第拾七話 「MeN & WOMeN I」

written on 1997/9/6


 

 

 キシ………

 

(ちょっと、ちょっと〜〜〜〜〜。なんなのよぉ、いったい)

 

 ピンク色の袖から覗く白い手が、階段の手すりをそっと握った。

 

(おじいちゃんは仕事場のハズだし、まさか泥棒じゃないわよね)

 

 スリッパを脱ぎ捨てた素足が、一段一段階段を滑り降りる。

 

(己月………は、いつも通り寝坊してると思うんだけど………)

 

 小さく縮こまった肩は、もちろん早朝の寒さのせいだけではない。

 

 

 いつものように朝食の用意をしようとベッドを抜け出してきた雨佳は、一

階から聞こえてくる物音に気付いてそっと階段を下りてきたのであった。

 階段の影からじっと様子をうかがう雨佳の顔は固くこわばっている。

 台所の方から聞こえていた物音は、しばらくするとぴたりと止んだ。

 

 雨佳はこのまま玄関を出て達明の仕事場へ向かおうかとも考えたが、一階

の奥の部屋で寝ているはずの己月のことが頭から離れなかった。

 素足には冷たい廊下を音を立てないように歩くと、雨佳はそうっと入り口

の影から台所をのぞき込む。

 

 人影は、無かった。

 

(誰もいないわね………)

 

 雨佳は大きく息を吐いて呼吸を整えると、今度は隣の居間の方に向かおう

と、台所に足を一歩踏み入れた。

 

 ぴと―――

 

 と、そのとき、雨佳の眼前で、物置に使っている地下室への揚戸が突然勢

いよく開いた。

 

「キャ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−ッ!!!!!!」

 

 雨佳は家中を震わすような悲鳴を上げて、両手で顔を覆った。

 足の力が抜けてしまって、そのままぺたんと床にしりもちをつく。

 

 どんがらがっしゃん。

 

 続いて何かが転げ落ちる音が、両手で目を覆った雨佳の耳に聞こえてきた。

 そして再び沈黙が。

 雨佳は恐る恐る両手の指の間から様子をうかがう。

 

 ギィィィィィ

 

 しばらくして、今度はゆっくりと地下室へ続く揚戸が開いた。

 隙間から見えたのは、しかめっ面をしたシンジの顔だった。

 

「イタタタタ………。今の、雨佳ちゃん?」

 

 雨佳は口元をひくつかせて安堵の息を吐いた。

 今日からシンジも加えて三交代で食事を作ることになっていたのを、すっ

かり忘れていたのである。

 

「ちょっと驚かさないでよ………ください、ね。碇さん」

 

 胸をなで下ろす雨佳。

 が、すぐに自分がパジャマであることに気付いて、身体を抱え込むように

背中を丸くする。

 

「あ、あの、おはようございます」

 

 シンジは腰をさすりながら全身を現すと、

 

「おはよう。ビックリさせてゴメン。昨日教えられたから、地下室に置いて

ある漬け物を取りに行ってたんだよ」

 

「………すいません。怪我しなかったですか?」

 

「大丈夫大丈夫。ちょっと柱にぶつけただけだから。それよりもどうしたの?

 こんな早くに」

 

「ここでご飯作るの初めてでしょ? 最初くらいは、色々と教えてあげなき

ゃいけないじゃないですか」

 

 雨佳は内心の驚きと安堵を微笑みで隠すと、さも当然のように言った。

 

 

 それから十分後。

 服を着替えて戻ってきた雨佳は、テーブルに頬杖をついてシンジの一挙一

動を眺めていた。

 最初はあれこれ口を出していたのだが、シンジの手際の良さにもう言うべ

きことが無くなってしまったのだ。

 

 包丁の小気味よい音を聞きながら、雨佳は香奈との約束を頭の中で思い浮

かべていた。

 

「あのぉ」

 

「ん? なに?」

 

 刻んだネギをぱらぱらとみそ汁に入れながらシンジが答える。

 

「明日買い出し、行きますよね?」

 

「うん。千条さん、そろそろ忙しくなるみたいだからね」

 

「だったら、その、ついでに学校に迎えに来てくれません?」

 

「え?」

 

「明日は学校お昼までだから大丈夫なんです。ほら、それに、いろいろとお

店教えてあげなくちゃわかんないでしょ?」

 

「それは………そうだけど」

 

「だったら決まり。12時45分に校門のトコで待ってて下さい」

 

「う、うん………」

 

「あ、それから、あんまりヘンな格好はしてこないで下さいね。恥ずかしい

ですから」

 

「は、はぁ………」

 

 くたびれたトレーナーをそっと摘むシンジ。

 頬杖をついたままニコニコと笑う雨佳。

 

 炊飯器がしゅーしゅーと白い蒸気を上げはじめていた。

 

 

        *        *        *

 

 

 陽の暮れ始めた山道に映る二つの影。

 両手に一杯の買い物袋を抱えた青年の隣を、足取りも軽く歩いているのは

黒髪の少女。

 買い出しを終えた二人は、ちょうど良いバスの時間がなかったので、歩い

て帰ることにしていたのだ。

 

 先ほどからシンジは雨佳のしゃべりに圧倒されていた。

 まるで昔のアスカを思い起こさせる―――とまで言うと言い過ぎだが、機

嫌がよいのか、いつもにもまして彼女は饒舌であった。

 思い出してみると、学校に出かける前から様子が変だったのかも知れない。

 わざわざ学校の校門で待たせるところからして、どうも作為的なものを感

じていたのだが、彼女が得意満面の表情で友達を引き連れてきたときに、そ

れは確信に変わった。

 

 シンジは苦笑いを浮かべながら、いつの間にか自分が憧れの対象ともなり

える年齢になっていたことを実感していた。

 

 

「でねー。香奈ってば、変な趣味もって―――」

 

 突然雨佳の言葉が途切れてその歩みが止まったので、シンジは彼女の方に

顔を向けた。

 眉をひそめた彼女の視線の先を辿ると、道ばたに黒いボロ切れが―――い

や、そう見えたのは車に跳ねられたらしい猫の死体であった。

 

「やーね」

 

 雨佳は一言こぼすと、足早にその場を去ろうとする。

 が、シンジは無言で立ち止まり、買い物袋をまとめて一枚空きをつくると

その猫の死体へと近づいて行った。

 追いかけるように雨佳の手が伸びたが、彼女は近寄ろうとはしなかった。

 シンジがおぼつかない手つきで死骸を袋に収めていくのを、遠巻きに見つ

めているのみである。

 

「ちょっと待ってて」

 

 しばらくすると、そう言い残してシンジは道路脇の林に入って行った。

 

「………」

 

 数秒後、雨佳は弾けるように動き出すとシンジの後を追いかけた。

 

 

 シンジは道路から数メートル林に入ったところでしゃがみ込むと、木の枝

で穴を掘り始めた。終始無言である。

 そして、十分な大きさまで掘り終えると、そっと猫の亡骸を横たえた。

 

 その様子をずっと見つめていた雨佳は、墓標のように立てた木片を見つめ

るシンジの背中に向かって呟いた。

 

「………優しいんですね」

 

 だがシンジは振り向かなかった。

 うつむき加減に頬をこわばらせながら、

 

「違うよ。自己満足なんだ」

 

 冷たく言い放つシンジに、雨佳は言葉を失う。

 シンジの周りの空気が、いつもと違って冷たくなったように感じた。

 

「償いをしてるつもりなんだよ。自分を善人だと思いこみたいだけなんだ」

 

 こんなことをしても血に汚れたこの手は戻らないのに………

 

 何の意味もない行為であることはシンジもわかっていた。

 

「笑っちゃうよね………」

 

 自嘲的な笑みを浮かべるシンジの姿に、雨佳の困惑の表情が次第に崩れて

いき、今にも泣きそうな顔になる。

 

「何があったか知らないけど、そんなに自分を悪く言わなくてもいいじゃな

いですか。なんか、わたしバカみたい………」

 

 小さな呟きと、揺れる黒髪。

 彼女はシンジから顔を背けた。

 

「………ごめん」

 

 内罰的、か。

 

 なかなか変われないや………

 

 シンジは空を見上げると、軽く息を吐いた。

 そして、雨佳の目の前でそっと膝をかがめると、道に出るよう促す。

 

「ごめんな。早く帰ろう。きっとみんながお腹を減らして待ってるよ」

 

「………うん」

 

 

        *        *        *

 

 

 闇を切り裂くように一筋の光が第2新東京市に向かっていた。

 第3新東京市発のリニア新幹線最終列車。

 柿崎優梨がその最後尾に乗っていた。

 

 試験休みに入って約一週間が経つ。

 シンジが出発する前に長野へ行くことを伝えてはいたが、実際のところ、

行ってどうするのか優梨は悩んでいた。

 いや、飛んで行きたい気持ちを抑えるのに精一杯だったと言うべきか。

 

『会いに行く』という行為が、必ず自分の気持ちを抑えきれなくさせること

を、優梨は直感的に理解していた。

 

 それは、今までの関係を壊すに違いなかった。

 

 ―――それでもいいの?

 

 シンジの顔を見ることが出来なかったこの一週間の苦しさは、優梨に決断

を迫った。

 

 ―――このままは、イヤなの。

 

 彼の顔を見る度に苦しくなる鼓動。

 嬉しさを押し殺して語りかける普通の言葉。

 彼女のことを話すときの彼の幸せそうな瞳。

 相づちを打ってあげる嘘つきの私。

 

 

 ―――こうしないとずっと前に進めないから。

 

 

 シンジには出発の数分前にメールを打って連絡しただけだった。

 もちろん、返事を待つのが怖かったからだ。

 

 黙々と大きめのデイバッグに荷物を詰める優梨に対して、いつもは何かと

口うるさい姉の夕菜も『頑張りなよ』と一言だけしか声をかけなかった。

 

 そして、優梨は最終列車に飛び乗った。

 

 

 それから数十分後。

 すでにリニアは長野に近づいていた。

 

 優梨は窓の方に顔を向け、景色を完全に遮っている防音壁をぼうっと見つ

めていた。

 窓に反射した自分の顔が視界に入る。

 

(思い詰めてるように見えるかな、この顔って)

 

 優梨は頬をぷにっと指で押さえると、力無く笑った。

 

 自分のやってることがどういうことなのか、それは優梨にもよくわかって

いた。

 どちらかというと潔癖な―――特に恋愛に関しては古風的とも言えるタイ

プである優梨にとって、今の自分の行動はもっとも嫌悪すべきものであろう。

 

 でも、

 

 どうにもならない今の状況に耐えられなくなったのは事実。

 

 自分の気持ちが抑えられなくなったのは事実。

 

 アスカがいない間に、という計算があるのは事実。

 

 好きな人に会いに行くという、この行為に酔いしれているのも事実。

 

 

 でも、この胸の高鳴りは真実。

 

 

(もうすぐ碇君に会えるんだ―――)

 

 

 窓に映った優梨の微笑みはとても美しかった。

 

 

                          <拾八話に続く>



 お久しぶりの「ここから〜」をお届けしました。

 相変わらずの暴走状態ですが、ようやくもうすぐ第二部の一つの山場を迎

えそうです。

 先の話も見えてきましたので、そろそろ第三部にも少しずつ取りかかる予

定。

 こちらは思いっきりシンジとアスカの絡みがメインになりますので、どう

かもうしばらく我が儘に付き合って下さいませm(_ _)m



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