〜プロローグ〜

 汽笛、激励、涙、別れを告げる人々の話し声。
 遠く国を離れ海の彼方に旅立たんとする人々と、それを見送る人々。
 再び会うことのないかも知れぬ別れに溢れ出す深い感情。友情、あるいは愛情。肉親の、 そして恋人の。心を分かち合った者の。
港中で繰り広げられる似た様な、だが全てが唯一無二の別離の光景を見るとはなく目に収めながら、青年は一人船を眺めていた。これから彼を万里の波涛の彼方へと連れ去る船を。
 彼は一人だった。彼の周りには誰もいない。彼に話し掛ける者はない。すがりつく人の姿はない。彼は唯一人旅立とうとしていた。
 だが、彼に別れを告げるべき人、別れを惜しみ涙を流す人々がいないわけではない。否、おそらくは、ここに集うた人々の誰にも劣らず、おそらくは誰よりも深い絆で結ばれた人達を残して彼は旅立とうとしているところだった。今日の、旅立ちのこの日に彼を見送ったのはたった一人。彼と同じく、船乗りとしての性(さが)を持つ友人。別離と邂逅を日常のものとする船乗り同士だからこそ、いつも通りに別れることができたのだと彼は思っていた。
 そう、彼は船乗りだった。彼にとって別れは人生の一部であるはずだった。大切な人を残して海へと漕ぎ出すことが彼の選んだ生き方のはずだった。
 だが、彼は自覚していた。大切なあの人達の、彼女達の、…彼女の涙を目にしたならば、自分は陸を離れることができなくなるであろう事を。使命の為、野望の為、夢の為、別れたくない人達との絆を、別れたくない気持ちを逆に発条(バネ)として陸を離れ、大切な人達との絆を力に換えてあらゆる苦難と絶望から帰還する船乗りの自分が、その絆故にこの地へ縛り付けられてしまう、そんな弱い自分を彼は自覚していた。
 三年前であったなら、おそらくむきになって否定したであろう、船乗りにあるまじき弱さ。だが、今の彼にはその弱さが不思議と心地良かった。自分自身の弱さを認めてしまえることが、自分をひどく自由にしてくれるような気がしていた。

(さて……)

 足元に置いた旅行鞄、数ヶ月に及ぶ船旅を控えているとは到底思えぬような、小さな荷物。それは彼が紛れも無く旅を日常とする暮らしに馴染んでいることを、船の旅が彼の体に染み込んでいることを如実に物語っている。たった一つの小さな鞄を持ち直してタラップに向かう彼。自分の頬が笑みを刻んでいることに、その青年はおそらく気づいていなかっただろう。自分自身をどう思っていようと、確かに彼は船乗りであったのだ。

「………サーン」

 懐からチケットを取り出す。

「……神さーん」

 チケットを右手に持ち、タラップに足を掛ける。

「…大神さーん」

(おやおや、港を離れる前から幻聴とは…懐かしいにしてもいささか気が早すぎるというものだ)

 そんな女々しさが不思議と苦にならない。そんなつまらないメンツを超えたところに彼女達との絆はあるのだから。気の早すぎる自分自身に苦笑しながら、何気なく振り返る彼、海軍中尉大神一郎。
 その鋭い、切れ長の双眸が一瞬、驚愕の色に染まる。
 次の瞬間、彼の面(おもて)にはこの上なく暖かい笑みが浮かび上がっていた。
 奔流の如く溢れ出す喜びではない。ジンワリと心の芯から滲み出してくるような、心の体温そのもののような喜びの波。
 さくらが駆け寄ってくる。すみれが、マリアが、アイリスが、紅蘭が、カンナが、織姫が、レニが、みんなが彼の所へと走ってくる。かすみが、由里が、椿が、かえでまでもが。米田の姿すらそこにはあった。同じ時を過ごし、心を分かち、命を共にしたかけがえの無い仲間達の姿。彼の愛する少女達、彼の愛する少女。そして大神の鋭い視力は倉庫の壁にもたれかかる、彼と同じ純白の装いの青年がどこか人の悪い笑みを浮かべて彼の方へと手を振っているのを見落とすことなく捉えていた。

(あの野郎……!)

 心の中で罵ってはみたものの、この時彼は無性に笑い出したい気分になっていた。自分は何を拘っていたのだろうか。彼女達の目を避けてあの懐かしい場所をコソコソと後にした自分が妙に滑稽だった。彼女達と顔を合わせようが合わせまいが、彼女達と別れたくない気持ちに変わりがあるはずはないというのに。会えば会ったで、会わなければ会わないで自分の心の一部は間違いなく彼女達の元に残されるというのに。だからこそ、己が心の欠片を求めて、自分はどんなことがあってもここに戻って来られるだろうというのに。
 ……この時はまだわかっていなかったのだ。大神一郎、その卓越した洞察力を以ってしても、自分の心を本当に見極めるということのなんと困難なことか……

「大神中尉に敬礼!」

 彼の前で立ち止まる、勢揃いした花組の少女達。思い思いの装いで横一列に並び、掛け声と共に彼へと向けて敬礼する姿はひどくぎこちないものだった。そうだ、今の彼女達は戦闘服を身に纏い鋼の甲冑を操る帝国華撃團・花組の隊員達ではない。彼が「平和」な日常を過ごした大帝国劇場の、帝国歌劇団の団員達、人々の夢と希望を象徴する少女達だ。だからこそ、その見送りは万を超す儀杖兵の一糸乱れぬ敬礼より輝かしい、貴重なものだった。見よう見まねの敬礼に対し、彼は敢えて、何万回と繰り返し誰よりも美しい完璧な型を作り出すことのできる海軍の敬礼ではなく、やはり見よう見まねの「陸」の敬礼を返した。ふと、その視線が米田と交錯する。米田は全てお見通しだぞとでも言うようににやりと笑い、そして大神以上に決まらない、ぞんざいな答礼。隣ではかえでが堪(こら)えきれずにクスクス笑いを漏らしている。
 彼女達とここで、船出の港で別れを交わすことができてよかった。
 心からの笑顔と共に、彼は心の底からそう思っていた。

 つないだ心を振り切ってまで尚「外」へと向かう船乗りの心を象徴するかのように、船上と桟橋をつなぐ七色のテープが沖へ向かう力に千切れ海面に舞う。手を振って大神を見送る少女達。ふと、紅蘭とカンナが何やらゴソゴソと緞帳の様なモノを取り出すのが見えた。二人はその両端をそれぞれの手に持ち、ニッと頷き合う。

 タッタッタッタッタッ

 紅蘭が花組全員の前を横切って、その前に大きな布を広げた。

「!」

 そこには。

『ガンバレ大神一郎中尉』

 大書された激励の言葉。

「………」

 思わず熱いものがこみ上げてくる。しかし、それは涙とはならなかった。胸の奥から湧き上がった熱い想いは、胸の奥から浮かび上がった笑顔となって彼の凛々しい顔(かんばせ)を飾る。思わず、大きく手を振る大神。
 八人が全員で垂れ幕を支え、二人がその横から、六人がその上から笑顔で手を振る。彼女達の唯一人の隊長に応えて、一層大きく手を振る花組の少女達。その眩しい笑顔。

 そして、大神は・・・見てしまった。

 さくらの笑顔。

 その瞳からこぼれ落ちる一滴の雫。

 笑顔をつたう一筋の涙。

 タンッ

 白い影が宙を舞う

 !

 驚愕の声無き叫びが陸と海に木霊する。

 ザンッ

 意外なほど小さな、水に飛び込む音。
 世界を沈黙が覆う。
 否、現実の世界には機関を急停止させようと右往左往する狼狽の叫びが往復している。
 だが、人々の心の世界は沈黙に覆われていた。

 意外過ぎる行動

 躊躇の欠片無き跳躍

 そしてあまりにも美しい飛翔

 そこに集うた人々は、人が、その心を以って空に舞う姿を目の当たりにしたのだと信じた。
 想いが空を翔ける姿を目撃したのだと、誰に言われるとも無く、誰もが感じていた。

 程なく海面に浮かびあがる若い男の姿。
 余程泳ぎが達者なのだろう、服を着たままであるにもかかわらず、既に桟橋の真近まで来ている。
 舫い綱をつかみ、自分の体を陸の上に引き上げる。
 当然の事ながら、髪の先までびしょ濡れになり、純白の軍服は水を吸い込んでねずみ色に変色している。
 だが、全身から潮を滴らせながらも、その姿には微塵のみすぼらしさも無かった。
 その姿は奇妙に感じるほど溌剌としており、その表情は不思議と晴れやかだった。
 それは、全ての謎を解くことに成功した若い冒険者の様な歓びに溢れた姿だった。
 花組の、帝撃の誰もがその暴挙に言葉を失い、そんな彼をただ呆然と見詰めているだけだった。
 みんなの呆気に取られた視線の中、彼は溌剌とした足取りそのままで歩を進め、長い黒髪を真紅のリボンでまとめた少女、さくらの前に立ち止まった。
 ずぶ濡れになったハンカチをポケットから引っ張り出し、おもむろに手を拭う。
 ただ立ち尽くし、見送りの横断幕を握り締めたまま大神の顔を見詰めることしか出来ないさくらの頬に、そっと手を伸ばす。
 潮の香を振りまく大神の指が、さくらの頬の、涙の跡をそっとなぞる。

「ど、どうして…?」

 ようやくその一言だけを絞り出すさくら。
 その一言に込められているのは、驚愕、戸惑い、そして……期待。押し殺された願い。

「忘れ物に気がついてね」
「そ、そうなんですか。ダメですよ、大神さん。気をつけないと」

 言葉が、感情が上滑りになっていることにさくらは気付いていない。突拍子もない大神の台詞を不審に感じる事すら出来ない。落胆に意識が空回りしている。そんなさくらを見て、誰も口を挿むことが出来ずにいる。

「全くだ。こんな大事なことに気付かなかったなんて、本当に俺はどうかしている」
「……?」

 「忘れ物」と言いながら、それは何処か奇妙な言い回しだった。大神は、妙に楽しそうだった。
 思考力が空転しているのはさくらだけではなかった。全員の不思議そうな視線の中で、大神はくるりと踵を返し、米田の前に移動した。

「閣下、お願いしたいことがございます」

 きびきびとした口調、手が風を切る音の聞こえてきそうな敬礼。それは先程の不慣れな敬礼姿ではなく、気鋭の海軍士官、否、帝国華撃團花組隊長の姿であった。

「お、おう」

 その気迫に押されるように、それだけを口にする米田。

「閣下に、証人になっていただきたいのです」

 不動の敬礼のまま、それに相応しい口調で続けた大神は、言葉を切ると意味ありげに唇の端を持ち上げる。
 米田の顔に理解の色が浮かんだ。
 米田もまた、にやりと笑って頷く。
 それは、手のかかる愛弟子がやっとのことで正しい答えに辿り着いたのを確かめた教師の様な、満足を含んだ笑みだった。
 体を転じ、今度はかえでの方に向き直る大神。

「かえでさん」
「な、何かしら?」

 事態の推移について行けないのはかえでも同じ。かえでですら、この時大神が何をしようとしているのか、理解できていなかった。

「かえでさんも証人になっていただけませんか? 帝国華撃團の副司令として、帝国華撃團花組隊長・大神一郎と花組隊員・真宮寺さくらの証人に」
「大神くん、あなた…!」

 かえでの顔にも理解の色が広がる。かえでだけでなく、マリアやかすみの顔にも驚きと、喜びの色が浮かんだ。
 二人にも頷きかけると、大神は再びさくらを前にした。

「さくらくん。いや、真宮寺さくらさん」
「は、はいっ!」

 改まった大神の口調に、跳び上がるように応えを返すさくら。

「私、海軍中尉大神一郎は軍命によりフランスへ赴かなければなりません」
「は、はい……」

 しかし、大神の口からは定められた未来しか語られない。
 さくらの望む、新たな未来は語られない。

「大使館付き駐在武官となれば、気ままな下宿生活という訳にもいきません。自分で地位に相応しい住まいを整える必要があります」
「……?」

 周りで息を呑む声。慌てて口を抑える姿。期待に満ちた空気の中で、さくらだけがわかっていない様だった。

「普通は家政婦を雇ったりするのですが。…独身者の場合は。ですが」
「?」

 まだわからないさくらに、じれったそうな視線が何本も突き刺さる。
 だが、大神本人はそんなさくらを愛おしげに、暖かな眼差しで見詰めている。

「私は、貴女について来て欲しい。…大神、さくらとして」
「!」

 両手で口を抑え、目を見張るだけのさくら。

「米田閣下が、藤枝副司令が、そしてここにいるみんなが証人です。私は貴女に結婚を申し込みます。…受けてくれるね、さくらくん?」

 いっぱいに見開かれたさくらの両目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「俺はどうかしていたよ。いつか、また会えるだなんて。一緒にいたい気持ちがあれば、きっといくらでも道はあるはずなのだというのに。
約束するよ。俺はずっと君のそばにいる。だから、さくらくん、ずっと俺のそばにいてくれ」

 大神の真剣な、そして暖かい眼差しに何度も頷くさくら。こぼれ落ちる大粒の涙はこの時、笑顔を飾る最高の宝石だった。

 太正十五年、ある春の一日。横浜港に少女達の歓声が木霊した。


私説・第十四話――さくらBeginning――前篇


エイッ!
ヤァッ!
・・・・・・・・・

 ふぅ〜〜
 カチ

 荒鷹を鞘に収める。真宮寺の家に、破邪の血統の頂点に立つ裏御三家最後の一つ、神州の霊的な護りを担う裏の名門、真宮寺家に代々伝わる霊剣にして、上代の力ある人々が神々の剣を模して鍛えたと伝えられる二剣二刀の一つ、霊剣・荒鷹。それはさくらにとって、父、真宮寺一馬の形見の品でもある。
 日の出の時、世界が最も陽の気に満ちるこの一時に清冽なる力を秘めた霊剣を振り己を鍛える、それがさくらの日課だった。この、太正十五年の春からの。
 以前から、剣の修行を怠ったことはない。子供の頃から、剣の道は自分の生活の一部だった。父の死に打ちのめされていた一頃、剣を握れなくなったことがあった。しかし、さくらは再び剣を手に取った。それは、剣が彼女自身の一部であり、彼女を支えるものでもあったから。
 そう、さくらは息をするように剣を振っていた。それは特に考える必要も無い、自分にとって極々自然なことだった。剣の修行は彼女にとって当たり前の日常だった。
 しかし、半年前から、それは変わっていた。剣が変わったのではない。彼女が変わった。当たり前ではない。意味のあるものになった。彼女は自分を高める為に、剣を振るようになった。自分を高めたい、さくらはその想いに突き動かされて、剣の修行を意味のあるものに変えていた。

 自室に戻り、荒鷹を神棚に納める。彼女は朝のこの一時以外、荒鷹を手にしなくなっていた。彼女の部屋にはもう一振りの太刀がある。日本刀、とは言えない。シルスウス鋼で作られた太刀、それは霊子甲冑用の太刀を人間用に小型化しただけのものだった。魔との闘いに荒鷹の力は借りない。それがさくらの決意。荒鷹は、自分を高みへと導く道案内だと、自然にそう思うようになっていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 大帝国劇場、さくらの暮らすこの通称・帝劇には人々に夢と感動を与える娯楽の殿堂という顔以外に、もう一つの顔がある。その、地下に潜むもう一つの顔は常に大量の熱を排出している。そのおかげで、さくらたちは温泉町でもないのに二十四時間、お湯を使うことが出来る。

「おはよう、さくら。今日も早いのね」
「おはようございます、かえでさん」

 長く美しい黒髪から水気を拭い身支度を終えたちょうどその時、入れ違いになるようにさくらより少しだけ年上の美しい女性が更衣室に入ってきた。大帝国劇場のもう一つの顔、帝国華撃團銀座本部の責任者にして帝国華撃團副司令、藤枝かえでである。

「相変わらず頑張ってるみたいね」
「はい、ありがとうございます」

 にっこり微笑んですれ違いざま軽く会釈をするさくら。彼女の後ろ姿を見ながら、かえでは思う。さくらももう二十歳と一つ。大人びてくるのは当然のことだ。しかし、半年前のさくらは確かに大人の女性としての魅力を身につけ始めてはいたが、生来清楚なイメージが強い容貌の所為か、まだまだ初々しい印象が強く美女というより美少女という言葉がピッタリだった。しかし、この半年でさくらは急激に大人びてきた。清楚なイメージはそのままに、雰囲気に落ち着きと厚みが加わってきた。
 …それはきっと彼の所為だ。彼との約束が、さくらを大人にしている……
 かえではそう思った。

◇◆◇◆◇◆◇

「おっ、今日の朝飯もさくらが作ったのか?」
「あっ、カンナさん。おはようございます」
「へぇ〜、どれどれ、おっ、今日も美味そうじゃねえか」
「すみません、いつもあたしのお料理の練習につきあわせちゃって…一人分だとどうしても材料が無駄になるものですから」
「いやぁ、さくらの料理は昔から美味かったし、最近ますます腕が上がってきたからなぁ。美味いもんが食えるのは、あたいはいつでも大歓迎だぜ。
でも、これでいつ隊長が戻ってきても大丈夫だな。案外、隊長もさくらの手料理を夢にでも見てるんじゃねえのか?」
「や、やだ、カンナさんったら、そんな……」
「アハハハハハハハ、今更照れるこっちゃねえだろう?」
「カンナ、さくら、おはよう。相変わらず早いのね、二人とも」
「マ、マリアさん、おはようございます」
「よおっ、マリア。そっちも相変わらず正確だねぇ」
「朝から楽しそうね。何を話していたの?」
「見てみなよ、マリア。美味そうだろ」
「あらっ、今朝もさくらが作ってくれたの?」
「ああ、これならいつ隊長が戻ってきても大丈夫だなって話をしてたんだ」
「フフッ、そうね。きっと隊長もさくらの手料理が恋しくなってるわよ」
「あ、あの、マリアさんの分をお持ちしますね」

 赤くなった顔を隠すようにそそくさと厨房へ向かうさくら。
 その微笑ましい姿に二人は穏やかな笑みを交わし合う。

「さくら、頑張ってるわね」
「ああ、もっと落込むかと思ってたけど、大したもんじゃねえか」
「ああして努力し続けることで、寂しさを紛らせてる部分もあるのかもしれないけど…」
「でも、それだけじゃないぜ、きっと。さくらは努力することの楽しさを知ってる娘(こ)だよ」
「そうね…私たちも見習わなきゃいけないかもね」
「…もう半年か」
「ええ……」

 二人の笑みに、寂しさの色が混じる。

「お待たせしました、マリアさん」

 純和風の朝食をお盆に載せて危なげなく運んでくるさくら。
 その曇りの無い笑顔に、マリアとカンナはもう一度微笑みを浮かべて頷き合った。

◇◆◇◆◇◆◇

拝啓
残暑もようやく和らぎ、帝都にも秋の足音が聞こえてきました。
大神さん、お変わりありませんか。
あたしたちはみんな元気に過ごしています。
帝劇では秋公演の演出も決まり、いよいよ通し稽古に入りました。
今回の出し物は『風よ、万里を翔けよ』、女戦士花木蘭のお話です。
あたしは久し振りに主役を演らせて頂くことになりました。
・・・・・・・・・・・・

 舞台の稽古を終え汗を洗い流して自室に戻ったさくらは、白熱灯のスタンドをつけ机に向かってペンを走らせていた。

大神さんのお勉強の方は如何ですか。
大神さんのことですから、きっと誰よりも努力して誰よりも立派な成績を修めていらっしゃることと思います。
大神さん、あたしも頑張っています。
異国の地で一人努力する大神さんに負けない様に頑張っています。
さくらは、大神さんに相応しいさくらになれる様に頑張っています。

 コトッ

 ふと、ペンを置く。顔は机を向いているが、目は字を追いかけてはいなかった。

(大神さん……)

 机の抽斗の奥から、漆塗りの文箱を取り出す。
 丁寧に蓋を取って、中に納められた五通の封書を大切そうに取り出すさくら。
 それはさくらにとって、とても大切なものだった。
 彼女の宝物だった。
 一月に一回、仏蘭西は巴里の地から届く大神の手紙。
 決まって、一月に一度。
 料理の味付けが濃すぎてなかなか慣れないとか、夜になっても日が沈まないので調子がつかめないとか、内容は、そんな他愛も無いことばかり。
 月に一度しか届かない短い便り。
 でも、その文面からはおそらくは筆無精であろう大神の、精一杯の思い遣りが溢れていた。
 彼の人柄そのままの、暖かい手紙。

(会いたいな……)

 ぼんやりと、そんなことを考えている自分に気付いて、気を取り直すように二、三度頭を振り、大切な手紙を大切にしまって、もう一度書きかけの手紙に向かうさくら。
 最後の一文に目を戻す。

大神さんに、会いたい

 クシャ

 慌てて便箋を丸め、さくらは深く溜息を吐いた。

◇◆◇◆◇◆◇

『これからも、ずっと一緒にいて下さい…』
『……ああ、これからもずっと一緒さ』

 雪のクリスマスイブ。魔法の時間の終わりを告げる鐘の音の中で、初めて打ち明けた本当の気持ち。初めて、はっきり頷いてくれた一言。

『大神さん。これからも、ずっと一緒にいて下さいね……
これからも、ずっと一緒に……』

 最後の決戦に向かう空の上で、あの人は頷く代わりに優しく抱きしめてくれた。

 そして戦いが終わった春の一日。取り戻した平和な日々の中で、ずっと一緒にいられると思っていた、少しずつ彼に近づいていけると思っていた日々に突然訪れたあの日。
 仏蘭西に留学
 かなり長期になる
 いつ戻ってこれるかわからない
 二年前、あの人が海軍に戻った時も、こんなに不安な気持ちにはならなかった。
 訓練航海。
 あの時は、一年経てば戻ってくるとわかっていた。
 例え帝劇に戻ってこられなくても、何時でも会いに行ける所へ戻ってくるということがわかっていた。
 でも、今度は。
 仏蘭西。
 手の届かない所。
 いつ戻ってこられるかわからない。
 戻ってくるのかどうかも、わからない……

 さくらは大神を信じていた。信じようと思っていた。

 ずっと一緒にいてくれるって約束してくれた

 大神は彼女達に嘘をついたことはなかった。彼女に、嘘をついたことはなかった。どんな困難な『約束』も、必ず現実のものにしてきた。
 そしていつも、さくらは大神の約束を信じてきた。例え自分では無理だと思うようなことでも、絶望に負けてしまいそうな時にも、大神の約束なら信じることが出来た。
 だけど、今度は
 不安を消せない
 不安な気持ちを消すことが出来ない
 未来を信じることが出来ない
 いくら、大神を信じていればいいのだと自分自身に言い聞かせてみても、心に巣食った暗雲は決して消えようとはしなかった。

 行かないで
 ずっと一緒にいて下さい
 あたしの傍にいて下さい

 何度も、こぼれそうになった言葉。
 動きかけた唇。
 出発の前の日、やっと心を整理することが出来た。
 心を整理する為に、手紙をしたためた。
 その手紙を手渡すことで、自分の気持ちを整理することが出来たと、そう思っていた。
 そして、出発のあの日。
 加山がみんなに教えてくれた。
 大神が、一人旅立とうとしていることを。
 みんなが怒った。
 そして、みんなが笑い出した。
 いかにも大神らしい、と。
 蒸気自動車、蒸気バイク、有らん限りの手段を動員して、港へと急いだ。
 そして、みんなで大神の船出を見送ったあの時。
 涙が、こぼれてしまった。
 彼の前では、決して泣くまいと思っていたのに。
 彼に、涙を見せてしまった。
 あの時の驚きは、生涯忘れないだろう。
 宙を舞う白い影。
 全身から海水を滴らせながら、さくらの前に歩み寄ってきた大神の姿。
 そして、初めて彼の方から言ってくれた台詞。
 彼の方からくれた約束。

 ずっと、君の傍にいる
 ずっと、傍にいて欲しい

 あの言葉が、さくらの不安を消してくれた。
 さくらの心を覆い尽くそうとしていた暗雲を払ってくれた。
 だから、さくらはここに残った。
 大神は一緒に巴里へ行こうと言ってくれた。
 だからこそ、さくらは帝都に残ることが出来た。
 大神の約束が、信じる心をくれたから。
 そして大神に相応しい女性になりたいと思ったから。
 その為に、もっともっと努力したいと、今、やれることをやりたいと思ったから。
 帝劇には、彼女の出来る事が残っていると知っていたから。
 それは我侭だと、彼女にもわかっていた。
 でも、彼は笑顔で頷いてくれた。
 とても満足そうな笑顔で。
 そして、出来る限り早く戻ってくる、そう、約束してくれた……

 今は、彼のことを信じている。
 大神は、必ず自分の所へ戻ってきてくれると。
 だけど
 会いたいという気持ちは信じる気持ちとは別のものだった。
 会いたい
 その気持ちが、これ程切ないものだとは、想像していなかった。
 会えなかったのは二年前も同じなのに……
 想いが深くなれば寂しさも増すのだということを、さくらは本当の意味で理解していなかったのだ……

◇◆◇◆◇◆◇

「紅蘭、それに由里さん。どうしたんですか、そんなに大騒ぎして?」
「あっ、さくらはん。これが興奮せずにいられますかいな!」
「特ダネなのよ、特ダネ!スカイ・ホエール号は知ってる?」
「ええと、独逸のツェッペリン伯号に対抗して大英帝国が国の威信をかけて建造した旅客用大型飛行船だったかしら?」
「そうや!帝撃から翔鯨丸の技術を極秘に提供して作られた超大型飛行船や」
「そう言えば、二・三日前世界一周旅行に出発したって新聞で読んだ気がするわ」
「そう、それでね、スカイ・ホエール号が羽田に寄港することが決まったの!」
「ええっ?東亜細亜では香港に降りるだけだって書いてあった気がするけど」
「やっぱり日英同盟っちゅうもんがあるさかいなぁ。そもそもそれもあってうちらは技術提供させられたんやし。素通りは仁義に欠けるっちゅうもんやろ!」
「大英帝国領内より外国に降りる方が示威行動になるって意味合いもあるみたいね」
「でも、そげなこと関係ないでぇ!」
「ああん、何とか直に見に行けないかしら!」
「機関室、のぞかせて欲しいなぁ!」

 事務室は凄い盛り上がりようである。機械に目が無い紅蘭と、新しいものに目が無い由里では仕方が無いかもしれない。決して物見高い性格ではないさくらですら、かなり心惹かれるものがあるのだから。

「それで到着はいつなんですか?」
「それが明後日なのよ」
「……初日前日じゃないですか。それじゃあ無理ですね」
「ああっ、これがせめて始まってしまった後やったらなぁ!少しは時間取れるかもしれへんのに!」
「後一日早ければ…後でかすみさんにたかられることになっても絶対抜け出して見に行ったのに!」
「抜け出して……何をするんですって?」
「ヒッ!」

 由里の体が誇張ではなく30センチほど浮き上がった。バレリーナに匹敵する高速ターンで振り返る由里。
 そこには何の気配も感じさせず忍び寄った(?)かすみの姿があった。

「この、忙しい時に、仕事を抜け出して、どこかに行くみたいなことを言ってたみたいだけど、もちろん私の聞き違いよね、由里?」
「い、いや〜ねぇ、かすみさん。そんなことするはずないじゃない?あはっ、あはははは」
「……全く。羽田に行きたいのはわかるけど、手伝ってくれる大神さんはいないのよ?
あっ!」

 しまった、という表情で口元に手をあてるかすみ。由里がしきりに百面相をしているのは、この場をどう取り繕おうか迷っているからに違いない。

「ふふっ、そうですね。あたしたちじゃ大神さんの代わりは務まりませんものね」
「そ、そうやね〜。月組の隊長はんは普段どこにおるのやら捉まりゃへんし」
「じ、事務室にはお客様もいらっしゃるから薔薇組の皆さんにお願いする訳にもいきませんものねぇ」
「じゃあ、紅蘭。あんまりお邪魔しちゃ悪いからあたしたちもそろそろ行きましょうか?」
「そ、そやね。そろそろ稽古に戻る時間やし」
「かすみさん、由里さん、それでは失礼します」

 焦る三人の思惑に反して、その場を収めたのはさくらの屈託無い笑顔だった。
 事務室を出て行く二人の後ろ姿に、顔を見合わせるかすみと由里。入り口に視線を戻した由里の顔にはどことなくホッとした表情が浮かんでおり、かすみの顔には少しだけ、痛ましげな色が浮かんでいた……

◇◆◇◆◇◆◇

大神さん、あたしも頑張っています。
異国の地で一人努力する大神さんに負けない様に頑張っています。
さくらは、大神さんに相応しいさくらになれる様に頑張っています。

 コトッ

 ペンを置く。
 どうしても、それ以上筆が進まない。
 伝えたいことは一杯あるのに、たった一つの想いが邪魔をしている。

 会いたい

 ぼすっ

 ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
 さくらは久し振りに涙を流していた。

 

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