私説・第十四話――さくらBeginning――中篇


 帝国歌劇団太正十五年秋公演、『風よ、万里を翔けよ』初日。
 大帝国劇場前には長蛇の列が出来ていた。
 最近、特に綺麗になったと評判の、神崎すみれと人気を二分する帝劇の娘役スタァ、真宮寺さくらの、特別公演を除けば丸二年ぶりの主演作である。男装の少女兵士の、活劇とロマンス。前評判は沸騰状態だ。
 初日、席は全席指定。もちろん、並ぶ必要など無い。そもそも道に人が溢れて車の邪魔になるから、それを防止する為の全席指定なのである。だが、お祭り好きの帝都市民にはその様な思惑、関係なかったようだ。
 今にも将棋倒しが起こりそうな人ごみに、会場の時間を一時間早めてお客を中に誘導する。切符をもぎるのは帝劇職員に身をやつした月組隊員三人掛りである。手は三倍、それでも渋滞が生じるのを避けることは出来ない。
 そして開場が早まって開演が予定通りということは、それだけ売店が忙しくなるということである。売店を守るのは売店の椿ちゃんこと帝撃風組・高村椿。そして乙女組から派遣されてきた研修生が二人。それでも効率が三倍ということには残念ながらならない。椿の手は、他の二人の倍以上の速さで動いていた。
 いよいよ開演間近となり、ロビーや売店の怒涛の様な騒ぎも潮が引くように鎮まっていく。そしてまさに開演間際のその時、さっぱりしたスーツに身を包んだ長身の若者が入り口で切符を差し出した。観劇にかなり慣れているようだ。全席指定である以上、この時間に来ても問題ないのだということを良く知っている態度。

あっ!?

 その青年が売店の前を横切った時、椿は思わず声を上げてしまった。小さな、驚愕の叫び。
 その声に振り向いた若者は、悪戯っぽい、親しげなウィンクを椿に投げる。そして人差し指を唇の前に立ててみせる。
 彼が客席に入っていくのを、椿は呆然と見詰めていた。

◇◆◇◆◇◆◇

 初日は、いつになっても緊張するものだ。特に、初めて演じる役で、しかも主役ともなれば。開演を間近に控え、さくらは楽屋で最後の精神統一をしていた。
 衣装も、メイクも済んでいる。後は幕が開くのを待つばかり。幕が上がるまでの、最も不安な時間。
 しかし、さくらはこの時、不思議な高揚感に包まれていた。
 奇妙なほどに心が落ち着いている。
 驚くほど気力が充実している。
 何かが、自分を守ってくれている、見守ってくれているような気がする。
 「舞台の神様」とは、レニがよく口にする台詞だ。舞台には神様がいる。舞台の神様が力を貸してくれれば、本当にいい演技が出来る。その意味が、実感できるような気がしていた。
 もうすぐ、幕が上がる。
 さくらは立ち上がった。

◇◆◇◆◇◆◇

「た、大変です!」
「どうしたの、椿ちゃん!?」

 慌てふためいて事務室に飛び込んできた椿に、かすみも血相を変える。何かロビーでトラブルが起きたのだろうか?

「大変なんです!大変なんですよ!!」

だが、椿は大変大変を連発するばかりで、少しも要領を得ない。

「椿、落ち着いて!一体何があったの!?」

 表情を引き締めた由里が、椿の肩に手を置いて落ち着かせようとする。話を聞き出そうとする。

「来てるんです。見に来てるんですよ!!」
「何のこと?誰が見に来てるというの!?」
「さっき、客席に入っていかれるのをお見掛けしたんですよ!――さんが!!」
何ですって!?

◇◆◇◆◇◆◇

 幕が下りる。
 客席は万雷の拍手に溢れていた。いつまでも終わることの無い喝采。二度、三度と繰り返されるカーテンコール。
 舞台は素晴らしい出来栄えだった。目の肥えた常連客も時々しか見に来る機会の無い観客も、皆が同じ様に興奮し、掌が真っ赤に腫れ上がるのもお構い無しに手を叩き続けていた。主役も相手役も脇役も、素晴らしく「ノッている」舞台だった。素人目にも、いつにまして役者の気持ちが充実しているのがわかった。
 拍手はいつ止むともなく続いていた。

「みんな、お疲れさま!!素晴らしい出来栄えだったわ!」
「ありがとうございます、かえでさん」
「さくら、すごかったよぉ!!」
「ありがとう、アイリス」
「いやぁ〜、それにしても初日からこんなにノッて演れた舞台は久し振りの様な気がするで」
「ホントホント、久し振りっつうか、初めてじゃねえか?」
「そうですね〜、ナンカ、舞台の上でとっても気持ちよかったデース」
「レニの口癖じゃありませんけど、まるで舞台の神様が力を貸してくれていたようですわ」
「そうだね、今日の舞台は、神様が微笑んでいたよ」
「本当に。舞台と客席を何かとても大きな力が包んでくれていたような感じだったわ。まるで……」

 その台詞に花組の全員が顔を見合わせる。まるで……?
 そう、この感覚には覚えがある。半年前までは、常に彼女達と共にあった感覚だ。充実と安心感。見守ってくれている、守られている実感。
 ふと、楽屋に近づく人の気配を感じる。全員が入り口に視線を向けた。例え公演中でなくても、関係者以外はここまで入ってくることは出来ない。普通に考えれば、花束やプレゼントを預かってきたスタッフだろう。気にすることはない。だがこの時、全員の目がその気配に釘付けになっていた。

 コンコン

「ど、どうぞ」

 応える声も詰り気味になる。

 カチャ

 さくらの応えにノブが回る。
 扉が開く。
 花束を手にした長身の青年が姿を見せる。
 そこにいた全員が凍り付いた。

「初日成功おめでとう。みんな、とてもいい舞台だったよ」

 さっぱりしたスーツを着込んだ長身の青年。切れ上がった双眸と逆立った髪が印象的な、凛々しい顔立ちの二枚目。だが、どちらかといえば厳しい容貌を穏やかな表情が親しみの持てる好青年に見せている。
 彼は確かに部外者ではなかった。
 全員が良く知っている青年だった。

「…お、大神、さん?」

 おずおずと、いや、恐る恐るさくらが彼の名を口にする。
 まるで、言葉にしてしまったらその瞬間醒めてしまう夢なのでは?と疑っているかのように。

「さくらくん、久し振り」

 だが、その声は聞き間違えようのない、確かに現実の声だった。手渡された花束は、確かに現実の質感を備えていた。

「…大神さん、ですよね?本当に、大神さんですよね?」
「ああ」

 優しく頷く大神。
 さくらの戸惑いを優しく受けとめる笑顔。
 その瞬間、想いが溢れ出した。

…大神さん!

 どんっ

 大神の胸に飛び込む。その胸にしがみついて泣きじゃくるさくら。
 思いがけないさくらの激しい感情に、他の八人は戸惑いの表情を浮かべ、そして納得した顔で頷き合った。どんなに元気そうに見えても、やはり寂しかったのだと。どんなに平気そうに見えても、やはり無理をしていたのだと。信じる気持ちがあっても、会いたいという気持ちは抑え切れないものだと……
 いつまでも泣きじゃくるさくらの肩を大神はいつまでも優しく支えていた。

◇◆◇◆◇◆◇

「随分急なご帰国ですが、いったいどうされたのですか?」

 公演後の喧燥も漸く収まった大帝国劇場二階・サロン。花組の八人、かえで、かすみ、由里、椿の、特に大神と親しかった面々が、大神を取り囲んで彼の口から事情が語られるのを息を潜めてじっと待っている。突然の帰国、突然の登場。帝撃副司令のかえですら知らされていなかったのだから。
 ソファに腰を下ろした彼の隣には恥ずかしそうに俯くさくらの姿。みんなの前で大泣きしてしまったのだ。穴があったら入りたい、というのが正直なところ。だが、事情を知りたいと一番思っているのは、おそらくさくら。それに、今は一分でも一秒でも彼の傍を離れたくなかった。

「事前に連絡しなかったのは謝るよ。別に驚かせようとした訳じゃないんだ。ただ、手紙より自分の方が早く着くことがわかっていたからね」
「大神さん、まさか?」

 由里が目を輝かせて思わず口を挿む。

「そう、スカイ・ホエールに乗せてもらったんだよ。何せ帰国が決まったのは出発の一週間前だったからね。どんな船便より俺の方が早く日本に着いちゃうから手紙を書いても無駄だと思ったんだ」
「いいなあ〜、ロンドンから空の旅かぁ」
「大神はん大神はん、それで、どないやったん?出力は?最高速度はスペック通りやった?安定性は?なんぞ新しい技術に気付かんかった?」
「由里」
「紅蘭」

 脱線しかける二人をかすみとマリアがたしなめる。

「それで、どうしてこんなに急に帰国することになったの」

 かえでが話を本題に戻す。

「はあ、それが、ちょっとドジっちゃいまして…研修所を追い出されたんですよ」
ええっ!?

 いくつもの声が見事に重なる。

「名目上は卒業なんですけど、実際は体よく追い出されたということですね。留学は僅か五ヶ月で終了です」

「な、なんでまた……」

 呆然と問い掛けるかえで。度肝を抜かれた表情で大神を見詰めるいくつもの視線。
 さくらもまた、大神の隣から彼の顔を呆然と見詰めていた。しかし、彼女の顔には皆とは違う感情も含まれているように見えた。

大神ぃぃ!!

 そこに乱入してきた怒鳴り声。

「てめえ、ここにいやがったか!!」
「し、支配人!?今日は花小路伯爵のお宅に行かれていたのでは?」

 そう、表向き大帝国劇場の支配人を務める米田が公演初日に劇場を空けるのは異例のことだが、緊急の用有りということで朝から花小路伯爵邸に呼ばれていたのである。

「大神っ!!貴様、とんでもねえことをしでかしやがったな!!」

 だが、米田にその声は届いていなかった。おそらく、大神の姿以外目にも入っていなかっただろう。

「大神一郎、戻りました」

 大神は落ち着いて立ち上がり、静かに敬礼を見せた。
 だが、他の面々は米田の余りの興奮振りとその台詞に顔色を変えている。

「一体…何があったのですか」

 恐る恐る訊ねるマリア。あのマリアが、恐る恐る、だ。

「この馬鹿はなぁ、仏蘭西正規軍の人型蒸気部隊を全滅させやがったんだよ!!」
何ですってぇ!?

 素っ頓狂な声を上げるすみれ。他の者は、声も出ないといった感じだ。

「この馬鹿たれは、実戦演習で正規軍の人型蒸気部隊を全滅させやがったんだ!!」
「何でぃ、演習かよ」
「何でぃ、じゃねえ!当然、仏蘭西軍のお偉いさん方は面目丸潰れと大激怒だ。そんだけのことが出来るんなら研修はもう必要ねえだろってことで大神は卒業に名を借りた厄介払い、それだけならまだしも、もう日本軍に我々が教えることはないでしょうってんで今後研修生の受け入れはしないと言ってきやがった」
「………」
「陸軍省と外務省は大騒ぎだぜ!!特に外務省の欧州担当官は真っ青になってやがる。仏蘭西との関係が一気に悪化したらどうしようってな!
やい、大神、てめえ一体どういうつもりで」
「支配人、ここではそのお話は」
「……わかった、ついてこい。続きは司令室で聞く」

 荒っぽい足音を立てて地下へと降りていく米田、その背中に続く大神。
 少女たちは、最早大半が少女と呼ぶべき年齢ではなかったが、顔を見合わせ、すぐに立ち上がると大神の後に続いた。
 米田はそのことを、咎めようとはしなかった。

 

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