第拾話 「夏の海へ」

written on 1997/3/9





「……はい。わかりました」

 ピッ

 通話を切断する電子音が、バックに流れる20世紀末に流行ったポップミ
ュージックのリズムに溶け込む。

 アスカはぎゅっと受話器を握りしめると、力無くベッドに座り込んだ。

 ママ……

 シンジ……

 ごめん。

 いかなきゃ、あたし。

 ごめんね、シンジ……

        *        *        *

 8月23日。晴れ。
 雲一つない天気と、海の匂い。
 そして久しぶりの顔がシンジとアスカを迎えた。

 旧千葉県東岸にある政府保有の人工の浜辺。
 その中でも世界再建委員会が管理する別荘群に、二人は連れだって来てい
た。

 『彼女』が旅立った場所。

 想い出が封じ込められているその家は、現在青葉・伊吹夫妻の別荘になっ
ている。
 今年はシンジとアスカが一緒にこの地を訪れると聞き、青葉も伊吹もほっ
と胸をなで下ろしていた。
 今となっては元チルドレンに一番近い存在である二人。
 奇しくも、その過去と現在を見守ることになった二人。

 シンジとアスカが入れ替わりに訪れた去年の重苦しい沈黙は、つらい過去
を経験してきた大人にも耐え難いものだった。

 あれから2年。

 まだ心に残した傷は深く、その痛みを忘れるには短い時間。

 だからこそ、今年、二人が一緒に訪れたというこの事実は、青葉と伊吹の
心を軽くしてくれていた。

「お久しぶりです、青葉さん、マヤさん」

「マヤっ、元気してた? 青葉さんも相変わらずヒマそうね〜」

「おいおい。いきなりヒマとはご挨拶だなぁ。こう見えても、最近は売れっ
子のスタジオミュージシャンなんだぜ」

 そう言って、滑らかに指を動かしてみせる青葉を見て、シンジとアスカは
笑う。

 その様子を微笑ましく眺めていたマヤが、ぽんっと軽く手を叩いた。

「着いたばかりで悪いんだけど、さっそく買い出しに出かけるわよ。
 アスカと私は料理の材料を仕入れに行くから、あなたとシンジ君は部屋の
掃除を頼むわね」

「は〜い」

 と、シンジに荷物を預けるアスカ。

「へいへいっ」

 これは青葉。
 アスカの荷物を抱えているシンジに苦笑いを見せると、ともに別荘の中へ
と姿を消す。

 そして、マヤとアスカはその姿を見送ると、駐車場へ向かって歩き始めた。
 道すがら、アスカがマヤに声をかける。

「ふ〜ん。あ・な・た、か。
 マヤも人前でそんな風に呼べるようになったのね」

「な、何言ってるのよ、もう。からかわないでっ」

 顔を真っ赤にするマヤは、あいかわらず可愛い――――なんてことを、ア
スカは思う。

「子供のこと、どう言ってた?」

「え……。あ……うん……」

 心なしかマヤの声が小さくなった。
 アスカが心配そうにマヤの顔をのぞき込む。

「『やっとその気になってくれたか!』だって……」

 良くない答えを想像していたアスカは、思わず気の抜けた笑い声をたてて
しまった。

「心配して損しちゃったじゃない! ったく。で、仕事はどうすんの?」

「MAGI−S2の稼働が予想以上に順調だから、ずいぶん楽になったの。
 それに、議長が優秀な子を何人か引っ張ってきてくれたから」

 マヤの幸せそうな表情を見て、アスカは不思議な感情を覚えていた。
 嫉妬、羨望、祝福、安らぎ。
 そのどれもがないまぜになった複雑な気持ち。

「そっか……。よかったわね」

 二人の女は、それぞれの思いを抱え、車に乗り込んだ。

(子供……か……)

        *        *        *

 その日の夕食は、マヤ、シンジ、アスカと、準プロ級の腕前を持つシェフ
の調理により、非常に豪華かつ、美味しい料理が並べられた。

 突然始まる青葉の音楽蘊蓄講座。
 いまだにぬいぐるみに凝り続ける少女趣味マヤ。
 シンジをからかうことにかけては天下一品のアスカ。
 そして期待通りの純朴な反応を見せるシンジ。

 久しぶりに4人の顔が揃い、食事は明るい話題で盛り上がった。
 そして、笑い声の絶えぬ食事が終わりに近づく頃。
 デザートの西瓜を食べながら、青葉が口を開いた。

「ところで君たちの監視についてなんだが、ようやくランクCに解除されそ
うだよ」

「ランクCってコトは、専門技術者クラスかぁ……」

 アスカは小さく呟くと、ぱくっと真っ赤に熟れた西瓜を飲み込んだ。

「まっ、これでようやくプライバシーまで監視されることはなくなったわけ
ね。ほ〜んと、長かったわー」

 自分のせいではないのに、マヤが申し訳なさそうな表情を見せる。

「ところで、フリーにはいつ頃なれそう?」

「そいつは……」

 青葉とマヤが顔を見合わせた。

「ちょっとわからないな。冬月さんのゴリ押しもここらが限界だ。まだまだ
ネルフに反感を持ってるヤツが多くてね」

「まったく! ネルフ以外の組織が何の役に立ったって言うのよ!」

「しょうがないさ。人権より権益が大事な連中だからな」

 さらにアスカが文句を続けようとしたとき、

「今日はそんな話、やめましょうよ」

 それまで沈黙していたシンジが口を開いた。
 強い口調に、一瞬沈黙が訪れる。

「……わりぃ。色んなこと、思いだしちまうもんな」

「シンジ…………」

 そして、夜は更ける。

        *        *        *

 特別な日といっても、とりたてて何かをやるわけでもなかった。
 ただ、この日に、ここに集まることが、彼女が生きていたことを確認する
行為であること。
 彼ら以外に、彼女が生きていた――――この世に存在していた事実を知る
者は少ない。

 だから、なのか。

 彼らはずっとこの日に集まり続けるだろう。


 生暖かい湿った風。

 キシィ

 廊下の床が軋む音。

 カタン

 そして微かに聞こえるドアの開く音。

 アスカは薄手のタオルケットをはぎ取ると、ベッドからそっと抜け出した。
 足音を忍ばせて、海の見えるエントランスルームの窓へ向かう。

 月の光にうっすらと照らし出された浜辺に、シンジはいた。
 波の打ち寄せる浜辺。
 強い風がシンジの髪を、服を、はためかせている。

 ポケットに手を突っ込んで、海の向こうをじっと見つめているその姿は、
どこか寂しげだった。

 少しだけ背中を丸めている。

 そんなシンジの様子を遠くに眺めながら、アスカはふと思い出した。
 何度もヒカリに相談したあの頃のことを。

   「あいつの心の中には、まだあの娘がいるのよ……」
 
   「あら、それはアスカも同じじゃないの?」
 
    ヒカリの何気ない言葉に、あたしは言葉を失った。

   「アスカが彼女のことを気にしすぎているから、碇君も壁をこえられ
    ないんじゃない?」

    シンジがあの娘のことを想うのと同じくらい、あたしもあの娘が好
    きだった。

    だから、あの娘がいなくなったから、

    逃げていたのかもしれない。

    そっか……

    そうなんだ……

    あの娘は、あたしたちの絆ではあっても、鎖なんかじゃないんだ。

    あまりにも簡単に出た答え。

    あたしはヒカリに感謝した。

 ――――なのに。

 何十回も繰り返し出した答え。

 ――――のはずなのに。

 砂浜に一人たたずむシンジを見ていると、ぎゅうっと、胸が締め付けられ
る。

 その時、背後から小さく語りかけてくる声があった。

「どうするの?」

 肩に置かれたマヤの手にそっと触れて、アスカは無言で外に出た。


        *        *        *

 月夜。

 波の音と、風の音だけが響きわたる。

 人の気配を感じて、シンジは振り向かずに口を開いた。

「アスカ?」

「…………」

 答えはなかった。

 沈黙は二人の距離を表しているのか。

「こんな夜だった……綾波と一緒に星を見たのは」

 かまわずシンジは静かに語り出す。

「綾波って、思ったより軽かったんだ」

「いい匂いがした」

「綾波の匂いが――――」

 呟きは風に乗り、アスカの耳へ、そして星の彼方へ消えていく。

「でも、もう忘れちゃった」

 奇妙に明るい声を発して、シンジは肩を震わせた。

「綾波の顔がもうはっきりと思い出せないんだ。
 声も。仕草も。ひんやりとした手の感触も。
 あの時は絶対に忘れないと誓ったのに……」

 打ち寄せる波がシンジの足を濡らす。

「……僕が今悲しいのは、綾波がいないからじゃなくて、綾波のことを忘れ
かけてる自分に対してかもしれないって、最近感じるんだ」

「ホント、自分勝手だよね」

 アスカはシンジにかける言葉を見つけられなかった。
 ただ、じっと、背中に視線を注ぐ。

「どうしてだかわかる?」

 不意にシンジが問いかけた。

「?」

 一瞬、なんのことを問われたのか理解できず、アスカは戸惑った。

「アスカが側にいてくれたからだよ」

「え?」

「アスカと一緒にいると、綾波のこと、忘れてしまいそうになるんだ」

「な……に、言ってるのよ……」

 振り向いたシンジの頬には涙が光っていた。

 一歩、また一歩。

 ゆっくりと近づいてくるシンジに対して、アスカはすくんだように動けな
い。

 アスカの目の前で立ち止まったシンジは、そっと彼女の頭に手を回し、自
分の顔を栗色の髪の中に埋める。

「アスカの、せいだからね」

 シンジが囁いた言葉は、アスカの心を痺れさせる――――

        *        *        *

 そして二人は手を繋いで砂浜を歩き始めた。

 何かを確かめるように、ゆっくりと、静かに足跡を残していく。

「綾波には……もっと、もっと生きて欲しかった」

 シンジの言葉は続く。

「せっかく自由になれたのに……」

「ね、アスカ」

「――――ん?」

「綾波は、幸せだったのかな」

「……たぶんね」

「あんたみたいなバカに出会えたから」

「……だといいんだけど」

 そう言って、寂しげに笑うシンジの表情は、アスカの心に痛みをもたらす。

「もし……」

 ――――まだあの娘が生きていたら、あたしを選んでくれた?

 口にしてはならない言葉。

 絶対に口にしないと誓った言葉。

「なに?」

「……ううん。なんでもない」

 アスカは口を閉ざした。

 シンジも何も聞かない。

 また一つ、流れ星が夜空を駆け抜けた。

        *        *        *

 帰りの電車の中。

 シンジの肩により掛かって眠るアスカの側で。

 シンジは呟く。

「ねえ、アスカ」

「もし……」

(綾波が生きていても、アスカは僕の想いに応えてくれた?)

 シンジは口を閉ざした。

 アスカは眠り続ける。

 口にしなくても信じられる強い心。

 それが今の二人にはあったから。

        *        *        *

 だが、第3新東京市のホームに降り立ったアスカが告げた言葉は、シンジ
に衝撃を与えた。

「ごめん、シンジ」

「あたし、来週からドイツに帰るの――――」



                           <第拾壱話に続く>




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