第壱話 幸せの在る風景

written on 1996/8/18



 トン トン トン トン

 リズミカルな音が、心地良いまどろみを柔らかく引き裂く。

 「ん――……」

 寝ぼけ眼をこすりながら、彼女はベッドから上半身を起こした。

 背を伸ばし、大きく伸びをするそのしなやかな肢体は、まるで猫を思わせ

る。

 軽いあくびを一つ。

 頭がはっきりするにつれ、見慣れた部屋の風景が目に入ってくる。

 バルコニーからは穏やかな朝の日差しが差し込み、真っ白のカーテンが、

清々しい風にはためいている。

 トン トン トン トン

 キッチンから聞こえてくるリズミカルな音。

 いい匂い――――懐かしい匂い……?

 今までとちょっとだけ違う朝に、彼女はハッとして、慌ててシーツを首も

とまでひき上げた。

 滑らかな肌触りが素肌に心地よい。

 彼女は思いだした。

 何故こんな格好でいるのか。

 キッチンから聞こえてくる、懐かしささえ覚える包丁の音の持ち主が、い

ったい誰なのかを。

 まだ鮮明に残っている昨夜の記憶に、彼女は首筋までピンク色に染めなが

らも、口元が緩んでしまうのを止められなかった。

 彼女はそのまま、もう一度だけごろりと横になった。

 部屋の広さに似つかわしくない大きなベッドに二人分の匂いを感じて、彼

女はこの上ない幸せを実感していた。

 トン トン トン トン

 リズミカルな音はまだ続いている。

 昨夜の余韻に浸っていた彼女は、しばらくして再び身体を起こす。

 そして、あたりをくるっと見渡して、サイドボードの上に自分のパジャマ

を見つけると、苦笑いとも照れ笑いともつかぬ微妙な表情を浮かべた。

 ピンクと青と白のストライプの入ったそのパジャマは、綺麗に折り畳まれ

ていた。

 彼女はちらっとキッチンの方を一瞥すると、パジャマを手に取って素早く

袖を通した。

 そして簡単に髪をとかすと、足音を忍ばせてキッチンに滑り込んだ。


 狭いながらも機能的に作られたキッチン。

 過不足無く用意されている様々な調理用具。

 新鮮な野菜が無造作にまな板に並べられ、電磁コンロにかけられた小鍋の

中では新鮮な卵がゆらゆらと踊っている。

 ハムとチーズは、既にお皿の上に行儀良く座っている。

 誰に見せることもなく、昔より一段と上達した腕をふるうシンジの姿が、

そこにあった。

 「うわああ!」

 塩の入った瓶に手を伸ばそうとしていたシンジは、突然後ろから抱きすく

められて驚きの声を上げた。

 「お・は・よ。シンジ」

 アスカの声。

 背中に密着する感触。

 か〜っと、顔が熱くなるのを感じながら、シンジが返した返事は、可愛い

くらいにかすれていた。

 「お、おはよう、アスカ」

 照れくささを隠すためか、シンジは矢継ぎ早に言葉を続ける。

 「も、もうちょっとで朝食できるから待っててね。

  お風呂沸かしといたから、その間に入っておくといいよ」

 

 「はーい」

 アスカは抱きついたまま、頬をすり寄せて答える。

 アスカの感触、アスカの匂い、アスカの唇……

 けれど、振り返ろうとしたシンジの頭は、アスカの手によって素早く押さ

えつけられた。

 

 「さすがのあたしでも、起き抜けの顔には自信ないの」

 

 ちょっと照れたように言うと、アスカは軽い足取りで浴室に向かった。

 ぺたぺたと素足で歩いていくアスカの後ろ姿を見送ると、シンジはぼそっ

と呟く。

 「起きる前にずっと眺めてたコト、言わない方がいいかな……」

 そして、再び朝食づくりに取りかかる。

 7年前と彼女の好みが変わってないといいんだけど――――

 シンジは誰かのために料理を作ることの喜びを感じながら、手際よく調理

を進めていく。

 香ばしい匂いが充満するキッチン。

 だが、満足そうな笑みを浮かべるシンジを、突然の叫び声が邪魔する。

 「あっつう――っい!!」

 シンジは反射的に浴室に駆け出した。慌てて言い訳を考えながら。

 浴室のドアの前にシンジが辿り着くのを待っていたかのように、アスカが

ドアを開けてぴょこんと顔を出した。

 「なーんてね。なんかあの頃が懐かしくなっちゃってさ」

 ぺろっと舌を出して謝るアスカに、不平の声を上げるシンジ。

 「なんだよ、もぉ」

 シンジはあきれたような顔をしつつも、身体に巻いたバスローブから覗く

アスカの白い肌に、思わず目が吸い寄せられてしまう。

 その視線に気付いたアスカが悪戯っぽく微笑んだ。

 

 「……一緒に、入る?」

 

 ぼんっと音が聞こえるかのように顔を赤くするシンジを、楽しそうに見つ

めるアスカ。

 その視線は、とても暖かく、心からの幸せを感じさせるものだった。

 

 

         初めての出会いから7年目の春。

       再び彼らは、同じ屋根の下で暮らし始めた。




<第弐話へ続く>



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