帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第三話 〜〜


 小さく、しかし、しっかりと、二つ響いたノックの音。

「さくらさん、いらっしゃいますか?」
「はいっ!」

 あたふた、あたふたと必要以上に焦って、メイクを営業用の華やかなものからもう少し落ち着いたものへ直していたさくらは、ノックの後に続くかすみの呼び掛けに裏返った声で応えた。

「皆さん、サロンにいらっしゃいますので、お支度が済んだらおいでになってください」
「は、はい!」

 笑い声こそ聞こえないものの、かすみの声の中に含み笑いの波動を感じて、さくらは鏡の前で真っ赤になっていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「お義父様、お義母様、ご無沙汰しております」

 いつもの袴姿ではなく、袂が小さ目で色合いもいつもの物より淡い、落ち着いた雰囲気の振袖に着替えたさくらは、やや硬くなった表情で深々と頭を下げる。

「こちらこそご無沙汰しています、さくらさん。
 あれから一ヶ月も経っていないのに何だか懐かしいわね」

 彼女のそんな緊張をほぐすように、親しみを込めて優しく応える千鳥。彼女の笑顔はそれを向けられたさくらばかりでなく、その場に同席していた皆の心を和ませ温める、そんな影響力を持っていた。

「お母様、それはきっとあたしたちが、『さくらさんに早くまたお会いしたいですね』ってずっとお話していたからだと思います」
「あ、あの……」

 そしてにこやかに、優しくと言うより楽しそうに言葉を継いだ美鶴の笑顔に、さくらは赤面し言葉を失ってしまう。

「まあ、照れちゃって。
 本当に可愛い義妹(いもうと)でお姉さん、嬉しいわ♪」
「………(っ赤)
「おいおい……」
「美鶴さん……」
「あらやだ、ごめんなさい。あんまり嬉しかったものだからつい舞い上がっちゃって……
 お久し振りですね、さくらさん」
「お、お久し振りです、美鶴さん」

 熊作と千鳥から苦笑交じりに窘められて、自分でも苦笑いしながら改めて挨拶をやり直す美鶴に、さくらも慌てて挨拶を返す。

 改めて目を丸くするギャラリーの前で。

 サロンでさくらを待っていたのは大神一家だけではなかったのだ。
 呆れた事にと言おうか当然の如くと言おうか(彼女達に言わせれば「当然」という事になるのは間違いない)、食堂で既に顔合わせを済ませた三人だけでなく、織姫とそしてレニまでこの場に集まっていた(レニはおそらく織姫に引きずられてきたのだと思われる)。もし例の実験で手が塞がっていなかったら、花組の全員が集まっていたに違いなかった。
 そして、美鶴の極めて「印象的」な個性に、彼女を初めて見た織姫は無論のこと、既に食堂でその片鱗に触れていたすみれ、カンナ、アイリスも、あのレニすらも、ただ目を丸くして立ち尽くすだけだった。
 実のところ、彼女達は美鶴の言動振舞いそのものに度肝を抜かれていた訳ではない。個性豊かな事にかけては人後に落ちない帝劇花組、この程度の「突拍子無さ」は日頃から見慣れていると言って良い。
 彼女達の精神失調の原因は、見た目と行為の激しい落差である。大神の姉は親しみ易さよりも近寄り難さを感じさせるシャープな美貌の持ち主で、黙って立っていれば幽玄美と威厳すら感じさせる美女だ。
 事実、さくらがやって来るまで、すみれ達は端然と無言で佇む美鶴に気後れすら感じていたのだ。それが、瞬時の変貌。つい今しがたまでの迫力が嘘のような気安くお茶目な雰囲気。

「さくらさん、紹介するわね。これがあたしの旦那様よ」
「これ、なのかい…?
 いや、失礼しました。初めまして、さくらさん。桐生修蔵です」
「初めまして、真宮寺さくらです」
「さくらさんの事はかねがね美鶴と鷹也君から伺っていました。
 でも、お聞きしていた以上にお美しいですね」
「えっ?、あの、…ありがとうございます」

 彼女も今や売れっ子女優だ。美しい、と言われた位で照れていては仕事にならない。(それでも、恥じらいを無くしてしまわないのが彼女の魅力でもあるのだが)
 さくらが赤面し、口篭もってしまったのは、自分を見詰める修蔵の視線が妙に色っぽかった所為だった。
 確かに彼は銀幕の主役も務まるほど格好のいい二枚目だが、「超」がつくという程ではない。それに、さくらにとっては大神一郎以上の二枚目など存在しない(と言うか、眼中に無い)。
 単に外見だけではないのだ。修蔵の眼差しには、男の色気、としか表現のしようがない雰囲気が漂っていた。
 甘く危険な香り、と言えば一番しっくりくるだろうか。
 彼女の恋人(そして、近い将来の配偶者)のようなときめきの中にも安心を与える男らしさではなく、何となく心をかき立て不安定な気持ちにさせる、艶のある視線。
 俯いて目を外すさくらを、なおも見詰める甘やかな眼差し。

 ぎゅううぅ!!

「★▽◆※●□▲☆◎!」

 絡め取るような視線から、さくらは突如解放された。
 その唐突さにかえって戸惑いを覚え顔の向きを戻したさくらは、天を仰いで声にならない悲鳴を上げている修蔵の姿を目にする事になった。

「全く修蔵さんったら!
 義弟の婚約者に色目を使ってどうするんですかっ!」
「いてててて!
 ご、誤解だ、美鶴。色目なんか使ってないって!!」

 修蔵自身の身体の陰になってさくらの目には見えないが、どうやら美鶴に背中を思いっきり抓り上げられているようだ。

「さっきのどこが色目じゃないって仰るの!?」
「本当にチャーミングだなぁと思って見ていただけだ!
 疚しい気持ちは欠片も無かった!!」
まあぁぁぁぁぁ!!ぬけぬけと!!
「いててててっ、待った待った待った!
 それは誤解だ美鶴!
 純粋に、賞賛の気持ちがあっただけだって!!」
「………本当に?」
「天に誓って真実だっ!」
「………」
「だから早く離してくれよ!」
「……何だか誤魔化されたみたいな気もしますけど……」

 尚も不服そうな表情だったが、美鶴はようやく修蔵の背中から手を離した。
 涙目になり仰け反り気味の姿勢で背中に手を回している夫に向けられる視線はまだまだ刺々しかったが。

「全く。
 いくら外国暮らしが長いからって、そんなところまで向こうの人たちに似なくても良いんです」
「……俺が悪いのか?そうなのか?」
「ご自分の胸に手を当ててよぉっくお考えになられては?」
「………」

 情けない顔で妻の顔を盗み見る修蔵と、そっぽを向く美鶴。
 さくらはその光景に正体不明の親近感を感じていた。
 懐かしさ、と言うか、既視感と言うか……

「はぁ〜〜、似た者同士っちゅうか何ちゅうか…何や、実のお姉さんみたいやね……
 大神はん、実はさくらはんのアレに惚れたんと違う?」
「そんなことはないって……」

 もどかしさに囚われて周りへの注意が疎かになっていたさくらに浴びせられた不意打ち。
 聞き慣れた関西弁もどきに続く苦笑交じりの声に、心臓が大きく高鳴る。

「大神さん!!」

 振り返ると同時に、満開の笑顔が咲き誇る。

「…さくらはん、その呼び方はまずいんとちゃうの?」
「そうね。ご家族の方は皆さん『大神さん』でしょう?」
「…あかん。うちらのことは目に入っとらんで」

 紅蘭の言葉は誇張でも誤解でもなかった。
 その時さくらの視界を、意識を占めていたのは、困ったような笑みを浮かべた青年の顔。

「さくらくん、撮影の方は終わったのかい?」
「はい!」
「今日はもう上がりだって?」
「はい!」
「…ところでさくらくん」

 一心に自分を見詰める視線を優しく受け止めながら、苦笑を含んだ瞳でチラッと横に視線を投げる大神。
 つられるように視線を動かして、さくらの目はようやくいつもの色を取り戻した。

「紅蘭、それにマリアさんも…お仕事は終わられたんですか?」
「…大神はんと一緒やったんやけど」
「あっ、そうか。そうでしたね」

 照れ笑いを浮かべるさくらに、紅蘭もマリアも仕方が無いな、という感じの苦笑を返す。

「ええっと……それで、紅蘭、何か言ってなかった?
 確か、似た者同士がどうとか……」
「そりゃあ、さっきの『ぎゅううぅ』や。さくらはんもようやっとったやないの」
「そ、それよりも、隊長。私たちにも皆さんをご紹介していただけませんか」

 慌てて割って入ったマリアの台詞に、紅蘭も少しバツ悪げな表情を浮かべる。
 確かに、初対面の本人の前で口にするには、少々礼儀に欠けた台詞だったと思い至ったからだ。
 もっとも、美鶴も修蔵もそんな事を気にする人間ではない。マリアのこの言葉を聞いて、大神が口を開くより早く自分から新たな二人のギャラリーに声を掛ける。

「副隊長のマリアさんに天才発明家の紅蘭さんね?
 初めまして、一郎の姉の美鶴です」
「そんな、天才やなんてうち照れるわぁ〜〜」
「…初めまして、マリア・タチバナです。
 私どもの事を良くご存知のようですね」
「いいえ、存じ上げている事はほんの表面的な事柄だけです。一郎さんは相手が身内であっても、お仕事の秘密を話してくれるような人ではありませんからね。
 でも、もう一つのお仕事が何なのかくらいは存じておりますから、あたしたちのことを警戒する必要もありませんよ」
「…そうでしたね。失礼致しました」

 美鶴が何故、あえて華撃団についての知識を匂わせるような台詞を口にしたのか、その意図を理解してマリアは素直に頭を下げた。思わず「隊長」と呼びかけてしまった自分に、気にする必要は無いと言ってくれたのだと。

「どうか妻の言う事は気にしないでやってください。どうも遠慮というものに乏しくて…
 初めまして、桐生修蔵です」

 懲りない爆弾発言にまたしても美鶴の柳眉が逆立ちかけたが、今回は未発に終わった。
 意外なアクシデントのおかげで。

「キリュウシュウゾウ…?
 お前は、まさか!!」

 束の間、記憶を辿るような表情を見せた後、マリアの翡翠の瞳が火を吹いたのだ。

 マリアの右手が上着の懐に伸びる。
 修蔵が両手を上げる。
 大神が銃把を掴んだマリアの右手を抑える。
 美鶴が修蔵とマリアの間に割って入る。

 それだけの事が、一秒に満たない時間に起こった。

「ストップ!今は敵じゃないっ」
「マリア、どうしたんだ!?いきなり…君らしくないぞ!」

 当の相手と大神の、二人から制止を受けて、マリアは強張った表情のまま右手を下ろす。

「ほら御覧なさい。あんまり見境無く女の人に手を出してるから…」
「いや…それは違うんじゃないかな……」

 緊張感の無い夫婦の会話に、緊迫した空気も多少和らぐ。

キリュウ・ザ・モータル・ショット……
「マリア?」
「申し訳ありません、隊長。部屋で、少し頭を冷やしてきます。
 桐生さん、大変失礼を致しました。いずれ改めてお詫びいたしますので、この場は失礼させてください」
「構いませんよ。気にしていませんから」
「失礼します」

 すぐ隣にいた大神にしか聞こえない、小さな呟きを漏らした後、いつものポーカーフェイスを取り戻して、その場を後にしたマリアを除いて。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「鷹也。お祖父さんを迎えに行ってやってくれんか」

 姉さんは俺の家に泊まった方が、あらいいじゃないせっかくなんだし、という押し問答がようやくまとまりを見せた頃(もちろん、軍配はギャラリーを巧みに味方につけた美鶴に上がった)、窓際の席にどっしりと腰を下ろしていた熊作が通りを眺めながらそんな事を言い出した。

「いいですよ」
「そうね、お祖父様はこちらにお世話になる事をご存じ無いから……
 ご苦労様だけど、お願いするわね。迷子になるかもしれないから、見失わないように気をつけて」

 同じように表通りを見下ろしながら、何気ない口調で付け加える千鳥。
 彼女の視線の先には、帝劇を後にする背広姿の細身の男性の姿。

「分かりました。気をつけます」

 やはり何気ない口調で、鷹也は爽やかに頷き、やや急ぎ足でサロンを後にした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「マリアさん、どうなさったんでしょうか?あんなに動揺したマリアさんは初めて見ました」
「…確かにいつものマリアじゃなかった…」
「お義兄様と昔何かあったんでしょうか?」
「う〜ん…それにしては様子が変だったな。
 いきなり銃を抜こうとした割には名前を聞くまで修蔵さんのことが分からなかったみたいだし……」
「何だか、心配です」
「マリアに限って早まった事はしないと思うけど…」
「大神さん、後でマリアさんとお話してみてくださいませんか?」
「そうだね。分かったよ、さくらくん」

 帝都を吹き抜ける晩秋の風は既に次の季節の色を帯びている。去年のような早過ぎる大雪こそ降っていないものの、今年も冬の訪れは早そうだ。
 小さく身体を震わせて、外套の襟を合わせ直したさくらに、大神の少し心配そうな視線が注がれる。

「大丈夫かい?」

 自分の首に巻かれていたマフラーを外して、その手をさくらの肩に回そうとする大神に、さくらは笑顔で首を横に振って見せる。

「大丈夫ですよ。
 …そのマフラー、使ってくださってるんですね」
「あ…うん…もちろん、だよ…」

 会話が途絶える。
 だがそれは、気まずさを誘うものでは全く無かった。
 キョロキョロと目を泳がせながら足を進める大神と、俯いたまま僅かに遅れて彼の斜め後ろに続くさくら。
 足元に向けられたさくらの視界に、彼女が編んだマフラーが揺れる。

「大神さん」「さくらくん」

 振り返った大神。
 顔を上げたさくら。
 声が重なり、眼差しが重なる。

「あ、あの…」「え、えっと…」

 時間の流れが変わる。
 一秒が、何十倍にも引き伸ばされた濃密な時間の中で言葉を失い見詰め合う二人。
 言葉を失っていたのはたったの一秒。
 長い、一秒間。

「な、何だい、さくらくん」
「い、いえ、大神さんからどうぞ」
「い、いや、たいした事じゃないんだ」
「そ、そうですか。あたしも、たいした事じゃ……
 その……
 大神さんとこうして銀座の街を歩くのも久し振りですね。
 何だか、あたし、嬉しくて…」

 動悸。
 息切れ。
 乾いた喉。
 火照った身体。

 上気した頬。
 潤んだ瞳。

(……風邪の諸症状、ではない。念の為)

 上手く回転しない頭の片隅で、大神はそんな馬鹿な事を考えていた。
 そうでもして気を逸らさなければ、湧き上がる衝動を抑えきれる自信が、正直、無かった。

「それは、ええと…ほら、さくらくんはスターだから、見つかったら大騒ぎになると言うか…」

 くすっ

 こういう気の利かない台詞に興を冷ましたりせず、笑って受け止める心の広さがなければ大神の恋人は務まらない。
 そしてさくらにとっては、どんな情熱的な愛の言葉よりも、大神の隣にいることこそが大切だった。

「…お義母様からいただいた御守のおかげですね。凄い効き目です」
「…御守じゃなくて御札なんだけど、ね。
 流石は十郎坊様の作られた隠身符だ」
「えっ…?
 これって、十郎坊様がお作りになった物なんですか?」
「多分間違いないよ。
 『天狗の隠れ蓑』の昔話でも分かるように、天狗は数ある霊的種族の中でも隠形隠身の術に特に優れた種族だからね。
 十郎坊様はその天狗族の中でも指折りの力をお持ちの方だ。この隠身符がそれだけ強い力を持っているのは当然の事だろうし、またそのくらいの力が無いとさくらくんには役に立たないんじゃないかな」
「えっ、どうしてですか?」
「どうしてって…それは、つまり……」
「?」
「つまり、その…そのくらい強い力が無いとさくらくんを目立たないようにするなんて出来ないから……」
「………
 ……やだ、大神さんったら……」

 照れくさそうに答える大神を最初はきょとんとした表情で見ていたさくらの顔が、その意味を理解するに連れて段々真っ赤に染まっていく。
 二人の顔の色は、大神の家に着くまでそのまま元に戻らなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 帰国してから大神が借りた家は、帝劇から程遠からぬ、歩いて通える場所にあった。
 さくらが通い易いように、ではなく、仕事の都合上である。銀座から遠くないということは現在の職場からも遠くないという事であり、また、有事の際には再び帝撃・花組隊長として指揮を執らねばならないという事情もある。
 ただ、大神がこの家を借りた理由はそれだけでもなかった。
 家主の名は、米田一基。
 この家は、大帝国劇場ができるまで、そして聖魔城との戦いの後帝劇が再建されるまでの間、米田が住んでいた家なのだ。
 米田が言い出した事だった。
 彼と、さくらに、この家を使えと。

「結構綺麗にしていますね」
「掃除はそれなりに、ね」

 さくらの声が少し不満げ、と言うかつまらなさそうに聞こえて、大神は苦笑交じりに応えを返した。

「あっ、でも洗い物が溜まってますね♪」
「今朝は早かったから……」

 水を張った流しのたらいに積まれた茶碗とお皿を見て、嬉しそうな表情を見せるさくらに、大神は苦笑半分、微笑ましさ半分の笑顔を浮かべる。
 さくらはそのまま台所に向かい、大神は彼女の背中を見ながら卓袱台の前に腰を下ろす。

「すぐにお茶を淹れますから」

 勝手知ったる許婚の家、勝手知ったる将来の我が家。
 さくらが大神の家に上がりこむのは、実は、それ程しょっちゅうという訳でもない。現在のさくらは忙しすぎる身の上だし、この家は大神の一人暮らしだ。華やかな世界に身を置いていても、彼女は道徳面で奔放にはなれない女性だった。
 それでも、この家の事は隅から隅まで良く知っていた。暫く空家になっていたこの家の大掃除はほとんど二人がかりだったし、引越しの荷物も二人で片付けた。もしそうでなくても、訪れたのがたった一度であっても、彼女が忘れるはずは無かった。彼の使う湯呑み、彼の使う急須、彼の為に作る食事、彼の為の掃除、彼の為の洗濯、その為に必要な道具。その全てが、彼女にとって愛しい物達だったから。
 洗い物の傍らお湯を沸かし、テキパキと食器を片付けるさくら。既に水仕事は辛い季節になっていたが、背中に感じる大神の視線が肉体的な負担を忘れさせてくれる。
 お盆に急須と湯飲みを載せて、さくらは大神の隣に膝を折った。

「どうぞ、…一郎さん」
「ありがとう、…さくら」

 呼び交わす声がぎこちないのも、その後顔を赤らめてしまうのも、この二人らしいと言えばらしい、微笑ましい光景だった。

「すまないね、わざわざ来てもらって。
 二、三日帝劇に泊り込むくらいの支度なら、俺一人でも大丈夫だったのに」
「…そんな事、仰らないで下さい。
 あたしがそうしたかったんです。だって、久し振りだったし、中々二人きりになれる時間なんて…」
「そ、そういう意味じゃないって」

 それまでの嬉しそうにはにかんでいた笑顔が、一転、寂しそうに翳ったのを見て、大神は慌てて首と手を振った。

「俺だって、さくらくんと一緒にいられる方が嬉しいに決まってるよ!
 そういう意味じゃなくて、さくらくんが、何だか疲れているみたいに見えたから……
 お仕事がきついんじゃないかい?」
「嬉しい……」
「さくらくん!?」

 頬を伝う一筋の涙を拭いながら上目遣いに見せる笑顔に、大神は益々慌てふためいてしまう。

「ごめんなさい…大丈夫ですよ。心配しないで下さい、大神さん。
 あたし、最近何だか、情緒不安定気味なんです」
「やっぱりお仕事が多すぎるんじゃあ…?」

 心配そうに覗き込んでくる大神に、さくらは潤んだ目のままで精一杯の笑顔を返す。

「大丈夫ですよ。こう見えてもあたし、身体は鍛えてるんですから。
 お仕事の所為じゃないんです。何だか最近、良く眠れないことが多くて……
 …やっぱり、少し、神経が高ぶってるんでしょうか?
 夜中に訳も無く不安な気持ちになる事があって……」
「さくらくん……」
「おかしいでよすよね。何も心配することなんか、あるはず無いのに。
 だって、これからずっと、大神さんが一緒にいてくれるのに…」

 口ではそう言ってみても、不安な気持ちを思い出したのか、表情を曇らせ俯き加減になるさくら。
 膝の上に行儀良く揃えられた彼女の手の甲に、大神はそっと掌を重ねる。

「あっ…」
「大丈夫。俺がついている。ずっと、君の傍にいるから」
「……きっと、あたし、幸せ過ぎるんです。
 幸せ過ぎるから、訳も無く不安になったりするんですね、きっと」
「さくら…」
「信じています、一郎さん…」

 二人の瞳には、お互いの姿が映っていた。
 相手の姿しか映っていなかった。
 ただ、じっと、見詰め合う二人。
 さくらの瞳が潤いを増す。
 そっと閉じられる双眸。
 大神の手が、彼女の肩に回り――

「一郎、参ったぞ!」

 二人の心臓が跳び上がった。

「居るんじゃろ?
 邪魔するぞ、一郎」

 音も無く襖を開けた突然の闖入者、虎太郎が見たものは、顔を紅くし、1メートルほどの距離をおいて、気まずそうにお互い視線を逸らせて座る孫とその婚約者の姿だった。

「……すまん。出直してくる」
いいよ別に!!

 怒鳴り返した大神の声は、明らかにやけくそ交じりだった。
 そしてさくらはといえば、動悸の収まらない胸を押さえて荒い呼吸を繰り返していた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「爺さん、鷹也と一緒じゃなかったのか?」
「鷹也じゃと?鷹也は熊作達の供につけておったはずじゃが」

 ようやく落ち着きを取り戻した大神は、それでもまだ苦虫が口の中に残っている表情で虎太郎の相手をしている。
 一方さくらは、二人にお茶を淹れ直した後、流石に気まずかったのか、大神の着替えの準備に言葉少なく席を立っていた。

「親父達から爺さんを迎えに行くようにって言われて出ていったんだぜ、鷹也」
「知らん。儂は、待ち合わせの刻限になっても誰も現れん故、予め定めた通りお前の家に直接来てみたんじゃが」
「何処で待ち合わせたんだ?」
「東京駅じゃ」

 祖父の言葉に、大神は考え込んでしまった。
 帝劇と東京駅の距離、鷹也が出て行った時間と待ち合わせの時刻。
 従弟の足を考えれば、十分に余裕を持って着くはずだ。
 また、鷹也は大神以上に生真面目な性格で、無意味な寄り道をするとは思えない。

「ふぅむ……熊作は儂を迎えに行く以外、何か言いつけておったか?」

 不審を感じているのは大神ばかりではないようだ。虎太郎もまた、興味深げな顔になっていた。

「いや、親父は特に……
 そう言えば母さんが『迷子になるかもしれないから、見失わないように気をつけて』って言ってたかな」
「見失うな、か……
 ふぅむ……」

 揃って首を傾げる二人。
 単に不思議がっているだけではなく、何事か心当たりがあるような、似通った表情。

「すみません、一郎従兄さん」

 噂をすれば……という奴だろうか?

「お祖父さんがお邪魔していませんか?」

 それはまさに、鷹也当人の声だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「お前が待ち合わせに遅れるなんて珍しいな、鷹也」
「すみません、折角お二人でお寛ぎのところに…」
「鷹也、そりゃ、儂がお邪魔虫じゃったと言うておるのか?」
「いえ、そんな……ただ僕は、結果的に、一郎従兄さんとさくらさんがお二人だけの時間を過ごしていらっしゃったのに、と」
「分かった分かった。こんな人通りの多い所で二人きり二人きりと連呼しないでくれ」

 相変わらず大真面目で臆面の無い鷹也の発言に辟易する大神。さくらの顔は、完全に地面を向いている。
 四人は今、大神の家から帝劇へ戻っている途中だった(虎太郎は戻る、ではなかったが)。
 相変わらず人の通りは多い。さくらが身につけている隠身符の効力のおこぼれで、大神達の会話は誰の注意も引かなくなっているとはいえ、周りに人がいるだけで恥ずかしいものは恥ずかしいのである。
(ちなみに隠身符とはそれを身につけた者の姿を見えなくするものではなく、身につけた者を意識することが出来なくなる呪符である。目には見えているのだから、すれ違う者はちゃんと避けてくれる――無意識のうちに。ただ、それが誰であり、何をしているのか、何を話しているのかが分からなくなる力を持っているのだ。)

「鷹也、後で話を聞かせてもらうぞ」
「儂も是非に、な」
「もちろんです」

 意味ありげに頷く三人の様子に、さくらは気が付いていなかった。
 彼女は、大きな恥ずかしさと小さな怒りで、それどころではなかったのだ。
 ――何に怒りを感じていたのか、は、言うまでもないと思われる。

 

続く

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