彼女が泣いた理由
病室の隅に祐一はいた。ただ、じっと佐祐理の寝息を聞きながら、佐祐理の側で。
既に何時間いたのか、それすらも忘れるくらいに、ずっと付き添っていた。
そんな時、佐祐理は祐一がいるのに気が付いてうっすらと目を開ける。「…あ、起きた?」
数十時間振りに祐一が発した声は、乾燥した喉や、目を覚ました佐祐理に嬉しくて震えていた。
「私は…」
佐祐理は今の自分が置かれている状況を理解し切れずにいた。薄く開いた視界の真ん中には祐一がいた。
「今はゆっくり休んで」
休ませたいと思った。今はただ休ませたいと、それだけを願って。
「祐一さん…」
「うん?」
「…御別れを言いに来てくれたんですか?」佐祐理の言葉に祐一は一瞬驚くと、次には哀しそうな顔を見せる。
「私のことで無理をしないで。それに、私は大丈夫ですよ」
「いや、まだいさせて下さい。それに、俺達結婚するって言ったじゃないですか」悪戯っ子の口調と、言い切れない想いと共に、祐一は佐祐理の言葉に答える。
「あれは…」
佐祐理が言い澱むのと同じに、祐一がそれを遮る。
「良いんですよ。あれで。それとも、俺じゃ役不足かな?」
「そんなことありません。でも、私は…」
「佐祐理さん。良いんだ」優しく言った祐一の言葉で佐祐理は黙る。
時は夕刻。沈もうとする陽を背に、静かになった二人だけの病室に、佐祐理が声を割る。
「舞は?」
言うべきか、迷ったような口調で佐祐理は祐一に、思い出すよりも先に、一番知りたかったことを問う。
「大丈夫ですよ。今は秋子さんの所に行ってます」
なるべく佐祐理を安心させるように、祐一は言う。
「そう、良かった」
病み上がりで、先から少し喋り過ぎたのか、疲れたような表情を佐祐理が見せると、祐一は「ほら、無理しないで」と言って、佐祐理も祐一に笑って見せてから、小さく息を吐ける。
それから暫くの間、祐一も佐祐理も、病室の窓から空を見ていた。そんな時、佐祐理が落ちようとする夕日を見ながら声を出した。「私、もう少しだけ見ていたかったんです。きっと」
「…佐祐理さん?」唐突な佐祐理の言葉に祐一は「何を?」と声をかける。
「私達の、未来ですよ」
火傷をした頬を庇うように、ゆっくりとした仕草で病室の窓から視線を祐一に移すと、クスっと笑ってから佐祐理は言った。
「…私は、もう少しだけ、見ていたかったんです」
懐かしそうに、眼を細めながら。
「未来。私達の、懐かしい、未来」
祐一は、佐祐理を見詰め続ける。
「見ていたかった。三人で、ずっと」
「…うん」佐祐理の言葉が、痛いほどにわかって、祐一も俯いて、同じように答えるしかなかった。二人の想いはいつも同じだったのだから。
「今になって、やっと判ったんです。舞が、祐一さんが、二人が懐かしかった理由。きっと私、この生活が続くと思っていたんです。未来も、過去も同じように。ずっと、ずっと。だから、あんなにも懐かしかったんですね。私達…」
もう終わったのだと、佐祐理はそう思ってか、再び窓の外に顔を向けて懐かしい情景を思い浮かべるように薄く笑う。
「ねぇ、祐一さん?知ってましたか?」
子供が親に秘密を話すかのような、心なし弾んだ声で佐祐理は言った。
「あの日、奇麗だったんですよ。とても…」
「あの時?」
「救急車に乗せられた時のことです、その時に見たんです」祐一を諭すように佐祐理は祐一の方を向く。
「祐一さんの後ろに、広がる空が見えたんです。蒼い空が広がっていて、それで、あの坂の上から、街の明かりが見えて…」
明け方、蒼く染まる空を見たことを、鮮明に記憶したことを佐祐理は覚えていた。
「とても、奇麗な光景でした。本当に奇麗で…、朝は来るものなんだって、初めて判って、嬉しかった」
そして、寂しそうに佐祐理は言う。なくしてしまった大切な宝物を、やっと見つけたような、そんな風に。
「そう、なんだ…。俺も、知らなかったよ」
祐一は自分の声が震えていることに気が付きながら、佐祐理を見詰める。
「長い間、あそこに住んでいたのに、私は気付けませんでした。けど、やっと判りました」
想いの全てを解放するように言う佐祐理に祐一は頷いて、シーツの上に投げ出された佐祐理の右手をそっと触れる。
確かな温もりがあった。生きている感触。佐祐理の全てが。「でも、今気がついたんだから、気が付けたなら、それで良いんだよ。それで、良いんだ」
ふいに嬉しいのか悲しいのかはわからなかったが、頬から熱いモノが込み上げて来るのが自分でもわかる。
祐一は涙を零す。「本当に、奇麗だった…」
佐祐理は一度俯いている祐一を見ると、微笑んでから眠るように目を閉じる。
もう一度、ゆっくりと佐祐理は目を開けると、今までの全てを噛み締めるように唇が結ばれる。「私、生きていて良かった…」
どこか、遠く、誰にも届かない遠くに、思い馳せる様に。そんな彼女の頬に一筋、彼女の瞳から一筋だけ、涙が零れる。
祐一は目を閉じる。同じように祐一も涙を止められず、声を押し殺しながら泣いていた。
必至に零すまいと思っていてもこらえ切れない涙を流し、ベッドの上におかれている佐祐理の手を握り締めながら。
(完)