魔闘サクラ大戦 番外編−帝劇と帝撃のある日の出来事−
その1


 シャキ
 シャキ
 シャキ……

 次から次へと押し寄せる人波。途切れることの無い鋏の音。すぐ横では「いらっしゃいませ」「毎度ありがとうございました」という声がこれまた途切れることなく聞こえてくる。男はもはや声を出すこともできず、次から次へと差し出される切符をさばいていくことしかできなくなっていた。少しでも滞ろうものなら、殺気立った空気すら流れてくるほどである。
 太正12年7月28日、大帝国劇場7月公演、『愛はダイヤ』も残すところあと二日。帝国歌劇団も今や帝都屈指の人気娯楽である。今回の公演はとくに、思わぬ場外劇が続出するとあって固定客のみならず、物見高い江戸っ子気質を受け継ぐ帝都市民の間で話題の種となっていた。劇の本筋とは別のところで期待を集めるのは、演じている役者にとって不本意ではあろうが、観客動員に拍車を掛けていることに違いはない。それも残り二日とあれば、押し寄せる人波の迫力も一味違うというもの。一人一人笑顔で声を掛けてお迎えする、どころではない。
 いつ果てるとも無い人の列も漸く疎らになってきた。開演間近となっているのだから当然なのだが、鋏を入れる自動人形と化していたモギリの男は、切符を差し出す手が永遠に続くのではないかと冗談抜きで思いかけていたくらいである。

 シャキ
 シャキ
 シャキ……

 ブーー

 開演10分前の合図。正門が閉まる。帝劇では原則として途中入場をお断りしている。活動写真と違い観客の気が散るから、という建前であるが、実際には役者の気が散るからである。何といっても、帝劇の女優は役者歴半年から1年前後の駆け出しばかりなのだ。そしてもう一つ、いささか深刻な理由がある。帝劇の裏の顔である、華撃團の都合だ。華撃團にとって帝劇の公演は、人の心が産み出す正の波動を集める為のもの。正門を閉ざすことで、霊的な閉鎖空間=結界を作り、霊波動の収集効率を高めているのである…
 ロビーから潮が引くように人影が消えていく。売店に群がっていた客も急いで席に戻って行ったようだ。モギリの男は売店の売り子と力無い笑顔を交わし、大きく息を吐いた。漸く一息つけるというところか。

 この男、名を大神一郎という。この4月頭まで帝国海軍の新任少尉であった。それもただの新米将校ではない。海軍兵学校を空前とも言える好成績で主席卒業し、それに続く訓練航海で未だ候補生でありながら奇功というべき戦功をあげ、海軍の上層部で天才とすら噂されているエリートである。その彼が今現在、まさしく海よりも深い事情で帝劇のモギリ兼事務員を務めている。
 早いものでモギリに転じて4ヶ月が過ぎようとしている。相変わらず何で俺がこんなことを、との思いが時折頭をもたげてくるのを否定できない彼であったが、「海よりも深い事情」が彼を支えていた。大神が自棄にならずに済んでいるのはひとえに「海よりも深い事情」の大きな意義が彼の使命感を満足させてくれるからだ。即ち、帝都防衛。力無き市民を守る、帝国華撃團の任務だ。もっとも、帝都防衛は本来、あくまで宮城と政府を守ることが目的であり、市民は二の次に過ぎない。それが軍最上層部の本音だろう。しかし、大神はそうした上の方の考え方を承知した上で、自分の任務は市民を守ること、そう信じていた。人が集まって町になり、人が集まって国になるのだと、それ故国を守ることはそこに暮らす人々の生活を守ることだと、それが彼の信念だった。若さ故の浪漫主義だろうか、青臭い書生論だろうか?それとも、気高い志だろうか?いずれにせよ、この使命感が彼の強さの源泉の一つであることに間違いはないだろう。
 そういう訳で、雑用係そのものの待遇にも夜逃げすること無く、彼は今日も入場券に鋏を入れていたのだ。やっと、午前の部のモギリが終わったところだが、彼の仕事が終わった訳ではない。彼は常に多忙だった。劇場のモギリ兼事務員の仕事と、帝国華撃團花組隊長の任務。どちらが裏でどちらが表の仕事か、ややもすると本人にも判らなくなるほど、どちらも仕事が山積みされている。今も一服入れるまもなく(と言っても、彼に喫煙の習慣は無いのだが)次の仕事が背後から忍び寄っていた。

「大神さん」
「由里君」

 大神に声を掛けたのは、三越の受付か昇降機あたりにいた方が似合いそうな派手な洋装の、なかなかの美人である。名を榊原由里、年は大神と同じ20歳。劇場の受付と事務をやっている女性だ。その外見からは到底信じられないが(話をしてみるともっと信じられなくなるが)、彼女も秘密部隊、帝国華撃團の隊員である。

「支配人がお呼びですよ」
「ああ、ありがとう。それで、支配人はどちらに?」
「地下でお待ちです」
「わかった」

 地下で待っている、それは華撃團としての仕事があるということだ。とは言っても、それが雑用でないという保証はない。単なる荷物運びに呼び付けられることもしょっちゅうなのだから…
 地下に向かう大神の横を由里がついてくる。事務室と地下入り口の方向が同じだからそれ自体はおかしくも何とも無い。しかし、そう長くも無い劇場暮らしで大神は由里が何か仕掛けてくるなと感じ取っていた。別に仕掛けてくるといっても武器を持って襲い掛かってくる訳ではない。その方がどれだけ気が楽か…。ある意味、大神にとってはもっと恐ろしい攻撃だ。

「大神さん、今日、何の日だか知ってます?」
「…わかってるつもりだよ」

 やはりそう来たか、内心身構える大神。ここで迂闊な応えを返そうものなら、厚くも無い財布がますます薄くなってしまうことになる。

「ふーん、さっすが大神さん、上司の鏡ですね!?」
「そうかな?」
「何か予定は立ててるんですか?」
「いや、なにぶん明日が千秋楽だからね。今日はそれどころじゃないだろう。公演の打ち上げが終わってから、かな」

 お互い、核心に触れることは口にしない。それが何か、を相手に言わせる為の静かな、だが熾烈な心理戦が二人の間で繰り広げられる。
 神経が磨り減るような応酬も、さほど経たない内に終わりを告げた。事務室までそう時間が掛かる訳も無い。だが、その短い時間に大神はすっかり消耗してしまった様な気がした。何とか今回は妙な言質を取られずに済んだようだ。軽く手を上げ由里と別れる大神。そのまま事務室に入っていくかと思われた由里が急に振り向く。

「大神さんのことだからプレゼントはちゃんと用意してるんでしょ?さくらさん、きっと楽しみにしてますよ」

 にやっ、と(にこっと、ではない)笑ってみせてそう告げると、大神の返事を待たずに今度こそ事務室に戻っていった。

(やれやれ…まあ、冷やかされる位、仕方ないか)

 その程度は我慢しなければならないだろう。元々は、今日がさくらの誕生日だということを大神の口から言わせて、噂話のネタにするつもりだったのだろうから。

(この調子では、今晩のことを知られる訳にはいかないぞ。別に隠すことでもないんだがなぁ…)

 おやっ?今晩のこととは?

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「きゃあぁ!」

 ドテッ

「さっくらさん、もうセットを壊さないで下さいましね」

 開演間近の舞台では、最後のセッティングが行われいた。既におわかりとは思うが、今の悲鳴と床を鳴らす音はさくらがセットに躓いて倒れたものである。今回さくらは出番が無いので、裏方と一緒にセットの準備と調整を受け持っていた。

「大丈夫かい、さくら」
「いたたたたた、ありがとうございます、カンナさん」
「さくら、怪我はない?」
「ええ、すみません、マリアさん」
「まったく、落ち着きが無いのはいつものことですけど、今日は一段とひどいですわね。皆さんの邪魔にならない様に袖に控えてなさいな」
「…すみません」

 肩を落として舞台袖へ向かうさくら。やはり今回裏方のマリアが、ごく自然な歩調で後ろから追いついてさくらに声を掛ける。

「すみれはさくらのことを心配してああ言っているのよ。あまり気にすることないわ」
「ええ、ありがとうございます」
「それにしても、さくら、今日は朝から随分ソワソワしてるわね。なにかあったの?」
「いっ、いえ、別に、その…」
「…そう?だったらいいけど」

 そうなのだ。今日のさくらは朝から妙に足が地に付いてない様子でずっと気になっていた。それで、慰めの言葉を掛けたついでに事情を聞こうと思ったのだが、どうやら悪いことではなさそうである。それ以上マリアは追求しないことにした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 話は今日の早朝に溯る。いつも通り二人きりの朝稽古を終えた後(実は大神とさくらが二人で朝稽古していることは、今ではほとんどの隊員に知れ渡っていた。それでも二人の稽古に割り込もうとする者がいなかったのは、二人の組太刀があまりに息の合ったものだったからだろう。それに多かれ少なかれ、一人一人皆が大神を占有する時間を持っていたのである)、大神が何の前触れも無くこう切り出した。

「お誕生日おめでとう、さくらくん」
「!、ありがとうございます」

 誰から言われなくてもアイリスの誕生日をしっかり憶えていた大神のことだ、自分の誕生日も憶えていてくれるはず。そう思ってはいたさくらだが、こうして実際にお祝いを、しかも真っ先に言ってもらえると、ほっとすると同時に想像以上に嬉しさがこみ上げてくる。自分が大神から特別想われているとは思っていないが、さくらも年頃の娘だ。一番身近にいる若い男性として、やはり大神を意識せずにはいられない。ただ身近にいるというだけでなく、戦場にあって頼りになる隊長であり、剣をとって尊敬できる武道家であり、劇場にあって優しく面倒見のいい年上の同僚である。その上、なかなかの二枚目ときている。自分でも気付かぬ内に恋心を抱いていても不思議はない。その大神から、誰よりも先に誕生日を祝ってもらえたのだ。嬉しくない筈がない。
 だが、話はそれだけで終わらなかった。

「さくらくん、もしよかったら今日の晩御飯、一緒にどこかのレストランに行かないか」
「えっ!?」

 真っ赤になり絶句するさくら。言い出した大神も少し照れたような顔で言葉を続ける。

「公演も明日が千秋楽だろう?今日はとても劇場の中でお祝いという雰囲気じゃないと思うんだ。そのかわり、外でご馳走するよ」
「…ありがとうございます!私、楽しみにしています」

 大神にしてみればこれはあくまで無理を強いている隊員への心遣いと労い、誕生日のお祝いのつもりだろう。だが、世間の常識から言えばデートの誘いに他ならない。こうしてさくらは朝一番から舞い上がってしまったという訳である。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「お呼びでしょうか、長官」

 帝国華撃團、地下司令室。米田の前で非の打ち所の無い敬礼を見せた後、大神は用件を尋ねた。身につけている服はくだけた劇場受付の物だが、その姿は紛れも無く気鋭の軍人のものだ。

「うむ、すぐに戦闘服に着替えて花屋敷に行ってもらいたい」
「光武の調整ですか?予定外にしてもずいぶん急ですが何か起ったのですか」

 今大神の光武は全面整備の為、花屋敷の地下工場に運ばれていた。戦闘の度に性能限界ぎりぎり、あるいはそれ以上まで引き出されている大神の機体は、他の隊員達のものより念入りの整備が必要だと判断されてのことである。その調整試験の為、操縦者が必要かと思ったのだ。だが、それなら前もって予定が組まれる筈である。

「敵魔霊甲冑の残骸を調査した結果、興味深い事実が判明しそうだとの報告が届いている。ついては、陰陽陣との共同実験を行いたいそうだ」

 果たして事情は予想と異なったようだ。
 陰陽陣、正式名称を近衛軍法術大隊、古くは陰陽寮の流れを汲むこの部隊は、対魔術・魔物防衛の中軸として禁裏と政府中枢を守る任を帯びており、指揮系統の束縛が少ない近衛軍の中でも特に独立性の強い部隊である。帝国軍の一部隊というよりむしろ、禁裏の私兵という性格を帯びており帝国華撃團同様、禁裏と枢密院からのみ指揮を受ける完全な独立部隊となっていた。
 共に対魔術、対魔物戦闘を目的とし、非公式な色合いの強い陰陽陣と華撃團が協力体制を組むようになったのは自然な流れであろう。(ちなみに華撃團の法術部隊、夢組の編成は陰陽陣の多大な協力の下に行われている)

「今すぐですか?」
「陰陽陣の方から今日に予定を変更して欲しいとの連絡がつい先程入ったのだ」
「了解しました。直ちに花屋敷へ向かいます」
「それほど時間は掛からないとのことだが、上の仕事はかすみくんにやってもらうからこちらのことは気にするな」
「はっ!」

 敬礼と共に踵を返し退出しようとする大神の背中に、思い出したように米田が声を掛ける。

「夕方には戻ってこれるだろう。約束を取り消す必要はねぇぜ」

 ピシッ

 マリアのスネグーラチカが放たれたかの如く、何かが急速に凍り付く音が聞こえた様な気がした。勿論空耳だが、確かに凍りついたものがある。大神の動作と表情だ。

 ギギギギッ

 振り返る大神の首からは油の切れた歯車の様な軋みが聞こえてきそうだ。

「長官…一体どこからそれを…」
「何だ、やっぱりやるこたぁやってやがったんだな。お前ぇのことだからそこらへん抜かりはないと思っちゃあいたがよ」
「……鎌を掛けましたね?」
「おいおい、人聞きの悪いことを言っちゃあいけねえぜ。過去の情報に基づく推測だよ。まぁ、隊員のことを気遣ってやるのはいいこった。何たってあいつらの大半はまだまだ情緒不安定な少女だからな。お前ぇのそういうところはなかなか見上げたもんだと俺は思うぜ。ガハハハハッ」

 誉められているのだろうが、その表情は面白がっているようにしか見えない。釈然としない思いを抱えながら賛辞(形の上では)に無言で敬礼を返し、大神は司令室を後にした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あなたたち、いい加減にしなさい!公演も明日までしかないのよ。最後までまともに幕を下ろせないまま今回の舞台を終わらせるつもり!?」
「…すまねえ、マリア」
「……」
「すみれ!」
「…申し訳ありません。ただ、わたくしはきちんと舞台を務めようと努力しているつもりですわ。何故このような結果になってしまうのか、もうわたくしにもどうしていいのやらわかりません」
「何だい、それじゃああたいの所為だってえのかい!」
「あ〜ら、そう聞こえましたかしら」
「こっの、陰険女が!」
「何ですってぇ、この山猿!」
「やるかこの」
「いい加減になさい!」
「もう止めときぃや、二人とも。…さくらはん、どないしたん?」
「えっ?紅蘭、何が?」

 午前の部終了後の楽屋。今日の舞台もやはりと言うかご多分に漏れずというか、最後は場外乱闘で終わってしまった。今回の脚本は哀しい男女の綾の話なのにすみれとカンナが演じるとどういう訳かどたばた喜劇になってしまう。噛み合わない演技に最後はすみれが切れてしまい、カンナが売り言葉に買い言葉と応酬し、結局乱闘劇で有耶無耶の内に幕…この連続だ。普通なら役者交代なり演目変更なりを即、劇場側から申し渡されても不思議の無い不始末だが、米田も大神も二人の脱線を黙認していた。公演中に黒之巣会の襲撃があった場合、如何に自然に公演を切り上げて出撃できるようにするか…大神と米田の、最大の悩みの種。今回の二人の脱線は、その為の伏線として使えるのではないか、それが米田と大神の考えであった。
 米田達の考えを知って、マリアも暫くの内は二人の演じる醜態に(マリアにとっては、まったく醜態でしかない)目をつぶっていたが、興行後半に入っても一向に改善される気配が無いとなってついに黙っていられなくなった。その結果、芝居が終る度に先程の楽屋の一幕が繰り返されることになった、という顛末である。

「何がって、いつもやったら真っ先に止めに入るのに…何か気掛かりなことでもあるん?」
「気掛かりなこと?別に無いわよ」
「そうかぁ…?」

 紅蘭の言う様に、楽屋に戻ってきてもまだ言い争いを止めない、ときには掴み合いを再開するすみれとカンナの間に真っ先に割って入るのはさくらであった。この辺りさくらには生真面目な所があり、紅蘭のように笑って見ているということが出来ない。かといってマリアのように冷静な仲裁という真似も出来ず大騒ぎして騒動を拡大し、それに大神を巻き込む…大体これが定番である。それが今日は逆であった。割って入ったのは紅蘭であり、さくらは二人の言い争いを気にしている風ですらない。

(おい、さくらのやつどうしたんだろう)
(わかりませんわ。確かにいつものお騒がせ娘らしくありませんわね)

 すみれとカンナも言い争うのを忘れて何やらひそひそ話しをしている。だがさくらの表情に暗い翳はない。むしろウキウキしているといっていいくらいだ。

「さっ、そんなことよりお昼にしましょう。早くしないと午後の部が始まっちゃいますよ。そうだ、私、大神さんを呼んできますね」

 軽い足取りで楽屋から出て行くさくらの後ろ姿を見送り、顔を見合わせる五人。お互いが相手の顔の中に大きな疑問符を見出していた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あっ、かすみさん、お疲れ様です」
「さくらさん、お疲れ様です」

 劇場受付。いつもなら大神が半券の整理と次の改札の準備をしているはずだが、今はかすみがその仕事をしている。

「大神さんは下でお仕事ですか?」
「あらっ、大神さんを呼びに来られたんですか?」
「えっ、ええ、その、お昼をご一緒しようかと思って…」

 嬉しそうに笑うかすみにどこか慌てたようにさくらが言い訳じみた調子で応える。かすみは由里のように噂話を振りまく訳でも紅蘭のように冷やかす訳でもないが、大神と一緒にいる所で顔を合わせると何か物言いたげに微笑みかけてくるので、何となく言い訳しなくてはいけない様な気分になるのが常だった。

「そうですか。でも残念でしたね。大神さんは急なご用事で花屋敷に行かれています」
「…そうですか……」

 あからさまにがっかりした表情になるさくら。まあ、これだからかすみなどには、わかりやすくてつい応援したくなる気分にさせられるのであるが。もっとも、かすみはすみれとも大変仲が良いので彼女の立場は結構複雑である…

「大丈夫ですよ、さくらさん。夕方までには戻られるということですから」
「そうですか!あっ…!」
「うふふ、安心して下さい。皆には内緒にしておきます」
「えっ、いえ、私は別に…じゃ、じゃあ、失礼します」

 露骨にしまったという顔をするさくら。嘘のつけないあたふたした様子もかすみには微笑ましくてたまらない。彼女の愛すべきもう一人の友人とはまったく対照的な愛おしさを感じさせる。

(本当、どっちを応援すればいいのかしら。大神さんも罪な人ですね)

 年上ということもあって一歩引いた所から劇場内の人間模様を眺めているかすみであるが、大神さんじゃ仕方も無いけど、などと思っているところを見ると彼女も自分の気持ちに気付いていないだけかもしれない。




その2



「大神君、お疲れ様」
「あやめさんもこちらにいらしていたんですか」

 試験室から出てきた大神に声を掛けたのは帝国華撃團副司令、藤枝あやめである。
 試験室と行っても、試験管やフラスコが並んでいて偏執的な笑いを顔に貼り付けた白衣の男達が無言で歩き回っているような、そういった類のものではない。光武をはじめとする霊子機関機械の運転試験をする巨大な地下体育館のような代物だ。もう3時間近く、大神は霊子機関の駆動者として実験に従事していた。
 言うまでもなく、霊子機関は人間の霊力を原動力としている。そして、霊子機関を効率的に動かすにはなるべく人間が持っている生のままの霊波動が望ましい。呪文や呪符、印契の様な媒体を通した霊波動は機械である霊子機関とどうも相性が悪いのだ。だが、霊力の強い人間というのは大体において何らかの霊的修行を積んだ者であり、そうした者達は霊力の放出に呪文や印契の様な媒体を利用する。この二律背反が霊子機関兵器を操れるものが希少である理由だ。特に霊子甲冑に使われている様な強力な霊力を必要とする霊子機関を起動することが出来る人間は今の所花組の隊員以外に都合がつかず、大神以外の隊員は普段舞台を務める必要があるので結局の所、霊子甲冑の実験には大神が駆り出されることになる。大神の多忙の理由の一つである。
 今日の実験はこの矛盾、魔術を修めた人間には霊子機関兵器を操ることが難しいという難問を黒之巣会がどうやって克服しているか、それを解明する為のものである。前回の浅草寺戦闘で回収した銀角の残骸は幸いなことに操縦系統の損傷が少なかった。そこから霊波動の濾過器とでも言うような装置が発見されている。つまり呪文、印契などの媒体により変調された霊波動から媒体に特有の癖を取り除く様に機能していると推定される装置だ。確かにその様な装置があれば、陰陽術や密教術の様な法術を修行した人間に霊子機関兵器の操作をさせることが出来る。その実験の為に大神と、陰陽陣、即ち近衛法術大隊屈指の実力者達が呼び集められているという訳である。
 それにしても3時間近く霊子機関を動かし続けることが出来るとは。例え中断を挿みながらであるにせよ、いや、だからこそあやめは舌を巻く思いであった。戦闘時は独特の精神的高揚ゆえ、却って霊子機関の駆動を維持する霊力の水準を保ちやすい。それでも3時間というのは人間が精神を集中し続けていられる時間としては並々ならぬ長さである。度々計測と条件設定で精神集中を中断されやすい実験では尚のこと、信じ難い持久力だ。

「お昼、一緒に食べない」
「あやめさんもまだだったんですか。喜んでご一緒します」

 さすがに疲れた様子を覗かせながら、それでもまったく崩れた所の無い姿勢、動作であやめに続く大神。それを取り巻く少なからぬ熱い視線。そう、花屋敷支部にも実の所大神に憧れる少女が少なくなかった。
 帝国華撃團の中でも、風組、雪組の隊員は、花組と同様若い女性が多い。これは主に霊子機関との相性によるものだが、花屋敷支部地下工場にも少女と言っていい年代の隊員が少なくなかった。勿論ただの少女ではない。それなりの霊力や体術を備えた者達ばかりだ。だからこそわかるのである。大神の放つ圧倒的な輝きが。そして花組の面々と違い、時々にしか顔をあわせないが故に、余計眩しく感じるのだ。普段の情けない姿を見ることが無い故に純粋に憧れていられるのだろう。

「あの、ここ、よろしいですか?」
「ええ、空いていますよ。どうぞ」
「ここ、空いていますか?」
「ええ、どうぞ」
「あやめさん、ご一緒させて頂いてよろしいですか?」

 ………

 食堂の一角に出来る人だかり。大神達の座ったテーブルの周りに集まってくる少女達。テーブルといっても工場にありがちな長机である。皆が隣り合わせ、向かい合わせに座ることになる。

「それにしても、花屋敷はいつ来ても活気がありますね。銀座より人が多い所為でしょうか。食堂も少し手狭になってきているのではありませんか?」

 目の前に置かれたうどんをすする合間にあやめに話し掛ける大神。

(違うわよ、大神君。混んでいるのはここだけなんだけど…)

 余りに無頓着な大神の発言に、呆れ顔を笑顔で隠してこっそり溜息をつくあやめである…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「結局午後の部もいつも通りやったなぁ…」

 大帝国劇場、午後の部終了後の舞台。今回裏方にまわった花組の面々が大道具、小道具類の整理を手伝っているところである。
 帝劇の職員はほぼ全員が帝国華撃團の構成員でもあり、当然の事ながら帝劇と帝撃、二重の仕事を抱えている。秘密部隊といってもやはり予算というものの制約はあるのでいくらでも人員を増やすという訳にはいかず、それ以上に機密保持と霊的適性の面から恒常的な採用難、人員不足に陥っていた。従って、舞台女優といえども、出番が無い時は様々な雑用を手伝うのである。

「隊長から意見してもらった方がいいかしら…」

 紅蘭のぼやきにマリアにしては弱気な応えが返ってきた。

「えっ、で、でも、大神さん、舞台のことには余り口出しなさらない様にしているようだし…」

 だが何故か、普段は真っ先に大神を引っ張り出そうとするさくらが焦ったように異を唱える。

「そうやなぁ、それに華撃團の隊長としてならともかく、普段の大神はんは意外と気の弱いっちゅうか気の優しいところがおありやし…」

 何気なく同調した紅蘭が、言い終わった後おやっ、という顔をする。

「さくらはん、大神はんと何かあったん?」
「べべべ別に、何も無いわよ。あ、私洗い物をしてきますね」

 見るからに慌てて、湯呑みを載せたお盆を手に逃げるように厨房へと向かうさくら(実際逃げ出したのだが)。その後ろ姿を見送って、残された二人はどちらからとも無く顔を見合わせる。

「喧嘩でもしたんやろうか」
「そんな感じじゃなかったわね」
「なーんか怪しいなぁ。マリアはん、気になりまへん?」
「気にはなるけど…紅蘭、変な詮索をしては駄目よ」
「いややわぁ、覗き見なんかしませんって」
「……」

 そうは言うものの紅蘭の表情はまさに興味津々、止めてもきかないであろう。すみれといいカンナといい紅蘭といい…マリアは肉体的なものではない頭痛を感じ始めていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「よっ、由里」
「紅蘭、舞台は片付いたの」
「ああ、漸くな。ところで由里、一寸聞きたいことがあるんやけど」
「なになに、何か面白そうなこと?」

 劇場事務室。紅蘭が情報収集に訪れたのは帝劇一の事情通の所である。まあ、妥当であろう。聞かれた方も嬉しそうである。噂話が何よりの趣味なのだからまあ、これも当然かもしれない。

「うん、さくらはんの様子がどうもおかしいんやけど、何か知らへんか?」
「えっ、紅蘭、知らないの?」
「あら、紅蘭さん、お手伝いに来て下さったんですか」

 いきなり、由里の答えを遮るように横からかすみが紅蘭に声を掛ける。

「ちょうど良かったわ。今日は大神さんが花屋敷に行ってしまっているので伝票の検算が滞っていたんです」
「いっ、いや、うちはさくらはんの…」
「さくらさんは数字が余り得意ではないみたいで…以前にもお願いしたことがあるんですけどね。そういう訳でさくらさんにはお願いできないんですよ、紅蘭さん」

 そう言いながら既に、かすみの左手には伝票の束、右手には帳簿が抱えられている。

「いや、あの、そうや!うち、光武の整備があったんですわ。いや〜すんまへんなかすみはん。じゃあ、由里、またな」

 にこやかなかすみの笑顔と容赦無い伝票の束に引き攣った笑いを浮かべながら、紅蘭はじりじりと出口まで後退さったかと思うと、不自然にならないぎりぎりの速足でその場を逃げ出した。

「あら、残念ね」
「…かすみさん、鬼ですかあなたは」
「えっ、何か言った、由里?」
「いえ、何でも」

 しれっとうそぶくかすみの言葉にぼそっと呟く由里。それを耳聡く聞きつけるかすみと白を切る由里。まあ、この位でなければ帝劇と帝撃の事務は務まらないかも。

「それにしてもかすみさん、どうして紅蘭を追い返すようなことをしたの?」

 確かにかすみには珍しい意地悪である。

「別に追い返した訳じゃ…手伝ってもらいたかったのは事実だし。ただ、今日はさくらさんのお邪魔になるようなことをして欲しくないだけなのよ。年に一度のお誕生日ですもの」
「…?、紅蘭にさくらさんのお誕生日のことを教えると何か都合が悪いの?」
「うふふふ」
「あっ…そういうことか」
「由里、妙なちょっかい出しちゃ駄目よ」
「へぇ〜、大神さんもやるじゃない」

 嬉しそうに笑うかすみ。やけに感心している由里。だがこの事実が別の方向に利用されるのは確実であろう。大神一郎、哀れな奴…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(大神さん、まだ戻って来ないのかしら)

 湯呑みを洗うついでについつい流し台の拭き掃除をしているのは薄紅色の小袖にたすきを掛け、いつもは高い位置で結ぶだけで背中に流している長い髪を邪魔にならない様に纏めている、お掃除姿のさくらである。綺麗好きが昂じてほとんど掃除が趣味と化しているこの少女は紅蘭の追求から逃げ出す口実の水仕事の筈が、いつのまにか本格的な水仕事にはまり込んでいた。

(夕方には戻れるということだったけど…大神さん、いつも予定以上のお仕事を引き受けちゃうところがあるから…)

 両手は一時も止まることが無いが、心はさっきから同じところを堂々巡りしている。

(でも、約束したんですもの。大神さん、約束は絶対守ってくれるから大丈夫よね)
(でも、頼まれたらなかなか嫌と言えないとこあるし…自分はどんな無理をしてでも相手のことを考えちゃうのよね…お人好しなんだから)
(でも、今日は大神さんから誘ってくれたんですもの。もうすぐ戻ってくるわ)
(でも…)

 いや、別に何時間もかかるような遠くへ出張している訳じゃなくて目と鼻の先、専用列車を使えば10分も掛からない花屋敷にいるんですけど。すっかり恋する乙女状態に陥っていることを自分でも気付いていないさくらは、まるで大掃除並みに厨房を磨き続けていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(やれやれ、漸く終ったか…)

「大神少尉」
「加出井少佐、失礼しましたっ!」

 実験室から出て、珍しくはっきり疲れた様子で大きく伸びをうった大神は、背後から掛けられた声に慌てて居住まいを正した。
 大神がこの様な、ある意味締まりの無い仕種を見せるのは、劇場でならともかく華撃團の任務中には極めて珍しい。もっとも、それも無理がない事だ。1時間の中断の後、更に実験は3時間続き、結局合計すると6時間にも及ぶ大実験になってしまったのだから。付き合う陰陽陣の精鋭達も次々と音を上げてしまい、最後まで残ったのは随一の遣い手と目されている副司令だけというありさまだった。今大神に声を掛けた人物がまさしく、近衛法術大隊副司令、近衛軍少佐加出井(かでい)法行、その人である。

「ご協力ありがとうございました、少佐。おかげさまで何とか目処がつきそうです」
「ほう、わかるのか。私には実験の首尾などとんと見当もつかんが、さすがは帝国華撃團の隊長だな」

 これほどの過酷な実験になったのは、一つには最も負担の大きい筈の大神が継続を主張した所為である。霊子機関についてそれなりの知識を持っている大神は、実験の経過に自分なりの手応えを感じていたのである。

「それにしても君は大したものだな。あれだけ霊力を使って平気で動けるとは。それに引き換えうちの連中のだらしない事だ。君の半分も持たないんだからな…」
「少佐こそ霊子機関実験は初めてでいらっしゃるにも拘わらずお見事なお力加減、感服いたしました」
「それにしても10人中8人までもが気を失うとは情けない。あれでも陰陽陣指折りの遣い手の筈なのだが。いや、それだけ君がすごいという事かな」
「私は霊子機関に慣れておりますので。貴隊の方々にはご無理をお願いしまして申し訳ありませんでした」
「慣ればかりではあるまい…どの様な修行を積んできたのか、いずれゆっくり話を聞かせてくれ。私は不甲斐ない部下どもの面倒を見なければならないのでこれで失礼する」
「はっ、本日はありがとうございました」

 敬礼と共に加出井少佐を見送りながら、大神はいささか自分勝手な事を考えていた。

(黒之巣会が使っている霊子波動補正装置の原理が解明できれば、彼ら法術士に霊子甲冑を操縦させる事が出来る。そうなれば、彼女たちにこれ以上負担を掛けずに済む筈だ…)

 国の防衛を担う軍人が、他人の部下を矢面に立たせて自分の部下を危険に晒したくないと願う。エゴである。だが、何と優しいエゴであることか…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 蒸気を吹き出して、専用電車が停止する。だが、これはブレーキに使われているものである。華撃團銀座本部と花屋敷支部は専用の地下電車で結ばれていた。蒸気機関が主要な動力である太正時代にも既に重電モーターは実用化している。出撃列車「轟雷号」ほどの出力を必要としない連絡列車は排気の手間が要らない電車を使用しているのだ。

(もうすぐ5時か…さくらくん、余計な心配をしていなければいいけど)

 電車から降りた大神は当然の事として司令室に報告に向かう。その後、すぐに着替えてさくらに声を掛けるつもりだった。だが、世の中というのはなかなか予定通りにいかないもの。更に言うなら、時の神というのは往々にして意地悪なものである。
 司令室に米田は不在。それ自体は別に珍しいことではない。支配人室にいるのだろう。偽装用?の普段着に着替えた上、支配人室に出頭すればいい、そう思って更衣室に向かっていた大神に、横合いから声が掛けられた。

「よおっ、隊長」
「カンナ、熱心だな」

 おりしも丁度鍛練室の前、中から声を掛けてきたのは全身にうっすら汗を浮かべたカンナであった。

「丁度いいや、隊長、ちょっと組手に付き合ってくれよ」

 入り口に手をかけ、やや体重を預けた姿勢で大神を誘うカンナ。カンナがこういう風に何かにもたれかかりながら話をするのは珍しいことだ。神経に引っ掛かるものを感じながらも、先約が気になる大神はこう言わざるを得ない。

「すまん、今は一寸…」
「何でい、何か仕事があるのかよ」
「いや、そう言う訳ではないんだが…長官への報告も済ませなければならないし」
「じゃあ、その後でいいや」
「いや、正直言って今日は組手の相手ができる状態じゃないんだよ」
「何でい、逃げ口上かよ。たまにはあたいに付き合ってくれたっていいじゃねえか。いっつもいっつもさくらばっかりじゃなくてよ」

(!、さくらくんとの約束のことを知っているのか!!)

 まだ精神が軍人の状態のままだったのが幸いしたのだろう。驚愕を何とか押し殺し、意外そうな表情を浮かべることに成功した大神。モギリの大神ではこうはいかない。
これにカンナはうまく騙されてくれたようである。

「まったく、あたいも朝稽古にすればよかったぜ」

(…そのことか…だが)

「カンナ、何かあったのか?」
「な、何かって?」

 どうもカンナの様子がおかしい。普段はこんなひねた事を言うカンナではない。案の定、軽く水を向けただけでこの慌て様である。

「カンナ、組手の相手はできなくても話し相手ぐらいにはなってやれると思うよ」
「…あんたにゃあ隠し事も出来ねぇなあ」

 どっかと座り込み、一つ大きく息をついて顔を上げるカンナ。

「なぁ隊長、少し愚痴に付き合ってもらえねぇかな?」

 カンナの前に大神も腰を下ろした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「すまなかったな、つまんない話、聞かせちまってさ」
「つまらなくなんかは無いさ。悩まない人間の方がつまらないのだと、俺はそう思うよ」
「…ありがとよ、隊長」

 照れたように笑いながら礼を述べるカンナ。うまくいかない舞台の事、うまくいかないすみれとの関係、思い通りにならない自分自身。そんな、誰でも悩むような事。霊力を振るい魔を討つ花組の隊員もやはり普通の人間、普通の女性である。

「ところで隊長、顔色がよくないけどどうかしたのかい?」

 わだかまりを言葉にして吐き出した事で漸く普段の状態に戻ったのだろう。カンナは今更ながら、目の前に座る大神の疲労の色に気がついた。

「ああ、ちょっと霊子機関の実験が長引いたものでね」
「長引いたって…あんたがそこまで疲労するんだ、ただ長引いただけじゃねぇだろう。何やってたんだ?」
「いや、内容はいつもとそう変らないよ。いつもより少し長かっただけだ。そう、合計で6時間ぐらいかな」
「6時間だってぇ!いくらあんたでも無茶だぜ、隊長」

 まじまじと大神の顔を見詰めるカンナの表情には怒りの色すら浮かんでいる。

「あんたは自分の事に無頓着すぎるよ、隊長。どんなにすごい力を持っていたって、あんたも人間なんだ。無理が過ぎればぶっ壊れちまうんだぜ?ましてや相手は霊子機関だ、下手すりゃ神経が焼き切れて廃人になっちまうことだってあるっていうじゃないか。そのくらいの事、あんたが一番よく知っているはずだろう!?」
「…すまん、カンナ」

 余りの剣幕、そしてカンナが真剣に心配してくれている事がわかるから、大神にはこれしか言えなかった。
 殊勝に頭を下げる大神。その場しのぎでは無い事がわかったのだろう。カンナの表情も緩む。

「すまなかったな、逃口上なんて勝手な事言っちまって」

 バツが悪そうに、カンナはぼそっと付け加えた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(大神さん、約束の事忘れちゃったのかしら…)

 ベッドにうつ伏せに倒れ込み、顔を枕に埋めて、さくらは不健康な思考の迷路に迷い込んでいた。

(花屋敷で何かあったのかしら…でも、それなら私達にも連絡があるはず…お仕事が長引いているのかしら)
(花屋敷って、ここ以上に若い女の子がいっぱいいるのよね…あやめさんも今日は花屋敷だって言ってたし…)
(ううん、そんなこと関係ないわ。大神さんは決して私達の事を裏切ったりしない…)
(でも、遅すぎる。夕方までには戻る予定だってかすみさんも言ってたのに…)

 実のところ、時刻はまだ5時半。十分夕方の内だ。夕食に出掛けるにはまだ早すぎる時分である。だが、今のさくらにそんな客観的な事実は関係なかった…




その3



「…従って、我々の技術でも霊子波動補正装置の開発は可能だと思われます。また、この装置は霊子力の伝達効率を向上させる整流、増幅装置への応用可能性も大であるというのが技術主任のお考えです」
「なるほどな」

 大帝国劇場支配人室。大ぶりな執務机の前に座しているのは三つ揃えをだらしなく着崩した初老の男。机の前に立つのは飾り気の無いシャツとスラックスの上にベストを引っ掛けた若い男。しかし、その二人は身につけているものにまるでそぐわない芯の通った、剛毅とすら言える風格を漂わせていた。そう、風格。初老の男はともかく、若者もまた、その年齢で到底持ち得る筈の無い風格の様なものを微かにではあるが感じさせる。
 初老の男の名を米田一基、若者の名を大神一郎。今の二人はその着衣に拘わらず、帝国華撃團、米田司令と帝国華撃團花組、大神隊長であった。

「実験結果の詳細を私の所にも送付する様依頼しておきました。事後承諾になりますがよろしかったでしょうか」
「わかった」
「以上です」
「そうか、ご苦労。…お前が熱心になる訳だ。花組の連中の負担を減らしてやれるなら、俺もできるだけの事はしよう」
「ありがとうございます。…それと、長官、この件は花組の皆、特に紅蘭には伏せておきたいのですが。彼女達が余計な気を回す事になりかねませんので」
「そうだな…この件は特別研究班を組織して秘密裏に研究させる事にしよう」
「はっ。では、失礼します」

 支配人室を後にする大神からは疲労がにじみ出ていた。多くの兵士を見てきた米田には、カンナが見た以上に今の大神の状態がひどいものだという事がわかる。完全に消耗しきっている。普通の人間なら、いや、並みの術者なら昏倒しているところだろう。

「あんまり無理するんじゃねえぞ」

 そこにいないからこそかけてやれる言葉。部下に対する思い遣りの心は米田も大神に劣るものではない。だが、自分自身が無理をする事のできる大神が、米田は正直羨ましくもあった…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(5時半か…もうあまり時間はないが…)

 支配人室のすぐ脇に階段、それを昇れば皆の私室のすぐ横に出る。さくらの部屋は一番手前。だが、何故か大神は受付の方へ歩いて行く。事務室を覗き込んで午後の受付を代ってもらったかすみに簡単に礼を述べ、売店で帰り支度をする椿を労い、二階ホールへの階段を上る大神。かすみたちに声を掛ける為にわざわざ遠回りをしたのだろうか。

(やはりな…)

「やあ、すみれくん」
「あら、少尉。今日はお姿を拝見致しませんでしたわね。お出かけだったのですか」
「ああ、朝からずっと花屋敷で缶詰だよ」

 一つ解説を挟むと、「缶詰」というのはある場所に詰めたきりという慣用的な意味も勿論含んでいるが、光武の上半身の印象が巨大な缶に似ていることから光武の操縦席に詰め込まれる=缶詰、つまり光武に乗りっぱなしということだ。

「それは…お疲れでしたわね。お掛けになりませんか、お茶をお煎れいたしましょう」
「ありがとう、ご相伴にあずかるよ」

 すみれの隣に腰を下ろす大神。さくらとの約束はどうするつもりだろうか。
 すみれはよくサロンでお茶を飲んでいる。それが趣味である、と大神は思っていた。だが4ヶ月を一緒に過ごす内に大神はある事に気がついた。すみれは自室にも立派な茶器を持っている。サロンでお茶を煎れるのは緊張している時や誰かと喧嘩した時、心にわだかまりがある時。そういった、おそらくは誰かと一緒にいたいと無意識に思っている時ではないかと。おそらく、すみれは人一倍寂しがり屋で、しかもそれを表に出す事ができないのではないかと。
 ティーカップを受け取り芳醇な香りと味をゆっくり楽しむ。大神は何も言わない。ただリラックスした表情ですみれに視線を向けているだけである。何かを問い掛けている風でもない、ただ見守っているという様な視線。一切を求めず、一切を拒まず、そんな落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「少尉…何かおっしゃりたい事がおありなのではありませんか」

 ティーカップの中身が半分になるころ、すみれがぽつり、という感じで切り出した。自信にあふれ気の強そうないつもの表情が消え、どこか頼りなげな、繊細な表情が顔を出している。大神の前で時々見せる、もう一つのすみれの顔。

「いや…言いたい事はないよ。ただ、聞かせて欲しいだけだ。どんなことでもいいから」
「…おわかりなのですね、少尉には。ですが、それだけで十分ですわ…もう少しここにいて下さるだけで十分です」

 大神は無言でゆっくりカップの残りを飲み干し、すみれの前に差し出した。

「じゃあ、もう一杯いただけるかな?」
「ええ、よろしいですわよ。…少尉、ありがとうございます」

 大神は何も言わず、ただ静かな微笑みを返した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(…大神さんの馬鹿…)

 ベッドにうつ伏せに倒れ込んで身じろぎ一つしない。枕に顔を埋めたまま。さくらはもう30分もこの状態であった。

(守れない約束なんかしなければいいのに。最初から優しくなんかしてくれなければ良かったのに)

 コンコン

 ガバッ

 不意に響くノックの音。さくらは文字どおり飛び起きて扉へ走った。

「大神だけど。さくらくん、いるかな?」

 鍵を開けようとする手が何故か震える。うまく鍵が回らない。いや、震えているのは手だけでない事にさくらは気がついた。急に思いついたように頬をつねってみる。いつのまにか眠ってしまっていて、夢を見ているのかと思ったのだ。そんなはずもないのだが。
改めて扉の前に立ち、さくらはノブにゆっくり手を伸ばした…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


(やれやれ、6時過ぎか。さくらくん、待ちくたびれてなければいいけど)

 右手にはきれいに包装されリボンのかかった小箱。麻のシャツに棒ネクタイをウィンザーノットに締め、夏物の背広を汗一つかかずに着こなしている。
 英国式の文化を持つ海軍で鍛えられた大神だからこの装いも別に不思議はない。ないはずだが、夕方とはいえ真夏の最中に背広ネクタイで決めているその姿は、全く無理のない自然な姿であるが故に余計別人のようである。(他の隊員に見られなくて幸いであろう。何故ならそれは、端から見ればデート用の装束以外の何物でもなかったから)だが大神自身にはいつもと違うという意識はどこにも無かったので(何故なら、彼の受けた教育ではレストランに食事をしに行くのに背広ネクタイぐらいは当たり前だから)、いつもどおりに扉を叩きいつもどおりに声を掛けた。

「大神だけど。さくらくん、いるかな?」

 カチャガチャカチャ、ガチャ

 ………

(……?)

 賑やかに鍵を鳴らす音の後にしばしの静寂。扉のすぐ向こうにいるのは確実だ。気配でわかる。だが、何をしているのだろうか。大神が不審に思ったのも当然だろう。もう一度声を掛けようとしたその時。

 カチャッ

 扉が開いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 扉の前で息を整え、ノブに手を掛けるさくら。そんなに緊張する必要はない筈なのに、やけに緊張しているのが自分でもわかる。

 カチャッ

 さくらの目に飛び込む見慣れぬ人影。扉の向こうに立っていたのは、白いシャツに鮮やかな青のネクタイを締め、象牙色に近い淡い茶色の夏物の背広を隙き無く着こなした若い紳士だった。

「大神さん…?」

 その紳士は少し照れたように笑うとさくらに右手を差し出す。その右手には綺麗に包装されリボンを掛けられた小箱が載せられていた。

「改めて、お誕生日おめでとう、さくらくん」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「大神さん…?」

 扉の向こうから顔を出したさくらは、大神を見て少し驚いたような顔をする。

(普段背広なんて着た事が無いからな…)

 いささか面映ゆさを感じながら、大神は用意したプレゼントをさくらに差し出した。

「改めて、お誕生日おめでとう、さくらくん」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……!」

 初め、さくらは状況が良くわからないかの様であった。数瞬おいてのろのろと手を伸ばす。その手の上に大神がプレゼントの小箱を載せる。
 さくらの目がじわっと潤む。大神に狼狽を覚えさせた次の瞬間、まさに大輪の花が今開いていくような鮮やかな表情の変化を見せた。

「ありがとうございます…」
「どっ、どうしたんだい、さくらくん…少し目が赤い様だけど何かあったのかい?」

 涙の兆し、そして余りにも鮮やかな笑顔の連続攻撃に心臓を直撃され鼓動を速めながら、あたふたと大神は尋ねた。それは確かにいつもの大神の姿だった。

「いえ、何でもないんです。ちょっとうとうとしちゃって。目が腫れているのはその所為だと思います」

 非の打ち所が無い紳士の中にいつもの大神を見出して、さくらは安心した気持ちになった。さっきまで抱えていた不安は綺麗さっぱり何処かへ消え去っていた。

「そう…?」

 大神はまだ不得要領な顔をしていたがそれ以上問い詰めるつもりも無い様である。

「あの、開けてみてもいいですか…?」
「ああ、勿論。気に入ってくれるといいけど」

 丁寧にリボンを解き包みを取るさくら。姿を現したのはちょうど掌に載るくらいの宝石箱だった。箱の蓋を開く。

「わあっ!」

 中から出てきたのは小さな花をいくつも模った淡い桜色のブローチ。

「これ、珊瑚ですね?綺麗…」
「うん、何がいいか随分迷ったんだけど…いや、今でも自信は無いんだけどね。訓練航海で南洋に行った時似た様なものを見た事があったのを思い出したんだ。さくらくんに似合うんじゃないかと思って…」
「でも、高かったんじゃないんですか?」

 急に心配になって思わずさくらは尋ねた。値段の事を聞くのは失礼だという事くらいさくらも知っていたが、大神もそれほど高給取という訳ではない筈である。

「いや、実は…南に配属されている同期の奴に無理矢理送らせたんだよ。包装とリボンは自前なんだ…」

(…何でこんなに綺麗に包めるのかしら?リボンまで…大神さん、どこでこういう事を覚えてくるんだろう…)

 呆気に取られて絶句してしまうさくら。大神は決まり悪そうにそっぽを向いている。

 プッ
 クスクスクス
 アハハハハハ

 同時に笑い出す二人。
 さくらはすっかり気持ちが楽になるのを感じた。今日の自分がいつもの自分でなかった事に漸く気がついた。妙に昂ぶったりつまらない疑心暗鬼に囚われたり、考えてみれば今日の自分はどうかしていたようだ。

(それもこれもみーんな大神さんの所為なんですからね!わかってるんですか!?)

 心の中だけで思いっきりしかめっ面をしてみせて、ついでに大きく舌を出して、それからさくらはいつもの笑顔を大神に向けた。

「ありがとうございます、大神さん。私の宝物にさせてもらいますね」

 そこにはいつものさくらがいた。そのことは大神にもちゃんとわかったようだ。気遣わしげな様子が無くなり、いつも通りの口調になる。漸く、いつもの気の置けない二人になる。

「宝物なんて言わずに、どんどん使ってくれよ。そんな大したもんじゃないんだし。じゃあ、行こうか」
「えっ…?」
「忘れたのかい?夕食は外で食べようって約束しただろ?」
「あっ、そうでしたね!あんまり嬉しくって他の事が頭から吹き飛んでいました。じゃあ、すぐに用意しますので少し待っていただけますか」
「いいとも」
「じゃあ、お部屋で待っていて下さい」
「わかった」

 ウキウキした気分で衣装箪笥に向かうさくら。思いっきりおしゃれして、大神を驚かせてやろう、心のゆとりを取り戻したさくらはそんな悪企みを考えていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 その結果、大神は一度柱に頭をぶつけ、一度扉に手を挟み、二度何も無いところで躓く事になった。階段から危うく転げ落ちそうにもなった。
 細いシルエットのノースリーブの、水色を基調としたワンピース。むき出しの、眩しいほど白い腕にはあえて何のアクセサリーもつけていない。蒼みがかった黒の、薄手のストッキングに赤いパンプス。胸には大神からもらった珊瑚のブローチ。うっすらと唇に紅を引いた以外全く化粧気の無いさくらはそれでも、あるいはそれ故にこそとても眩しくて、見慣れない洋装という事を差し引いてもまともに目を合わせる事が出来ない。大神がどれほど決めていても、やはりさくらには勝てない。こういう場合、男性は女性に勝てない事になっているのである。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 太正12年7月28日、この日の夜、帝都、銀座方面では若い男女の痴話喧嘩が続発したと伝えられている。そのほとんどは、相手が別の女性(男性)に見とれていたのが原因であるという…


――続く――
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