後日談−破邪の血脈と破邪の王−


 重厚な響きとともに汽車が停止する。客車の扉から溢れ出る人、人、人。その中に若い男女の二人連れが見られた。その二人にはどこか似通った印象があった。着ている物は男が白い海軍の礼装、女は薄紅の小袖に緋の袴、洋装と和服で共通点はない。顔形が似ている訳でもない。ただ、二人とも手に細長い布袋の包みを持っているのが共通点といえば共通点か。あとは、身に纏う清澄な雰囲気だろうか。
 若い軍人が恋人を故郷に連れて来たか、あるいは恋人の故郷を訪れたか。それ自体は別段珍しくも無い、どこででも見られる平凡な組み合わせ。しかし、その二人は外見からして平凡とは程遠かった。
 長身、引き締まった体躯。涼やかな容貌。野生の肉食獣を連想させるような躍動感を秘めたしなやかな身のこなし。純白の海軍儀礼服に身を包んだその若者は若さに似合わぬ将帥の風格すら漂わせていた。一方、彼の傍らに付き従う女性は、細身ながら生命力に満ち溢れた肢体、きびきびしたすがすがしい身ごなし、そして何より美しかった。大きな赤いリボンで纏めた艶やかな長い黒髪、黒目勝ちのくっきりした大きな目、形のよい眉、細い鼻梁、慎ましい口元。清楚な美女という形容がこの上なくふさわしい。老若を問わずすれ違う者が振り返っていくのも無理なきことと思わせる、まことに絵になる一対である。
しかし、この二人が真に非凡なのは単なる外見ではなかった。内なる輝き、内側から溢れ出してくる力が光となって二人を包んでいる。二つの光が重なり合い、交じり合って、より眩い輝きとなっている。この世の視力しか持たぬ凡人にも何かが違うと感じさせる魂の光輝だ。

「ここがさくらくんの育った町か…」

 杜の都、仙台。北都、仙台とも呼ばれている。北の都の名に恥じぬ繁栄ぶりだ。

「いい所だね。大気が澄んでいる」
「気に入って頂けました?」
「ああ、何といっても、君の故郷だからな」
「もう、大神さん、からかわないで下さい」

 大神を見上げるその頬を心持ち朱に染めて、はにかんだ笑みを浮かべるさくら。出会った頃と変わらぬ初々しさを見せるさくらに、大神もまたやさしく微笑みかけた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 さくらを引き止め、連れ戻した後。大神はさくらを決して側から離さぬ誓いを立てた。そして、決して自分の側から離れぬ事をさくらに約束させた。早い話が、婚約したのである。そして今、さくらの家族を訪ねるべく、こうして仙台に来ているという訳である。もちろん、ここに至るまでにはいろいろな騒動があった訳だが、それはまた別のお話、である。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 二人は旧市街の閑静な住宅街、旧武家屋敷が並ぶ一角に歩を進めていた。ある屋敷の前で立ち止まる二人。その屋敷は他所とどこか違っていた。特に大きい訳でもみすぼらしい訳でもなく、構えがそれほど独創的な訳でもない。では何か、と言えば、空気が澄んでいるのである。街中とは思えない。まるで深山幽谷の直中の様だ。神域の神々しさ、と言ってもいい位である。
 その一角に足を踏み入れた時から大神は気付いていた。ここがさくらの生家だという事に。駅の前で「大気」という言葉を使ったのは伊達ではない。単なる空気中の煤煙粒子濃度ではなく、霊的な意味をあわせて大神は「澄んでいる」と言ったのだ。そして、その源の一つがこの家である事に大神は気付いていた。

「ただいま戻りました」

 さくらの明るい声が響く。その声に応えて抑えた足音が近づいてくる。現れたのは上品な中年の婦人であった。
 しかし、「中年」という形容が申し訳ない気がする。確かに若さは感じないが、歳月に疲れた風は微塵も無く、上品な美しさを醸し出している。口元のあたりがさくらに似ている。

「おかえりなさい、さくらさん。ようこそ、いらっしゃいました。さくらの母、若菜でございます」

 その女性は、大神を見て外見通りの上品な挨拶を送った。大神は心中肯く。やはりさくらの母親だった様だ。

「はじめまして、大神一郎と申します」

 敬礼ではなく、普通のお辞儀で挨拶を返す大神。この青年は輝かしいといっていい経歴に反してエリート臭さが全く無い。その装いにも拘わらず、軍人軍人していないところに若菜は好感を持ったようである。

「大神様、遠路お越しの所早速で申し訳ないのですが、後見役の辰馬がお目にかかりたいと申しております。こちらへどうぞ」

 控えめな微笑みを浮かべ、大神の先に立って歩き出した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 案内された先は客間のようである。

「失礼します、叔父様。大神様をお連れいたしました」

 若菜がふすまを開ける。そこには一人の老人が座していた。誘われるままに大神はその老人の向かいに正座し、折り目正しい姿勢と動作で一礼する。

「はじめまして、大神一郎と申します」
「さくらの後見役、真宮寺辰馬と申します」

 その老人が名乗りをあげる。彼がさくらの父方の祖父の弟である事を、大神は事前にさくらから教わっていた。
 辰馬老人は、髪こそ雪原の如く真っ白になっているものの肌に張りがあり、姿勢も崩れた所無く、極めて壮健そうに見える。そして、何よりその眼が老いを感じさせない。炯々と光る鋭い眼差しで値踏みするように大神を見詰めている。
 気の弱い者なら竦み上がってしまいそうな鋭く、また重々しい視線を大神は静かに受け止めていた。媚びるでもなく、虚勢を張るでもなく、端然と座している。暫しの沈黙。やがて、辰馬老人の視線から鋭さが消え、張り詰めていた空気がふっと緩む。それを待っていたかのように、大神が口を開いた。

「早速ですが、本日はお聞き入れいただきたい儀があり、お願いに参上致しました」

 その口調には珍しく多少の緊張が含まれている。彼の傍らに座したさくらは身を硬くし、俯いていた。
 老人は、そんな二人を見て顔をほころばせた。

「お望みの向きは既に承知いたしております。私もこれでようやく肩の荷が下りるというもの」
「大叔父様、では…」

 さくらが喜びを押さえ切れぬといった感じて口を挟む。彼女を目でたしなめながら、それでもにこやかな表情を崩さず、辰馬老人は続けた。

「さくらが年若く、また女性の身ゆえ、私が後見役としてこの家を守ってきましたが、貴方のような立派な方がさくらを娶って下さるというのであれば、この老人も一安心です」

 思いがけず、好意的な言葉である。

「過分なお言葉、ありがとうございます。決してご期待に背く事は致しません」
「お世辞ではござらぬよ。貴方のご活躍は米田閣下よりお聞きしております」

 ここで、大神は姿勢を正した。

「不肖、この大神一郎とさくらさんの結婚をお許し頂けませんでしょうか」

 こんなに固くなった大神の姿を見るのは、さくらは初めてだった。しかし、大神にしてみれば、はっきりとした応諾を得るまでは気が気でない。じっと辰馬老人を見詰める。

「さくらのこと、よろしくお願い致します」

 辰馬老人と若菜が頭を下げる。大神は安堵のあまり一気に力が抜ける様な気がした。一方のさくらは涙を流していた。喜びのあまり、というところだ。反対するような大叔父や母ではないと知りつつ、やはり一抹の不安があったのだろう。

「ありがとうございます」

 それ以上の言葉を失い、だがそれでも最後まで折り目正しく大神は深々と一礼した。

「ところで」
「はい?」

 辰馬老人の不意の一言に不安の色を見せる大神。

「そう警戒せずとも結構じゃよ。これは貴方とさくらの事とは別の事と思って下され。大神殿、一つこの老人のわがままを聞いては下さらぬか」
「どのような事でしょう」

 大神は警戒の色を緩めない。別の事、と言われても、はいそうですか、と安心できないのが今の大神の立場である。

「米田閣下からお聞きしている貴方の腕、この老人に見せて頂きたいのです」
「大叔父様、どういうことでしょうか」

 さくらも多少不安をおぼえたようで、口を挿んでくる。

「私と立合って頂けますまいか」
「大叔父様!」

 口調も表情もにこやかなままだが、目が驚くほど真剣である。辰馬老人が、大神を試したがっているのは明らかだった。
 そして大神に拒否する権利はなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 道場は真宮寺家の敷地内にあった。さくらが帝都に行った今はほとんど使われていないはずである。しかし、道場は綺麗に磨き上げられていた。最初から、そのつもりだった事は明白であった。
 一礼し、向かい合う。二人は何と防具もつけず、手にする得物は木刀である。さすがに危険を感じたさくらが抗議したが、当事者の大神がそれを押しとどめた。決して相手を侮ってのことではない。辰馬が免許皆伝の腕前である事は予め聞いていたし、向かい合って座っているだけで並々ならぬ技量が感じられた。それでも殺傷力の高い木刀での立ち会いに応じたのは、辰馬老人からただならぬ気迫が伝わってきたからである。単に、娘を攫いに来た若造を試すといった次元ではない、ある種の覚悟のような。
 辰馬は北辰一刀流基本の星眼の構え。一方大神は双刀を下段に下げ、切先を向かい合わせた水形の構え。

「参る!」

 辰馬老人が気合を発する。大神は双刀をゆっくり下段から中段に掲げた。両の切先を相手に向けた切先返しの構えである。辰馬が踏み込みと同時に突きを入れる。目にも止まらぬ速さ。大神が身を滑らせて躱す。次の瞬間、続けざまに二撃、三撃、突きが襲い掛かる。一呼吸の間に三つの突きを放つ、北辰一刀流三段突きだ。とても老人のものとは思えない、いや、京橋や神田でもめったに見る事が出来ないような鋭い連撃。しかし、その全てを大神は足捌きだけで躱す。老人の表情に厳しさが増した。息もつかせぬ、嵐のような攻めを繰り出す。しかし、大神を捕らえる事は出来ない。足捌きと最小の受けだけで、ほとんど体勢を崩さぬまま辰馬老人の攻撃を防ぎ続ける。相変わらず、能の舞のように美しい大神の動きはさくらを魅了して止まない。
 辰馬老人が後方に飛びすさり、一旦大きく間合いを取った。その表情は驚愕に彩られている。辰馬にとってはほんの小僧に過ぎない青年が彼を翻弄しているのだ。しかも北辰一刀流に比べれば時代遅れの古流の剣法で、である。深く息を吸い込み、吐き出す。その顔から表情が消えた。腰を落とし、居合いの構えを取る。眼が爛々と輝き全身の気が高まっていく。

「大叔父様、それは!」

 さくらが叫ぶが、辰馬は耳を貸そうとしない。

「破邪の剣…」

 辰馬の呟きと共に全身の気が木刀に集まる。

「放神!」

 気合と共に横一文字の抜打ち一閃。木刀から霊力の奔流が放たれ大神に襲い掛かった!
 迎え撃つ大神は胸の前で双刀を交差させる。双刀交わる点に不可視の閃光が発する。閃光は光輪となり、押し寄せる波動を全て防ぎ止め、呑込んでいく!奔流の全てを吸収した光輪がひときわ強い輝きの内に弾ける。眩い不可視の光輝の中で、大神はわずかに身を沈めた。同時に光が収縮する。光は刀身に収斂し、煌く白銀の刃となる。ほとんど物質化した霊光が、単なる木刀を名工の手になる業物へと変えたのだ。身を起こすと同時に額の前で腕を交差させ、ちょうど双刀を持つ手の逆側に担ぎ上げた形で大神は辰馬に向かい飛び掛かる。5メートル近い距離を一挙動で詰め、双刀を逆袈裟切りに振り下ろした。

「大神さん!」

 さくらの悲鳴。さくらは知っていた。それが無双天威という名の大神の必殺技である事を。その威力の前には、例え辰馬といえど対抗する術など無い事を。
 力強い踏み込みの音。気の爆発。響き渡る轟音、破砕音。
 思わず閉ざした両眼を恐る恐る開けると、振り下ろす双刀を途中で止めた大神と、尻餅をついている辰馬、そして辰馬と大神の間の床に開いた大穴が見えた。
 大神はわざと踏み込みを浅くし、辰馬の前に双刀を振り下ろしたのだ。しかし、両の木刀から放たれた霊力の爆風は刀身が宙にとどまっているにも拘わらず床板を打ち抜き、その余波で辰馬の体を吹き飛ばしたのである。
 ほっと胸を撫で下ろしたさくらは、次の瞬間信じられない光景を見た。

「この力…やはり、間違いない…」

 こぼれた自らの呟きで自失より我を取り戻した辰馬が大神の前に平伏したのである。

「辰馬さん!?」

 大神も慌てている。穴を飛び越え辰馬の前に膝を突き、老人の身を起こそうとする。顔を上げた辰馬の目は涙に濡れていた。そして、震える声でさくらにとって驚くべき事を語りだした。

「我らが王よ…貴方様をお待ち申し上げておりました……」
「大叔父様、どういうこと?」

 駆け寄ったさくらは二人の顔を見比べる。辰馬は感極まった表情で涙を隠そうともしない。大神は…何とも言い難い顔つきになっていた。どんな顔をしたらいいかわからない、そんな風情だ。だが、「我らが王」と呼ばれたことに戸惑っている様子はない。その意味するところを大神は知っているのだろうか。

「さくら、この方は我々の王だ。全ての破邪の血脈の王たる方なのだ…王よ、感謝いたします。さくらをお救い下されたのはやはり貴方様のお力なのですね」
「手を上げて下さい、辰馬さん。私は自分の義務を果たしただけです」

 どこか困ったように大神は言う。話が見えないさくら。若い二人の困惑を救うように若菜が現れた。

「叔父様、いつまでもこのような所では失礼でしょう。お茶を用意いたしましたので床の間においで下さい。さくら、大神様をご案内して」
「はっ、はい!」

 さくらが慌てて立ち上がる。一緒に立ち上がった大神の顔を仰ぎ見ると、大神は困ったような照れ笑いを浮かべていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「さくら、お前にはまだ破邪の血脈の事を教えていなかったな」
「はい、でも米田長官からお聞きしました。破邪の血脈が、魔を狩る力を伝える血筋であると…」

 床の間に大神とさくら、辰馬と若菜が並んで向かい合わせに座っている。大神が居心地悪そうにしているのは上座に座らされているからである。何度も辞退したが、辰馬老人はどうしても譲らなかった。実の所心当たりがあるだけに、大神も最後まで断り切れない。しかし、常識家の大神にはこれから義理の母親と義理の大叔父になろうかという人を下座に座らせておくのはどうにも気が引ける事だった。

「米田閣下もごく表面的な事しか知らないはずだ。この方が我々にとってどれだけ大切なお方なのかを理解する為には、まず破邪の血脈の事を知っておかねばならない」

 もとよりさくら自身、自分が真宮寺の一族の伝える力についてほとんど知らない事を自覚していた。話題の中心にされている大神も黙って辰馬の言葉に耳を傾けている。

「この国は八百万の神々の住まう国。同時に八百万の魔性が住む国。大陸の外縁、東の最果てに位置するこの国は、古来より戦いに敗れ神の座を追われた神々が最後に辿り着く土地だ。魔性に堕ちた神々のもたらす災いから身を守る為に、我らの先人達は二つの技を編み出した」

 老人の口から出てきたのは、世に語られる事の無いこの国の歴史。

「一つは神の座を追われ、祭祀を失った為に魔性に堕ちた神に新たな祭りを奉げる事で、この国の神として新しい存在の意味を与える呪法。魔性を神として再生し、その荒魂を鎮めるこの技を『鎮めの呪法』と呼ぶ。今一つの技は魔性を上回る力を持つ神の力を借りて、堕ちた神の汚れを清める事で魔性としての力を滅する呪法。これを『清めの呪法』と呼ぶ。清めの呪法は神の力を借り、身の内に直接取り込まなければならない為、まず代償が必要だ。そして破邪の血脈とは、その血を代償に奉げた術者の子孫。その血の内に清めの呪法を伝える血筋のことだ」

 さくらも大神も一言も発しない。さくらはただ驚きの表情を浮かべ、大神は…何故か沈痛な色を浮かべていた。辰馬老人の話は続く。

「だが、人の身に神の力は重過ぎる。また、人は神性と魔性により構成されるもの。相反する二つの力が釣り合って、初めて人として在ることが出来る。魔性を滅ぼす神の力は、同時に人の内なる魔性をも灼き尽くしてしまう。それ故、清めの呪法を使った者は術の成就と引き換えに自らの命を落とすのが常だ」

 それこそ、破邪の血の者が犠牲になり続けてきた理由。

「だが稀に、神の清浄な力をその身に受け容れてなお、己が内を駆け巡るその荒ぶる力に対抗できる強さを持つ者が現れる。そして、そういう者達は例外無く巫覡王の力の持主だ」
「巫覡王…?」

 さくらの口から無意識の内に疑問の言葉がこぼれ落ちる。

「巫覡王とは、人々の祈りの力を集め一つの大きな力へと変える力を持つ者。古代、祭と政が不可分なものであった頃、祭祀を司る王は皆この力を持っていた。いや、この力こそが王たる資格であったと言っていいだろう」
「それが大神さんの力…」
「そうだ。人々の祈りを集める古代の王の力と清冽なる神々の力に耐える強靭な魂。神の荒ぶる力をすらも我が物として使いこなす力があって、はじめて自らを損なうこと無く清めの呪法を成就することが出来る。その力こそ破邪の王の力。我らが王のしるし」
「……」
「そして、破邪の王ある限り破邪の血の者が呪法の犠牲になることはない。我らの血に連なる者が破邪の法、即ち清めの呪法を行う時、常に王が神と術者の仲立ちをして下さるからだ。烈し過ぎる神々の力は王の仲立ちにより全てが人ならざるものに向かう様変換され、術者を傷つけることはない。王は我ら破邪の血脈の者全てを人柱の宿命から解き放って下さる方なのだ。さくら、お前をお救い下さったように」

 ここまで話した辰馬老人は込み上げてくる感情の昂ぶりに声を詰まらせ、感涙に必死で耐えているようだった。肩を震わせ、再び大神に平伏する。

「王よ、さくらが貴方様の御目に適いましたことは光栄至極なることと存じます。もとより我ら真宮寺の者は貴方様の忠実なる臣下です。さくらを如何様なりと、ご自由に御扱い下さい」
「もう止めましょう、辰馬さん」

 大神は老人に労りのこもった声を掛けた。

「私はさくらさんを妻にしたいだけなのです。臣下にしたい訳ではありません。私はさくらさんを愛しているのですから」

 息を呑み、身を固くするさくら。感激のあまり、気が遠くなるのがわかる。

(愛している…愛している…愛している…)

 大神の台詞が幾度と無く脳裏に木霊する。舞台の上では何度となく口にし、捧げられた言葉。しかし、大神の口から出たその台詞には特別な魔力が込められているかのようだ。

「もったいない。さくらは私にとり実の孫も同じ。そのさくらを大切に想って下さるという王の御言葉、私も人の子です。正直申し上げて大変嬉しい。しかし、それとは別のこととして我ら真宮寺の一族が、何があろうと貴方様の忠実なる臣下であることもお心に御留め置き下さい」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その日の夜。客間でくつろいでいる大神の所へさくらがお茶を運んできた。

「大神さん、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、さくらくん」

 大神の態度は常と変わる所が無い。いや、最近これまでにも増して優しくなったように思う。

「あの、大神さん」

 大神の横に座り、お茶を飲む様を見詰めていたさくらが遠慮がちに話しかけた。

「なんだい、さくらくん」

 いつも通りの、優しい大神の返事。

「あの、大神さんはご存知だったんですか…その、破邪の血脈のことを…」

 大神の視線が真っ直ぐにさくらの瞳を覗き込む。だが、そこに厳しさはない。あるのは優しさと慈しみと、…憐れみにも似た哀しみの色だった。さくらもまた、真っ直ぐ大神を見詰め返した。さくらにはどうしても確認しておきたいことがあった。

「一月に、修行の為大神本家を訪れて奥義の継承に成功した時、教えられたよ。自分が何者であるのか、どんな力を担っているのかを。そして破邪の一族の哀しい宿命と自分がどんな義務を背負っているのかを」

 そう、大神の見せていた憂いの色はこれまで犠牲になってきた破邪の血脈の人々を想ってのこと。慈しみは哀しい宿命を断ち切る決意。さくらが確かめたいこともそこにあった。

「私を選んで下さったのは…私が破邪の血を引く者だからですか?」

 自分がとことん緊張しているのがわかる。答えを聞きたくない、でも聞かなくちゃならない。さくらはありったけの勇気を振り絞っていた。

「そうだ」

 顔から一気に血の気が引いていくのがわかる。聞きたくなかった答え。

「…とも言えるし、そうではないとも言える。破邪の力。眩しい笑顔。ちょっぴりドジで、でもいつも一所懸命なところ。深い思い遣りの心と、大切なものから目を背けない勇気。君の心と君の体の全てをひっくるめて、君が君だから俺は君にそばにいて欲しいんだ」

 一気に引いた血がそれ以上の勢いで逆流してくる。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。頭に血が上って倒れそうだ。

「さくら、馬鹿なことを考えるな。俺の心を信じてくれ。俺は君が君だからこそ、君を愛しているんだ」

 大神がさくらを抱き寄せたのか、さくらが大神の胸に飛び込んだのか。お互いが引き寄せ合うように二人は抱き合っていた。大神の胸に身を委ねて、さくらはずっとこうしていたいと思った。

「その心配が必要なのは俺の方かもしれない…」
「えっ?」

 腕の中から自分を見上げるさくらの髪を撫でながら、逡巡を振り切って大神は言葉を続けた。

「祭祀を司る巫覡王の力は、祭祀に加わる巫女に無意識の服従を強制するらしい…君が俺に想いを寄せてくれているのも、もしかしたら俺の霊力が君を支配している所為かもしれないんだ」

 思いがけない大神の告白だったはずである。しかし、さくらはにっこり笑うと再び大神の胸に頬を押し当てた。

「それでもかまいません…理由なんかどうでもいいんです。私にとって大事なのは、大神さんを好きでいられることなんですから…もし霊力の所為だというなら、大神さん、私をずうっと支配していて下さい…」

 大神がさくらの頤(おとがい)に手をあて、上を向かせた。さくらがうっとりと目を閉じる。ゆっくりと大神の顔がさくらに重なっていった。
 どの位の間抱き合っていただろう。二人はただ抱き合っていた。相手の体温を感じ、お互いの気配を通わせあう、ただそれだけで充たされている二人。純情な少年少女の、ただ触れ合うことしか出来ない、それ以上のことが出来ない幼い恋愛模様とは異なる。相手をどう扱ったらいいかわからず立ち竦んでいるぎこちない男女関係とは訳が違う。それは、肉体的に触れ合うことしか出来ない凡人には知ることの出来ない領域。霊的な次元の、魂の次元の交流がもたらす充足感、お互いの気が交じり合い一体となる充足感は性的な快感をも凌駕するものかもしれない。真の一対が互いを確かめ合った時に感じる歓喜とは、あるいはこういうものかもしれない。
 襖越しに声を掛けられて、ようやく二人は我に返った。

「大神様、ご寝所のご用意が出来ました」

 若菜の声だ。二人が離れたところを見計らった様に襖を開ける。

「どうぞ、こちらへ」

 そして、とってつけた様に湯呑みの片づけを始めたさくらにも声を掛ける。

「さくらさん、あなたもおいでなさい」
「はい!?」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「!」

 案内された先には一組の大きな布団と…二つの枕が置かれていた。

「お、お母様!?」

 慌てふためくさくら。大神はただ口を開け閉めすることしか出来ない。対照的に、目は見開かれたままだ。

「何です、さくら。大声を出したりして、はしたないですよ。では、大神様。御用は全てさくらが承ります故、ごゆるりとお休み下さい」

 若菜は平然たるものである。しかし、この場合の「御用」が何を意味しているのかは明白であった。

「待って下さい。私とさくらさんはまだ祝言をあげた訳ではありませんし、その…」
「大神様、お気遣いは御無用でございます。貴方様とさくらの関係は、世の常のものとは違うのですから。貴方様にお仕えすることが真宮寺家の女の務め…さくら、大神様に可愛がって頂くのですよ」

 これが実の母親の台詞だろうかと言いたくなる気もするが、最後まで当然と言う態度を崩さずに若菜は部屋を辞していった。

「まいったな…さて、どうしよう…」

 困惑し切った声で大神が呟く。さくらはその横で俯いてじっと何事か考えていたが、不意に膝をつき、姿勢を正した。

「大神さん」

 正座し、視線を真っ直ぐ正面に固定したままさくらが呼び掛ける。大神はさくらの視線に合わせる様に自分も膝を折った。

「私…かまいません」
「……」
「私、大神さんとならかまいません。いえ、大神さんとそうなりたいと思ってます」
「さくら…」
「不束者ですが、よろしくお願いします」

 三つ指を突いて、深々とお辞儀をするさくら。大神はその手をとり、さくらの体をそっと横たえた。

 欲望は感じない。だが、如何なることにも形が必要とされる時がある。欲望からではなく、愛おしさから大神はさくらと肌を合わせる。それは確かめ合う為の儀式。

「さくら…」
「一郎さん…」

 二人の初めての夜はこうして訪れたのである。


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