魔闘サクラ大戦 第九話
その1



『…魔の聖域、呪われし者達の王城に破滅の神器あり。その名を邪霊砲、世に溢れたる全ての悪念を糧となし狂気の閃光を降らせるものなり…』

(…流石にわかりにくいな…この手の秘文書は……)

 コン、コン

「大神さん、さくらですけど」
「ああ、開いてるから入ってもらえる?」
「失礼します」

 扉を開けて顔を覗かせるさくら。大神が机から顔を上げて視線で招き入れると嬉しそうに大神の横へ足を運んだ。大神の手許に開いたままの本があるのを見て、机の上を覗き込むような感じで問い掛ける。

「何のご本なんですか?」
「『放神記書伝』という書物の写本だよ。長官にお借りしたものだ」

 読んでみる?と目で問われ、差し出された本を見てさくらはうっ、と顔を顰めた。本と言ってもそれは、やけに達筆な手書きの書物だったのだ。しかもかなり古い字体の漢字が多用されている。

「…おわかりになるんですか?」
「まあ、なんとかね」

 尊敬の眼差し。目を丸くして心底感心したような顔で大神を見るさくら。

「これはね、降魔について書かれたものなんだ」

 何気ないような一言にさっとさくらの表情が引き締まる。

「何か降魔の弱点になるようなものが書かれていましたか?」

 清楚な美貌、可憐な姿態。だがその表情は、その目は確かに戦士のもの。単に戦を生業とする者ではなく、使命感を胸に戦う者の瞳。

「いや、残念ながら…でも、まだ全部読んだ訳じゃないからね。ただ、降魔の正体についてはわかったような気がするよ」
「えっ?それは一体…?」
「放神記書伝というのは上古の昔からこの国で繰り広げられた神と、魔と、人の戦いの記録を綴ったものなんだ。この写本はその内、戦国時代の部分を抜き出したものだ」

 さくらにベッドへ腰を下ろす様合図してから大神は語り始める。

「神と、魔と、人……神と、人の戦い…?」
「そう。神々が常に人間の味方であるとは限らないからね。放神記書伝には決して正史に残されることの無い、神と人の対立すら記されている。そして歴史から抹殺された忌まわしい出来事も…」

 ゴクッ

 思わず息を呑むさくら。穏やかに語る大神の話がいよいよ核心に近づいてきたのを感じていた。

「戦国中期、今の東京湾に浮かぶ島である実験が行われた。その島の名は大和。東京湾の3割を占める大きな島だ。そう、今はもう無い。今から話す実験の所為だ」

 さくらの不思議そうな表情に解説を付け加える大神。

「相模国主、北条氏綱が天下を治める力を求めて魔術の実験を行った。それは異界の力を召喚し、無敵の兵士を作り出す術だったと伝えられている。だが、異界への通路を拓くところまでは成功したものの、その力を制御することが出来なかった。異界の力は暴走し、その力を宿すはずの兵士を異界の存在そのものに変形(へんぎょう)させてしまったのだ。異界の力に狂い暴れまわる不死の兵士たちを葬る為、氏綱は事を重く見た陰陽寮や高野山の術士達の協力を得て、封魔結界により変形した兵士達を大和に閉じ込め大和そのものを東京湾に沈めた、そう記されている」
「まさか!…その人達が……」
「はっきりとは書かれていないがおそらくそうだろう」
「じゃあ、じゃあ降魔は元々人間なんですか!?」
「降魔の体が元人間なのだろうな。降魔の本体は異界より侵入した魔そのものだろう。そして放神記書伝には僅かながら氏綱にこの実験を唆した術士の集団についても書かれている。燃えるような赤毛やくすんだ土の色の髪で頭頂が禿げ上がり、青や灰色の目をした、黒い外套を纏う雲をつくような大柄な鬼人であった、と。この姿と戦国中期という時代を考え合わせて、何か思い付かないかい?」
「…南蛮人、でしょうか?」

 自信無さそうにおずおずとさくらが呟く。

「俺もそう思う」

 そしてこの言葉を聞いて少しほっとした顔を見せ、またすぐに表情を引き締める。

「そもそも『降魔』という名称からして俺は西洋魔術の臭いを感じる。名は体を表すからな。『降魔』と言う場合、中国やインドを源流とする法術では魔を打ち破る意味に使うからね。もっともこの場合『こうま』ではなく『ごうま』だけど。降霊術、降魔術、召喚の意味で『降魔』と表現するのは西洋魔術の特徴だ。当時の日本にはカトリック教会以外にも様々なキリスト教異端の宗派が本国の迫害を逃れて大陸経由で渡って来ていたと伝えられている。あるいは、氏綱を唆したのは魔界を崇める者達だったのかもしれないな。この国を彼らの天国、魔界と変えることが目的だったのかもしれない。…大和にはそれを可能とする物が……」
「えっ?」
「いや」

 最後は口の中だけで呟く。聞き返すさくらにも曖昧な返事を返しただけだ。

「降魔が西洋の魔術によって召喚された魔物だとすればいろいろなことに合点がいく。奴等の姿、古来からの法術が奴等に効き難い事実、我々の祭祀で奴等を鎮められない理由…」
「……」

 考え込む大神を前に何となく声を掛けられずにいるさくら。

「ああ、ところでさくらくん、何か用だったんじゃないの?」
「あっ!いけないっ!!」

 思い出したように問う大神の言葉にさくらは慌てふためいて跳び上がった。

「そ、そうでしたっ!大神さん、長官がお呼びです!」
「わかった。それで場所は?」
「あ、地下倉庫です。……すみません、大神さん」
「いや、わざわざありがとう」

 しゅんとしょげ返るさくらの肩を軽く叩いて、大神は悠然と部屋を出て行った。
 さくらは慌ててその背中に続いた。自分を責めようとしない優しすぎる大神に、少しの居心地の悪さと戸惑いを感じながら。自分が特別扱いされている、繰り返し湧き上がってくるそんな思いを繰り返し打ち消しながら。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神、参りました」
「遅いぞ、大神!何してやがった!!」

 大帝国劇場には名目上、地下室は存在しないことになっている。あるのは半地下の舞台設備と動力室だけということに。だが、劇場の地下には地上の巨大な建物以上の空間が広がっている。帝国華撃團本部施設が。そして今大神が訪れた部屋もまた帝撃本部の一部。戦闘用の備品が秩序の元に格納されている倉庫である。
 開口一番怒鳴りつけた初老の老人、彼にとって直接の上官である帝国華撃團総司令、米田中将の叱責、だが、大神は全く萎縮した様子を見せない。かと言って、反抗的だとか虚勢を張っているとかいうようにも見えない。

「申し訳ありません。放神記書伝の解読に没頭して周囲への注意が疎かになってしまいました」

 言外にさくらの所為ではない、と恐れる色無く主張する。上官の心証よりも部下の立場の方が重要、これは後々に至るまで大神がその申し分ない力量と実績にも拘わらず一部の軍幹部、そして特に軍務官僚に快く思われない原因となった彼の欠点と言ってもいい個性である。いや、その経歴の出発点に米田のような上官を持ってしまった為身についた悪弊かもしれない。

「まあいい。大神、これを見ろ」

 その証拠に米田は大神の聞く者によってはかなり礼を失すると感じられるような弁明をまるで気にも掛けずに本題に入った。
 壁の備品管理用投影盤に古い一幅の絵が映し出される。無数の魔物達。それに相対する人の軍勢。

「百鬼夜行図ですか…?いえ、違いますね…これは、降魔!」
「大神、放神記書伝はどの程度まで読んだ?」
「今、大和封印の件(くだり)です」
「ならば話が早い。放神記書伝にも書かれているように人と降魔は約400年前地上の覇権をかけて戦い、その時は辛うじて人間が勝利した。我々の祖先は降魔を大和に封じ込め、大和それ自体を海原の異界へ封印することでひとまず降魔の脅威を取り除くことに成功した。もっとも、戦いはそれで終わった訳ではなく、それからも幾度と無く封印の隙間から這い出た降魔を闇へ追い返す戦いが人知れず続いてきた」

 頷く大神。魔界の力の化成体である降魔を殺すことは出来ない。ただ、その宿る体を破壊し、その本体を封じる、あるいは魔界へ返すことが出来るだけだ。魔界の力をこの世に留める邪気それ自体を清め、魔界の力を滅する特別な力、それを持たぬ普通の術者には。

「陸軍対降魔特殊部隊も文字通りその目的の為に結成した。当時は既に、魔と人の闘争の歴史を知る者は軍の最高幹部にすらほとんどいないという体たらくだったがな。おかげでずいぶん廻り道をさせられたものだが…六年前の降魔戦争によって秘匿されてきた魔との闘争が軍の上層部に漸く知られるようになったのだ。…もっとも、儂も人のことは言えん。一馬に教えられるまで、魔物との戦争など夢にも思っていなかったのだからな……」
「一馬さんといいますともしや……」
「真宮寺一馬大佐、さくらのお父様よ」

 大神の問いに顔を曇らせたあやめが答える。

「真宮寺家は歴史の影で魔の侵攻からこの国を守り続けてきた一族だ。その血筋の内に魔を退ける類希な霊力、『破邪の力』を伝える一族。六年前の戦いも結局、降魔を撃退したのは一馬の破邪の力だ…」

 無念を噛み締める、そんな表情の米田。その心情がいかばかりのものか推し量るのは難くない。

「六年前、霊子甲冑も無しで対降魔部隊はどのように降魔と戦ったのですか?」
「大神くんっ!」

 だが、大神は無情にもこう尋ねた。余りに人の情を無視した冷静な、冷酷なとすら言える質問。思わず声を荒げようとするあやめ。だが、米田はそんなあやめを手振りで制する。

「今ほど対等に戦えた訳ではない。我々には剣と己が身しかなかったのだからな。帝都に張り巡らされた霊的防御と、様々な祭器の力を利用しながら辛うじて奴等を食い止めていたが、……結局降魔戦争が終わった時、我々は真宮寺一馬と山崎真之介の二人を失ってしまった」
「………」
「………」

 淡々と語る米田、何かに耐えている表情で沈黙するあやめ、そして何の感情も顕にしない大神。

「最後には一馬がその命と引き換えに降魔を封じたのだ……」
「術者の命を代償とする太古の呪法、ですね」
「憶えていやがったか…」

 それは黒之巣会との決戦の夜、翔鯨丸の中で語られたことである。

「破邪の力、『魔を狩る者の力』を伝える真宮寺家の血統……さくらくんはその事を知っているのですか」
「さくらはまだ知らないはずよ。破邪の力のことも、その力を引き出す方法も……多分、真宮寺大佐はさくらが大人になってから教えるつもりだったのよ……」

 あやめの答えに、大神が微かに浮かべた安堵の表情。二人はそれに気付かなかった。

「今や我々の元に破邪の力を使える者はいない。だが、我々には降魔に対抗する為の切札がある」
「切札、ですか…?」
「そうだ、切札だ。最後の手段と言ってもいい。大神、その絵の右上を見てみろ。神輿のようなものが描かれているのがわかるか」
「はい」
「この絵は大和封印の件を描いたものだと言われている。我々の祖先はある祭器を使って大和を封印した。それがその絵に描かれている神輿の中に納められたものであり、そして」

 言葉を切って米田はあやめに合図する。あやめは埋め込み金庫の一つに鍵を差し込み、さらに表面の強化硝子の板に手をあてる。微かな駆動音と共に鍵の外れた音がした。その上で鍵をもう一度回す。

(これほど厳重な保管を必要とするものか…)

 それだけでその重要性が理解できるような気がする。生体放射照合による機械錠と通常のシリンダー錠、その上、鍵を差し込む手順までがチェックされている。「切札」という言葉を実感する大神。

「今、ここにある。これが対降魔の切札、魔神器だ!」
「……!」

 金庫から取り出された金属製の、おそらくシルスウス鋼製の大きなケース、その中に納められていたのは

「見ての通り魔神器は剣・珠・鏡からなる古の祭器だ。三種の神器を模して作られたとも伝えられている」
「これは…霊水晶ですね。極めて高純度の」
「ほう、やはりわかるようだな。霊子甲冑を操る霊力は伊達じゃねえか」

 黄金の柄に透き通った刀身の剣、黄金の台の上の不思議な輝きを放つ透明の珠、見事な象眼の施された黄金の円盤の上に貼り付けられた硝子とは異なる質感の鏡。その全てが馴染みある独特の波動を放っている。霊子機関の中核を構成する霊水晶の波動。霊力を増幅する神秘の物質。
 霊水晶は正確な意味で「物質」ではないと言われている。それは天地の気を大量に含んだ、五行・四大元素の内天界、地界、海界三界全てを巡ることの出来る唯一の元素、「水」が「気」の作用で結晶化したものであると言われる。つまり正確な意味での「水晶」であり、「水」を媒体とした「天地の気」の結晶である。霊力、魔力、そして神力の源泉である天地の、「世界」そのものの力が凝縮された霊水晶は霊的な次元に属する力を最も効率よくこの物質次元に導き入れることが出来る。そして術者の霊力、魔力を霊的次元のエネルギーで増幅することが出来るのだ。霊水晶は霊力を加えることで極めて可塑性が高くなる。そして黄金に触れることで極端に硬化する性質を持つ。黄金の波動が霊水晶の構造を安定させるのだが、その原理は今もって不明だ。これほど高純度の霊水晶を最も霊的な力を高める剣・珠・鏡の三つの象徴に加工したこの祭器がどれほどの力を秘めるものか…自分が興奮しているのを大神は感じていた。

「魔神器は善なる者が持てば魔の力を抑えることが出来る。その効力は、絶対的だ!」

 無言で頷く大神。

「だが…余程の事があってもこいつが使われることはない。いや、あっちゃいけねえんだ!」
「米田長官…?」

 訝しげな声を発する大神。確かにこれほど強力な祭器を使えば術者への反動も並大抵ではないだろう。しかし、命に関わるほどのものとは思えない。一体米田は何を…?

「いや、何でもねえ…魔神器は増幅器だ。悪なる心の持ち主が手にすれば、当然魔の力が増幅されるのだ……六破星降魔陣によって降魔封じの結界が解けた今、降魔が地上に溢れるのを辛うじて防いでいるのはこの魔神器という訳だ。我々にとって魔神器は、言わば最後の砦だ」
「それ程に重要な祭器が何故帝撃に保管されているのですか?」

 帝撃銀座本部は言うならば前線基地だ。魔と戦う実戦部隊の基地。当然、いかに偽装していようと魔の標的となることも多いはずだ。

「この銀座本部はな、帝都で最も霊気が集中する龍穴の上に建てられている」
「そしてその力の場で、私たちは歌い、踊っている。古の祭器を守りつつ…」
「……つまり花組の公演は魔神器に捧げる神楽だということなのですか?魔神器が魔の力に染まらぬように…?」
「この魔神器はその名の通り、神の力にも魔の力にも成り得る究極の祭器なのだ。お前には黙っていたが、帝撃の真の任務はこの魔神器を魔の手から守ることにある」
「そうだったんですか……」
「多分、あの男、葵叉丹の狙いもこの魔神器だ」
「叉丹が魔神器の存在を知っていると?」
「聖魔城を封印したのはこの魔神器だ。それは同時に、封印を解く鍵でもあるということだ」
「聖魔城…神代の超兵器を納めた殺戮の城……呪われし者達の王城……」
「葵叉丹が降魔を率いて世界の破壊を目論むなら、必ずやかつて大和に存在したと伝えられる聖魔城を暗黒の大地・大和ともども復活させようとするはずだ。その為の鍵は今、我々の手の中にある」
「……」

 米田があやめに合図を送る。再び金庫に戻される魔神器。

「この金庫を開けられるのは俺とあやめくんだけだ…いいか、葵叉丹は間違いなくここを攻めてくる。魔神器を奪う為にな。そこでお前にはあやめくんと魔神器周辺を極秘裏に警備してもらいたい」
「はっ!」
「魔神器の存在を知る者は軍部でもほんの一握りだ。ましてその保管場所は最高機密だ。よってこの事は一切他言してはならない。例え花組の連中にも、だ」
「わかりました!!」
「よしっ!後はあやめくんと相談してくれ」
「はっ!…長官、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
「さくらくんは…真宮寺大佐が命を落とされた経緯を知っているのですか?」
「…いや、話していない。お前、言えるか?18の少女に……ましてさくらはあの気性だ。自分達が今戦っている魔物が父親の仇に等しいと知ったら…」
「……そうですね」
「いいか、大神。さくらには決してその事を話すんじゃねえぞ!」
「はい」

(ですが長官、彼女は聡い子です。降魔が父親の仇に等しいということくらい既に気付いているかも知れませんよ……)

 胸の裡だけで呟く大神。さくらに知られたくないというのが米田の願望でもあることくらい察しがついていた……




その2



「ねぇ、大神さん見なかった?」
「あっ、由里さん」

 公演終了後の楽屋にひょっこり顔を出したのは赤い洋装を小粋に着こなした典型的なモダン・ガール。普段は大帝国劇場の事務と受付を担当し、有事には実戦部隊・花組の支援に活躍する帝国華撃團・風組隊員、榊原由里である。…とてもそうは見えないが。

「ここにはいらっしゃっていませんけど…」

 わずかに顔を曇らせて応えるさくら。彼女は別に用事があった訳ではないが、やはり大神が顔を見せてくれるのを待っていたのである。
 大帝国劇場の二月公演は全員総出演(すみれ曰く、オールスターキャスト)の「マイ・フェア・レィディ」が選ばれていた。この演目は本来二周年記念用の特別興行として準備されていたのだが急遽繰上げ上演されている。突然の魔物出現で中止となった一月公演の穴埋めに確実な観客動員を見込める演目を持って来たという興行上の理由もあるが、最大の理由は帝劇よりもむしろ帝撃、華撃團の都合にあった。それは霊子甲冑の新造交換である。観客の感動、喝采、舞台に上がる花組隊員への正の思念が霊子甲冑を、ひいてはそれに搭乗する者を負の思念から守る防壁になる、華撃團が歌劇団でもある理由の一つ。そして明司神宮戦闘で急遽霊子甲冑を新造しなければならなくなった為、新霊子甲冑・神武の霊子機関に正の思念を蓄積する余裕は当然無かった。それを補う為には全員が見せ場を持つ演目が必要だったのだ。
 「マイ・フェア・レィディ」はハッピーエンドの恋物語であると共にイギリスの上流階級に対する風刺劇でもあり、階級による英語の違いが一つの鍵となっている物語である。その為、上演は当然日本語だが、原作の味を生かす為には台詞の中にどうしても英語を使わなければならない箇所が少なくなかった。そして山場には舞踏会のシーンがある。下町娘が舞踏会で申し分ない貴婦人として振舞う、それがこの物語の重要な見せ場であり、「シンデレラ」のようにダンスシーンを適当に済ませる訳にはいかない。諸々の理由から主演はすみれの方が何かと都合がいいという意見も根強かったのだが、主人公イライザの性格を考えた場合、やはりさくらの方が相応しいということになった。そうすると待っているのは英語とダンスの特訓である。
 ここで、その相手として白羽の矢が立てられたのは海軍士官の大神である。海軍が英国を手本としているのは明司以来の伝統であるし、海軍士官は戦艦上でパーティのホストを務めることが要求されることも多い。必然的に、陸軍士官に比べ海軍士官の方が西洋流の教養やマナー、とりわけダンスに高い水準を要求される。大神は殊に英語が達者であった。国際共通語の仏語はまあ、何とか及第点、程度の実力だったが、英語はずば抜けた教養を誇るあやめや実際に米国で数年間を過ごしたマリア以上であったのだ。英語、米語、豪州英語を正確に使い分けられるほどである。―――余談であるが、これを以って大神を親英・親米派と見る者が多い。しかし、それは誤りである。敵を知り己を知れば百戦危うからず。日本に脅威となり得る海軍力を持つ国は米国と英国連邦、それ故に彼は特に英語を熱心に学んだのだ。仮想敵国の言語、それ故の習熟。彼は生粋の軍人、生粋の戦士であった……
 理由はどうあれ彼は最高の英語教師であったし、ダンスも美しさこそないものの基本に忠実、且つ正確で初心者に教えるにはかえって好都合である。そこで公演初日までの短い間、さくらの特訓の教師役に任じられることとなったのだ。当然、さくらは舞い上がりすみれやアイリスは盛大に不平を撒き散らした。…初日だけは。とにかく、大神の教え方は厳しかったのである。声を荒げたりする訳ではないが出来るまでとことんやらせる。ただ見ているだけではなくて自分も同じだけ動き、声を張り上げているから教わる方は手を抜くことも出来ない。二日目からはすみれですらさくらに同情の眼差しを送ったほどだった……
 さくらほどの努力家でなければ到底耐えられないような厳しい特訓だったが、その甲斐あって舞台は大好評を博していた。普段の公演より遥かに外国人の姿が目立つほどさくらのイライザ役は高い評価を受けていた。だからさくらはこれ迄の舞台以上に、大神に演技を見てもらいたい、そして出来れば誉めてもらいたいと思っていたのだ。だが大神は最近、今迄以上に忙しそうに走り回っている。一時期のわざとさくら達を避けている忙しさではなく、本当に忙しそうだ。降魔という強大な敵を相手にやるべき事がいくらでもあるのはさくらにも当然理解できたが、やはり一抹の寂しさは否定できずにいた。

「お兄ちゃんなら、さっきあやめお姉ちゃんと下に降りていったよ」

 由里の質問に答えたのは文字通り空中から現れたアイリスだった。着替えもせずにうろうろしていたらしい。

「何や大神はん、最近あやめはんと一緒におることが多いなあ」

 むやみに超能力を使ってはいけません、とマリアに叱られているアイリスを横目で見ながら紅蘭がこんな事を呟く。確かにそうだ。最近、夜の見回りの時など何故かあやめと並んで歩いている大神を何度か目にした。もやもやした不安がさくらの心の中に湧き上がってくる。

「う〜ん、怪しいなあ。これは真相を確かめてみる必要がありそうね」

 目を輝かせる由里。しかし彼女の密かな?楽しみは満たされなかった。

「由里、いつまで油を売っているの!?」
「あっ、かすみさん…」
「大神さんがお手空きでないんだったらさっさと戻っていらっしゃい!唯でさえ事務が溜まっているんですからね」

 どうやら由里は大神を書類地獄に引きずり込むべく探していたらしい。その邪な?目論見を果たせず、かすみに連行されていく。楽屋に残された面々は何となく顔を見合わせた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「問題は巨大降魔よりむしろ人の形をした『黄昏の三騎士』を名乗る降魔だと思います」

 あやめと並んで歩きながら改めて大神は自分の考えを述べていた。

「通常の降魔では帝撃の結界は突破できないでしょうし、巨大降魔ならその侵入に気付かない筈はありません。そもそも実体を持つ限り、劇場の建物を破壊すること無しにあの巨体がここまで入って来れる道理はありませんから。それよりも人間大で巨大降魔以上の妖力を持つ三騎士、残るは二匹ですが、あの上級降魔が結界を突破しここを襲うという状況が最も警戒すべきものだと考えます」

 ある意味で当然の結論だ。だが人は、意外とこの当たり前の予測というものになかなか辿り着けないものである。特に逆境にある時は枝葉末節に拘り、可能性の低い劇的な事態ばかりを思い浮かべがちだ。だからこそ、最も有りそうな事態を再確認しておくことが重要である。…しかし、あやめの反応は鈍いものだった。何となく集中力に欠けている、そんな感じだ。

「…あやめさん、どうかなさったのですか?」
「えっ、何が?」
「…お顔の色が優れないようですが…」

 ここの所気になっていたことを大神は思い切って口に出してみることにした。最近のあやめは自己管理のしっかりしている彼女らしくもなく、憔悴した色が見て取れる。

「…何でも無いのよ」

 心配要らないという風に笑ってみせるあやめ。しかし、その仕種は何処と無く弱々しかった。

「最近十分にお休みになれないのではありませんか?何か異常な夢でも…」

 大神の見たところ、あやめの症状は寝不足による体力の消耗だ。だがあやめが意味の無い夜更かしなどする筈も無い。かつてのマリアの例もある。黒之巣会の夢を操る妖術士、蒼き刹那によって過去の悪夢につけ込まれ、あのマリアですら冷静な判断力を失って危うく命を落としかけたことがある。上級降魔が刹那と同じ種類の力を持っていないとも限らない。
 案の定、大神の言葉に一瞬ビクッとした表情を見せるあやめ。

「心配かけてごめんなさい、本当に少し疲れているだけだから」

 だが、あやめは物腰柔らかく、だが毅然とこう応えた。ここまできっぱり言われては大神の立場として、これ以上言を重ねることは出来ない。

「あらっ、大神くん、顔に油がついているわよ?」

 先刻配管の奥を覗いた時についたらしい。すっと手を伸ばすあやめ。その手には白いハンカチが握られている。

「あっ、いいです、自分でやりますから…」
「遠慮しないの!…はいっ、とれたわよ」
「…ありがとうございます」

 慌てて身を躱そうとする大神を声で引き止め、大神の頬を拭うあやめ。

「これからの時代、殿方も身だしなみに気を遣わなくてはね?」

(いい香りだ)

 にっこり笑うあやめを目の前にして、大神は単なる香水の匂いではない、さくら達からは感じたことの無い香りに感じ取った。

(間近で見ると本当に奇麗な人だな……)

 大神はこの時ぼうっとしていたかもしれない。改めて気付いたようにそんな事を考えていた。普段のあやめは女らしさの中にも凛としたものを常に漂わせ、大神はそんなあやめを上官としてしか意識したことが無かった。しかし、少し疲れたような覇気の無い今のあやめは彼に「女性」を感じさせる。普段の彼女がその若さに似合わぬ重責で多分に張り詰めていたのだと、もし「霊力」がなく降魔との戦いに身を投じることが無かったなら、これこそがあやめの素顔だったのだろう、と……

「どうしたの?」
「い、いえ、何でもありません」

 不思議そうに問い掛けるあやめに、珍しく狼狽の色を見せる大神。冷静にして果断なる指揮官の、戦場の大神とは全く異なる極普通の青年の顔。だがその両者がなんの不自然さも無く同居している。どちらも確かに大神自身であると何の疑いも無く思える、言うならば人間としての懐の深さだろうか。

「…いいわね、大神くんはいつも自分らしくしていられて」
「はあ……」

 あやめは大神を何処かまぶしそうに見ている。

「自分を偽らずに、自分に正直に生きるというのはとても大切なことよ……私、最近自分が自分で無い様な気がして……」

 思わずこぼれたといった感じのあやめの一言。心配そうな大神の視線に気付いて、あやめは再度、笑顔で首を振った。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……何をしているのかしら?」

 二人の姿を廊下の端から見詰める6つの視線。あやめが大神の頬に手を伸ばしたところで一斉にどよめく。…但し、声を押し殺して。

「……何かいい雰囲気じゃありませんこと?」

 そして、無言であやめを見詰める大神。

 プツン!

 大神があやめに見とれている!(少なくともそう見えた)のを見て、さくらの中で何かが音を立てて千切れた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大神と別れた後、彼の姿が消えた廊下の角を何となく見やりながらあやめは物思いに沈んでいた。「何か異常な夢でも」と言われた時は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。実際、あやめはこの所悪夢に悩まされていたのだから。目が覚めた時それがどのようなものだったのかははっきりと憶えていない。しかし、言い知れぬ不安感、自分が自分でなくなるような恐怖感に眠りを妨げられ夜中に飛び起きることもしばしばであった。そんな自分の状態を大神は正確に見て取ったのだ。あの時、あやめは大神に夢のことを打ち明けて相談してみようかとも思った。大神は超心理学の専門家という訳ではないが、その洞察力はきっと何か解決の手掛かりを示してくれただろう。今の状態が続いてはいずれ任務に支障を来すということもあやめには十分わかっていた。
 ……しかしあやめには大神を頼ることは出来なかった。彼女の下位士官であり年下の青年である大神。だが、三歳年下のこの青年は余りに有能だった。時に彼女すら舌を巻く知性と学問、彼女には無い軍人としての専門教育、そして霊力までもが自分を遥かに凌駕する。その霊力故に女性の身でありながら帝国軍の特殊部隊に迎えられ、世界に隠然たる勢力を張り巡らせている賢人期間の中枢にも面識を得た。あやめ自身ほとんど意識はしていなかったが、霊力は彼女の大きな支えであった。例え霊子甲冑を動かすことは出来なくてもそれは単に適合性の問題であり、霊力それ自体は決して花組の隊員達に劣るものではない。大神以外には。地下格納庫で無双天威を見せられた時の衝撃。あの時はっきりわかった。降魔戦争によって霊力を損なう前の自分でも今の大神には及ばないと。大神は全ての面で自分を凌駕していると。帝都を守る戦士を見出すべく、自分一人を頼みとし世界を駆け巡ったあやめにはそれなりの矜持がある。彼女は決して競争心の虜となるような女性ではなかったが、三歳年下の、三歳しか違わない大神を頼ることには、彼が有能であればあるだけ、やはり抵抗があったのである。彼女には戦い続ける理由があった。誰と約束した訳ではない。いなくなってしまった人の為に自分自身に立てた誓いだ。彼女には自分が戦い続けることが出来るのだということを自分自身に証明し続ける必要があった。今、大神を頼ることは、そして大神の力を認め受け容れてしまうことは、自分が戦い続ける必要はないと認めることになるような気がしたのだ……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(魔神器か……究極の祭器、聖魔城復活の鍵。だが、何故ここなのだ…?地脈の力の要、強い霊力を持つ少女達の神楽、だがそれだけなら宮城に保管しておく方が望ましい様に思える。まだ何か長官は俺に隠している。魔神器が帝撃に預けられている本当の理由を…)

 コンコンコンコン

 思考の淵に沈んでいた大神を現実に引き戻したのはいささか荒っぽく扉を叩く音だった。大帝国劇場二階、大神の自室。既に夜も更けている。もうすぐ見回りの時間だ。誰かが訪ねてくる時間帯ではないのだが。

(この気配はさくらくんか。どうしたんだ一体…)

 さくららしくもなく荒れた気配に首を傾げながら扉を開ける大神。全くさくららしくも無く、大神に許しを請いもせず、「失礼します!」の一言でずかずかと部屋の中に乗り込んできた。
 そう、「乗り込んできた」という表現が相応しく思える剣幕である。すっかり逆上した顔をしている。逆上して、思い詰めたような表情をしている。

「どうしたんだい、さくらくん」

 いつも通りの大神の声に一層苛立たしげな様子を見せるさくら。

「こんな時間迄……」
「えっ?」
「こんな時間迄一帯何処で何をやっていらっしゃったんですか!?」
「はっ?」

 激しく問い詰めるさくら。だが大神にはさくらが一体何に激昂しているのか見当がつかない。

「さくらくん、何をそんなに怒っているんだい?」

 大神の落ち着いた物腰は益々さくらの神経を逆なでする。

「訊いているのは私です!!こんな時間迄あやめさんと何をなさっていたんですか!?」
「………」

 思わず言葉に詰まる大神。口外厳禁の極秘任務。さくらにも話せない、さくらだから話せない任務。

「言えないようなことなんですねっ!!」

 黙り込んだ大神をどう誤解したのか益々いきり立つさくら。いや、どういう誤解をしているのか朴念仁の大神にも明らかだ。
 だが、大神の応えは。

「言えない」

 息をのみ蒼白になるさくら。身を翻し、逃げるように部屋を出ていこうとする。

 ガシッ

 だが、彼女を捕まえる力強い手。駆け出したさくらの右手をしっかり掴んだのは、大神の掌だった。そのまま大神はさくらを強引に振り向かせた。

「あ、あのっ」

 予想もしない大神の大胆な振る舞いにすっかり狼狽したさくらは怒りも衝撃も忘れて何処か惚けたような表情になっている。

「長官から与えられた最高機密任務だ。例え君であっても教えてあげることは出来ない。……君が何を見て何を誤解しているのか大体想像はつく。だが信じてくれ。俺は決して疚しい事はしていない」

 さくらの手を掴んだまま真摯な表情で語る大神。だがさくらは大神の言葉に先刻の光景を思い出して俯いてしまう。以前ならこの表情だけで大神を信じる事が出来ただろう。しかし、今はただ信じるには想いが深くなり過ぎていた。
 そんなさくらの様子を見て、大神は手を放し、何を思ったのか壁に掛けてあった二振りの大刀に手を伸ばす。器用に、二本同時に鞘を払い、抜き放った二振りの片刃直刀の刀身を目の前に翳す。その大刀にさくらは見覚えがあった。朱金と蒼銀、上代様式の二振りの大刀。上野公園でいともたやすく降魔を斬り捨てた剣。

「それは……」

 その不思議な輝きにさくらの目は吸い寄せられる。神秘的な光沢、それ自体神秘の力を放っているかのような金属。これに似た輝きをさくらはよく知っている。今は彼女の佩剣となっている真宮寺家に代々伝わる霊剣、「荒鷹」の刀身の輝きである。

「これは俺の一族に伝わる宝剣、奥義継承の証として預けられた大神一族の宝だ。この二本の剣にかけて誓う。俺は決して君に恥じなければならない振る舞いはしていないし、君達を裏切るような邪な気持ちは抱いていない」
「大神さん……」

 小さく呟くさくら。それ以上の言葉を発することが出来ない。思っても見ない大神の誓約、剣を修める者にとって何より重い、己が命を託す剣にかけての誓いだ。そして大神の誓言は世に溢れる偽りばかり多い恋の誓いなどとは比べ物にならないくらい「誠」に充ちたものだった。「君達」でも構いはしなかった。疑念も苛立ちも全てが消え去った。大神への信頼だけが甦っていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あの、大神さん…」
「なんだい」

 すっかりいつもの、慎ましくも明るい表情を取り戻したさくらがおずおずと大神に話し掛けた。

「その大刀をもう一度見せていただけませんか…?」

 図々しく、はしたないかとも思ったが、どうにも気になって仕方が無い。もう一度じっくり見てみたいという気持ちをさくらは抑えられずにいた。

「ああ、いいとも」

 大神は気さくな笑みを浮かべると、今し方納めたばかりの刀身を再び鞘から抜き放つ。左手に朱金の大刀、右手に蒼銀の大刀。吸い寄せられるように見とれるさくら。

「…銘は何とつけられているんですか?」
「フツノミカゲ、と言う。こちらが火足(ひたり)のフツノミカゲ、こっちが水極(みぎ)のフツノミカゲだ。この二本は対になっていて、常に合わせて使うことになっている」
「フツノミカゲ…」

 うっとりと見詰めている内にさくらは妙なことに気がついた。

「…あの、大神さん?」
「うん?」
「あの、この剣…刃がついていない様に見えるんですけど…?」

 そう、今までは刀身の不思議な質感ばかりに気を取られていたが、よくよく見れば二本の大刀には刃がついていない。模擬刀…?だが、さくらは確かにこの剣が降魔を斬り裂くところを見ている。

「そうだよ」

 だが大神はそれが当たり前のことであるかのように平然と頷いてみせた。

「フツノミカゲに斬る為の刃はついていない。この二本は『気』を刃と成す剣なんだ」
「…!」
「『気』の力を使いこなせない者にとっては、どちらも単なる棒切れだよ。木刀の代わりくらいにはなるかもしれないけどね。そういう意味では、この二振りは武器と言うより『気』の力で戦う為の法具なんだ。伝承では、神代の昔に人ならざるものの手で鍛えられたと言う」
「……」
「まあ、本当のところは単に製造法が失われてしまったというだけだろうけどね」

 冗談めかして言い添える大神。だがさくらには、神代に鍛えられた剣という方が真実であるような気がしてならなかった……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 暗き闇の中。異形の影を照らし出すは青白き鬼火。
 異形、この世のものならざるものの大群。降魔の軍勢を前にして立つ一人の男。人間以外の何ものでもない外見と決して人間では有り得ない濃密な妖気。

「……赤き月の夜、最強の降魔が復活し、我らに最も頼もしき破壊の力をもたらす……」

 その唇から漏れ出た言葉は、予言のようでも呪言のようでもあった。




その3



「赤い月か…不気味だな」

 見上げる夜空には満月を翌日に控えたほぼ真円の赤い月。血の色を思わせる暗紅色に染まった月を見ている大神の心の中に不吉な思念が湧き上がっていた。

(赤い月…確か赤い月は魔の者どもに力を与える魔の月と言われていたな…魔物どもの跳梁する夜…)

 二、三度頭を振って後ろ向きの思念を振り払い、大神は足を速めた。迷信的ではあるが、不吉な予想は悪しき事態を招くものだ。それよりも今自分が為すべき事を考えるべきである。魔神器の警備。大神はその為に地下倉庫へ向かっているところだった。
 地下への隠し階段を降りる。地上の瀟洒な調度と異なり、実用一点張りの無骨な内装。帝国華撃團銀座本部。地下倉庫へ続く廊下で野暮な軍服に包まれても尚麗しい影が前を歩いているのが見えた。帝国華撃團副司令、藤枝あやめだ。だが、常に颯爽としている筈の足取りが妙におぼつかない。まるで寝惚けているような頼りない足元。大神は急ぎ足であやめを追いかけた。

「あやめさん」

 横に回り込むと大きめの声で呼び掛ける。あやめはゆっくりと顔を向けたが、その目は大神を認識している様に見えない。焦点が合っていない。

「あやめさん!」

 声に力を込める。

「あっ…大神くん…」

 漸くあやめの目に大神の姿が映る。

「あやめさん、どうなさったのですか?」
「…ごめんなさい、私、一体…」
「一体どうされたのですか。お体の具合が悪いのではありませんか?早く医務室へ…」
「ご、ごめんなさい。大丈夫よ」
「しかし!」
「本当に大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」

 到底そうは見えない。しかし、あやめは大神の上官だ。実の所大神は相手が上官だからと言って無条件に服従するつもりはないのだが(こういう所が大神は実に軍人らしくない。と言うより、日本の軍人らしくない)、その意思は尊重しなければならない。

「それよりも行きましょう」

 ここはあやめ言葉に頷かざるを得なかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「フフフフフ…目覚めの時は近い」

 赤い月に照らされた時計塔の上で妖々たる嗤い声が響く。人の声、人外の響き。

「赤き月と赤き闇。時が満ちる。破滅の時が。思い出すのだ…赤き月の夜、最強の降魔甦り、新世の序曲を奏でん……」

 闇に染み出す妖気。それは呼びかけか。呪詛か。

「降魔・鹿。そこにいるな」
「ははっ」

 闇に浮かび上がるひょろ長い体。人の形、魔物の気配。額より生え出す二本の角が無くとも、魔の者であることは明らかだ。

「出撃せよ。華撃團を劇場から引き離せ」
「はっ!仰せのままに…」

 闇に同化する痩身の影。時計塔の上に残った影は最後まで見向きもせずに消え去った気配に向けてこう呟いた。

「せいぜい時を稼ぐがいい。最強の降魔復活のその時まで…」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「うっ…」
「あやめさんっ!」

 蒼白となり胸を抑え突如蹲るあやめ。

「どうなさったのですか!?」
「違う…違うわ……」
「あやめさんっ!!」

 隣に膝をつき肩に手を掛けあやめの顔を覗き込む大神。だがあやめはそれに気付いた様子もなく、うわごとのように同じ言葉を繰り返している。その姿は心の中に潜む何かと戦っている様にも見える。

(妖術か!?)

 精神を侵す妖術だろうか。大神はこの世のものならざるものへの感覚を研ぎ澄ます。しかし、残念なことに彼は感応力に恵まれていない。奥義継承によって絶大な霊力を開花させた今も基本的な霊的属性は変っていなかった。

(外部からの働きかけは感じられないが…とにかく、医務室へ)

 こうなればあやめの意思尊重などとは言っていられない。大神は、抱きかかえてでも強引に医務室へ連れて行く決心をした。
 しかし、その時

 ビーッ、ビーッ、ビーッ

(敵襲か!)

「大神くん…出撃よ…」

 警報に思わず振り仰いだ大神の手の下から苦しげな声。あやめが大神の方を見ていた。生っ粋の軍人でないとは言え、長き戦いの日々はあやめの心身に十分な条件反射を刷り込んでいた。

「しかし!」
「私ならもう大丈夫よ」

 きっぱり言い切るあやめ。しかしそれが強がりでしかないことは大神ほどの洞察力が無くとも一目瞭然であった。

「…では、せめて医務室までご一緒します」
「いいえ、今ここを留守にする訳にはいかないわ」
「では誰か代わりの者を!」
「大神くん、あなたにこんな所でまごまごしている暇はない筈よ!降魔を撃退できるのはあなただけなの。さあ、大神少尉、出撃よ!」

 よろめく足で立ち上がり、自分より高い位置にある大神の目を見上げながら精一杯の毅然とした口調で命じるあやめ。帝国華撃團副司令としての指令。

「…はっ!」

 心配そうな表情のままで、しかし諾の敬礼を見せる大神。あやめが己の務めを果たすというなら、大神も彼にしか出来ない任務を遂行しなければならない。

「大神くん、これを」
「あやめさん…?」

 大神の敬礼に一つ頷いてあやめは手を差し出した。その手に握られているのはあやめの拳銃。

「もし私に何かあったら…この銃で私を撃って」
「!…どういうことですか」
「さあ、行きなさい。皆があなたを待っているわ!」

 あやめは大神の疑問に、遂に答えることはなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 銀座の街は白き闇に覆われていた。突如降り積もった、ただ冷たいだけの雪。命の温もりを拒絶する白き魔物。絶望へと誘う魔性の冷気、その中心に在るものは。

「はぁーっはっはっ、俺様こそは最強の降魔、黄昏の三騎士の一、鹿!」

 青き魔霊甲冑の上に立つ痩身の影。

「小娘ども、ここをお前達の墓場にしてやる!ものども、行け!!」

 上級降魔・鹿の下知のもと、一斉に押し寄せる巨大降魔。しかもその数は刻々と増加している。

「隊長、降魔の後方に大量の妖気を放つ物体が見えます!」

 降魔と相対する七機の神武。銀色の機体より大神の元へ通信が入る。妖気を見るマリアの視力が魔のからくりを捉えたのだ。

「紅蘭、わかるか!?」
「…どうやらあれは降魔を召喚する道具のようやな。あの柱みたいなもんで降魔を呼び出しとるんや!」

 緑の神武に特殊装備された探知機器が紅蘭の霊子機械を操る特異な能力によって最大の性能を発揮する。

「わかった。では降魔を迎撃しつつ召喚器の破壊を第一目標とする。皆、劇場に降魔を近づけるな!」
「はいっ!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 降魔には知性が有る。破壊と殺戮の本能が行動の基本原理であることは間違いないとしても、集団行動をとり戦闘に連携を見せる知性が。しかし、その行軍は訓練された軍隊のように一糸乱れぬという訳ではない。大神は戦列の乱れを巧みに突き、攻撃の集中と牽制によって数的劣位を完全に覆して見せていた。片端から巨大降魔を各個撃破していく神武。
 そして

「闘っ!」

 斬

 ついに召喚の魔具を破壊する。残るは青き魔霊甲冑と痩身の上級降魔のみ。

「小娘どもが!俺様とこの氷刃不動の力を思い知らせてくれる!!」

 この期に及んで尚敖慢な態度。人の持つ悪徳、「倨傲」を象徴するかのような魔物。そのひょろ長い体が魔霊甲冑に溶け込んでいく。

「何っ!」

 目前に迫る青い機体。速い。降魔・鹿の魔霊甲冑はその巨体からは想像できない運動能力を有していた。

「これが、俺様の力だ!氷魔・紅葉落しぃ!!」

 大量の氷塊が空中に出現する。鋭い角を持つ氷の塊が流星の如く降り注ぐ。標的は、純白の神武!

「大神さんっ!」

 悲鳴を上げながらもさくらは目を逸らすことが出来ずにいる。

 キキキキキキキン

「何ぃ!?」

 しかし。驚愕の叫びを放ったのは降魔である。初めてその尊大な態度が揺らぐ。立て続けに響く澄んだ音。硬質の物体が金属に衝突する音。そしてほぼ無傷で立つ神武。何が起こっているのか目で捉えられた訳ではない。だが、他に考え様が無かった。大神は降り注ぐ無数の氷塊を霊子甲冑の巨大な刀で打ち落として見せたのだ!機械としての性能を遥かに上回る太刀捌き。純白の神武は搭乗者の霊力によって機械以上の存在となっていた。

「この程度か」

 街を埋める氷雪以上に冷たい口調。そこには嘲りすらも無かった。単なる事実を述べる口調。それ故に、この上ない挑発。

「ば、馬鹿にするかぁ!こ、こ、殺してくれるぅぅ!!」

 地面に積もる雪より次々と突き出る氷の槍。だがそれが白く輝く装甲に届く事はなかった。翻る二本の大刀がそのことごとくを薙ぎ払っていく。それはかの神剣の古事にも似た攻防だった。
 がむしゃらに突っ込んでくるばかりの魔霊甲冑・氷刃不動。その最大の武器である機動性を忘れて。その為の挑発、降魔・鹿は完全に大神の術中に嵌まり込んでいた。今や降魔の甲冑は花組の包囲の直中にあった。
 そして命令が下される。既に確定した勝利を事実のものとするだけの命令が。

「全員、一斉攻撃!」
「やあっ!」

 まずアイリスの念動力が青い巨体を抑え付ける。最早逃れるどころか十分に回避行動をとる事すら出来ない。

「邪悪を吹き祓う神の息吹よ、我が刃に宿り給え」

 風が渦巻く。汚れしものの存在を許さぬ清なる旋嵐。

「破邪剣征・百花繚乱!!」

 全ての魔のものを巻き込み、切り裂きながら突き進む気の奔流。魔性を滅ぼす千刃の嵐。魔性を魔たらしめる邪気そのものが吹き祓われていく。

「夜空を覆う光の瀑布、凍える極光の輝きよ。全ての魔性を氷結の地獄へ封じ給え」

 霊気が一点に集中する。余りの高霊圧に放電現象に似た閃光が走る。

「パールクヴィチノイ!!」

 全ての魔性を氷に閉ざす冷気が広がる。それは街を覆う冷気に似て全く別の物であった。一点の汚れ無き峻厳なる冷気。

「炎に生まれし真紅の霊鳥よ、全ての汚れを焼き祓い給え」

 浄化の炎が一面に広がり、空中の一点に収斂するや巨大な炎の鳥となる。

「神崎風塵流・鳳凰の舞!!」

 魔にあらざるものを決して焼くことの無い浄化の炎を纏う真紅の霊鳥。その翼は魔のものを逃すことはない。

「四方を守る聖獣の似姿よ、今、仮初めの姿を現せ。四方を囲みて敵を討て」

 宙に放たれる巨大な科学の呪符。

「これが科学の力や!聖獣ロボ!!」

 幻影の聖獣が四方を囲み、その内側に向けて霊気の咆哮を投げつける。四方より押し寄せる霊力の爆風。

「大地よ、我に応えその力を貸せ」

 大地と等質で同等の力が収束する。大地が魔の氷雪の戒めを断ち切る。

「あたいの全てをここに!四方攻相君!!」

 己を汚すものに向けられる大地の怒りにも似た一撃。地の底より噴き出す灼熱のマグマの如き力の爆発。

「俺は、俺は最強の、うぎゃあああ!!」

 爆!

 勝機を創造する大神の才の前に滅びを定められた降魔・鹿。既に大神が手を下すまでも無かった。その存在は魔の甲冑と共に灰燼に帰した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……フンっ、使えぬ奴め……」

 赤き月の下、朧な光の作る不確かな影の中で呟く声。

「そろそろ目覚めの時か……」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(どうも嫌な感じがしやがる)

 大神は見事降魔の軍勢を撃退した。完全勝利と言ってもいい。百戦錬磨の米田から見ても鮮やかな戦闘だった。二十歳そこそこの青年士官の指揮とは到底思えない。同数の軍勢を率いたとして、自分ですら今の大神に勝てるかどうか。
 だがしかし。その百戦錬磨の勘を何かが刺激している。それは戦場に生を刻んできた者だけが感じ取る事の出来る臭いの様なものだ。
 一人廊下を急ぐ。常に彼と共にある副司令であり副官であるあやめは魔神器の警備の為地下倉庫に詰めている筈だ。魔神器、それこそが間違いなく敵の狙い。自分の勘が錆びてしまっているのでなければ、この胸騒ぎは魔神器に関係がある。

(あやめくん)

 愛用の太刀を握り締め、急ぎながらも油断の無い足取りで進む米田。その心はあやめの事を考えていた。ただ一人残った降魔戦争の戦友。自分の息子の様な年齢の二人が犠牲となり、年老いた自分が残った。もうあのような想いは味わいたくなかった。

「!」

 だが、地下倉庫の扉を開けた途端、そのような想いも危機を訴える予感も吹き飛んでしまった。

「ううう……」
「あやめくん、どうした!!」

 苦しげに蹲るあやめ。手にした太刀を放り出し、あやめの体を抱き起こす。
 …これが他の者なら米田はここまで不用意な真似はしなかっただろう。例えそれが年下の旧友、真宮寺一馬の忘れ形見であっても。共に戦い、共に大切な人を失い、共に生き残ったあやめだからこそ米田は戦士としての心得を忘れてしまった。それが悲劇の引き金を引いた…

「うう、う……く、くくくくく」
「どうした、しっかりしろ!!」

 あやめの声の調子が微妙に変わる。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さあ、目覚めるがいい。最強の降魔よ!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「く、くっくっくっくっ……」
「あやめくん、どうした!あやめ!!」

 蹲った肩が震える。いつの間にかうめき声は嗤い声に変わっている。

「くっくっくっ…ガアアアアア!」
「ぐあっ!」

 突如叩き付けられる大量の妖気。思わぬ奇襲に為す術無く、米田の意識は闇に呑まれてしまった……




その4



「全員、帰還する」

 降魔・鹿は滅ぼした。今は一刻も早く本部に戻らなければならない。大神の心の中で何かが警報を鳴らしていた。魔神器が、そしてあやめの事が気になる。何かが起ころうとしている、そんな気がしていた。

「少尉、妖気です!劇場から妖気が!!」

 悲鳴交じりにすみれが叫ぶ。信じられない、と声にならない叫びがそこには混ざっていた。かつて黒之巣会に侵入を許した教訓から劇場には強力な退魔結界が張り巡らせてある。それは劇場の外壁の下塗りに織り込まれており、劇場の壁面を破壊しない限り魔に属するものが劇場へ侵入する事は不可能である筈だった。だが、すみれの妖気を感じ取る感覚は花組随一である。その感覚がはっきり魔の侵入を感知したのだ。

「隊長、屋上です!!」

 マリアの視力が魔の影を捉える。屋上に強力な妖気を発する人影。

「あれは!?」
「…あやめ、さん…!?」

 少女達の心が恐慌に呑まれる。だが、真の衝撃はその直後にやって来た。
 あやめが手に持つ何かを前に掲げる。金色の器物。そして、その手の中から強烈な妖気が放たれ、劇場を覆う結界に穴を穿つ!!次の瞬間、あやめの横に突如現れた長身の影。

「葵、叉丹!?」
「フハハハハ……魔神器は譲り受けたり!」
「魔神器!?」

(くっ、何という事だ!)

 少女達は魔神器の何たるカを知らない。ただ、その不吉な響きに慄いたのみ。しかし、その意味を知る大神は心中の激しい焦りと必死に戦っていた。

(何か手立ては!?)

「さあ、あやめ…こちらへ」
「…は、はい…」
「だ、駄目だ!!」

 しかし、無表情に叉丹の胸へ納まるあやめを見て、大神は指揮官としての冷静さを保つ事が出来なくなった。あの大神が、衝動のままに叫んでいた。その声には生のままの感情の力がこもっていた。魔に意識を支配されたあやめの心を揺り起こすほどの。
 あやめの顔に表情が戻る。叉丹の手を振り切ろうともがき、純白の神武を認めるや声の限り叫んでいた。

「大神くん!私を撃って!!」
「!」
「早く!早く撃ちなさい、これは命令よ!大神くんっ!!」

 必死な叫び。助けを請う物ではない。誇りある死のみが魂の蹂躪から逃れる唯一の方法であるとでも言っているかのごとき悲痛な叫びだ。
 神武のハッチが跳ね上がる。操縦席に立つ大神の手の中には長銃身の拳銃。先刻渡されたあやめの銃ではない。大神愛用の銃だ。

「大神さん、撃たないで!!」

 さくらの叫びは悲鳴そのものだった。だが、大神の顔には一切の表情が無い。迷いも、苦悩も一切が拭い去られ、機械の如く冷静に照準を定めていた。

「撃って!」

 ガァァン……

「ぐあっ!」

 目を背ける少女達。だがその耳に届く苦鳴はあやめのものではなかった。肩を抑えよろめく叉丹。大神はあやめの体から僅かに覗いた叉丹の肩を、その妖力防壁をものともせずに見事撃ち抜いてみせたのだ!

「あやめさん、今です!飛び降りて下さい!!」
「!」
「必ず受け止めてみせます!早く!!」

 躊躇したのは一瞬の事、あやめは魔神器を胸に抱いたまま走り出そうとする。しかし、その刹那。

 ガシッ

 あやめの肩を掴む叉丹の手。

「ククククク…見事だ、大神一郎」

 何という事であろう。その着衣に滲んだ血の染みが逆回しの映画を見ているかのように見る見る小さくなり、消えてしまう。何不自由無い腕の動き。その腕に捕らわれた瞬間、あやめの表情が操り人形のものと変わる。

「クッ!」

 再び銃を構える大神。しかし、今度は完全にあやめの体の陰に隠れてしまっている。

「隊長!」

 それでも大神は撃つだろうか。マリアは自分が叫んでいる事にも気付いていなかった。やはり大神にとって命は勝利の為の道具なのだろうか?

「…出来ない…」

 唇を噛み締めた大神の表情。初めて見る、想像した事も無い、敗北感に囚われたその姿。しかし、それは大神が違うのだという証明だった。

「フハハハハ、その技量、その霊力、その判断力、そして何よりその決断力。誉めてやるぞ、大神一郎。だが、それも全て無駄に終わる。お前の技に対する褒美として、せめてその目に見せてやろう…最強の降魔復活の瞬間を!!」

 何の抵抗も、意思も見せないあやめを、叉丹はその腕の中で自分と向かい合わせに向き直らせた。それは恋人同士の抱擁にも似た姿だった。

「さあ…思い出せ…あやめよ……失楽の園の記憶を…」

 睦言と聞き間違うばかりの甘い囁き。
 そして、くちづけ。
 あやめの中で決定的な変化が起こっていく。
 それを目の前にしながら何も出来ない。
 叉丹が一歩退いた直後、あやめの体から膨大な妖気が噴き出す。妖気は黒い翼の形を取る。身に纏う制服が千切れ飛び、妖気が黒い衣となって巻き付く。そして全ての妖気が再びあやめの体内へと還る。そこには、黒き衣を纏い、黒い翼を背負う魔性の者が立っていた!!

「ウフフフフフ…」
「………」

 その口から漏れ出るのは確かにあやめの声、しかし、人のものでは有り得ない響き。言葉を失う大神。

「フフフフフ…」

 この上なく満足気な叉丹の含み笑い

「フフフフフ…最強の降魔にして、我に最も近しく…また、頼りとする者…殺女よ、よくぞ目覚めた…!」
「はい…我らは常に対なる者。前世での契りに従い此度こそお側に…」

 それは愛し合う者同士の誓いにも似ていた。しかし「愛」というには余りに禍々しかった。生み出す「愛」ではなく奪い尽くす「妄愛」であった。

「今宵の邂逅こそ永遠…我らの征くところ、あまねく魔の楽園が広がりましょうぞ…」

 誓いに捧げられるものが世界の破滅であるのがその証。

「さあ、これこそが我らの求める鍵。魔神器をお受け取り下さい」

 黄金の祭器が今、黒き翼を持つ女から世界の破滅を望む男へ。

「あやめさん、目を覚ませ!」

 大神の天を震わす鬼哭にも似た叫びも、もはやあやめには、いや、降魔・殺女には届かない。

「フハハハハハ…貴様らに待ち受けているのは苦悩…絶望……」
「そして、破滅……」
「あやめさん!!」
「お前らのあやめはもう死んだのだ…あの赤い月と共に!」

 そして二つの影が赤き闇へと溶け込む。その腕に抱かれた黄金の祭器、魔神器と共に。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…長官、お体の具合はいかがですか」
「大丈夫だ……」

 帝国華撃團司令室。今この部屋にいるのは大神と、帝国華撃團総司令米田一基だけだった。花組の少女達は半ば無理矢理に戦闘態勢を解除させて、休息を取る様指図してある。彼女達は皆精神が麻痺して、自分で何をしたらいいのか判断する事が出来ない状態だった。
そして今、大神の目の前には力無く椅子に身を預けた一人の老人がいた。今迄大神は米田から老いを感じた事はない。どれほど酔っていようと(あるいは酔った振りをしていようと)その体からは隠し様の無い精気が溢れていた。しかし、今大神の前に座しているのは一人の老人だった。

「妖気を浴びたと伺いましたが…」
「大丈夫だと言っとろうが!!」

 突如激発するその様もかえって力の枯渇を感じさせるのみ。

「……」
「…すまん。だが、今は俺の事よりあの娘達の事だ。今のあの娘達には支えになる奴が必要だ」
「……」
「…大神、お前のことだぜ」
「はい」
「皆に声を掛けてきてやってくれ」
「わかりました」
「全員の話を聞いたら儂のところへ来てくれ…支配人室にいる」
「はっ」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「カンナ…」

 大帝国劇場一階食堂。ガランと静まり返ったその広間にただ一人ぐったりと腰掛ける人影があった。

「んっ?隊長か…」

 大神の声にのろのろと首を巡らせ、それでも体に力を戻して彼女、桐島カンナは大神に手を挙げて応えた。彼女の前には簡単な夜食。いつもに比べれば随分勢いが無いとはいえ、それでも多少箸をつけた後がある。それは彼女が必死に平常を取り戻そうとしている表れに他ならない。大神は笑顔を作るのに少なからぬ努力を必要とした。

「腹が減っては戦は出来ぬ…かな?」

 いつも通りの調子で話し掛けるのにかなりの精神力を動員する。

「へっ、まあね…クヨクヨしててあやめさんが戻ってくる訳じゃねえだろ?」
「ああ…」

 カンナの声は力強さこそ無かったが投げ遣りな調子は含まれていない。

「心配すんなよ!あやめさんはちょっと誑かされているだけさ。本心からあたい達を裏切ったはずはねえよ。そうさ、ほんの気の迷いに決まってる。首根っこ引っ張ってでもあたいが連れ戻してみせるさ!」
「カンナ…少し休んだ方がいいよ」

 哀しい強がりだ。だが彼女は強がる事で本当に強くなる事が出来る女性だった。だから大神もその事には触れない。

「あやめさんの事は俺に任せてくれ。その時になったら君にも力を貸してもらう。だから今は休んでくれないか」
「隊長……へへっ、いいもんだな…」
「?」
「頼れる人がいるってのはいいもんだな。あんたがいてくれて助かるよ…」
「カンナ…」
「じゃあ、これ食ったら部屋に戻るよ。隊長、少しだけ一人にしてくれねえか?」
「ああ」

 大神は一度だけカンナに視線を投げて、食堂を後にした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「アイリス、どうしたんだ、こんな所で…そんな格好じゃ風邪を引くよ?」

 二階へ上がったところで廊下をうろうろする小さな人影を見つける。大神がしゃがみ込んで視線を合わせると急に気が緩んだように泣きそうな顔になる。

「眠れないの…寝ようとすると、怖い夢が出てきて眠れないの……!」
「とにかく部屋に戻ろう」

 アイリスの手を引いて部屋まで連れて行く大神。つながれた手の温もりに安堵の表情が浮かぶ。肉親の温もりを取り戻した子供の表情。
 アイリスをベッドに寝かせつける。その傍らに腰を下ろす大神。彼の手を握り締める小さな掌。

「お兄ちゃんは…何処にも行かないよね?アイリスをおいてなんか行かないよね!?アイリスを独りぼっちになんかしないよね!!?」

 彼女の悪夢、それは再び独りになる事。アイリスはあやめの手で孤独から救われた。あやめに手を引かれて望んでも決して与えられる事の無かった「友達」を手に入れた。そのあやめに裏切られた衝撃は、幼い心には余りに重すぎるものだ。

(あやめさん…あなたが帝撃を裏切った事を俺は責めようとは思いません。あなたは人外の力で操られているだけだ。でも、この幼い心を傷付けた事だけは許せそうにありませんよ…)

 大神の心に今はじめて怒りが込み上げてくる。人の心の弱さ。そしてそれをどうする事も出来なかった自分。だが、アイリスの縋るような目を見て、猛り立つ心は穏やかな憐憫の情に席を譲った。そう、今必要なのは怒りではない。他人を、自分を責める事ではない。

「アイリス…君は一人じゃないよ。この俺がいる限り、君は独りぼっちになんかならない」
「本当…?約束だよ、お兄ちゃん!きっとだからね!!」
「ああ、きっと、だ。だから今はおやすみ、アイリス」
「お兄ちゃん…約束だよ……」

 糸が切れたように眠りに就くアイリス。しばらくそのままでいて、それから大神はそっと部屋を後にした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コン、コン

 控え目なノック。

「大神だけど」
「あっ、隊長…」
「入ってもいいかい…」

 ……カチャ

 無言で開かれる扉。

「マリア…疲れているんじゃないのか?君も休んだ方がいい」

 マリアの部屋に入るなり、大神が発した一言はこれだった。前置きも段取りも忘れさせるほど今のマリアは疲れて見えた。
 マリアは弱々しく微笑むと大神の問いには答えずにこう言った。

「隊長…花組の中では、私が一番あやめさんとの付き合いが長かったんです。彼女とは四年前にアメリカで知り合いました……あの頃の私は自暴自棄になっていて…殺し屋家業に身を置く寸前でした」
「………」

 マリアが決してしようとしなかった昔話。

「そんな私を救ってくれたのがあやめさんでした……あの頃からあやめさんは、他人の為にばかり戦っていたのかもしれません。…哀しい人です…」
「マリア…」

 マリアの見せる感傷。彼女も感傷を必要とする時があるという事実。改めて知る、彼女も決して氷の心の持ち主ではないという事。

「フフ…いやですね、私。他人(ひと)のことなんて言えないのに、つい、昔話なんかしてしまって…」
「いや…いいんだ」

 大神にはそれしか言えない。

「今の話、忘れて下さい。今迄は…いえ、大神さんが来る迄は…こんなこと話せるの、あやめさんだけだったんです」
「…マリア…」

 それはあやめと同じくらい大神に心を開いているという事だろうか。

「隊長?」
「ああ」
「あの時、隊長は撃たれるかと思いました」
「……」
「隊長もまた任務を最優先する軍人ではないかと…」
「…俺には出来なかった。軟弱かもしれないが、俺には仲間を犠牲にする事は出来ない」
「いいんですよ、隊長。それでいいんです。安心しました。隊長が思っていた通りの方で…」
「マリア…」
「あの時、隊長が引き金を引いていたら…私はこんな話が出来る人を、一度に二人とも無くしてしまうところでした。ありがとうございます、隊長」
「……」
「隊長のお勧め通り…少し休む事にします」
「それがいい…」

 頷く事しか出来ない大神。

「そ、それはそうと…」
「…どうしたんだ、マリア?」

 急に落ち着かない様子になるマリア。

「昔、私を導いてくれたあやめさんは……善と悪、どっちのあやめさんだったのでしょうね…?」

 信じていた足元が音を立てて崩れていく不安感。

「善だ」

 断言する大神。断言する事が今のマリアには必要だとわかっていた。

「魔に取り付かれるのは弱い心だ。心が邪悪だから魔の侵食を許すのではない。あやめさんの心は善だ。少なくとも、君をここに連れてきたあやめさんは善き心の持ち主だったはずだ。だから君は今、俺と共に戦っている」
「…隊長、ありがとうございます…!」

 深々と頭を下げるマリア。その肩にそっと手を置いて、大神は彼女の部屋を辞していった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(あやめさん、彼女達の心の叫びが聞こえませんか!?取り戻して下さい、人の心を。あなた自身を!!)

大神の心の叫びに応えるものはなかった。




その5



(さくらくんもすみれくんも紅蘭も何処に行ったんだろう…)

 気配を探れば劇場の中にいる限り誰が何処にいるのかくらいわかる。今の大神の感覚はそれ程に研ぎ澄まされている。しかし、今は彼女達の気配を探る気分にはなれない。彼女達の哀しみを無遠慮に覗き込む事になりそうな気がして。
 書庫の前を通りかかった時、中から声が聞こえたような気がした。ただの声ではない。すすり泣く声。

「…紅蘭…?」
「…スン…ヒック…あ、大神はん……」
「紅蘭…」

 紅蘭の涙。少女の涙に大神は言葉を持たない。
 立ち尽くすだけの大神に紅蘭は涙を拭って辛うじて息を整え、こんな事を言い出した。

「うちは…うちには知っての通り何の力もあらへん」
「……紅蘭?」
「マリアはんの様に銃の名手でもなけりゃ、カンナはんの様なごっつい力も無い。さくらはんの様に剣の達人いうわけでもない」
「……」

 それは違う、と大神は声を大にして言いたかった。しかし、それを拒む何かがあった。

「ホンマ言うと、学校ってとこにも行ったことないんや!」
「……」
「…でもなぁ、そんなうちをあやめはんは拾うてくれた。日本で勉強もさしてくれた。あやめはんはうちの大事な人なんや…せやのに…何でこないになってしもたんや…」

 再び机に顔を伏せる紅蘭。大神は彼女の哀しみをほんの一部であるとしても理解したような気がした。紅蘭にとって、あやめは唯一の肉親の様なものなのだ。幼い頃に内戦という名の最も理不尽な暴力によって全ての肉親を奪われて、それからずっと寄る辺無い日々を送ってきた紅蘭にとって、あやめは漸く取り戻した家族の温もりを象徴するような人だったのだ。

「…紅蘭、あやめさんは俺が取り戻す」
「…大神はん?」

 顔を上げて、泣き顔の中に不思議そうな表情を見せる紅蘭。

「あやめさんが本心から俺達を裏切った筈はない。必ず叉丹の手から取り戻してみせる!」

 そう、彼女を取り戻さなければならない。紅蘭の為にも。皆の為にも。

「…クスン…ほんま?」
「ああ、必ず。だから紅蘭、もう泣かないでくれないかな…」

 クスッ

 困惑した大神の様子が余程おかしかったのだろう。紅蘭が小さく吹き出す。涙の中に、ほんの小さくではあるが笑顔が見える。

「そうそう、紅蘭、笑って笑って」

 クスクスクス

 お道化て言う大神に紅蘭が笑みをこぼす。大神が必死で自分を元気付けようとしてくれているのがわかった。それは哀しみを和らげる温もりだった。大神だからこそ。

「そやな…笑顔が一番や!落ち込んでてもしゃあないもんな!」

 頬には涙の跡が残っていたが、それは決して無理矢理浮かべた笑顔ではなかった。

「そうそう」
「ほんならうち、そろそろ部屋へ戻って寝るわ」
「そうだね。それがいい」

 ほっと一息つく大神。これなら何とか大丈夫の様だ。そう思う。何が紅蘭の心に力を与えたのかはわかっていなかったのだが。

「…ありがとう、大神はん…おやすみなさい」

 その声には単なる感謝以上の情感が込められていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「すみれくん…」
「少尉…」

 サロンでティーカップの中身を無意味にかき回し続ける少女。心が今ここに無いことが明らかだ。すみれは大神がすぐ側まで寄って来てもそれに気付かず、声を掛けられて漸く大神の方へ視線を向けた。

「すみれくん…落ち込むなと言っても無理かもしれないが…」
「落ち込むですって!?そんな…馬鹿馬鹿しい!!あんな女の一人や二人、消えたところでどうってことありませんことよ!」

 何ということも無い大神の一言に過敏な反応を見せるすみれ。それは余りに痛々しい姿だった。

「すみれくん…とにかく、少し休んだ方がいい。沈んでいるのは君らしくないよ」

 元気付けるつもりの言葉。しかし、いささか無神経な台詞。

「わたくしらしいですって!?少尉…貴方も皆と同じ事しか言わないのですね!!」

 突如、激するすみれ。珍しい、本心からの怒り。

「どうして…どうしてそんなことが言えますの!?誰よりも、誰よりもわたくしたちのことを知っている貴方が!」
「……」

 その剣幕に返す言葉が、弁明の言葉すら出てこない。

「毎日、毎日、戦って、戦って、殺して、殺して、殺して!!わたくしの手はもう血でべっとり。わたくしの耳からは断末魔の叫びが離れません!もうわたくしは普通の女の子にはなれない。お花が咲いたって無邪気に喜べる様な普通の女の子にはなれない!わたくしをこんなにしたのは誰?貴方達じゃない?あやめさんじゃない!?」
「すみれくん…」
「それなのに勝手に敵に寝返って…冗談じゃありませんわ!!一緒に戦ってきたと、思っていたのに……」
「すみれくん……」
「それでもあやめさんのことをいい人だなんて言えるほどわたくし大人じゃありません!!!」
「すみれくん!!」

 他にどうしようもなかった。何も考えず、大神はすみれを抱きしめていた。

「……すまん」

 悔恨の響き。自分がわかっているつもりに過ぎなかった事実を今目の前に突きつけられている。

「…ごめんなさい…少尉…今は、このままで…このままでいさせて下さい……」

 大神の腕の中ですみれが縋り付くように呟く……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 時が止まったかの様な一時。僅かに身じろぎして、すみれの方から身を離す。

「申し訳ありませんでした、少尉。八つ当たりなどと見苦しい真似を致しまして…」

 それは淑女の自分を取り戻したすみれだった。

「すみれくん…俺は……」
「おっしゃらないで下さい、少尉」

 身を裂かれる痛みに耐えるような表情で切り出した大神の言葉をすみれが押し留めた。

「わたくしは今の自分を哀れみたくはありません。わたくしを誘ったのはあの方でも、わたくしは確かに自分で選んだのです。それにわたくしは、そのことに感謝しております。あの方が誘って下さらなかったら、わたくしは少尉と肩を並べて戦うことなど出来なかったのですから」
「すみれくん…」

 「あの方」というよそよそしい呼び方が彼女の心中を表している。しかし、それは決して強がりでも大神を慰める為の言葉でもなかった。

「わたくしは少尉と共に戦っている時、とても充実しています。もしかしたら舞台で舞っている時よりも。貴方の意志がわたくしにわたくし一人以上の意味を与えて下さいますから」
「……」
「ですから、ご自分を責められるようなことだけはなさらないで下さい。わたくしは、わたくしの意志で貴方に従っているのですから。…少尉のおっしゃる通り、少し休むことに致しますわ。失礼いたします」
「…お休み、すみれくん…」

 大神にはもう、見送ることしか出来なかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さくらくん…」

 さくらはテラスから夜の銀座を眺めていた。さくらのお気に入りの場所、お気に入りの夜景。しかし、今のさくらにいつもの快活さは見られなかった。振り向いた目も哀しみの色に染まっている。

「ちょっと気持ちが落ち込んじゃって…」

(無理も無い…)

 さくらは他の五人ほどあやめに縁がある訳ではない。さくらが帝劇に来たのは父親の縁あってのことであり、あやめが花屋敷にいる間その存在すら知らなかったほどだ。だが、だからこそさくらは純粋に仲間としてあやめを慕っていたとも言える。さくらにとって自分を導く者は大神唯一人であるとしても、あやめもまた共に戦う大切な仲間だったのだ。
 大神の視線に込められた労りに気付いたのだろう。さくらは憂いの表情を笑顔に変えた。

「これじゃ、叉丹の思うつぼですよね。もっとしっかりしなきゃ!こんなことで負けた気持ちになっちゃいけないわ。勝負はこれからよ!」

 自分に言い聞かせるように、自分を奮い立たせるようにさくらは言う。しかし、無理をしているのは明らかだった。無理矢理浮かべた笑顔はなんだか痛ましかった。

(だが、無理にでも笑えるだけ立派だ)

「きみは…強くなったな」

 一寸だけ、さくらの表情が揺らぐ。そんな言葉をさくらは望んではいなかった。だが、口から出た言葉は全く別のことだった。

「大神さん…あやめさんのこと、好きだったでしょ?」

 好き、それがどんな意味の「好き」なのか、いくら女心の機微に疎い大神にも理解できた。

「違う…俺はただ、上官として彼女を尊敬していただけだ」

 完全な真実ではない。しかし、本当のことだった。

「でも、私にはそうは見えなかったわ…」

 さくらがそういう風に見ていたことも、今なら理解できるような気がした。しかし、言い訳の言葉を大神は持たない。何故なら、さくらに告げた答えは「真実」ではなく「本当」の気持ちだから。

「私は、あやめさん、好きだった…すごく憧れてた。あんな女性(ひと)になりたいっていつも思ってた…」
「……」
「どうして、あやめさん、どうして!一緒に戦ってきたのに!!」

 抑えていた感情が溢れ出す。だが、それでもさくらは泣き出さなかった。

「ごめんなさい、泣き言を言って」

 必死で、溢れ出す哀しみを抑えようとする健気なさくら。大神は自分以上に哀しんでいると、そう思っていたから。
 抱きしめてやるのも、自分の胸で思う存分涙を流させてやるのも一つの方法だった。しかし、そうはしなかった。大神の望みはさくらを慰めることではなく、力づけることだから。

「大丈夫だ。さくらくん」

(えっ?)

 予想外の台詞に驚きを浮かべ顔を上げるさくらに、大神は静かに、だが力強く頷く。

「俺はあやめさんの心を信じる。あやめさんの真実の心が悪であるはずはない」
「そうだ!あやめさんは叉丹に操られているだけです!!」

 信じる、それこそさくらが自分に望んでいたこと。信じたい、だが、信じきることが出来ない。それこそさくらの抱えていた葛藤だった。そして、大神が「信じる」という言葉を与えてくれた。自分が最も欲しかった言葉。

「助け出しましょう、大神さん!あやめさんは帝撃にとってかけがえの無い人ですもの。私達の、大切な仲間ですもの!!」

 さくらは、自分の心に力が吹き込まれるのを感じた。前に向かう力、未来に向かう力が。

「勿論だとも。必ず助け出してみせる」

 大神はもう一度力強く頷く。「大切な仲間」というさくらの言葉に。あやめを「仲間」と言い切ることの出来るさくらの強さに。さくらは大神に支えられているだけの少女ではない。自分もまたさくらの無垢な強さに支えられていることを、この時大神ははっきり自覚した。
 じっと大神の瞳を見つめていたさくらは、やがて、そっと大神に抱きついた。大神の腰に手を回し、胸に顔を埋める。

「ありがとう、大神さん。ありがとう…」

 大神からさくらの表情を見ることは出来なかったが、さくらは父親の胸に抱かれた少女のように安心しきった顔で微笑んでいた。もし見えていたなら、愛おしさを抑えることが出来なかっただろう。無条件の信頼。そして…

「私、大神さんがそばにいてくれたら、どんなつらいことでも乗り越えて行ける気がします。大神さんは私達の足下を照らす灯り、私達を明日へ導いてくれる光です…」

 かつてさくらは、人々の足下を照らす光になりたいと大神に語ったことがある。そして今、さくらは大神に、自分のこうありたいと望む姿を重ねていた。自分の望みを叶えるもの、自分の望みそのもの。

「君たちの瞳に映る輝きこそが、俺にとっての希望の星だ。その輝きを力に変えて、俺はどんな困難にも打ち勝ってみせるよ」

 そんなさくらに、大神はそっと囁く。自分の大切なものが何なのか、自分の明日へと向かう力の源泉が何なのか、を。

「大神さん…」

 目を閉じたまま、さくらはじっと大神に身を委ねていた…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「長官、大神です」
「おう、入んな」

 最早「支配人」などと回りくどい呼び方はしない。大神の心は完全に帝国華撃團花組隊長、最強の霊子甲冑戦士のものとなっていた。少女達の心を慰める為に彼女達と交わした言葉、それがむしろ自分自身を鼓舞することになったのを大神は感じていた。

「大神、どうだった、連中の様子は……」
「彼女達はこれで挫けてしまうような弱い心の持ち主ではありません。私がいる限り、哀しみに彼女達を蹂躪させはしません」
「…言うじゃねえか。まあいい。ところで、お前にちょっと頼みてえことがあるんだがよ」
「はい」
「報告書を書きてえんだが、お前、報告用紙が何処にあるか知らねえか?」
「…報告用紙、ですか?申し訳ありません、私には…かすみくんなら知っていると思いますが…」
「いや、いい。こんな夜更けに叩き起こすほどのこっちゃねえ」

 そして大きく溜息を吐く米田。それはひどく気懸かりなものを感じさせる仕種だった。まるで生に倦み疲れているような……

「…全く情けねえな、女手一つ無くなっただけでこの有り様とは…今迄は何もかんもあやめくんに任せとったからな……」
「長官?」
「なあ、大神」
「……」
「六年前、儂の前に現れて以来……何時しか儂はあやめくんを実の娘の様に思っとったよ。いつか何処かに行っちまうとは思っちゃいたが…よりによってなあ…」

 今の米田からは少女達以上に危ういものが感じられる。「死」に魅せられているようにすら見える。

「…米田長官、あやめさんは戻ってきます!」
「大神…」
「必ず私が、この手で取り戻してみせます!!…失礼します」

 今の大神には大言壮語することしか出来ない。出来ることだけを実行して、大神は支配人室を辞していく。

「…大神の野郎……いっぱしの口をきくようになりやがって…」

 閉ざされた扉を見詰める米田の表情は何処か愉快げなものだった。




その6



「黒き雨よ!魔の風よ!邪念の海よ!!」

 波が高くなる。無秩序にぶつかり合う。海が、狂気に染まっていく。

「今こそ封印を解き…我に力を与えよ!!」

 東京湾を臨み呪言を唱えるは葵叉丹。魔を率い、人の世の破滅を望む者。その妖力に海原の異界が応える。古来より海は異界への通路と考えられていた。人外の者の領域。海の彼方より来る化生の者達の世界。今、その、この世のものならざる領域の一つ、魔を封じたる海中の異世界が叉丹の呼びかけに呼応していた。

「いよいよ復活するのだ…聖魔城が!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「花組、全員揃いました」

 帝国華撃團銀座本部。赤い月の下の悲劇から一夜明けた朝、大神以下帝国華撃團・花組の面々は、司令長官・米田一基の招集により作戦室に集合していた。
 少女達の表情には辛うじて生気が戻っている。自分の立っている世界が崩壊するような衝撃を受け麻痺してしまった精神も一晩の睡眠を経て何とか足を踏み出すまでに回復していた。人の心は自分で思っているより遥かに強靭だ。たいていの悲しみは時間が解決してくれる。しかし、あの衝撃から一晩でここまで立ち直ったのは時間のおかげばかりではない。強い「意志」が彼女達を支え、癒したからだ。心は言葉では癒されない。心は心でのみ癒されるもの。彼女達を守り抜くと誓った男の意志、それは単に命を守ると言うに止まらず、心をも守りたいという強い願い、祈り。その祈りが彼女達を癒す力となった。

「悪い知らせだ。今朝東京湾全域で強い妖力が感知された。魔神器の使用によるものと見て間違いないだろう」

 流石に米田は百戦錬磨の将。昨晩の衰弱した様子を窺わせるものは何も無い。

「妖力の発信地点は特定できたのですか?」
「駄目だ。広範囲に渡って強い異界の力が充満している所為で探知器が役に立たない。術者も場所を突き止められずにいる」

 沈黙が時を支配する。帝国華撃團最大の弱点は陣容が薄いことだ。実戦部隊が僅か一分隊にも満たない数では、魔神器を用いて儀式を行っている場所が特定できない限りどうすることも出来ない。

「それでは、東京湾沿岸をしらみつぶしに探すしかないということですね…」
「陸軍と警察に東京湾岸の巡回捜査指令が出されている。今はその報告を待つしかない…」
「…そもそも魔神器とは何ですの?魔神器を奪って、敵は何を企んでいるのでしょう?」

 重苦しい雰囲気を払うかのようにすみれが口を開いた。確かに唸っているだけでは埒があかない。

「魔神器とは霊的な力を最大限に増幅する祭器だ。霊力も妖力も、魔神器によって絶大な効力を発揮することが出来る」
「更に問題となるのは魔神器が聖魔城の封印を解く鍵だということだ」

 大神の説明を受けて米田が最大の脅威を明らかにする。

「聖魔城…?」
「赤き月の夜、封印解かれし時、降魔の聖域甦らん。聖域には破滅の神器ありき……放神記書伝の一節だ」

(……そんな一節は無かったと思うが……)

「放神記書伝とは魔神器と共にこの帝都で最も貴きお方のもとに伝えられていた予言書だ」
「最も貴きお方…?まさか!?」

 どよめく一同。しかし、大神は一人、考え込んでいるように見える。

(予言書?史書ではないのか?)

 大神の脳裏によぎった疑問。だが、話の腰を折るようなことはしなかった。大神が口にしたのは別のことだ。

「破滅の神器とはおそらく、神代に作られたと伝えられる超兵器、邪霊砲のことだろう」

 彼が放神記書伝から得た知識。おそらくは戦いの帰趨を決定付けることになる要因。

「邪霊砲とはどのような物なのですか?」
「邪霊砲とは一言で言えば人の精神を破壊する兵器だ。この世界に漂うあらゆる種類の邪念を吸収、凝縮し、魔の波動へと変換して撃ち出す砲弾を使わない大砲。邪霊砲の黒き光を浴びた者は、ある者は命を落とし、ある者は魂の無い獣となり、ある者は魔物と化してしまうという。邪霊砲の攻撃を受けた所は現世にありながら魔界へと変じてしまうのだ」
「ジーザス…」
「それこそがおそらく叉丹の狙いだろう。この世を魔界へと変えることが」

 葵叉丹は魔界の王になりたいのだろうか?大神は以前から疑問に思っていた。人の世を滅ぼして一体何を手に入れるつもりなのだろう?人間を憎んでいる、人類を滅ぼすこと自体が目的、確かにそのようなこともあるかもしれない。だが、人間が死滅した後の世界で叉丹は一体何をするつもりなのだろうか?いや、自分自身をどうするつもりなのだろう?
 人の世を魔界へと変える邪霊砲。その使用を叉丹が考えているなら、自らが邪霊砲によって誕生する現世の魔界の王となることをも考えているのではないか。葵叉丹は新たなる魔王になろうとしているのではないか……

「大神さん?」
「…ああ、すまない。少し考え事をしていた。邪霊砲は帝都のみならずこの世界全てを魔界と変えるだけの能力があると伝えられている。この忌まわしき兵器の使用を許してはならない」
「そうだ、大神」

 大神の強い決意が込められた言葉に米田が大きく頷く。

「その為には聖魔城の復活を断固阻止せねばならない。諸君には第一級戦闘待機を命じる。葵叉丹の居所が判明次第出撃、聖魔城復活の儀式を阻止し、魔神器を奪回せよ」
「はっ!」
「では各自劇場内で待機。十分に心身を休めるように!」
「わかりました!花組、解散!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「失礼します、長官」
「どうした、大神。休んでいろと命じたはずだぞ」

 地下司令室。少女達が自室へ、あるいは劇場の思い思いの場所へと立ち去ったのを見届けてから、大神はここに足を向けた。

「一つお伺いしたいことがありまして」
「何だ」

 米田に質問があったからだ。はっきりさせておきたいことがあった、と言った方がいいかもしれない。

「私は赤い月の予言の一節を見せて頂いておりませんでした。無論、それで状況が変化したとは思いません。ただ、今回の一件について何かまだ私が教えて頂いていないことがあるのではないかと思いまして」
「…そのことについては悪かったと思っている。放神記書伝は一握りの者のみに読むことが許される秘文書だ。だからお前には降魔と戦う為に必要になると思われた部分のみを抜粋して渡してあった。予言部分を渡していなかったのは俺の落ち度だ。だが、実戦部隊指揮官のお前に重要な情報を隠匿などしてはおらん」

 丁寧な物腰で尋ねる大神に毅然とした態度で答える米田。

「申し訳ありません。いささか礼を欠く質問でした。お許し下さい」
「いや…疑念を抱えては前線で戦えんからな。構わん、この際だ。他に訊いておきたいことはないか」
「……では、お言葉に甘えて、あと一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「おう」
「魔神器は霊的な力を増幅するだけの物なのですか?」
「…どういう意味だ?」

 米田と大神の間に密かな緊張感が高まる。二人とも表面上は平静を装っているが、その裏に相手の本心を見抜こうとする鋭い視線が隠されていた。

「魔神器には何か特定の用途があるのではありませんか?それについて何か放神記書伝に記されてはおりませんか?」
「…俺の手元にある限りではそのような記述はない。何故そう思う?」
「…あれだけの物を作る以上、何か特定の目的があるのではないかと…いえ、私の考え過ぎの様です。失礼しました」

 先に引いたのは大神だ。そのまま敬礼をして、司令室を出て行く。
 その背中を、米田は厳しい目で見詰めていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 時が過ぎる。本を読んだり、お茶を飲んだり、踊りを踊ったり、皆が思い思いの方法でなるべく緊張を和らげようとしている。そして大神は自室で、ただ待っていた。一切の力を抜き、一切の思念を消し去り、何時でも全力を振り絞ることが出来るように完全な休養状態で時を待っていた。


 全員で昼食を共にする。他愛の無いお喋り。誰も戦いのことを口にしない。あやめのことに触れる者は誰もいない。


 時間だけが過ぎていく。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「フハハハハ…我が野望の城が甦る」

 黄昏時、逢魔が時の東京湾岸某所。逢魔が時に相応しい者ども。

「殺女よ」
「はい」

 降魔を操る者、葵叉丹と、降魔と化した女、殺女。

「聖魔城の復活にはまだ幾ばくかの時が必要。その間、邪魔な小娘どもの注意を引け」
「はっ!」
「お待ち下さい」

 そしてもう一つ、華奢な影。人の形をしているが明らかに人ではない。

「この殺女は先日まで眠っていたも同然の者。失敗せぬとも限りません。その任務、是非ともこの蝶に!」
「…ふん、よかろう…好きにしろ…」
「ありがたき幸せ…」

 鼻で笑うような叉丹の態度。だが蝶は喜色満面となり、黄昏の薄闇の中へ姿を消した。
 暫し無言で東京湾を眺める叉丹と殺女。彼らの視線の先の、現世と異界の狭間の空間には魔神器が浮かんでいる。やがて、降魔・殺女がその黒き翼を開いて宙へと舞い上がる。

「殺女、どうした」
「私も華撃團どもの相手に行って参ります。蝶ごときでは今の大神一郎相手に、時間稼ぎにもならないでしょうから」
「フフフ…その力、見せてもらおう…」

 殺女は妖しくも美しい魔の微笑みを浮かべ、空中で優雅に一礼すると逢魔が時の薄闇に溶け込んでいった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ビーッ、ビーッ、ビーッ

 深夜、大帝国劇場に響き渡る警報。魔の襲来を告げる知らせ。

(くそっ、後手後手ではないか!)

 心の中で毒づきながらも最大限の速さで大神は地下司令室へと走る。降魔がこの銀座に現れたのはわかっている。間違いなく自分達の足止め、及び消耗を目的とした攻撃。それがわかっていながら神武で出撃せざるを得ないとは!

「大神、参りました!」

 そして彼に続いて花組の少女達が次々集合する。

「帝国華撃團・花組、集合しました」
「降魔が現れた。放置する訳にはいかん。花組は降魔を速やかに撃退せよ!」
「はっ!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 銀座の街には既に降魔が溢れていた。今迄に無い勢い、やはり魔神器が魔の手に渡った為だろうか。
 そして既に魔霊甲冑が戦闘態勢に入っている。紫の魔霊甲冑。高貴なる紫ではない、毒々しい、赤でもない、青でもない、交じり合い濁った紫。

「叉丹さまと野望を果たすのはこのアタシ。殺女などに邪魔はさせない!」

 ヒステリックな叫びと共にその紫の巨体から電光が迸る。電撃が街灯を、建物を、街並みを打砕いていく。

「帝国華撃團、参上!!」

 その前に立ち塞がる七機の霊子甲冑。

「出てきたわねぇ!者ども、皆殺しにして叉丹さまにご報告を!!」

 巨大降魔の群れと霊子甲冑の激突。その様を宙空から冷ややかに見詰める眼差しがあった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 魔霊甲冑に向けて進撃する純白の霊子甲冑。巨大降魔は瞬く間に掃討された。隊員達が降魔相手の戦闘に慣れてきたということもある。降魔は密集していることが多い為、さくらやすみれの必殺技で一毛打尽にすることが出来る。だがそれ以上に大神の戦い振りはすさまじかった。阿修羅の如し、まさにその形容が相応しい戦い振り。常の冷静な戦闘ではない。烈火の勢いで強引に降魔を斬り伏せていく。それでいながら純白の装甲には傷一つ許さない。機体から吹き出す闘志、怒りが魔の攻撃を寄せ付けないとでも言うが如く。
 ついに純白の神武と紫の魔霊甲冑が一対一で向き合う。

「おのれぇぇ、この蝶と紫電不動の力、見せてあげるわ!!」

 手勢の全てを討ち果たされ、逆上した降魔はいきなり妖力を全開にして大神に襲い掛かる。

「雷舞・電死牡丹!!」

 魔霊甲冑、紫電不動の全身から電光が放たれ、純白の神武に襲い掛かる!

「狼虎滅却・快刀乱麻!!」

 しかし。その攻撃を予知したかのごとく同時に大神が技を繰り出す。振り下ろす大刀の先にあるのは紫電不動の巨体ではなく襲い掛かる電光の束。雷撃を纏った二本の大刀に次々と切り裂かれ、魔の電光は宙に霧散する!

「なんですってぇ!?」

 驚愕の声を上げる降魔・蝶。

「破邪剣征・百花繚乱!!」
「パールクヴィチノイ!!」
「神崎風塵流・鳳凰の舞!!」

 その隙に漸く追いついた隊員達の長射程の必殺技が紫電不動を叩く。

「叉丹さまと野望を果たすのはこのアタシ!叉丹さまに相応しいのはこのアタシなのよォォ!!」

 断末魔の悲鳴に似た叫び、それすら葵叉丹の寵愛を求める叫びだった。人間の悪徳、「執着」を象徴するかのような魔性。

「神鳴る剣よ、天威を示せ!」

 だが、その叫びは澄んだ刃鳴りの音と共に突如発生した巨大な力にかき消されてしまう。

「狼虎滅却・無双天威!!」

 そして天空より下される、天帝の裁きの鉄槌にも似た斬神斬魔の一撃によって、その存在もまた無に帰した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「やはり役者不足だった様ね」

 帰還しようと反転した神武の背中に突如掛けられる声。同時に神武の背後に湧き上がる膨大な妖気。降魔・蝶を遥かに凌ぐ妖力。だが、花組の隊員達を驚かせたのはその力量ではない。

「あやめさん!?」

 そう、その声はあやめのものだった。その姿は確かにあやめが変化した降魔・殺女のものだった。その足元には紅紫の魔霊甲冑。その機影は

「…神威!?」

 いや、かつて上野公園で撃破した機体とは細かい部分が異なっている。しかし、基本型は完全に同一の物だ。神威改とでも言うべきか。

「私と叉丹さまは一心同体。叉丹さまから賜ったこの神威であなたたちを地獄へ送ってあげる」

 黒き翼の女が魔霊甲冑と同化する。
 その冷酷な口調に、かつての優しいあやめを思わせるものはない。少女達の心が凍り付く。

「あやめさん、目を覚まして下さい!」
「私は至って正気よ、大神一郎」

 紅紫の魔霊甲冑が両手を突き出す。その前方に巨大な妖力の塊が発生する。殺女の気合と共に妖力弾は純白の神武に襲い掛かる!

「ぐわっ!」

 二重の衝撃が少女達を襲う。あやめが大神を攻撃したこと。そして純白の神武がよろめいたこと。
 あの修行の日々以来、少女達は大神が敵の攻撃に押されるところを初めて見たのだ。今の大神がどれほど凄まじい力を持っているか、少女達はその目で何度も見ている。降魔となったあやめはそれ以上の力を持っているということだろうか?

「あやめさん、貴方は叉丹の妖術に操られているだけなんだ。自分を取り戻してくれ!」
「どうしたの、かかってこないの?」

 再び襲い掛かる妖力弾。後退する神武。

「フフン、いくら貴方でも守っているだけではいつまでも持たないわよ。それも馬鹿正直に真正面から私の攻撃を受け止めているだけではね!」

 ドゥン

「ぐっ!」

 少女達は理解した。大神が敢えてあやめの攻撃を受けているのだということを。おそらくは、自分達の気持ちを想って。またそれ故に降魔・殺女は大神を挑発しているのだ。自身を大神に攻撃させることによって、自分達の心を打砕く為に。

 ドゥン

「ぐっ!あやめさん、目を覚ましてくれ。貴方の心はそんなに弱くないはずだ!!」
「あなたたちの好きな藤枝あやめはもうこの世にはいないのよ。どうしても会いたいなら…地獄で探すことね!」

 ドゥン

 次々と大神に襲い掛かる降魔・殺女の妖力弾。

「フハハハハハ」

 反撃することの出来ない大神に止めを刺すべくあやめは妖力を練り上げる。その時。

「破邪剣征・百花繚乱っっ!!」
「なにっ!?」

 大神の横合いから霊気の嵐が吹きつけた。不意をつかれさすがに少なからぬダメージを受けて後退する紅紫の神威。
 そこへ叩き付けられる叫び。

「大神さんの敵は私の敵です!例え、例えそれがあやめさんであっても!!!」

 悲痛な叫び。魂の慟哭。それは、さくらの絶叫だった。
 人一倍仲間想いのさくら。あやめが降魔・殺女となったあの夜、あやめを救い出すと口にしたのは大神と、さくらだけだった。あの時さくらだけが、あやめのことを「大切な仲間」と呼んだ。そして今、誰一人動けない中で、唯一人あやめに刃を向けたのは…さくらだった。
 そのことを知るのは大神だけだ。しかし、ここにいる全員が感じていた。さくらが自らの心を引き裂き、目に見えぬ血を流しながらなお戦おうとしていることを。ただ、大神の為に。大神だけの為に。

「やるわね、小娘の分際で」

 体勢を立て直し、再び神武へ襲い掛かろうとする神威。
 だが、その時、天地を揺るがす大音響が響き渡った!

「何だ、この揺れは!」

 通信機に向かって大神が怒鳴る。本部へ。だがその声に応えるものはいない。その沈黙で異変の予感が確信に変わる。

(まさか、聖魔城が!!)

「ウッフフフフフフ……あなたたちの負けよ、大神一郎」

 揺れが収まった後の一瞬の静寂。それを破ったのは降魔の勝利宣言だった。そして帝都の空に響き渡る葵叉丹の声。

『殺女よ、聖魔城は復活した。戻るのだ』

 その声に紅紫の機影が薄らいでいく。

「あやめさん!!」
「フフ、坊や……私に会いたかったら聖魔城へいらっしゃい…」

 その声と共に神威は夜の闇へと姿を消す。聖魔城、東京湾に復活した魔の聖域。全員の目が東京湾へと向かう。
 そして見た。満月に照らされた巨大な城塞。一個の都市に匹敵する威容。

 満月の下、魔の雄叫びだけが響いていた。

『見るがいい!これこそ歴史から抹殺された幻の大地、大和だ!
最早我が野望は止められぬ。我こそが支配者!天帝・叉丹なり!!
憎悪よ、怒りよ、絶望よ!今こそ我が手に!!
新たなる帝都はここ大和にあり!!!
フフフフフ…フハハハハハ…ハーッハッハッハッハ……』


――続く――
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