帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第一話 〜〜


 帝都東京に名高い銀座・大帝国劇場。
 重厚な洋風建築の劇場は中身も外観に相応しい品格を備えながら、且つ、扉をくぐった人に出来るだけ重圧感と緊張感を与えないよう、娯楽空間として細やかな心配りがされている。
 それはおそらく、西洋化の進みつつある日本、その最先端を進む帝都においても尚失われることなく人々の――特に女性達の――心の底流を流れる「日本的」な心遣いの表れではないだろうか?
 羅馬の劇場とも、倫敦の劇場とも、紐育の劇場とも違う、この東京の劇場に固有の、大帝国劇場ならではの雰囲気――魅力は、西洋の器と日本の心の融合によって生み出されているに違いない。
 そしてその「心遣い」は内装や調度品よりも、そこで働く、「お客様」を迎える劇場の人々の態度や笑顔に、当然のことながら、より確かに表れていた。
 お客様を気持ちの良い笑顔で迎える。もてなす気持ち、楽しんで頂くという心遣いを表しながら、決して押し付けがましい印象を与えない笑顔で。それは、この劇場でモギリ係を務めていた、実は秘密部隊隊長でもあった、かの青年にも共通する帝劇職員に共通の心構えだが、中でもその代表格は正面玄関すぐに設けられた、帝劇を訪れるお客様をまず第一に迎えることの多い(勿論、開演中はモギリ係がまず第一、なのだが)売店を預かる彼女、高村椿嬢だろう。
 劇場の売店、というと、ロビーの片隅にこじんまりと設けられた、所詮は観劇のオマケみたいな代物を想像しがちではないだろうか。その売り子もちょっと可愛いだけの、アルバイトに毛が生えたようなもの、というのが心無い世間の一般認識ではないだろうか。
 だが、この大帝国劇場に関して言えば、その様な偏見を向けられることは無い。少なくとも、一度でも帝劇に足を運んだ者の間では。
「ここには本物の売り子がおる…!」
 と感極まった声で呟いたのは、商談で上京してきた、大阪で知らぬ者のない老舗を預かる大番頭だった。
「これこそ接客業のあるべき姿だ」
 そう言って研修をさせて欲しいと申し込んできたのは有名百貨店の売り場係長だった。(もちろん、あんまり恥ずかし過ぎる話なので断ったのだが。)
 観劇の常連、あるいはその可憐な笑顔に魅了された隠れファンばかりでなく、「商い」に携わる人々の間では知る人ぞ知る帝劇の売り子、それが彼女、「売店の椿ちゃん」こと高村椿嬢なのだった。
 来館者を気持ちの良い笑顔で迎えるのは勿論のこと、物珍しさに扉をくぐっただけの「冷やかし」も「お客様」に変えてしまう、人呼んで「椿マジック」(呼んでいるのは主に由里なのだが)。その笑顔は、あの米田危篤の折も途絶えることは無かった。
 大帝国劇場の売店に彼女がいる限り、大帝国劇場の時が続く限り、決して途絶えることの無い、誰もが引き込まれずにいられない笑顔と、「いらっしゃいませ!」の声。
 そう、大帝国劇場の時が続く限り。
 だからそれは、彼女が自分の仕事を忘れた所為ではないのだ。それはきっと、大帝国劇場の時が止まった、所為なのだ……

「もしもし、可愛らしいお嬢さん?」

 その透き通った声が耳に届くまで、椿は陳列ケースの上に綺麗に並べられた商品の前で、いつもお客様が来るのを待っている時のように真っ直ぐ前を見て黙然と立ち尽くしているだけだった。

「はっ、はいっ!い、いらっしゃいま…せ…」

 その声を聞いて、最初、椿は自分が居眠りをしていたのだ、と思った。そして焦りがパニックに切り替わる寸前でなんとか決り文句を紡ぎだし――自分がまだ夢を見ているのだと考えた。
 その台詞はその内容にも関わらず、女性のものだった。
 美しい女性だった。
 着物の白い袖が翼に見えた。
 鶴が人に身を変じた有名な昔話を、椿は何故か思い出していた。
 人外のものが化身したような、人間ばなれした雰囲気を持つ美女。
 美女には事欠かない帝劇に勤めているおかげか、その美しさに圧倒された訳ではなかった。
 ただ雰囲気が、違って見えた。
 街の雰囲気ではなかった。
 ここは帝都のど真中、銀座は大帝国劇場の中で、今はお芝居の最中でもないというのに。
 まるで、ずっと昔の、ずっと人里離れた、全てに人の手が加えられていない、全てがありのままに存在する山奥の森の中に立っているように見えた。

「……痛っ!」

 くすくすくすくす

「す、すみません!いらっしゃいませ!」

 思わず自分で抓ってしまった頬の痛みよりも、思わず上げてしまった自分の声よりも、悪戯っぽい含み笑いで椿は自分を取り戻した。

「ごめんなさいね、笑ったりして。
 貴女があんまり可愛らしかったものだから」
「す、すみません……」

 赤面して俯いてしまう椿。恥ずかしかったから、には違いないのだが、それは自分の少々間の抜けた応対に対して、ではなく、目の前の美女のどこか意味ありげな視線に対して、である。
 目の前にいるのは間違いなく女性だ。帝撃には――帝劇ではなく――女性にしか見えない男性士官もいるが、この女性が実は男性、等ということは断じてありえない。それは、かすみやかえでが女性であるということ以上に確かな事実だ。それほど女性らしい、優美で繊細な雰囲気をこの女性は漂わせている。
 だがしかし――自分に投げかけられた美女の視線が妙に艶っぽかったのだ。若い女性ならどぎまぎせずにはいられないような、そんな種類の色気が漂う眼差し。銀幕のヒーローを演じる二枚目俳優の流し目の威力を何倍にも高めたような、そんな視線だった。

「あらあら、そんなに気にしないで。いきなり声を掛けたあたしも悪かったんだから。
 ねっ?」
「は、はい…」

 にっこりと微笑みかける笑顔は心を蕩かす魔力を秘めていた。
 相手が女性であることが警戒心を麻痺させているのか、椿は彼女の微笑みにすっかり引き込まれてぼうっとなってしまっていた。

「ちょっとお訊きしたいことがあるのだけれど」
「はい…」
「支配人室はどちらかしら?」
「えっと…支配人室は…この奥の突き当たりを右に曲がった所です……
 支配人にご面会でしたら…その手前の受付でお申し付け下さい……」
「まあ、ご丁寧にありがとう。
 可愛らしいだけじゃなくてしっかりしているのね」
「えっ…?…いえ……」

 もじもじと赤くなる仕草は女性を相手にしたものではなかった。
 そして、そんな椿を見詰める美女の眼差しもまた。

「ねえ、貴女、お名前は?」
「は、はい…高村椿と申します…」
「椿さん、ね?
 お仕事は何時に終わるのかしら?」

 艶っぽい雰囲気が今、帝劇の売店を支配しつつあった。

「美鶴さん、いい加減になさいな」

 その妖しい空気を断ち切ったのは「美女」の声以上に柔らかい、苦笑を含んだアルトの声だった。

(えっ……?)

 椿は目を瞬かせていた。自分を優しく絡めとっていた呪縛が消えて、急に現実感が回復した、という事もある。だがそれ以上に、軽い衝撃を伴って、彼女の目を見開かせたことは。

(いつの間に……?)

「お仕事の邪魔でしょう?」
「そうじゃなくても、君の悪い癖は誤解を受けやすいんだから…
 妙な噂でも立っては、一郎君にも迷惑をかけることになるだろう?」
酷い!修蔵さん、あたしの事をそんな目で見ていたのね!?
「そこまでよ、美鶴さん。
 修蔵さんも、火に油を注ぐような事を仰らないで下さいな」
「……すみません」

 わざとらしく手の甲を口元に当てて目を丸くする美女を窘める、彼女とよく似た面差しの中年の婦人と、その女性にペコペコ頭を下げる長身の、温和な印象の紳士。
 椿は別段、未発に終わった夫婦漫才に驚いた訳でも呆気に取られたのでも無かった。
 彼女には、二人が――美女も含めて言えば三人か――突然目の前に現れた様に見えたのだ。いや、それだけではない。三人の背後には書生風洋装の青年と、羽織袴姿の男性が手持ち無沙汰な様子で佇んでいたのだ。

(一体、何処から……?)

 その五人、自分が本当に居眠りをしていたのだとしても、「美女」を除く少なくとも四人は、何の前触れもなく、いきなり椿の前に現れたのだった。
 見間違え、ではないはずだ。彼女は帝劇の売り子であると同時に帝国華撃団・風組の隊員でもある。火器管制担当の艦橋要員。注意力散漫では巨大空中戦艦ミカサの火器主管制官および主砲管制官は務まらない。
 咄嗟の緊張で身体が硬直する。もしかしてこの五人は、玄妙な「術」で姿を隠していたのではないだろうか?ひょっとして、帝撃を探りに来た敵……?

「お母様、それはあんまりな仰りようだと思います。お母様は実の娘を一体なんだと……」
「はいはい、ごめんなさい。年甲斐もなく拗ねてないで行くわよ、美鶴」
「年甲斐も無くって……
 鷹也くん、何が可笑しいの!?
「な、なんでもありません!
 あっ、伯父さん、待って下さい」
「もう……
 椿さん、お邪魔してごめんなさい。ご用が済んだらまた寄らせていただくわ」
「は、はい……あの…ありがとうございました」

 だが、平和にじゃれあうその姿は、どう見ても邪悪な存在には見えなかった……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「まったく……修蔵さんがあたしのことをどんな目で見ていたか良く分かりました」
「誰もそんな事は言ってないって……」
「あの娘、随分驚いていたようだな」

 途方に暮れた顔で、拗ねてしまった妻のご機嫌を取る修蔵の後に、それまで黙っていた熊作がまったく関係のない台詞を挿む。

「それは普通の女の子がいきなり美鶴従姉さんに言い寄られたら…っ!」

 鋭い視線の刃に慌てて口を塞ぐ鷹也。

「気がつかない内に気配を消してしまっていたようですね。何故でしょう?」

 口を開きかけた美鶴の言葉を封じるように、慌てて言を継ぐ修蔵。

「……無意識で、ここの結界に反応してしまったんだと思います。あたしたち一族の『気』は、『聖』よりもむしろ『魔』に近いものですから。
 結界に弾かれないように『気』を抑え込んだのが『隠形』になってしまったんじゃないでしょうか」

 それでも不満気に何事か言いかけて、結局舌の鋒先を納めたところは、流石夫婦の呼吸と言うべきだろうか。
 それはともかくとして。
 穏やかならぬ、聴き様によっては随分と物騒な娘の発言に、母親は当たり前のように頷いていた。

「気をつけないといけないわね。一郎さんの『自然体』には及ばないとしても、あんまり気配を抑え過ぎると無用な警戒心を招いてしまいそうです」
「彼女も帝国華撃団の隊員でしょうか?」
「多分、そうでしょう」
「鷹也くん、分かっているとは思うのだけれど」
「…失言でした。気をつけます、従姉さん。
 それにしても流石は一郎従兄さんです。この環境で一年以上も、普通に暮らしていたんですね……」
「鷹也くんの一郎さん崇拝病がまた発病したわね……と、言いたいところだけれど、今回はあたしも同感。こんながんじがらめの『空気』の中じゃあ、あたしなら一ヶ月で音を上げてしまいそう」
「一郎には良い修行になった事だろう」
「どうでしょう?あんまり負担にもならなかったと思いますけど……
 ところで、あたし達はともかく……」

 ここで美鶴はからかうような流し目を夫に向けて放った。

「どうして修蔵さんまで隠形に入っちゃったのかしら?
 あたし達とは『気』の質が違うんだからそんな必要ないはずですけど?」

 軽い笑みをたたえた、本気ではないことが一目で分かる揶揄。ごく親しい者に向ける罪の無い冗談なのだが、向けられた当人は彼女の言葉に顔色を一変させた。

…悲しい。
 ボクは悲しいぞ、美鶴!
 夫婦と言えば一身同体、三世の縁(えにし)を誓い合った仲じゃないか!?
 例えこの身に流れる血は違っても、ボクは君と君の家族の家族になれたと思っていたのに!?
 心の絆は所詮、血の絆に敵わないのか…!?

 悲劇。
 彼の表情は悲劇に塗りつぶされていた。
 ――悲哀、ではなく。

例え生まれた場所は別々でも、誓いを立てたその日から、病める時も健やかなる時も、東海の果てにも西山の彼方にも、行き着く先が例え地獄であろうとも、歩みを共にするのが夫婦だと思っていたのに……!
「あ、あの、修蔵さん……」

 焦りが五割、戸惑いが五割で問い掛けた声は若いにも関わらずこの一行の気苦労を一身に背負った感のある鷹也青年。
 悲劇の眼差しを向けられた当の本人は、落ち着いた声でこう、応えた。

「つまり、つられちゃった、ってことですね?」
「まあ、そういうことだ」

 悲劇に陶酔した表情が嘘のように消え去っていた。
 あっさりと応えた修蔵と、それが当たり前のように平然とした顔をしている美鶴の前で、鷹也はすっかり疲れ切っていた。

「何なんですか、それは……」
「これが夫婦というものよ、鷹也くん」
「そんなものなんですか、伯母さん……」
「そうよ。貴方も、結婚すれば分かるわ」
「……僕にはまだまだ理解できないようですね……」

 ぽんぽんと熊作に背中を叩かれて、鷹也は仲良く肩を並べて歩く従姉夫婦の後に続いた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」
「いらっしゃいませ。どのような御用件でしょうか」

 書生風の青年に話し掛けられて、由里はにっこり微笑んだ。
 艶やかな、舞台の上でないのが惜しい程の、華のある笑み。
 形だけではない、本当の意味での完璧な営業スマイルを見せながら、しかし実を言えば、由里は青年の返事に集中しきれていなかった。

「米田支配人様にお目に掛かりたいのですが」
「はい、…少々お待ちください、予定を確認しますので」

 不審は抱かせなかっただろう。僅かに空いた間は、その程度の短いものだった。

「申し訳ございません、ご予約はいただいておりますでしょうか?」

 だが、後ろからかすみが丁寧に投げかけたそんな当然の反問を忘れていたのは、やはり自分の思惟に気を取られていたからに他ならなかった。

「いえ、お約束は。
 それ程お手間はお掛けしないと思います。ご挨拶をさせていただこうと思いまして、お邪魔させていただいただけなのですが…」
「失礼ですが、お名前をお伺いしてよろしいでしょうか?」

 すっかりかすみに出番を取られる形となった由里は、二人のやりとりを見ながら段々心の中の疑問に傾斜していた。

「こちらこそ失礼しました!
 僕は、大神鷹也と申します。大神一郎の従弟です。
 一郎従兄さんがお世話になっている大帝国劇場の方々にご挨拶をしたいと思いまして、伯父夫婦一家と一緒にお邪魔させていただいているのですが」
「大神さんの!それで……」
「はい…?」
「由里?」
「す、すみません」

 鷹也とかすみの二人から不思議そうな視線を向けられて、由里は慌てて口を塞ぎ、決まり悪げに頭を下げなければならなかった。

「いえ…?」

 不得要領ながらも人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた鷹也の顔を見ながら、由里は納得するものを感じていた。

(それで、どこかで会った事があるような気がしたのね……)

「大神さんのご家族の方でいらっしゃいましたか。
 こちらこそ大神さんにはお世話になりました。
 それで、お連れの皆様はどちらに?」

 ぼうっとしてすっかり役に立たなくなっている由里を、かすみは「仕方が無いわね」、という目でチラッと見遣って、鷹也の応対を代わりに務める。

「廊下で待たせていただいています」
「どうぞお入りいただいてください。支配人の予定を確認してまいりますので」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 折り目正しく一礼して行く青年の後姿を、好意の眼差しで見送るかすみ。
 彼の好青年ぶりに、初めて会った頃の大神の姿を重ね合わせていた、のだろうか。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(それにしても……印象的な方々ね……)

 一人で留守番をする形になった由里は、受付カウンターのいつもの席から来客用のソファーに腰をおろした大神一家を失礼にならないよう慎重に盗み見て、心の中だけでこっそり溜息を漏らしていた。
 場所柄、ここには色々なタイプの文化人が訪れる。世間の常識に外れた、奇矯としか言いようの無い個性を持つ者も少なくない。また、山口前海軍大臣を筆頭に、大物と呼ばれる政財界人で実は花組のファン、という人間も意外に多く、そういう人達の案内役を務めることも決して稀ではない。
 だから彼女は「普通の」人では決して経験できないほど多種多彩な人物に出会ってきた。一目見ただけで一生忘れられないような強烈な印象の持ち主もその中には少なからず含まれている。
 しかし、今、彼女の前で寛いでいる一家のような雰囲気の所有者は記憶に無い。何処がどうとは上手く言えないが、ひどく特殊だという気がしていた。何もかもが普通の人々と、「帝都市民」とは違って見えていた。

 外見だけでも非凡な人達だ。

 大神の姉、と紹介された女性は帝劇の看板役者である花組のスター達に引けを取らない美人である。若さと瑞々しさ、という点では一歩譲るとしても、女性らしい艶やかさ、色気の点ではむしろ勝っているかもしれない。
 大神の母親は、年齢的なものもあってか、流石に娘ほどの華は感じさせないが、それでもやはり文句無しの美女である。典雅な気品を醸し出す容貌は、中華の王族と言っても通用するのではないかと思わせる。
 対照的に大神の父親は、巨大な岩を思わせる姿の持ち主だ。顔つきも体つきも、とにかく、分厚く、ごつい、という印象がある。ただ、その外見に反し動作は驚きを誘うほど滑らかであり、野生動物のしなやかさを持ち合わせている。
 この三人に比べれば大神の義兄と従弟は平凡な外見だが、それも三人の姿形が強烈過ぎるからであり、単独で街を歩いていれば砂鉄を引き付ける磁石のように若い女性の視線を集めること請け合いであろう。

 だが、外見以上に鮮烈な印象を残すのは、彼らの内面から滲み出してくる雰囲気だった。

 穏やかだけど荒々しい
 静かだけど激しい
 淑やかだけど猛々しい
 優しいけれど厳しい

 相反する、というより両極端な性質を同時に感じさせる。極端から極端へ揺れ動くのではなく、優しさ、厳しさ、静けさ、激しさといった、人ならば誰でも多かれ少なかれ持ち合わせている性質の、上限の値が常人よりも遥かに高いような、そんな印象がある……

(とにかく、只者じゃないのは流石に大神さんのご家族、ということかしら……)

 それはもしかしたら、例えはっきりと言葉で表現することは出来なくても、「人」を観ること、「人」を理解することに誰よりも長けている由里だからこそ感じ取れた真実なのかもしれない。
 ただそれは――何となく、という程度の印象であり、具体的な警報に結びつくものではなかった。こっそり見ているだけでは当然の限界なのだが、後の大騒動を未然に防止する力にならなかったことも残念ながら事実である……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「申し訳ございません。米田はただ今どうしても抜けられない所用で手が塞がっておりまして、まだ一時間ほどかかると申しておりますが……」

 かすみが上辺だけではない申し訳なさそうな表情で頭を下げながら告げたこの台詞、聞く者が聞けば「おやっ?」と感じたに違いない。
 関係者の間でも忘れられがちな事なのだが(その責任は偏に本人の勤務姿勢にあるのだが)米田は現在帝撃総司令と摂政府軍事顧問の兼務であり、表立って「敵」がいない現状況下では軍事顧問の任務の方が主とされているのである。
 だから本来であれば(また実際にも)米田は大帝国劇場よりも御所の別棟に詰めている事の方が多いのであり、最近では週に二日帝劇に顔を見せていれば多い方、という状態になっていたのだ。(と言っても、真面目に自分の机に向かっている時間は僅か――と言うよりほとんど無いのであるのだが。直属の部下である大神の、近頃悩みの種、である)
 今日はその、米田が帝劇に顔を見せている少ない方の日であったようだ。おそらくは大神も参加している例の実験に立ち会う為だと思われるが、このあたりの事情は部外者に説明できない部分である。
 そういった事情はともかくとして、たまたま大神一家が訪ねて来た日にたまたま米田が帝劇(帝撃)内に在席していたというのは、実は結構な偶然だったのだ。もしこの日、米田が帝劇内に不在であれば、大神一家はそのまま帝都見物に繰り出していただろうし、そうなればあの事件は起きなかったに違いない。「事件」とは往々にして、このような罪の無い偶然の積み重ねの結果引き起こされるもの、なのかもしれない……

 閑話休題

 どうしよう?、という表情で顔を見合わせている一同(主に母娘)に向けて、かすみは米田の伝言を続けた。

「失礼かとは存じますが、もしお昼がお済みでなければ、お食事をお楽しみいただきながらお待ちいただければ、と米田は申しております」
「それは、お食事にお招きいただける、ということですか?」

 媚も驕りも無い丁寧な口調で問い返したのは修蔵だった。

「食堂でお好きな物をお召し上がりいただくように、と申し付かっております」
「帝劇の食堂といえば帝都でも指折りの味名所でしたね。
 大変魅力的なお申出ですが……」
「急に押し掛けてきたのは私どもの方ですし、そこまで甘えさせていただく訳には参りませんわ」

 修蔵の台詞に続いて、千鳥が常識的な辞去の言葉を言い掛ける。

「いえ、ご存知かもしれませんが、大神さんには私ども全員が一方ならぬお世話になっております。そのご家族に一言のご挨拶もせずお帰りいただく訳にはいかない、と、米田から強く申し付けられております。
 もしお急ぎの御用が無ければ、是非とも帝劇食堂のコックの腕をお試しいただけませんでしょうか。お昼がお済みでしたら、せめてお茶菓子だけでも……」
「……ここまで仰っていただいては、お断りする方が無作法ではないか?」
「…そうですね、お父様。
 それではお言葉に甘えて、ご馳走にあずからせていただきますわ」

 熊作と美鶴の返事に幾分ホッとした顔を見せながら、かすみは小さく会釈して五人に微笑みかけた。

「それでは、どうぞ。お席にご案内いたします」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「どうぞ此方へ。普通のテーブル席しかありませんが……」
「全然構いませんよ。あたし達の家族にそのような事を気にかける人はいませんから」
「おそれいります」

 にっこりと親しげな笑顔で応えた美鶴に軽く頭を下げて、全員が腰を下ろしたところでかすみは食堂の隅に合図をした。
 小柄なウェイトレスがメニューを持ってくる。ちょっと変わった髪飾りをつけた、丸顔の愛敬のある少女だ。
 いらっしゃいませ、という元気な挨拶とともにぴょこんとお辞儀をして、手にしたメニューを五人の手元に配っていく手際はなかなかスムーズだ。テーブルを一周すると、かすみの傍らにメモと鉛筆を持って注文を待つ。

「つぼみちゃん、こちらの方々は米田支配人のお客様なの。お好きな物をお好きなだけご注文いただくように、と支配人はお申しつけよ。粗相の無い様にね」
「わかりました!」
「それでは、ごゆっくりお楽しみください。米田の都合がつきましたらお呼びいたしますので」
「重ね重ねご丁寧にありがとうございます」

 淑やかに腰を折るかすみに、テーブルについたままでありながら全く見劣りしない優雅さで会釈を返す美鶴。かすみの背中が見えなくなるまでそのままの姿勢で見送って、美鶴は徐ろにメニューを開いた。
 他の四人も同時にメニューを開く。一人だけ先に注文を決めるような協調性のない者はこの中にいなかったし、つぼみもお昼を少し回った時刻の、まだまだ忙しい最中でありながらそれを急かすような真似はしなかった。

「この帝撃ランチというのは何かな?」
「お肉とお魚の日替わりメニューで、本日はハンバーグと鮃のムニエルになっております!」
「ボルシチセット?ロシアのお料理まであるの?」
「ボルシチのセットはご飯とピロシキをお選びいただけます!」
「スパゲッティロマーナ……ゴーヤチャンプルー?珍しいお料理が一杯あるのね」
「花組にはフランスとイタリアとドイツとロシアと中国と沖縄のご出身の方がいらっしゃいますので!皆さんのお好みに合わせてメニューも取りそろえています!」

 元気よくハキハキと応える美少女ウェイトレス。少々余計な台詞も混じっているところが、まあ、難点でもありご愛敬でもあろう。

「大盛り……特大というのも選べるんですね」
「はい!うちはご飯だけでなく、お料理の方も大盛りをお選びいただけます!」
「では……」

 次々と出される注文を真剣な顔で書き取って、つぼみはピョコンとお辞儀をしてから厨房へと向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ひゃ〜〜っ、腹減ったなっ…と。
 ん……?」
「ちょいとカンナさん、いきなり『腹減った』はお行儀よろしくないんじゃなくて……あら?」
「そおだよぉ、カンナ。アイリスたち、『レディ』なんだから……あれっ?つぼみちゃん?」

 ……おやおや、つぼみはどうやらアイリスにまで『つぼみちゃん』扱いをされているらしい。確かにアイリスの方が先輩ではあるのだが……まあ、今は関係のない話である。

 閑話休題

 修蔵の言うように、帝撃の食堂は純粋にレストランとしても高い評価を得ており、公演中でなくても食事時ともなれば洋食の好きな食通や趣味人で毎日満員に近い混雑を呈する(元々、テーブルがあまり多くない事も大きな理由であるのだが)。そういう事情で、食堂の混雑時を避けて遅めの昼食にやって来たカンナ、すみれ、アイリスが目を留めたのはペコペコと頭を下げるつぼみの姿であった。
 それ自体は――嘆かわしい事だが――別に、珍しくはない。つぼみが料理の皿をひっくり返したりオーダーを間違えたりするのは日常茶飯事、とまではいかなくても、かなりの頻度で起こっている。もっと小さなミス――例えば、コップの水が跳ねてお客様の袖を汚した、とか――はそれこそ毎日のように目にする出来事だ。
 そして、ペコペコと頭を下げている相手が笑って首を振っている姿もまた、お馴染みの光景だった。つぼみはハッキリ言ってドジな少女だが、同時に憎めない容姿と雰囲気の持ち主でもあって、深刻なトラブルを招く事はほとんど無い。人徳、という言葉を使うのは、彼女の場合些かの抵抗があるのだが……
 だからいつもであれば、つぼみが平謝りしている光景に注目することは無い。大抵、「ああ、またか」で済んでしまう。相手が本気で怒っている時だけ、かすみやカンナが助け船を出す事になる。
 今もつぼみが謝っている相手は苦笑気味に笑いながら手を振っている。見ている方としても、しょうがないな、と苦笑いしながら自分の用事――この場合、食事――に戻るケースである。
 彼女たちの注意を引いたのはつぼみではなかった。

「なんですの……あの山のようなお料理の量は……」
「ふぁ〜〜、カンナ以外にあんなにいっぱい食べる人がいるんだね……」
「由里、どうしたんだい、あれは」

 引き合いに出されたカンナ本人は、困り顔で様子を見に来ている由里に事情を質す。

「つぼみちゃんがオーダーを間違えちゃったんですよ」
「やっぱりそうかい……」

 つぼみが前にしているテーブルの様子を見て、多分そんな事ではないかとカンナは思っていたのだ。テーブルには五人の男女が座っていて、その内三人は成年男性だ。それなりの量は食べるだろう。だが、その体型は一人を除いてどちらかと言えば細身であり、あの量を注文するようには見えなかったのだ。

(隊長だってちょっと無理じゃないかな……)

 以前カンナは大神を食べ比べに誘った事がある。――大食い競争、と言った方が適切かもしれない。鍛えた甲斐あってか、三ヶ月後にはカンナと同じ位食べられるようになった大神だが、それもかなり無理をしての事だ。
 今、問題のテーブルの上には、カンナが三人いても少々キツイくらいの料理が並べられていた。大の男が五人いても、片付けられる量ではない。――普通は。

「やれやれ……お勘定をロハにしてあげるしかないんじゃねえの」

 呆れたような諦めたような、しょーがねーなー、という口調のカンナに、由里は苦笑いのまま首を振った。

「それはいいんですよ。元々あの方たちは支配人のお客様で、こちらからお食事にお招きしているんですから」
「だったら問題ないんじゃありません?お食事代は最初からこちら持ち、間違ってしまったオーダーを下げればいいだけのことでしょう?」
「そうなんですけど……お客様がこのままでいいって仰って……残したらその分は払うから、とまで仰って下さっているんで、かえって恐縮しちゃって……」
「へぇ……」

 目を丸くしたカンナの表情は、男だねぇ、と呟いていた。

「あっ、カンナさん?」

 そのまま、スタスタとつぼみの方へ近づいていく背中に由里は慌てて声を掛けたが、カンナは片手を軽く挙げただけで振り向きもせず足も止めない。つぼみの背後まで歩み寄ると、例の惚れ惚れするカラッとした笑顔でテーブルの五人に話し掛けた。

「お客さん、うちの若いのが迷惑をかけちまったみたいで本当に申し訳ない」

 ざっくばらんな、礼儀にうるさい相手なら顔を顰めそうなざっくばらん過ぎる態度。だがカンナは大らかではあっても決して鈍感でも無神経でもない。一目で、目の前の相手が形式よりも真心を大切にするタイプだと直感したが故の振舞だ。

「この子にお嬢さんからも言ってやってくれんか?全く気にする必要は無いのだ」
「本当はいつもこのくらい食べるんです。すっかりお言葉に甘えてしまっていますので、父も流石に遠慮してしまっていましたので……
 あたし達にとっても願ったり叶ったりなんですよ?」

 カンナといい勝負の大らかさで羽織袴姿の男性が応え、娘と思しき和服美人が引き込まれるような笑顔で続ける。

(お嬢さん、ね……)

 カンナは訳もなく愉快な気持ちになっていた。まるで自分が小さな女の子みたいな、少なくともさくらやすみれや織姫のような「普通の」女の子に対する口調。決して女だと見下しているのではなく、心からそう思っているようだ、この男性は。
 そして美しすぎる娘(と言っても、おそらくカンナより年上と思われるが)も、彼女によく似た面差しの中年の婦人も、残りの青年と紳士も、とても気持ちの良い笑顔を浮かべていた。上辺だけの許しではなく、そもそもつぼみのドジを本心から全く気にしていないことが理屈でなく感じられる。

「つぼみ、こう仰って下さっているんだ。お前ももう気にすんな」
「は、はいっ。あの、ありがとうございました」
「おいおい、すみませんでした、だろ?」
「いいんですよ、ありがとうございました、で。謝っていただく必要は本当に無いのですから」

 母親と思しき女性の言葉に、全員が――つぼみも含めて――笑顔を咲かせた。
 つぼみが厨房へ戻っていく。
 その背中にチラッと視線を投げながら、カンナはもう一度頭を下げた。――流石に、頭を掻くような行儀の悪い真似はしなかったが、それに近い雰囲気があった。

「本当に、気持ちよく許してくれて助かるよ。つぼみは明るくめげない性質(たち)の子なんだけど、ついこの間大失敗をやらかしちまったばかりでね。しばらく落ち込んでいたんだよ……
 今度はそうならなくて良かったよ。お客さんたちのおかげだ」

 カンナの大雑把な、だけど思い遣りに満ちた言葉に、五人は再度破顔した。とても温かい笑顔で、カンナにこう言葉を返した。

「貴女が桐島カンナさんね。息子からお噂をうかがっていた通りの方ね」
「本当に。一郎さんから聴いていた通りの心の温かい方だわ」

 えっ?、という表情を浮かべたのはカンナだけではない。何時の間にか傍に寄って、後ろで話を聞いていたすみれとアイリスは、同時に由里へと視線を向けた。

「え、ええっと……大神さんのご家族の方なんです」

 大きな驚きと小さな納得が大中小三人のスターの顔に浮かぶ。
 確かに大神の家族ならば、この「人の好い」対応も頷ける。

「なんだ……隊長の身内の皆さんだったのか」
「カンナさん!?」

 狼狽を隠し切れない短い叱責に、やべっ、という表情で口をつぐむ。

「大丈夫ですよ。皆さんのもう一つのお仕事については存じ上げておりますから」
「一郎さんが漏らした訳ではないんですよ。たまたま、そういう事に詳しい人がいまして」

 よく考えれば何とも穏やかならぬ、到底聞き流すことの出来ない台詞だが、やはり、何となく納得するものを感じてしまう。
 何があっても不思議は無い、大神の家族は、そんな事を思わせる人々だった。

「一郎の母の千鳥です。こっちは、夫の熊作です」
「姉の美鶴です」
「桐生修蔵と申します。一郎君の義理の兄になります」
「従弟の大神鷹也です」

 そんなカンナたちの視線を全く気にしていない様子で、今更のように自己紹介をする大神一家。

「ど、どうも。桐島カンナです」
「…神崎すみれですわ」
「ア、アイリスです」

 カンナもすみれもアイリスも、どう見てもいつものペースではなかった。
 呑まれているとか圧倒されているとかいうのとはちょっと違う。
 ただ、何となく調子が狂ってしまっているのだった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 何時の間にかと言うか自然な成り行きと言うか、テーブルの人数は5人から8人に増えていた。美鶴はすみれに向かって熱心に話し掛け、修蔵は何度もアイリスに料理を取り分けてやっている。……確かに、お互い言われるだけの事はあるのかもしれない。
 そして、カンナはというと……

「つぼみ、おかわりだ!」
「こちらもおかわりをもらえるかな」
「は、はいっ。ただ今!」

 ……大食い対決に突入していた。
 勿論、最初から食べ比べだった訳ではない。初めは和気藹々と食事が進んでいたのだ。――但し、異常なハイペースで。
 カンナにすら多すぎるのではないかと思われた料理の大半は熊作の前に運ばれた。他の四人は当たり前の一人分のお皿を受け持っただけだ。そして――熊作の前に置かれたお皿は、魔法のように空になっていった。
 決してがっついているわけではない。上品とも言い難いが、まあまあ、お行儀が良いと言える範疇だろう。時々会話に加わる際にも、口の中に食べ物が残っているという事は無い。
 ただそれ以外の時間はフォークとナイフと(少し意外だったことに、千鳥はともかく熊作もフォークとナイフを巧みに使っていた)箸と口が休みなく動いているだけだった。次々と口の中に入れ、次々と咀嚼し、次々と呑み込み、また口の中に入れる。ただそれだけで、山のような料理が瞬く間に消えていくのだった。
 挑発行為があった訳でも宣戦布告があった訳でも無いのだが、熊作の正面にいたカンナは徐々に引き下がれないものを感じるようになっていた。……そもそも、この席割が悪かったのかもしれない。何時の間にか、猛然とおかわりを始めたカンナにつられるように――あるいは付き合って、熊作も尽きることの無い食欲を発揮し始めたのだ。
 その結果が――目の前に築かれた料理皿の山である。

「あなた、程々になさいませね。お腹八部目で止めるのが健康のためですよ」
「まだそこまで食べてはおらん。それに、ご一緒している方がまだお済みで無いのにこちらが箸を置いてしまうのもかえって失礼ではないのか?」

 千鳥に向けられた熊作の答えに、カンナはますます闘志をかき立てられた。――多分に、一人相撲の色合いが濃かったが。

「遠慮は無用だぜ。支配人も言ったらしいじゃねえか。好きなだけ食べてくれってな」

 最早言葉遣いは、全く身内向けのものになっている。カンナにとって熊作は既に「お客様」ではなくなっていた。
 彼女にとって、熊作は久々に現れた手ごわい「ライバル」だった。「強敵」と書いて「とも」と読ませる類の……

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「お待たせしました。…米田がお待ち致しておりますので、支配人室までお運びいただけませんでしょうか」

 僅かな間はテーブルの惨状に驚いた所為に違いない。だがそこは流石にかすみと言うべきか、内心をおくびにも出さずに、礼儀正しい笑顔で用件を伝える。

「おお、これはお手数をお掛けします」
「ご馳走様でした。すっかりお言葉に甘えてしまって……」
「とても美味しいお料理でした。花組の皆様とご同席までさせていただいて、望外の楽しい時間を過ごさせていただきました」
「ご満足いただけたご様子でなによりです。それではこちらに」

 かすみに先導されて席を立ち、相席の三人に親しく別れを告げて食堂を後にする5人。
 ……後には、高く詰まれたお皿の「塔」と、呆気に取られた呆れ顔のすみれ、アイリス。そして、椅子の背もたれに寄りかかってグッタリと天井を見上げているカンナが残されていた……

 

続く

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