔。引き締まった武人の顔より、すみれはこちらの大神の方が好きだった。何故大神が二人いないのだろう。そんなことまで考えてしまう。

「よくお似合いですわ…少尉には空の色が似合うと思いましたけど間違いではなかったようですわね」
「そう?」
「ええ、少尉には海の男というより、むしろ空の印象がおありですもの…何処までも青い、吸い込まれそうになる透明な空の青…」
「はは、ありがとう。少し複雑だけど」
「あら、誉めているのですわよ。海は陸に上がれませんけど、空は何処までも空ですもの」

 漸くいつもの調子が戻ってきたようだ。ちょっと小生意気な感じの、でも嫌味は全くないしゃれた会話。沈んでいるのは確かにすみれらしくない、自分でもそう思っていた。

「ところで」

 急に大神の口調が変わる。どうやら誕生日のプレゼント以外にも用事があったようだ。そしてそれを当然と思う自分をすみれは自覚していた。大神が婦女子相手のご機嫌取りだけでこの非常時に時間を割く訳が無い。冷静に分析する、財閥の後継者として帝王学を叩き込まれた自分。そういう自分をすみれは哀しみはしない。彼女は所謂「由緒正しい」華族より尚誇り高い、本物の「貴族」だった。

「もしご実家にお正月のご挨拶に行くことがあれば、これを男爵様に渡してくれないか」
「父に、ですか?祖父ではありませんの?」

 自分の思惑を完全に見越した台詞と共に大神が差し出したのは大判の封筒。中にはぎっしり書類が詰まっているようで厚く膨らんでおり重量がある。
 すみれの祖父、神崎忠義は帝国華撃團創設の立役者の一人であり、今でも霊子兵器開発は忠義の肝いりで神崎重工が全面的に協力している。大神が何事か依頼するとしても、それはあの頼りない父ではなく祖父が相手ではないだろうか。

「いや、君のお父上へ渡して欲しい」

 だが、大神ははっきり父へ、という。どこか釈然としないまでもすみれが口を差し挟むことではない。肯くすみれ。

「そうか、まあ、ついででいいんだ」

 見え見えの誤魔化しである。だから余計に重要なものだとすみれは理解した。
 夜も遅いからと暇乞いをする大神。丁度部屋から出て行く時に、大神は何の脈絡も無い奇妙な事を口にした。

「すみれくん、『断熱変化』という言葉を知っているかい?」
「だんねつへんか…ですか?」
「そう、例えば空気の塊を外部と熱が出入りしない様にして圧縮すると、空気塊が持つ熱量自体は変わらないのに空気の温度が上昇する現象の事なんだ。熱量は一定なのに圧縮するだけで遥かに高温になる…面白いとは思わないかい?」
「…そうですわね…?」
「ははっ、じゃあお休み。三週間後にまた会おう」

 軽い調子で笑って挨拶をする大神。その姿が消えた後、すみれは一人部屋の中で考え込んでいた。鳳凰、朱雀、炎を纏い宙を舞う霊鳥。そして断熱変化…
 大神の言葉は何か重要な意味を含んでいるのではないか。すみれは漠然と「何か」を感じていた……




その6



 闇の中、弱い光に照らされてぼんやりと浮かび上がる同心円、十字。照星を合せ、引き金をひく。

 カチッ

「……フッ」

 少し苦い笑みを浮かべると、彼女は腕を下ろし緊張を解いた。

 彼女、マリア・タチバナは横須賀に来ていた。帝国海軍横須賀軍港施設。その外れにある屋内演習場。三週間で自分の戦闘力を極限まで引き上げる為に。
 ここを紹介したのは彼女の隊長、大神一郎である。ここでなら花組副隊長としての様々な雑事から離れ、かつ銃弾の心配をせず思う存分射撃訓練が出来るから、ということであった。しかし、いくら海軍から出向中の身であるとは言え、新任の少尉に自分のような部外者を、しかも女性で異国の血が混じった者を、軍の施設に出入りさせその上施設・弾薬を自由に使わせるなどということが出来るものだろうか?当然の疑問を示したマリアに大神は連絡をしておいたからこれを持っていけば大丈夫、と紹介状と思しき封書を差し出して笑った。もし、これが大神でなかったらマリアは端から取り合わなかっただろう。開国から半世紀が過ぎた太正デモクラシーの世とは言え、この国ではまだまだ異国人に、そして女性に対する差別が幅を利かせている。母の国にやってきてそう長くも無い間にマリアはこのことを十分すぎるほど経験してきた。まして海軍といえば男の世界、そう見なされているのは何も日本に限ったことではない。敬愛する大神の保証付きだからといって、この時ばかりは半信半疑であった。とにかく、大神の顔を立てる意味でも訪ねるだけ訪ねてみよう、正直そんな気持ちで横須賀までやってきたのである。
 しかし、紹介状を見せると意外なほどすんなりと中に通され、無条件で施設と弾薬を提供された。未だに心のどこかで信じられないと感じている。と同時に、この訓練施設に足を踏み入れて妙に納得してしまったのも事実である。何とここでは、女性の姿が珍しくなかったばかりか、訓練している者の中には明らかに異国の血が混じっている者、自分のように、も少なくない。思わず自分を案内してくれた将校に質問したところ、ここは海軍の諜報部隊と海軍蒸気隊、海軍の人型蒸気上陸戦部隊の為の訓練施設だと教えられた。海軍の秘密部隊の為の訓練施設だと。そして大神は、近衛軍に引き抜かれなければ本来ここに配属される筈だったと。つまり敵前上陸の為の海兵隊とそれを手引きするスパイの為の訓練所なのだ。女性や異国の外見を持つ者が多いのも頷ける話である。自分もそうしたスパイとして採用された者だと思われているのだろう、マリアはそう推測した。
 マリアは再び、わざと暗くした射撃室で弾丸の入っていない銃を掲げ標的に狙いを付けた。彼女は今、一つの試みを繰り返していた。銃弾を媒体とするのではなく、銃を媒体として霊気を撃ち出そうというのだ。弾丸に霊気を込めるのではなく、霊気それ自体を弾丸として的を射抜こうとしているのである。通常霊子甲冑の武装や華撃團支給の拳銃弾に使われているのは感応弾、霊力を込めやすいように呪紋が施された弾丸である。マリアは通常これを核として霊気を集中・凝縮していた。もし、核となる感応弾無しに霊気を凝縮し弾丸と化すことが出来れば、感応弾を使った時により多くの霊力を込めることが出来るようになる。それがマリアの考えだった。
 精神を集中する。脳裏に一つのイメージを描く。あの日、大神が夜訪ねてきて紹介状を手渡してくれた時の記憶が甦る…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大神はマリアに封書を握らせた後、何かの話の続きのような口調でこう言った。

「マリア、君が記憶している最も美しく、冷たい景色は何だい?」
「はっ?」
「身の凍える内にも魂を奪われそうな美しい景色、そういう記憶はない?」
「…そうですね。真冬の夜空に掛かるオーロラでしょうか」

 何故大神がこのようなことを尋ねるのか全くわからず、マリアは思い付くままに答えた。

「オーロラか…」
「ええ。半年もの間明けることの無い夜空に輝く光の帯。吐く息すら凍りそうな冷気の中で、ただ美しさだけを心に焼き付ける、あれはそんな景色です」

 あの頃は辛いことばかりだった。戦うことすら、血を流すことすら出来ず、ただ耐えることしか出来なかった。忘れようとして、今では実際全てが朧に霞んでいるあの幼い日々の記憶の中で、何故か夜空を飾るオーロラだけが鮮明な映像として残っていた。

「霊力とは」
「えっ?」

 唐突な話題転換に思わず声が出る。過去の記憶に沈みかけていた意識が急に現在へと引き戻され軽い混乱を覚えてしまった。

「霊力とは人の持つ総合的な『気』の力であるとしても、心に最も左右される。霊力はある意味心の力であると言ってもいい」
「え、ええ…」
「心に思い描いたことが現実の力となる。心に思い描く像、イメージと言うのかな、それが霊力を発揮する鍵となる」
「……」
「と、思うんだ」

 それまでの真剣そのものの口調が一転して気軽なものに変る。このあたりの呼吸は何だか米田を思わせるものがあるな、と心の隅でマリアは考えていた。

「だから、より美しいイメージを心に描けば霊力はより清浄なものとなり、凍える景色のイメージを用いれば冷気もより強力になるんじゃないかな?」
「……わかりました。ありがとうございます、隊長」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 茶飲み話のような軽い、さりげない口調だった。思わず聞き流してしまいそうになる程に。だが、それは極めて重大な示唆だった。おそらく大神が知恵を絞りぬいて、漸く到達した洞察、それを教えてくれているのだとわかった。思えば、自分が術と呼べるようなものを、スネグーラチカを使えるようになったのは雪の精霊のイメージを幻視してからだ。氷結の天使のイメージがスネグーラチカを産み出した。ならば、より強いイメージを思い描けばより強力な術を使えるようになる、それは考えれば考えるほど正しいことのように思われる。だが、抽象的に強いイメージと言われても戸惑うばかりだっただろう。だから大神はあんな訊き方をしたのだ。自分は大神の期待と心遣いに、信頼に応えなければならない。それは何よりも大切なことだった。
 精神を集中し、心に強いイメージを描く。凍える夜空に揺らめく光の大河、幾重にも折り重なる極光の輝き。そして空を埋め尽くす膨大な光の帯が一点に収束していく様を…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「やってみせる。あたいなら出来る筈だ!」

 どこまでも青い空。1月だと言うのに汗ばむほどの暑気。そう、この地に冬はない。沖縄、かつて琉球と呼ばれた遥か南の島、彼女の生まれ育った母なる大地。例え歩いて横切れる程度の、大陸に住む者から見ればちっぽけな島であるとしても、そこに生まれ育った者にとっては自らを揺るぎ無く支え、無条件で受け止めてくれる大地である。彼女、桐島カンナは今、自分の庭、第二の生家とも言えるほどに慣れ親しんだ山、幼い頃より彼女の汗と情熱が染み込んだ修行の地へと戻ってきていた。桐島流空手、彼女の家に代々伝えられた、彼女の血筋の者以外には会得することの出来ない特殊な流派。彼女が父親から受け継いだ空手の、彼女が父親から教わらなかった技、父親も遂に会得できなかった奥義、「四方攻相君」を極める為に。
 桐島流奥義、「四方攻相君」は幻の技だった。口伝に残るのみで、使い手が絶えて久しい。桐島家の血筋は特別の、優れた空手の素質を伝えるものであり、桐島流はその先天的な才あって初めて会得可能なものであると言われている。実際、桐島流の門を叩いた者は過去に何人もいたが、結局その全てが初伝しか身に付けることは出来なかった。生まれつき強力な「気」の力と、「気」を操る特別の素質。特殊な霊力の素質の上に成り立つ空手の技、それが桐島流だ。しかし、その血筋をもってしても「四方攻相君」を極めるのは至難のことだった。
 形有るものと形無きものの全てを打ち砕く不敗の奥義、四方攻相君の口伝はまずこの言葉で始まる。そして、形無きものと闘うことがなくなってから、奥義は口伝の中だけのものになってしまったと伝えられている。父親からこれを伝えられた時、カンナには何のことか理解できなかった。形の無いものを砕くことは出来ない、そしてそれ以上に形の無い敵とは何のことかわからなかった。
 だが、今ならわかる。帝国華撃團で魔性のものと死闘を繰り広げてきた今ならわかるような気がする。形無きもの、それはこの世のものならざるもの、この世の「形」を持たぬ魔のもののことだと。そして口伝の中で技の真髄を表すとされている部分
「己が力尽きた時手にする真の力、それこそが四方攻相君の源である」
この言葉に秘められた謎を解き明かす手掛かり、四方攻相君会得の鍵をカンナはある人物から手に入れていた。あれはカンナが帝劇を発つ前日の夜の事…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「どうしたんだい、隊長!厨房なんかに来てさ」
「いや、腹が減ったんで何か簡単なものでも作ろうと思って」
「そういや、夕食の時食堂にいなかったよな…」
「一応食べたんだよ。ただいろいろと立て込んでいたもんでね…簡単に済ませてしまったんだが、やはり足りなかったな」
「ちょうどよかったよ!あたいもこれから夜食にしようと思ってたとこなんだ。隊長の分も作ってやるよ」
「そいつはありがたいな。遠慮なくいただくとしよう」
「はははっ、相変わらず気持ちのいい返事だねぇ。じゃあ、食堂で待っていてくれるかい?」
「ああ」

 ………

「出来たぜ、隊長」
「そうか、では、早速…」

 …こんな調子で二人して食堂で夜食を掻き込んでいた時だった。彼女が隊長と仰ぐただ一人の人物、大神一郎がこんな風に話し掛けてきた。

「カンナはいつ里帰りするんだい?」
「あたいか?あたいは明日の夜の船で発つ事にしたよ。隊長は朝早いんだろ?」
「ああ。じゃあ次に会うのは3週間後だね」
「そうだな。あたいもあんたに負けない様にしっかり修行して、もっと強くなって帰って来るよ。お互い頑張ろうぜ、隊長!」
「ああ。…だが…」
「どうしたんだい?」
「カンナは前に話してくれたよね?桐島流はカンナの家だけが受け継ぐ技で、カンナはただ一人の継承者だって。修行するにしても、組み手の相手もいないんじゃないのかい?他の流派で協力してくれる人でもいるのならともかく、一人で山篭もりするつもりなんだったら」
「待った!」

 おそらく大神は練習相手か練習の場所でも紹介しようかとでも言うつもりだったのだろう。皆まで言わせず、カンナはそれを遮った。

「ありがとよ、隊長。心配してくれるのはありがたいけど、あたいは一人でやってみたい事があるんだ」
「…一人で、か?よかったら教えてくれないか」

 カンナが遠慮しているとでも思ったのだろうか。大神は少し心配そうな表情をしていた。

「うん…あたいは、ある技を身につけたいんだ。桐島流奥義、四方攻相君を」
「『四方攻相君』…」
「そう、桐島流の奥義、幻の…親父も身につける事が出来なかった。親父の親父も、そのまた親父も、もう何代も遂に極める事が出来なかった幻の、桐島流最強の技、四方攻相君…もう、伝えられているのは口伝だけだけど、今度こそ出来そうな気がするんだ。あと一つ、どうしてもわからない口伝の謎が解ければ……」
「…よかったらそれを教えてくれないか?」

 興味本位ではない、とても真摯な目をしていた。大神が一緒に謎解きをしてくれようとしていたのが判った。門外不出の口伝だが、大神にならかまわないと思った。そしてカンナは語った。

「己が力尽きた時手にする真の力、それこそが四方攻相君の源である、か…」

 カンナがどうしても解き明かせない口伝の一節を。

「ああ…今迄も、それこそぶっ倒れるまで打ち込みを続けたり断食してみたりいろいろやってみたんだけど、『力尽きた時手にする力』というのがどうしても判らないんだ」
「……あの日、地の底で、」

 何時の間にか深く考え込む表情で目を閉じて語り始める大神。それはカンナにというよりもまるで目に見えない何かに語り掛けているかのようだった。…もしかしたら自分自身に。

「地の底で激しい地震に襲われた時、俺は恐怖と絶望で力の限り、ただ叫んだ。力尽きるまで。そして自分の中から全ての力が出て行って、自分が空白になった時、今迄の自分とは違う自分が目を覚ましたように感じた」
「……」

 それは何か神秘の体験を語っているようで、厳粛な気持ちにさせられてしまう口調だった。

「自分の内側から、自分以外のものでありながら確かに自分自身のものである力が湧き上がったような気がした。それは天空や大地、自分を取り巻くもの、自分がその一部であるこの世界の力だった様な気がする」
「……」
「天地の気を自分の外から自分の内側に取り込むのではなく、自分の内側、自分自身の奥底から天地の気を取り出したような……どうもうまく言えないな」

 いつもの表情に戻って照れたように言う大神。だが、カンナはそれを聞いて、何かが判ったような気がした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(自分の外から五行の気を取り込んでもそれは所詮借り物だ。自分を空っぽにして、自分の内側にある世界との繋がりから五行の気を引き出すんだ!きっとそれが「真の力」だ!!)

 力を込める、力を抜くというのは力を自分自身とは別の物として意識しているという事だ。自分から生じる自分以外のもの。そうではなく、力を自分の中に溶け込ませる。「真の力」を感じ取る邪魔にならない様に。自分以外の何ものも自分の中に存在しない状態、それこそが自分を空にした状態、「力尽きた時」なのだろう。そして自分の内側へと心気を凝らす。自分が最も近しい「地」の気を自分の内に感じる為に。自分の内側に母なる「大地」へと通じる道を見出す為に…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神はん、早速見せてもらいましたで」

 紅蘭の部屋を訪れた大神にいきなり浴びせ掛けられた一言がこれだった。太正13年1月2日夜。

「霊子波動補正装置、あんな面白いもん、なんでうちに隠してたんや?」
「うっ…それはだな…」

 意地の悪い笑顔を浮かべた紅蘭の追求にどこかたじたじとなる大神。こめかみの辺りに脂汗でも浮いてきそうな大神のたじろぎ振りにニコッ、と今度は屈託なく紅蘭は笑った。

「ええよ、わかっとります。うちらが余計な事考えん様に内緒にしとったんやろ?今回は勘弁しといてやるわ」

 ホッと胸を撫で下ろす大神。埋め合わせに妙な実験台を強要されるのだけは勘弁して欲しい。帝撃関係者に共通する口に出せない切実な願いだ。特に集中的被害にあっている大神にとっては。

「大神はん、あれならなんとかなりそうやで。いくつか改良せなならん所がありますけど、たいした技術や、あれは」
「そうか…」
「黒之巣会の工場がつぶれてしまったんはこうなると残念やったなあ…ところで大神はん」
「ああ」
「…資金の方は本当に大丈夫なんでっか?花屋敷の工場、止まっとったで。技術的な問題が解決できても、材料を揃える資金が無かったらそれこそ絵に描いた餅やで?」
「大丈夫だ。手は打ってある。一週間もすればいい知らせが届くだろう」

 微塵の不安も見せず請合う大神。だがこれは十中八九強がりだ。そう紅蘭は思った。しかし、全ては自分に不安を抱かせまいとの配慮の筈だ。紅蘭は騙されておく事にした。

「そうか、ほんならすっごい新兵器を作ったるさかい、楽しみにしててや!」
「ああ、期待してるよ。新しい霊子甲冑と、君の新兵器にね」
「へっ?」
「新型霊子甲冑以外にも隠し球があるんだろ?ここのところ随分呪符の研究をしていたみたいじゃないか」
「…ばれとったん?」
「おいおい、俺は霊子甲冑の管理責任者だよ?霊子兵器に関する情報には全て目を通している」
「…かなわんなあ…それだけでうちが何をしようとしとるか判るやなんて……」
「全部判ってる訳じゃないさ。科学による式術の再現、どんなものか楽しみにしてるよ」
「大神はんがそう言ってくれるっちゅうことは、大神はんもものになるって考えてはるんやね?何や勇気が出てきたわ。見ててや、大神はん!あっと言わせたるさかい」
「ああ、頑張ってくれ。三週間後を楽しみにしているよ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(…大神はん、きっとやり遂げてみせるで!)

 大神が帝劇を後にした前日の夜、自分の不安に思う気持ちを取り除く為にわざわざ部屋に来てくれた大神の事を思い出し、紅蘭は改めて自分に活を入れた。

「さっ、もう一回や!今日中にこの実験終わらせてまうで!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あやめお姉ちゃん、ちょっといい?」
「なあに、アイリス?」
「うん、このご本、ここがちょっと判らないんだけど…」

 あやめの部屋に訪ねてきたアイリスはそう言って一冊の本を差し出した。珍しく自分から本を読んでいたらしい。内心で感心感心、と思いながら手に取ったあやめの目に飛び込んできたのは…アルファベットの列であった。かと言ってフランス語ではない。

「英語のご本じゃない…どうしたの、これ?」

 題名は『神々の黄昏』。有名な戯曲の一幕と同じ題名だが、ちょっと目を通した所では北欧神話のクライマックスとも言える一幕を子供向けに脚色したもののようだ。所謂、ファンタジーと呼ばれている娯楽文学書だろう。しかし、フランス語で書かれたものならともかく、何故アイリスが娯楽物とは言え英文学を読んでいるのだろうか。

「うん、あのね、お兄ちゃんがくれたの。アイリスも立派なレディーになるんだから英語くらいは出来なきゃ駄目だよって。これなら楽しく読めるだろうから、って」
「そう…大神君が……」

(そう言えば彼も英語が得意だったわね…)

 海軍は英国を範としている部分が非常に多い。必然的に、海軍士官には英語に堪能な者が少なくないのである。大神の英語はそのまま外交官が務まりそうな程だ。ちなみに、あやめは英語だけでなく仏語や独語も大使級である。

「それでどこ?」

 あやめは本に目を戻しアイリスに尋ねた。

「うん、ここなの」
「…スルトの放った炎に全てが灰となってしまった世界へ、虹の橋を渡って白く輝く人々が降りて来た。白く輝く人々は手にした…ここね。ええっと、復活の霊薬、いえ『命の水』かしら?…手にした命の水を一面焼け野原になってしまった大地へ注いだ。すると、灰の中からみるみる緑が芽吹き、世界は美しい命の息吹を取り戻した…かしら」

(これは随分…ハードファンタジーって言うのかしら?アイリス向きのお話じゃないわよね…)

 どうやら大神は自分の趣味で本を選んだらしい。苦笑を抑えながらあやめはアイリスに訊いてみた。

「アイリス、このお話面白い?」
「うん!」

 だが、返ってきたのは意外な返事。別段、大神からもらったから、という理由でもなさそうだ。しかし、これはどちらかといえばもう少し年上の、男の子向きの小説のような気がするのだが。

「なんかね、このお話初めてなのに懐かしい気がするの。ずっと昔夢で見たような、そんな気がしてワクワクするの!」

 本をあやめの手から受け取りながら自分でも少し不思議そうな顔で笑うアイリス。

「そっかぁ、『命の水』かぁ。フフフ…じゃあね。あやめお姉ちゃん、ありがとー」
「あっ、ちょっと待って、アイリス」

 ふと、頭に引っ掛かるものを感じてアイリスを呼び止めるあやめ。

「そのご本、何時もらったの?」
「…お兄ちゃんが『しゅぎょう』へ行っちゃった前の日だよ?なんで?」
「…ごめんなさい、何でもないの」
「?」

 可愛らしい顔に大きな疑問符を浮かべてアイリスは自分の部屋へと走って行く。その後ろ姿から漂う雰囲気が去年迄とは少し違うような気がして、あやめは二、三度瞬きをした。




その7



(剣の道)
(即ち、心の道)
(剣は心により輝き)
(心により極まる)

 少女はゆっくりと目を開けた。ほの暗い道場の、木目がむき出しになった板壁が視界を占める。格子窓から風の吹き抜ける道場には火鉢一つ置かれておらず真冬の寒気を阻むものは何も無い。板敷きの床は大地に積もった雪の冷たい感触を直に伝えてくるような気がする。幾重にも衣を重ねたところで到底耐えられないような寒さの中、少女は端然と座していた。一振りの太刀を眼前に横たえて。
 やにわに、左の手で朱塗りの鞘を掴み片膝立ちで抜き打ちに構えるや太刀を鞘走らせる。

 疾っ!

 風を切る音。否、空気が斬れた音。少女の太刀は凍り付いたような重い空気を確かに切り裂いていた。中空に一筋の線が走る。霊気の疾り抜けた軌跡。

 鎮…

 小さな金属音、鍔鳴りの音。少女は丁寧に太刀を収め、再び居住まいを正し瞑想へと戻った。閉ざされた瞼の裏に浮かぶのは一人の青年の影。二本の木刀を構え美しく佇む姿。

(大神さん…)

 心の中で、彼女は思わず呟いた。さくらが支えとするその人の名を。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 さくらは孤独だった。

 仙台、真宮寺邸敷地内の道場。剣の家である真宮寺家には小さいながらも十分試合をするだけの広さがある道場があった。
 ここは彼女が生まれ育った街であり生まれ育った家だ。ここには彼女の家族と、家族同然の者と、血縁と友人がいる。北辰一刀流を教えてくれた師範と、父亡き後真宮寺の剣を手ほどきしてくれた彼女の後見人でもある祖父の弟もいる。しかし、母も、大叔父も、師範も友人も誰もさくらを手助けすることは出来なかった。さくらと苦しみを共に出来る者はいなかった。
 それは誰の所為でもない。さくら自身の所為でもない。敢えて言うなら、それはさくらが為そうとしている事の所為だった。成し遂げようとしている事、即ち、桜花放神を超える技を編み出す事。
 奥義の、更にその向こうにあるものへ手を伸ばすという事は、月光も、星明かりも無い真の闇夜を、誰も足を踏み入れた事の無い暁の郷目指して歩き続けるという事に似ている。自分が正しい道を辿っているのかどうか、それどころが今自分が踏みしめている道がどのくらいの幅で足を踏み外せばどうなるか、一歩先に何があるのかすら判らない不安な歩み。それでも足を運び続けない限り決して到達する事は出来ず、暗闇から抜け出す事すら出来ない。誰も彼女に道を指し示す事が出来ない。彼女の手を引いてくれる者はいない。不安と焦燥、そして孤独。ただ一人きりの試行錯誤の中で、彼女の支えは奥義を超えるものへ至る道の手掛かりを与えてくれた一人の青年、そして今自分と同じ様に苦しい修行を続けているであろう青年、大神だけだった。大神の事を想う、それだけが崩れ落ちてしまいそうになる不安と孤独からさくらを守り、支えていた。

(剣の道は心の道)
(大神さんはおっしゃった。想いが力になると。想う力が、霊力になると)
(それはきっと剣も同じ。剣の道が心の道なら、心の力が剣を輝かせるはず)
(天地を巡り、何処までも吹き抜ける風。時に優しく肌を撫で、時に巨大な船を走らせる。時に木々を薙ぎ倒し、嘆きで地を満たす一方、時に雨を運び地に恵みをもたらす)
(そして、魔を吹き祓う風…真宮寺の剣…)

 疾っ!

「……わからない……」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なにかしら…?」

 冷え切ったままでは、幾ら鍛えているからといって体を壊してしまう。さくらは一旦母屋に戻り火鉢で暖を取っていた。ここは父の書斎だった部屋。真宮寺家代々の剣士が書き記した手控えが書棚に溢れている。激しく剣を振る技の鍛練、心の力を引き出す為の瞑想と居合い、その合間に先祖の残した家伝書を紐解くのが帝都より戻って以来の、さくらの日課になっている。これらの書き付けに目を通すのは初めての事ではなかったが、これほど真剣に読んだ事はなかった。少しでも指針となるものが欲しかった。
 書棚の一番奥から引っ張り出した本、その表書きには『神言集』と書かれている。

「初めて見るわ、これ…」

 独り言を口にしているという自覚はない。それ程、妙に惹かれるものを感じさせる本だ。本といっても、厚手の紙を紐で綴っただけのもの。勿論きちんと装丁がされている訳ではない、他の書き付けと同じ単なる手控えと見えるものだ。題名から見て、祭事の作法でも書き記した物だろうか。パラパラと捲って中を確かめるさくら。ふと、ある頁に目が引き寄せられた。本を捲る手が止まる。その頁の先頭には「荒ぶる風の神」と書かれている。

「…海原(わだつみ)を渡る気吹(いぶき)の源、全ての汚れを吹き払うもの、荒ぶる風の王、イブキドヌシ命……!」

 電流が体を走り抜けたかのような衝撃を感じる。この言葉は

(あの時、夢の中で聞いた言葉…)

 それは帝都騒乱のあの日、大神の体から流れ込んだ強烈な気の奔流に意識を失ったさくらが、夢の中で自分の子供の頃にそっくりな姿をした女の子から聞かされた一節に間違いなかった。その言葉を口に出して唱えた途端、さくらの心に強烈な想念像が浮かびあがった。
 繚乱たる無数の花びらが風に吹き上げられ宙を舞う。百花繚乱の舞。そして無数の花びらが渦巻く風に一本の細い棒をなす光景。いや、それは棒ではなく剣だ。花びらの集まりで出来た剣だった。風を見る事は出来ない。ただ感じる事が出来るだけだ。だがさくらの心の中で今、風に舞う花びらが風の姿を示していた。

「百花繚乱の剣…」

 呟く自分の声にはっと我を取り戻す。視界は落ち着いた書斎の佇まいを取り戻していた。

(心に思い描いた像が力となる…このことなんですね、大神さん!)

 敵を前にしている訳でも剣を構えている訳でもないのに、自分の霊気が異常な程高まっているのが自分でも感じられる。今迄自分は頭の中で言葉を紡いでいただけだ。言うならば、「風が吹く」という言葉を心に浮かべただけ。だが、思い描くというのはそういうことではなかった。直接世界を想像するという事。言葉を鍵とするにしても、現象を直接思い描くという事。自分の望む世界を自分の心の中に創り出すという事だ。
 後片付けもそこそこにさくらは道場へ向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「それで?」
「!、ですから、お父様やお祖父様から帝撃への出資を他家へお口添えしていただきたいのですわ」
「無理だな」

 神崎財閥総帥、神崎家本邸。広大な屋敷のその中で、ひときわ立派な作りの部屋。ここは神崎家当主、神崎重樹の書斎だった。
 時刻は夕食後すぐ。重樹の目の前には珍しく家に戻ってきた一人娘のすみれが座している。そのすみれに向かって、重樹はあっさり言い放った。

「!」
「降魔を放置すれば帝都が壊滅的な打撃を被る。そうなれば帝国経済も大きな痛手を受ける。だから降魔に対抗する為に帝撃へ資金を提供する必要がある…これだけでは、帝撃に深い関わりを持つこの神崎家はともかく、他家を説得する事は出来ないぞ」

 息を呑む娘に向かって、淡々と重樹は説明する。

「商人を動かすのは理念ではない、利益だ。軍隊が帝都を守って戦うのは当たり前の事で商人が資金を出す理由にはならない。帝撃を支援する事でどんな利益が得られるのかを訴え掛けなければな…すみれ、お前には財界を動かす事は無理のようだ」
「帝都の市民がどうなってもいいとおっしゃるの!?」
「有体に言えばその通りだ。現に先の帝都騒乱では、被害の少なかった上方の財閥は復興特需で大儲けしている。再び帝都が破壊されるなら、もう一度儲ける機会が巡ってくる、その程度にしか考えるまい。具体的に自分達がどの程度の損害を被るかを示されなければな…」

 すみれは言葉が続かない。余りに非情な父親の台詞にショックを受けているという面もある。しかしそれ以上に、今目の前にいるのは彼女の知っている父親ではなかった。育ちのよさと人当たりのよさだけが取り柄の、当主とは名ばかりでいつも祖父の強い光に隠れて影の薄い父親ではなかった。祖父のように人を圧倒する迫力こそ無いものの、怜悧で重厚で、じわじわと相手を締め上げて行くような重圧を感じさせる。ここにいるのは確かに、帝国で一、二を争う財閥の総帥だ。自分が父親の事を全く分かっていなかったという事実が二重の衝撃となってすみれの心を硬直させていた。

「すみれ、これを読んでみなさい」

 自分をまじまじと見詰める娘へ、重樹は二束の書類の綴りを差し出す。

「…これは?」
「一通は米田中将から帝都の財界人へ配られたものだ。もう一通は今日お前が言付かって来たものだ。どちらも作者は同じだ」
「少尉が…?」

 決して薄くはない書類をむさぼるように読むすみれ。一通は活字、一通は大神の直筆。読み進む内にすみれの表情は驚愕で満たされて行く。

「お父様、これは…」
「一通は降魔による帝都破壊が帝国経済にどの程度の損害をもたらすかを具体的に示す一方で、華撃團が必要とする資金を見積もったものだ。大まかな計算ながら、穴は全く見当たらない。見事なものだな」
「……」
「もう一通は帝撃の技術を産業用に転換する事でどれだけの利益が得られるかを示したものだ。霊子技術による民生品が欧米の電気機械技術製品をアジアから駆逐し、帝国は彼らと肩を並べる経済大国になる事が出来る、か…実に惜しい事だ」
「?」
「彼を私の後継者に迎える事が出来れば、神崎家は世界を制覇する事も可能だろうに…軍は彼を手放さないだろうな。軍人などにしておくのは全くもって惜しい事だ……」
「……」
「しかもこの情報を軍から流す訳にはいかない、非公式に、財界の内輪話として使わなければならない、そこまで考えて大神少尉はこれを私の元へ届ける様お前に託したのだ」
「そこまで…」
「すみれ」
「はい?」
「後はお前がやってみなさい。商人を動かすのは利益だ。例え不確実なものであろうと、大きな儲けの臭いがすれば商人はそこへ群がる。これだけの材料が用意されていれば、財界中から資金をかき集める事も可能だ。お前が彼の役に立つ人間である事を、お前が少しは彼に相応しい人間である事を示してみせなさい」
「お父様……」
「それが出来なければ、お前が帝劇で暮らす事の意味はない。この家に戻ってくるのだ」
「……わかりましたわ」

 いつもの、強い意志の込められた口調を取り戻してすみれは頷く。もとより、父や祖父に頼るつもりはなかった。きっかけさえ作ってもらえれば、自分で他家を説得して回るつもりだった。思いがけない父親の姿を前にして、そして父親が出した条件の意味の重さに、すみれの決意はより強いものとなった。

「お父様、一つお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ」
「お父様は大神少尉の事を以前からご存知だったのですか?」
「…自分の娘の命を預ける人物の事だ、無論、詳細に調べさせた」

 この日初めて僅かな動揺を娘に見せる、父親としての重樹。

「だが、実際に顔を合わせたのは元旦の帝劇が初めてだ…想像以上の傑物だな、あの男は……あの時の彼の話を憶えているか」
「ええ」

 大神にしては珍しい歯の浮くような美辞麗句に不信を抱いた事をはっきり憶えている。

「あれはおそらく、私が何の為に帝劇を訪れたかその場の雰囲気から瞬時に悟ってのものだ。お前が帝撃に必要だという事を暗に訴え掛けていたのだ」
「…そうでしたか…」
「そしてこの書類。元々政治経済への造詣が軍人離れしているとの兵学校時代の情報で興味を持ったのだが、これだけの見識の持ち主は財界にも官界にもそうはおるまい」

 人物は人物を知るという事だろうか。すみれは大神に対する尊敬の念が自分の中で一層高まったのを感じた。そして尊敬できる父親の顔を知って意識しない喜びを感じていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(ここも久しぶりですわね…)

 和洋折衷様式とは言え、全体に洋風の神崎邸の敷地の中で、この一角だけが純日本風のたたずまいを見せている。そして妙に浮いている。地味すぎて。無愛想な板壁と板敷きの床。がらんとした空間。壁に掛けられた長刀。彼女の先祖が生業としていた神崎風塵流の道場であった。一大財閥を築いた今も神崎家は神崎風塵流の道場を畳もうとはしなかった。今や門人など一人もいない。神崎家所縁の者がその技を学ぶだけだ。だが、過去に連なる一切を拒絶したすみれの祖父、忠義もこれだけは捨てようとしなかった。
 ここに来ると身の引き締まる思いがする。自然と体を包む緊張感がすみれには心地よかった。「神崎家の娘」を常に意識しなければならなかった少女時代、長刀を握っている時だけは「すみれ」でいられるような気がした。上達することが、強くなることが嬉しかった。それは、確かに自分自身のものであったから。
 彼女は常と異なる、質素な道衣に着替えていた。真冬の寒気に冷え切った板敷きの床を素足で踏みしめる。手に携えるは愛用の、本身の長刀。

(鳳凰、朱雀、炎を纏い宙を舞う霊鳥…断熱変化…)
(少尉はわたくしに何かを教えようとした…それはおそらく)

 長刀を構え、霊力を解放する。宙を翻る長刀の刃から霊力を放出し霊気の結界を作る。光武で繰り出す胡蝶の舞とここまでは同じ。そして更に、広がった霊気を刃で…

「…駄目ですわ…いえ、諦める訳には参りません!自由に行動することを許して下さった少尉のお心を裏切る訳には!!」

 疲れきった体に鞭を打って、すみれは再び長刀を構えた。




その8



(ここで大神さんとお会いしてからまだ一年も経っていないんだわ…)

 冬枯れの高台から何処か活気に欠ける街並みを見下ろし、物思いにふける美しい乙女。少女から女へ脱皮しつつある年頃の微妙な均衡、あるいは不均衡が醸し出す不思議な魅力が彼女、真宮寺さくらの清楚な美しさに更なる彩りを添えていた。
 太正13年1月24日、帝都、上野公園。常であれば桜の季節でなくとも、この冬の最中であってもそれなりの賑わいを見せる帝都市民の憩いの場。しかし今、人影はまばらだった。その、数少ない人々も皆急ぎ足で通り抜けて行く。余裕の無い彼らの姿を見て、さくらはその美しい面を曇らせた。彼らが追い立てられるように下を向いて歩いて行くのは自分達の所為でもあると思っていたから。
 太正13年元日、帝都に多数の魔物が出現した。彼女と仲間達、帝国華撃團が出動してこれを撃退したが、事実上相打ちだった。先の帝都騒乱を鎮圧して以来、帝都守護の切札と見なされていた帝国華撃團の無残な姿を伝え聞いた帝都市民は怯えに囚われ、まるでそれが唯一の解決法であるかのように家に閉じ篭るようになってしまった。それでも一週間が過ぎる頃には表面上平静な日常を取り戻したが、心に巣食った不安と慄きに市民は余裕を失っていた。外出も買物も必要最小限で、逃げるように家へと帰って行く。実際、それは逃げていたのかもしれない。

(でも、今度は違う。奴等の好きには決してさせない!)

 帝都市民の哀しい姿にさくらは一層決意を強くする。今度こそ本当に、魔の者に勝利する。そして人々の不安を取り除くと。
 足元に置いた荷物を取り上げ、さくらは帝都鉄道の上野駅へ足を向けた。銀座へと。本当は日鉄の駅から乗り換えはすぐなのだが、上野に来るとついこの場所に立ち寄ってしまう。ここは彼と出会った場所だから。

 !

 突如湧き上がる魔の気。そして悲鳴。

(降魔!?)

 まだ早い。まだ結界はもつ筈だ。だが、間違いない。思ったより早く結界に綻びが生じたのだ。仲間を呼ぶべきだろうか?迷ったのはほんの一瞬。さくらは忌まわしき気配へと駆け出した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(大きい!でも、今なら)

 明司神宮では、光武が無ければ正直手も足も出なかった。だが今は違う。自分はあの時の自分ではない。そして今自分の手には『荒鷹』がある。真宮寺家に伝わる破邪の霊剣が。光武を引き裂いた巨大降魔ほどではないが、人の背丈を遥かに上回る巨体。巨大降魔への成長過程なのだろう。その巨体に見合う妖力を感じる。それでも負ける気はしなかった。何より、助けを求める人々を前にして退くことなどありえなかった。
 朱塗りの鞘を左脇に構え、抜打ちの体勢に入る。新たに手にした力を放つ、まさにその瞬間

 サザッ

 横手の植え込みから群青の影が飛び出してきた。影にしか見えなかった。目にも止まらぬ速さ。一瞬遅れて、それが人影であると認識した。その人影はまさしく神速の踏み込みで一気に降魔へ肉迫すると、両手に持った剣をこの世のものならざる肉体へ振り下ろす!

(すごいわ…)

 さくらは見た。二つの剣が強烈な光を放つのを。それは通常の視力では見ることの出来ぬ光、霊力の輝きだった。そして降魔がただ一度の攻撃で消滅していく様を。
 双刀を下ろし静かに立つ人影。さくらは漸くその姿をはっきりと見て取ることが出来た。若い男である。左右に携えるは二本の片刃直刀、上代様式の大刀。その刀身は見たことも無い色を帯びていた。左手に下げるは朱金、右手の大刀は蒼銀の輝きを放っている。不思議な輝き。
 男は振り向くと、腰を抜かした市民には目もくれずさくらの方に歩いてきた。かなりの長身だ。その時初めて、上から下まで群青一色のいでたちが近衛軍士官の制服であることに気がついた。群青、ダブルボタンの半長衣。同色の細身のズボン。黒の半長靴。目深にかぶった群青の軍帽。帝都において唯一、無制限の武器携行を認められている近衛士官の軍服。その背格好は彼女がよく知っている青年と全く同じで…

(えっ?)

「大神さん…?」

 躊躇いがちにその名を呼ぶ。目深にかぶった帽子の下から覗くその顔は、確かに大神に間違いなかった。彼女が一時も忘れたことの無いその姿。しかし、何かが違う。目の前に立つ青年は彼女の知る大神とどこかが違っていた。……雰囲気だ。身に纏う雰囲気が違う。それは確かに大神の気配には違いなかったが、深みと質量が桁違いだ。二十歳そこそこの青年が持ち得るものではない。喩えて言うなら、百官を従え、千馬を率い、万軍を指揮する王者の風格。

「久しぶりだね、さくらくん」

 剣を握ったままの右手で帽子を少し上げて微笑みかける、その笑顔は彼女のよく知っている大神のものだった。その時、痺れるような圧力をすら感じさせる威厳は無条件の安心感をもたらす包容力に変っていた。

「……大神さん…やっと、会えた……」

 不覚にも目に熱いものがこみ上げてくるのを感じて、慌てて目を擦るさくら。顔を上げると視線の先には変らぬ、穏やかな微笑み。目が離せない。それ以上何も出来ない。

「……どうしたんだい…?」

 幼子をあやすような優しい、慈しみに満ちた声。

「ご、ごめんなさい。あんまり嬉しくて、うまく、言葉が…」

 やっとそれだけの言葉を紡ぎ出して急に恥ずかしくなる。たった三週間会わなかっただけで「やっと会えた」もないものだ…

「へ、変ですね、私ったら…」

 確実に赤くなっているであろう頬を抑えて思わず俯いてしまう。大神の目を見ていられなかった。

「いい目になったね」
「えっ?」

 驚いて顔を上げると、大神の笑顔は穏やかな微笑みから満足感を漂わせる笑みになっていた。

「確かな何かを自分のものにした目だ。一皮剥けた様だね。…おっと、女性にこんな言い方は失礼だったかな?」
「えっ、いえ、嬉しいです!…ありがとうございます、大神さん」

 ああ、大神はわかってくれるのだ。一目見ただけで自分の変化に気付いてくれた。誉められたことよりも、そのことの方がさくらは嬉しかった。

「荷物をとってくるから待っていてくれる?一緒に戻ろう」
「はい!!」

 相変わらず細やかな心遣いを見せてくれる大神。最初に感じた違和感はもう気にならなくなっていた。
 満面の笑みを浮かべてさくらは頷いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「それにしても奇遇だったね。お互い上野駅を利用するとしても、同じ時間に上野公園に居合わせるなんて」

 帝都鉄道の中、隣り合わせに腰を下ろしたさくらに話し掛ける大神。不思議な輝きを持つ双刀は鞘に収め二本まとめて布袋の中に入れている。無制限の武器携帯を認められる近衛士官の制服の威力で、見るからに刀と判る包みを抱えていても咎められる事はない。一緒にいるさくらもそれは同じだ。(そうすると、さくら一人の時はどうしていたのだろう?)勿論、この特権故に大神は近衛軍の制服を身に纏っているのである。

「そ、そうですね」

 この大神の言葉にさくらはしどろもどろになってしまう。何故なら、彼女が上野公園にいたのは…

「上野公園で何をしていたんだい?」

 大神と出会った場所だからつい足を運んでしまう、等という大胆な台詞が言える訳も無い。

「いっ、いえ、別に…お、大神さんは何かご用事だったんですか?」

 思いっきりあからさまに誤魔化すさくら。だが、強引に切り返された大神は突っ込む事もせずどこか照れたような表情になった。

「別に用があった訳じゃないんだけど…上野に来るとつい足が向いてしまうんだ。帝撃での、俺の生活が始まった場所だから」
「!」

 思いがけない返事。どういう意味だろう。もしかして、私と同じ…そこで思考が停止してしまう。何も考えられない。

「さくらくん…?さくらくん?さ・く・ら・くん!?」
「は、はいっ!?」

 放心状態に陥っていたさくらが自分を呼ぶ声に現実を取り戻すと、そこには大写しになった大神の顔があった。思わず椅子から跳び上がり大声を出してしまう。
 …我に返ったさくらは、自分が乗り合わせた乗客の視線を集めている事に気付いた。急に立ち上がって大声で「はいっ」だ。無理もない。含み笑いまで聞こえてくる。顔を真っ赤にして席に戻り、俯いて顔を隠す事しかさくらには出来なかった。
 そんなさくらを、大神はどこか哀しみの色すら覗かせる慈しみに溢れた不思議な、静かな笑顔で見詰めていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あっ、隊長…」
「やあ、マリア。君も今戻ったところかい?」
「マリアさん、お久しぶりです!」

 大帝国劇場ロビー。大神が、やっとの事でいつもの顔の色を取り戻したさくらと並んで玄関をくぐると、黒衣の大柄な女性が荷物を床に降ろして一息ついているところだった。長身の大神を更に頭一つ上回る背丈に、非人間的なまでに整った硬質の美貌。言うまでもない、帝国華撃團花組副隊長、マリア・タチバナである。

「お、お久しぶりです、隊長。さくらも一緒だったんですね」
「ああ、途中降魔が出現した現場でたまたま会ってね」
「降魔が?」

 どこか大神と視線を合わせ辛そうな顔をしていたマリアの表情が一気に引き締まる。戦士のものになる。

「ああ、上野公園でね。結界の隙間から抜け出してきたんだろう。一匹だけだし、たいした奴じゃなかった」

 えっ?

 意外感を表情に浮かべるさくら。確かに巨大降魔ほどの力はなかったが、あれは決して小物とは言えなかった。以前の自分なら、光武を使ってやっと退治する事が可能だっただろう。だが、別段大神はマリアに心配を掛けまいとして誤魔化している様子でもなかった。

(本当にたいしたことなかったんだわ。大神さんにとっては…)

「そうですか…」

 だが、さくらの表情の変化に気付く事無く、マリアは安堵の色を浮かべた。そして再び大神から微妙に目を逸らす。相手の目を真っ直ぐに見て話をするマリアには珍しい。

「マリア、どうかしたのか?」

 不審げな声で大神が尋ねる。

「いえ…そう言えば、隊長。訓練所の方々が隊長によろしく伝えて欲しいとの事でした」
「あ、ああ…やっぱりばれてしまったかな?」
「そうですね…隊長の事は先の騒乱で気付いていたようです」
「仕方ないな…まあ、彼らにいつまでも隠しておけるとは思っていなかったが。皆元気だったかい?」
「ええ…」

 歯切れの悪い口調、定まらない視線。それは全くいつものマリアらしくなかった。何の話かわからなかったのだろう。不思議そうに自分を見ているさくらの視線にマリアは気付いていたが、説明する気持ちにもなれなかった。

「それでは隊長、荷物の整理がありますので私はこれで」
「ああ、じゃあまた後で」

 挨拶もそこそこにそそくさと立ち去るマリア。

「……知られてしまったかな?」
「マリアさん、どうしたんでしょう?」

 小声で呟いた大神の台詞はさくらには聞こえなかった様である。少し心配そうに問い掛けてくるさくら。

「何でもないさ、きっと。俺達も行こう」
「はい」

 さりげない大神の笑顔にさくらはすぐ納得してしまう(誤魔化される、とも言う)。素直に応えて、大神の後に続いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(隊長…)

 久しぶりに会った大神はたくましさを格段に増して、益々頼もしさを感じさせる存在になっていた。敬愛する今、唯一人の隊長。だから、今は大神とまともに顔を合わせられない。

(聞かなければよかった、あんなこと…)

 マリアの思考が数日前へと溯る…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「調子はどうですか、マリアさん?」

 一休みしている所に最初の日、案内をしてくれた将校が声を掛けてきた。階級は少尉、大神とは江田島の同期であるらしい。
 無言で軽く頭を下げる。別に下心がある訳ではないと何となくわかっていたが、何かに付けて様子を見に来るこの男が少々鬱陶しいのも事実である。しかし、自分の無愛想な態度にもまるで応えた様子はない。この男はそういうことを気にしない性質らしい。

「失礼な真似をする者は居りませんか。もっとも、大神の親しくしている女性に対して怪しからん振舞いに及ぶような命知らずは、少なくともここにはいないでしょうけど」

 ハッとした。この時マリアは気付いた。そう言えば、ここにいる男達は大神の名を口にする時決まって、目の前に立つ男の様に二種類の感情を瞳に浮かべていたような気がする。「心酔」と「恐怖」。あるいはそのどちらか。この男は恐れているのだ。大神から依頼された自分の身に何か起こって、それを大神に知られることを。大神の怒りを買うことを。だから頻繁に自分のことを見に来ずにはいられないのだ。だが、大神の何をそんなに恐れるというのだろう。あれだけの能力を持っているのだ、「心酔」はわかる。軍人には特に英雄崇拝の気が強く、圧倒的な能力を持つ者は多くの崇拝者を持つことになりやすい。しかし「恐怖」は。大神が感情に任せて粗暴な振舞いをするとは到底思えない。仲間や下級生に暴力を振るうようなタイプではないのだ。むしろその対極である。いったい何が…

「しかし、さすがに大神の下で戦っているだけのことはありますね。皆驚いていますよ。実際貴方ほどの銃の名手は見たことがありません。大神以上かも知れませんね。帝国華撃團の隊員は皆貴方のような手練ればかりなのですか?」
「何故華撃團のことを…?」

 目付きが鋭くなるのを止められない。殺気が滲み出ていただろう。華撃團は最高機密の秘密部隊。軍部でもその詳細を知る者はごく一握りの筈。
 男はしまったという顔をする。思わず口が滑った、という表情だ。だが、マリアは笑って済ませるつもりはなかった。その真剣な目付きに男は諦めたように一つ息を吐いた。

「済みません。口にするつもりではなかったのですが…私も確と知っていた訳ではありませんし、大神が秘密を漏らした訳では無論ありません」

 マリアは相手を厳しく見詰めたままだ。曖昧にしておくことはできない。その様子を見て、一瞬間を置いた後男は続ける。

「9月の帝都騒乱には我々海軍蒸気隊も出動したんですよ。残念ながら機械兵には全く歯が立たず、足止めが精一杯という体たらくでしたが…そこで華撃團の活躍を耳にしました。二刀を揮い機械兵を、藁人形を試し斬りでもするかの如く軽々と薙ぎ倒していく純白の新型人型蒸気の戦い振りと、数の差を全くものともしない見事な戦術指揮を。帝国軍に人多しと云えど人型蒸気による集団戦闘にそれほど長けていて、しかも二刀を使うとあれば大神以外には考えられませんからね」
「……」
「少なくとも、海軍蒸気隊に属する者は皆同じ事を考えていると思いますよ。あいつの腕を知る者なら…何と言っても、兵学校在籍当時から既に人型蒸気戦技にかけて大神は海軍一でしたから。おそらく陸軍にもあいつに勝てる人型蒸気乗りはいなかったでしょう。今や間違いなく日本一でしょうね」
「そうでしたか…」
「全くあいつが敵でなくて良かったと心の底から思いますよ。味方にすればこれほど頼もしい奴はいない代わりに、敵に回した時のあの恐怖…模擬戦闘とは言え、あいつと敵として相対した演習の後はしばらく悪夢にうなされるのが常でしたからね…」

 大袈裟な…自分はそんな顔をしていたかもしれない。後になってマリアはそう思った。男がこう続けたからだ。

「私だけではないんですよ。あいつの敵になった者は、装甲越しにあいつの殺気を浴びた者は皆震える夜を過ごしていたんです。生身の、白兵戦技の訓練では例え試合形式でもそこまで強烈な殺気は感じさせないんですけどね。装甲に包まれてかえって本性が剥き出しになるのかも知れない、我々はそんな事を噂し合っていました」

 …これが恐怖の正体。偽りの殺し合いですら相手の心を恐怖に染め上げる大神の隠されたもう一つの顔。自分がすんなりこの施設を使える訳が漸くわかった。ここには、例え上官であろうと大神の意向に逆らえる者はいないのだ。二つの疑問が氷解すると同時に、知りたくなかったという強烈な後悔がマリアを襲った……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(隊長が持っているもう一つの顔、敵に対して一切の容赦を持たぬ戦士…)

 全く気付いていない訳ではなかった。大神の指揮は相手の完全な殲滅を前提としている。相手が人間ではないから?いや、それは指揮官としての癖のようなものだ。おそらく、人間が相手でも同じ戦い方をするだろう…

(敵の命を奪う事に躊躇を覚えない…勝利の為に。軍人にとっては味方の命も同じ事だ)

 軍人にとって、指揮官にとって兵の命は消耗品だ。効率よく、勝利の為に費やすものだ。勝利の為なら仲間の命を犠牲にする事を厭わない、大神はそんな軍人ではないと思っていた。だが、敵の命を犠牲にすることに何の抵抗も持たぬ者が、味方の命を惜しむだろうか…?
 自分達を守るといった、大神の言葉を信じたい。それはマリアの祈りに等しかった。




その9



「大神、ただ今戻りました」
「おう、予定通りだな。いい面構えになって戻ってきたじゃねえか」
「はっ、ありがとうございます、支配人」

 大帝国劇場一階。「長官」ではなく「支配人」と呼んだのはここが支配人室だからだ。

「長官」

 そして、呼び掛ける肩書きが「長官」に変わる。

「先程、上野公園で中型の降魔と交戦、これを消滅させました」
「…なにぃ!?」
「大型降魔が結界を突破するまで、もう余り時間が無いようです。霊子甲冑はどうなりましたでしょうか?」
「思ったよりもたなかったな…新型霊子甲冑はちょうど花屋敷で最終点検に入っているとの報告をつい先程受けた。夕方には届くだろう」
「間に合いましたか…では早速花屋敷へ行って参ります」
「まあ待て、大神。花組の連中も皆戻ってきている。まずは連中の顔でも見てきたらどうだ?おまえ一人が先走ってもしょうがねえだろ」
「…わかりました。おっしゃる通りです」

(ほう)

 随分落ち着いている。以前の大神であれば口では、頭では納得していても気持ちが走って行ってしまうようなところがあった。無論、二十歳そこそこであればそれが当然なのだが。

(そういやこいつ、何処となく雰囲気が変わりやがったな…)

「失礼します」

 支配人室を後にする大神の背中がやけに大きく見えたような気がした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さくらくん、一人でお稽古かい?」
「大神さん…」

 舞台の上で一人舞うさくら。一指し終わったところで袖から大神が声を掛けると、少し顔を赤らめて小走りに駆け寄ってきた。

「…ずっと見てらしたんですか?」
「半分くらいかな?」
「もう、声を掛けて下さればいいのに…人が悪いですよ、大神さん」

 そう言いながらも何処か嬉しそうに笑うさくら。

「お稽古の邪魔しちゃ悪いと思ってさ」
「いえ、お稽古なんてものじゃないんです。久しぶりで舞台に立ったら、自然と体が動き出して…」

 はにかんだ笑み。大帝国劇場花形スター、真宮寺さくらに相応しいエピソード。だが、己が身を剣士と定めているさくらには照れ臭い話かもしれない。

「さくらくん、舞台が本当に好きなんだね」

(あっ…)

 この目。すごく優しい眼差し。優しい笑顔、優しく微笑みかけてくれるのは今迄と同じ。でも、今日は何だか今迄と違う目をしている。怖いくらい優しい目をして私を見てくれる気がする…

「さくらくん?」
「はいっ…あ、すみません。そ、そうですね。四月にここに来た時はお芝居なんて正直不安だったんですけど、今は舞台に上がるのがとても楽しみなんです」

 またやってしまった。大神を前にしてまたぼうっとしてしまったらしい。久しぶりに会った所為で少し情緒不安定になっているんだろうか?大神が一向に気にする素振りを見せないのが救いだが。

「そうだね…最近の君の舞台は自信が感じられるよ。堂々と演じているから余計輝いて見える。君を、君達を早く舞台に専念させてあげられたらいいんだが…」
「大神さん。もうその事はおっしゃらないで下さい」
「そうだね。ごめん」

 曇りかけた表情を笑顔に戻して、努めて明るい声で応えるさくら。大神が自分達を戦場に立たせる事に対して変わらぬ罪悪感を抱いている事は花組の誰もが知っている。大神もその事は口にしない様にしているのだが、さくらの前だとつい気が緩むのかもしれない。

「じゃあ、俺はこれで。さくらくんも早く体を休めた方がいいよ?」
「そうですね。じゃあ大神さん、またお夕食の時にでも」
「ああ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「カンナ、美味そうだな」

 大帝国劇場一階食堂、昼食には遅すぎる、夕食には早すぎる時刻であるにも拘わらず、晩餐並みの献立をテーブルの上に並べて精力的に箸を動かしている人影があった。長身の大神を顔一つ上回る上背。しかし、体の曲線は見間違うべくもない、椅子に腰掛けていてもそれとわかる妙齢の女性のもの。桐島流空手継承者、帝国華撃團花組・桐島カンナその人以外には有り得ない。

「よお、隊長。久しぶり!」

 向かいの椅子に腰を下ろした大神へ箸を握ったまま陽気に声を掛けるカンナ。

「ああ、久しぶりだね。少し痩せた…いや、引き締まったのか。その様子だとうまくいったみたいだね?」

 カンナの日に焼けた体からは自然と自信が滲み出ている。目的をやり遂げたものの醸し出す自信。

「ああ!」

 力強く頷くと、何を思ったか箸を置いて椅子を引き、手を膝の上に揃えて畏まった表情を見せる。

「…隊長のおかげだ。あんたのおかげで四方攻相君の謎を解く事が出来た。会得する事が出来た。ありがとう…!!」

 深々と頭を下げるカンナ。

「そんな事をする必要はないよ、カンナ。君達が困っていたら出来るだけの手助けをするのは俺の務めだ。むしろ礼を言うのは俺の方だよ。あんな至らない助言を役に立ててくれて」

 落ち着いた声音で大神は応える。突拍子もないカンナの行動に少しも慌てたところが無い。そして、その事を訝しいとも思わせなかった。

「あたいだけの事じゃないんだ。桐島流空手は、何代にもわたって失われていた奥義をあんたのおかげで取り戻す事が出来た。桐島流代々の継承者を代表して礼を言わせてくれ」
「…わかったよ、カンナ。君の気持ちはありがたく受け取っておく。そしてその力を是非、戦う力を持たぬ人々を守る為に役立ててくれ」

 頭を上げようとしないカンナに大神はこう応えた。その力で自分の務めを助けてくれ、と。

「ああ、任せてくれよ!きっと、隊長の期待に応えてみせるぜ!!」

 勢いよく上げたカンナの顔は歓びに輝いていた。望んでいた応えを与えられて。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「アイリス、大神だけど」
「大神くんね?開いているわ。中に入って」

(あやめさん?)

 アイリスの部屋の中から返ってきた応えはあやめの声だった。

「失礼します」

 だが、あやめがアイリスの部屋にいても別におかしい事はない。あやめはアイリスの教育係のようなものだ。実際、アイリスに必要な教養を教える事は同じ様な教育を受けてきたすみれや、海軍で西欧のマナーを徹底的に叩き込まれた大神でも無理だ。

「久しぶりね、大神くん。少し見ないうちに随分逞しくなったわね」
「ありがとうございます」

 堂々たる応え。照れたり、昂ぶったりしたところが全く見受けられない。自分の方が年下のような錯覚すらあやめは覚えた。

(まるで別人だわ…どこがどう変わったとはうまく言えないけど…)

「アイリスに会いに来たの?」
「ええ、ですが…眠っているようですね」

 足音を殺して(唯でさえ足音を立てないのだが)ベッドの脇まで歩み寄る大神。

「ただいま、アイリス」

 声を抑えてこう囁いた。

「う〜ん、お兄ちゃん…」

 その声は聞こえるか聞こえないかのほんの小さなもの。だが、大神の言葉に応えるかのようにアイリスは寝返りを打ち大神を呼ぶ。

「むにゃ……」

 寝言で。

(……偶然かしら…?)

 偶然に決まっている。聞こえたのなら目を覚ます筈だ。まさか夢の中に声を届かせる事など出来る筈が無い…?

「ははっ、無邪気に眠ってるなあ」

 大神に見えない様に小さく頭を振り妄想(?)を思考から追い出す。

「大神くん、気付いてる?」
「はいっ?」
「アイリスは今成長期なのよ」
「霊力の、ですね」
「霊力と精神の、よ。もちろん、肉体的にもね。アイリスのように強い霊力を持っていると、精神に掛かる負担も普通とは比べ物にならないわ。そして精神に掛かる重圧は肉体にも影響を及ぼすもの…今のアイリスには眠る事が必要なのよ…」
「なるほど、精神と肉体の成長の為に、ですか。確かにそれは、何より大切な事ですね」

 さらりと言ってのける大神。余りにも簡単にあやめの台詞を受け容れてしまった為に、かえってあやめは次の言葉を呑み込んでしまう。だから、皆のように特別に訓練しなかった事を責めてはいけない、と言おうと思っていた。だが、全くの取り越し苦労だった様だ。

「そう言えば大神くん、アイリスにあげた本だけど」
「ああ、やっぱりあやめさんのところにお邪魔する事になってしまいましたか。すみません、お仕事の邪魔をして」
「いえ、そんなことはないんだけど…一つ教えてもらえないかしら?」
「?…ええ、いいですよ」
「どうしてあの本を選んだの?」
「はっ?」

 質問の意図がわからない、という顔をする大神。確かに少々唐突だったとあやめは思い直した。

「いえね、あの本、どちらかと言えば少年向きの内容だった様な気がしたから…」
「ああ、なるほど。そうかもしれませんね…これはうっかりしていました」

 頭を掻く大神。

(深い意図はなかったのかしら…)

 自分の考え過ぎだろうか?

「ただ、キリスト教徒といっても、自分の民族の神話に親しんでおく必要があると思ったものですから。自分が何処から来たのか、最後はそこに行き着くんじゃないかと思いまして…」
「…え?」
「では、あやめさん。余り長居してアイリスを起こしてしまうのも可哀相ですから私はこれで失礼します」

 音も無く踵を合わせて軽く敬礼を見せる。そのまま静かに部屋を出て行く大神。

(なんのこと…?)

 あやめの心に疑問の種を播いて。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(紅蘭は…花屋敷か。すみれくんはサロンかな)

 果たして、サロンには紫の華麗な影。

「あら、少尉。お久しぶりですこと。今お戻りですか」
「ああ、ついさっき戻ったところだ。久しぶりだね、すみれくん…少し、疲れているようだね?」

(えっ?)

 思わず頬に手をやるすみれ。一目で見てわかる程やつれているのだろうか。向かいの壁に掛けられた鏡をこっそり覗き見る…特に見苦しいところはない。その筈だ。蓄積した疲労を他人に悟らせぬ様、細心の注意を払っているのだから。なのに何故…

「すみれくん?」

 案ずる色を浮かべた大神の顔がすぐそこにある。すみれの斜向かいに腰を下ろして心配そうな目でじっと見詰めている。何一つ見落とさぬ、そんな眼差し。

(誤魔化しきれませんわ…)

「そ、そうなんですの、ほほほほほ…毎日毎晩、豪華なパーティーと超高級なディナーで少し疲れ気味なんです。久しぶりに上流階級の空気を満喫してきましたわ。おほほほほほほ…」

(馬鹿!なんでこんな事しか言えないのかしら!)

 誤魔化すにしてももっと言い訳のしようがあるだろうに。こんな嫌味なことしか言えないなんて…珍しく自己嫌悪を感じるすみれ。自分の不器用さが恨めしかった。
 だが…大神の目に怒りや軽蔑の色はない。むしろ労るような優しい色が見える。

「すまない、すみれくん。君には一番きつい役目を押し付けてしまった」

(……えっ?)

「ありがとう。感謝している」
「……少尉……」

 それ以上大神は何も言わない。だが、大神の言いたいことは明らかだ。自分のしていたことが完全に見透かされているのも。そうだ、誤魔化せる筈がないではないか。出発の前日、大神は既にすみれのしようとしていることを見抜いて、その上であの包みを自分に託したのだから。財界を説得できたのはひとえにあの未来予想図のおかげだ。財界中を黄金の夢で虜にした大神の文書。それに比べたら…

「おっしゃっている意味がよくわかりませんわ、少尉。私は本当に遊んで暮らしていただけなのですわ。その所為かとても眠いんですの。まことに失礼ですがお先に部屋へ下がらせていただきますわ」
「すみれくん…」
「少尉、余計なことをお気に掛けないで下さいな。わたくしはやりたいようにさせていただいただけなのですから…それよりも紅蘭やアイリスにもお顔を見せて差し上げて下さい。彼女たちも少尉のお帰りを一日千秋の思いで待っていたのですから」
「わかった…それでも言わせてもらうよ。ありがとう、すみれくん」
「……どういたしまして」

 そっけなく背を向けるすみれ。そうでもしなければ、らしくもなく涙をこぼしそうだったから…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神はん!久しぶりやなあ」
「紅蘭、久しぶり。上機嫌だね」

 帝国華撃團銀座本部地下格納庫。今、花屋敷より到着した大型輸送列車から降りてきて抱きつかんばかりに大神の元へと駆けて来たのは大帝国劇場の花形女優にして帝国華撃團指折りの技術者、今や霊子甲冑の第一人者となった李紅蘭である。子供っぽさを残した容姿、にこにこと愛敬に溢れる表情、だが、彼女の頭脳と才能には帝撃の技術者誰もが一目置いていた。気軽に言葉を交わしているようでも、どこか隔意のようなものが生じるのは否めない。彼女の若さ、外見と彼女の能力の乖離を考えれば仕方ないことかもしれない。
 だから、彼女が本当に打ち解けて話せるのは、ざっくばらんな、無邪気な自分に戻れるのは花組の仲間達と、大神を前にした時だった。久しぶりに、本当に気兼ねの要らない相手と再会して紅蘭は少し興奮していた。

「早速見せてくれないか?君の自信作を」

 勿論、それだけではない。

「はいな。是非見てやって下さい!自分で言うのも何やけど、すっごいのができましたで!!」

 貨物室の扉が開く。中から搬出される鉄の巨人。純白、薄紅、紫、銀、金色、真紅、そして緑。七体の重量感に溢れる巨大な人型。

「これがうちと、花屋敷支部の皆の自信作、新型霊子甲冑『神武』や!!」

 新型霊子甲冑の開発。この難事をわずか三週間の短期間で成し遂げたこと。

「じんぶ…素晴らしい。向かい合っているだけで秘めたる力がひしひしと伝わってくる様な気がするよ。よくやったな、紅蘭!!」

 そしてそれ以上に、自分を信頼してこの大役を任せてくれた大神の期待に応えることが出来たことが嬉しかった。

「おおきに、大神はん…気に入ってもらえてうち、ほんま嬉しいわ」

 これ以上はないくらいの満面の笑みを浮かべる紅蘭。誰よりも認めて欲しい人に褒めてもらえた喜びが全身から溢れていた。

「…ありがとう、紅蘭。苦労を掛けたね」
「と、突然、なんやのん?」

 深い情の込められた声。その声だけで、紅蘭を狼狽させるには十分すぎるほどだった。そして労りの言葉。簡単ではあっても、嘘偽りの全く無い謝辞。

「紅蘭にはいつも無理をさせてすまないと思っている。でも、霊子甲冑のことは君が頼りなんだ。これからもよろしく頼む」
「…いいんよ、大神はん。好きでやっとることやもん。それにうち、嬉しいんよ。役に立てることが」

 生真面目な大神の台詞に紅蘭も上ずる心を懸命に鎮めて、落着いた返事を返した。真面目に応えなければならないことだと思ったから。

「大神はんや、皆の役に立てることが。だから気にせんどいて…そうや、皆を呼んできますわ。早速試運転せなあかんし」
「ああ、俺が呼んでくるよ。紅蘭は起動の準備をしておいてくれ。…ありがとう、紅蘭」

 振り向いた大神の笑顔は、胸一杯の喜びと少しの切なさを紅蘭にもたらした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『霊子甲冑・神武、大神機、起動します。』

 唸りを上げる蒸気機関と過給機、対照的に無音で作動を開始する霊子機関。直列二連装の大型霊子機関が不可視の光を発する。シルスウス鋼の巨体が力強く立ち上がる。

「すごいわ…」
「流石やな…一発で起動したで」

 左右の手を動かし、主装備の双刀を何度か素振りする。巨大な刃が空気を切り裂くたび、独特の閃光が宙を走る。

「霊力の光…大して力を入れている風でもないのに…」
「霊力の伝達も完璧やな。言うこと無しや」
『作動状態良好。実験を終了する。』
「了解や」

 ハンガーに戻った純白の機体から同色の戦闘服を着た大神が降りてきた。走り寄る六人。

「すごいです、大神さん。一度で起動に成功するなんて!」
「流石少尉ですわね!小物ならあの素振りだけで倒せそうですわ」
「やっぱすげえぜ、隊長!」

 起動実験は大神が最後の順番だった。全員が起動に成功したものの、既に花屋敷で何度か試乗している紅蘭以外は3、4回の起動を必要とした。元々霊子甲冑は使っていく内に搭乗者に馴染んでいくものであり、最初はどうしても起動に手間取ってしまう。この兵器は起動時にもっとも霊力を必要とするものであり、一度起動してしまえば運用には問題ない。ましてこの神武、光武とは比べ物にならない霊力を要求する。初日としては起動できただけでも成功と言える。それを、大神は一度で起動し、完全に使いこなしてみせたのだ。

「なーんも問題あらへん。完璧や!即、実戦可能やな」

 観測数値を見ながら紅蘭が締め括る。この結果は紅蘭にとって期待通りでもあり当然でもあった。神武は大神の能力を念頭において作り上げた機体なのだ。

「わかった。皆、今日はこれで解散だ。明日から本格的な訓練に入る。今日はゆっくり心身を休めてくれ」
「はい!!」

(この機体なら降魔に後れは取ることはない。見ていろ、葵叉丹!)

 格納庫を出て行く六人と米田、あやめを見送りながら、大神は決意を新たにしていた。




その10



 !!
 バタン

「大神さん!?」
「ああ!!」

 ビー ビー ビー

 太正13年1月25日、朝の大帝国劇場に警報が鳴り響く。さくらと大神はもう一度頷き合った。魔の襲来を告げる警報。その一瞬前にお互いの部屋から飛び出していた二人はそれ以上時間を無駄にすること無く、地下への階段を駆け降りた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「帝国華撃團花組、全員集合しました!」

 異例の速さで七人がほぼ同時に作戦室へ集合する。全員が警報の鳴る前に魔の気配を感知していた。至近距離に発生した大量の妖気。

「うむ、降魔がこの銀座に出現した。早速出動しこれを撃退せよ」
「はっ!全員、神武に搭乗!!」

 余計な説明は必要ない。花組の七人にとって事態は明らかだった。大神の号令一下、少女たちは格納庫へと走り出す。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「マリア・タチバナ、起動準備よし」
「桐島カンナ、いつでもいいぜ」
「神崎すみれ、何時でも行けますわ」
「李紅蘭、準備完了や」
「アイリス、OKだよ」
「真宮寺さくら、準備完了しました」

 全員から搭乗完了の合図。彼女達の隊長、大神の一言を待つ。

「よし、霊子甲冑・神武、起動!!」

 一斉に湧き上がる膨大な霊気。同時に、七体の神武が科学と霊力の鼓動を打ち始めた!

「やった…神武、全機起動成功」

 管制官の由里が全機体の起動成功を報告する。

「昨日はなかなか上手く行かなかったのに…」
「触媒の力だ」

 あやめの疑問に米田が答える。はっとするあやめ。そして小さく頷く。花組は、大神の存在によってその力を完全に発揮することが出来る…

「帝国華撃團・花組、出撃せよ!!」
「了解!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ガッハッハッハ、燃やせ、燃やし尽くせ!!」

 頭の足りない放火魔のような台詞をわめいて悦に入っている人型の人ならざるもの。否、比喩ではなくまさに放火「魔」であった。馬鹿笑いのたびに醜い箱型の体躯から禍々しい色の炎が飛び散り、銀座の街を黒く焦がす。周囲がほとんど石造り、煉瓦造りの為、大きく燃え広がることはないが、黒ずんだ壁からは瘴気が漂い、このまま放置すればいずれ人の住めない街になってしまうことは明らかだ。
 横にばかり広い小柄な放火「魔」の周囲には数十のおぞましい魔物の姿。蝙蝠に似た翼、滑りを帯びた体、永遠の飢えを象徴するかのような巨大な顎(あぎと)と鋭い牙。全ての生あるものに呪詛を投げかけるかの如きその姿はまさしく「降魔」。そして箱型、豚面に巨大な牙を剥き出した放火「魔」は明司神宮で葵叉丹と共にあった降魔の将、黄昏の三騎士を名乗った者に間違いない。
 その姿からは知性など欠片も感じられない降魔は、しかし確かにある一つの目標に向かって集団で移動していた。人間大、それを一回り、二回り上回るもの、そして人の背丈の二倍以上の巨体を誇る巨大降魔だけでも30は下らない。帝都の中心、銀座の街はさながら魔界と変じたかのごとく降魔に溢れていた。帝都を守護する結界が完全に破られたのは火を見るより明らかである。降魔は行く。その目指す先は…大帝国劇場!
 だが。魔の侵食に異を唱える輝きが石造りの街並みに放たれる!日比谷の堀端から湧き上がる力強い霊気。七つの影が地に降り立つ。

「帝国華撃團、参上!!」

 ひときわ強烈な霊光が降魔の群れを照らし出す。伝説の照魔鏡の光の如く、それだけで小物は塵と化した!薄紅の、紫の、銀の、緑の、金色の、真紅の霊光。そして全ての色を内包する純白の輝き。新たなる力、「神武」を得た帝国華撃團の勇姿である!!

「ガッハッハ、やるではないか。我が名は『猪』。叉丹さまに逆らう愚か者どもよ。おまえたちが何処までやれるか見せてもらうぞ!」

 小物とはいえ、仲間が消されたことに何の感慨を覚えた様子も無い。いや、降魔には「仲間」という意識はないのかもしれない。仲間を惜しむという「感情」はそもそも存在しないのかもしれない。降魔「猪」は相変わらず暗愚そのものを思わせる馬鹿笑いを上げ無意味な挑発を撒き散らしている。まるで人間の悪徳、「愚昧」を象徴するかのような存在。そして降魔・猪は地の底より巨大な人型を呼び出した!

「魔霊甲冑…!」

 機械仕掛けの巨人の中へ溶け込んでいく箱型の短躯。乗り込むのではない!文字通り、一体化したのだ。

「怖れる必要はない。相手は黒之巣会の幹部に率いられた魔物だ。魔物用の魔霊甲冑を持っていても不思議はない。我々にも『神武』があるのだ。神武を、そして自分の力を信じて戦え!」

 意表を突かれ、戸惑う乙女たちに時宜を得た叱咤激励。動揺は嘘のように鎮まる。

「すみれくん、カンナ、アイリス、紅蘭、君達は右回りに降魔を掃討しつつ敵魔霊甲冑へ向かってくれ。マリア、四人の指揮を頼む」
「隊長…?」

 大神の真意が飲み込めず思わず聞き返すマリア。兵を二手に分けるというのもこれまでの大神の指揮には無かったことだし、二手にと言ってもこれでは、残るはさくらと大神だけではないか。

「さくらくん、君は俺について来てくれ。左回りに敵を殲滅しつつ、魔霊甲冑へ向かう」
「無謀です、隊長!!たった二機などと」

 純粋に戦術的見地から異を唱えるマリア。だが、他の者の心中はもう少し複雑だった。

「マリア、心配ない。これ以上街が破壊される前に敵を迅速に殲滅する必要があるのだ。その為には二手に分かれるのも仕方が無い。それに俺の足についてこれるのはさくらくんだけだ。全員、進撃!!さくらくん、遅れるなよ!」
「はいっ!!」

 弾かれたように行動を開始するさくら。それは他の五人も同じだった。大神の進撃命令が下された途端、一切の雑念が消える。各々が抱いた思惑は何処かへ消えてしまった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 銀色の神武から連射される大口径の感応弾が降魔の肉体を抉る。

「すごいパワーだわ…あの特訓が無かったらとても制御できなかった…!」

 真紅の神武が繰り出す拳撃がおぞましい降魔の体を突き破る。

「うおおぉっ、すげえ力だぜ!!」

 紫の神武が振り回す長刀の穂先が降魔の禍禍しい姿を切り裂く。

「ふんっ!卑しい魔物の分際でわたくしに敵うと思って!?」

 金色の神武が放つ虹の光がはじけると同時に降魔の体もまた弾ける。

「きゃはっ!アイリス、なんだかと〜っても強くなったみたい!」

 緑の神武から発射された雷球が降魔を追いかけ、次々に降り注ぐ。

「どやっ、うちの自信作、神武の力は!!」

 薄紅の神武が振り抜く大太刀が降魔の肉体を両断する。

「やったわ!これも特訓の成果と神武のおかげね!!」

 三週間前、あれほど苦戦したのが嘘のようだ。光武では刺し違えるしかなかった巨大降魔ですら連携の取れた神武の攻撃の前に次々と瘴気へ還っていく。だが、中でも圧巻だったのは純白の神武の戦い振りであった。

「闘っ!」

 左右に構える玉振鋼の大刀が振り下ろされる度に降魔の姿が消えていく。巨大降魔ですら、一矢すら報いる事も出来ず一太刀で塵と化していく。恐るべき力。圧倒的な戦闘力。なるほど、これなら二機でも足りるはずだ。実際、さくらはほとんど出る幕が無かった。当たるを幸い薙ぎ倒すとはこのことだろう。

「おのれぇ〜、ものども、一斉にかかるのだ!」

 苛立ちを露にした猪の号令に巨大降魔が一塊になってすみれへと襲い掛かった。

「すみれ!」
「心配御無用!」

 紫の神武から一際強い霊気が立ち昇る。眼前に掲げた長刀へ大量の霊気が集まっていく。そしてすみれは力強く唱えた。心の形を。

「炎に生まれし真紅の霊鳥よ、全ての汚れを焼き祓い給え」

 長刀の刀身に浄化の炎が燃え上がる。翻る白刃が真紅の大鳥を描き出す。

「神崎風塵流・鳳凰の舞!!」

 流麗に弧を描く刃の舞に導かれ、浄化の炎を纏う霊鳥が宙を翔ける。高密度に凝縮された浄化の結界が炎の鳥となって神武に群がる魔を焼き尽くして行く。真紅の鳥が姿を消した時、すみれの周りに最早魔の姿はなかった。

「すげえぜ、すみれ!お前も遊んでた訳じゃねえんだな!!」
「この位、出来て当たり前ですわ!!」

 相変わらずの傍若無人な物言い。だが、すみれは心の中で話し掛けていた。

(少尉、これでいいのですわよね!?)

 謎かけの形で高みへの道を示してくれた大神へと。

 その思いで戦いから気が逸れた一瞬、隙が生じた。そこへ一際巨大な、他の巨大降魔より更に一回り大きな降魔が飛び込んでくる。慌てて構えを取るすみれ。だがその時には真紅の神武がすみれ機と降魔の間に割り込んでいた。

「任せな!」

 真紅の神武の中で急速に「気」が膨れ上がっていく。その機体の足元を中心として大地が細かく振動している。神武の中で膨張する「力」に大地が呼応している。

「大地よ、我に応えその力を貸せ」

 大地と等質で、同等の力が真紅の機体の中心からその両腕に、両手に流れ込んでいく。

「あたいの全てをここに!四方攻相君!!」

 揃えた両の掌の間に膨大な力が込められた気の塊が輝く。突き出した両手の動きと共に気の塊は降魔の体に食い込み、一気にその力を解放した!爆発四散する降魔。

(見てくれたか、隊長!これが四方攻相君だ)

 心の中で雄叫びを上げるカンナ。だが、その側面から新たな一隊が忍び寄る。

「カンナ、すみれ、避けて!」

 マリア機が右手を構える。身を投げ出すように左右に散るカンナ機とすみれ機。銀色の神武の右手に装備された速射砲に霊気が集中し、その高密度に銃身が放電現象の如き光を放つ。マリアは描く。心の中に、魂の凍り付くほど美しいイメージを。

「夜空を覆う光の瀑布、凍える極光の輝きよ。全ての魔性を氷結の地獄へ封じ給え」

 右手に掲げた銃身の中、霊気が一点に凝集して行く。一発の銃弾に辺りを覆い尽くすほどの霊気が込められる。

「パールクヴィチノイ!!」

 瞬時に展開される霊気の檻。着弾と同時に霊気が爆発的に膨張し、魔気を凍り付かせる結界となる。霊的な超低温の中、存在の源である魔力の活動を強制停止させられた降魔は硝子のように砕け散った。

(隊長、あなたは正しかった…!)

 こちら側に最早降魔の影は残り少ない。しかし、まだ大物が残っている。カンナが葬ったものと同等の妖気を撒き散らしている巨大降魔。

「ほな、次はうちの出番や!」

 緑の神武がその前に立ちはだかる。複雑で、緻密な、細心にカットされたダイヤの輝きを思わせる精妙な霊力の閃きが紅蘭機の中に見えた。極めて複雑な霊子機械が作動する兆候。

「四方を守る聖獣の似姿よ、今、仮初めの姿を現せ」

 その声と共に神武の側面から4枚の板が射出される。板と見えるほど薄い直方の筐体。その表面には感応素子が絵を描いて埋め込まれている。中空でその絵は見る見る立体感を得て、4体の神獣の姿になった!青竜、朱雀、白虎、玄武、天界の四方を守る聖なる獣。金属的な質感の四聖獣。

「四方を囲みて敵を討て。これが科学の力や!聖獣ロボ!!」

 直方筐体から出現した四聖獣は宙を翔け、降魔の四方を取り囲む。四方を守るのではなく、四方から降魔に向けて一斉に霊気を放つ!四方で同時に起こった霊気の爆発により、降魔は押し潰され消滅する。

(やりましたで、大神はん!)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 全ての降魔を掃討し、一足先に魔霊甲冑の前に立つマリア達五人。

「うがーーっ、おのれ、虫けらどもめ。我と我が火輪不動の力、思い知るがいい!」

 その姿を見て猪が吠える。全く芸の無い単純な台詞。その名の通り猪武者と見えた。
だが。その時魔霊甲冑から噴き出した妖気はあの天海すら凌ごうかというものだった。

「爆炎・萩裂砲陣!!」

 渦巻く炎。凶々しい色彩の炎が竜巻となって五体の神武を呑み込む!
 霊気の防御力場を貫いて少なからず損傷を受ける四体の神武。間一髪、アイリスは転位で逃れていた。

「みんな!」

 その時ちょうど猪の魔霊甲冑・火輪不動の側面に、大神と共に躍り出たさくらは仲間たちが炎に呑み込まれる様を目にして愕然とする。

「大丈夫だ、さくらくん!あの程度でやられる皆じゃない」

 だが、確信の込められた大神の励まし。

「大丈夫よ、さくら」

 そしてマリアからの通信。二人の声に落ち着きを取り戻すと同時に仲間を傷付けた降魔・猪に対する闘志を燃え上がらせる。

「今度はこっちの番よ!」

 精神を集中し心の昂ぶりを意志の力に変える。精神を研ぎ澄ませ、闘志を祈りへ昇華していく。全ての魔を滅ぼし地に平和を取り戻す、その祈りへ。
 同時にアイリスが四人の元へ跳び寄り、花組の中で最も神秘的に見える奇跡の業を揮う。

「アイリスにお任せ!」

 アイリスの神武から四人の頭上へ力が放たれる。力は幾重にも重なり合った虹の橋となって四体の神武を包み込んだ。

「命の水、癒しの雫、虹と共に降り注げ。イリス・シャルダン!!」

 虹が光の雫となって神武へと降り注ぐ。見る間に所々焦げてくすんだ神武の装甲が本来の輝きを取り戻す。それだけではない。

「おおっ!?力が戻った?」
「霊力が回復していますわ…?」

 物質的な修復だけではなかった。霊力、霊気にまでその癒しは及んだのだ!

「うふふっ!やったね!!」

 癒しの様子は遠く離れたさくらにも見えた。胸を撫で下ろすと同時に精神を敵へと、猪と火輪不動へと一層集中する。高まる霊力。澄み渡っていく霊気。そしてさくらは心の形を編み上げる。心に世界を描く言葉によって。

「邪悪を吹き祓う神の息吹よ、我が刃に宿り給え」

 神武を巡り巻き起こる桜色の旋風。勢いを増す渦巻く霊気。轟々たる霊力の嵐が抜打ちに構える玉振鋼の刀身へ吸い込まれて行く。

「破邪剣征・百花繚乱!!」

 その一途な心の如く、何処までも一直線に伸びる清なる嵐。その進路、周りに立つ全ての魔のものを巻き込み切り裂きながら何処までも真っ直ぐに疾り抜ける霊気の旋風。桜花放神が魔の群れを切り裂く果てしなき刃なら、これは、破邪剣征・百花繚乱は行く手に立ち塞がる全ての魔のものを切り刻む千刃の嵐だ。さくらの前に最早降魔の姿はない。猪までの道に立ち塞がる全ての降魔は霊気の嵐に呑まれ、バラバラに分解していた。そして魔霊甲冑・火輪不動を直撃しその魔炎を吹き散らす。

(見てくれましたか、大神さん!?)

 思わず、横に立つ純白の機体へと振り返る。視界にはシルスウス鋼の装甲しか見えなかったが、確かに大神が頷くのが見えた気がした。

「うおぉのれ〜」

 だが、流石は降魔を率いる魔の将。さくらの霊気の直撃を受けながらも、再び魔の炎を燃え上がらせ、今度はさくらへ向けて放とうとする。
 一瞬早く、大神が動いた。神武に装備された高機動装置が唸りを上げ、瞬く間に火輪不動までの間合いを詰める。そして。

「神鳴る剣よ、天威を示せ!」

 双刀を神武の眼前にて十字に打ち合わせ大神が雄叫びを放つ。玉振鋼の発する澄んだ刃鳴りの響きと共に双刀交わるところ不可視の閃光が生じる。閃光が急激に膨張し神武を包み込む。次の瞬間それは、無数の雷光を纏い天へと聳える不可視の「塔」となった。純白の神武より天地を貫いて伸びる気の柱、それを中心とした直径3メートル余りの、「力」によって構成された円塔。その中にあって、大神の神武は天空へと飛翔する。飛行機構を持たぬ神武には到底跳び上がれる筈のない空の高みで振り上げる双刀に「塔」を形造る全ての力が収斂し、白熱する長大な二本の光刃となる。そして光の刃交わるところに巨大な光球、光の鉄槌が出現する。

「狼虎滅却・無双天威!!」

 宙を翔け降りる勢いのまま、大神はその天地を貫く力の全てを叩き付けた!まさに比類無き一撃。無双の威を天下に揮う、天帝の下す裁きの鉄槌にも似た斬神斬魔の刃。
 全ては一瞬の内に起った。猪には眼前の大神機が霊的な閃光と共に姿を消した様にしか見えなかった筈だ。自分がどうやって討たれたのかもわからぬまま、火輪不動と猪は微塵となるまで粉々に打ち砕かれ、細胞の一片に至るまで灼き尽くされた。




その11



「大神くん、お疲れ様」

 格納庫に帰還した純白の機体より降り立つ若者に掛けられた第一声はあやめの労いの言葉だった。その直後、先に各々の神武を降りた少女達が彼女達の隊長、大神の周りに集まる。

「大神さん、すごかったです!!」

 息を弾ませ、目を煌かせて興奮した面持ちのさくら。

「少尉!お見事でしたわ…」

 うっとりした表情のすみれ。

「すげえぜ、隊長!!」
「隊長、お見事でした」
「お兄ちゃん、すっごーい!!」
「大神はん、ほんますごかったで…」

 カンナが、マリアが、アイリスが、紅蘭が、皆それぞれに興奮や感動を表している。上空の監視用無人飛行船のカメラを通して見ていたあやめ達と違い、彼女達は間近であの圧倒的な霊気を浴びたのである。その巨大な力と、それ以上にその美しい波動。荒々しくも清らかで純粋な、それは「神」を感じさせる清冽な波動だった。

「大神、あれがお前の言っていた『魔を滅ぼす力』か?」

 声の主は米田である。間髪入れず敬礼を見せる大神。慌てて左右に散る少女達。総司令である米田が格納庫まで下りてくるのは珍しい。だが、大神に慌てた素振りは見えなかった。

「はっ」
「無双天威、か?ありゃあどこで身につけた技だ?」
「はい、私の学んだ流派に伝わる奥義です」
「…そうか」

 正直に答える大神。そこには実質的な情報は何も含まれていない。そしてそれ以上問い詰めることが困難になる答えだ。

「ご苦労だったな、大神。花組、これをもって作戦を終了する。休んでよし」
「はっ!全員、解散!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 カチャ…カチャ…

 茶器の触れ合う微かな音と立ち昇る香気、そして少女達の語らう声。大帝国劇場二階のサロンに誰が言い出すともなく花組の全員が集まっていた。

「…それにしてもすごい力だったよな、隊長が最後に繰り出した技…」

 心底感心したという様子でカンナが改めて口にする。

「…本当に…わたくし、あんまり眩しくて気を失いそうでしたわ…」

 すみれはまだ、何処と無く呆っとしている。

「アイリス、お星様が落ちてきたのかと思っちゃった」

 アイリスの無邪気な感想も、この時ばかりは当を得ているように思える、そんな風に肯く五人。

「さくら、あなた、ずっと隊長の後ろにいたわよね?隊長の力、どう思った?」
「えっ…?どうって、マリアさん、どういう意味ですか…?」

 マリアらしからぬ要領を得ない問い掛けにさくらは戸惑いを見せる。それでなくても、興奮が漸く収まったさくらはすみれ以上に陶然と、夢見るような瞳になっている。

「ええ…何だか、隊長の霊気の質が以前とは違うような気がして…」

 この世のものならざるものを「見る」力を持つマリア。霊気を「見る」ことの出来るマリアの目は大神の霊力に変化を感じ取っていた。

「いえ…?大神さんは大神さんですよ?…確かに以前よりずっとずっと強くなっていますけど」
「そう…?」
「何と言うか、一段も二段も高い境地を手にされたという感じですよね?だからじゃないですか?」

 憧れの滲み出るさくらの声。無双天威だけでなく、大神の繰り出す一太刀一太刀から迸る剣気がさくらを魅了していた。剣を学ぶものにとって、それは憧憬を込めて遥か仰ぎ見る高みに思えた。剣士として、大きく水をあけられてしまったことも不思議と悔しくなかった。余りにも違い過ぎる。あの若さであれ程の境地へ到達した偉大な剣士と肩を並べて戦えることがこの上なく幸せなことに思えていた。

「やあ、皆、お疲れ様」
「あっ、大神さん!」

 弾かれたように立ち上がるさくら。それは大神が声を掛けたのとほとんど同時だった。まるで、大神の到来がわかっていた様に。
 さくらに腰を下ろす様優しく目で合図して、大神は入り口に一番近い席に座る。そして一人一人の顔に目を一巡させて、口を開いた。

「皆、三週間、よく頑張ってくれた。今回の勝利は君達が正しい努力を積み重ねた結果だと思う。俺は改めて、君達を誇りに思うよ」
「少尉…」「隊長ォ…」「お兄ちゃん…」「隊長…」「大神はん…」「大神さんっ…」

 12の瞳がじんわりと潤む。それでも、泣き出すものはいなかった。全員の顔に浮かんでいたのは本当に満足げな笑顔だった。そして口々にこの三週間のことを喋り始める。声の重なることもしばしばであったが、大神はその全てを聞き漏らすこと無く、一つ一つ丁寧に応えを返していた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 帝国華撃團銀座本部地下格納庫に米田と、あやめと、花組の全員が集まっていた。そしてそれ以外に、近衛軍法術大隊、通称陰陽陣副司令、加出井法行少佐の姿もある。銀座に現れた降魔を撃退した日の夕刻のこと。
 そもそも今やすっかり謝罪係となった感のある加出井少佐が帝撃本部を訪れてきたことに端を発している。帝国でも最強の陰陽師の一人に数えられる加出井は、封魔結界が予定より遥かに早く突破されたことを副司令の身でありながら直々に謝りに来たのである。弁明に、ではないところがこの男の潔いところであり、この男が来なければならなかった理由かもしれない。何せ陰陽陣は千年の歴史を誇る組織であるから。
 米田と、あやめと、大神を前にして自分達の力不足を詫び、今回の勝利に対する祝辞を述べた後、加出井はこんな事を言い出したのである。

「大神少尉」
「はい」
「君が身につけてきた技を私にも見せてもらえないだろうか」
「はっ…?それは、構いませんが…」
「そうか。予定には満たなかったとは言え、我々が作った時間で君が何を得てきたのか、それだけは確認しておきたいと思っていたのだ」
「わかりました。そういうことでしたら…」

 ……どうやらこれが今日の訪問の本当の狙いであったらしい。大神がどの程度の力を身につけてきたか偵察に来たのだろう。だが、相手の言い分はもっともである。また、拒絶する理由も無かった。
 両手に木刀を下げて立つ大神。神武による試技ではなく、生身による演武である。神武を使っては銀座本部が大損害を被りかねないとの理由で。試し切りには神武導入により不要となった光武の外部装甲が使われることになった。もっとも、得物が木刀では「斬れる」訳が無い。あくまでも試技の標的としておかれているだけである。
 大神は無形、自然体に木刀を下げ、光武(の外部装甲)から5メートルの位置に立った。そして、無造作に両手を広げ双刀を垂直に立てる。

「おい、さくら。無双天威ってえのはお前さんの桜花放神みたいな飛び道具なのか?」

 カンナが小声で横に立つさくらに囁きかけた。標的との距離がいくらなんでも大きい様に見えたのである。

「いえ、違うと思います」

 さくらは短く答えを返す。その目は大神を見詰めたままである。一瞬たりとも目を離したくない、全身からそんな雰囲気を放射しながら。
 これまた無造作に大神は次の動作に移った。双刀を胸の前で交差させる。木が打ち合される軽い音がした。そして、大神の姿がブレた。

 断!

 次の瞬間、爆発音にも似た轟き。
 轟音の源は光武だった。否、正確には両の木刀を振り下ろした大神の眼前でX字に裂けているシルスウス鋼の装甲だった。
 それにしても何という踏み込みであろうか。大神の動きを目で追えたのは以前技の型を見たことのあるさくらだけだった。かろうじて。これだけ達人級の武芸者が揃っていながら、である。だが、その足捌きに驚く者は誰もいない。何故なら。

「バ…カな……」
「ジーザス…」
「…そ、そんな…シルスウス鋼が…」
「嘘だろ…」
「……」
「……」

 驚愕が一同を支配していた。ありえないことだ。ある筈の無いことだった。シルスウス鋼が、木刀で斬り裂かれるなど。大神の動きを目で追えたのはさくらだけであり、他の者には大神が何をしたのかわからなかった。だがそれ以上に、目の前の事実が信じられなかった。

(これが、奥義!これが、無双天威…)

 他の者が慄きの声を上げる中、あるいは息を呑む中、さくらは震えていた。魂の震えを抑えられなかった。それは美しいとか見事であるとか、そんなものを超越した衝撃だった。人が、剣を揮うことでこれ程のことが出来るのかという感動。言葉にすればそうしたもの。この時さくらを支配していたもの。
 大神が残心を解き、皆の方を振り返る。ごく普通の表情だった。非日常的な光景の中であまりにも、いつも通りの大神だった。

「これが、奴等を滅ぼす技です」

 落ち着いた口調に、漸く一同は我に返る。だが、応えを返せたものはいない。戦慄から抜け出すことが出来ずにいる。一人を除いて。

「すごいです!すごいです、大神さん!!」

 さくらが大神のもとに駆け寄る。興奮のあまり顔を紅潮させていた。
 ごく当たり前に異常としか言いようの無い信じ難い技を見せた大神自身より、その大神を無条件の称賛と憧れを込めて見上げているさくらの姿の方が、他の者の目には奇妙に映っていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「ほな、再生します」

 らしくもなく元気の無い声で紅蘭が合図をする。蒸気演算機室に集う面々は米田、あやめ、加出井。
 投影板に大神の姿が映る。両手に一本ずつ木刀をぶら下げた姿。画面の中の大神は二本の木刀を胸の前で交差させたところで静止する。

「ここから再生を10倍にします」

 時間の経過を10倍に引き伸ばす遅速再生。大神がゆっくりと腕を上げながら交差させる。そして滑らかに両手を逆側の肩の上に振り上げ、勢い良く足を踏み出した。
 息を呑む四人。その踏み込みは極普通の速度に見える。つまり、大神は通常の10倍以上の速さで動いているということだ。
 光武の装甲まで5メートルの距離を一挙動で詰めると、大神は左右の木刀を素早く振り下ろした。逆袈裟斬りに振り下ろされる左右の木刀はほとんど同時に繰り出されているように見える。しかし、米田やあやめの目には左の木刀が振り下ろされた後、右の木刀が繰り出されているのが見えていた。二本の木刀はシルスウス鋼の装甲を素通りしたように見えた。そして、大神が両手を振り下ろした姿で映像は終わった。

「紅蘭…今のは本当に10倍速か…?」
「……間違いありません」

 紅蘭は真っ青な顔になっている。肉眼でははっきりわからなかったその凄さが、機械の目を通すと衝撃となって襲いかかってくる。

「こ、今度は、キルリアンフィルターをかけて再生します…」

 もう一度同じ映像が映し出される。違うのは、木刀が眩しい純白の輝きを放っていることだ。キルリアンフィルター、それは霊的なエネルギーを機械的に映像化する装置。双刀を覆う強烈な白光にかき消されて目立たないが、大神の全身も薄らと白い光を纏っている。大神が地を蹴った瞬間、その足元に光の爆発が起こる。そして振り下ろした双刀の軌道に白い軌跡が残る。

「どうやら肉体の加速にも霊力を用いているようですね」
「それはそうだろう。いくらなんでも、肉体の力だけであれほど速くは動けん」

 あやめの言葉に唸るような声で応えた米田は、思い付いたように紅蘭に問い掛けた。

「紅蘭、霊力値はいくつになっている?」

 シルスウス鋼を生身で、しかも木刀で斬り裂く程の力。一体どれほどの数値を示していることか。しかし、紅蘭の答えは余りにも意外過ぎるものだった。

「それが…計測できてませんのや」
「…針を振り切っちまったのか?」
「いえ、それが…計測の下限を下回っとるんです……」
「……何?じゃあ、あの光は何だってんだ?霊力じゃねえってのか!?」
「長官、落ち着いて下さい」

 紅蘭がびくっとした表情を見せている。思わず興奮して大声を出した米田を宥めたのはあやめである。

「あ、ああ、すまねえ…しかし、それじゃあ一体…?」
「キルリアンフィルターに映る光は霊波動そのものではなく、空間を構成する元素エーテルが霊力に反応して生じるものだと考えられています。この仮説に従えばキルリアンフィルターで発光が確認されても、必ずしも霊力が観測できるとは限りません」
「…すまねえ、もう少しわかりやすく説明してもらえねえか?」
「つまり、大神少尉は確かに霊力を発していますが、その力を自分の周囲のごく限定された空間にのみ作用させているということではないかと…」
「つまり、彼は自分の意図した範囲外には一切霊力を漏出させていない、と?」

 努めて冷静を装いながら、つまり冷静な振りをしているということが端からわかる程動揺しながら、加出井が口を挿んだ。

「ええ、霊力計はまだ受動型しか開発されていませんので、測定器に霊力が届かなければ霊力値を計測できないということです」
「…そんなことが可能なのか?」

 米田の目は加出井に向いている。何といっても彼は帝国有数の陰陽師だ。

「それは…極めて綿密、細心に結界を組み立てれば外にいる者に気付かせること無く結界内で術を行使することが出来ますが…何の儀式も行わずあんな無造作に、それ程高度な結界を構築できるものかどうか…」
「おそらく」

 一旦言葉を切るあやめ。劇的な効果を狙ったというより、自分の心を落ち着かせようとしているのだ。

「彼の『無双天威』という技は、極めて高密度な霊力の場を完全に制御することによって成立っているのではないでしょうか。紅蘭、シルスウス鋼の断面を見たわね?」
「は、はあ…何やあれは切断面ちゅうよりは鎔けとるっちゅうか消滅しとるっちゅうのが一番適切なんやないかと…」
「不破の力場、絶対の結界が物質を通過すれば、その結界を突破することが出来ない以上、物質の方が崩壊するしかありません。剣の周囲に極薄い、しかし決して破れることの無い霊力場を作り出してそれを超高速で振り抜けば…」
「それが大神の技だってえのか……」

 暖房の効いた蒸気演算機室。だが、四人は背筋に一月の夜気以上の寒さを感じていた。


――続く――
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