帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第五話 〜〜


 乾いた、小気味の良い音が連鎖する。
 象牙の玉が羅紗を走る音、クッションに弾む音、ポケットに落ちる音。
 そして、小さな溜息が一つ。

「……今日はまた、絶好調だね、マリア」
「賞品が豪華ですからね。気合も入りますよ」

 ニコッ、と上機嫌の笑顔と共に返されたマリアの応えに、大神の頬は小さく引き攣った。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 既に日は落ちていた。
 今は一年で最も日の入が早い季節だ。
 新月を二日後に控えた晩秋の夜空にはまだ、月の姿もない。
 窓から差し込んでくる星明りと街灯の光が、彼女の部屋を僅かに照らす照明だった。
 マリアは、部屋の明かりもつけず、机の前でじっと考え込んでいた。
 まだ日が落ちる前から、既に何時間も同じ姿勢で。
 その翡翠の瞳は目の前の壁に固定されていて、壁の向こう側に焦点が合わせられていた。
 透視の霊力を使っている訳ではなかった。
 彼女は何も見ていなかった。
 少なくとも、「今」は。
 彼女が見ているのは「今」ではない何時か、「ここ」ではない何処か。
 彼女が熱く血を滾らせていた雪原の時代の記憶ではなく、彼女が虚無に囚われていた石造りの都の過去。
 毎日が希薄で、無価値で、ただ朽ち果てて行くことだけを望んでいた。自分を罰したいと望みながら堕ちて行くことも出来ず、全てが他人事のようだったあの頃。
 だが、本当に全てがどうでも良かった訳ではない。
 ほんの僅かではあるが、忘れられない記憶もある。
 自分を庇って死んでいった男の事。
 初めて本気で殺意を覚えた、「敵」という名の集団ではなく特定の個人を殺したいと初めて思わせた裏切り者。
 そして――自分に初めて、完全な敗北を味合わせた相手。あの時の自分がただ一つ手元に残していた下らないプライドを打ち砕いた男の名前。

(キリュウシュウゾウ……キリュウ・ザ・モータル・ショット……)

 知っていたのはその名前と、僅かに垣間見たシルエットのみ。
 顔を見たのは今日が初めてだ。
 色々と想像はしていた。
 どんな冷酷な目をした男だろうか、どんな凶相の持ち主であろうか、と。
 意外だった。
 あんな普通の、優しげな目をした男だったとは。
 だが、彼女の身体は彼女のそんな感慨とは無関係に動いた。
 そのおかげで、今日、初めて分かったことも有った。
 あの時、あの男が自分に与えたものの正体。
 それは屈辱だけではなかったのだ。
 あの時、あの男から与えられたもの、それは――

「マリア?」

 ノックと共に飛び込んできた若く張りのある声が、彼女を現実に引き戻した。

 今は顔を合わせたくない――

 何もかも打ち明けてしまいたい――

 心の中に生まれた葛藤。
 意思の統一が取れぬまま、マリアはドアを開けていた。

「隊長……」
「やあ、マリア、少しいいかな?」

 気さくな態度をとってはいるが、用件は間違いなく先刻の一件だと、マリアは察していた。
 自分の、言い訳の余地がない非礼な振る舞いを咎めだてする為ではなく、異常な反応を見せた自分を心配してきてくれたのだという事も、気さくな態度はわざとで、彼の思い遣りの表れに他ならないという事も、彼女には分かっていた。
 その優しさに、つい、甘えたくなる。
 自分が殺し屋と紙一重の生活をしていた事など、彼はとうに知っている。
 今、自分から何を聞かされても、大神は決して、自分を責めたり、軽蔑したり、遠ざけたりしない。真摯に耳を傾け、笑顔で頷いてくれる――そうして欲しい時には、必ず。
 神父にすら打ち明けられないようなことでも大神になら打ち明けられる、と、彼女は知っていた。
 それは、今でも変わっていない、という事も。
 彼が、彼女以外の女性を、伴侶に選んだ、今でも。
 これからもずっと、変わらない事を、マリアは知っていた。
 だが逆に、だからこそ、彼に甘えたくないと思う気持ちもあった。
 誰にでも、少なくとも「仲間」に対しては誰にでも、等しく向けられる優しさ。
 それを素直に受け取ることの出来ない自分に、マリアは気付いていた。
 自分の心がそれ程単純ではない事を、単純に割り切ってしまうには、深過ぎ、強過ぎた事を。
 おそらくは、自分だけではない。
 おそらくは、みんなが。
 それに気付いているのかいないのか――いや、きっと気付いてはいまい――変わらぬ優しさを示す大神に、時々八つ当たりをしてみたいと思う事もある。
 悲しむべきか笑うべきか、それが八つ当たりに過ぎない、と分かってしまう程に、自分達は彼を、彼の優しさを知っている……

「マリア?」
「あっ…すみません、隊長。それで、ご用は…」
「用と言う程のものじゃないんだけど…
 マリア、久し振りに一勝負しないか?」

 こう言って大神が目の前に掲げて見せたものは、娯楽室備え付けのキューケースだった。

「えっ…え、ええ」
「よし、じゃあ、昼間の雪辱戦だ。台で待ってるよ」
「あ、はい」

 予想外の展開にペースを乱され、躊躇う間も無くマリアは頷いていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 待っているよ、とは言われたものの、同じ帝劇の中、お客様と顔を合わせる訳ではなく、ベッドに入っていた訳でもない。特に身支度が必要な訳でもなく、そのままついて行っても良かったのだ。
 ただ、何となく、会話の流れと言うかその場の雰囲気と言うか、待たせなくてはならない、ような気がして、わざわざ三十を数えてから部屋を後にし、娯楽室へ向かったマリアであった。

「お待たせしました…」
「じゃあ、始めようか」

 待っている、という言葉は伊達ではなかったようだ。
 ビリヤード台はすっかり準備が整っていた。
 キュー、チョーク、ボール、ラック。
 既に九つの球が菱形に組まれている手際の良さだった。
 まさか、こういう事までフランスで勉強してきた訳でもないだろうが、以前に比べて万事にそつが無くなっているのは間違いない。

「賭けをしないか、マリア」
「えっ?」

 今度こそ、マリアは本当に驚いた。
 大神は基本的に堅実な性格で、戦闘指揮においても不必要なリスクを嫌う。
 聖魔城突入作戦や武蔵潜入作戦は他に手立てがなかった為の、窮余の策であり、その最中においてさえ緻密な駆け引きを駆使して味方の損害を最小限に抑える事を第一としていた。
 日常生活の中で賭け事に手を出すといえば花札が精々であり、それも誘われて加わるのみで、自分から賭け事をしよう、等と言い出すタイプではなかったはずなのだ。

「ナインボールで3セット先取。
 俺が勝ったら…話してくれないか。マリアと修蔵さんの間に何があったのか」

 なるほど……

 まず、呆れた。
 次に、可笑しくなった。
 結局マリアの予想した通りだったのだ。
 予想した通りの事を、予想外の方法でやろうとしている。
 見透かされていた、という訳だ。マリアはそう思った。
 自分が素直に話しはしない事を見通し、本当は打ち明けたいのだと理解した上で、こんな回りくどい方法を考えたに違いなかった。
 うかうかしてはいられない。そう、マリアは思った。大神はパリへ行って確実に成長している。実直誠実がトレードマークの正攻法しか知らなかった青年が、日常生活においてすら、こんな搦め手の策を使いこなすようになっている。おそらくは、自分が「勝ちたくない」と考える事まで計算に入れてこんな賭けを持ち出したのだ。
 頼もしく感じる反面、悪戯心が湧いた。
 このまま彼の計算通りに運ばれるのは何だか癪に障る。
 そこでマリアは、ささやかな反撃を試みることにした。

「分かりました、お受けします」
「うん」
「そのかわり」

 大神が、えっ?、という表情を浮かべたのを見て、マリアの顔に悪戯っぽい笑みが閃いた。

「私が勝ったら……そうですね、私のお願いを一つ叶えていただきます」
「うっ……わ、分かった」

 今更大神に賭けを降りる事など出来るはずがないのだ。
 自分の顔に会心の笑みが浮かんでいるのをマリアは自覚した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 賭けを持ち出すだけあって大神の腕は飛躍的に上達していた。
 聞けば、研修所にはビリヤード台くらいしか娯楽の道具がなかったらしい。(流血沙汰が頻発したのでカードは禁止されていたそうだ)
 マッセやジャンプボールの様な派手なテクニックは使わないが、堅実なコンビネーションで的球を確実にポケットしていく。
 一方のマリアも絶好調だった。
 この勝負、心理的にはマリアの方が圧倒的に有利だ。
 マリアには失うものが何もない。
 負けて元々、どころか、負けによって心の荷を降ろす事が出来る、少なくともそのきっかけを得られるに違いない。
 勝てば……である。勝っても負けても、マリアには都合の良い結果しか残らない。
 どんな種類の勝負事であれ、勝敗は心理的要素に大きく左右される。
 大神も、マリアがそれ程無茶な事を要求してくるとは思っていない。しかし、「お願い」の内容を明かさないままだったので、もしも、という一抹の不安を消しきれない。そこが相手の策であり、つけ目であるとわかっていても。
 勝敗そのものに対する不安すらないマリアと、一抹の不安を抱えたままの大神。元々キャリアもテクニックもマリアの方が上だ。この心理的な優劣は勝敗を分ける要因として十分なものだったのだろう。
 コツン、という軽い衝突音と、それに続く落下音。9のナンバーが振られた象牙の球が、ポケットへ綺麗に吸い込まれていった。

「私の勝ち、ですね」
「あ、ああ。負けたよ、マリア」

 ニッコリと笑うマリアの笑顔は気味が悪い程上機嫌で、大神の不安を否応無しにかき立てる。

「では、約束です、隊長」

 大神は覚悟を決めた。
 策士策に溺れる、と言うが、これは小賢しい策を弄した自分に対する天罰なのだろう。何を言われても、潔く引き受けるしかない、と。

「昔話に付き合ってください」
「昔話?」
「ええ。思い出話、と言った方が良いのかもしれません。
 私が紐育にいた頃の話です」

 ポカンと口を開けた、大神の呆気に取られた顔に、マリアはクスッと楽しそうに笑いを洩らす。
 そして大神の返事を待たず、屈託のない口調で語り始めた。

「以前にもお話しした通り、あの頃の私はとにかく自棄を起こしていて、殺し屋稼業に身を堕とす寸前でした。
 何もかもがどうでもよくなって、無茶な事ばかりやっていました。
 もしかしたら、死にたかったのかもしれません。
 好んで、危険な仕事ばかり選んでいました。
 …そんな、自分の全てを棄ててしまった様な私にも、捨てきれないものがありました。この銃と――それを扱う自分の腕に対するプライドです。
 暗黒街に身を置きながら娼婦に身を持ち崩さなかったのは、きっとこのエンフィールド改のお蔭だと思います」

 愛しげに黒光りする銃身を撫でるマリア。
 彼女が何故これ程この銃に愛着を示すのか、大神は少し分かったような気がした。

「私は自分の腕に自信を持っていました。
 …おかしなものです。死にたがっていたくせに、他人を殺して生き延びる技術を誇っていたのですから」

 自虐的な内容に淡々とした語り口が余りにも相応しくなくて、大神は口を挿むきっかけを掴めずにいた。

「その日の私は、マフィアの大物幹部の護衛に雇われていました。
 ギャングの護衛は私が最も多く手掛けていた仕事で、その日まで一度も失敗した事がありませんでした。私はそれを当然と思っていました。たかがギャング相手の殺し屋が、本物の戦場を生き抜いてきた自分を出し抜けるはずなど無い、と。
 同じように護衛として雇われた男達はみなピリピリとした緊張感を発散していて、私にはそれが滑稽に見えたほどです。自分の仕事が失敗するはずは無い、例え伝説の暗殺者『キリュウ・ザ・モータル・ショット』が相手でも恐れる必要は無いと、勝手に思い込んでいました」
「伝説の暗殺者、キリュウ・ザ・モータル・ショット……修蔵さんのことかい……?」
「隊長はあの方の事をどの程度ご存知なのですか?」
「どの程度と言われても、それ程詳しく知っているわけじゃ……」

 しどろもどろになる大神に、やっぱりという感じでマリアは小さく苦笑した。

「ご自分の義理のお兄様になられる方の事が気にならなかったんですか?
 隊長は正規軍の幹部候補なのですから、ご家族になられる方の素性は気にされてしかるべきかと思うのですが……」
「そんな事は関係ないよ。修蔵さんは姉さんが選んだ人で、俺も信頼できる人だと思った。だから……」
「隊長らしいお話です」

 もう一度クスッと笑うと、それまでの和やかな笑顔が嘘のようにマリアは鋭く表情を引き締めた。

「ですが、お義兄様が、紐育の暗黒街で恐怖と絶望の代名詞となっていた成功率100%の暗殺者だと聞かされても、同じ事が言えますか?」
「成功率100%の……暗殺者?」
「キリュウシュウゾウ…キリュウ・ザ・モータル・ショット。死すべき運命を放つ射手。
 知られていたのはその名のみ。一体どうやって仕事の依頼を受けていたのか、それすらも分かっていませんでした。もしかしたら、誰かの依頼ではなく、自分の意志で暗殺を続けていたのかもしれません。
 ただ分かってたのは、キリュウシュウゾウの名前と、その名前からおそらくは日本人らしいという事と、一度彼に狙われたら決して逃れられないという事だけ。
 狙われたターゲットの元には、必ず暗殺の予告状が届いていたそうです。そしてどんなに警備を固めても、何処に身を隠しても、彼の銃弾から逃れられた者はいないと言われています。
 人はいつか必ず死を迎えます。まるでその、死すべき運命そのものに狙われたように、彼に狙われた者は確実に命を奪われる。ザ・モータル・ショット、と呼ばれた由縁です」
「それが事実だとしても……多分、事実なんだろうけど、修蔵さんにも何か理由があったんだと思う。
 それに、修蔵さんが何をしていた人でも、今何をしていても、あの人が姉さんのご主人として信頼するに足る人だという意見を変えるつもりは無いよ。
 俺は自分の目であの人を見て、信頼できる人だと判断した。もしその判断が間違っていたとしても、それは俺の責任だ。全ての責任は、自分自身でとるつもりだ」
「全く貴方という人は……隊長、正直言って私には時々ついて行けなくなる事がありますよ……
 人が良過ぎるのか豪胆過ぎるのか……いえ、きっと私たちには見えないものが隊長には見えているんでしょうね。信頼という名の、目に見えない宝物が」

 しみじみと首を振った後、気を取り直したように大神へと向き直り、マリアは「昔話」の続きを始める。

「キリュウ・ザ・モータル・ショットの名は私も知っていましたし、数々の伝説も、そのいくつかは知っていました。
 それでも私は高をくくっていたんです。どうせ相手は撃ち返される心配の無い、安全な場所から騙まし討ちにする事だけが取り得の殺し屋に過ぎないと。
 その頃既に、私は自分の霊力を自覚していましたから、それも自信の根拠になっていました」

 無意識に大神は頷いていた。マリアの霊力、その最大の特徴は目に見えないはずのものを「見る」力。障害物の向こう側を見、元々形の無いものを見る視力。確かに、物陰に隠れて標的を狙う暗殺者には分の悪い能力だ。

「ところが結果は…彼の伝説の一頁に彩りを添える道化の役回りを演じさせられただけでした。
 マフィアの大物幹部といっても彼らには彼らなりのビジネスがありますから一日中屋敷に立てこもっていることは出来ません。例え相手が伝説的な狙撃手だとしても、殺し屋を恐れてビジネスを疎かにしたなどという噂が立てば、あの世界では生きていけません。暗黒街の住人が面子を重んじるのは何処でも同じのようですね…
 だからこそ大勢の部下で周りを固めて――生身の盾です、要するに――、移動ルートにも予め部下を配置して、更に私のような異能の護衛役まで何人も雇って、防弾を施した大型車で移動する、そこまで手を尽くしていたのですが……呆気なく、殺られてしまいました」

 自嘲の笑みを微かに浮かべるマリア。だがその微苦笑は、敗北の記憶に由来するものだとしても、妙に強張ったものだった。

「取引先――つまり、友好関係にあるマフィアの幹部邸に着いて、車を降りたところで物の見事に頭を撃ち抜かれて。
 車の乗り降りは一番狙われやすい時ですから、私たち護衛役も一番警戒していました。狙撃できそうな場所は残らず見張りを立てていました。それにも関わらず見張りのついていたはずの屋根の上から、悠々と狙撃してきたんです。
 私はその時、ライフルを立ててニヤッと笑った黒い人影を見たと思いました。思う、というのは、その人影は一瞬で消え失せていたからです。それに後で聞いたことですが、その屋根の上には確かに見張りがいて、その男は何も見ていなかったのです。
 その話を聞いた時、私は思いました。あの人影は何だったのか、と。錯覚だったとは思えません。あの黒い人影から感じたプレッシャーは錯覚で片付けられるものではありませんでしたから。一瞬の事で、距離も50メートル近くありましたが、その一瞬、私は魅入られたように銃を向けることも出来ず、ただ目を釘付けにされていたんですから。
 その時に受けた衝撃を、私はずっと、『屈辱』だと思っていました。私の持っていた自信、銃の腕と自分の特殊能力に対するプライドを、そんなものは役に立たないと笑い飛ばされたのだと。確かに、50メートルも距離が開けば拳銃は役に立ちません。狙撃される前に発見できなければ、透視の力も役には立ちません。どんな技術、どんな能力も、状況に合わせた使い方しか出来ない。状況によってはまるで役に立たなくなる。そんな分かりきった事を改めて宣告されたような気がしたのです。
 あの日から私は、自分の『目』に頼り過ぎないよう心掛けるようになりました。拳銃以外の射程の長い銃器も手元に置くようになりました。全てがどうでもいい毎日だったはずなのに、銃の練習だけは欠かさなくなっていました。
 それは、あの時の屈辱を晴らすためだと、私は思っていました。いつか再びあいまみえた時、今度はこっちが思い知らせてやる番だと、そんな、とうに無くしていたはずの意地が自分を駆り立てているのだと、そう思っていたんです。
 でもそれは、私の思い違いでした。本当に誤解していたのか、それとも分かっていながら目を背けていたのか……自分でも分かりません。ただ、今日初めて、あの黒い影の本人と向かい合って、私の体があの時に受けたものを思い出したんです。
 それは、恐怖でした。私はあの時、屈辱の影で、意識の底に恐怖を刻み込まれていたんです」
「マリア、もういい」

 すっかり血の気を失い、やや前屈みになって、今にも震え出しそうな表情で語り続けるマリアを大神は止めようとした。だがマリアは、蒼ざめたままではあったが多少表情を和らげ、口元に微かな笑みすら浮かべて、心配無用と言うように首を横に振った。

「大丈夫です、隊長。もう、終わりですから。
 さっき、隊長のお義兄様があの時の黒い影だと、『キリュウ・ザ・モータル・ショット』だと分かった瞬間、私は恐怖を感じたんです。銃の腕で生き延びてきた自分より優れた銃の技量を持つ男。敵に回せば、おそらく、勝てない。この男に狙われれば、おそらく逃れられない。
 司令やかえでさんや花組のみんなが狙われても、私には防ぐことができない。
 そんな理不尽な恐怖に駆り立てられて、反射的に銃を抜こうとしたんです。
 少し考えてみれば、全く必要のない懸念です。隊長のご家族が私たちに危害を加えるはずはありません。
 申し訳ありません、隊長。結局私は、自分の抱え込んでいた恐怖の影に怯えて大騒ぎしただけなんです」
「分かったよ、マリア。
 俺はもう気にしていないし、修蔵さんも多分気にしていないはずだよ。
 だから、マリアももう気にしなくても良いと思う」
「その通りです。さっきの事はもう気にしていませんから、忘れてください」
「!?」

 二人きりだったはずの娯楽室に突如発せられた第三者の声に、愕然と振り返ったのは大神だけだった。

「…お聞きになられた通りです。先程の行為はほとんど反射的なものでした。だからと言って免責されるとは思いませんが、他意の無かった事だけでもご理解ください」

 壁際から歩み寄ってくる修蔵に、マリアは落ち着いて話し掛ける。

「私は気にしていません。だからマリアさんも、もうお気になさらないで下さい」
「恐れ入ります」
「……驚きませんでしたね?
 私が聞いていたのをご存知だったんですか?」

 言葉とは裏腹に、修蔵の口調からは少しも意外感が感じられなかった。

「あの時の事を、あの後何日も、色々と考えてみました。その結果、一つの推論に辿り着きました。
『キリュウ・ザ・モータル・ショット』は何らかの手段で自分の姿を見えなくすることができる。あるいは、自分がいないと思わせることができる。それが数々の伝説を可能にした秘密ではないかと。
 桐生さんが何時この部屋に入ってこられたのかは残念ながら分かりませんでしたが、いらっしゃるのではないかと思っていました。半分はそのつもりでお話していたのです」
「……参りましたね、すっかり読まれてしまっていたとは。
 流石は一郎君が最も信頼している副隊長さんだ」

 理路整然とした答えに感心した口振り。だからといって、大袈裟過ぎる身振りや嫌味な口調は全く無い。殺し屋だった、というのが嘘としか思えない紳士ぶりだ。

「……俺は全く気がつきませんでした。修蔵さん、何時から立ち聞きしていたんです?」

 だが、二枚目な雰囲気は残念ながらここ迄だった。

「……一つ言い訳をさせてもらうと、立ち聞きしようと思ってこの部屋に入ってきた訳じゃないぞ。最初はビリヤードの音が聞こえたんで覗いてみようと思っただけだ。
 せっかくの好勝負の邪魔をしないように静かにしてたら、いきなり自分の事を話し始めるもんだから声を掛けるきっかけが掴めなかっただけなんだ。盗み聞きするつもりは全く無かったんだ」
「ええと……この部屋は基本的に出入り自由ですし、場所を変えなかったのは俺の落ち度ですから、立ち聞きしていた事を責めるつもりはありません。マリアも半分そのつもりだったということですし……
 姉さんに告げ口するつもりはこれっぽっちもありませんから……」

 必要以上に焦りを見せる修蔵に掛けられた大神の言葉には、同情と共感が込められていた、と思う。二人で見交わす、ホッとしたような情けないような小さな笑顔も似通ったものだった。
 だが、そんな二人の共感は、マリアにはまだまだ理解できない。二人の様子に疑問を感じながらも、礼儀正しくその点は無視して、彼女は修蔵にもう一度頭を下げた。

「改めてお詫びに伺うと申しておきながら結果的に後回しになってしまいました。申し訳ありません」
「そう改まられると、私の方が恐縮してしまいます。どうか本当に、お気になさらないで下さい。
 それから、念の為に申し上げておきますけど、殺し屋はもう廃業しましたので。私も自分の趣味で人殺しをするほど人でなしではありませんで、れっきとしたクライアントがいたんですけど、そのクライアントとトラブルを起こしましてね。
 それに、殺し屋稼業を続けていたとしても、帝撃の皆さんをターゲットにするなんて依頼は受けませんよ。本気になった一郎君を敵に回すなんて…考えただけで身の毛がよだちますね」

 おお怖い、と震えてみせる修蔵の口調も表情もおどけたものだった。話を振られた大神も苦笑いしているだけだ。
 だが、そんな冗談めかした二人の様子にもかかわらず、マリアはそれが紛れも無い修蔵の、伝説の暗殺者「キリュウ・ザ・モータル・ショット」の本音だと理解した。理屈ではなく直感によって、修蔵が大神に畏怖を抱いているということを。
 それは、マリアにとって違和感を禁じえない「大神一郎」像だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 背後で、象牙の球が衝突する小気味の良い音が連鎖する。
 ビリヤードの音に誘われて、というのはその場凌ぎの言い訳でもなかったようだ。キューを手にした修蔵の技術はなかなかのもので(少なくとも大神より上手い)、何時の間にかマリアと修蔵のゲームが始まっていた。
 結果的にあぶれてしまった大神は、「そういえばお義母さんが捜していたよ」という修蔵の言葉に従って、娯楽室を後にしたところである。
 普段は花組とかえでくらいしか寝泊りしていない大帝国劇場の居住部分であるが、部屋数自体はずっと多い。元々帝国華撃団構想は十人弱で満足する慎ましい計画ではなく、もっと野心的なものだったのだ。部屋もそれに相応しい数が用意されており、未だに空き部屋の方が多い。(年が明ければ乙女組から補充要員が一人入ってくるが、その後すぐにさくらが出て行く予定なので差し引きゼロである)
 大神の家族六人、一人一部屋ずつ使ってもまだまだ余裕はあるのだが、帝劇は部屋のサイズもゆったりめに作ってあるので二人で一部屋を使う事になった。部屋割りは熊作と千鳥、修蔵と美鶴、虎太郎と鷹也である。
 フラフラと腰の落ち着かない虎太郎と違って千鳥は常識のある大人だ。既に夜も更けたこの時間、大人しく自分の部屋にいるに違いない。ずっと自分が使っていた(勿論、今回も同じ部屋を使う)部屋の並びにある千鳥の部屋へ行こうとして、大神は不意に足を止めた。
 止まってしまった、という方がこの場合正確な表現かもしれない。娯楽室から大神の部屋へ行くにはサロンの前を通らなければならない(娯楽室とサロンは向かい合わせに配置されているから当然である)。そして娯楽室の扉を閉め、サロンの前を通りかかったところで、大神の耳に奇妙な音が飛び込んできたのだ。
 最初は何の「音」だか分からなかった。妙に胸をざわめかせ心を乱すその「音」が、彼の良く知る若い女性の悩ましい喘ぎ声だと認識して、大神は完全に固まってしまった。

……あっ…そこ、そこですわ…ああっ…気持ち良い……
「そんなに気持ち良いの、すみれさん?」
…ええ……ああっ…お姉さま…とっても、お上手ですわね……

 賑やかな昼間なら同じ部屋の中にいても聞き取れない小さな声だった。街の喧騒が静まった夜更けであっても、壁越し、扉越しでは余程注意深く聞き耳を立てないと気づかないはずの囁き声の会話。
 だがその声は、大神の頭蓋骨の中に直接響いてきたように彼の頭の中で大パレードを繰り広げていた。
 煩悩を無理矢理引っ張り出され、意識が沸騰して限界を超えた時、突如として悟性が回復し、事態を認識、対処する力が戻った。

何をしているんですか、姉さん!!

 バンッ、と乱暴に扉を開け、真っ赤な顔で怒鳴り込んだ大神が見たものは――

「あら、中尉、どうなさったんですの?
 そんなに血相を変えて?」
「一郎さん、夜も遅いんですからもう少し静かにお願いしますね」

 ソファーに腰掛けきょとんとした顔で問い掛けてくるすみれと、その背後から眉を顰めて非難の眼差しを送ってくる美鶴。しなやかで色白で細く長い、弟の目から見てもゾクッとするほど色っぽい美鶴の十本の指は、剥き出しになったすみれの……両肩に添えられていた。

「……………」

 大神は燃え尽きる寸前となっていた。真っ白な灰になりかけていた。自分の足で立っていられるのが不思議なほど、消耗していた。…この一瞬で、一気に。
 だが、「快感」の虜になっていたすみれは、そんな大神の変化に気づかなかったようだ。
 滅多にない上機嫌の笑顔で明るく話し掛けてくる。

「中尉もマッサージがお上手でしたけど、お姉さまには敵いませんわね。こんなに気持ちの良い思いをしたのは、わたくし、初めてのような気がしますわ」
「あら、嬉しい事を仰って下さいますのね、すみれさん。父などは『女の指では力が足りない』なんて文句ばっかりで張り合いが無いんですよ」
「わたくしは女ですもの。強すぎる刺激は気持ち良さを通り越して痛いだけ。
 超一流の整体師と言われる先生にもお世話になったことがございますが、こんなに気持ち良くなったことはございませんわ」
「そうですよね。女の体の事はやっぱり同じ女でないと。
 それに、すみれさんみたいにお綺麗な方だと、お手入れさせていただく方も張り合いがありますし。
 肩凝りだけじゃなくて、一度じっくり診せていただきたいわ」
「まあ、よろしいんですの?
 それは是非、わたくしの方からお願いしますわ」
「……気をつけるんだよ、すみれくん。姉の『治療』は『効き目』があり過ぎるから……」

 美鶴の性向と意図を知りながら、そう忠告するのが精一杯の大神であった……

 

続く

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