帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第七話 〜〜


 この年も冬の到来が早かった。
 ここ数年、帝都の季節は気が早い。特に、冬は。
 去年のように早すぎる大雪にこそ見舞われなかったものの、十一月にして街を吹き抜ける風は既に真冬の色を帯びていた。
 その晩も、冷たい木枯らしが夜空を真冬の色に染めていた。野良犬、野良猫ばかりでなく、人の中にも凍死者が出たに違いない、凍える夜。
 いや、寄る辺となる家を持たない人間は毛皮に守られた犬猫よりも寒さに弱いのだから、順序としては逆かもしれない。無防備な人間だけでなく、毛皮で守られた犬も寒さに震えていただろう、凍てつく夜。
 その夜、帝都の一角で、多くの市民が激しく吠え立てる犬の鳴き声に悩まされた。
 野良犬も飼い犬も、苛立たしく、あるいは怯えを隠すように、激しく声をあげ、その鳴き声はたちまち町中に広がっていた。
 きっとこの寒さの所為に違いない。あまりの寒さに、犬たちも眠れないのだ――多くの人々はそう考えていた。尋常ではない騒ぎように不吉の前兆を感じた者も居なかった訳ではないが、この時点では、この騒ぎからあの騒動を予感した人はおそらく、皆無だった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ここです、お祖父さん」

 月明かりも街灯の明かりも無い闇の中にそびえる威圧的なシルエット。敷地の中から漏れて来る光に辛うじてその輪郭を浮かび上がらせた高い塀の足元、その塀が作り上げた濃密な闇――あるいは影――の中で囁かれた若い声。

「…っ、…っ、…っ」

 青年の声は質問でこそ無かったが、明らかに応えを前提としたものだった。
 しかし、話し掛けた相手からは荒い息遣いが返って来るだけだった。

どうしたんですか、お祖父さん?

 丁寧ではあるが少々冷ややかな鷹也の声に、俯いて呼吸を整えていた虎太郎は顔を上げて恨めしそうな視線を送る。

「…っ、…鷹也よ、年寄は、いたわるものじゃぞ…」
「…これは失礼しました。日頃、『年寄扱いするな』と仰られていたものですから、つい」

 すました回答に再び目で抗議してみても、さり気無く視線を逸らして知らぬ顔。
 ガックリ肩を落とし、虎太郎はついに折れた。

「…儂の悪乗りが過ぎたようじゃ。機嫌を直せ、鷹也」
「…分かりました。僕も些か大人気なかったと思いますし、お互い様という事にしておきませんか?」
「お前は素直でいいのぅ、鷹也」
「…それは美鶴従姉さんに比べて、という事ですか?
 それとも、申之介兄さんに比べてですか?」
「…そういう人の悪いところはあの二人に似なくてもいいのじゃぞ」

 口では窘めながらも悪戯っ子のような笑みを交わす。こうして見ると二人の顔立ちには、なるほど、近い血縁者と感じさせるものがあった。

「さて、秋の夜長とは言えど、何時までも無駄話をしておれるほど長くもない。
 そろそろ中を覗いてみるとするかの」
「先に行かれますか?それとも、僕が?」

 虎太郎の提案に答える鷹也の声に躊躇いは無かった。どちらかと言えばワクワクしているような気配がある。…結局、祖父と孫なのだ。

「この高さはちときつい。手伝どうてくれ」
「分かりました。
 塀の上には電気を流した鉄条網がありますのでお気をつけて」
「なに、電撃など邪魔にはならぬよ」
「そうでしたね。
 では」

 そう言って塀から少し離れる鷹也から、更に五歩六歩、距離をとる虎太郎。
 そのまま合図も無しに、塀に背を向けた鷹也へ向かって走り出す。
 軽く沈めた身体の前、腰の高さで組み合わせた鷹也の両手に虎太郎の足が乗る。
 勢い良く体を起こし、撥ね上げた両手から、虎太郎の小柄な身体が宙に舞った。
 ただそれだけで、5メートルはあろうかという塀を軽々と飛び越える。
 だが、更に驚くべき光景がその後に待っていた。
 虎太郎が無事に塀を越えたのを確認して、鷹也は祖父と同じように五、六歩距離をとる。
 塀からの距離はおよそ十歩。
 チラッと目を上に向け、塀の高さを確認すると、軽やかに助走を開始する。
 音も無く地面を蹴り舞い上がる鷹也の身体は、いともあっさりと障害物を飛び越えていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 銀座より宮城を挟んで北西へ、直線距離ならおよそ4キロ。蒸気自動車なら目と鼻の先、健脚の者なら自分の足で走っても二十分前後。帝国陸軍市ヶ谷基地のほとんど隣と言っていい場所にその施設はあった。
 陸軍参謀府・特殊戦略戦術兵器開発研究工部、通称「特戦研」の研究施設。「特殊」の名が示す通り、陸軍技術本部で研究を統括している通常兵器の範疇に収まらない兵器を独自に――より正確な表現を期するならば、勝手に――研究している部署である。そして、「通常兵器の範疇に収まらない兵器」には、霊子兵器も含まれていた。
 このような身勝手が許されていたのは、陸軍・軍需産業に多くの支持者を持っていた京極慶吾という強力な後ろ盾があったからである。京極の私的な研究機関という色合いもあった特戦研は、憲兵隊の捜査の結果「太正維新」には無関係であったと一応のお墨付きは得ていたものの、当然のことながら白眼視は免れていない。
 今年に入って、特にその存在を目障りだと感じていた技術本部は、これまで目立った実績も上げていない特戦研を廃止すべきと主張していた。確かに特戦研の開発した兵器が制式採用になった例はない。威力は申し分ないが、安全性に問題がありすぎるというのが特戦研の開発する兵器に対する一般的な評価だ。普通は、味方殺しの兵器を正規軍が採用する訳にはいかない。
 だが一方には、憲兵隊の捜査結果にも関わらず、根強く囁かれている噂がある。
 「京極に――黒鬼会に、魔操機兵を供給していたのは特戦研ではないか」、と。
 その霊子兵器に関する技術力を利用したいと画策する勢力も、実のところ少なくなかった。
 現在、帝国内で霊子兵器に関するノウハウは帝国華撃団がほぼ独占していると言ってよかった。呪術に毛が生えた程度のものならともかく、戦略戦術レベルで十分有効であると見なされている世界でも最先端の霊子機甲兵器技術は帝撃だけが所有しているものだ。実際の製造は神崎重工が担っているとはいえ、彼らも実戦データを蓄積した帝撃の協力なしにはこれ以上の新技術開発は困難と見られていた。
 この事はつまり、米田一基中将が霊子兵器のノウハウを独占しているという意味でもあった。少なくとも、米田の「ライバル」達はそう考えていた。米田自身がどう考えているか、とは全く別の次元で。
 特戦研は、こういう複雑に絡み合った思惑の中で、辛うじて存続を許されている状態だった。高く聳え立つ塀とその上に張り巡らされた高圧電流の流れる鉄条網に守られて、相変わらず部外者には正体不明の、自分達だけの秘密の研究を続けていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 闇の中に影が潜んでいた。
 影は一つきりではなかった。少なくとも五つの影法師が背の低い植え込みに隠れて、まさに影の如く、闇の中を音も気配もなしに移動していた。
 影の背後に闇が立った。それは夜の闇がそのまま人の形をとったかと思われる程に、夜の中に溶け込んでいた。
 闇が影に合図を送った。それがどのようなものであったか、闇ならぬ、影ならぬ人間には知る術も気付く術も無かったが、何らかの合図が送られたことは間違いない。何故なら、闇の合図と共に影は前進を止め、闇へと振り返ったからだ。
 闇に溶け込む全ての影を目に収めて、闇と化した加山は軽く頷いて見せた。
 風が巻き起こった。
 小さな旋風が落ち葉を巻き上げ、監視カメラを取り付けた低い柱へ向かっていく。落ち葉でレンズが覆われた刹那、加山とその配下は一気にコンクリートの壁へ取り付いた。
 この時代の西洋式建築としてはおそらく珍しい部類に属するであろう、何の装飾もない、窓すらもほとんどない鉄筋コンクリートの箱型の建物。
 加山達は、特戦研の研究棟へ侵入を開始した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「愛想のない建物じゃな」
「軍の研究所ですから……大帝国劇場のような訳には行かないでしょう」
「フン……真に創造的な仕事をする職人は、とにかく粋である事に拘ったものじゃ。工房にも、それが表れておった。例え、何の飾り気も無くともな。
 この中の連中にはどこまでも野暮な代物しか作れまい」
「確かに碌でも無さがプンプン匂って来ますが……隙が無いのもまた事実です。
 中に入れなければどうにもなりませんよ」

 照明の死角になっている植込みの影に、片膝立ちに身体を屈めてヒソヒソと言葉を交わしているのは、常識外れの方法で壁を乗り越えて、否、飛び越えてきた虎太郎と鷹也である。
 何処に持っていたのか、二人の顔は目の部分を除いてすっぽりと濃紺の覆面で覆われていた。
 鷹也の衣装は身体にピッタリと張り付いた黒っぽいズボンにセーター、ゴム底の靴。
 虎太郎の衣装は袖口と裾を絞った紺色の作務衣、のようなものにゴム底の地下足袋。
 何処から見ても忍者を連想させる二人の格好は、曲者そのものだった。

「鷹也、隙という奴はな、見つけるものではない。作り出すものじゃ」
「はい…」

 覆面に隠されて表情の変化は分からないが、いきなり披露されたもっともらしい薀蓄に、鷹也は軽く面食らった様子だ。

「その隙に儂が中を見て参る故、その間、頼むぞ」
「はい…?」

 その後に続く意味不明、説明不足の指示に、鷹也の戸惑いは一層深いものとなる。
 だが、彼の戸惑いは長続きしなかった。
 戸惑いの後には、驚きが待っていた。
 祖父が常識や定石に縛られぬ人間であることを鷹也は良く知っていた、つもりだったが、自分の認識はまだまだ甘かったと、鷹也はこの時、つくづく悟らされる羽目になった。
 彼の隣でおもむろに立ち上がった祖父は、暗闇に向かって、何と石を投げつけたのである。
 人間のものではない、小さな悲鳴。
 その直後、猛然と吠え立てる大型犬の群れが鷹也目掛けて殺到する。
 度肝を抜かれて硬直していたのは一瞬だったはずだ。
 だがその一瞬で、虎太郎の姿は鷹也の横から消えていた。
 ガラスの割れる音が続く。
 照明が消え、カメラが望まぬ眠りにつく。

そんな無茶なーー!

 番犬の大合唱を背景音楽にして。
 祖父の強引過ぎる力技に、鷹也は悲鳴とも悪態ともつかぬ叫びを心の中で放っていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 突如鳴り響いた警報に、加山は思わず舌打ちを漏らした。
 一瞬、誰かがドジを踏んだか、という思考が意識を過ぎったが、その思いつきはすぐに打ち消された。
 今回の作戦に別働隊はいない。全てが加山の指揮の下、慎重に進められている。もし何か不手際があったなら、警報が鳴るより先に加山が気付いていたはずだ。
 次に脳裏を過ぎったのは、つい先ほど遭遇した二つの人影。あれ程の技を持つ者がこの程度の警備に引っ掛かるとは思えないが、もしかしたら敢えて騒ぎを起こそうとしているのかもしれない。
 どちらにしても、隠密裏に探りを入れる今夜の計画はこれで台無しだ。

「仰木」
「ハッ」

 小さく名を呼ぶ加山に、同じく囁くような小声で応える月組の隊員。

「今日の作戦はここまでだ。お前達は離脱しろ」
「ハッ」

 隊長はどうするのですか?、という反問は無かった。この場の人選は相手に気付かれない事を条件に為されたもの。混乱が生じた今の状況下では加山一人の方が目的を達しやすい。月組は彼らの隊長の実力を十分理解していた。
 再び影と化して、今来た道を引き返す部下を一瞥もせずに、加山は彼らと逆方向へ足を進めた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 特戦研の敷地内。かなり広いその敷地の、八分の一にも相当するその一角の照明は全て壊されていた。遠くから僅かに差し込んでくる光では、闇の中で何が行われているのか見て取るのはほとんど不可能だっただろう。少なくとも、普通の人間の目には。
 激しく吠え立てる声の中に悲鳴が混ざっている。人間の、ではなく、犬の悲鳴だ。吠え声からしてかなりの大型犬で、しかも興奮状態にあることが分かる。にも関わらず、斃されていくのは大型の戦闘訓練を受けた軍用犬の方だ。
 闇の中で青年が宙を舞っていた。牙を剥き出した生ける兵器の群れを相手にして。彼の周りには既に十匹を越える大型犬が倒れている。中には口の回りに吐き出した血が付着してるものもあった。
 もちろん、犬に血反吐をはかせているのは鷹也である。
 鷹也は人当たりのいい、礼儀正しく温和な性格の青年だか、自分に害意を持って向かってくる相手に憐れみをかけて自分自身の身を危うくするお人好し、否、馬鹿ではなかった。例え自分の側に不法侵入という非があっても、取り敢えず自分自身の安全が第一と割り切れる強さを持ち合わせていたのだ。
 足に噛み付こうと襲い掛かってきた顎を小さく鋭く蹴り上げる。意外と可愛らしい悲鳴を上げて跳ね飛ばされた個体へ向けて身体を移動させ、飛び掛ってきた別の牙を躱す。訓練された連携で足首に、手首に、喉に向かって飛び掛ってくる複数の獣。鷹也の身体は、その上に舞い上がっていた。
 喉を狙って飛び掛ってきた犬の頭に、片足で着地する鷹也。そのまま頭を蹴って跳躍し、連携攻撃の外へ脱出する。蹴りつけられた勢いで地面に激突しそのまま動かなくなる軍用犬。
 しかし、いかに大型犬とはいえ軍事用に使われる犬が人間の体重を上回る種類であることは稀だ。特戦研の番犬(あるいは実験材料か)として飼われている犬も、この例に洩れていない。常識的には鷹也が犬の頭を蹴ったところで、犬の方が蹴り飛ばされるだけで彼の跳躍を支えられるはずは無い。
 だが、猛り狂った犬の群れはこのような事に頭を悩ませたりはしない。そもそもこれだけ仲間(?)が犠牲になれば彼我の戦闘力の差は犬の頭にも理解できるはずである。いや、獣の方が人間よりも「実力の違い」には敏感なはずだ。にも関わらず、番犬たちの闘志は一向に衰えない。やはり、何か実験的な措置が施されているのだろうか。軽やかに着地した鷹也へ、性懲りも無く群がる番犬たち。
 鷹也の前蹴りが再度閃く。
 血反吐を吐く仲間に目もくれず、彼の背後から襲い掛かる牙。
 右足が地面に戻る前に、左足が地を蹴った。
 上から袈裟斬りに振り下ろすような内足刀が大きく口を開いた横面に食い込む。
 両足を地面から離した鷹也目掛け、次の攻撃が襲い掛かる。
 背後から首を狙った牙を、上段の後ろ回し蹴りが撃墜する。上半身を傾けず真っ直ぐ保ったまま、腰の捻りで伸ばした足に大きく弧を描かせる、バレエのような美しいフォーム。
 空中で華麗に回転する身体。だが、暗闇にも関わらずその光景を見ていた者がいたならば、次の瞬間に起こった事にこそ目を見張っただろう。
 踵で犬の頭を引っ掛けた鷹也は、ちょうど塀に片足を掛けるような要領で、毛皮に覆われた頭部を足場にして自分の身体を更なる空中へと持ち上げたのである。踏み台となった番犬の身体が落下を始めたのは、鷹也の身体がその上に浮いた後。
 ニュートン力学を嘲笑うかのように鷹也は宙を歩く。水平に移動する彼の靴底目掛け飛びかかってくる鼻先に爪先を置き、次の襲撃者を下段蹴りで撃ち墜とす。軸足で跳躍した直後、彼の足場となっていた犬は地面に叩きつけられ血反吐を吐く。彼の動きは明らかに重力の存在を小馬鹿にしていた。
 思い出したように地上へ戻る細身の体。真っ直ぐに立つその姿も、端正でかつ隙が無い。だが今、暗闇を透かして彼の宙に舞う姿を見ていた者があったなら、細身であってもひ弱さなど欠片も感じられない引き締まった彼の肉体は、地上よりも空中にこそ、天にこそ相応しいと確信したことだろう。
 構えも取らず次の攻撃を待つ鷹也は、自分の胸に白っぽい靄のような光の線が伸びてくるのを「見た」。光線といっても光速ではなく、精々弓矢程度の速度で迫ってくる。それでも常人には対処し難い速度だが、鷹也はその光線、のようなもの、を易々と躱した。
 直後に響く銃声。
 小銃の弾が鷹也の残像を貫く。
 白い線は一条、一度きりでは、なかった。
 物理的な光ではない靄のような「光線」は彼の周りに何本も伸びてくる。
 その内、自分の体に当たりそうなものだけを躱す。他の線に触れないようにして。
 立て続けに発射された銃弾は、鷹也に掠り傷もつけられなかった。

(ようやく来たか…)

 覆面の影で彼の唇は微かな笑いを形どっていた。
 屋上から伸びる投光機の光とバラバラに近づいてる人間の足音。その驚異的な跳躍力を使えばいつでも逃げられたはずであるにも関わらす、敢えて犬の群れの中に身を置いていた鷹也は、ようやく登場した人間の警備兵に背中を向けて走り出した。
 尚も襲い掛かってくる番犬を軽くあしらいながら、追跡者が見失わない程度のゆっくりした足取りで。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 研究施設の奥へ慎重に、かつ素早く進んでいた加山は、別の廊下から近づいてくる人影を見て天井へ跳び上がった。
 天井と壁に手足を突っ張ることで体を支え、音も無く近づいてくる小柄な人影を待つ。 騒がしい警報の中とはいえ、その人影からは足音も衣擦れも聞こえない。気配も全く無い。その人影に気付いたのは、たまたま「見えた」からでしかない。注意力を最大に上げていなければ、隣をすれ違っても気付かなかっただろう。
 覆面をかぶり、袖と裾を絞った忍者のような出立ちの小柄な影は天井に貼り付いた加山に気付いた様子も無く彼の眼下を通り過ぎる。これは間違いなく、自分を追跡していた二人組みの片割れだ。
 加山は一瞬迷った。この曲者を捕らえ、あるいは無力化すべきか否か。今は自分も潜入中の身。もしこの相手に手間取るようなことがあれば、本来の目的が果たせなくなる。しかしだからといって、敵か味方か分からない状況で放置するには余りに危険な相手であることもまた、間違いない。
 その一瞬の直後。
 曲者は振り返り、顔を上げた。

「熊野の若造、いつまでそうして貼り付いているつもりじゃ?」

 刹那より短い驚愕。
 加山は床に降り立ち、構えを取る。右手には棒手裏剣、左手には戦十手。良く知られている捕り物用の十手より遥かに長い、脇差程の長さもある打撃用の武器である。
 覆面から発せられたのは老人の声。
 邪気も無く、殺気も無かったが、このまま放って置く事は到底出来ない。
 小柄な老人の言葉は、彼が加山の正体を知っていると匂わせていた。

「喧嘩の相手が違うじゃろ。
 儂の名は虎太郎。詳しい素性は後で教える故、ここは先を急ごうではないか」

 加山は無言で武器を収めた。
 自分が明らかにした敵意を歯牙にもかけない人を食った態度に毒気を抜かれたという事もあるが、自分を射抜く真っ直ぐな視線に、彼が信頼する友人と同じ心の形を感じたからである。
 この老人が何者であるにせよ、口先で誤魔化して騙まし討ちにするような人間ではない。嘘も吐くし策も弄する、飛び切り悪辣な策謀も必要とあらば厭わぬだろうが、味方であると言いながら背中から斬りつけるような真似はしない、そんな種類の人間だ。
 それに、この手強い相手と一戦交える時間が無いのも紛れも無い事実だった。
 加山は、この老人と、自分の目を信じることにした。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 外では賑やかな追いかけっこが繰り広げられていた。
 鷹也を追いかける番犬と警備兵。
 行く先行く先でガラスの割れる音がする。
 鷹也が指で弾き飛ばす鉛の玉が照明を割り、カメラのレンズを割っているのだ。
 屋上の投光機も手でクルクルと回された革紐から飛び出した礫で壊されていた。
 鷹也が走る所は地面だけではない。
 人の体重を支えられるはずの無い潅木の植込みの上を走り、高くそびえる塀を横倒しになって走る。
 常識を、特に重力を無視した、子供の空想の世界の中にいるような逃走者の姿に、犬はともかく追跡する人間の方は急速に現実感を侵食され、判断力を狂わされていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 加山と虎太郎の二人はほとんど見咎められることも無く研究所の奥へ奥へと進んでいた。
 虎太郎は何も言わないが、警備が手薄なのはこの老人の片割れが騒ぎを起こしているからに違いないと加山は確信していた。
 この老人と組んで動くからには、わざとでない限りここのレベルの警備網に引っ掛かったりするはずは無い。月組の最精鋭に匹敵するか、あるいはそれを凌駕する恐るべき技量を加山は虎太郎から感じていた。
 先を進む虎太郎は何か当てでもあるのか、扉に耳を寄せることすらしない。直感、で見分けているのだろう。自分と同じように。標的とする情報の在り処を直観的に嗅ぎ分ける能力を備えているに違いない。
 不意に老人の足が止まった。同時に、加山の第六感にアタリがあった。同じ感覚を持たない人間に説明するのは難しいが、敢えて近い例を挙げるなら浮子(うき)を使わず糸の手応えだけで魚を釣る時に似た感覚だ。但しこの場合の釣り糸は、状況に応じて十数本から百数十本にまで増加する。

「若いの、鍵は持っておるか?」

 ドアノブに手をかけた虎太郎は、そのまま首だけ捻って加山にそう尋ねた。まるで持っているのが当然のような口調に、こみ上げてくる苦笑を隠して加山は首を横に振った。

「なんじゃ、だらしないのぅ…お主、国家権力を後ろ盾に持つこの道の玄人じゃろう?
 合鍵くらい基本ではないか」
「ご指導、肝に銘じておきます。
 それで、ご老体は如何されるので?」
「こうするのじゃよ」

 お互い、既にすっかり打ち解けた口調だ。しかし、本当に気を許し合っているかというとそうではない。加山が自分の手の内を明かさず、虎太郎が年寄り扱いされて文句を言わないのが良い証拠だ。
 ここまで入ってこれたという事は、少なくとも入り口の鍵を開ける手段をお互いに持っているという事。加山の神妙な態度の裏にある思惑が虎太郎に分からぬはずは無い。だが、そんなものはお構いなしに――少なくとも表面上は――虎太郎はあっさり腰から脇差程の刃渡りの刀を抜いた。
 脇差程の、と表現したのは、その小刀が通常の日本刀とは些か異なる特徴を備えていたからである。幅と長さは通常の脇差しとほぼ同じ。だが反りが少なく、尖先が両刃になっている。そして最も特徴的であるのは刀身の厚み。元々日本刀はそれ程分厚い造りになっていないが、この刀は更に薄かった。おそらく、通常の脇差しの半分も無いだろう。極薄の、それ故にか剃刀の鋭さを感じさせる刀だった。
 左手をその薄い刃の腹に下から添え、虎太郎は腰の高さで小刀を水平に構えた。そのまま目の高さまで持ち上げると、右足を踏み出し刀身を立てながら、左手を峰に移動させる。
 無造作でありながら流れるような一瞬の澱みも無い動き。それだけでも瞠目に値したが、加山が真に目を見張ったものは、覆面に隠された唇から微かに漏れた、呟きにも似た気合いだった。

狼虎滅却――

 硬直した加山の視界の中で、小刀が真っ直ぐ振り下ろされる。峰に当てた左手で押し出されるように始動した刃は、滑らかな軌道を描いて扉と壁の合わせ目に吸い込まれた。
 切っ先三寸がノブの横を通過する。チン、という小さな金属音が振り下ろされた刀身を追いかける。残心も取らずに小刀を鞘に納めた虎太郎は、再びドアノブを掴み、捻りもせずに手前へ引いた。

「若いの、いつまで惚(ほう)けておる。行くぞ」

 何の抵抗も見せず開いた扉の向こうから促されて、加山は慌ててその部屋の中へと踏み込んだ。
 闇に沈んだ研究室。かなり広いが、機甲兵器を組み立てられるほどではない。試験官とフラスコと大型の水槽と人間も入れそうな超大型のガラス容器が並んでいるところを見ると、化学兵器かあるいは生物兵器を研究している部屋のようである。
 手近な水槽の中に拳大の何かが漂っていた。虎太郎と加山の二人は目で合図しあうと、その水槽へと近づき、辺りに注意を払いながら中を覗き込んだ。
 息を呑む音。
 抑えられた唸り声は、虎太郎のものであったのか、加山のものであったのか。
 その水槽の中には、この二人をすら驚愕させる物が揺蕩(たゆた)っていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

『鷹也、用は済んだぞ』

 警備兵と番犬と重力を嘲笑うような鬼ごっこを続けていた――と言っても、彼が鬼になる事は決してなかった――鷹也は、耳元で囁く声に走りながら頷いた。
 耳元に聞こえる声。だが、自分の隣にも後ろにも誰もいないことは改めて確認するまでも無い。そして、その声が誰のものであるのかも。
 彼の足元に剥き出しの牙が迫っていた。だが、噛み合わされた顎門(あぎと)は虚しく宙を噛むだけだった。
 突如、鷹也の身体が加速した。番犬の群れを三歩で引き離すと、塀の角へ真っ直ぐに突っ込んだ。
 跳躍。
 塀の半ばを片足で蹴り、身体を捻って追跡者へ向き直ると、右手を大きく横へ振った。
 犬の群れの鼻先で弾ける複数の小さな爆発。
 悲鳴を上げてひっくり返る軍用犬。
 十個余りの小さな癇癪球を置き土産に、鷹也の身体は5メートルの壁を軽々と飛び越えた。
 鷹也が消えた帝都の空は、特戦研の番犬があげる悲鳴と怒号に同調した野良犬、飼い犬の鳴き声に埋め尽くされていた。

 

続く

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