帝都 騒然 ――心優しき反逆者の一族――

〜〜 第八話 〜〜


 帝都を代表する華麗な西洋モダン建築として知られる大帝国劇場は上空から見ると□型をした回廊構造になっている。鹿鳴館以来、西洋風の建築物も帝都には数多いが、帝劇のように外部から独立した、外部と完全に遮断された中庭を持つ建物はそれ程多くない。
 高く聳え立つ建物自体でぐるりと囲まれた中庭に向けて開かれた窓は、外部の視線に曝される心配が無い。
 大帝国劇場は劇場であると同時に歌い、踊り、舞台に駆ける乙女達の生活の場でもある。
 帝都でも余り目にする機会が無い大帝国劇場のレイアウトについて、文化人を自称する人々は大衆に向けて、女優といっても恥じらいの多いうら若き女性である花組の生活を守る為に考慮されたものだと訳知り顔で説明していた。
 それもまた、間違いではないのだ。世の中に溢れる数々の、無責任なゴシップと紙一重でしかない、「権威有る見識」に比べれば、良心的で正確な方だと言える。
 舞台で夢を演じる乙女達にも生活がある。舞台の上で、己自身を精一杯使って夢の世界を描き出す彼女たちだが、舞台の外まで人々の目に披露しなければならないという法は無い。むしろ、夢を演じる彼女たちだからこそ、その私生活は守られなければならないと言えよう。
 かくして、彼女たちの日常は注意深く人々の目から隠蔽されていたのだ。……と言うと、何だか国家的な陰謀の様にも聞こえるが――ある側面から見れば事実そのものなのだが――要するに、スタァにスキャンダルはご法度ですよ、という、まあ、当たり前の事だ。別に、ありのままの日常を公開しても、目を覆うようなだらしない生活をしている女性など花組には一人もいないのだが、花札で夜更かしをして目を赤く腫らしたまま欠伸交じりで朝食を口に運んでいる図などは、ファンの夢を守る為にも、やはり見せるべきではないのである。
 話が随分横道に逸れてしまった。
 つまり、乙女達の私生活を無神経な覗き見から守る為に中庭を完全に囲む形に設計されたのだ、という意見はハズレではない。
 但し――満点でもない。
 美しく手入れされた芝生、優美な噴水、所々に配置された花壇、その一部が家庭菜園に転用されているのはご愛嬌、まあまあ、典型的な西洋風の中庭に「見える」。それが見せ掛けに過ぎないという事を、一握りの関係者だけが知っている。中庭だけでなく、大帝国劇場の建物全てが見た通りだけの物ではない。
 例えば、優美な彫刻を施された噴水の水底を覗き込んでみる。注意深く観察すれば、中心から放射状に走った線が見えるはずだ。見る者がじっくりと見れば、それが大理石のタイルに偽装されたスライド式の開閉口だと判るに違いない。地下深くに隠した、何かが出入りする為の。
 見掛け通りでないのは、容れ物だけではなかった。花組の乙女達は間違いなく舞台女優だったが、それだけではなかった。事務室で働く女性も、売店で元気に声を張り上げている女の子も、食堂のウェイトレスでさえ、別の顔を持っていた。
 劇場の入り口に立っていたかつてのモギリの青年も、また。
 そして、帝劇それ自体でぐるりと囲まれた中庭では、彼らのもう一つの顔が披露される事も少なくなかった。
 高く聳える石造りの建物は、彼女たちの別の顔を隠す役目も果たしていたのだ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「お兄ちゃん、ガンバレ!」
「よしっ、そこだ、隊長!」
「…決まりだね」

 音を立てて、細身の青年が朝露に濡れた芝の上に背中から落ちる。よく手入れをされた柔らかい芝生の上で、落ち方も上手く受身を取っていたので、それ程大きなダメージは感じていないはずだ。
 実際、青年が顔を顰めたのは一瞬だけで、後は荒く息を吐くだけ。寝転んだままなのは、痛みより疲労の所為らしい。

「鷹也、そろそろ、終わりにするか」
「そう、ですね」

 問い掛ける声もかなり息が乱れていた。

「最後に、もう一本だけお願いします、一郎従兄さん」

 呼吸が整わないままではあったが、仰向けの姿勢から一挙動で勢い良く立ち上がり、構えを取る鷹也。
 無言で頷き、良く似た構えを取る少し年上の青年は、言うまでもなく帝国海軍中尉にして帝国華撃団花組(元)隊長・大神一郎である(「公式」には既に花組隊長ではなかったが、彼女たちにとって花組隊長は大神以外にあり得なかった)。
 まだ朝も早い。晴れた日には日向ぼっこに格好の場所となる中庭も、まだ東棟の影の中だ。ようやく空が明るくなってきた晩秋の早朝は、寒いと言うより冷たいと表現したくなる硬質な空気に満たされている。
 そんな、早起きには不向きな季節であるにもかかわらず、大神と鷹也の稽古は大勢の観客を集めていた。お互い素手で構えを取る二人の向こう側にズラリと並ぶお馴染みの顔。
 真中に、タオルを手にしたさくらの顔が見えるのは、当然と言えるだろう。その横に並ぶ虎太郎、熊作、美鶴、修蔵も、まあ、当然の顔触れかもしれない。
 さくらや大神と同じように朝稽古の習慣を持つカンナの姿が見えるのも武道家として然もあらんと思われるし、朝寝坊とは無縁で寒さが苦にならないマリアが様子を見に来ているのもそれ程不思議な事ではない。クールな振りをして実は結構好奇心旺盛なすみれが顔を覗かせているのも、そんな事もあるかとある程度は納得できる。
 だが、およそ物見高さとは無縁のレニやかえで、夜更かしの紅蘭や朝寝坊な織姫、平均睡眠時間自体が長いアイリスまで勢揃いしている様には、彼女たちの日常を良く知る者ほど首を傾げる事だろう。
 ある者は固唾を飲んで見守り、ある者は元気に声援を送る、そんな各人各様の見物客を前にして、大神と鷹也は少しずつ互いの距離を詰めていた。高まる緊張感に、何時の間にか全員が声を失い、手に汗を握る。
 霊子甲冑の操縦でも同じだが、大神の技は「動」を基本とし「先」を重んじる。少なくとも、彼女たちの知る大神の技は待つ事を知らず、留まる所を知らない。躍動感に満ち、果断で、時に大胆過ぎると見える事すらある。
 指揮官としての彼は緩急・硬軟を自在に使い分け巧緻の限りを尽くした芸術的な手腕を発揮するが、戦士としての、剣士としての彼は相手の出方を窺い攻め手の隙に乗じて反撃を繰り出すような戦い方を見せた事は、彼女たちの記憶にある限り、ほとんど無い。いつも、無造作とも見える大胆な踏込みで強引に主導権を奪い取り、僅かな隙も見逃さず二刀を次々と打ち込む疾風怒涛の攻めで敵を屠る、それが彼女たちの知る最強の剣士・大神一郎の姿である。素手の立会いではカンナに一歩劣るとしても、踏込みの速さを活かして先手を取る戦法は組手の時にも変わらない。
 だから、一寸刻みの間合いの攻防を繰り広げる彼の姿は、新鮮な驚きをもたらすものでもあり、もしかしたら、という不安を芽吹かせるものでもあった。
 その不安が、彼の年下の従弟の、卓越した技量に因るものでもあると、この場の全員が――格闘術の心得など全く無いアイリスですら――理解していた。

 大神鷹也。

 太正十二年当時からここに在籍していた六人には、帝劇着任当時の大神一郎を何となく思い出させる細身の、優しい感じの青年は驚くべき体術の持ち主だった。技の華麗さから言えば、鷹也は間違いなく大神を上回っていた。
 大神が指先一つ間合いを詰めた瞬間、鷹也の足が軽やかに地面を蹴った。
 跳躍しての前蹴り。
 体を開いてこれを躱し、更に間合いを詰める大神。
 蹴り足を引き戻す勢いで体を捻り、逆の足で鷹也は回し蹴りを放つ。
 軌道の途中で足を折り畳み、加速してこめかみを狙う鷹也の膝に、大神は肘を合わせる。
 下から突き上げるような肘打ちと横殴りの膝蹴りが激突し――閃光が迸った。
 磨き上げられた鋼を打ち合わせたような、甲高い澄んだ響きが広がる。
 大神の両足が芝の上を滑り、鷹也の体が後方に弾き飛ばされる。
 瞬時に体勢を立て直した大神と、空中で体勢を整え音も無く着地した鷹也を、透明な余韻が包む。
 彼女たちをこの場に呼び集めたのはこの「響き」だった。
 空気を振るわせる音ではない。
 「霊力(ちから)ある者」の意識に響く、霊気の波紋。
 帝劇をすっぽり覆う強固な結界が、二人の霊気の衝突によって生じる波紋を反射して、帝劇中に響き渡らせているのである。
 練り上げられた純度の高い霊気の衝突「音」は美しく澄み渡り、決して不快なものではなかったが、これだけ大きな「音」を立て続けに打ち鳴らされては高い霊力を持つ彼女たちの事、ぐっすり眠ってなど到底いられない。
 早起き組はともかく、朝寝坊組(とまで言っては可哀相かもしれない)は無理矢理たたき起こされた不機嫌丸出しで何事が起こったかと抗議にやって来たのだが、既に見物席に収まっていた先客同様、たちまちにして、中庭を舞台とした演武(舞)に目を奪われ、心を奪われる結果となったのである。
 直線的で力強さに溢れた大神の技。
 空中に華麗な弧を描く鷹也の肉体。
 対照的でありながら、確かに祖を同じとする、確かに同じ血を引くもの同士と理屈でなく分かる技の応酬。
 変化に富んだ目まぐるしい攻防は、見る者に驚きを与えると同時に、調和を感じさせるものでもあった。
 二人で一つの曲を奏でているかの如き、鮮やかなハーモニー。
 相手を完全に理解し、完全に受け入れながら、なお、確固たる自分自身を主張する。
 そんな二人に、彼女たちは、舞台女優として嫉妬すら感じていたかもしれない。

 二人の技量に、差は無いように見えた。
 カンナとかえでの二人は、空手と合気術、技の性質は違えどそれぞれ徒手格闘術で達人と呼ばれる領域に身を置いていたが、この二人にすら大神と鷹也の力の差を見極めることは困難であった。
 だが――ここまで九回の立会いは、ことごとく大神の勝利に終わっていた。
 偶然とは呼べない、決定的な、差。
 それが何か、全く見極められない事も、彼女たちが目を離せなくなっている理由になっていた。
 手加減している訳ではない。
 鷹也が年長者である大神に遠慮している訳では決して無い。
 そんな躊躇いなど微塵も見られない。
 相手を「斃す」事を目的とした「真剣勝負」でこそないが、二人は互いに「本気」で立ち会っていた。

「鷹也くん、一本くらい取って御覧なさいな」
「そうじゃぞ、鷹也。無手術はお前の得手ではないか。剣術が専門の一郎にばかり花を持たせるのは情けないというもの」

 心温まる(?)身内の声援に、鷹也の身体が一気に加速する。
 拳の届く距離へと踏み込み、その直前で足を跳ね上げる。
 蹴り技には狭すぎる間合いの中を、大神の顎めがけて真っ直ぐ翔け上がる鷹也の右足。
 真下から突き上げられた爪先を、大神は上体を仰け反らせて躱す。
 天を向いた鷹也の足が、踵から真っ向唐竹割に振り下ろされる。
 崩れた体勢のまま、大神は巧みな足捌きで僅かに後退り、首元を狙った脚に空を切らせた。
 蹴り足が引き戻される。
 爪先が地面に戻る。
 同時に、鷹也の頭が沈んだ。
 上体が前へ傾ぎ、両足が地面を離れる。
 空中で前転し、踵を大神へと叩きつける。
 竜巻を横倒しにしたような、強烈な空中胴回し蹴り、いや、これは空中前転蹴りと言うべきか。
 流れるようにつながれた神速の連続技。如何に大神でも、体を崩された状態でこれを躱すことは出来ない!

「っ!」

 声にならない悲鳴と同時に、
 芝生を鳴らす柔らかい落下音。
 手刀を振り下ろした姿勢で残心をとる大神と、
 仰向けに倒れて荒く息を吐く鷹也。

「参りました……」
「腕を上げたな、鷹也。最後の蹴りは肝が冷えたよ」

 倒れたまま白旗を揚げる鷹也に、大神は笑顔で手を差し出す。

「えっ?えっ?」
「打ち落とし……」

 何が起こったか分からず、キョロキョロと左右に目を彷徨わせるアイリスに、独り言のような口調でレニが答える。

「手刀で蹴りを逸らした……のかしら?」
「そうね……本来は一刀流の高等技術よ」
「フ〜ン…レニ、アナタ良くそんな事まで知っていますね」
「カンナ、貴女なら同じ事が出来る……?」
「例え逸らすだけでも、あれだけの勢いを持った蹴りを弾くには、相当の力が必要なはずだぜ……
 あたいなら、蹴りで受けるか、十字で受けるか、だろうな……
 それを、片手で、とはね……」
「呼吸と見切り、かしらね……」

 一部、方向性の違う感心の仕方をしている者もいたが、一様に感嘆の溜息を吐く中、着物姿の二人の女性が稽古を終えた二人に歩み寄る。

「ありがとう、さくらくん」

 笑顔で差し出されたタオルを、笑顔で受け取る。
 祝福された許嫁同士が笑顔を交わしている横では、やや趣の異なる笑顔で美鶴が従弟の足元にしゃがみこんでいた。

イッ…!

 痛い、と言葉にする事も出来ず、呻き声を漏らして尻餅をつく鷹也。
 手刀で打たれた自分の脚へ反射的に伸びてくる鷹也の手をあっさりと払い除けた美鶴は、細く絞った袴の裾を解いてそのまま捲り上げた。

「……鷹也くん、貴方、本当に腕が上がったわね」
「……どういう、意味でしょうか」

 開けてビックリ玉手箱、ではないが、予想以上に酷く腫れ上がっている横脛を見て、顔を顰めながらもしみじみとした口調で呟く美鶴。
 それは冷やかしでも皮肉でもない、本心からの褒め言葉だったが、当の鷹也は正直、それどころでは無かった。美鶴に触れられた途端、無理矢理思い出させられたような、意識に直接突き刺さってくる痛みに悶絶寸前だったのである。それでも、美鶴の言葉にしっかり応えているのは、幼い頃から培われた条件反射の賜物だろうか。

「一郎さんをここまで本気にさせるなんてね……
 でも一郎さん、お稽古で点断幻刀はやり過ぎですよ」
「えっ?そんなつもりは……」
「……一郎さんともあろう方が、修行不足かしら?
 ご自分で使った技を認識できないなんて……」
「てんだんげんとう…?」

 聞きなれない言葉にさくらが首を傾げたが、全く聞こえていない様子で美鶴は自問自答の水底に沈み込んでいた。

「いえ、そんなはずはないわね……一郎さんの技は、着実に極みへと達しつつある……
 封印がきつすぎるのか、『力』が溢れそうになっているのか……その両方、かしら……」
「あの、美鶴さん、『封印』ってなんですか?」

 近い将来の義理の姉の独り言の中に不穏で深刻な響きを感じて、今度はしっかり問い掛けるさくら。
 自分に向けられた指向性の意志に、白昼夢の水底から浮かび上がったような表情で美鶴は振り向いた。

「えっ…?
 あっ、ごめんなさいね、さくらさん。
 ええと、点断幻刀というのは『気』の刃で気脈の流れを断つ技よ。
 点穴、は知っているかしら?体内の気脈を制する経穴を打って『気』の流れを狂わせたり断ち切ったり、あるいは逆に整えたりする技なのだけれど、この技は一人一人少しずつ違う、同じ人でもその日その日の体調によって変わってくる経穴を正確に打たなければ効果が無いという難しさを持っているんです。
 相手が点穴術に何の予備知識も持っていなかったり実力が格下だったりすれば実戦の中で経穴に打ち込む事もそれ程難しくないんでしょうけど、実力が拮抗していてしかも相手が警戒しているような場合はそれこそ至難の業よ。そんな難しい技を使うより普通に攻撃した方がずっと効率的なの。
 点断幻刀は経穴を打つのではなく『気』の刃を打ち込む事で、点穴で『気』の流れを断つのと同じ効果を得るものなんです。『気』は『気』に作用するものだから、『気』の流れを断つ為には最初から『気』で攻撃する方が効率的でしょ?
 でも実際には、気脈は肉体という鎧に守られていますから、直接『気』で攻撃するのは難しいんですよ。だから点穴という技術が考えられたんですけどね。
 点断幻刀は相手の肉体に鋭く絞り込んだ『気』を通過させることで、体内の気脈を断つ技。気脈を断たれた部分は『気』が通わなくなりますから、痛みを感じる事も出来なくなるし、精気が枯渇して朽ちていく事になるんです」

 ここで美鶴は、弟へと目を転じた。

「一郎さん、貴方まさかこんな危険な技を普段から使ったりしていないでしょうね?
 まさか、花組の方々に…」
「まさか!」
「でも、鷹也さんに斬りつけたのはお分かりにならなかったんでしょう?」
「鷹也が相手だったら俺も安心できるから、つい力が入っただけだよ!今日は姉さんもいるし。
 そうじゃなきゃ、さっきの前転蹴りで潔くやられてるって」

 ジト目で詰め寄る美鶴に汗をかいて弁明する大神。
 その余りの慌てふためきように、さくらの抱いた疑問はどこかへ棚上げされてしまっていた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「おーい、さくら」
「カンナさん、何でしょうか?」
「かえでさんが支配人室に来てくれってさ。支配人が呼んでるらしいぜ」

 朝稽古の後の朝食の後。
 厨房で洗物をしていたさくらをカンナが呼びに来た。

「えっ、でも……」

 彼女たちの本職は舞台女優であり帝都防衛の秘密部隊の隊員である。そして米田はその両方の最高責任者だ。彼の用事と厨房の仕事と、どちらを優先すべきか考えるまでも無いし、さくらは花組の中でもこういう時に素直な返事を返す方だ。面倒臭いとか他の事をやっているとかそういう理由でごねる事はない。
 だが、この時は何故か、困り顔で視線を彷徨わせ、すぐに米田の呼び出しに応じようとしなかった。

「さくらさん、ここはいいからいってらっしゃいな」
「ですが……」
「お仕事なんでしょう?私たちの事は気にしないで」

 にっこり笑って頷く千鳥。横から美鶴も底意の無い笑顔を向けてくれる。
 だが、さくらとしては「気にしないで」と言われて「はい、そうですか」で済ませられる立場でもない。

「あの、お義母様もお義姉様もごゆっくりなさっていて下さい、お願いですから……」
「そんな事は気になさらなくて良いんですよ、さくらさん。私は好きでやっていることなんですから」
「さくらの言う通りです。お客様にこんな事まで……」
「マリアさんたちこそ日頃のお稽古でお疲れでしょう?ここは私たちに任せてごゆっくりなさっていて下さいな。
 皆様のご好意でお世話になっているのですもの、この程度のことはさせて頂かないと。
 どうせいつも家でやっていることなんですから」
「はぁ……」

 その時、厨房には千鳥と美鶴の他に、さくら、マリアにアイリスにレニに紅蘭の姿まであった。
 みんなで仲良く並んで皿洗いの最中だ。
 もちろん、帝劇の厨房には専門の料理人が必要な数だけ揃っている。普段は看板スタァの花組が食器を洗ったりする必要は無い。自分で料理をするマリアやカンナやさくらは後片付けも自分で行うが、それはあくまで自発的に行っている事で、スケジュールが詰まっている時や公演中は厨房係に任せ切りになる。
 では何故、花組スタァがここに五人も顔を並べているかというと、客であるはずの千鳥が当たり前のように洗い物を始めてしまったからだ。当然、娘の美鶴を従えて。
 こうなると立場上さくらが知らん顔をすることは出来ない。これを見かけたマリアが千鳥たちを止めようとしたが、いつの間にか木乃伊取りが木乃伊になってしまっていた。アイリスに食後のデザートをせがまれて一緒に厨房にやって来たレニ、紅蘭の三人も、楽しそーう、とのアイリスの一言に巻き込まれてしまう羽目に陥っていたのだ。
 ところで、皿洗い一つ、鍋洗い一つにもそれなりにコツというものがある。日頃炊事に縁が薄い紅蘭たちはいつお皿を割ってもおかしくないという危なっかしい手つきだった。意外なことに、何でも器用にこなすはずのレニまでが鍋を強く磨き過ぎて危うくメッキをはがすところという有様だった。それを千鳥が一つ一つ、優しく窘め、教える。帝劇の厨房は千鳥を講師とした時ならぬお料理教室、ならぬ水仕事教室の様相を呈していたのだった。
 千鳥の隣に並んで、アイリスは特に楽しそうだった。思えば、彼女がこんな風に「母親」に家の事を教わる機会など皆無だっただろう。見様見真似でお皿を磨き、時々優しく窘められるのもアイリスにとっては新鮮でウキウキする経験に違いない。

「さくら、ここはあたいが代わってやるよ」
「カンナさんもこう仰って下さっていることですし、ねっ、さくらさん」

 横からパチッとウインクして見せたのは美鶴だ。彼女は、その純日本風の佇まいにも関わらず、意外とこういうバタ臭い真似が板についていた。多分、配偶者の影響が大きいのだろう。

「美鶴、さくらさんについて行っておあげなさい」

 そのままさくらを送り出そうとした美鶴に、何故か千鳥がこう指図した。

「お母様…?」
「付き人でも煩い小姑でもどちらでも良いわ。とにかく、付き添っておあげなさい。
 第三者でなくては、断り難いお話もあると思いますから」
「分かりました。行きましょう、さくらさん」

 美鶴も母親の意図を完全に理解した訳でもなかっただろうが、そこは長年一緒に暮らしてきた親子、全く訳が分からない顔をしているさくらを促して、一緒に支配人室へ向かった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「中尉、支配人がお呼びですわよ」

 一方、ほぼ同時刻。朝食が終わって即、祖父と従弟を部屋に連行し、昨晩の事を厳しく尋問していた大神をすみれが同じように呼びに来た。…どうやら、カンナと一緒に何やらやっていたところで(おそらく、いつもの他愛も無い口喧嘩だろう)かえでに用を言いつかったらしい。

「ありがとう、すぐ行くよ」

 扉越しに応え、すみれが短い返事と共に遠ざかっていくのを耳で確認して、大神はもう一度祖父へと向き直った。

「爺さん、事情は分かった。情報も感謝する。だが、余り勝手な真似はしないでくれ。
 下手すりゃ加山たちに迷惑をかける事になったんだぞ」
「すみません、一郎従兄さん…」
「そんなドジは踏みゃせんよ……っと、分かった分かった、そう睨むな」

 反省の色など欠片もなく嘯いていた虎太郎だが、大神の鋭い一瞥を受けると、慌てて手を振り態度を改めた。
 それが表面的に、である事を理解するのに、さほど洞察力は必要なかったが、米田に呼び出されている事もあり、大神はそれ以上の追求を諦めた。

「爺さん、最後にもう一度確認しておくぞ」
「何をじゃ?」
「それは蠱毒の媒体だったんだな?」
「うむ。今風に機械と組み合わせる様式となっておったが、根本は蠱毒の呪法に違いない」

 頷きながら、昨晩見た物を虎太郎は思い出していた。
 水槽の中を揺蕩う犬の生首。下顎が取り外されたもの、頭蓋骨が外され脳が剥き出しになったものなど様々だったが、共通していたのは死してなお窺い見る事のできる激しい苦痛。

「犬の蠱毒によって制御される機械の式神…それが従機兵の正体か?」
「さて、そこまでは断言できん。それに、邪法を用いる者が、犬畜生に拘るとも限らんしな」

 さり気無く示唆されたおぞましい可能性に、大神の眼光が一段と鋭いものになる。
 一方、語り手である虎太郎はといえば、相変わらずつかみ所の無い飄然とした薄笑いを浮かべていた。

「まあ、昨日見た限りでは、何処の術者の仕業か知らぬが、中々見事な出来栄えであった。怨念のほとんどが余すところなく『念』に精製されて『怨み』の痕跡はほぼ消え去っておる。あれならば魔を招く事もあるまい。
 普通ならば、な」
「普通でなければ?」
「蠱毒は所詮蠱毒じゃよ。怨念を糧とした術が怨みの念から全く無縁でいられる道理はない。
 そして怨みは魔にとって、誘蛾灯の明かりのようなもの。
 術を施した者の技量を大きく上回る力量の術者が従機兵とやらの仕組みを知れば、操る事は難しくとも狂わせる事は然程難しくもあるまい」
「……分かった。だが、これ以上妙な手出しはするなよ?これは俺達帝都防衛に携わる者の仕事だ」
「承知した。儂も身内に害がなければいらぬ苦労をしょい込むつもりも無い」
「今一信用しきれないんだけど……」
「信用せい」
「…じゃあ、俺は行くけど、呉々も大人しくしていてくれよ」
「承知したと言うておるじゃろ」

 人の良い好々爺の笑顔で大神を見送る虎太郎。
 だが大神には、その笑顔が腕の良い詐欺師のもののように思えてならなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇

何故姉さんがここにいるんですか

 支配人室の中を視界に入れた瞬間、米田とかえでが珍しく軍服を着ている、つまり公式の用である事が明白であるにも関わらず、また、外部の来客があるにも関わらず、大神は敬礼する事も忘れ、この台詞を危うく口から滑り落とすところだった。
 ちなみに今の大神の衣装はいつもの(?)モギリ服ではない。軍服ではないが、公の席に出てもおかしくない格好をしている。寸でのところで身内に対するツッコミを呑み込み、型の美しさで定評のある敬礼を見せて、何とか動揺を取り繕った。

あたし、今日からさくらさんのマネージャーになったの

 だが、彼の意識を直撃した特大の疑問それ自体を払拭するのは不可能だった。客――陸軍大佐の階級章をつけたその男は、陸軍参謀本部大佐・柳生暁星(やぎゅう・ぎょうせい)と名乗った――と礼式に則った挨拶を交わし、一歩下がって美鶴と並んだ拍子に、他人には聞き取れない小さな声で尋ねずにはいられなかったのだ。

マネージャー?

 それに対する美鶴の回答が「マネージャー」である。

マネージャーっていうのはね、俳優さんのスケジュールを管理したりギャラの交渉をしたり身の回りの世話をしたり…
マネージャーがなんなのかくらい知ってるよ!俺が聞きたいのは何で姉さんがさくらくんのマネージャーなのかってことだよ!
そんなの、可愛い弟のお嫁さんになってくださる方の事が心配だからに決まっているでしょう?お嫁さんのお仕事に口出しするのは小姑の権利よ
本気…?
もちろんです
「どうした、大神?」
「いえ、何でもありません!」

 これだけの会話を姉弟はほとんど唇も動かさず口も開かず、普通に喋る三倍以上の速さで交わしていた。米田の観察力を以ってしても小さな違和感を感じる以上の事は無かったが、流石にこれ以上私的な会話も続けられない。大神は改めて、「柳生大佐」に注意を移した。
 それなりに鍛え上げられ戦場の風雪に晒されて来た顔つき、体つきだが、武人という印象は余り無い。どちらかと言えば文官に近い雰囲気を持っている。おそらく、前線よりも後方の経験が豊富な軍官僚だろう、大神はそう推察した。

「大神、さくら。この柳生大佐は降魔戦争の折、俺達対降魔部隊の補給を担当してくれた事もある俺の古い知合いだ。最後にチョットばかし喧嘩別れみたいな格好になっちまったがな」
「米田閣下、昔の事はもう勘弁していただけませんか。結局閣下の方が正しかったと、今では自分も反省致しておるのです」
「拘っている訳じゃねえさ。あの頃は、お前(めえ)さんの言う事が圧倒的多数の『良識』だったんだからよ」
「ですからあの時の過ちを反省して、今ではこうして霊的防衛の為の機械化部隊の実現に微力を尽くしておるのです」
「微力じゃ困るぜ。大いに力になってもらわにゃよ」
「はっ、あの……」
「はっはっはっ、冗談だよ。そう硬くなるな。
 じゃあ、本題だ。大神、さくら」
「ハッ」
「はいっ」

 大神と共にさくらもきりっとした表情で姿勢を正した。帝国歌劇団花組の花形女優ではなく、帝国華撃団花組のパイロットの佇まいだ。

「大佐がお前たち二人に協力して欲しい事があるそうだ」

 ここで米田はチラッと美鶴へ目を向けたが、艶やかな微笑を返され、何も言えずに視線を戻した。
 かえでが横で何やら言いたげな表情を垣間見せたが、すぐに生真面目さを隠れ蓑としたポーカーフェイスに戻る。おそらく「だらしがない」とでも言いたかったのではないかと想像される。

「急な話だが、明後日、政財界のお偉いさんたちや学者芸術家先生方を招いて従機兵のお披露目をやる事になったそうだ。そこで、さくらにも来賓として参加して欲しいらしい」

 従機兵については昨日の夕食の際、花組全員に、とりあえず簡単な説明が行われていた。

「あたしがですか!?そんな立派な方々に混ざって?」
「そう驚く事もあるめい。お前は今や帝都で知らぬ者のない花形女優だ。人気稼ぎに汲々としている陸軍が担ぎ出したがるのも無理はねえぜ」
「閣下…」
「俺の口の悪さは昔から良く知ってるだろ」
「はっ、いえ…」
「ははははっ、良いって事よ」
「どうかしら、さくら。その日はみんなとのお稽古の日だけど、貴女さえ良ければ引き受けてもらいたいの。
 あんな事があって帝撃と陸軍は少し疎遠になってしまっているけど、帝都防衛の性質上、陸軍との連携はこれからも不可欠だと思うのよ。こちらから歩み寄る事も時には必要だと思うの」
「真宮寺さくらさん」

 ここで初めて(挨拶以外で)、柳生大佐が米田以外の人間へ話し掛けた。

「はい」

 その、穏やかな表情の底に堅い意志の光を宿した視線を、さくらは正面から受け止める。

「正直に申しまして、自分は今回の従機兵計画を余り好意的に考えておりません。特に今回のお披露目は一部の政治業者とのパイプを使って特戦研が強引に画策したもの。
 ――ここだけの話にしていただきたいのですが、昨日特戦研の研究所が何者かに襲撃されました。特戦研はそれを、他国のスパイと考えている節があります。そして、盗まれた技術を利用される前に、自分たちの研究成果を誇示したい、と考えておるのです。
 彼らは焦っているのです。それで、こんなに急に従機兵のデモンストレーションを行おうとしているのです。
 自らの名誉欲の充足と組織の保身の為、癒着関係にあった政治業者を利用し、米田閣下の帝撃や、真宮寺さくらさん、貴女まで利用しようとしています」
「そこまでお分かりなら、何故大佐は彼女に披露会への出席をご依頼にいらっしゃいましたの?」
「失礼ですが、貴女は?」
「先程も自己紹介させていただきました通り、真宮寺さくらのマネージャーを致しております、桐生美鶴と申します」
「あ、ああ、そうでしたな」

 突如全くの部外者と考えていた、あるいは意識から締め出していた美鶴に話し掛けられ、更に自分が自己紹介を聞き流していた事を暗に指摘されて、柳生大佐は戸惑いを隠せない。
 もっとも、降って湧いたような「マネージャー」の存在に戸惑っているのは柳生だけでなく、米田やかえでも一緒だったのだが、彼にそこまで洞察を働かせる余裕はなかった。

「あー、何故かと申しますとですな」

 マネージャーが如何なる職業か、先ほど説明を聞いたばかりだ。なるほど、芸人には付き人が付き物だと納得はしたが、一方で国家の大事に関わる事を何故付き人風情に説明しなければならないのか、と釈然としない思いもあった。
 だが、柳生の口は内心の不満と無関係に動いた。マネージャーの、つまり美鶴の美貌に迷わされた、という面も否定は出来ない。だが決して美女の色香に迷っただけではなかった。その事は彼の名誉の為に明言しておく必要がある。
 彼は美鶴に気圧されていたのだ。
 切れ長の双眸も赤い唇も、柔和な笑みを形作っている。美鶴の美貌に、相手を威圧する要素は一つも表れていない。だが優しく微笑む切れ長の瞳の、何処までも澄み切った透明な眼差しの余りの深さに、柳生大佐はすっかり呑まれてしまっていた。底知れぬ深淵に意志の置き所を見失ってしまっていたのだった。

「一つには、特戦研の思惑がどうあれ、従機兵が彼らの説明通りの性能を示すなら帝都防衛の大きな力になります。従機兵が彼らの法螺でも、霊子兵器に人々の関心を導くきっかけになります。
 自分は、一握りの高官だけが霊子兵器の重要性を理解するだけでは帝都防衛、ひいては国土防衛に不十分だと考えております。帝国臣民に広くその重要性を理解してもらう必要があると考えているのです。
 少数精鋭の部隊だけでは国土の全てを防衛する事は出来ません。例え多少能力は劣るとしても、大量に配備できる兵器で魔物の襲来に備えなければならないのです。
 そして大量の霊子兵器を配備する為には臣民がその重要性を理解し、生産と運用に協力するよう仕向けなければなりません。これからの時代、軍事力と工業生産力は益々不可分のものとなりますからな。臣民一人一人の勤労が国を守る力となるのです。
 臣民の協力を得る為に、霊子兵器の性能と重要性を広く訴えていかねばならないというのが自分の持論です」
「それはつまり、帝国華撃団についても公にすべきとのお考えですの?」
「いえいえ、帝国華撃団の詳細が秘密にされなければならない理由は十分存じ上げておるつもりです。霊子甲冑が一握りの限られた才能の持ち主にしか運用できず、操縦者のほとんどが民間人の若い女性であるという事実は人々の、特に文化人を自称する頭でっかちどもの理解を得難いものでしょうし、花組の皆さんの安全の為にも秘匿されるべきだと思います」

 文化人批判を繰り広げる柳生本人も、どうやらかなり「知」に偏った人物らしい。「女優」真宮寺さくらのマネージャーと自己紹介した美鶴が当然のように帝国華撃団の名前を出したことに、何の違和感も覚えていないのだから。

「それを聞いて安心致しました。さくらさんを無用な危険に曝したくはございませんので。
 ですが、ならば尚の事、何故大佐はさくらさんを従機兵とやらの宣伝にお使いになろうとお考えですの?
 秘密は何処から漏れるか分かりませんのに」
「さくらさんに――こうお呼びしてもよろしいですかな?」

 美鶴のさり気無い問い掛けに、柳生大佐の姿勢が改まった。
 さくらが頷くのを見て、ピンと背筋を伸ばしたまま言葉を続ける。

「さくらさんに従機兵公開式典へご出席願っているのは、帝都に知らぬ者のない花形女優として、だけではありません。
 帝都防衛に命を捧げた、故真宮寺一馬大佐のご息女として、帝都防衛の象徴になっていただきたいと考えておるからです」
「えっ!?」
「柳生!?」
「大佐、それは!?」

 驚愕の反問を発したのは米田とかえでだった。
 当のさくらは思ってもみなかった父の名に絶句し、大神は鋭く目を光らせ、美鶴は両目を丸くして「見せた」。

テメエ、一馬の名を利用するつもりか!
利用ではありません!

 万軍を震撼させる米田の一喝に、柳生大佐は一歩も退かなかった。
 その秀才的な外見からは予想外の胆力である。

「真宮寺大佐は英雄として称えられ、帝国軍の歴史に名を残すべき方です。あの方の崇高な自己犠牲があったからこそ、帝都に今の繁栄があるのです!
 自分はあの時、取り返しのつかない過ちを犯してしまいました。その過ちを糺す第一歩として、大佐とそのご息女に相応しい名誉を受け取って頂きたいのです!」

 いささか芝居がかってはいたが、力説する彼の言葉に偽りは無いように見えた。少なくとも、米田の怒気は納まっていた。代わりに、年長者としての分別が顔を見せていた。

「お前の言いたい事は分かった。
 だがな、柳生。一馬の名を出すのは、やはり賛成出来ん。
 …まあ聞け。確かに一馬は英雄として名を残すべき男ではある。だが、さくらを一馬の遺児として公にしてみろ。さくらが破邪の血統である事まで、知る資格のない奴らが嗅ぎつける事になりかねん。それだけでもさくらの身を危険に曝す事になるんだ。
 太正維新の騒ぎをまだ憶えているだろ?あの時も、さくらは破邪の血を継ぐ者として狙われた。破邪の血を邪魔に思っている奴らも、利用したいと考えている奴らも、まだまだいくらでもいるはずだ。
 それにな、さくらが特殊な力を受け継ぐ者であることが公になる事で、帝撃の秘密が一挙に暴かれてしまう危険もある。俺は帝撃の総司令として、お前の計画を認める事は出来ねえな」
「…分かりました、閣下の仰る通りでしょう。大佐の名誉回復は、また別の機会を待つ事に致します。
 ただ自分はやはり、帝都防衛の更なる一歩に、大佐のご息女を欠かす事は出来ないと考えます。花形女優、真宮寺さくら嬢としてだけでも、さくらさんをお貸し頂けませんか?」
「どうだ、さくら。こいつもどうやら本気のようだ。受けてやっちゃくれねえか」
「一つ条件がございますわ、大佐」

 米田の問いに答えたのは、またしてもさくらではなく美鶴だった。

「たびたび口を差し挟む様で恐縮ではございますが、さくらさんは私どもにとって大切なお嬢さんですので」
「貴女のお立場としては当然でしょう。それで?」
「さくらさんの安全が十分に確保される事、それが条件ですわ」
「……それは当然の事だ」

 何を今更、という目で答えた柳生に向かって、美鶴はまた、あの底知れない眼差しを向けた。

「新兵器のお披露目なのでしょう?
 ただ姿を見せただけ、では終わりませんわよね?
 当然、それなりに性能を披露する事になるのではございません?」
「……仰られる通りだが」
「その様な場で、いつ流れ弾が飛んでこないとも限りませんし、もしかして爆発する事もあるかもしれませんわ。
 先ほどのお言葉では、大佐もそれ程その兵器をご信用なさっていらっしゃらないご様子」
「…う、うむ、それは、そうです」
「ならば、さくらさんの安全が十分確保されるよう、まず新兵器の性能を拝見させて頂いて、お披露目はそれからという順序では如何でしょうか?
 今回はひとまず専門家の方が性能を拝見させていただくだけにして、正規のお披露目はまた後日、という事では…?」

 本来ならば、明後日のデモンストレーションを既定事項として柳生は「出演依頼」に来ている。米田からならともかく、全くの部外者から延期を提案されても、彼の地位からいって一蹴するのが当然だろう。
 だが、柳生大佐にはそれが出来なかった。美鶴の何処までも深く透明な眼差しがそれを許さなかった。

「確かに貴女の仰られることもごもっともです。ですが、そうですな……
 では、性能テストを先行して行う、という事で如何でしょうか?できれば、そう、今日の午後からでも」
「そんな急に準備ができるのか?」

 いきなり示された提案に、米田が至極もっともな疑問を呈示するが、柳生は自信ありげに頷いた。

「大丈夫でしょう。彼らとしては組織の存続が掛かっていますから。むしろ喜び勇んで準備すると思います」
「なるほどな」
「大神中尉には骨を折って貰う事になりますが」
「そうだな…大神!」
「ハッ」

 ここまで全く蚊帳の外だった大神に漸く声が掛かった。
 真の功績が伏せられている彼が式典の人寄せに使われる事は無いだろうから、当然別の任務があるのだろう。
 大神自身もそう考えて一言も口を挿まず控えていたようだ。

「特戦研はお前に従機兵の腕試しの相手をして欲しいそうだ」
「性能を示す為の模擬戦の相手をせよ、という事ですか?」
「そうだ。特戦研の奴らめ、余程自信があるらしい。選りにも選って、お前の操縦する光武・改を指名してきやがった」
「光武・改を人目に晒してよろしいのですか?」
「構わねえさ。霊子甲冑についての知識が無い奴には新型の人型蒸気にしか見えねえし、霊子甲冑について何らかの知識を持っている奴なら光武・改の事は百も承知しているだろうよ」
「ですが、新兵器の性能試験の相手となりますと、逆に光武・改の詳細なデータを採られてしまう恐れがありますが」
「心配するな、大神」

 大神のもっともな懸念に対して、米田は笑って首を振るだけだった。
 その鷹揚な態度の奥に何事を感じ取ったのか、大神はそれ以上反論を重ねなかった。

「大神中尉、貴官には公開式典の場で模擬戦闘の相手を依頼したかったのだが、事前の性能テストという事になればむしろ好都合だ。公式行事ならある程度相手に花を持たせる事も必要だが、テストならば手心を加える必要は無くなる。
 果たして従機兵が特戦研の宣伝する通り、帝都防衛、ひいては国土防衛の一端を委ねられる物なのかどうか、かのフランス陸軍をも一蹴した帝国軍随一の人型蒸気パイロットであり、帝国軍唯一の霊子甲冑パイロットである貴官の手で存分に試してもらいたい」
「遠慮はいらねえぞ、大神。思う存分ぶちのめしちまえ」
「ハッ!」

 大神としては否も応もない。彼は現在帝撃の隊員でこそ無いが、相変わらず米田の部下である立場に変わりはないし、彼以外に適任者がいない事も分かっている。
 また、大切な彼女たちの為に、胡散臭い新兵器の正体を見極めたいという積極的な気持ちもあった。

「長官!」

 大神の任務受諾とほぼ同時に、さくらが発言を求めた。
 支配人、ではなく、長官、と。

「何だ、さくら」
「あたしもそのテストに参加させてください!」
「ああ?」
「女優・真宮寺さくらとしてではなく、帝撃花組隊員・真宮寺さくらとして、従機兵の相手をさせて下さい!
 いくら大神さんでも、お一人では危険です!」
「おいおい、さくら。別に魔操機兵と戦いに行く訳じゃねえんだ。れっきとした、陸軍の性能試験なんだぜ」
「ですが相手は魔操機兵みたいな物なんでしょう!?しかも、特戦研って…」
「さくらさん、大丈夫よ」
「……」

 目の色を変えて米田に食い下がっていたさくらだが、美鶴が優しく断言すると途端に言葉を失ってしまった。

「何が相手でも、一郎さんは大丈夫。何も心配は要らないんですよ」
「……はい」

 美鶴の声には単なる信頼以上の、確信があった。

「もし危険が伴うなら尚のこと。弟もあたしたちも、貴女にそんな事はして欲しくないわ」
「……分かりました」

 美鶴は決して声を荒げたりはしない。だが、優しく諭すその声に込められた意志に、さくらは異を唱える事ができなかった。

「大佐、時間と場所をご指定下さい」
「わ、分かった。一時間待ってくれ。追って連絡する」
「了解しました」

 そして大神の、一切を断ち切るような更に強い意志の込められた声に、全ては決定事項としてこの場の幕が下ろされた。

 

続く

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