魔闘サクラ大戦 第十話
その1



「欲望…憎悪…嫉妬…あらゆる人間どもの負の想念が邪霊砲の力となる……
叉丹様の祈りが終わり天空に暗黒の月かかる時、地上に狂気の光が降り注ぎ、世界は魔の領域と変る……」

 命有るものの気配がまるでしない広大な城塞の中に、悪意に満ちた嗤いが響き渡る……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 老人の顔には憔悴と、そして敗北感だけがあった。

「…残念だが…聖魔城は復活した。最早帝都の壊滅は時間の問題だ…そして世界の命運も……」

 重苦しい空気が空間を支配する。地下に設けられたその部屋には、周りを取り囲む土砂の重圧がそのまま投影されたかのように逼塞感が漂っていた。帝国華撃團地下作戦室。総司令、米田一基の敗北宣言に等しい言葉に花組の一同は押し黙ったままだ。沈黙のまま、時計の針だけが静寂に異議を唱えていた。
 魔神器を奪われ、その行方を最後まで突き止めることが出来なかった。聖魔城復活儀式の祭壇を探知する為の最後の機会、妖力が極大化する儀式の最終段階には降魔・蝶と降魔・殺女の陽動によって結局出動どころか探知すら十分に行えなかった。完全に主導権を奪われた戦略的敗北である。三匹の上級降魔を葬ったことなど今となっては何の意味も成さない。
 一同の顔には疲労の色が濃い。徒労感と絶望に囚われている。ただ一人の例外を除いて。そこに集う者の中で大神だけは何の表情も見せていなかった。無表情に宙の一点を見詰めている。無言で何事か考え込んでいる。

「大神さん…」
「何だい、さくらくん」

 ただ一人敗北に屈した色の無い大神に、さくらが縋るように話し掛ける。

「私たちは魔の手から帝都を守る為に戦ってきたのに…なのに聖魔城は復活して……私たちのやってきたことは無駄だったんでしょうか?」

 否定して欲しい、という気持ちが、「希望」が込められたさくらの問い掛け。彼女にとって大神は最後の「希望」だった。

「無駄ではない」

 そして寸毫の迷いなく否定する大神。さくらが安堵の表情を見せる。

「ですがあんな怪物じみたもの、どうすれば……」

 常は、少なくとも皆の前では強気一辺倒のすみれですら弱音をこぼす。威勢のいい台詞で士気を盛り上げるカンナですら沈黙の殻を破れずにいる。
 大神は精気を失った全員の顔を見回すと、米田へと一礼しておもむろに立ち上がった。

「皆、我々はまだ負けた訳ではない」

 意外感を顕にして大神の顔を見上げる米田、そして少女達。彼の言葉には強がりでは片づけられない確信が込められていた。

「聖魔城が浮上したからといって、降魔が我々の手に負えぬほど力を増す訳ではない。聖魔城という拠点が明らかになったことで、逆に帝国に存在する全ての術者を結集し全ての降魔を一気に封印することも可能となった。現に四百年前には聖魔城ごと降魔を封印することに成功している。魔神器を取り戻せば再び降魔封印が可能だ」

 意外感は驚きに変る。彼の知恵に対して、ではない。彼が口にしたことは過去の知識に照らせばごく当然の結論。驚きは彼の精神力に対するもの。この状況で尚、勝利への道を考えることの出来る精神の強さに。

「我々にとって最大の脅威は聖魔城そのものではなく、その中にある邪霊砲だ。邪霊砲を破壊し魔神器を取り戻せば最終的な勝利は我々のものだ」
「しかし、しかし隊長、一体どうやって…」
「神武で聖魔城に突入し叉丹を倒す。そして邪霊砲を破壊する。これが唯一の勝機だろう」

 マリアの問いにきっぱりと答える大神。

「だが、危険過ぎる!」
「長官。このまま魔に屈する訳には参りません。彼女達は私の全てで守ってみせます」

 大神の面に表れた揺るぎ無い決意。決して悲壮なものではないその「意志」に満ちた表情に米田はそれ以上反対の言葉を口にすることが出来なかった。

「皆、この作戦の危険度は今までの戦いの比ではない。だから本来なら強制は出来ない。だが、俺には君達全員の力が必要だ。俺を信じて、俺に力を貸してくれ!」

 頭を下げる大神。少女達を戦いに巻き込む自分にあれほど自己嫌悪を示していた大神が、初めて少女達に戦って欲しいと頭を下げている。

「隊長…私たちはこれまでも貴方を信じ、貴方に命を預けてきました」
「大神さん、私たちは舞台と平和にいつでも命を懸けてきました。そして平和の為に大神さんのお手伝いをすることが、いつでも私たちの望みだったんです!」

 マリアが、すみれが、カンナが、紅蘭が、アイリスが、そしてさくらが頷く。その顔に無条件の信頼をたたえて。

「ありがとう、皆……」

 抑えた声音がかえって彼の心中を、感動を表していた。息を整えるまでに暫しの間を必要としたことがそれを証明していた。

「長官、出撃許可を願います」
「…わかった。大神、お前に任せよう。見事世界を救ってみせろ!」

 米田は頼もしさと羨ましさを感じていた。未来を信じる若さと勝利を現実のものとする力。大神は自分が失ってしまったものを有り余るほどに持っている。そして最早この男に賭けてみるしかない、半生を戦いに生きてきた米田に半ば本気でそう思わせるほどのものが今の大神にはあった。

「はっ!」

 米田に向かいこの老人の長い軍歴でも記憶に無いほど凛然たる敬礼を見せた大神は花組の少女達に指令を出した。

「帝国華撃團花組、正午をもって出撃。それまで各自十分睡眠をとること。すみれくん、紅蘭、アイリスは医療ポッドを使用し体力を回復せよ!」
「……はっ?」
「……すぐに出撃しなくて…よろしいのですか?」
「……何故わたくしが医療ポッドに入らなければなりませんの?別に怪我はございませんが…?」

 全員が狐につままれたような顔をしている。この緊急事態に一眠りしろ?
 しかし大神は大真面目だった。

「霊子甲冑は搭乗者の力がそのまま力となる。体力を消耗した状態では十分な力を発揮できない。君達は昨晩から戦闘の連続で、自分で思っている以上に疲労しているはずだ。
 …すみれくん、君達に医療ポッドに入る様指示したのは、残念ながら君達が残りの三人に比べて回復力が弱いからだ。だがそれは、君達を劣っていると考えている訳ではない。疲労に対する慣れの問題だ。体の芯から疲労しても尚睡眠をとることが出来るか否かということだ」
「しかし、今は一刻も早く邪霊砲を破壊しなければならないのでは…」

 マリアの当然の疑問。大神は椅子に座り直すと指を組んで語り始める。邪霊砲の秘密を。

「聖魔城に据え付けられた邪霊砲は、そのままではとても世界全てを砲撃することなど出来ない。日本全域を狙うことすら出来ない。直進する邪霊砲の黒き光は水平線より下を狙えないからだ。
 邪霊砲が世界を滅ぼす力を発揮する為には月が必要だ。暗黒の光を月に反射させることによって、邪霊砲は世界を魔界へ変える威力を発揮する。そして邪霊砲が最大の威力を得る為には、満月期であることが条件になる。月齢十四から十六まで、つまり今晩までの機会を逃せば四週間を待たねばならない。それだけの期間があれば、帝国のみならず世界中の力ある者達が聖魔城封印に動き出すだろう。その全てを相手に出来ると考えるほどあの男は愚かではないはずだ。
 従って叉丹は月が昇るまで邪霊砲を使用しない。世界を滅ぼす為に十分な邪念を蓄積する為には試し撃ちする余裕などありはしない。正午に出撃しても、神武の限界稼働時間を考えれば十分だ」

 改めて大神の指揮官としての資質には舌を巻く思いがする。横で聞いていて米田はそう思った。放神記書伝には、今大神が解説した内容の思い当たる個所が確かにある。しかし、今の今迄すっかり失念していた。敵の戦力を分析することは指揮官としての心得の第一歩だと言うのに。そして、その事が頭に入っていても、並みの人間なら焦って即出撃を命じていただろう。月の出る前に敵を倒すことが条件であり、神武の稼働時間を考えるなら、月の出の四時間前に作戦行動に入ればいいのだ。それ以上早くても神武は四時間以上稼動出来ないのだから結局同じである。ならば可能な限り隊員の体調を万全に整えてから出撃すればよい。余裕時間を見て正午出撃というのは最良の選択だろう。

「では解散!」

 少女達への指示を終え、自らも退出していく大神。その背中を見ながら、米田は内心の苦渋を必死に噛み殺していた。

(大神、お前の判断は確かに最良のものだ。だが、正しいだけじゃあ勝てねえこともある。そして今度の戦は負ける訳にゃあいかないんだ。……お前の察している通り、お前には秘密にしていることがある。お前に知らせる訳にゃあいかねえことがな……許せ)

 それは大神一人に許しを請うものではなかった……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 コンコン

「はい?」
「さくらさん、かすみです」
「あっ、はい」

 さくらが部屋に戻り寝間着に着替えようとしたところで扉を叩く音。訪ねる声はかすみである。このような未明から、しかもこんな時に……不審に思いながらも扉を開くさくら。

「さくらさん、長官がお呼びです」
「長官が…?」
「はい。支配人室に来て欲しいとのことです」

(一体何だろう?)

 つい先程、その米田の前で大神から休息の指令を受けたばかりだ。

「あのっ、私だけですか?」
「さあ…私はさくらさんを呼んでくるように言付かっただけですので他の方のことはわかりませんが」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 首を捻りながらも結局さくらはこうして支配人室で米田の前に立っていた。米田は帝国華撃團の総司令だ。軍人ではないとはいえ、軍に参加している言わば軍属の身だからそれなりの理由が無い限り拒むことは出来ない。まして米田は今は亡き父親と親交のあった者だ。話をしたいとあれば、断る理由はなかった。

「疲れているところ済まないな、さくら」
「いえ、長官。お気になさらないで下さい」
「長官か…もう米田のおじさまとは呼んでくれないのだな」
「長官?」

 さくらの心の中に訝しさがつのる。米田は何処か遠い目をしていた。

「それも仕方が無いな…君を戦に引き込んだのはこの儂だ。目の前で一馬を死なせておきながら、破邪の血の哀しき宿命を目の当たりにしながら、な……」
「…長官?」
「さくら、これから話して聞かせることはかつて一馬から伝えられたことだ」
「お父様から…?」
「そうだ。破邪の血統と魔神器の真の力についてだ」
「魔神器の真の力…」

 米田はそのまま口を閉ざしている。年若いさくらにすら躊躇しているのがはっきりわかる。
 だが、それも短い間のこと。米田は決意したように表情を引き締めて再び語り出した。

「魔神器は帝都で最も貴いお方の下に伝えられたもの。だが、作られた当初からそうであった訳ではない。魔神器は元々裏御三家に伝えられていたものだ」
「裏御三家…?」
「破邪の血統の頂点に立つ三つの血筋、裏御三家。魔神器の剣、珠、鏡は裏御三家にそれぞれ一つずつ伝えられていたものだ。そして真宮寺家は、魔神器の剣を伝えていた裏御三家の一つだ」
「………」

 初めて耳にする自分の一族の秘密。父からも母からも教わったことの無い秘事。さくらは言葉が出ない。

「魔神器は元々、破邪の力を増幅する為に作られたものだそうだ。そしてこの国を揺るがすような魔が現れた時、裏御三家がその力を一つに結集する為の象徴でもあったと言う。
 …四百年前、聖魔城封印の戦いはまさに裏御三家が力を一つに合わせなければならないものだった。そして聖魔城の封印を永続させる為、魔神器に祭祀を捧げることを朝廷に願い出たのだと言う。その時から、魔神器は貴きお方の下で管理されることになったのだ。
 ……魔神器はその元々の性質から破邪の力にもっとも強く反応するはずだ、と一馬は教えてくれた。ならばその手の中に無くとも、ある程度まで近づけば破邪の力によって魔神器を発動させ、魔を滅ぼすことが出来る道理だ」
「なるほど、魔神器にはそういう裏があったのですか」

 その声はさくらのものではなかった。部屋の片隅から響く、張りのある若い男の声。

「大神!お前、いつの間に!?」

 驚愕と、それ以外のある感情に凍り付く米田。

「さくらくんと一緒にお邪魔させて頂きました。失礼かとは存じましたが、私は彼女達に責任を負う者として全てを知っておく必要があったものですから」
「妖術か…!?」
「体術です、長官。隠形は気を大気の波動に同化させる技術です。気を操ることが出来る者なら誰にでも可能です」

 目には見えていながら心が見えていると認識しなくなる体術。かつてマリアの目すら欺いた大神の隠形はすぐ前に立つさくらにも正面に座した米田にもその存在を悟らせなかったのだ。

「増長したか、大神!!無礼にも程があろうっ!!!」

 激怒してみせる米田。怒って見せていることがわかってしまう。大神だけでなく、さくらにさえも。
 それには応えず、大神はさくらへ顔を向けた。

「さくらくん、部屋に戻りなさい。出撃までに体力を回復しておくんだ」
「ですが、大神さん…」
「いいんだ」

 この目だ、さくらはそう思った。哀しいくらいに優しい眼差し、この目で見詰められると一切抗えなくなる、そんな気がする。

「今聞いた話は忘れて、もう部屋に帰ってお休み」

 優しい声、慈しみに溢れた声音。さくらは頷くことしか出来ない。夢を見ているような足取りで支配人室を後にする。
 その後ろ姿を見送った後、大神は別人の様に厳しい表情になり米田と対峙した。気圧されるものを感じる米田。それは彼に引け目があるからに他ならない。

「長官。非礼は重々お詫びします。この戦いの後、どのような処分も覚悟しております」
「……」

 大神の精神が発する圧力に米田は口を開くことが出来ない。

「ですが、私は破邪の血脈の悲劇が繰り返されることを認める訳には参りません」
「大神、てめぇ…」
「彼女の隊長として、そして古き誓約を受け継ぐ一族の者として、誓約の証たる剣を継承する者として、彼女を人柱にはさせません」
「大神、お前、何者だ…?」

 辛うじて絞り出した米田の問い。だが、大神はそれには答えなかった。

「長官。長官も本心では、さくらくんを犠牲にしていい筈はないと思っていらっしゃるのでしょう?人柱の悲劇など繰り返してはならないと」
「お前に言われるまでもねぇ!!わかってるさ、わかっている!!」

 気の圧力を弱め穏やかに問い掛けた大神の言葉に、今度は本心から激する米田。

「だが、俺は帝都を、この国を守らねばならん!!どんな事をしてでもだ!!例えこの身が地獄に落ちようと!!!その為には破邪の力が必要だ!!」
「いいえ」

 静かな、だが強烈な意志のこもった大神の言葉に米田の激情が抑え込まれる。その否定にはそれほど強い意志の力が込められていた。

「破邪の力は必要ありません。私がいます。私に課せられた縛めが全て解かれれば、破邪の血の力はもう必要ありません。そしてこの戦いが私を縛る鎖を全て断ち切ることになるでしょう」
「大神、てめぇ、何者だ……?」

 蒼白となった老人から再度発せられた問い。

「私は大神一族の者です。それ以上のことは私の口からは申せません。そこにいる方からお聞き下さい。そしてどんなにお腹立ちでも、この戦いが終わるまでは、私を帝国華撃團花組の隊長として戦わせて下さい。…失礼します」

 返事を聞かず部屋を辞していく大神。彼の指し示した部屋の隅では、紙で作られた人形(ひとがた)が無風の中で舞っていた。




その2



「大神さん…」
「さくらくん…眠れないなら君も医療ポッドに押し込めるぞ?」

 お道化て言う大神。だがさくらの表情は晴れない。
 支配人室を後にしたさくらは大神の部屋の前で待っていた。思い詰めた顔をして。それを見て、大神は何も言わずにさくらを部屋へ誘った。今、さくらは大神が腰掛けるように言うのも聞かず、やや俯いて、腰を下ろした大神の前に立っていた。

「大神さんは…破邪の力のことをご存知なんですか?私が破邪の力を使えば皆を危ない目にあわせずに降魔を倒せるんですか?だったら私…」
「さくらくん、その事は忘れなさい」

 大神は優しくさくらの言葉を遮る。優しく、だがきっぱりと。

「でも…」

 それでもさくらは納得できない様子だ。自分にこの戦いを終わらせることが出来る。仲間を危険に晒さずに済む。いかに大神の言葉だろうと、彼女には無視出来ないことだ。

「駄目だ」

 そして大神もまた重ねて首を振った。

「さくらくん、君の父上も六年前、降魔を封印する為に破邪の力を使い、そして命を落とされている。破邪の力は人の身には大きすぎる力、使う者の命を代償とするものなんだ」
「お父様が……」

 改めて衝撃を受けるさくら。薄々気付いていたとしても、はっきりと言葉にして告げられるとやはり動揺を免れない。それが自分の最も信頼する相手の口から出たとなれば尚更のこと。

「俺は君に自己犠牲など許さない」

 その口調はあくまでも穏やかで、哀しげですらある。しかし、決して譲らない、断固たる意志が込められている。

「前にも言った。俺の第一の義務は君達を守ることだ。何があろうと、君達の全てを守り抜く。それは俺の義務であると同時に俺の願いだ。俺の望み、俺の誓いだ。さくらくん、決して自分の命を粗末にするようなことをしてはならないよ」

 哀しい目だった。これほど哀しい、そして深みのある目は見たことが無かった。大神が何を想っているのか、何を知っているのか、さくらには想像がつかない。だがこの目を前にしては頷くことしか出来なかった。

「わかってくれたかい?じゃあ、部屋まで送っていくよ。君が変な寄り道をしない様にね?」
「大神さん……」

 冗談めかして言う大神にさくらはどう反応していいかわからず、ただ困惑してその名を呼ぶことしか出来なかった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「出てこいっ、近衛軍少佐加出井法行!」

 大神が去った後、米田は彼が指差した部屋の隅に向けて怒鳴った。部屋の隅に舞う紙人形へと。
 その怒声に応えるように紙の人形(ひとがた)が細かく振動する。次の瞬間、そこにはまだ若いと言っていい外見の男の姿があった。存在感の欠如した男の姿。背後の壁が薄く透けて見え、その足元には影が無い。

『幻体で失礼します、閣下』

 近衛軍の中にあって最強の陰陽師と噂される加出井少佐の術、流石と言うべきであろう。その身を自室に置いたまま、霊的防御の施された帝劇内部に幻体を送り込むのだから。

「どいつもこいつも盗み聞きか?この国の礼節は何処へ失せた!?」
『お腹立ちはごもっともなれど、これはお上のご意志なのです』
「やかましい!陛下のではなく陛下の威を借る取り巻きどもの意志だろうが!!てめえまでそんなまやかしを口にすんじゃねえ!!」
『失礼しました。ですがご安心を。私は口にしていいことと悪いことの区別はつくつもりです。だからこの役目を私が引き受けました』
「ほぉー、そうかい。そいつはありがとよ」
『閣下、そろそろご機嫌を直して頂けませんか?お叱りの為に私をお呼びになったのではございませんでしょう』

 幻の発した言葉に米田が目を細める。値踏みするような目付き。

「…お前、さっきの俺達の話を聞いていたな?」
『はい』
「だったら説明してもらおうか。大神の野郎が口にしたことの意味を。『大神一族』たあ、一体何のこった?」

 幻は妙に人間臭い仕種で(人間の意志が宿っているのだから当然ではあるが)溜息を吐く。

『大神一族…ですか。彼の異常な能力も納得がいくというものです。彼があの一族の者だったとは……』
「とっとと質問に答えやがれっ!!」

 思わせぶりな態度をとる加出井の幻。いい加減業を煮やした米田。その源はどちらも同じ、「混乱」だ。

『失礼しました…大神一族、私もその存在を確認したのは初めてです。ですが、かの一族のことは陰陽寮に永く伝えられています。「まつろわぬ民の守護者」の呼び名で』
「まつろわぬ民の守護者…」

 その不吉な響きに、米田は我知らず口の中が乾くのを感じた。

『閣下もご存知の通り、近世に至るまでこの国には、時の権力に従わぬ民が少なからずおりました。彼らの多くは山の領域を住まいと為し、里人、つまり朝廷や幕府の支配を拒んでいました。
 彼らの方から権力者に戦を仕掛けることはありません。彼らはただ彼らの法に従い、支配を拒んでいただけです。しかし、権力者というのはそれほど寛容な存在ではありません。ただ自分に従わぬというだけで十分討伐の理由になるのです』
「その程度のことは、お前ほどではないにしても知っている。それで?」
『しかし彼らの住む山奥は、大軍を差し向けるには不都合な場合が多いのです。だからこそ彼らはそこを生活の基盤としてきました。しかし、ただ困難であるということは権力者の支配欲を挫くものではありません。時の権力は山奥でも十分な戦闘力を発揮できる忍びや修験者、そして我々のような術者を使ってまつろわぬ者どもを根絶やしにしようと、何度と無く戦を仕掛けました』
「ちょっと待て、根絶やしだと!?恭順を求めてではないのか?」
『我々は歴史の闇に関わってきた者の末裔です。だからこそ、普通の人々が知らぬ歴史の真実も伝えられています。朝廷は、そして代々の幕府は彼らを支配することの困難を悟るや、殺してしまうことを選んだのですよ。争う意志を持たぬ、里人には何の利用価値も無いような山奥に住む人々までも』
「何ということだ……」
『事実、いくつもの部族が我々の先人達の手によって滅ぼされていきました…しかし、それ以上に多くの試みが惨めな失敗に終わっているのです』
「………」
『山奥に住む彼らは一般に里に住む我々よりも強靭な肉体を持っています。そして特殊な術を伝えていることが多いものです。しかし、戦いの為に訓練された我々と対等に戦う力はありません。ほとんどの場合、権力者の放った特殊能力者の一軍は山に住む彼らを死地に追い詰めます。ですが、結局彼らをとり逃がしてしまうことになる……
 彼らが窮地に立った時、何処からとも無く超絶の戦闘力をもつ集団が現われ、権力者の放った軍勢を圧倒的な力の差で蹴散らしてしまう所為です。忍びの者に天狗の技と恐れられる体術、如何なる法術も跳ね返してしまう特殊な霊力、彼らは権力者側の軍勢を殺すことすら必要とせず、追い詰められた人々をたやすく逃がしてしまう。それは一種の喜劇です。目の前で獲物が逃がされていくのにどうすることも出来ないのですから。
 その集団は日本全国至る所に出没します。そして、決してその実態をつかませない。わかっているのは「大神一族」の名のみ。いつしかその一族は「まつろわぬ民の守護者」と呼ばれ、恐れられるようになりました』
「…あの野郎は逆賊の子孫だってえのか?」
『逆賊ではありません。大神一族が朝廷に牙を剥いたことは一度も無いはずです。むしろ朝廷は彼らに感謝しなければならないでしょう。彼らのおかげで、多くの無法の罪、殺戮の汚辱を免れたのですから。
 しかし、彼らが権力者の悪夢であったことも事実です。そして何とか彼らを味方に引き入れようと、それこそ絶え間無くその根拠地の探索が行われてきました。御維新の際も、朝廷、幕府双方が死にもの狂いで彼らを探し求めたと言います。陰陽寮も既に千年近い年月を費やしてきました。しかし、未だにその実態は杳として知れない。大神少尉は、確認された最初の大神一族かもしれません。全く、思ってもいませんでしたよ。かの一族の者が、堂々と大神姓を名乗り、事もあろうに軍に仕官していたとは……』
「何てこった……」

 余りに衝撃的な事実に米田はただ呆然と呟くことしか出来ない。だが、確かに納得できる話だ。新任の、青二才に過ぎぬ海軍少尉があの異常な程の戦闘能力を有している理由。それは、ごく幼い頃から特殊な訓練を施されなければ到底身につくものではない。そして人間のものとは思えない巨大な霊力。特殊な血筋、それこそ破邪の一族にも匹敵するような血統を抜きにしては考えられない。

『そして…彼の台詞で一つ気になったのですが……』
「何だ、もう何を聞かされても驚かねえぞ」

 すっかり精神が麻痺してしまった自覚から出た言葉。しかし、米田は自分の認識が甘かったことをその直後に知る。

『古き誓約の証たる剣の継承者、と彼は言いました。ということは、あるいは、彼は大神一族を束ねる立場の者ではないかと…』
「あの野郎が…そんな大それた一族の族長だってえのか!!?」

 ……………
 ……………

 沈黙、いや、絶句が時を支配する。
 やがて、幻が口を開いた。

『閣下…どうなさいますか?』
「この事は他言無用だ」
『はっ?』
「この事は一切他言無用だ。花小路の奴にもな。大神少尉はこれからも、今迄通り帝国華撃團花組の隊長だ」
『閣下?』
「…べらぼうめ!どんだけ御大層な一族の出か知らねえが、これ以上あんな若造になめられて堪るか!!あの野郎にばかりいい格好はさせねえ!!俺は陸軍中将、米田一基だ!!」

 米田の精神の背骨をなすもの、それは反骨精神だろう。強いものに決して媚びへつらわない意地、それこそが米田の心意気であった。思いもよらぬ大神の正体が米田の反骨心に、闘志に火をつけたのだ!

「てめえも!いつまでも出歯亀の真似なんかしてねえで、とっとと隊に戻って戦支度をしやがれ!帝都を守るのは大神一族なんかじゃねえ、俺達帝国軍人だ!!」

 幻が微笑を浮かべる。歴史の闇に生きてきた自分達には到底真似の出来ぬ真っ直ぐな人柄。立場を超えて肩入れしたくなる人間臭さ。これこそ、超絶の能力を持つ大神も及ばぬ米田の将器。

『私は覗き見などしてはおりませんでした。従って何も聞いてはおりません。もちろん、閣下と言葉も交わしてはおりません。ではこれにて』

 幻体が姿を消し、紙人形が空中で青白い炎を上げて燃える。後には灰も残らなかった。

「ふん、味な真似をしやがるじゃねえか…」

 米田の顔には久々に不敵な笑みが浮かんでいた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 さくらは夢を見ていた。懐かしい色に染められた夢の世界。夢はさくらに囁き続ける。彼女の血が伝える記憶を。


 大神は眠ってはいなかった。彼の前には何の支えも無く直立する二本の直刀。逆しまに立つ上代様式の大刀を前に彼は微動だにせず座していた。その目は如何なる感情の動きをも映していない。彼はただ静かに気と念を練り上げていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 東京湾を五隻の戦艦が北上する。横須賀を発した帝都防衛艦隊・五星艦隊。

 轟音を立てて巨大な自走砲台が帝都の街を駈ける。付き従う人型蒸気。湾岸を目指す市ヶ谷の機械化師団。

 古の由緒正しい装束を纏い法具を携えた人々が東京湾を取り囲む五個所に集結する。

 そして帝国華撃團地下本部はあわただしく走り回る隊員達の足音と更に下層から響いてくる低い轟音に満たされていた。

 人が、その持てる力の全てで魔に戦いを挑もうとしていた。




その3



 11時50分

 大神は作戦室に一人佇んでいる。出撃まであと十分。皆には司令室に集合する様伝えてある。最早検討すべき作戦など無い。為すべき事は明らかだ。実際、大神は何も考えていなかった。ただ、誰もいない静まり返った作戦室に一人座していただけだ。
 長針が一つ進む。

「隊長、マリア・タチバナ、参りました」

 大神に掛けられる声。大神がここにいることを誰にも告げていないにも拘わらず、彼女は真っ直ぐこの作戦室に来た。そしてその事が大神には何故かわかった。彼はマリアに無言で頷いてみせる。マリアが自分の席に着く。
 長針が時を刻む。

「隊長!桐島カンナ、参りましたっ」

 いつも通りの元気を取り戻してカンナが改まった挨拶を告げる。大神は彼女に黙礼を返した。カンナもまた自分の席に着く。
 11時53分

「隊長、神崎すみれ、ただ今参りました」
「イリス・シャトーブリアン、参りましたっ」

 優雅なすみれの申告とアイリスのしゃちほこばった奏上。大神は微かに顔を綻ばせて彼女達の席を視線で指し示す。
 時計の針が進む。

「李紅蘭、参りました」

 いつに無く真面目な顔で紅蘭が到着を告げる。大神は軽く手を上げて彼女に席に着く様促した。
 そして11時55分

「真宮寺さくら、参りました!」

 気迫を漲らせてさくらが大神を促す。出撃の時を。
 大神が立ち上がった。

「全員、作戦指令室に集合!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「長官、花組、出撃準備整いました。これより神武に搭乗、翔鯨丸にて聖魔城へ向かいます」

 右手で敬礼し米田に出撃を申告する。彼の左手には二振りの大刀。仮に神武を失い白兵となっても戦い抜く決意の現われか。
 米田も大神も、先刻の対立の跡など微塵も見せない。大神は完全に目前の任務へと集中している。そして米田は。

「大神。帝国華撃團は総力を持ってお前を支援する。存分に戦ってこい」

 花組を、ではない。敢えて、大神を支援する、と口にした米田。
 大神は違うこと無く理解した。米田が自分を取り戻したのだと言うことを。闘志を、戦う意志を取り戻したということを。
 そして米田はもう一度頷く。大神が自分の意図を正確に理解したことを米田も理解した。春から心の片隅に刺さっていた小さな棘、大神の能力に対する拘りのようなものが米田の心から消えていた。自分の心の中に潜む小さな嫉妬を認めることで初めて、大神一郎という名の天才を自分の部下として完全に受け容れる心境になっていた。

「翔鯨丸発進後、銀座本部は空中戦艦御嵩(ミカサ)を発進させる。聖魔城前方二千の地点で合流。御嵩の砲撃によって聖魔城城門を破壊する。あとは任せたぞ」
「はっ!花組、神武に搭乗!!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「霊子甲冑・神武、起動!」
「轟雷号・発進準備よし」
「花屋敷より入電。翔鯨丸、発進準備完了」
「轟雷号、発進!」

 花組が出撃する。そして米田は総員に指令を下す。

「空中戦艦御嵩、発進準備。総員配置に就け!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 帝都上空、翔鯨丸艦橋。
 翔鯨丸の艦長は米田一基、艦長代理は藤枝あやめ。二人ともここにいない。風組の隊長は空中戦艦御嵩の運用に当たっている。今、翔鯨丸の作戦指揮も花組隊長である、大神に委ねられていた。
 彼は本来の部下である花組の少女達と、翔鯨丸の主要乗員の前で最後の作戦説明を行っているところだ。

「御嵩の砲撃により聖魔城の外門を破壊、突入路を作る。翔鯨丸は聖魔城に全速で接近し、霊子爆雷の一斉射で神武の着陸地点を確保。神武降下後、全速離脱、再度御嵩と合流のこと。
 花組はそのまま聖魔城の中央へ突入、一切の障害を排除し邪霊砲を破壊、及び魔神器を奪回する。
 敵の数に惑わされてはならない。邪霊砲の破壊と魔神器の奪回、それで勝利は我々のものだ」

 それが容易ならざる事であることはここにいる誰もが知っていた。だが、大神の言葉には寸分の揺らぎも無い。勝利を確信させる口調。全員の心の中で希望が大きく育っていく。勝利を信じる希望が大神の言葉に力を得る。希望が士気を鼓舞する。

「では総員、配置に就け。花組は控え室に待機!」
「はい!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「甲板上の市民の避難、完了しました」
「集合霊子機関、作動順調。霊子核機関内霊子圧、正常に上昇中」

 霊子核機関、それが空中戦艦御嵩の動力炉だ。霊子核機関は自然界に遍在する霊子を吸収し、霊子機関によって圧縮、二方向より加速、衝突させることで霊子を「乾」と「坤」に分離、その際に発生するエネルギーを取り出す動力機関である。そして発生した「乾」「坤」を浮力、推進力、兵装に使用することで御嵩ほどの巨大な船体の飛行を可能としている。
 「乾」は「清」であり「虚」、「天」の属性。「坤」は「濁」であり「実」、「地」の属性。霊子核機関は「乾」「坤」を分離することにより「虚」の属性を作り出すことで軽量ガスとは比較にならない強力な浮力を生み出し、「天」の属性を取り出すことで気圧差を利用したプロペラ推進より遥かに高出力の空中推進力を発生させる。そして「実」の属性は質量砲弾を遥かに超えた衝撃力を持つ、「質量」そのものを発射する霊子砲の砲弾となる。

「霊子核機関出力、有効領域に達しました」
「最終安全装置解除。発進準備完了」

 航法長を務めるかすみから米田に、発進可能の報告が為される。

「よし。発進ゲート開放!」

 人気の消えた銀座の街。だが、そこに残っている者がいたなら、その者は自分の正気を疑わずにはいられなかっただろう。全長1キロに渡って、日比谷通りが10メートルほど沈んだかと思うと、スルスルと横滑りしていくではないか。それだけではない。日比谷通りに面した堀の水が急速にひいていき、道路側の石垣自体が移動する。日比谷通りに長さ1キロ、幅100メートルの穴が生じる。自然のものでは決してありえない正確な長方形の穴。その中には巨大な船が鎮座していた。
 その形状は通常思い浮かべる「船」あるいは「艦」とはかけ離れている。しかし、その巨大な構造物は「船」としか表現できないものだった。どんなに形状が異なっていようと、それは「戦艦」だった。
 それにしても何という大きさか。全長800メートル、全幅80メートル。如何なる超弩級戦艦も及ばぬ巨大な船体。空気抵抗を考慮された紡錘形の艦影。しかし、真に驚くべきことはその直後に起こる。
 艦長席から立ち上がった米田は手を前に差し伸べ高らかに命じた。

「空中戦間御嵩、発進!!」

 悪夢のような、否、白日夢の光景。その巨体が滑らかに浮かび上がっていく!世界の軍事常識を覆した、霊子核機関のみが可能とする空中戦艦の初飛行の瞬間だ。

「目標、聖魔城!」

 通常の飛行船を遥かに上回る、航空機にも匹敵するほどの、その巨体からは考えられない速度で空中戦艦御嵩は東京湾を目指す。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(この雲の向こうにあやめさんがいる。俺は彼女と戦えるのか…?)

 廊下の窓から一人雲海を眺める大神。花組の少女達を一足先に控え室で休ませ、艦橋でいくつかの指示を終えて降りてくる途中、ふと立ち止まり外を眺める彼。その顔は戦場にいる時の大神には珍しく覇気の無いものだった。かといって劇場にいる時の様な、穏やかでにこやかな、人当たりのいい青年の顔でもなかった。何処か内省的な、青年文士のような表情。

「どうしたんですか、大神さん。こんなところで」

 声を掛けてきたのはさくらだった。大神を待っていたような登場。実際に彼女は大神を待っていたのだ。おそらくは。

「さくらくん…いや、なんでもないんだ」

 その大神の力無い返事にさくらは顔を曇らせる。

「大神さん…なんでも無いって顔、…してないですよ。なんだか、」
「……」
「なんだか、寂しそう」

 その美しい顔に憂いを浮かべて、心配そうな声でさくらが問う。さくらは心から心配していた。どんな時にも意志の力に溢れていた大神らしからぬその態度を。

「寂しいか。そうかもしれないな」

 大神の視線が遠くを見つめる。そこにあるのは、つい先刻、揺るぎ無い意志と共に勝利を断言した戦士の目ではなかった。勝利を当然のものとして誓う将星とは別の顔。

「あやめさんが帝撃を去って、そして今、俺達はそのあやめさんと戦おうとしている。寂しいというより、怖いんだよ。たぶん」
「……」

 さくらは、つと、胸を突かれた。そうなのだ。おそらくはこれが、他の時、他の隊員の前では決して見せないであろう、今この時、今ここにいるさくらにだけしか見せないであろう、大神の素顔。大神もまだ二十一。普通なら上官の命令のまま走り回っているだけの青年将校、責任と信頼を年長者に預けていればいい若者だ。それが、その身に備わる巨大な力故に花組全員の信頼を一身に受け止め、帝国華撃團全部隊とその後ろに控える政府、いや帝都、帝国の期待を一身に背負い、そして世界の命運を双肩に担い、戦い、勝利する事を求められている。その過大な要求を自分の義務として受け容れ前に進もうとしている。
 今まで自分は大神の事を、その力のままに神の如き強靭な不屈の精神の持主、自分とは次元の違う超人だと思ってはいなかったか。大神も間違いなく、不安と恐れを抱く自分と同じ「人」だというのに。

「たぶん俺は怖いんだ。あやめさんが連れ去られたとき、俺には何もできなかった。今、あやめさんと向き合う事で、何もできなかった無力な自分を思い知らされるようで怖いんだ…」
「そんな!大神さんの所為じゃありません!!」

 さくらは今、心の底から大神の力になりたいと思っていた。余りにも大きすぎる力と、余りにも重過ぎる義務を背負ったこの青年の為に自分に出来る全てのことをしたいと感じていた。

「そして、自分の力が足りなかった所為で聖魔城は復活し、今世界は破滅の脅威に晒されている。今度俺の力が及ばなかったら…世界は滅びてしまうんだ」

(そして君達も…君までも失ってしまう事になる…)

「……」
「情けないよな、帝撃の隊長ともあろうものが。戦う前から恐怖に震えているなんて…」

 自嘲気味に語る大神を、さくらは悲しげな瞳で見詰めることしかできなかった。二人の間に沈黙が下りる。
 やにわにさくらは大神の手を取って、自分の胸に押し付けた。

「!」
「わかりますか…私の心臓、こんなにドキドキしてるの」

 顔を真っ赤に染めながら、それでも大神の手を放さない。

「みんないっしょです!みんなだって、きっと怖いと思ってる。…私だって怖いわ、独りじゃ顔を上げていられないくらい怖い。私はまだ、お父様や…大神さんみたいに強くない」
「さくらくん、俺は」

 大神が言おうとする事を押し留めるように、真っ直ぐ視線を上げてさくらは言葉を続けた。

「自分が倒れる事より、他人を守れない事を恐れている大神さんみたいに強くはなれない」

(さくらくん……)

 さくらの真剣な眼差しが、熱い想いが大神の心を打つ。

「でも、みんなが一緒だから…大神さんが、励ましてくれるから、私、戦えるんです!大神さんと一緒だから、私、がんばれるんです」
「……」
「自分の事、情けないとか、そんな風に言わないでください。私、大神さんがいるから、だから…」

 言葉を詰まらせながらも、真心の丈を込めてさくらは訴え続ける。とにかく、大神を力づけたかった。少しでも大神の力になりたかった。その想いがさくらを駆り立てていた。

「戦って下さい!帝都を守るんでしょう!未来を、守るんでしょう!!私達と一緒に、戦って下さい、大神さん」

 この上なく真剣で、この上なく情熱的な眼差しでじっと大神を見詰めるさくら。見返す大神の目は…とても優しい色を帯びていた。

「ありがとう…さくらくん」

(えっ…)

 切なくなるような優しい眼差し。優しい口調。
 自分の手を握り締めるさくらの両手をそっと解いて、今度は大神がさくらの両手をやわらかく包み込む。

「俺は、自分が逃げ出さない為に、世界の命運を口実にしていたのかもしれない。敗北の恐怖から逃げ出す為に、力不足を言い訳にしていたのかもしれない。でも、俺はもう逃げない」
「……」

 重ねられた手から伝わってくる大神の体温を今更のように意識する。さくらは言葉を失ったまま、ただ大神を見詰めていた。

「俺はもう、決して逃げない。戦いからも、恐怖からも、自分の弱さからも」
「……」
「俺は負けない。君達の為に、…君の為に、俺は負けない」
「!」
「俺達は絶対に負けはしない。必ず勝利と、そして未来をつかんでみせる」

 力みの無い、むしろ穏やかな口調だ。しかし、そこに込められている熱く、揺るぎ無い決意はさくらの胸の奥に直接響いていった。先の、皆を力づける為の将としての決意ではない。それは、人間、大神一郎の決意だった。

「行こう、さくらくん。皆が待っている」
「はい!」

 しかし、後に続くさくらは、そんな場合ではないと自らに言い聞かせながらも、心の中で問い掛け続ける自分を止められなかった。

 キミノタメニ、オレハマケナイ

(大神さん、今の…どういう意味ですか?大神さん…)




その4



 砲声が轟く。銃弾が宙を翔ける。符が舞い、呪が響く。

 彼らの攻撃はほとんど聖魔城に、そして降魔にダメージを与えることが出来ない。それでも、降魔が聖魔城から帝都へ溢れることを阻止する防壁の役割を果たしていた。多くの物的損害と、兵士の命と引き換えに。
 帝都防衛艦隊はその名の由来となった五星陣で大和を包囲している。五隻の戦艦で五芒星を作り、包囲網の中心に向かって艦砲射撃を集中する。五星艦隊は海軍に作られた魔に対抗する為の艦隊、その艦艇にはシルスウス鋼と様々な呪術装置が用いられている。
 湾岸より巨大自走砲の砲撃が聖魔城へ、そして降魔へ浴びせられる。陸軍機械化師団は魔道兵器で武装した西欧列強軍に対抗する為に組織された部隊。帝国華撃團構想が実現しなければ、魔の侵略に対する帝都防衛は彼らの手に委ねられていただろう。四つの無限軌道により移動する戦艦砲にも匹敵するほどの巨大な自走砲塔。高射砲を装備した複座式人型蒸気。帝国華撃團の霊子甲冑が白兵戦を重視した構造なら、こちらは火力を重視した装備になっている。(その為に市街戦への投入はこれまで見送られてきたのだが)
 そして近衛軍法術大隊、陰陽陣を中心とした術士の集団が聖魔城と降魔に向かって呪的な戦いを挑んでいる。科学と魔術、人が持つ全ての力を結集して魔の侵攻を食い止めんとしている。
 しかし。残念ながら戦いは人間側の明らかな劣勢だった。五星艦隊の砲撃も聖魔城の城壁に穴一つ穿つことが出来ない。人型蒸気の高射砲は、聖魔城の復活に力を得、自由に空を飛翔する巨大降魔を撃ち落とすことが出来ない。術士達の法術も増大する魔の波動を押し返すことが出来ない。辛うじて戦線を維持することが出来るのみ。そして月が昇り邪霊砲の黒き光が放たれれば、そこで勝敗は決するのだ。
 急に日が陰る。地上に影が落ちる。何気なく空を見上げた人々は驚愕に凍り付いた。
それは雲ではなかった。鈍い輝きを放つ、巨大な城塞、否、戦艦が宙に浮いている。それは余りにも、魔物の出現よりも尚、非現実的な光景だった。

「霊子砲、発射準備。目標、聖魔城城門!」

 空中戦艦御嵩の艦橋で米田の指令が響き渡る。復唱する由里。彼女は常の華やかな洋装を凛々しい空色の制服と換え、それに相応しい表情で蒸気演算機を操作している。この巨大な船体の、各所の出力を均衡させる為の制御機構。そして蒸気演算機を通じ、指令は砲塔へと伝わった。複数の小型霊子機関が一つの中型霊子機関を囲むように設置されている。その一つ一つに霊力を持つものが向かい、中心をなす霊子機関には椿が霊力を注ぎ込んでいる。霊子核機関の作り出す「実」の粒子の運動ベクトルを一方向に収束する為の霊子機関。霊子砲の管制機構。

「艦体回頭、左五度、俯角一度」
「回頭、了解」

 蒸気演算機によってはじき出された最適姿勢が由里からかすみに伝えられる。この巨大な艦体をかすみは正確に回頭させる。

「霊子砲、発射準備完了!」

 火器管制室から報告が上がる。

「よし、霊子砲、撃てぇ!」

 米田の雄叫びと共に椿の、そしてそれを取り囲む少女達の体から霊力が迸る。霊子機関の作り出す力場によって「実」の粒子が艦首に半固定された巨大な砲塔から一気に噴き出す!
 御嵩より放たれた眩い光は聖魔城の城門を跡形も無いほどに吹き飛ばす。快哉はむしろ海上と地上の方が大きかった。初めて魔の城に一矢報いたのだ。

「翔鯨丸、全速前進!」

 しかし翔鯨丸の艦上にいる人々に浮かれた色は微塵も無い。彼らは、そして彼女達はこれからが本当の勝負であると肌で感じていたから。彼らは翔鯨丸を降魔群がる聖魔城に接舷するほどまで接近させなければならない。そして花組は更にその奥へと突入していくのだ。翔鯨丸は霊子砲によって生じた空白地帯を最大戦速で飛翔する。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「皆、突入前に一つだけ言っておくことがある」

 神武に乗り込み、出撃カタパルトへと機体を進ませた大神が彼に続く少女達に通信を送る。

「いいか、全員、一人も欠けること無く、必ずここへ戻ってくるぞ!」

 緊張した彼女達に掛けられた言葉は、彼が一貫して言い続けてきたこと。生きて、帰ると。

「はいっ!!」

 六人は寸分の狂い無く唱和した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『霊子爆雷、斉射開始します!』

 艦橋より通信。そして主砲の轟音。降下地点の確保が霊子甲冑の投影盤に示される。

「皆、続け!」

 空中に踊り出す純白の神武。それに続いて六体の霊子甲冑が次々と降下する。聖魔城へと。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 花組を取り巻く多数の降魔。彼らは手強かった。聖魔城の、あるいは魔神器の助けによって一段階も二段階も力が増していた。しかし。力を増していたのは降魔だけではなかった。黒之巣会との決戦の日にも生じた、霊子甲冑の強化現象が再び起こっていた。全ての霊子甲冑を覆う白い輝き。一撃一撃に煌く霊力の光。魔の城の中で力を増した降魔以上に戦闘力を増大させた花組は、一人も欠けること無く城門跡に群がる降魔を殲滅した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「中に続く扉を開ける装置があるはずだ」
「ちょい待ってや…大神はん、あれや!」

 紅蘭が指し示した開閉器に、最も近い所にいたさくらの神武が歩み寄る。

 ゴゴゴゴ……

 重々しい響きと共に扉が開く。神武が漸く一機ずつ通れるほどの隙間。大神が先陣を切り、次々と聖魔城内部へ足を踏み入れる神武。ここまでは予定通り。
 だが。大神達が中心部へ向かう通路へ足を進めようとしたその時、後方に巨大な妖気が湧き上った!

「これは!?」

 突如出現した三体の影。

「今こそ我ら甦り。我ら、黄昏の三騎士!」
「あなたたち、死んだはずでは!?」

 すみれが驚愕の声を上げる。
 それはまさしく、激戦の末に葬り去ったはずの三匹の上級降魔であった。

「また会ったな」降魔、鹿。
「叉丹様に刃向かう愚か者ども」降魔、猪。
「ここから先は一歩も進ませないわ」降魔、蝶。
「我らの裁きを受けるがいい!!」そして唱和する三匹の上級降魔。

 三体の不動が地の底よりせり上がってくる。火輪不動、氷刃不動、紫電不動。主とともに滅ぼされたはずの降魔の甲冑が再びその主を呑み込み、破壊の為だけの仮初めの命が吹き込まれた!

「気をつけて!以前とは殺気が違うわ!」

 吹き付ける強大な妖気。別の魔性と見間違うほど、以前より遥かに邪悪で、強力だ。

(このままでは…いえ、大神さんに手出しはさせない!)

 甦った相手のかつてない、強大な妖気にさくらは悲壮な決意を固めた。大神の為に、自分に出来る全てのことを、それがさくらの決意。

 ゴオオォォォ

「ええぃ」

 斬!

 なんということか!さくらは単身城門と通路を隔てる扉の向こうに立ち、止める間も無く扉を閉め開閉装置を破壊してしまったではないか。

「さくらくん、何を!?さくらくん!!」

 突然の暴挙に驚愕し、一瞬で我に返ると、自ら孤立したさくらに向かい必死で呼びかける大神に、さくらは落着いた声で答えた。

「大神さん、もう時間がありません。ここは私が食い止めます。大神さんは先へ進んで下さい」
「馬鹿なっ、君一人をおいていけるものか!!」

 血を吐くような大神の叫び。さくらは嬉しかった。自分の身を案ずる彼の魂の絶叫に、全てを捨ててもいいとさえ思った。宿命も何もかも捨てて、大神の胸に飛び込んで行きたかった。しかし。

「大神さん!大神さんには果たさなくてはならない使命があるはずです!!帝都の平和を、世界の未来を救えるのは大神さんだけなんです!!」

 さくらの口からは大神を叱咤する声。いや、それは自分の心に向けた鞭だったのかもしれない。

「さくらくん!!」

 さくらの心に何よりも強く響く大神の声。さくらの魂を縛る声。だが、さくらは自分の魂に背を向け、大神の呼びかけに背を向けた。

「馬鹿め、独りで何が出来る!」
「お目出度い奴、まずお前から片付けてあげましょう」
「俺が相手をしてやるぜ」

 三体の殺戮機械がさくらに迫る。しかし、さくらは怖れなかった。

「大神さんの邪魔は絶対にさせない。私の命に代えても!!」

 悲壮な叫び。それは決して言葉の綾ではなかった。

(お父様、力を貸して!)

 体を流れる血が心に教える。力を顕現するその方法を。

「海原(わだつみ)を渡る気吹(いぶき)の源、全ての汚れを吹き払うもの」

 さくらの内に異質な力が高まる。人の身には清らかすぎる力。人とは異質の力。全身の血が逆流しているかのような違和感と体中の細胞が軋みをあげていくかのような苦痛の中で、さくらは言葉を続けた。自分の命を捧げる呪文を。

「荒ぶる風の王、イブキドヌシ命よ、我に力を貸し給え!」

 かつての父親と同じように、多くの祖先達と同じように。大切なもの、大切な人の為に。命を代償として魔を封じる業。さくらは血の記憶に従い己を滅ぼす力を紡ぎ出す。破邪の呪法。
 そして、最後の一言が放たれる。

(大神さん、ごめんなさい。そして…さようなら)

 だがその時。

 轟!!!

 破れるはずの無い聖魔城の扉が跡形も無く消え去った。破れたのではない。まさしく、轟音とともに灰塵と化して吹き飛んだのだ!
 巨大な破壊の余波に巻き込まれ、少なからず損傷を受けるさくらの神武。しかし、不思議なことに、破壊の波は扉の近くにいたさくらの機体よりも、三不動に大きな損傷を与えていた。さくらの神武は細かい砂と化した扉の残骸に装甲を傷つけられただけで、破壊の力自体はさくらを避けて疾り抜けたかのようだ。
 そして、身を苛む苦痛と己を蝕む破邪の呪力は何時の間にか消えていた。代わりのものがさくらの全身を取り巻き、補い、満たそうとしていた。

「!」

 その時さくらが見たものは、無数の雷光を身に纏わせ、自らも目を灼かんばかりの光を放つ大神の神武だった。天空と大海の力を一身に集めたかの如き荒ぶる力の波動。さくらは、己をつなぐ鎖をまさに引き千切らんとしている人知を超えたものの幻を一瞬垣間見た様な気がした。それはただ清らかなだけの力ではなく、荒々しく、粗削りで、その代わり命の脈動に溢れた、大自然そのものである神の力を思わせる波動。
 烈光が収まり、白い神武のハッチが開く。操縦席に仁王立ちになった大神は閻魔王も斯くやという恐ろしい形相でさくらを怒鳴りつける。

「このっ、大馬鹿者!!!」

(!)

「君を犠牲にして、何が平和だ!何が未来だ!!俺はそんなものの為に戦っているんじゃない!!!」

(………)

「俺が守るべき者は、まず何よりも君たちなんだ!!!」

(大神さん…)

「…人には、命を懸けて戦わなければならない時がある。だが、命を懸けることと、命を捨てることは全く別のことだ」

 ようやくいつもの穏やかな表情を取り戻した大神は、染み入るような声でさくらを諭した。

「命ある者に、命を捨てることは許されない。さくらくん、命を捨てようとしてはいけない。そんなことは、俺が許さない」
「大神さん…」

 さくらは泣きたかった。いや、実際、半ば涙声になっていた。自分が恥ずかしかった。それ以上に、大神の心が嬉しかった。悲壮感に酔いしれていた時の感傷とは比べ物にならない、至福の歓喜がさくらの心を満たしていた。
 神武の中に戻った大神は、冷静な指揮官の声で指示を出す。

「アイリス、さくらくんの神武を回復してくれ。他の者は、三不動を倒す!」

 その時になってようやく、三不動は圧倒的な力の波から立ち直りを見せる。

「とんだ茶番だな!」
「叉丹様に逆らう罪の深さ、今こそ我らが思い知らせてあげる!」
「ぐわっはっは、覚悟しろぉ!」

 蝶の電光が大神を襲う。聖なる雷光が邪悪なる電撃を弾き返す。そこへ鹿の氷柱の槍。とっさに回避する大神に猪の炎が襲いかかる。

「グオァァァ!」
「させませんわ!」

 魔の炎を蹴散らしたのは、浄化の炎を纏ったすみれの長刀。すかさず、カンナが火輪不動を弾き飛ばす。マリアが氷刃不動を、紅蘭が紫電不動を牽制する。

「少尉、ここはわたくしたちにお任せになって」
「隊長は叉丹をぶっ倒しに行ってくれ」

 すみれとカンナが大神に促す。

「馬鹿な、俺の言ったことを聞いていなかったのか!?」
「隊長、私達は命を捨てるつもりはありません」
「マリア…」
「そやそや、うちらは無理するつもりはないで。こいつらはおそらく、叉丹の奴の妖力で生き返らされとるんや。叉丹さえ倒せば、こいつらも消えてなくなるはずなんや。うちらはそれまでの時間稼ぎをするだけやで」
「紅蘭…」
「みんなは大丈夫だよ。もし何かあってもアイリスがみんなを癒してあげる。アイリス、絶好調なんだから!」
「アイリス…」
「先の隊長の攻撃で、こいつらは十分な力を出せません。私達だけで大丈夫です。隊長、もう時間が有りません!」
「…わかった。マリア、皆、必ず叉丹を倒してくる!」
「さくらさん」

 ここですみれが、何故かさくらに声を掛けた。

「あなたは、少尉と一緒にお行きなさい」
「えっ?」
「いくら少尉でも、一人では限界が有ります。今度はあなたが少尉をお守りなさい!」
「すみれさん…?」

 さくらには、あまりに意外なすみれの言葉だ。

「すみれ…」

 カンナも言外に疑問を投げかける。

(すみれ…おまえ、それでいいのか?)

「わたくしの期待を裏切ることは、許しませんわよ!」

 神武の装甲を通して、交錯するさくらとすみれの視線。

「わかりました!大神さんは私が命に懸けて守ります。そして大神さんと一緒に生きて戻って来ます!」

 微笑みを交わす二人。お互い相手の顔は見えなくても、相手の笑顔ははっきり見えていた。

「さくらくん…」
「さあっ、行きましょう、大神さん!ここは皆を信じて!!」




その5



「大神さんっ、あれを!」

 大神の位置感覚はその広間の向こうが聖魔城の中心、邪霊砲の砲座であることを告げていた。彼らの目的地、その直前で彼らの前に立ち塞がる影。

「あやめさん……」

 黒き翼、黒き衣。妖気に染まりながらも尚美しい面。それはあやめの変じた姿、降魔・殺女であった。

「ウッフフフフフ…よくここまで来たわねぇ」

 その足元には紅紫の魔霊甲冑・神威改。あやめの、否、殺女の意図は明らかであった。

「どいてくれ、あやめさん。今は貴方の相手をしている余裕はない」

 それでも大神は剣を構えない。あくまで「あやめ」と呼び掛ける。彼は信じていた。

「お生憎ね。ここを通す訳にはいかないわ」

 にこやかな、と言っても差し支えの無い口調と表情。しかし、その目には歓喜がある。殺戮に酔うものの歓喜の光が。

「…あやめさん、今は時間が無い。あくまで邪魔をすると言うなら、例え貴方でも…」
「例え私でも…なあに?大神くんに私を倒せて?」

 揶揄する殺女。

「例え貴方でも、力ずくで通らせてもらう!」

 だが大神の応えには欠片ほどの躊躇も無かった。そして、「通る」とのみ宣言する。「倒す」とは言わない。彼は約束を忘れていなかった。

「フフン……いいわ、決着をつけましょう」

 思い通りの反応を見せない大神にこれ以上問答を続ける気を無くしたとでも言うように、降魔・殺女は早々と魔霊甲冑・神威に乗り込む。重々しい地響きを立てて、神威が足を踏み出す!
 その手に構える長大な太刀。三不動などとは比べ物にならない迫力に大神の神武は双刀を構えた。

「止めて下さい、大神さん!!」

 大神から迸るただならぬ気迫に思わずさくらが叫ぶ。あやめを殺したくないというより、大神にあやめを殺させたくなかった。その事で誰よりも傷つくのは大神に違いないのだから。

「大丈夫だ、さくらくん」

 だが大神の声は戦いに臨む者とは思えないほど落ち着いている。

「俺があやめさんを説得してみせる。さくらくんは手を出さないでくれ」

 大神は約束を果たせると信じていたのだ。あやめを、取り戻す。その約束を。

「いくわよ、大神くん!」

 ギンッ

 噛み合う三本の刃。神威の打ち込みに神武が後退さる。何という腕力!神威の出力は明らかに神武を凌駕している。

「あやめさん、戻って来てくれ!」
「お前らの知っているあやめはもう死んだのだ。あの赤い月の下で!」

 ギンッ

 さくらにはわかる。大神だからこそ、あの打ち込みを受け流すことが出来るのだと。おそらく自分では力を逃がすことが出来ず太刀を弾かれていただろう。それ程あやめの乗る神威は手強い相手だ。いくら大神の腕でも、防御だけではいずれ凌ぎきれなくなる…

「あやめさん、取り戻してくれ!人の心を、自分の心を!」
「人間とは本当に下らない生き物ね。もう藤枝あやめはいないと言ったでしょう!?どうしても会いたければ、あの世で探すことね!」

 ギンッ
 ザザッ

 神威の攻撃に押され、一旦間合いを取る純白の神武。殺女はすぐに追い討ちを掛けることはせず、思わせぶりな嗤いを漏らした。

「いいことを教えてあげるわ、大神一郎。藤枝あやめはね、貴方に嫉妬していたのよ。知力、霊力、精神力、全てにおいて自分を凌駕する貴方に。そして何より、自分が心から望みながら自分には出来なかった、仲間を護るということを如何なる状況でも成し遂げてしまう貴方の力に……」

 嗤いは冷笑に変わる。

「欲望…憎悪…そして嫉妬……この世界に満ちたあらゆる人間の邪悪な意志が私に力を与えてくれる。私が復活できたのは貴方のおかげかもしれないわね?アーッハッハッハ…」
「そんな!」

 さくらは必死で反論しようとした。しかし、言葉が出ない。何を言っていいのかわからない。そんな自分がもどかしくて堪らず、また大神の心をこんな残酷な方法で傷つけようとする殺女が許せなかった。黒い想念、憎しみがさくらの中に頭をもたげる。しかし。

「さくらくん!落ち着け!!」

 大神の言葉にすっとさくらの心は鎮まる。大神の声には微塵の動揺も混じっていない。

「あやめさん。嫉妬を抱かない人間はいない。欲望、憎悪、自分の中に邪悪な心を抱えていない人間などいはしない。邪悪な心と善良な心、善と悪、相反する心の葛藤に苦しみながら尚前に進もうとする、だからこそ人の心は貴いんだ!
 一時、心の闇に屈することは別に恥ずべきことではない。大切な瞬間に、己の心に勝利すればいいんだ!あやめさん、取り戻してくれ、人の心を、心の光を!!善なる心を以って内なる魔性を打ち破ってくれ!!」

(大神さん……)

 迸る熱い想い。人としての誇り。彼が自分を導く者であることが今ほど誇らしいと思ったことはない。さくらの心を満たす感動。
 そして立場は覆り、動揺を見せるのは降魔・殺女となる。

「ほ、本当に可愛げがない男ね!二度とそんな強がりを口にせずに済む様に、すぐに楽にしてあげるわ!!」

 ギンッ、ギンッ、ガキッ

 神威の斬撃。殺女が斬り掛かる。大神が受け止める。嵩にかかって殺女が斬りつける。大神は殺女の攻撃を防御することに専念している。
 しかし、その事を差し引いても、殺女が大神を圧倒していた。神威(改)の性能が神武を凌駕する上、降魔・殺女の妖力は黄昏の三騎士を大きく上回っている。斬撃を全て防いでいるのも大神の腕あればこそであり、それに伴う妖力の衝撃波は神武の耐久力を確実に削り取っていた。

(このままじゃ大神さんが…)

 さくらは迷った。大神は手を出さないでくれと言った。あやめを説得するから見ていてくれと。さくらも大神に任せるつもりだった。しかし。

「あやめさん、目を覚ませ!世界の破滅が本当に貴方の望みなのか!?」
「フフフ…そうよ。あの人に出会って私の世界は変わったの…
 血の涙は我が美酒。慟哭は快き旋律…そして絶望は我らが時を告げる鐘。
 幾億の…命の絶望と恐怖に、私は叉丹さまと共に酔いしれるのよ……
 さよなら、大神くん!」

 神武の防御力場はもう限界である。殺女はとどめとばかりに神威の太刀を振り下ろした。

 ギン!

 どうっっ

「さくらくん!」

 だがその瞬間、さくらが大神の前に踊り込んでいた!破邪の力が顕現していない状態のさくらの霊力では、降魔・殺女の妖力を正面から受け止めることは不可能である。一撃で吹き飛ばされ、煙を上げるさくらの神武。

「さくらくん!」

 神威に牽制の一太刀を打込み、素早く間合いから離れさくら機に機体を寄せる大神。だが、殺女は何故か追ってこなかった。

「人間とは、時々こんな妙なことをする。以前の私なら、あるいは同じ事をしたかもしれない」

 独白する降魔・殺女。しかしこの時、彼女の口調はあやめのものに近かった。

「さくらくん、しっかりしろ」
「大神さん…勝って、ね。きっと、勝って…ね」

 地に倒れ、息も苦しげに、それでもさくらの口からは大神を励ます言葉しか出てこなかった。大神の勝利を、大神のことだけを思っていた。
 突如、大神の体から激しい光が吹き出す!霊子機関からではなく、大神の全身から直接放たれる光。あまりの高密度に可視光となった霊光の奔流。光は大神の神武を包み、一部が分かれてさくらの神武を包み込んだ。
 癒される感じ。いつもアイリスの力によってもたらされる癒しとは異質な、やさしく傷を治していく癒しではなく、治癒の力そのものを注ぎ込むような、力そのものを分け与えるような力強い波動をさくらは感じた。自分の中に流れ込んでくる大神を感じた。

「これは!」

 驚愕の声を上げる降魔・殺女。大神の神武はそれまでと桁違いの力感を放っている。殺女ですら圧倒される、叉丹からすら感じたことの無い威圧感。

「わかったよ、さくらくん」

 穏やかな口調で大神は語り掛ける。さくらに、そして殺女に、あやめに。

「あやめさん、俺はね、何を引き換えにしてもあなたといた日々に戻りたいと思っていた。あなたがいて、皆がいる。あの日々を取り戻す為なら全てを犠牲にしてもいいとすら思っていた」

 告白の言葉、しかしそこには情熱ではなく、寂しさが込められていた。

「でも、さくらくんが、そしてあなたが教えてくれた。決して負けられない時がある。負けてはならない時があると。さくらくん、俺はもう迷わない。俺は勝つ。あやめさん…あなたを倒す!」

 決別と闘いの宣告。同時に、大神の機体は神威に躍りかかった!

「狼虎滅却・無双天威!!」

 天空と大地を繋ぎ閃光が疾る。自らも天空に舞い上がり、天地を貫く力を一つに束ね、宙を翔け降りる勢いのままに叩き付ける。天帝の下す裁きの鉄槌にも似た、斬神斬魔の一撃。
 その一撃は、大神自身にとってもかつて無い威力を秘めていた。なんとか爆発四散は耐えたものの、殺女の機体は各所から放電し、煙を吹き出している。

「やるわね、私の見込んだ通りだわ。でもねぇ…死ねぇ!」

 あるいは、大神の動揺を誘うつもりだったのかもしれない。昔を懐かしむように話し掛けた後、一転してむき出しの殺意と共に斬りかかる殺女。しかし、一瞬早く神武の双刀が神威の太刀を跳ね上げ、胴を薙いだ。

 シュー

 蒸気を吹き上げ神威がその動作を停止する。神武と同構造を持つ神威は蒸気室を切断されたことで機体動力を失ってしまったのだ。無双天威で防御力場を完全に破壊された機体は、いかに堅固な装甲をもってしても神武の、いや、大神の斬撃に耐えることは出来なかったのである。

「やるわね…さあ、せめてあなた自身の手で、私に止めをお刺しなさい」

 動けない神威の中、殺女が観念したように大神に告げる。しかし。

「さくらくん、行くぞ。邪霊砲はおそらくこの通路の向こうだ」

 大神は殺女を完全に無視して神武を進ませる。

「お待ちなさい!私は叉丹様の最も忠実な部下。命ある限り、何度でもあなたたちの前に立ちはだかるわ。情けを掛けたら後悔することになるわよ!!」
「あやめさん。あなたが大神さんの敵となるなら、私は何度でも大神さんを守る盾となります。そして、私は決して後悔したりしません」

 あやめの叫びに応えたのはさくらだった。そこには、不思議と何の気負いも無かった。そしてさくらは大神の後を追う。

 神威から抜け出た殺女は、神武の後ろ姿を見ながらあやめの口調で呟く。

「おかしな子、おかしな子達。あなたたちのあやめはもういないというのに…」




その6



 東京湾上空でも激戦が続いている。
 降魔の大軍は今やそのほとんどが御嵩に群がっていた。想像以上の反動で御嵩最大の武器である霊子砲は使用不能になっている。しかし、霊子核機関の助けを借りた感応弾や霊子爆雷は襲い来る降魔を次々と撃ち落としていた。

「左舷速射砲、炎上!」
「第二連鎖砲使用不能!」

 それでも、二千を超える降魔の襲撃を全て撃ち落とすことは出来ない。徐々にその牙を削ぎ落とされていく御嵩。

(うぬぅぅぅ)

 内心で歯ぎしりする米田。しかし弱気を見せることは出来ない。指揮官の弱気な態度は即座に部下へと伝播するもの。そして霊子兵器を用いた戦いでは弱気は即、戦力の低下につながり敗北へと直結する。霊子核機関自体は一度起動すれば自律運転を続ける。しかし、霊子兵器は霊子機関の創り出す人の意志が宿った霊力場が必要なのだ。

「この程度でこの御嵩は落ちはせん!こうなれば降魔どもと根競べだ!全弾撃ち尽くすつもりで降魔どもを歓迎してやれ!!」

 不敵な台詞。自信に溢れた態度。それもまた指揮官の役目であると米田はよく知っていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ゴゴォォォォ

 遂に聖魔城中心部へと足を踏み入れる純白の神武。大神は確かに見た。何処か生き物のような印象を見る者に与える毒々しい色をした巨大な大砲を。そしてその前に立つ侍風のまだ若いと言って差し支えの無い外見の男。時代錯誤を除けばごく普通の姿。だが、その男は三騎士より、降魔・殺女より人間からかけ離れていた。

「フハハハハハ…よくここまで辿り着いたな、大神一郎」
「葵、叉丹!魔神器は返してもらうぞ!!」

 全ての戦いを仕組んだ者、人類の滅びを望む者。真の敵、葵叉丹。

「フフフフフ…今更何をしようというのだ、大神一郎!?見るがいい、この邪霊砲の、力に溢れた姿を!間もなく世界は魔界と変わる。貴様らの命も戦いも、全てが闇に呑まれるのだ!!」
「葵叉丹、お前が人間を滅ぼすというのなら、俺は人間の一人としてお前を倒す!!」

 正面からぶつかり合う霊気と妖気。その相克に聖魔城が震えている。

「ほう、お前一人で何が出来るというのだ?」
「俺は一人ではない!俺には共に戦う仲間がいる。信頼につながれた全ての力を一つにして、お前を滅ぼす!」
「フン、仲間とはそこにいる小娘のことか?」

 殊更に嘲笑してみせる叉丹。

「かつての仲間の屍を乗り越えてここへとやって来た身で『仲間』を口にするとは笑わせる」

 悪意に満ちたその言葉に、咄嗟に反論しようとするさくら。大神はあやめを殺してなどいないと。
 しかし、純白の神武は大刀を握る右手をあげてさくらを制する。

「覚悟するがいい、葵叉丹!」

 大神はそれ以上問答しようとはしなかった。月の出にはまだ間があるとは言え、降魔の大軍を相手にしている御嵩や翔鯨丸のこともある。出来る限り早く叉丹を倒さなければならない。臨戦態勢に入る大神。

「大神一郎、お前は何の為に戦うというのだ。憎悪と殺戮の歴史を繰り返し、大地を汚し続ける人間の為か?罪深き人間どもには、魔界の住人と成り果てることこそ相応しいのだ!!」

 常に冷笑的な態度を崩さなかった叉丹が、初めて感情らしきものを見せる。魔の頭領たる葵叉丹に心があるなら、その本心の片鱗を。

「人間が人間としてあり続ける為に戦うことに、それ以上の理由など必要ない!!」

 そして大神の口からも激情が迸る。指揮官として自分の心を冷静に制御し続けてきた大神の、若く、熱き魂。

「よかろう!!では人間どもを滅ぼす前に、まず貴様を葬ってやろう!!」

 邪霊砲の砲座から飛び降りる叉丹。その足元には魔霊甲冑・神威が姿を現していた。

「見よ!これこそ我が神機!!神の脅威…神威!!」

 神威の機体から膨大な妖気が吹き出す。神武の霊力場と衝突した妖気が物理的な火花を散らした!あまりの量、あまりの密度に半ば物質化した霊気と妖気のぶつかり合いの中、純白の神武が突撃する!

「闘っ!」
「死ねえぇ!」

 昨春、桜舞う上野公園で初めて激突した大神と叉丹。その戦いが聖魔城で再現される。
 神威の巨大な太刀による斬撃。出力と質量差に押される神武。しかし押されたと見えたのは大神の技、双刀をもって斬撃をいなし、その側面に回り込む。

「神鳴る剣よ、天威を示せ!」

 いきなり奥義を繰り出す大神。高みへと舞い上がり、天地を貫くほどの巨大な力を束ねて翔け降りる勢いのまま叩き付ける、天帝の下す裁きの鉄槌にも似た斬神斬魔の一撃!

「魔神器よ!我を守れぇ!!」
「狼虎滅却・無双天威!!」

 激突する機体の間に目を灼く閃光が爆発する!
 さくらは我が目を疑った。
 純白の神武が光に吹き飛ばされながらも空中で姿勢を立て直して着地する。すり鉢状に抉れた聖魔城の床の上には、神威が無傷で立っていた!

(そんな!無双天威が通用しないなんて!?)

 信じられない。生身の斬撃でシルスウス鋼を斬り裂くほどの、今迄何ものにも防がれたことの無い、そして防がれることなどある筈が無いと思っていた無双天威が跳ね返された!?

(ううん、大神さんの無双天威が効いていない筈はない!平気に見えるのは見せ掛けだけよ!今が絶好の勝機!!)

「邪悪を吹き祓う神の息吹よ、我が刃に宿り給え!」

 薄紅の神武の周りを霊気の嵐が駆け巡る。さくらは衝撃に麻痺しかけた心を奮い立たせ、叉丹に向けて魔を切り裂く千刃の嵐を放つ。

「破邪剣征・百花繚乱!!」
「魔神器よぉ!!」

 霊気の嵐が神威を直撃する!だが…神威は傷一つ負っていなかった!!

「そんな…!?」

 ゆっくりと、余裕に溢れた足取りで歩み寄ってくる魔霊甲冑・神威。

「我に魔神器あるを忘れたか!所詮人の力では、我は倒せぬわ!!」

 傲然と叫ぶ叉丹。仁王立ちになる神威。高まる妖力。
 それに対して。さくらの隣に歩み寄ってきた大神はとんでもないことを言い出した。

「さくらくん、君の全てを俺にくれ」
「大神さん、何を!?」

 たった一言で混乱の極に達するさくら。戦いの場でなんと不謹慎な。大神は乱心したのだろうか。

「そして俺の全てを受け容れてくれ。単に力だけでは魔神器を凌駕することはできない。二人の全てを一つにして奴に叩き付けるんだ!」

 いや、大神はいたって真剣であった。己の全てを戦いへ、勝利へつぎ込む大神の気迫は、独り善がりな勘違いに対する羞恥を感じる暇すら与えずにさくらを呑み込んでいく。

「はいっ!大神さん、私の全てをあなたに!!」

 今受けたばかりの衝撃はさくらの心から一瞬で拭い去られた。無条件の、限りない信頼だけがさくらの心を満たした。

(そして私を導いて下さい!)

「心中の相談は済んだようだな!」

 叉丹が吠え、神威が両腕を天に差し伸べる。
 二体の神武が三本の刃を交差させる。

「終わりにしてやる」
「瞳に映る輝く星は」

 そして叉丹と大神が同時に詠唱を始める。叉丹の唱えるは魔の呪文。大神が唱えるのは…二人が一つの願いを抱いた、あの夜の会話。二人の願いが込められた言霊。

「暗き闇より来れ」
「皆の明日を導く光」

 さくらが大神の詠唱に続く。

「地獄よりの御使いよっ!」
「今、その輝きを大いなる力に変えて!」

 大神とさくらが声を合わせる。

「全てを無に還せぇ!!」
「破邪斉清・桜花乱舞!!」

 魔神器によって増幅された叉丹の妖力と、相乗一体となった二人の霊力が正面からぶつかり合う。宙空に描かれた逆五芒星の魔法陣から妖気の固まりが流星となって降り注ぐ。だが、二人から広がる光のドームが魔の流星を全て消し去っていく!
 一切を斉しく清める霊気の乱舞。一切を斉しくするとは全てを無にするのと同じ。それは魔の気を消滅させる力。破邪の光。それはまさしく、さくらの父一馬を死に至らしめた、術者の命を代償として魔性を封じる残酷な法術の光。
 光は神威を粉砕し、叉丹を床に叩き付け、そして尚も広がっていった。聖魔城に残る全ての下級降魔を消し去り、仮初めの命を与えられた三体の上級降魔と不動の名を与えられた殺戮機械もその光に呑まれ崩れ落ちていく。光が消え去った時、そこには静寂だけが残されているかのようだった。
 さくらはぼんやりと目を開いた。夢から醒めていくような感覚。そして自分の隣に立つ純白の機体と、床に倒れた叉丹の姿を認めた。

「大神さん!!」

 歓喜の叫びで世界に音が戻る。さくらが大神を呼ぶ声。そう、さくらは宿命に屈しはしなかったのだ。破邪の呪法はさくらの命を奪わなかった。さくらと一馬の違い、同じ破邪の血を引きながら呪法の犠牲となった人々との違い。それは、彼女が一人ではなかったということ。さくらには、彼女を守り支える力強い腕があった。彼女にとって誰よりも力強い、大神の存在が。

「大神さん、大丈夫ですか!?」

 二人の力は見事魔神器を手にした叉丹の妖力を打ち破った。しかし、大神もさすがに無傷とはいかなかった。大神の神武は、背面の霊子機関から火花を散らし、接合部のあちこちから蒸気を吹き出している。黄昏の三騎士、降魔・殺女、そして叉丹と魔神器、其々の闘いで三度に渡り設計限界以上の霊力を注ぎ込まれ、霊子機関が過負荷に耐え切れなくなったのだ。それほどの力を受けては、いかにシルスウス鋼の機体といえど耐えられない。その圧力で機体の各所に歪みが生じてしまっている。これ以上の作戦行動は無理だろう。
 ハッチが軋みを上げて開く。機体と同じ純白の戦闘服を着た大神が聖魔城の床に降り立つ。その両手には修行より持ちかえった二振りの上代様式の大刀が握られていた。刃がついていない、それにも拘わらず恐ろしく鋭利な印象を与える不思議な輝きを発する片刃直刀。大神は薄紅の神武へ振り向き頷いてみせた。そしてそのまま邪霊砲へと慎重な足取りで歩き出す。

「大神さん、生身では危険です!邪霊砲は私が破壊します」

 さくらが大神の前へと機体を進めようとしたその時。

「この、私が…お前達如きに敗れるなど…認めん、認めんぞぉ!」

 地に伏していた叉丹がよろめきながらも立ち上がった。

「魔神器はいまだ我が手にあり。大神一郎、貴様だけでも道連れにしてくれるわぁ!!」

 断末魔の妖力が魔神器に注ぎ込まれるのがわかる。
 高まる魔の力を感知したさくらは機体を大神の前に割り込ませようとした。だがさくらの神武もまた少なからぬ損傷を被っており、とても間に合わない。

「破邪剣征」

 百花繚乱で叉丹を葬るにも、霊気を溜める時間が足りない。
 そして次の瞬間、叉丹の手の中で神武をも破壊するに足るほどの妖力弾が練り上げられ、身を守る鎧を持たぬ大神に向けて撃ち出された!

(駄目、間に合わない!)

 心の中で悲鳴を上げるさくら。目を逸らすことすら出来ない。
 その刹那、目の前を黒い影が横切った。影は大神の前に立ちはだかり、大神を守る盾となる!

「百花繚乱っ!!」

 さくらの必殺技が放たれた。あらゆる邪悪を巻き込み切り裂きながらどこまでも吹き抜ける清なる旋嵐は狙い過たず叉丹に襲い掛かり、その身を邪霊砲へと叩き付ける。崩れ落ちる叉丹。床に転がる魔神器。その勢いに、桜花乱舞で生じた邪霊砲の亀裂が拡大する。

 …………

 その身を以って妖力弾から大神を守ったのは、漆黒の衣、黒い翼…降魔・殺女であった。

「あやめさん!」

 時が、その歩みを緩めたかのように、全てがゆっくりと認識される。
 立ち尽くす殺女に駆け寄る大神。殺女は糸が切れた操り人形の様に、力無く床に崩れ落ちていく。

「これは!?」

 降魔の黒衣が剥がれ落ちる。漆黒の羽が塵へと還っていく。床に倒れた降魔・殺女は、藤枝あやめの姿に変じていた!
 大神の後ろで息を呑む複数の気配。そう、三騎士の消滅と同時に全速で駆けてきたすみれ達が漸く追着いたのだ。

「あやめさん…」

 それは誰の声であっただろうか。いや、誰もが同じ呟きを心の中で発していただろう。悪夢の終焉。哀しい夢から目覚めた時の感覚。だが、もう一つの悲しい出来事が用意されていることも、誰の目にも明らかだった。
 大神があやめを抱き起こす。

「あやめさん…」
「大神君…」

 紛れも無く、あやめの声、あやめの表情、あやめの気配。

「何故俺を庇ってくれたんですか…どうして俺を庇ったりしたんです!」
「大神君…私は貴方のおかげで人の心を取り戻すことが出来た…貴方達のおかげで降魔の私に打ち克つことが出来た…だからよ…」

 全てを斉しく清める光、それは人の内に巣食う人外の魔性にも力を及ぼす。完全に魔へと堕ちていれば魔の者として滅ぶしかない。しかし、人の心を残していたなら…その希有の実例がここにある。

「だから俺の盾になったというのですか!そんなつもりでは、無かった…」

 唇を噛み締め、手を震わせる大神。そんな大神の、心の痛みを和らげるようにあやめは優しく笑った。

「恩に感じたとかいうのではないのよ。あの時はまだ、私は半ば以上、降魔・殺女だったのだから…何も考えていなかったわ。人ならば当然のことでしょう。大切な仲間を守る為に身を投げ出すことなんて…」

 あやめの目が光を失っていく。

「あやめさん、しっかりして下さい。俺は約束したんだ、必ず貴方を連れて帰ると!」
「ありがとう、大神君…そして、ごめんなさい。私がもっとしっかり自分を持っていれば、こんなに貴方達を苦しめずに済んだ…の…に…」
「あやめさんっ!!」

 ゆっくりと目を閉じるあやめ。降魔として大神と戦い、そして今大神の手の中で、人として散っていった。最後は帝国華撃團の仲間として…




その7



「三番から七番砲塔、全滅しました!」
「霊子爆雷、残弾ゼロ!」
「降魔、残数概そ五百!」
「霊子核機関、出力低下!」

(これまでか……)

 御嵩をもってしても戦況を覆すことは出来なかった。しかし、米田の心はむしろさばさばしていた。軍人としてできる限りのことをやれたのだ。悔いが無いといえば嘘になる。だがこれ以上は望んでも仕方が無いことだと納得していた。

(あとは…霊子核機関を暴走させて降魔どもを道連れにしてやる)

 一人降魔と刺し違える覚悟を決めて総員に退艦を命じようとしたその時。

「何、あの光は!?」

 誰からとも無く声が上がる。驚愕の叫び。
 米田も見た。聖魔城を覆う光のドーム。神聖にして厳粛なる輝き。同時に空気が変わったのが体感できた。聖魔城から放射されていた魔の波動が途絶えたのが感じられる。光が納まった後も、聖魔城は沈黙したままだった。

(あれは……まさか!?)

 米田はその光に憶えがあった。六年前、絶望の中で見た光。心に傷痕を残した光。そんな筈はない。大神がついていながら、さくらに己が身を犠牲にする破邪の力を使わせたりする筈が無い!

「長官!!」

 悲鳴にも似た報告が米田を現実に引き戻す。

「降魔が…墜落していきます!」
「何ぃ!?」

 嘘ではなかった。御嵩の周りを自在に飛び回っていた巨大降魔の翼がその巨体を支えきれなくなっていた。はばたく力が目に見えて弱くなっている。空中に何とか留まろうともがきながら、次々と海面に落ちていく。

「聖魔城からの魔力の供給が途絶えたのだ!この機を逃すな!」

 最後の力を振り絞る様叱咤する米田。

「長官、霊子核機関出力危険領域まで低下。高度を維持できません!」

 満身創痍は御嵩も同じ。だが米田は慌てなかった。

「よし、御嵩は高度を緩やかに下げつつ降魔に対して残存砲塔で一斉射撃。東京湾に着水する」

 文字通り最後の一発まで撃ち尽くして、思いがけなく強い衝撃と共に東京湾海面へ着水する御嵩。
 その周りでは、五星艦体が、機械化師団が、陰陽陣が次々と降魔を葬っている。あの光は聖魔城からの魔力を遮断しただけでなく、降魔の力の源泉となっていた何かまでも撃破したらしい。奇跡的な戦況の逆転。だが米田の心に喜びはなかった。無表情の仮面の下を苦悩が満たしていた。一馬に続いてさくらまで犠牲にしてしまったのか…それは思っていた以上の衝撃、そして悔恨となって米田を苛んでいた。その時、通信士官からの報告。

「長官、真宮寺隊員から入電です!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 あやめの体を静かに横たえ、大神は立ち上がった。歩を進め魔神器を拾い上げると、薄紅の神武へと振り返る。

「さくらくん、長官にご報告してくれ。魔神器奪回に成功、これより邪霊砲を破壊すると」

 何故自分が指名されたのかわからぬまま、さくらは御嵩への通信回線を開いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(何ぃ!?)

 さくらからの通信?それでは、あれは破邪の力ではなかったのか?内心の混乱を露程も見せず、米田は事務的に命じる。

「通信回線開け」

 スピーカーから流れてきたのは確かにさくらの声。

『長官、さくらです。隊長機重度損傷の為大神さんに代わりご報告します。花組は魔神器奪回に成功、これより邪霊砲を破壊します』

 しんと静まり返る艦橋。

「さくら、無事か!?」
『花組、死傷者ありません。全員健在です』

 米田の質問を全員に対するものと勘違いして答えるさくら。しかし、死傷者無しと言いながらその声には隠しきれない哀しみの色がある。米田の脳裏に広がる疑念。だが、他の者にはそのような余裕はなかった。
 爆発する歓喜の声。勝ったのだ!花組は、大神は再び奇跡を起こしたのだ!波に揺れる御嵩の内部を歓声が満たす。
 短い間……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 大神は魔神器を手に持ち、己が神武へと立ち戻るとそれを操縦席へ無造作に放り込んだ。そして再び邪霊砲へと向かう。だが、唐突にその足が止まった。邪霊砲を、いや、その下に倒れる叉丹を鋭く睨み付ける。

「……」

 その場にいる全員が異変を感じ取っていた。不気味な振動が足元から伝わってくる。妖気というも生易しい、禍々しい気が湧き上がっていた。もとより邪霊砲はその内にあらゆる種類の邪念を凝縮し貯えていた。さすがは古の魔の神器、一切を清める破邪の光に耐え、その内に抱える邪念を維持したのだ。しかし、今湧き上がるこの気配は単なる正邪を超えた、もしそのようなものがあるなら、原初の混沌より直接分かれた純粋なる負の想念を思わせるものだ。無論、あらゆる想念は生ある者から産み出されるもの。エネルギー自体に正邪はない。それは純粋に精製された邪悪とでも呼べるものだった。純粋なる邪悪の念は邪霊砲より、闇よりも尚昏い黒の触手を伸ばし、動きを止めた叉丹の肉体へと流れ込んでいく。

「少尉っ、おどきになって!」

 あまりの禍々しさに耐え切れず、すみれが悲鳴交じりに叫んだ。

「神崎風塵流、鳳凰の舞!!」

 浄化の炎を纏った真紅の霊鳥を叉丹に向けて放つ。その霊圧に邪霊砲の損傷が広がる。だが…黒い触手はまるでダメージを受けた様子がなかった!むしろ拡大した亀裂からより多くの触手が這い出し、叉丹の肉体に絡み付いていく。
 不意に、邪念の流れが急激に加速した。叉丹の体が念を受け容れ切れずはじける!闇が渦巻きその血と肉塊の中から人型の影が立ち上がった。神武より尚大きい。およそ人の五倍の背丈。闇よりも尚昏い漆黒の、蝙蝠の翼。頭部には捻れた二本の角。大神達の見る前で影は確かな実体となる。

「悪魔…?」

 マリアが震える声で呟く。それはまさにキリスト教で伝えられる悪魔の姿だった。

『我、甦れり!我は闇、我は原初の罪、永久なる不滅の王にして古の蛇。全能なる父に背きし原始の反逆者!我こそは地獄の主にして神の敵対者!我が名は、サタン!!』

 それは音声ではなかった。意識に直接響いてくる声だった。

「そんな…悪魔王サタンが葵叉丹の正体だったなんて…主よ…」

 マリアの口から慄きが漏れる。だが、マリアを臆病と謗ることはできまい。キリスト教徒にとって、悪魔王サタンは最大の禁忌。そしてその絶望的なまでに強大な妖気を前にして、ほかの隊員達は声を発することすら出来ないのだから。

『裁きの時は来た!天よ泣け、地よ震えよ…今日こそは我が望みの成就する日。世界を汚せし人間どもよ、お前達の罪と共に世界は無に還るのだ!!』

 響き渡る破滅の審判。サタンが天使より悪魔へ堕ちたのは人間への憎悪の故。地獄の主となった時から人間の破滅こそが彼の望みであったということか。
 世界に雷鳴が轟く。地が震え、海が荒れ狂う。魔の力が世界を充たしていく。

「このまま世界は滅んでしまうの…?大神さんっ!このままじゃ、世界が」
「望みを捨てるな!そして、戦う意志を棄てるな!!さくらくん、絶望した時が本当の終わりだぞ!」

 この圧倒的な力を前にして、なお仲間を励まし、戦う意志を見せる大神。彼は絶望するということが無いのか。しかし、この魔王を前にどうしようというのか。
 その時、全員の背後に光が生まれた。その光は魔に対抗する聖なる波動を放っている。振り向いた皆の目に映ったのは、光り輝くあやめの体だった。
 あやめの体が光の粒子になる。光は白い人型となり、その背に大きな翼を広げた。白い衣、白い翼、そして頭上に浮かぶ黄金の輪。光は天使の姿で実体化した!

『その通りです。望みを棄ててはなりません』
「貴方は…」
『私は大天使ミカエル』

 その声もまた心に直接響く声無き声。

「あやめさんが大天使ミカエル!?」

 驚きの声。すみれだろうか。

『この者の魂は私をこの世に導く扉の一つ。サタンがこの世に現れた時、私もまたこの世に降り立つ為に』

 それを聞いて何故か鋭く天使を睨み付ける大神。

『あれは、サタンそのものが甦った訳ではありません。葵叉丹の怨念を核に邪念が寄り集まってサタンに仮の肉体を与えているだけなのです。核となる怨念を砕けばサタンはこの世界に介入する足掛かりを失います』
『おのれミカエル、また我の邪魔をしようというのか!』
『サタン…貴方にこれ以上罪を重ねさせる訳には参りません。此度こそ、共に父の御許に帰りましょう』
『黙れぇ!目障りな虫けら共々、此度こそ滅ぼしてくれるわっ!!』

 サタンの怒声には直接応えず、華撃團へ超越者の眼差しを投げ掛けるミカエル。

『華撃團の皆さん、勇気をもって戦うのです。あなたがたには父の祝福が』
「ご忠告、感謝する。だが、これ以上の手出しは無用!」

 鋭く、何故か怒りすら感じさせる口調で大神はミカエルの言葉を断ち切った。そして二本の剣を前に掲げ悪魔王に向かって恐れる色無く構えをとる! 眼前に交差させた剣の生み出す澄んだ刃鳴りの響きと共に大神は叫んだ。彼に従う少女達へと。

「ここは我々の世界、この世に生を受けた全ての命あるものの世界だ。
 生あるものの義務、それは生き抜くということ。己が命を守り、仲間の命を守る、それこそが命を与えられたものに課せられた最も尊い義務。
 それ故に異界のものがこの世界の命を蹂躪することを許してはならない。人類を滅ぼさんとするものあらば、人間として戦い抜き、勝利しなければならない。例えそれが神の意志であろうとも!!
 皆、もう一度、俺に力を貸してくれ!」

 剣が発光する。それに呼応して乗る者の無い白い神武が唸りを上げる! 霊子機関が作動し、大神に向けて光が放たれる。いや、その光は神武から大神へというより、大神と神武を繋ぐように走った。剣を交差させたまま頭上に掲げる。剣の先に霊子力場が形成される。生身の大神の頭上に霊子機関が作り出すものと同質の、そして霊子甲冑が生み出すものよりも遥かに大容量の力場が形成される。鵬が翼を開くが如く大神が左右に手を伸ばす。それと同時に霊子力場もまた翼を広げるかのごとく拡大する。真っ直ぐ天へ向かって屹立した二本の剣に支えられるかの如く宙に浮かぶ純白の霊子力場。
 そして大神の体もまた純白の光を纏う。それは無双天威の輝きと同質のものだった。不破の力場、絶対の結界。

「神は人を裁くものにあらず!より善き生へ導くものなり!!
 今こそ、皆の力をォ!!」

 大神の咆哮と共に、さくらの、すみれの、マリアの、紅蘭の、カンナの、アイリスの、全員の神武が眩い光に包まれる。

「帝国華撃團、ここに見参!!!」

 大神の叫びに寸分遅れず、全員が唱和する。全員の意識が完全に大神に同調していた。否、大神の意識が完全に全員の意識を繋ぎ合わせていた。薄紅の、紫の、銀色の、緑の、真紅の、金色の霊光が大神めがけて一斉に放たれる!!
 大神の体が光に呑み込まれる。生身の人間に耐えられるはずのない力の奔流。だが、無双天威の絶対結界に守られた大神の肉体は寸毫も傷つくことはない。大神を取り巻く光は、その手に持つ左右の剣に収斂していく。
 剣はさながら光の柱となった。光は上下に伸び、大神の背丈を超えるまさに光の柱となる。左右の光柱の間で、大神が詠唱を始める。

「我が火足(ひたり)に神漏岐(かむろぎ)のフツノミカゲ、我が水極(みぎ)に神漏美(かむろみ)のフツノミカゲ」

 左右の手を打ち合わせ、合掌する。しかし、剣は地に落ちず、光の柱は依然垂直に屹立している。大神は合わせた両手を真っ直ぐ前へ差し伸べた。

「真中に立ちたる我が手に宿れフツノミタマ。剣の神霊、フツヌシ命の力よ!」

 大神の手の中に輝く棒が現れる。輝きは見る間に質感を増し、一振の長大な剣となった。少女達はその厳粛なる光景に、言葉無くただ目を見張る。
 それは、実に長大な剣だった。刃渡り四尺以上。柄(つか)は普通の太刀の二倍相当。鍔はない。代わりに柄の丁度中央から八本の短い棒が放射状に突き出している。長さ一握り余り。その形状、その大きさは鍔というより柄に近い。正八方位に配置された八本の柄で上下二本に分かたれた柄を持つ長剣。十の柄を持つ剣。トツカノツルギ、それはまさしく天津神の佩剣、十拳剣(とつかのつるぎ)の姿であった。そして大神が手にしているこの剣こそ、アメノムラクモと並び称される日の本随一の神剣、フツノミタマである!

『小癪な虫けらがっ!消え失せろぉ!!』

 その大いなる波動に初めて、悪魔王の注意が大神へと向いた。取るに足らぬ踏みにじるだけの存在から自分に敵対するものへと。悪魔王より大神に向けて殺戮の光、破壊の魔力が放たれる。しかし、大神の左右に立つ光の柱が大神の周りを巡りこれを尽く防ぎ止める!
 巨大な力が大神に宿っていくのがわかる。清冽な力、魔の対極に位置する力。それはこの上なく力強い姿。少女達に再び勝利の希望を与える勇姿。しかしさくらにとって、その光景は不安を誘うものでもあった。さくらだけが覚えた懸念。大神が何か別のものに変わってしまうのではないかという不安。だが、さくらの懸念は大神に届かない。今の大神にあるのは、邪悪を討ち倒す、この一念のみ。そしてさくらには不安を抱き続けることができなかった。
 神剣を天に掲げ、大神は更なる力を呼ぶ。彼が属する神の力。魔を滅ぼす武神の力を。

「タケミカヅチ命よ!天空の将神、蒼海の守護者、大地を鎮める者。剣と雷(いかづち)の王よ!我に力を貸し給え!!」

 聖魔城の天井を突き破り、轟音と共に天より雷光が降り来る。先程まで暗雲の下荒れ狂っていた凶々しい光ではない。天の彼方より混沌の闇を切り裂いて届く峻厳なる輝き。天と剣をつなぐ雷光はさながら闇を貫く光の剣。天の頂に届く光の全てが大神の掲げる剣に宿り、その輝きを一層眩いものとした。

「大地に、正義を!!!」

 大神が吠える。
 カンナが、すみれが、マリアが、アイリスが、紅蘭が、そしてさくらが叫ぶ。大神の、正義を求める魂の叫びが彼女達の心の全てを彼の色に染め上げる。全ての祈りが大神の誓いと一つになり、正義を貫く、その強き意志の元、力と化して放たれる!

「正義降臨!!!」

 全員の叫びと共に大神が神剣を振り下ろす。清冽なる輝きが邪念の力場と真っ向から衝突し、火花を散らす。だがついに拮抗が破れ、神剣より放たれた光の刃が悪魔王の体を斬り伏せる!

『ぐわあぁぁぁぁぁぁ』

 世界を震撼させる断末魔がいつ果てるともなく響き渡る。悪魔王の肉体は闇よりも昏い黒い塊となりやがて朝日の前の霧の如く消え去っていった。実体化する核を失い、仮初めの肉体を維持できなくなったのだ。それとともに邪霊砲によって集められた邪念もまた、世界へと散っていった。

 静寂があたりを支配する。剣を振り下ろした姿勢から立ち上がった大神は、両手に神剣を奉げ持ち恭しく一礼する。その手の中でフツノミタマは再び光へと還り、そしてあるべきところへと帰っていく。

 カアァァン

 金属が床を叩く音。光の柱と化していた二振りの剣が元の姿を取り戻し床に落ちる音。同時に大神はゆっくり崩れ落ちていく。

「大神さん!?」
「少尉!?」
「隊長!?」
「大神はん!?」
「隊長っ!?」
「お兄ちゃん!?」

 花組全員が神武を飛び出し、膝をついた大神の許へ駆け寄った。

「大神さん、大丈夫ですか!?大神さんっ!!」

 さくらが大神を抱き起こす。心配そうにそれを見詰めるすみれ、そして他の面々。

「ああ、さくらくん…心配無い、大丈夫だ」

 蒼ざめた顔、弱々しい笑顔。だが、それでも大神は、膝を震わせながらも立ち上がる。

「無理しないで下さいっ、大神さん!」
「いや、まだ全てが終わった訳じゃない」

 取り縋るさくらをそのままに大神は床に落ちた剣の方へ歩き出す。

「大神さん、私が拾います!」

 憔悴した姿を黙って見ていられず、さくらは大神の意図を先取りする。だが大神が何をしようとしているのか、さくらにはわからなかった。

「ありがとう、さくらくん」

 さくらの手から剣を受け取り、両の手にぶら下げてミカエルへと歩き出す。よろめく足取りに思わず手を出して体を支えようとするさくら。だが、疲労の極に達しているさくらの力では大神の体重を支えきれない。思わずよろめくその時、反対側から紫色の袖に包まれた腕が伸びてきた。

「すみれさん…」
「さくらさん、しっかりなさいな」

 しかし、すみれもさくら同様疲労困憊しているはずである。それに元々の筋力はさくらの方が上だ。だが、その無茶をマリアもカンナも止めようとはしなかった。手を出そうともしなかった。

「さくらくん、すみれくん、大丈夫だ。手を放してくれ」
「はい…」
「わかりましたわ…」

 力無い口調に込められた抗い難い力に、躊躇いながらも二人が手を放す。大神は歩を進め、真っ直ぐミカエルを睨み付けた。

「大天使、ミカエルとおっしゃいましたね。ご助力、ひとまず感謝します。しかし、助けてもらった身で非礼かとは存ずるが、私は貴方にお伺いしたいことがある」
『何でしょう』

 敵意さえ感じられる大神の口調と対照的に、ミカエルは穏やかに応えた。

「貴方は先程言われた、あやめさんの魂が、貴方の現世への扉の一つであると。あやめさんはそれを知っていたのですか」
『いえ、この者は私の存在に気付いてはいませんでした。私達は現世の人間にみだりに姿を見せてはならないことになっています』
「では、貴方はあやめさんを利用したのですね。サタンが甦った時すぐその場に現れることが出来る様、あやめさんをサタンの依代の傍らへと誘導し、行動を共にする様仕組んだのではありませんか!?」

 血を吐くような糾弾の声。答えはない。

「やはり…ふざけるな!あやめさんは、人間はお前達の道具ではないぞ!!」
『貴方のお腹立ちもわかります。しかし、全ては神の御意志です』
「神とは何だ!人を道具としか見ない存在を俺は神とは認めない。例え地獄に落ちようと俺はお前達を許さない。失せろ、ミカエル!あやめさんの中から!!」

 大神は上がらない手に無理矢理力を込めて、ミカエルに向け剣を振り上げる。息を呑む面々。信じられないことだった。特にマリアとアイリスには。神の使いに剣を振り上げるなど。クリスチャンではないすみれも、紅蘭も、カンナも、間違いなく人を超えた神聖なる存在に躊躇なく人としての怒りをぶつける大神の姿に戦慄すら感じた。

「!」

 だが、剣が振り下ろされることはなかった。さくらが大神の腕にしがみついていた。

「大神さん、もう止めて下さい!もういいじゃありませんか。もうこれ以上誰かの為に大神さんが…」

 大神にしがみつき、泣き出すさくら。それ程大神の姿は痛々しかった。もう大神に戦う力は残っていないのだ。それでも尚、自分以外の誰かの受けた理不尽な扱いに怒り、その為に戦おうとする。今はもう、それが恋愛感情から生まれた行為ではないことがさくらにはわかっていた。大神は許せないのだ。仲間を単なる道具として扱おうとするものが。仲間が道具として扱われている事実が。その為には、ボロボロになろうと戦い続ける。自分の信じる正義の為に。彼自身が人ならざるものの力の器であるが故に、ただ、道具としてのみ「人」が利用されるのを看過できない。それ故に、彼は怒りを以って戦おうとする。ただ、自分の仲間が、人が人として生きていくことが出来るという正義の為に。「生きる」ということの重みの為に。

『少女よ、いいのです。私は甘んじて其の方の剣を受けましょう。其の方の怒りは正当なものなのですから』

 思わずさくらが大神の腕を放す。しかし、同時に大神の体からも力が抜ける。剣を持つ手を下ろす。さくらは涙を拭い、大神の顔を見上げた。

「!」

 大神が泣いていた。涙は流していない。表情は平静そのものだ。激情の跡すら消え去っている。だが、確かに泣いていた。

「あやめさんの人生は、あやめさんの生は何だったんだ…」

 俯く大神。力の無い呟きが大神の口から漏れる。それは静かなる慟哭だった。
 そうした大神の様を叱る声があった。

「こらっ、男の子でしょ、しゃんとなさい!」

 聞きなれた、少し悪戯っぽい叱咤の声が大神の耳に飛び込む。見上げた視線の先にいたのは…あやめだった。

「あやめさん…」

 半ば透き通ったその姿は最早あやめがこの世のものではないことを、その残酷な事実を雄弁に物語っている。しかし、それは確かにあやめだった。

「大神君、私の為に哀しんでくれてありがとう…でも、いいのよ」
「……」
「私は最後の最後で、少しでもあなた達の役に立てたんだから…それがどんな形であろうと、誰の意志であろうと私は満足よ。だから大神君、哀しまないで。超越者の、神の依代としての宿命は同じだけど、私は貴方の様には生きられなかった。葵叉丹も同じ。神の力に翻弄されない貴方の強さが私達には足りなかっただけなのよ。誰の責任でもないわ。だから、哀しまないで」
「あやめさん…」
「さようなら。貴方に会えて、嬉しかった…」

 薄れていくあやめの姿。後には、冷たくなった亡骸だけが残されていた。



第十話附記


 暗雲晴れた空には夕焼けが広がっている。茜に染まった空にシルスウス鋼の鈍い輝きが見える。翔鯨丸が近づいているのだ。それを見た大神は己が神武へと歩み寄る。言うことを聞かない手足を無理に動かして操縦席へとよじ登り、通信機のスイッチを入れる。駆動系はほとんど沈黙していたが通信機は生きていた。

「こちら花組隊長、大神。翔鯨丸、応答願います」

 …………

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「長官!大神隊長より入電です!!」

 翔鯨丸艦橋で通信士官が大袈裟な叫び声を上げる。
 米田は翔鯨丸へと座を移していた。突然の天変地異に、着水した御嵩は荒れ狂う波に呑まれ、海の底へと沈んでしまった。乗員は間一髪で全員脱出を果たし、高波に翻弄されながらも戦場に踏みとどまっていた五星艦隊に救助された。翔鯨丸はいち早く弾薬を使い果たし戦闘空域から離脱していたが、御嵩の沈没を見て暴風の中海面すれすれ迄降下、救助活動に加わっていた。まさに全天候型飛行船の面目躍如といったところである。
 一旦は五星艦隊の戦艦に引き上げられた米田だったが、すぐに翔鯨丸へと乗り移り、状況の把握に全力を注いでいたという訳だ。それは最早「戦況」とは呼べない状態だった。末世を思わせる天変地異、そして伝説の大魔王の復活。闇を切り裂く雷光。そして全ての霊子計器を破壊した巨大な力の爆発。ある程度以上の感応力を持つ者はその衝撃に昏倒してしまっている。今や翔鯨丸は一切の霊的な目を失い、単なる装甲飛行船として主に光学的な手段を以って状況を把握しようと四苦八苦していた。何故突然天変地異が収まったのか。あの力の爆発は何だったのか。魔力の消滅は魔王の敗北を意味するものなのか。我々は……人類は生き延びたのか…?
 霊子計器の全壊で霊子甲冑の安否すらわからない中、今、大神から通信が入ったのである。

「通信回線、開け!!」

 米田ほどの老練な将でも逸る気持ちを隠せない。通信士官に怒鳴りつけるような声で命じる。命令の復唱ももどかしいげに米田はマイクを掴んだ。

「米田だ。大神、聞こえるか!?」
『大神です。任務完了。邪霊砲を破壊、及びそれに伴う障害を排除。花組は全員健在です。但し、戦死者一名』

 花組全員健在で戦死者一名?

「大神、そりゃ一体どういう意味だ!?」

 混乱をそのままマイクに叩き付ける米田。

『戦死者は藤枝副司令です』
「………」

 沈黙が電波に乗って往復する。
 沈黙を破ったのは大神だった。

『詳しくは帰投後、ご報告します。隊長機は駆動系損傷の為自力で移動できない状態です。翔鯨丸で回収をお願いしたいのですが』
「…わかった。すぐに迎えに行く。現在位置を報告しろ」
『現在位置は聖魔城中央部。天蓋が完全に吹き飛んでおりますのですぐにわかると思います。こちらからも翔鯨丸を肉視出来ておりますので。念のため、位置確認電波を発信しておきます』
「了解。すぐに向かう!」

 通信が切れても、米田はそのままマイクを握り締め、何事かをじっと噛み締めていた。だが、それも短い間のこと。顔を上げ、胸を張って米田は大音声で宣言した。

「戦闘終了!我々の勝利だ!!」

 歓声は一瞬の間を置いてから爆発した。奇跡の勝利。歓声を上げながらも、何処かまだ信じられない、実感できない、夢のような勝利。

「翔鯨丸はこれより花組の回収に向かう。目標、聖魔城中心部。巡航速度にて前進!」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 通信が切れた後、大神は操縦席に身を預けるように寄り掛かり、静かに目を閉じた。為すべき事を全て成し、運命から勝利をもぎ取った彼。しかし、その顔に満足の色はない。ただ、静かな疲労だけが漂っていた……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神さん」
「やあ、さくらくん。これからお稽古かい?」
「ええ、そうなんです。ようやく公演を再開できる目処も立ちましたし」
「皆張り切っている、という訳だね」
「はいっ!」

 にっこり笑って応えるさくらの前には、以前と変わらぬ大神がいる。いや、全く以前と同じという訳ではない。今の彼は以前より一層逞しく、頼り甲斐がある大人の男性になっていた。今では花組の隊員達だけでなく、皆が彼を頼りとしていた。あの直後から。
 決戦の後、全ての報告を終え、一切の事後処理を片付けた後も、大神は倒れたりしなかった。黒之巣会との決戦すら単なる局地戦に思える程の激戦の後、人の身には到底耐えられる筈の無い霊力を発揮した後だというのにも拘わらず。彼はいつも通りに全てを手際よく処理し、帝国華撃團内部だけでなく、全てを知る者としてあの戦いにより大損害を受けた陸海軍、近衛軍、そして帝都の行政組織の戦後処理の手助けまでこなしていた。とりわけ、御嵩発進により全壊した劇場再建に奔走する姿が印象的だった。

「………」
「…どうしたんだい、俺の顔に何かついてる?」
「あっ…!、…ごめんなさい、何でもないんです」

 大慌てで手を振り、誤魔化し笑いを浮かべるさくら。今に始まったことではないけれど、見とれていたのだと悟られることは、今でもやはり恥ずかしかった。
 あの日以来、さくらは大神のことをつい無言で見詰めてしまう癖がついていた。そして大神が変わらず大神であることを確認して心の中でそっと胸を撫で下ろすのだ。大神が、何か別のものに変わってしまうのではないかという不安を抱いたあの時から。
 彼には何も変わった所はない。神の力までも宿したことは花組と米田だけの秘密である。魔王の力すら退ける神霊力。人が受け容れきれる筈の無い巨大な力をその身に宿した大神。それでも大神は、人間以外のものに変わったりはしなかった。全てを知っている彼女達の目にも、そう、さくらだけでなく他の少女達の目にも、大神は以前のままの大神だった。だが、本当は彼女達にはわかっていた。大神は変わらなかったのではなく、完全な大神一郎になったのだと。その証拠に、あの力は一時的なものではなかった。太正十二年九月騒乱の時の様に、全てが終わった後消えてしまう、あるいは眠りに就いてしまうようなことはなかった。
 最早彼を拘束するものは何も無いのだと、少女達は直感的に理解していた。その力は決して表面からは伺えない。どんな優れた術者でも、彼の秘めた力を嗅ぎ取ることは出来ないだろう。しかし、彼がいる限り帝都が魔の手に蹂躪されることはない。そのことが、彼女達には、ただ、わかった。

「…よろしかったら、お稽古を見に来て頂けませんか?」
「そうだね、丁度一段落ついた所だ。久々に君達の舞台を見せてもらおうかな」
「ありがとうございます!みんな喜びます。……私も……」
「えっ?後の方がよく聞こえなかったんだけど」
「いっ、いいえ、なんでもありません。じゃあ、行きましょうか、大神さん」

 不得要領な顔をしている大神を促して先に立って歩くさくら。赤面した顔を見られない様に。
 大神がいつも彼女達の側にいてくれる。それだけで、そう思うだけでさくらは今日が満たされるような気がした。明日を信じることが出来るような気がしていた。
 今、一人の超人が彼女達の傍らにある。そして、一人の人間として彼女達を見守っていてくれる……




エピローグ



(平和だ…願わくばこの平和が少しでも続いて欲しい…)

 大急ぎで建て直された大帝国劇場のバルコニーから復興の槌音響く帝都を眺めながら、祈りにも似た思いを浮かべていた若者は大神一郎、あの闘いを終結させた最大の功労者、平和を取り戻した立役者と言っていい人物であった。今、彼のもとにはさまざまな申し出が来ている。生者には異例中の異例たる二階級特進、爵位の授与、統合作戦本部への転属、あるいは禁中警護部隊への編入、連合艦隊司令長官副官の任務…政府と、畏れ多いことに禁裏が大神の功に最大限報いるべく考えられる限りの名誉を与える意向を示してくる。そしてそれ以上に、おそらくは大神の力を怖れ、自分の手許で監視しようとしている。だが大神は、華撃團が秘密部隊であり自分の功績が公に出来ないこと、公に出来ない功に褒賞を与えては軍の秩序が乱れることを理由として、全ての申し出を辞退していた。彼はいまだ表向き大帝国劇場の事務員で、軍にあっては近衛軍付少尉、帝国華撃團隊長である。
 後ろから人が近づいてくる気配。彼にはもうお馴染みとなった、というより、彼の一部となった、生死を共にした仲間達。帝国華撃團、花組の隊員達の気配だ。だが、彼に最も近しい気配が欠けている。そのことに訝しさを感じた大神は、声を掛けられる前に振り向く。
 そこに並んだ少女達の顔ぶれは、やはり一人が欠けていた。大神が声を掛けるより早く、マリアが一通の手紙を差し出す。全員無言のままで。手紙を開いた大神の顔は見る見る驚愕に彩られていった。そこには…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ………
 だから私は、自分を鍛える為に旅に出ます。
 そして、もっと強くなって、必ず帰ってきます。
 大神隊長、私のわがままをお許し下さい。
 真宮寺さくら

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(大神さん、ごめんなさい。でも、私、今のままでは大神さんのお側に居られません)

 いつの頃からだろうか、気がつけばいつも大神のことばかり考えている自分を自覚するようになったのは。大神が、すみれやアイリスと楽しげに話しをしているのを見るだけで、胸が苦しくなるようになったのは。紅蘭や椿に向けられる大神の笑顔を見るだけで、切ない気持ちを抑えられなくなったのは。

(このままじゃ、私、自分の気持ちに押し潰されてしまう。自分に負けてしまう)

 もっと強くなりたい。さくらは痛切に願った。

(だって、大神さんは皆の…)

 急に周りがざわめき出した。汽車に乗りあわせた乗客達の多くが、窓の外を見て囁きあっている。

(どうしたのかしら)

 独り物思いに耽っていたさくらも、顔を上げて窓から外を見る。

(!どうして!?)

 線路と並走する道路に、蒸気バイクで列車と並んで走る大神の姿があったのだ。
 大神の目は、確かにさくらを見ていた。風の音に紛れて聞こえないが、何かをさくらに叫んでいた。さくらの視線を捕らえて手を振る大神。

(どうしよう、いったいどうしたら…)

 立ち上がり、おろおろするばかりのさくら。そして、さくらは自分でも思いも寄らぬ暴挙に出た。

 キーッッ

 さくらの手は非常停止装置の紐を力いっぱい引っ張っていた。まだ列車が止まるか止まらないかのうちに、扉に駆け寄り、開け放つ。
 バイクを降り、さくらに向かって両手を広げる大神。それを見た瞬間、さくらは何も考えられなくなった。何も考えられぬまま、大神の腕に飛び込んでいった。大神の腕は、いささかも揺るぐこと無くさくらを受け止める。そのままさくらをしっかりと抱き寄せる。
 暫し、無言で抱き合う二人。やがて、大神は激情を抑えて無理矢理声を絞り出した。

「さくらくん…君を行かせはしない」

 その声を聞いて、突如さくらは大神の腕から逃れるように激しくかぶりを振る。大神に両肩を抑えられたまま、長い髪を振り乱してさくらは泣き声交じりで叫んだ。

「駄目です!行かせて下さい!」
「何故!」

 大神の声も負けじと激しくなる。
 顔を背けたまま、さくらは憑かれたように胸のうちを紡ぎ出し始めた。

「私は浅ましい女です。大神さんは皆の隊長なのに、私は、大神さんを私だけの大神さんにしたいんです。いつも私だけを見て欲しい、いつも私だけに微笑んでいて欲しい。そんな勝手な気持ちを抑えることが…出来ないんです」

 目を伏せ、目を上げる。その目は涙に濡れて、それでも必死で泣き出すのを堪えている。

「私は大神さんにふさわしい女じゃありません!私は大神さんにふさわしくなりたくてそれで、!」

 懺悔のようにいつまでも喋りつづけるさくらの口を塞いだのは、…大神の唇だった。

(!?……)

 やがてさくらの体から力が抜ける。そっと唇を離す大神。潤んだ瞳でさくらは大神を見詰める。

「ごめんなさい…」

 再び唇を重ね合わせる二人。今度は本当のくちづけを交わす大神とさくら。
 大神はさくらをやさしく抱き寄せ、耳元で囁いた。

「俺のそばにいてくれ。君はそのままの君でいいから。君に、そばにいて欲しいんだ。さくらくん…君を行かせはしない。君が、好きだ」

 大きく見開かれたさくらの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。そして、大神の胸でいつまでも泣きじゃくるさくら。幸せの涙を、さくらは初めて知った。


――続く――
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