第拾六話 「終わらない過去」

written on 1997/8/2


 

 

 ジェイナ・ミッタイスは、先ほどから同じお店の周りをぐるぐると回って

いた。

 何の変哲もない町外れにある小さな食料品店。

 最近ずっと会っていなかったが、店の主人とは顔なじみである。

 特に親しいというわけではない。

 それは必要にかられてのことであった。

 

 この時代のドイツでアルコール類を購入するには、IDカードが必要であ

り、非合法で入手できるお店は数少なかったのだ。

 

 

 義理の娘である、『惣流・アスカ・ラングレー』が日本から帰って来て、

もう一ヶ月以上が経つ。

 

『たっだいまー』

 

 彼女の第一声は、まるでこの家にずっと住んでいたかのような気軽な挨拶

であった。

 呆然としているジェイナを余所に、彼女は荷物を置くとすぐに家中の棚と

いう棚、引き戸、屋根裏、地下の貯蔵庫などを調べ回った。

 

 見つかったアルコール類は4本。

 

 ジェイナに何も言うヒマを与えず、すぐにその中身を洗面所に流すと、彼

女は振り返って腰に手を当てこう言った。

 

『わざわざ帰ってきたんだから、今後一切のアルコールは厳禁よ。破ったら

あたし、すぐに日本に帰るからね』

 

 彼女の勢いに、帰ってきたら言おうと思っていた贖罪の言葉も頭から消し

飛んでしまった。

 長旅で疲れているはずなのに、彼女は溢れんばかりの生気をその瞳に宿ら

せている。

 

 眩しかった。

 

 あの頃の彼女の母親みたいに眩しかった。

 

『我慢できなくなったら、あたしを頼って』

 

 微笑みが胸に染み渡る。

 

『一緒に直そ。ママ』

 

 彼女は確かにそう言った。

 

 ―――ママ、と。

 

 気がつくとジェイナは、大粒の涙を流しながらアスカに抱きついていた。

 

 

 ずっと避けられていた―――いや、自分から疎んじていたことも多かった

彼女がドイツに戻ってきてくれると聞いたときは、自分で頼んだことなのに

耳を疑った。

 

 そして、彼女が『ママ』と呼んでくれた時の笑顔。

 

 あれから何度も、こうやってこっそりと出かけることもあったのだが、い

つもこの時の彼女とのやりとりを思い出して、無事に家に帰ることができた。

 

 そして今日も、ジェイナの足は自然と自宅に向かっていた。

 彼女の娘がいる場所に。

 今の彼女に無くてはならない存在。

 惣流・アスカ・ラングレーの元へと。

 

 いつの間にか彼女の頭の中からアルコールのことは消え、替わりに今日の

晩御飯のメニューのことで一杯になっていた。

 

 

        *        *        *

 

 

「そこまでだ。惣流・アスカ・ラングレー」

 

 路地裏に追いつめられたアスカはついに観念して足を止めた。

 

「君を旧ネルフ機密防止法違反で逮捕する」

 

 

 ジェイナが足取りも軽くスーパーに向かっていた頃、アスカは全身に冷や

汗を流しながら立ちすくんでいた。

 それは、TV局のアルバイトでニュースのネタを集めている合間に、いつ

ものように旧ネルフのデータベースにハッキングを仕掛けていた最中のこと

であった。

 

 理由は一つ。

 本当の母親と父親の関係を知るため。

 そして、あの実験の経過と結果。

 

 ようやく正面から直視できる自信がついたのだが、旧ネルフの遺産、特に

エヴァンゲリオンに関するデータが特Aクラスの機密であることは百も承知

していたため、このような違法な行為を取らざるを得なかったのだ。

 

 もちろんシンジにも、このことだけは秘密にしていた。

 彼に余計な心配をかけたくない気持ちもあったのだろうが、どちらかとい

うと自分一人で解決すべき―――解決したい問題であると感じていたからで

あろう。

 

 旧ネルフのデータベースは、突然の崩壊と、それに伴う各国政府の死骸を

つつくハイエナのような行為により、今でもセキュリティは十分とは言えな

かった。

 一般職員クラスの権限でアクセスできるレベルは、思ったより容易に――

―お金と時間と慎重ささえあれば―――サーチすることが出来た。

 そして今日は、次の段階に進もうと、念入りに準備を整えアクセスを試み

ていたのだった。

 侵入が見つかっても現在地だけはバれないよう、転々と移動しながら、偽

のIDカードを使って公衆電話からリモートの端末を操作。

 細心の注意を払っていたハズなのだが、アクセスを試みていた公衆端末の

ガラス窓に不審な車が映ったのを見つけて、素早く路地裏に駆け込んだのだ

った。

 

 巻いた―――と、思ったのが甘かった。

 気がつくと、複数の黒服の男に囲まれていることに気がついた。

 

 つや消しのされた冷たい銃口が3つ。

 いつでもアスカを打ち抜けるように狙っていた。

 

 問答無用で消されることはおそらくないハズ、というしたたかな計算も働

いていたが、体中から冷や汗が噴き出すのをアスカは止められなかった。

 

「いったいなんだってのよ!?」

 

 白々しい問いに、もちろん答えはなかった。

 

 しばらく無言の圧力を必死で受け止めていると、細い路地裏の暗がりから

一人の男が現れた。

 どっしりとした茶色のコートを身にまとっている。

 黒服達の態度から彼らの上官だと見うけられるその男は、暗がりから姿を

全ては現さずに、足を止めた。

 

「こんなところで会うことになるとはね」

 

「―――!」

 

 闇に隠れた口元から発せられたその声に、アスカは息を呑んだ。

 

「シンジ君に心配かけるようなことをしちゃいけないな」

 

「その声は……日向さん? でしょ!?」

 

 闇の中の口元が、軽く笑ったように見えた。

 

「久しぶりだね。相変わらず元気そうで―――」

 

 

        *        *        *

 

 

 それから10分後。

 二人は黒塗りの自動車の中にいた。

 もちろん世界再建委員会の公用車である。

 

 所用でヨーロッパを中心に飛び回っていた日向のもとに、元セカンドチル

ドレンが怪しい行動をとっているとの報告が入ったのは、ちょうど彼女がド

イツに帰国したことを知り、一度話でもしようと連絡を取ろうと思っていた

矢先のことだったらしい。

 

 それで急いでドイツに飛んできたのだと、日向は車に向かう途中でアスカ

に話した。

 それがどこまで真実かアスカにはわからなかったが、少なくとも危険が去

ったことだけは感じ取れた。

 とりあえず感謝の言葉を述べると、彼に促されて一緒に車に乗り込む。

 程なくして車は静かに走り出した。

 

 日向の隣に座ったアスカは、改めて彼の顔を見つめると小さく呟いた。

 

「ひどい顔ね………」

 

 まだ30ちょっとの年齢であるはずなのだが、既に白髪がかなり目立って

おり、目の下にはハッキリと分かるくまがあった。

 その顔にはあの頃のような生気は見られなかった。

 まるで老人の顔のようであった。

 

「はは、は。仕事が忙しくてね。それに、ネルフの関係者を恨む奴らは、世

界にごまんといるんだ。おかげで気が抜けない毎日だよ」

 

 疲れきった顔で日向は答えた。

 

「そんなに……。どうして? もう終わったハズなのに、どうしてそんなに

頑張るの?」

 

「さあ……。どうして、かな」

 

 旧ネルフの職員には才能豊かな者が多かったが、崩壊後の各国政府の利権

にまみれた介入に嫌気をさし、そのほとんどが民間の仕事に身を投じていた。

 ただ、ごく一部の者が冬月に従い、世界再建委員会の正常な運営に多大な

労力を払っているのはアスカも聞き及んでいた。

 おそらく彼もその一員なのだろう。

 

「ここで終わらせたいのかもしれないな、全てを。誰かがやらなきゃいけな

いことだし、俺にはそれをやる義務があると思ってる」

 

 ―――約束、したもんな。

 

 今は亡きかつての上官を思い浮かべて、日向は言った。

 

「それに、冬月議長が頑張ってる以上、俺もまだ引退できないしね」

 

 軽く笑う日向の笑みの中に潜む重い決意。

 それはアスカの胸をしくっと痛ませた。

 まだ終わらない世界が、ここに確かに存在する。

 

「ところであの野郎はどうしてる? マヤちゃんとの結婚式にも出られなか

ったから、ちょっと気になってるんだけど」

 

 暗い顔になったアスカを案じてか、日向は努めて明るい声を出した。

 

「幸せそうにしてるわ、二人とも。妬けちゃうくらいに」

 

「そうか。それは良かった」

 

 薄い笑いだった。

 嬉しいのか、悲しいのか、それとも寂しいのか。あるいは妬ましいのか。

 

 これまでの人生で最良の時を過ごしている今のアスカには、彼にかける言

葉を見つけられなかった。

 

 日向が眼鏡を外した。

 そして、瞼を指で押さえるようにしてマッサージをすると、小さくを息を

吐いた。

 傍目にも疲れているのが手に取るようにわかる。

 

「それから、君の母親に関してだけど、できる限りの資料はこっちから提供

するよ。だからアスカちゃんは、もう深入りしない方がいい。ここまでは目

をつぶってたけど、これ以上コトが大きくなると、俺の権限でも止められな

くなるから」

 

「………」

 

 当然のように猛烈な抗議を予想していた日向は、何も言わずにそっと目を

伏せたアスカに驚いた。

 その沈黙は了承としか感じ取れなかった。

 

 ―――彼女、変わったよな。

 

 日向は胸につっかえていた重い何かが、一つだけ取れたような気がした。

 

 

 そして、沈黙を打ち破る緊急呼び出しの電子音が二人の短い出会いを終わ

らせた。

 

 

 身体のことを案じるアスカに、シンジ君と仲良くやりなよ、と答えて送り

出した日向は、ガラス窓越しに彼女の姿が街角に消えたことを確認すると、

誰にともなく暗い声で言った。

 

「監視レベルを一つ上げておけ」

 

「よいのですか?」

 

 備え付けのスピーカーから若い男の声が流れてくる。

 

「ああ。これも仕事だからな」

 

 ―――それに彼女のためだ。

 

「だが拘束するときは、必ず私に一報を入れろ。これは特務官としての命令

だ」

 

「ハッ」

 

 そして車は闇の中に消えた。

 

 

        *        *        *

 

 

 物思いに沈むアスカを迎えたのは、ジェイナの明るい声だった。

 

「あら、アスカ。おかえりなさい」

 

 嬉しそうにスリッパをぱたぱたさせて、彼女はキッチンから姿を現した。

 同時に香ばしい匂いがアスカの鼻を刺激する。

 

「あれ? なんかいい匂いがするわね〜。今日は何?」

 

「何だと思う? あなたの好きなモノよ」

 

 ジェイナは笑って言った。

 

「今日買い物に出かけたら、お肉が安かったのよ」

 

「あ、ハンバーグだ!」

 

「ぴんぽ〜ん。今日は手作りなのよ。すごいでしょ」

 

 帰国当初は、どちらかというとやつれた表情が多かったジェイナも、最近

はずっと明るい顔をしている。

 

 ―――あたしが帰ってきてから、なんか若返ったみたい。

 

 そういえばあたしの化粧品、良く使ってるわよね。

 アスカは苦笑しながらジェイナの後に続いてキッチンへ向かった。

 

 

 この親子のような姉妹のような関係が、今のアスカにはとてもに心地よか

った。

 

 

 日向マコトから惣流・アスカ・ラングレー宛に、分厚い書類の束と数枚の

DVDが送られてきたのは、それから一週間後のことであった。

 エヴァのパイロット時代に、精神カウンセラーのために用意されていた資

料であるとのメモ付きで。

 当時は碇指令の命令で使われなかったものらしいが、その中にはアスカの

知らない母親の姿があった。

 

 歪められた記憶ではなく、真実の姿が。

 

 

                          <拾七話に続く>



 次回から舞台は再び日本に戻ります。

 基本的に第二部はシンジ編がメインで、アスカ編は数話に一回、今回のよ

うに断片を切り取る形で書いていくことになるかと思います。

 今回はアスカのママと日向がメインだった・・・のかな?



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