帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第六話 〜〜


「鷹也、止まれ」
「どうしました、お祖父さん?」

 その夜帝都に、もしその声を聞き取ることの出来る者がいたなら、この街を吹き抜ける夜の風が言葉を交わしたか?、という幻想的な思いに囚われたかもしれない。
 何故ならその声の出所は、夜空の中だったからだ。街灯の光が届かない、夜空の闇の中で風にまぎれて交わされた会話。
 しかしその内容は、明らかに人間同士のもの。日常的な言葉を使った、日本人なら誰にでも理解できる内容だった。
 不意に、夜空の闇から人影が降って来た。二階建ての民家の屋根に音も無く降り立った小柄な人影。屋根の瓦を軋ませることすらなく、まるで体重を持たないかの様に屋根の棟に立つ小柄な老人。その直後、今度は標準よりもやや背の高い青年が、老人より更に柔らかい動きでその隣に降り立った。

「……どうやら、してやられたようじゃ」
「どういう事です?」
「見よ、あれを」

 老人の指差す先では、二人が後をつけてきた黒い影が走り去っていく。
 その後姿をやや目を細めて見ていた青年は、やがてホウッ…と溜息を漏らした。

「……気がつきませんでした。一体、いつから?」
「分からぬ。じゃが、儂らの尾行はどうやらとうに勘付かれておったらしいの」

 忌々しそうに呟く虎太郎に見えぬよう、鷹也はこっそり肩を竦めた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 大帝国劇場から北へ。街灯の光を潜り抜けながら夜の闇に紛れて疾駆する黒い影を屋根の上から追いかけていた虎太郎と鷹也が、自分達の追いかけていたものの正体に気付いたのは、およそ十分ほど走った(と言うか飛び跳ねた)後だった。
 彼らの視線の先では、黒い影が闇に溶け込もうとしている。それが程経たぬ内に、本当に溶けて無くなるであろう事を今では二人とも理解している。

「見事な幻術ですね……あんなにハッキリした気配を持つ幻影なんて初めて見ました」
「儂も実際に見るのは初めてじゃ。これが音に聞く黒羽幻法(くろうげんぽう)、おそらくは影駆(かがり)と呼ばれる技じゃろうな」
「黒羽幻法・影駆……確か、自分の気配を写した影法師を一定時間走らせる幻術でしたね」
「ほう、良く勉強しておるの、鷹也」
「家の父はご存知の通り、武術よりも法術の方が好きな人ですから……」
「鹿之介め、相変わらずか……それが悪いとは言わぬが……やれやれじゃな……」

 諦め混じりの溜息を吐く虎太郎の隣で苦笑いしているところを見ると、鷹也はどちらかと言えば父親よりも祖父の方に共感を抱いているのだろう。

「流石は一郎従兄さんのご友人と言うべきでしょうか。今回は完全に僕達の負けです。
 大人しく引き返しましょう、お祖父さん」
「ん?、何を言うておる、鷹也。
 確かに今回は紀州の若造にしてやられたが、儂らの目的はあやつの塒(ねぐら)を突き止めることでもあやつの獲物を横取りすることでもなかろうが。
 行き先は分かっておるのじゃ。撒かれてしもうたのなら、直接目的地へ向かえば良いだけの事」

 事も無げに言い放ったその台詞を聞いて、鷹也はまじまじと祖父の顔を見詰めてしまう事になった。

「……じゃあ、何で一郎従兄さんのご友人の後をつけたりしたんですか?
 わざわざ、屋根の上まで通って……?」
「その方が気分が出るじゃろ?
 いかにも秘密の仕事をしておるようで」
「………」

 数秒、絶句した後、がっくりと肩を落とす鷹也。しかし、孫のそんな無言の抗議もどこ吹く風とばかり、虎太郎は次の指示を出す。

「何時までもこうしておっても仕方が無い。
 鷹也、岩井少佐とやらのアジトに案内いたせ」

 この言葉に、足元に顔を向けていた鷹也が勢い良く頭を上げた。
 思わず後退りする虎太郎。
 祖父に向けられた孫の目は、この時、徹底的に据わっていた。

……分かりました、お祖父さん。
 フッフッフッ……遅れないで下さいね

 そう言い終えるのと、鷹也の身体が夜空に舞い上がるのと、どちらが早かったか。

「こ、これ、待たぬか、鷹也!」

 続いて夜空に姿を消した虎太郎の残した声には狼狽が混じっていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

(行ったか……)

 屋根の上の二つの人影が夜空に溶け込んだのを見て、同化していた闇の中で加山はホッと息を吐いた。

(一体何者だ……恐るべき手練れ……)

 額にはじわりと汗が浮かんでいる。結果的に加山が尾行を振り切る事に成功した形になっているが、実は紙一重だったと誰よりも加山自身が知っていた。
 気付いたのは五分ほど前だ。
 最初から幻術で撒こうとした訳ではない。
 いくら走る速度を上げても、気配を闇に同化させても、頭上の追跡者を振り切る事ができなかった。
 機を掴んで放った幻影は、すぐに気付かれてしまった。
 おかげで、この場を動く事が出来なくなった。
 追跡者が加山の身にもっと執着していたら、果たして隠れ通すことが出来たかどうか……
 それに、加山は二つの人影の会話を聞き取ることが出来なかった。
 五感を聴覚に集中し、追跡者の正体を探ろうとしたが、聞こえてくるのは風の音だけだった。聴く事に専念したこの状態ならば、例え耳打ちするような囁き声でも聞き取れる距離のはず、しかも、二人が言葉を交わしているのは明らかだったにも関わらず。

(声の方向を絞り込む事が出来るという訳だ……)

 彼自身、その技術の使い手である。高度ではあるが、稀と言う程の技術でもない。だが、特に周囲を警戒した様子も無く、自然に会話しているだけで隠密法の一つであるこの話法を使っていたという事実は、そういう高度な技術が当たり前の技として身についているという事を意味している。
 恐るべき錬度。
 彼らが敵であるかもしれないという可能性に、冷や汗を抑えきれない加山であった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 精根尽き果て、床とお友達になるギリギリ一歩手前で何とか気力を振り絞って、大神はようやく目指す扉の前に辿り着いた。……別に魔王の支配するラビリンスを探検していた訳でもなく、帝劇の廊下を歩いていただけなのだが。
 とにかく、サロンで受けた衝撃と消耗から何とか精神的再建を果たして、大神は母親が泊まっているはずの部屋をノックした。

「母さん、一郎です」
「開いているわ。お入りなさい」

 応える母親の声の後ろで何だかじたばたしている気配を感じて首を傾げる大神だったが、それ以上特に声も無かったので言われた通り扉を開けた。……そして、目を丸くして立ち竦んでしまった。
 彼の見詰める視線の先では、畳敷きの和室仕立てになっている部屋(千鳥と虎太郎の希望を聞いて、月組の黒子たちが大急ぎで準備したのだ)の真中で、千鳥が顔を紅くしたさくらの口を、声が出せないよう手で押さえていたのである。

「丁度いいところに来たわね。どうかしら、これ?」
「………」

 何をしているんですか、と問い掛けることも出来ず、絶句して立ち尽くす大神。千鳥がさくらから手を離し、ニッコリと上機嫌に問い掛けてきても何も答える事が出来ない。
 そもそも彼の目は母親を見ていなかった。大神の目は、頬を真っ赤に染めた婚約者の艶姿に釘付けになっていた。
 着ているものは基本的にいつもの桜色の小振袖と緋の袴、彼の見慣れた普段着のさくらだ(もっとも、この姿は彼の一番のお気に入りでもあり、見とれてしまうには十分な理由になるのだが)。
 ただその上に、淡い色彩の錦織の打掛を羽織っていた。白を基調とし、銀糸を多用した生地に所々金色と薄色の花が散りばめられている上品な柄は彼女の清楚な魅力をより一層引き立てているように大神には思われた。
 そして彼女の艶やかな黒髪を飾るのは、いつもの赤いリボンではなく金色の冠。冠といっても西洋風のティアラや冠位制以降の公式の場で身分を表す冠ではなく、古代風の、左右に黄金の短冊が連ねられた歩揺(ほよう)を垂らし、所々に水晶を埋め込んだ、金の透かし彫り細工の冠である。
 錦の打掛と金細工の冠が普段は表に出てこないさくらの清澄な霊気を引き出し、彼女の美貌に何処か異世界めいた不思議な魅力を付加していた。

「お、おかしいですか、やっぱり……」
「一郎さん、見とれているのもいいけれど、何か一言くらい仰いなさいな。さくらさんが不安がられているでしょう?」

 どのくらい立ち尽くしていたのか、大神は時間の感覚を完全に失っていた。
 頬と目元を紅く染めた許嫁から恐る恐る問い掛けられ、呆れ顔の母親から苦笑交じりで窘められて、大神はようやく自分を取り戻した。

「え、えっと、その……綺麗だよ、すごく……」

 とは言っても日頃からこの分野には語彙の乏しい彼のこと、気の利いた褒め言葉など捻り出せるはずも無く、その一言を口にするのが精一杯だった。

「……それだけなの?
 一郎さん、貴方、頭は良いんですからもう少し文学とか詩歌とか、風流というものを勉強した方が良いんじゃなくて?
 いくら何でも、今のさくらさんに『綺麗だよ、すごく……』だけで済ませるのは失礼というものですよ?」
「いや、その…そんな事を言われても、他になんて言えば良いのか……」
「……ごめんなさいね、さくらさん。つくづく、不甲斐のない息子で」
「い、いえ、そんなこと……!
 ……あの、ありがとうございます……」

 台詞の前半は千鳥へ、後半は大神へ向けられたもの。
 ただでさえ立っている大神と畳に正座しているさくらでは目線の高さが違う。それに加えて、真っ直ぐおろした髪の上に慣れない冠を被せられ、目は自然と上目遣いになってしまう。
 頬と目元を紅く染めたままで、上目遣いに恥じらいたっぷりの口調で話し掛けられて、大神は再び固まってしまった。そして、ただじっと自分を見詰め続ける大神の視線に、さくらも益々頬を紅くして目を伏せ黙り込んでしまう。
 そんな二人を交互に見遣りながら小さく首を振る千鳥の顔には、『似た者同士ね……』という溜息と『こんな事で夫婦生活は大丈夫かしら……』という懸念が二つ並べて貼り付いていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ええっと……母さん、俺に何か用があったんじゃないのかい?」

 なんとか石化の呪文を解除して(魔法の種類はもちろん『恋の魔法』である)、母親に勧められるままにさくらの隣に腰を下ろした大神は、チラチラと婚約者に視線を配りながら――と言うか、奪われながら――母親に向かって今更ながら問い掛けた。
 ちなみにさくらの格好は、さっきから変わっていない。さくら本人としては、打掛はともかく黄金と水晶の冠は――何と、黄金は本物、水晶は天然の霊水晶だった――恥ずかしくて脱ぎたかったのだが、千鳥の笑顔に込められた無言の圧力で言い出せずにいたのである。

「ああ、もういいのよ、それは。お祖父様の姿が見えなくなったので居場所をご存知ないかと思っていたんだけど、どうやら鷹也さんと一緒に外へ出かけたみたいだから」
「外へ?
 鷹也と一緒に?
 それってまさか……」
「ええ、昼間の一件に首を突っ込みたいとお考えのようね」
「母さん……」

 あっさりと告げられた事実に、大神は片手で顔を覆って天井を仰いでしまった。

「……そう言えば、鷹也に何を探らせたのか、俺はまだ聞いていないんだけど」
「でも一郎さんの方が私たちより詳しい事をご存知みたいよ?
 さっき閣下たちとされていたお話、多分私たちが話していた件と同じだと思うんだけど…」
「母さん……
 まさか、盗み聞きしていたんじゃないでしょうね…?」
「美鶴じゃあるまいし、親に向かって人聞きの悪い事を仰らないで下さいな」

 そういう千鳥の顔は澄ましたもので、見ようによっては白々しいという印象を与える表情だった。
 ――どうやら息子もそう感じたらしい。

「この帝劇でまさか『力』は使えないと思うけど……?」
「そうですよ。こんな厳重な結界の中で誰にも気付かれずに『話を聞く』なんて出来るはず無いでしょう」
「……いいでしょう。そういう事にしておきましょう」
「まだ疑っているの?
 嫌ですね、さくらさん。軍人さんなんて仕事をしていると性格が疑い深くなってしまうのかしら?」

 急に話を振られたさくらは、首を横にも縦にも振ることも出来ず、曖昧に言葉を濁すだけだった。――その所為で、二人の会話に出てきた千鳥の『力』に対する疑問が意識から零れ落ちてしまっていた。そこまで千鳥が計算してたのかどうかは、本人以外誰にも分からない……

「ところで、さくらくんが着けている冠と打掛は、母さんが持って来たのかい?」
「ええ、実際に持って来たのはお父様だけど。
 貴方も見覚えがあるんじゃなくて?」
「ああ……でもこれって確か、本家の宝物蔵の中に秘蔵されていた宝冠と仙衣じゃあ……?
 勝手に持ち出していいのかい?」
「あらあら、何を仰っているの。『大神一郎』のいる家が大神一族の宗家じゃないですか。
 ましてや『大神一郎』と裏御三家の姫君が夫婦(めおと)になるのですよ。
 この二つは元々、破邪の血を継がれる方々のお役に立てばと受け継がれてきた物。
 その為にこそ宗家が管理してきたこの宝冠と仙衣は、二つともさくらさんに差し上げるのが筋というものです」
「えっ!?
 こ、困ります、お義母様。こんな高価そうな物を……」
「お願いだから、そんな事は気にしないで下さいな。これは私たちの願い。私たち大神一族が受け継いできた宿願なんです。
 いつか、破邪の血を継ぐ方々に恩を返す。そして、何も出来なかったあの頃の無念を晴らす。この二つの品もそうした願いを込めて作られたものなんですから。
 宝冠と言い仙衣と言っても、残念ながらこの二つの品に大した力は宿っていません。でも、一族の宿願の象徴として、ずっと受け継がれてきた物です。
 裏御三家正統の血を引く貴女の身を飾る為だけでも役に立てば、これを作った先祖もきっと喜ぶと思いますので…」

 見るからに値段もつけられないような高価な代物だ。さくらはおそらく、試しに着けてみて、とか言われて身に着けていただけなのだろう。いきなり譲る、と言われて、狼狽するのも当然の事だと思われる。
 だがそれに対する千鳥の反応はさくらだけでなく大神にとっても意外に思われるほど強い、必死と表現してもいい程のもので、謎めいた内容に気をとられる暇も無く、その勢いにさくらはそれ以上の言葉を失ってしまった。
 疑問を口にしたのは、大神の方だった。

「母さん、大神一族の宿願って何だい?
 俺達大神一族とさくらくんたち破邪の一族の間にはどんな縁(えにし)があったんだい?」

 息子の瞳の中に単なる好奇心ではなく、過去を受け止める覚悟を見て取り、千鳥は居住まいを改めた。

「一族のしきたりでは、結婚して子供ができた時に伝えると定められている歴史なのですけど、貴方は千年を超える歳月の果てに初めて大神一族の宿願を成し遂げるかもしれない『大神一郎』ですものね。
 しかも貴方が娶る方は破邪の血を継ぐ真宮寺家のお嬢様……
 良いでしょう。正式な伝承には儀式が必要なのですけど、概略でよければお話します」
「それで構わない。教えてください、母さん」

 母は息子の、息子は母の眼をじっと覗き込む。睨み合う、のではなく、自分の言葉に偽りがないことを相手に示す為に。

「大神が『追う神』の意味だということはもう知っていますね?」

 沈黙が静寂に変わろうとした時、千鳥が静かな口調で語り始める。

「以前父さんから聞きました。
 大神は『追う神』、神を追う者。邪悪に堕ちた人に仇なす神を追い払い狩り立てる者。
 俺達の先祖はその境地を目指して、大神を自らの名乗りとした、と」
「その通りです。ですが、何故そんな、『神』をも凌駕する力を求めるなどという大それた望みを抱くに至ったのか、それを千年以上もの歳月受け継いできたのか、貴方はまだ知りません」

 母の言葉に、大神は小さく頷く。

「…伝承によれば、およそ、千五百年の昔になるでしょうか。
 すでに神々の時代は終わりを告げ、人の時代が幕を開けていましたが、人界と異界の垣根は今よりもずっと低く、人と神の距離は今よりもずっと近いものでした。人と、魔の距離も。
 人は大地に生きるもの。人界とは陸地のことです。たとえ大海原の只中に浮かぶ小島であっても、それは陸であって海ではありません。海、即ち水界は人界とは別の世界です。
 大陸の外縁、東海の大海原と最初に接するこの国は、水界という異界と最も近く接する土地の一つです。そして異なる世界が接する所は、更なる異界へと通じる扉が開きやすい場所でもあります。
 この国の、東の大海原に接する土地は、異界のものが到来しやすい場所なのです」

 一旦、言葉を切る千鳥。
 瞼が軽く閉じられ、瞑想しているようにも神託を受けているようにも見える姿。

「私たちが伝えてきた伝承によれば、およそ千五百年前、東国の海に臨む地に、海の彼方より魔の襲来が相次いだ時代がありました。魔の暴威は五代続いた、と言いますから、おおよそ百年以上にわたって魔に脅かされ続けた時代があったのです。
 当時大神一族は、今の福島から宮城にかけての、当時はまだ奥州・蝦夷という呼び名すらなかった海沿いの地で武を預かっていました。西の地で徐々に勢力を増し、領土を広げるため幾度も攻め寄せてきた大陸からの渡来者たちをことごとく撃退して、北の地の独立を守っていた戦士の一族。
 ですが、人の軍勢に対して不敗を誇っていた一族も、その時点ではただの人でしかありませんでした。いえ、今でも私たちは所詮『ただの人』に過ぎませんが、当時は多少力が強く、敏捷で、勘が鋭い腕自慢の集まりに過ぎませんでした。
 だから、ある日突然押し寄せてきた魔の軍勢に、私たちの先祖は為す術がありませんでした。
 武の技によって人々に養われていたのです。例え敵わぬとあっても、自分たちだけ逃げ出す事は出来ません。僅かな時間稼ぎであっても、戦って、同胞を逃がす。先祖は、一族の全滅を覚悟しました。
 その時、一族を救ってくれたのが、破邪の一族の術者でした。その術者は巫女、つまり女性であったとの伝承もありますが、これについては言い伝えが分かれています。
 分かっているのは、その術者が破邪の呪法を用いて、魔の軍勢を退けてくれたという事。己の、命を犠牲にして」

 静寂が部屋の中を支配していた。語り続ける声すらも、静けさを深めているように感じられた。

「その術者が誰だったのか、どこから来たのか、その時には全く分かりませんでした。術者は何も語らずに息を引き取ったからです。
 その日から、私たちの先祖は旅に出ました。
 一族を全滅から救ってくれた恩人の素性は分からない。でもきっと、自分たちを救ってくれた術者の同族は、同じように他の人々を救うため命を投げ出して戦っているに違いない。だから魔に襲われた地で魔を相手取った戦いに加われば、術者の縁者に会う事も出来るに違いない――そう、考えたのです。
 一族の思惑は当たりました。旅の先々で魔は暴威を振るい、戦いに加わった先々でかの術者の一族、つまり、破邪の一族と出会う事が出来ました。
 戦いを重ねる度に、私たちの先祖も魔と戦う術を急速に学び、身に付けていきました。…人と神、人と魔の距離が近かった昔の人の方が、こういう事には適応力が高かったのでしょうね。人や獣を相手に戦う術しか知らなかった一族も、三代の時を重ねる頃には、肉体の力だけでなく、気の力、心の力まで使って、魔を斬り魔を砕く技を揮えるようになりました。破邪の一族に守られるのではなく、肩を並べて戦っているのだと自ら言えるまでになったのです。
 ですが……最後はやはり、破邪の力に頼らなければならない事の方が多かったのです。
 肩を並べて戦っていると、共に力を合わせて戦っていると思っていたのに、力及ばず魔に敗れそうになる度、呪法を使って命を散らす破邪の一族の姿を目に焼き付けなければなりませんでした。繰り返し、繰り返し、何度も、何度も。自分たちの力が足りず、破邪の一族が己の命を犠牲にして魔を退ける姿を、私たちの先祖は五代にわたって見続けてきたのです。
 その悲しみの中で、悔しさの中で、怒りの中で、先祖は誓いを立てました。いつか、破邪の力に頼らずに魔を退ける力を手に入れる、と。もう自分たちは、神に生贄など捧げはしない。神の力にすがるのではなく、神の力をも我が物として、人に仇なす全てのものを、神も魔も等しく滅ぼす技を、術を、きっと手に入れると。
 一族は知っていたのです。知ってしまっていたのです。破邪の呪法とは、神の力を我が身の内に招き入れ、我が身を神々の刃と化して魔を討つ技だという事を。己自身を生贄として、神々の力を借り受ける術なのだという事を。それは元々――神々同士の争いの中で生まれた、神が人を利用して神を討つ技なのだ、という事を。
 ……貴方が身に付けている技は、こうして生み出されました。破邪の術者に救われた恩を返すために。そして、破邪の一族の悲劇を繰り返さない為に。それが、全ての始まりだったのです。
 天狼の力は、この誓いの果てに見出されたものなのです」
「……そうだったんですか……」
「何か、私たちの知らない時の法則とでも呼ぶべきものがあるのでしょうね。ある年から、魔の侵攻は嘘のように減少しました。魔の出現が全く無くなった訳ではありませんが、数も力も、前の年までと比べれば無きに等しい程僅かなものになったのです。
 その年、先祖は、破邪の一族と袂を分かちました。今度は自分たちが、魔の天敵となるために。
 大神を名乗り始めたのはその頃のことです。大神一族の修行の日々は、その時から始まったのです」
「………」
「これで今日の話は終わりです。まだまだ貴方が知るべきことはたくさんあります。ですがそれは、貴方が知らない一族の秘術と共に語られるべきものです。
 男は技を伝え、女は術を伝える。それが大神一族の習いです。ですが、『大神一郎』である貴方は、一族の伝える全ての技と術を知らなければなりません。その時が来たら、いずれ……
 さくらさん」
「は、はいっ」

 母と息子の静かな語らいの中で突然名前を呼ばれ、さくらは心臓が停まるかと思うほどのショックを受けた。
 ――それは同時に、今聞かされた話が、さくらにとっても余りに衝撃的な内容だったからでもある。

「私たちは貴女に謝らなければならないことがあります。
 過ぐる年、帝都に起きた降魔戦争と呼ばれる戦い。私たちはあの時、あの戦いの事を知っていました。
 でも私たちは、戦列に加わらなかった。中級程度の降魔なら一掃してみせるだけの力を持っていながら、私たちは傍観を貫きました。
 もちろん、理由が無かった訳ではありません。最大の理由は、私たちがまだ、古の誓いを果たすだけの力を手にしていなかったという事。それ以外にも、深刻な理由がいくつかありました。私たちも決して、完全に自由な訳ではないのです。
 ですが、私たちは、貴女のお父様が戦列に加わっていらっしゃったこと、いずれは破邪の呪法を使わざるを得ないであろう事を知っていながら、手を貸さなかったのです。私たちは結果的に、貴女のお父様を見殺しにしたと言われても仕方の無い真似をしていたのです」
「お義母様!?おやめ下さい!!」

 そう言って、畳に額を擦り付けるほど深々と頭を下げた千鳥の身体を、さくらは慌てて抱き起こした。

「お義母様が謝らなければならないことなんてありませんっ!大神家の方々が責任を感じなければならない事なんて何一つ無いんです!!
 父は自分の意志で戦いに赴きました。
 破邪の力だって、務めとか宿命とかそんなものの為じゃなくて、自分の意志で使ったんだと思います。
 それにあたしは、一郎さんに何度も何度も助けていただきました。一郎さんは、お父様の魂まで取り戻して下さったんです。
 父もあたしも、大神さんに助けていただいて、今、こうしていられるんです」

 さくらが最後に大神さん、と言ったのは、決していつもの癖では無かった。
 千鳥はその事をすぐに理解した。
 そして、心から嬉しそうな笑顔で、自分の娘になる女性に微笑みかけた。
 もはや少女ではない、一人前の大人の淑女(レディー)に。

 

続く

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