帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第15話 〜〜


 特戦研の野望(?)は潰えた。
 帝都を騒然とさせた従機兵事件は、その一日で片がついた。
 特戦研は解体、首謀者は投獄、中心人物だった岩井少佐は既に死亡が確認されていたが、改めて階級を剥奪し、死刑囚として記録された。
 従機兵計画は全てが破棄された。サンプルも、資料も、全て焼却された。
 特戦研の地下に設置されていた霊子核機関は帝撃の技術者が中心となり、慎重に解体された。機関自体に目立った損傷が無いにも関らず、機能が完全に停止していた事に花やしきの技術者は随分首を捻ったそうだ。
 表向きは、帝国華撃団・花組がミカサ公園内及び特戦研敷地内の従機兵を全て破壊し、大神一郎と真宮寺さくらが二剣二刀の儀を以って霊子核機関を無力化した事になっている。
 目撃者が全くいなかった訳でもない――例えば、旧ミカサの中腹(?)で笛を吹いていた人影とか――が、全て見間違いということで済まされた。噂では、元老院から強い圧力が掛かったらしい。
 大神が実際にはどのようにして霊子演算機と霊子核機関を「破壊」したか、それについては帝撃内部でさえ機密扱いになっていた。――正確には、誰にも理解できなかったのだが。
 この一件を以って、大神一郎の技量と功績は一部の関係者だけでなく帝国軍上層部に広く認知される事になった。(練馬駐屯地での鮮やかな操縦がとりわけ強い印象を与えたようだ)
 その所為で陸軍と海軍の争奪戦が再燃しそうになった、というのは余談である。
 それはともかく、年明け早々にも、大尉への昇任が予定されているそうだ。
 この事件における大神中尉の活躍を、皇太子殿下は特にお喜びだった、と宮内省の文書は伝えている。
 とにかく、異例の速さで――おそらく、またしても陸軍の醜聞という性格故に――従機兵事件の幕は下りた。
 表向きは。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「大神、それにしても今回はご苦労だったな」

 あれから三日後。
 呆れた事に、特戦研に対する処分は僅か二日で決まった。この迅速な決定の背後には、柳生大佐の優れた官僚的手腕があったらしい。
 それはともかくとして、ここ大帝国劇場の食堂では、虎太郎たち大神一家の送別会が開かれていた。
 豹馬と申之介は、まるで最初からいなかったようにあの夜のうちに姿を消した。
 もちろん、全員が使った武器は申之介が持って帰った。
 そして明日、虎太郎たちも帝都を後にする。
 座は既に無礼講になっていた。
 相変わらず、美鶴はすみれと織姫の、修蔵はアイリスとレニの相手をしている。ニコニコしながら。鷹也は、主客の一人でありながら、あっちこっちに飲み物を届け、食べ物を届けて、走り回っていた。熊作はカンナとマリア相手に黙々と杯を傾けていた。千鳥はさくらの隣で息子と上官・同僚の話に耳を傾けている。
 そして虎太郎は――

「ところで大神、お前、大丈夫か?」
「……特に怪我もしていないが?」
「そうじゃない。お前、その、『天狼』を使ったんだろう? 本当に大丈夫なのか?」
「何を心配しておるのかな、熊野の跡取り」

 大真面目な顔で大神を案じる加山、つられたように深刻な顔で大神の答えを待つ米田とかえで。さくらも不安を見せないよう、精一杯強がっている。
 そこに飄々とした口調で虎太郎が割り込んできた。

「ご老人……」

 今では加山も、「あの時」の老人が虎太郎である事を知っていた。

「――神殺しの獣、天狼。一度天狼を宿した者は、その内なる衝動に駆られて、『神』を狩らずにはいられなくなる、と聞いております。
 ですがそれは許されない事です。神々への祭りと霊的な国家防衛は表裏一体のものですから。
 もし天狼を宿す者が神殺しの衝動に耐え切れなくなったら、この国の術者たちは束になって、天狼を宿す者を逆に狩りたてようとするでしょう」
「ふむ……そうなった時、お主はどうするつもりじゃ?」
「………」

 意地の悪い目つきで虎太郎が質問を重ねる。
 案の定、加山には答えられなかった。
 一方、虎太郎はそんな加山の様子を見て、小さくため息をついた。

「若いの、お主何か、大きな勘違いをしておるようじゃな。
 お主、『天狼』が莫迦でかい狼の怪物か何かと思い込んでおらぬか?」
「……はっ?」
「…やはりな。お主、天狼を神々か魔物の一種と思っておるのじゃろう?
 藤のお嬢さんはどうじゃ? 貴女は『天狼』についてご存知か?」
「……いいえ」
「ふむ……まあ、さくらさんには一度語って聞かせねばならぬ事じゃし、良い機会かもしれぬの」
「あたしは反対よ、お爺様」

 何の前触れも無く話に割り込んできたのは美鶴だ。

「月の一族のご総領に天狼の秘密を語るのは構いませんけど、藤の一族に知られるのは止めた方が良いと思います。
 今度は『藤堂』の代わりにあたしたちが利用されるかもしれませんよ」
「美鶴さん、失礼ですよ」

 千鳥がやんわりと窘めるが、今日の美鶴は何故か頑固だった。

「いえ、はっきりさせる必要があるなら、天狼の秘密の代わりに藤の一族が破邪の一族に何をして来たかを教えてあげる方が先だと思います。
 さくらさん、藤堂家は知っているわね? 真宮寺家と同じ、裏御三家の一つよ。
 でも藤堂家は、最初から『藤堂』という姓じゃなかったの。元々あの家は『花巻』を名乗っていたわ。それを」
「姉さん…酔ってるね?」
「美鶴、お止めなさい。貴女、かえでさんが相手だと何だか変よ?」
「かえでさんには何も含むところはありません。あたしはただ、一郎さんにあんな思いをさせたこの方の」
「姉さん! それ以上はいくら姉さんでも許さない!」

 血相を変えた大神を見て、急に美鶴の態度がしおらしいものに変わった。

「……そうね、ごめんなさい。
 すみません、かえでさん。あたし、ちょっと酔っているようです。酔いを醒ましてきますね」
「美鶴、俺も付き合おう」

 修蔵に連れられて、美鶴が食堂を出て行く。
 その後姿を見送りながら、虎太郎は二、三回、小さく首を振った。

「やれやれじゃな……許されよ、藤のお嬢さん。美鶴は一時期、一郎の落ち込みようを大層心配しておってな。変な風に勘違いしておるらしい。
 さて、罪滅ぼしという訳でもないが、先程の続きを話して進ぜよう。
 天狼とは、魔物でも神獣でも神々の一柱でもない。天狼とは、法則なのじゃよ」
「法則…?」

 加山の疑問は、米田にも、かえでにも、さくらにも共通のものだった。

「然様。
 氷を湯呑みの水に浮かべておく。そうすると氷はどうなるか?
 水が凍る真冬で無い限り、氷は必ず水になる。
 氷水は、湯呑みの外の温度と同じ温度になる。
 では熱湯を湯呑みに入れたまま放置しておくとどうなるか?
 これも同じじゃ。湯呑みの外の温度と同じ温度まで必ず冷める。
 この世界には、全てを均しくしようとする法則が働いておる。
 修蔵はこれを、エントロピーの法則と呼んでおったの」

 かえでたちは目を丸くした。まさか目の前の老人の口から「エントロピー」等という現代科学用語が出てくるとは思っても見なかったのだ。

「一方、気と霊の世界、修蔵によれば、これを西洋の学者は『アストラル界』と呼んでおるそうじゃが、その世界では別の法則が働いておる。『アストラル界』では力は力に呼ばれ集まる。全てが均しくなろうとする現界に対して、『アストラル界』は全てが均しくならざるように動いておる。
 神と呼ばれる巨大な『気』の塊が生まれるのはこの所為じゃ」

 途方も無い話だった。さくらは心細くなって、かえでと米田の顔を盗み見て、二人とも戸惑った表情を浮かべているのを見て小さな安堵を感じていた。

「さて、『アストラル界』においては神と呼ばれるものや魔王などと呼ばれる巨大な『気』の塊が自然に形成されるが、この世界ではそうしたものは生まれない。何故なら、全てを均しくするという理に反するからじゃ。
 そもそもこの大地そのものが、均しくなろうとする理に逆らって存在するもの。この大地と海の外側には何も無い世界、『空(くう)』が広がっておるのじゃからの。だから大地にあるものは、この世界に存在するものは必ず滅ぶ。遥かな時の果てに、必ず『空』に還る。『空』と均しくなるのじゃよ。
 これがこの世界を統べる基本法則の一つ。全てを喰らい全てを呑み込む、『空』と『時』の法則を、狼の全てを喰らう貪欲な性になぞらえて神代の更に昔の人々は『天狼』と呼んだのじゃ。
 この話を疾風殿にすると酷く怒られるのじゃがな。狼は必要とする以上の獲物を狩ったりしない、貪欲とは何事か、とな。まあ、人の抱いた勝手な思い込みじゃて、怒られるのも無理はない」

 苦笑交じりの台詞は、「疾風」を知らない米田、かえで、加山には意味不明だったが、そんな些細な事は気にならなかった。
 これは断じて、酒の席で、ついでに語られるような内容ではない。神殿の奥深くで、厳かに語られる秘儀ではないのか?

「まあ、狼の性についてはこの国の人間だけの思い込みではないからな。欧州の北の国々の人々も、『天狼』を巨大な狼と捉えておった。『フェンリル』という名前らしいの…
 つまり天狼とは、全てが均しくなり最後には空(くう)に還る、この世界の法則の事なのじゃよ。天の法則と言っても良い。
 さて、ここからが本番じゃ。気と霊の世界では、神も魔王も当然あるべき自然な存在じゃが、全てが均しくなるこの世界では、そのように巨大な『気』の塊は、不自然な、あってはならない巨大な『歪み』なのじゃよ。
 故に世界は、この『世界』そのものが、『神』や『魔王』を滅ぼそうとする。じゃが、その力は極めて強大であっても、同時に極めて緩やかなものじゃ。『世界』は何万年、何十万年、あるいはもっと遥かな時間をかけて、この巨大な『歪み』を正そうとする。『空』の中へ呑み込もうとする。
 じゃがそのような悠長な攻撃を甘んじて受け、大人しく消滅するほど『神』も『魔王』もお人好しではない。分解され消滅させられる前に、それらは本来属する『アストラル界』へ去って行く。そして再びこの世界への通路が開くのを自分の世界で待っておるのじゃ。何故この世界に来たがるのかは、全く以って謎じゃがのう……
 しかし、この世界そのものに、『神』を退け『魔王』を滅ぼす力があり、それは常に働いている、その事に間違いは無い」

 虎太郎が何を言いたいのか、大神一族で無い人にも段々分かってきた。だがそれは、理解を拒みたくなる、とんでもない話だった。

「儂らは遥か昔から、神々の力に縋らず神々の力に対抗する術を探してきた。その為の技を追い求めてきた。そして見出したのが、神や魔ではなく、この世界そのものの力、天狼なのじゃよ。
 天狼はこの世界そのものの法則であり、儂らはこの世界に属する、この世界の一部じゃ。例え大地と大海を、自分自身を空に同化させてしまう、つまり、消滅させてしまう法であっても、それはこの世界の一部である儂ら自身の中にも、確かにある。
 天狼は、儂ら全ての中に眠っておる。その、世界から分け与えられた天狼を起こし、天狼本体の力を身の内に取り入れ、その力を悠久の時の中ではなく人に与えられた限られた時間の中で作用させる。それが大神一族の奥義、天狼転生じゃ」
「………」「………」「………」
「まあ、口で言うほど簡単ではない。今から10年前、先代の『大神一郎』も天狼の制御に挑み、山一つを巻き添えにして自滅しおったからの」

 今から10年前。それは降魔戦争終結の一年前ではないか?
 降魔戦争が激化の一途を辿り、このままでは破邪の呪法の使用が避けられなくなると囁かれ始めた頃だ……

「一郎は幸運じゃった。初めて天狼の力を発動させた相手が悪魔王じゃったからな。
 天狼はその性質上、より大きな『歪み』から先に『喰らおう』とする。悪魔王ほどの巨大な霊体が相手なら、自分自身に天狼の力が跳ね返る心配はほとんど無い。
 天狼は本来、この大地とそこに属する全てのものを滅ぼす力でもある。つまり、自分自身を滅ぼす力じゃ。
 故に天狼を目覚めさせ、その力を使おうとする者は、天狼の、滅ぼそうとする『意志』以上の強さで在り続ける事を意志しなければならない。滅びを撥ね退ける生きる意志が天狼転生の成否の鍵なのじゃ。
 そして通常の術と異なり、相手が弱ければ弱いほど、『歪み』として小さければ小さいほど、自らを滅ぼそうとする滅びの意志は強くなる。より強く、生きる意志を持たねばならぬ。
 ――ならば心配は要らぬ、天狼の力以外ではどうにもならぬ強大な存在に対してのみ、その術を使えば良い、と思うじゃろ? ところが、天狼はこの世界そのものの基本法則であるというところに大きな落とし穴があるのじゃよ。
 この世界そのものの基本法則であり意志である天狼は、儂らが何もしなくても、常にこの世界へ働いておる。己の内なる天狼を目覚めさせる事を覚えた者は、この意志に同調したくなってしまうのじゃ。
 他ならぬ、自分自身の属する世界、自分自身の大元の意志じゃからな。それは逆らい難く甘美な誘いじゃろう。この世界そのものと、一体になるという誘いなのであるから。
 天狼転生を会得した者は、それが不完全であっても常に滅びの衝動を身の内に抱え込む事になる。まずこの世界に属さぬ、『不自然』な存在を消去しようとする。――これが、『神殺しの獣』と呼ばれる由縁なのじゃろうな。神殺しの獣、とは、人間の隠れた一面の事なのじゃよ、若いの。
 そしていずれ『空』に還るべきこの大地そのものをあるべき姿にしてしまう事を望む。更に、『空』へ還るべき存在に他ならない自分自身を消滅させたいと、世界に同化させたいと願う。
 これが、神々を追放し魔王を滅ぼす、奥義・天狼転生を会得する代償じゃ。天狼転生は会得する過程よりも会得した後に真の試練が待っておるのじゃよ」
「さくらさん」
「はいっ」

 突然名前を呼ばれ、裏返った声で返事をしてしまうさくら。
 彼女を呼んだのは千鳥だった。

「ちょっとよろしいかしら? 二人でお話したい事があるのですけど」
「は、はい」
「じゃあ、私たちがお借りしているお部屋に行きましょうか。
 閣下、少し中座させていただきますね」

 丁寧に一礼して、椅子を引く音も立てず、軽やかに立ち上がる千鳥。慌てて彼女の後に続いたさくらは、背後でこんな台詞が語られたのを聞いた。

「己の内なる天狼を目覚めさせた者は、人の内なる滅びを具現する者。
 滅びの具現者と知って、あなた方は尚、一郎を仲間と認める事が出来ますかな?」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「お父様にも困ったものね。何もこんな席に『試し』を持ち込まなくても良いでしょうに」
「試し…ですか?」

 苦笑する千鳥に恐る恐る尋ねるさくら。それは、尋ねることを憚られるもののように、何となく思えたからだ。

「ええ。相手が私たちの友たり得る者かどうか。秘密を預けるに足る者か、それとも口を封じてしまうべき者か。
 ……あら、ごめんなさい。ちょっと物騒な表現だったかしら?
 口を封じる、というのは、命を奪う、という慣用的な意味ではなくて、文字通り、誰にも喋れないようにしてしまう、という意味なんですよ。少しだけ、暗示をかけさせて貰って」

 まさに千鳥が言った通りの勘違いをしていたさくらは、ほっと胸を撫で下ろし、理解したしるしに曖昧な笑いを浮かべてから、それが笑い事で無いのに気づいた。
 喋れないように暗示をかける、それだって大変な事ではないか…

「私たちの事を知れば、放っておけなくなる人たちも世の中には大勢いますから。
 私たちは誰にも利用されるつもりは無いし、無理やり言う事を聞かせようとする人がいたら力づくで抵抗します。私たちは、自分自身以外の何者にも従わないって決めているんですよ。『大神』を名乗り始めた時から。
 だから、無用な波風を立てない為にも、お友達になれない方には黙っていていただくことにしているんです」

 千鳥はにこやかに微笑んでいる。だけどその決意は鋼よりも硬い、この人も、優しいだけの人じゃないんだと、さくらはそう思った。

「突然で驚いたでしょう?」
「はい…?」

 千鳥の問い掛けはそれこそ突然で、さくらには何の事だか理解できなかった。

「天狼の解放…内なる天狼を目覚めさせた者は、人でありながら天狼の化身となります。天狼転生を使っている最中の一郎さんは、人間の大神一郎であり天狼の大神一郎でもあるのです。
 あの姿を見て、驚いたでしょう?」
「い、いえ、その…」
「いいのよ、正直に仰って」

 慌てて否定しようとするさくらに、千鳥はくすっと笑って首を振った。

「誰でもびっくりすると思うわ。母親の私でも、あの姿を初めて見た時はびっくりしましたから。
 聖魔城で、悪魔王を相手に、神武の中で天狼を覚醒させた一郎さんの姿には…」
「えっ!?い、いったい……」
「どうやってそれを見たのか、ですか?
 私には風の声を聞き、世界に刻まれた記憶を見る力があるんですよ。あんまり昔の事は無理ですけど、二、三ヶ月程度なら。
 …そんなに驚かないで。これは別に、私だけの力じゃなくて、世の中にはもっと昔の事まで『見る』事の出来る人がいますよ?」

 驚くなと言われてもそれは無理だった。そんな「力」があるなんて、さくらは想像もしていなかったのだから。
 だが同時に、ずっと抱えていた疑問が氷解するのも感じていた。大神の家族が、部外者の知るはずの無いことまで、本当に色々と知っている理由が分かるような気がした。

「あの時はまだ、一郎さんも意識して天狼の力を使っていた訳ではないんですけどね。
 今回ははっきりと、自分の意志で使いましたから、天狼の特徴もより強く出ていたのではないかしら?
 自分の意志で、と言っても、半分は美鶴が使わせたみたいなものですけど」

 苦笑いしている千鳥に、さくらは訊きたい事が山ほどあった。だがまたしても、何から、どう訊いていいのか分からず、言葉に詰まってしまうだけだった。

「今回天狼を使ったのは、それに相応しい『歪み』が目の前にあったからだけど、もう一つは、さくらさん、貴女に見せる為でした」
「あたしに…ですか…?」
「貴女が、天狼と化した一郎さんを見て、それでも尚、一郎さんの許へ嫁いで来てくれるかどうか。天狼を宿す者を、貴女が受け容れられるかどうか。
 怒らないで下さいね? 貴女がそんな事で心変わりをするお嬢さんで無い事は十分分かっているつもりです。それでも、一度は、お見せしておかなければならなかったんですよ。
 何故なら、一郎さんがこれから先ずっと、滅びの誘惑に耐えられるかどうかは、さくらさん、貴女にかかっているのですから」
「お義母さま、それはいったい…?」

 さくらは意識が真っ白になりそうだった。それは、彼女が漠然と考えていた「妻の責任」とはかけ離れて重い責任に思えた。

「天狼転生を発動させる前、美鶴が何か言いましたでしょう?
 覚えていらっしゃるかしら?」
「はい…確か、『大神家当主、大神美鶴の名において、天狼の解放を許可します』、と…」
「ええ、その通りですよ。
 天狼転生はその威力と術者への負担故に、二つの制約が課せられているんです。
 一つは、術者が正常である限り、その力は霊的な存在とその強い影響下にある物にのみ向けられるという事。物をやたらに壊しては他人様に迷惑ですから。
 そしてもう一つは、自分だけの意思では発動しない事。自分以外の誰かの意思が必要なんです」

 そう言われてみて、さくらにも思い当たる節があった。聖魔城で悪魔王を斃した時、武蔵で新皇に止めを刺した時、大神が巨大な力を発揮するのはいつも、自分たちが願いを託した時だ。
 自分たちは彼に想いを託し、彼は常にそれを叶えてきた。それは大神の持つ「触媒の霊力」によるものだと思っていたが、もしかしたら彼は、自分たちの想いを受けて、天狼の力を発動させていたのだろうか?

「今は仮初めに、美鶴がその『鍵』の役目を担っていますけど、それは一郎さんの妻であり最愛の者である、さくらさん、貴女の役目になります。
 何故なら、生き続けたいという意志こそが天狼の滅びから身を守る唯一の力であり、共に生きて行きたいと思わせる人の存在こそが、最も強固な防波堤になるのですから」
「あたしが……」

 さくらは真っ青になっていた。それは余りにも重過ぎる責任に思えた。
 だが同時に、心の中に強い想いが生じた。否、生じたと言うより、再確認した。
 自分はいつまでも、あの人と一緒にいたい、絶対に、あの人を失いたくないという、強い想い。
 自分に、彼をこの世界に繋ぎ止める役目があるなら、何があってもそれを果たさなければならない、と。

「さくらさん、貴女は天狼転生を使った直後の一郎さんを抱きしめてくれたそうですね?」

 青くなっていた顔が、途端に紅く染まった。
 自分が赤面しているのをさくらは自覚した。
 抱きしめたと言うより抱きついてしまったのだが、そんなのはどうでもいい事だ。
 今更ではあるが、人前であんなにしっかり抱き合って、それを改めて口にされるのは恥ずかし過ぎる事だった。
 それが相手の母親だから尚更だ。

「貴女は一郎さんを恐れなかった。どんなにその人の事が好きでも、あんな人間離れした姿と力を見せられれば少しくらい怖がっても当然なのに、貴女は一郎さんを引き止めるように、抱きしめてくれました。
 だから、貴女なら大丈夫。美鶴よりも、私よりも、貴女がいてくれれば一郎さんは大丈夫です」

 さくらはしっかり頷いた。
 それは約束だった。愛する者同士の約束とは別に、同じ人を愛する者同士で交わされた、決して違われる事の無い誓いだった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 陸軍省の奥まった一室。この部屋に来る者は極めて少ない。省内の職員でも、この部屋の存在を知らぬ者の方が多いくらいだ。
 その部屋の主の名は柳生暁星大佐。その部屋には所属部課の名前が一切表示されていない。実を言えば、柳生大佐が陸軍のどの部署に所属しているのか、正確に知る者はほとんどいない。彼は独自のネットワークを持ち、独自の活動をする、そういう立場を許された人間だった。
 彼は照明を暗くした部屋で、窓の外を見ていた。薄っすらと霧のかかった夜の帝都。その窓に映る彼の顔には、薄い笑みが浮かんでいた。

「楽しそうだね、御曹司」

 拳銃を抜いて素早く振り返った彼の顔は、一瞬過ぎった驚愕の色を全く残していなかった。

「ご挨拶だね。久しぶりに会ったというのに、いきなりホールド・アップかい?」
「桐生…いや、霧隠、修蔵」
「おやおや…その名を口にするのはご法度だって知っているはずだろうに。
 しばらく会わないうちに、口が軽くなってしまったのかな?
 それとも、牽制のつもりかい? 俺はお前の秘密を知っているぞ、って。
 そんなものは逆効果だって君はよく知っているはずだよ」
「…大胆だな、修蔵。こんな所にまで入ってくるとは。ここには陸軍の警備兵もいる、俺のスタッフも控えている。俺がその気になれば…」
「…その気になれば、何だい? たとえ何十人、何百人を動員しようが無駄だという事は、君もよく知っているはずだけど?
 現代の蒸気都市は常に厚い蒸気で覆われている。蒸気文明の恩恵厚い大都市であればあるほどね。つまり、現代の大都市は常に霧が立ち込めているのと同じだ。
 霧の中で『霧隠』の称号を持つ者を捕捉できる者がいるとしたら、そうだね、大神一族くらいのものだよ」
「それは屋外での話だろう。この建物の中に、霧は侵入してこない」
「そう思うんだったら試してみるといい。その代わり、今度は俺も手加減しないよ?
 裏柳生の技と霧隠の技を競ってみるかい?」

 柳生大佐は一つ舌打ちすると、拳銃をホルスターに収めた。

「何をしに来た」
「相変わらず単刀直入だね。まあ、君のそういうところは嫌いじゃない」
「何の用だ」
「やれやれ…大神中尉、及びその関係者に対する謀略工作を即刻中止して欲しい。
 そして、今回の一件はあくまで特戦研の暴走であり、事態を収拾したのは米田中将と大神中尉という事にして欲しい。
 事実、その通りなのだから大して手間もかからないだろう?」
「…何の事だ」
「などというお惚けが通用するとは、まさか思っていないよね?
 今回の君の動きはいささか性急過ぎる。従機兵計画を通すのも、騒動が起こってからの措置も。
 いったい、特戦研を利用して何をするつもりだった? 何が目的で帝国華撃団を排除しようとする?」

 柳生の目には、薄暗い熾火が宿っていた。そのゾッとする眼差しを、修蔵は平然と受け止めていた。

「…国家の防衛は、一握りの異能者に委ねられるべきではない。
 国家を担うのは多くの普通人だ。数多くの普通人の兵士が戦い、血を流す事で国家は守られる。結局、国を動かすのも守るのも、数多くの普通人だ。
 僅かな異能者に大きな権力を与えてはならない。一握りの人間で、国土の全てを守る事など出来ないのだ。
 帝国華撃団は大きくなり過ぎた。異能者はあくまで日陰の存在であるべきだ。彼らの存在は、国家を揺るがす」
「だから一旦帝国華撃団を表舞台に引っ張り出し、その後でスキャンダルをでっち上げて社会的に抹殺する、と? 確かに、山崎少佐と藤枝中尉の件なんて君には格好の材料だろうね。
 でも、君たちだってその『一握りの異能者』じゃないのかい?」
「我々は決して表に出ない。常に、人の目に触れぬ裏舞台で国家を守る」
「そうやって対降魔部隊も排除した訳か……何が排除されるべきで何がそうでないかを自分たちの一存で決める。それだけで十分、大き過ぎる権力だと思うけど?」
「我々は必要悪だ。国家安泰の為には、毒を制する毒が必要だ。お前にもその事は分かっているはずだ。『霧隠』も『裏柳生』もその為の毒ではないか。
 修蔵、今からでも遅くない。俺の許へ戻って来い。国家の為、本来の役目に立ち戻れ」
「いやはや…厚かましさには磨きがかかっているね。
 忘れたのかい? 俺はその、国家に裏切られた人間だよ?
 そもそも賢人機関にもぐりこんだ俺を、逆スパイとして告発したのは君じゃなかったっけ?
 まあ、君が色々官僚的な手続きに拘って見せてくれたおかげで、逃げ出す時間も出来たんだから、恨んじゃいないがね」
「青臭い事を言うな。我らのような者は、国家に見返りを求めず、ただ国家のために尽くすのが当然の心構えではないか」
「生憎だね。俺はもう、そういう生き方は止めたんだ。止めさせてくれた人たちがいるもんでね。
 だから、その人たちに危害を加える事は断じて認められない。君は君の道を行くといい。君の生き方に一々干渉するつもりはさらさら無い。だが、この件は諦めてもらう」

 一切の音が途絶えた。呼吸の音すら聞こえない。殺気に等しい緊迫した空気が二人の間に満ちていく。
 不意に、その空気までもが消えた。完全な静寂の中、息を吸い込む音が聞こえた。

「…わかった。今回はお前の顔を立ててやろう」
「ありがとう、と言うべきかな?
 だけど、今回は、じゃないよ。今後、ずっとだ。今後もし、あの人たちに危害を加えようとしたら、それが君の命日になる。
 かつて存在した、我々の友情の為に、そんな日が来ない事を祈っているよ」
「承知した」

 柳生大佐は首を動かさず口だけを動かしてそう言うと、修蔵にくるりと背を向けた。
 窓ガラスに映った室内に、修蔵の姿は見当たらなかった。

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