第拾参話 「心の風に揺られて」

written on 1997/4/29


 

 

「え――――――――――――ッ!!」

 

 雨佳(アマヨ)の甲高い声が窓を震わせた。

 いくつか羽ばたきの音があがったところをみると、それは外の闇の中で静

まり返っている木々の間にまで響きわたったに違いない。

 ここは街から遠く離れた一軒家。

 日本では数少ない、手作りの楽器を製造することで営みを立てている千條

(センジョウ)家である。

 

 

「そんな、おじいちゃん! 勝手に決めないでよ!! わたしは反対だから

ねッ。そんな見ず知らずの人と一緒に住めるわけないじゃない」

 

「だから昔からの友達の教え子だといっとるだろう。今時の若者にはめずら

しく、しっかりした………」

 

「そんな問題じゃな―――い!!」

 

 達明(タツアキ)の言葉を大声で遮ると、雨佳は、チラリと、向かいに座

っている妹に目をやった。

 

 ズズズ………

 

 己月(イツキ)はまるで二人の論争が耳に入ってないように、スープを口

に運んでいる。

 それを見て、さらに雨佳の神経はいらだった。

 

「あー、やだやだやだやだやだ! ここは、わたしとおじいちゃんの家なの

よ! また知らない人が来るの、耐えられない!」

 

「なに、たった一ヶ月のことだ」

 

「1日でも、1時間でも、1分でも、1秒でもイヤ! イヤイヤイヤ!!」

 

 しばらく雨佳のわめき声は止むことがなかった。

 達明はほとほと困ったような表情を浮かべたものの、目をつぶって聞かな

いふりをしていた。

 押さえ込もうとすればするほど反発されるのは、これまでの経験からわか

っていたからだ。

 

 すると、ピタと、雨佳の声が止んだ。

 今度はどすんどすんと足音を立てて電話機に駆け寄る。

 受話器をあげて短縮のボタンを押し、それから30秒後。

 

「おかーさん!? あのね、今おじいちゃんから聞いたんだけど、また誰か

この家に来るんだって?」

 

「そんなの聞いて………」

 

「え、あ、待って! 待ってってば!!」

 

 無情にも雨佳の電話は1分も経たずに切られてしまった。

 雨佳の両親はバイオ作物の研究者として外国に長期出張中なのだ。

 ちなみに彼らが滞在している場所はインドのデカン高原。

 現地の時間で言えば今は早朝の3時である。

 一方的に電話を切られても仕方がない時間だろう。

 

「………」

 

 雨佳は受話器を持ったまましばらく手を震わせていたが、

 チラリ―――いや、ギロリと達明を睨み付けると、再び大きな足音を立て

て2階の自分の部屋へ去っていった。

 

「はぁ………」

 

 達明は雨佳が廊下に消えたのを確認すると電話機を一瞥して、溜息をつい

た。

 また電話機の通話ランプがつくのは時間の問題だろう。

 彼女の一番の親友である香奈との長電話が始まるのだ。

 

 己月はいつの間にか姿を消していた。

 綺麗に食事を終え、食器も流しに片づけてあった。

 彼女が何も言わないのはいつものことである。

 

「はぁ………」

 

 達明はもう一度溜息をつくと、ゆっくりと腰を上げ、食事の後かたづけに

とりかかった。

 

 

        *        *        *

 

 

 第3新東京市。夕刻。

 

 部活の帰りに二人が立ち寄ったのは、大通りから一本はずれたところにあ

る小さな喫茶店だった。

 もちろん連れてきたのは優梨の方で、ここのディナーは美味しいからと、

シンジを外食に誘ったのである。

 ここのところずっと自炊が続いていたシンジも、いい気晴らしになると思

い喜んでその誘いにのったのだ。

 

 

「へぇ。碇君、バイトで長野に行くんだ」

 

「うん。教授のツテでいいバイト先が見つかったから……」

 

 シンジは器用にさばいた焼き魚を一口、クチに放り込んだ。

 

 ごくん

 

「―――しばらく部活は休ませてもらうことになるけどね」

 

「うん。いいんじゃない。部活が第一って柄じゃないでしょ、碇君は」

 

「そう?」

 

 曖昧な笑みを浮かべるシンジの顔を見つめながら、優梨は旅立つ前にアス

カが残していった言葉を思い出していた。

 

 

『遠慮なんかしないでね。あたし、そーゆーの大ッキライだから。優梨がし

たいと思ったことをすればいいのよ』

 ぼかした言い方ではあったが、優梨の気持ちはとっくに気づかれていたに

違いなかった。

 

 普通なら『あたしが留守の間にあいつが浮気しないように見張っててね』

と牽制の一つも送るところなのに、そうしないところは本当に彼女らしい。

 優梨は、突然そんなことを言われて驚くより先に、感心してしまったのを

まるで昨日のことのように感じていた。

 

 アスカの行動―――言葉一つとっても、それはこれまで付き合ってきた友

人にはない新鮮さを優梨にもたらしていた。

 

 

 率直さ ――― 自分の気持ちに対しての

 

 勇気  ――― 傷つくこと、傷つけることへの

 

 自信  ――― 自分が自分であることの

 

 

 ―――わたし、アスカに出会って少し変わったのかもしれない。

 

 

 あれからずっと考えて。

 

 自分の気持ち。

 

 アスカの気持ち。

 

 碇君の気持ちは―――怖かったから、考えなかった。

 

 でも、いいの。

 

 わかったの。

 

 わたしはそんな女だってことが。

 

 

 これから口に出す言葉は嘘だけど、心に嘘はついてない。

 

 

「あのね、わたしもこの休みに旅行で信州の方に行くんだけど、もし都合が

ついたらちょっと案内してくれる?」

 

 都合は絶対につくはずだった。

 なぜなら優梨は返事を聞いてから計画を立てるつもりだったからだ。

 

「え? 柿崎さんも長野の方に来るんだ。まだ詳しいことはわからないんだ

けど、毎日ずっとバイトしてるわけじゃないからたぶん大丈夫だと思うよ」

 

 そう言って、楽しみだなぁと、笑うシンジの屈託のない笑顔は、優梨の胸

をチクリと刺した。

 

 だが、その痛みは、頭の奥に痺れるようで。

 

 どこか、心地良かった。

 

 

        *        *        *

 

 

 シンジは第3新東京市と第2新東京市を結ぶリニアエキスプレスに揺られ

ながら、昔アスカにどうして続けていたのか尋ねられた時のことを思い出し

ていた。

 

『誰もやめろって言わなかったから………』

 

 でも、誰も続けろとも言わなかった。

 

 それなのに続けていたのは何故だろう。

 

 チェロを弾いているときだけは、自分のことも、他人のことも、何もかも

を忘れて没頭できた。

 

 嫌なことを忘れられた。

 

 それが理由?

 

 上手く弾けると先生に褒められたから。

 

 それも理由?

 

 

 でも、それだけじゃない。

 

 もっと違う何かがあった。

 

 何か………

 

 とても嬉しかったことが………

 

 

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、シンジを乗せたリニアは新長

野駅に到着した。

 時刻は午前13時28分。定刻通りである。

 この時代においても日本の鉄道は運転時刻の正確さに定評があるようだ。

 

 大きなリュックとボストンバック。

 シンジは1ヶ月分の生活道具を抱えると、ホームへ降り立った。

 さすがに第3新東京市に較べると気候は涼しい。

 

 1ヶ月という長い期間を第3新東京市から離れるのはこれが初めてだった

こともあり、シンジは少しだけ胸を躍らせながら、一歩改札口の方へ歩み出

そうとした、その瞬間。

 突然、胸のポケットに入れておいた携帯電話が鳴りだした。

 シンジは慌てて荷物を置いて電話機を取り出す。

 

「はーい、シンジ! もう長野に着いた?」

 

「ア、アスカァ!?」

 

 思いもかけぬ電話の声に、シンジは素っ頓狂な声を上げた。

 そして慌てて腕時計を見る。

 時差表示はいつもドイツにあわせてあったが、どう見ても向こうは午前5

時頃のはずである。

 意外と低血圧であるアスカが起きている時間では、間違っても、ない。

 何かあったのかと、思わずうろたえてシンジは聞き直した。

 

「どうしたの、こんな時間に?」

 

「うーん、慣れないところに来てシンジがおたおたしてないか心配になっち

ゃって」

 

 少しだけ眠そうな声だった。

 もしかして―――わざわざ早起きをして?

 

「な、なんだよ、もぉ………子供じゃないんだから」

 

 シンジはほっとしながらも、妙にうわずった声になることを止められなか

った。

 

「実はね。最近忙しくてメールも出せてなかったから、ちょっと寂しくなっ

ちゃってさ」

 アスカの囁くような声が、シンジの頭に血を上らせる。

 

「声が聞きたくなったの」

 

 トドメの一撃。

 シンジの頭はオーバーフローを起こしかけていた。

 

「―――迷惑だった?」

 

「そんなことない!」

 

 携帯電話を強く握りしめて、ぶんぶんと強く頭を振るシンジを見て、隣を

通り過ぎていった子供達が笑った。

 慌ててシンジはホームの柱の影に移動する。

 

「ねぇ、シンジ。前から聞きたかったんだけど………」

 

 アスカの甘い声が続く。

 

「そのバイトって、もしかして、ちょっとはあたしのため?」

 

 ごくん

 

 つばを飲み込んだ後で、シンジは思い切って言った。

 

「………うん」

 

「………」

 

 電話の向こうは無言だった。

 こんな時顔が見られればどんなにいいかと思いながらも、シンジは言葉を

続けた。

 

「この調子で貯められれば冬にはそっちに行けると思うよ」

 

「………そっか」

 

「ん? どうしたの?」

 

「早く………会いたいな」

 

 しんみりとした口調にまた脈拍が上がったが、まさかアスカからそんな言

葉が聞けるとは想像もしていなかったシンジ。

 

「へぇ―――っ。アスカでも寂しくなることってあるんだね」

 

 照れ隠しに茶化したつもりが、あまりにもタイミングが悪すぎた。

 低血圧をおしてまで、わざわざ朝早くに起きて電話をかけてきてくれた恋

人に対して言う言葉ではなかった。

 

「ば、ばかッ!!」

 

 アスカの怒鳴り声とともに、ぷつりと通話が途切れた。

 おそらく勢いでの行為であろうが、シンジは背中には冷たい汗が流れるの

を感じていた。

 電話口でアスカの怒りを鎮めるのは、非常に困難を極めることを経験が物

語っていたからだ。

 

 

 この後シンジが慌てふためいて電話をかけ直し、アスカのご機嫌をとるの

に一苦労したことは言うまでもない。

 

 人気の多いホームの片隅で恥ずかしい言葉を囁かされるシンジの姿は、哀

れ―――いや、幸せな気持ちを誘う光景であった。

 

 

 2020年。

 秋の匂いはしだいに深まっていた。

 

 

                          <拾四話に続く>



 さて、いよいよ長野の人たちも少しずつ明らかになって、優梨ちゃんも動

き出し、そろそろ本番突入ってところでしょうか。

 もはや半分オリジナルの世界に足を突っ込んでるのが、なんとも申し訳な

いのですが、その分なるべく面白くできたら、と思っております。

 どうか今後もお付き合い下さると嬉しいです。



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