第拾四話 「温かい手と、欠けた世界」

written on 1997/6/1


 

 

 闇の中で梟が鳴いた。

 もう10月が始まろうとする長野の山奥は、確かに梟が出てきてもおかし

くないほどに寒かった。

 

 その梟の見つめる先に一軒家がある。

 街から走ってくる路線バスの折り返し地点からさらに歩いて15分。

 あたり数百メートルに他の家の姿はなかった。

 舗装されたのもまだ数年前という道路には、もちろん街灯もない。

 その闇の中、いつものように明るさを放つ窓が一つ。

 カーテンの隙間から覗くベッドには、一人の少女が寝転がって電話を続け

ている姿があった。

 

 

「それでさ、今日その人が来るらしいのよ。ったく、何考えてるのかしら、

おじいちゃんったら」

 

 雨佳は憤懣やるかたなしといった表情で、一方的に香奈に対してしゃべっ

ていた。もちろん話題は、ここのところずっと同じである。

 

「え? んー、参大の学生らしいんだけど、おじいちゃんの友達の教え子だ

って言ってた」

 

 香奈にからかわれたのか、急に声のトーンがあがる。

 

「ばッ、なに言ってるのよ。大学生なんてもうおじさんじゃない。そんな男

と一緒に住んだって嬉しくなんかないわよ」

 

 さらに雨佳が言葉を続けようとして息を呑んだ瞬間、階下から玄関のチャ

イムが聞こえてきた。

 

「あ、今着いたみたい。また後から電話するから、すぐ出てよね」

 

 雨佳は電話機を手にしたまま、ベッドからぴょんと飛び起きた。

 下から達明が雨佳を呼ぶ声が飛んでくる。

 

「うん。うん。それじゃ、ね。ばいばーい」

 

 雨佳は電話を切ると、達明に大きく返事をした。

 そしてすぐに部屋を出ていこうとドアを開けたが、いったん机の前まで戻

り引き出しから手鏡を取り出した。

 様々に角度を変えながら、髪を丁寧になでつけていく。

 肩のあたりで切り揃えられた艶の良い黒髪。

 雨佳は密かにこの髪を自慢に思っていた。

 

 再び達明の呼ぶ声が聞こえた。

 

「今いくー!」

 

 大声で答えると、雨佳は小走りで部屋を飛び出した。

 軽い足取りで階段を駆け下りる。

 下りた先はすぐに玄関になっているので、雨佳の目にもすぐに来客者の姿

と、それを迎える達明の背中が見えた。

 雨佳が最後の一段に足を降ろしたとき、達明に頭を下げて挨拶をしていた

来客者が顔を上げた。

 

 

(あ………)

 

 雨佳の動きが一瞬止まった。

 

 来客者が軽く会釈をしてきたので、慌てて雨佳も頭を下げる。

 

「は、はじめまして。雨佳です」

 

 床を見つめながら、雨佳は胸の鼓動が早くなるのを感じていた。

 

(………悪くないじゃない)

 

 来客者は碇シンジと名乗った。

 背が高く、引き締まった体つきは、程良く日に焼けており、健康的な印象

を雨佳に与えた。

 そして微笑みを浮かべた優しい表情。

 陸上をやっていると聞いて予想していた無骨なイメージからはほど遠く、

『繊細』という言葉が似合う容貌であった。

 

「雨佳ちゃん、これからしばらくお世話になるけど、よろしくね」

 

 そして差し出された手が、一呼吸遅れて続いた雨佳の手を包んだ。

 ほっそりとした芸術家風の長い指。

 

 温かい、大きな、手。

 

 雨佳の第一印象はこれで決まった。

 

 

        *        *        *

 

 

「夕食は?」

 

「え、あ、はい。下の街で食べてきたので大丈夫です」

 

 リビングのソファーにどっかりと腰を下ろした達明が、シンジにも座るよ

う促した。

 

「ここまで来るのは大変だったろう」

 

「そう………ですね。新長野駅からこんなにかかるとは、ちょっと思っても

いませんでした」

 

「この辺はバスの便が悪いからな」

 

 そう言って軽く笑った達明を見て、シンジは内心少しほっとしていた。

 第一印象はとっつきにくそうに見える表情が、笑うと急に柔和になったか

らだ。

 少なくとも自分から壁を作るような人じゃない。

 シンジも達明に合わせて少しだけ微笑んだ。

 

「何も無いところで吃驚せんかったか?」

 

「いえ。小さい頃は僕もこんな雰囲気のところで暮らしてましたから。逆に

懐かしい感じがしました」

 

「そうか。それはよかった」

 

 二、三度満足そうに頷くと、達明はふと宙を見据えた。

 

「ところで、孫たちとは上手くやっていけそうかね。と言っても、まだ挨拶

くらいしかしとらんがな」

 

 シンジは膝の前で手を組み替えた。

 ちょうど気にかかっていた話題だった。

 

「二人とも可愛いお孫さんですね」

 

 とりあえずシンジは軽く答えてみたが、雨佳が去った後に現れた妹が全く

似てなかったことが、実はずっと気にかかっていた。

 

 己月と紹介された下の娘の方は、明らかに外人―――それも白人の血が混

じっていることはシンジにも一目でわかった。

 日本人にしてはかなり薄い肌の色、漆黒の瞳、くすんだような茶色の髪。

 アンバランスな遺伝が、ややもすると彼女を幻想的に見せた。

 

 それに較べて姉の雨佳の方は、純粋に日本人の容貌を保っていた。

 濡れたような黒髪と、勝ち気そうな瞳がシンジの印象に強く残っている。

 

 シンジは思い切って尋ねてみることにした。

 

「あの、失礼なことをお尋ねするかもしれませんが、あの二人は………」

 

 シンジが最後まで言う前に、達明が頷いた。

 

「ああ。あれの親たちは別なんだよ。どちらも娘達の子供ではあるがね」

 

 達明の言葉にシンジは納得の表情を浮かべた。

 

「雨佳は長女の一人娘なんだが、両親が今海外に出張に行っておるので、し

ばらく預かっとるんだ。それから己月は………」

 

 顎を軽くこすると、達明は言葉を続けた。

 

「あれの両親はアメリカで事故に遭ってな。己月一人だけ無事に助かったの

だが………」

 

 軽い気持ちで質問したシンジは、思わず居ずまいを正してしまう。

 

「確かに母親は私の次女だが、父親はどこの馬の骨ともしれぬアメリカ人で

な。私が結婚に強く反対して、勘当同然にアメリカへ飛び出して行きおった

のだ。そして事故に巻き込まれてしまって………」

 

 達明は淡々と言葉を続ける。

 感情を抑えているようにシンジは感じた。

 

「実を言うと、私も己月とは、この家に引き取ることになるまで一度も会っ

たことがなかったのだよ。おかげでどう接していいのかわからん」

 

 達明は苦笑し、そして僅かに眉をひそめた。

 

「それに………」

 

「それに?」

 

「本当は日本語も英語もしゃべれたようなんだが、事故のショックで日本語

だけは一切口に出せなくなったらしくてな。何でも衝撃性難読症とかいう症

状らしいのだが」

 

 確かに、挨拶をした時もただ頭を下げるだけで、なんだか無口な子だなと

感じたことをシンジは思い出した。

 

「こちらのしゃべる日本語は理解してくれるのだが、こっちは英語なんぞし

ゃべれないものでな」

 

 達明が大きく溜息をついた。

 

「それもあって学校でいじめにもおうとるらしいんだが………。雨佳もはっ

きりした性格の子なので、なかなか己月ともうまくいかずに困ってるのだよ」

 

 時計の鐘が鳴った。

 シンジがちらりと視線を投げると、アナログな柱時計の短針が10を指し

ていた。

 再び視線を達明に戻す。

 

「すいません。悪いこと聞いてしまって………」

 

「気にせんでくれ。話しておかなくてはならんことだしな。まあ、己月もあ

あ見えて中身はしっかりした子なので、君もあまり気にせず付き合ってくれ

ると助かるよ」

 

「はい」

 

 はっきりとした口調で、シンジは応えた。

 

 

        *        *        *

 

 

 それからしばらく、この家での生活について説明を受けた後、シンジは自

由に使っていいと案内された部屋に上がった。

 二階の奥まった所にある部屋で、ちょうど雨佳の部屋の反対側にあたる。

 質素な内装ではあったが、少なくとも第3新東京市の安アパートよりは快

適に暮らせそうだった。

 

 何よりも、天窓から美しい夜空が見えることに、シンジは感激した。

 

 

(雨佳ちゃんに、己月ちゃん………か)

 

 シンジは荷物を広げながら、先程の話を思い返していた。

 年齢的には、ちょうどアスカと一緒に暮らし始めた年頃なので、なんとな

く扱いがわかるような気がして不安は少なかった。

 

 それよりも、己月の両親が事故で亡くなったという事実が、シンジに中学

時代の記憶を思い起こさせていた。

 中学2年を一緒に過ごした友人は、みんなそんな人たちばかりだった。

 必ずと言っていいほど母親を亡くしており、そればかりか家族全員と死別

した友人も少なくなかった。

 

 その頃の自分には分からなかった、彼らの本質。

 

 世界に対する諦めの中に見え隠れする逞しさ。

 

 頼れる人が、守ってくれる人が、少し欠けている世界を生き抜くための

力強さ。

 

 そうか………

 

 どこか大人びた感じがする子だなって思ったのは、そのせいだったんだ。

 

 

 そんなことを考えながら、シンジは手際よく個人用の端末をセットしてい

く。

 回線は既に1ヶ月の予定で契約を済ませていたので、すぐにでも利用でき

る状態になっているはずだ。

 端末を立ち上げると、さっそくアスカに送るメールを書き始める。

 今日の出来事を綴り、向こうの様子を尋ねる。

 

 ほとんど毎日のように、こうやってメールを交わしているので、お互い相

手が今何をやっているのか、何を考えているのか、手に取るようにわかって

いた。

 特に、文章にすることで頭の中が整理され、ただ電話でつらつらとしゃべ

っているのとは違った充足感、満足感というものが得られるこのやりとりを

シンジは気に入っていた。

 それは多忙なアスカにとっても同じであった。

 

 

 しばらくして、書き終えたメールを送信すると、シンジは椅子から立ち上

がった。

 そして部屋の中央で大きく伸びをした途端、今日一日の疲れがぐっとのし

かかってきたのか、急に瞼が重くなってきた。

 

「あふぁ………」

 

 

 初めての土地。

 

 

 初めての部屋。

 

 

 初めてのベッド。

 

 

 旅の疲れもあってか、パジャマに着替えたシンジはすぐに深い眠りについ

た。

 

 

                          <拾五話に続く>



 まさに「導入」って感じの回でした

 しばらくはシンジとアスカの絡みもほとんど出てこないので、オリジナル

色が濃い内容になりそうです

 第二部はほとんどこんな調子なので、アスカ×シンジのベタベタが好きな

人は、第三部を乞うご期待!(って、気がはえーよ(-_-;))



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