第拾八話 「MeN & WOMeN II」

written on 1997/10/2


 

 

 とある日曜日の午後。

 

 穏やかな日差し、穏やかな空気、穏やかな時間。

 

 一仕事終えたシンジは、達明の許可を得て、出来上がったばかりのチェロ

を倉庫から運んでいた。

 心なしか足取りも軽く、表情には僅かに笑みさえ浮かんでいる。

 

 ニス塗りの練習から始まったシンジのアルバイトも、その地道な努力と繊

細な性格から、今ではその他の作業工程にまで及んでいた。

 道具や材料の整理、そして家事も含めると、達明にとって、今やシンジは

欠かせない存在になっていた。

 つい先ほども、チェロの音色について二人は意見を交わしたばかりである。

 

 自分の意見を―――存在を認めてくれているように感じて、シンジは充実

した日々を送っていた。

 

 

 しばらく倉庫の壁に沿うように歩いていたシンジは、いつもの場所にたど

り着くと、壁に立てかけられていた折り畳みの椅子を開いて座った。

 一呼吸おくと、静かにチェロを弾き始める。

 

 J.S.BACH

 UNACCOMPANIED CELLO SUITE No.3 IN C MAJOR,BWV.1009 Bourree I&II

 

 チェリストのバイブルであるバッハの名曲。

 

 鳥のさえずりと、柔らかな日の光に見守られながら演奏するその姿は、幻

想的な雰囲気さえ漂わせていた。

 

 

「―――ん?」

 

 演奏に没頭していたシンジが彼女の存在に気付いたのは、既に丸々一曲弾

き終えた頃だった。

 演奏の邪魔にならないように気を使ってか、その小さな身体を倉庫の壁に

寄りかからせるように佇んでいる。

 

「己月ちゃん聞いてたの?」

 

 照れくさそうにシンジが笑った。

 

「………」

 

 己月はこくんと頷くと、小さな手で胸元のボタンをいじりながら、僅かに

口元を動かした。

 まだ一度も声を出して会話を交わしたことはなかったが、そのさりげない

動作で彼女が何を言わんとしてるのか、ある程度はシンジも理解できるよう

になっていた。

 しかもこの時間帯に作業場を訪れるということは、おそらくお茶が入った

ことを伝えに来たのだろう。

 

 そう思ってシンジが椅子から立ち上がろうとした瞬間、突然胸のポケット

に入れておいた携帯電話が鳴った。

 チェロをそっと壁に立てかけると、シンジは慌てて電話機を取り出す。

 

「もしもし、碇ですけど」

 

『あ、いたいた。碇君だ。良かったー』

 

 シンジの耳に流れてきたのは、やたらと元気な優梨の声だった。

 

「あ、柿崎さん、久しぶり! あれ? もしかして今こっちから?」

 

 数日前に第3新東京市を発ったというメールが届いて以来、なかなか連絡

が無くて心配していたところだったのだ。

 

『うん。ゴメンね、連絡遅れて。ちょっと観光してたから―――』

 

 ほんの二週間程度会ってないだけなのだが、勢い良く喋り出した優梨の口

から話題が途切れることはなさそうだった。

 長話の相手をするのには慣れているシンジは、苦笑いを浮かべて再び椅子

に腰を下ろそうとしたが、ある事に気付いてハッと頭を上げる。

 

 己月の姿は既にその場所に無かった。

 あたりを見回しても人がいる形跡はない。

 おそらく家に戻ったのだろう。

 

 慌ててキリのよいところで今日の夕方に会う約束をすると、シンジは電話

を切った。

 そしてチェロを倉庫にしまうと、作業場にいる達明に出かけることを告げ

て足早に家に戻った。

 

 

        *        *        *

 

 

 シンジが居間に入ると、そこには予想通り己月と雨佳がいた。

 雨佳はぼんやりとTVに流れるワイドショーを見つめ、己月は算数のドリ

ルをパラパラとめくっている。

 TVの音だけが満ちているその空間は、相変わらずシンジにとって緊張感

を強いるものだったが、今だけはほんのりと漂う甘い香りがそれを和らげて

いるように思えた。

 

 テーブルの上には、モンブランと紅茶のセットが鎮座していた。

 

 掃除機が側に転がっているところを見ると、ちょうど雨佳は居間の掃除を

していたようだ。

 シンジの姿を見るなり、パッと顔を上げる。

 

「もー、遅いじゃないですか」

 

「ごめんごめん」

 

 シンジは頬を膨らませている雨佳の隣に座ると、

 

「ありがとね。呼びに来てくれて」

 

 熱心にドリルを見つめている己月に向かって声をかけた。

 彼女は顔を上げて小さく頷き返すと、シンジが来るまで手をつけていなか

ったケーキのお皿を手元に引き寄せた。

 それを合図にするかのように、雨佳とシンジもフォークを手にする。

 

「これね、昨日クラブの帰りに買ってきたの。駅前のロンドって店。小さな

お店なんだけどね。知る人ぞ知るってヤツ? どう、なかなかいけるでしょ」

 

 一口食べると得意満面の様子で雨佳はシンジの反応を伺った。

 

「へぇ。ん、おいしいよ、これ」

 

 そう言いながらもシンジは三口でケーキを食べ終えて、

 

「これからちょっと出かけてくるから。僕の分は夕食用意しなくていいよ」

 

 唖然としている雨佳に声をかけると、すぐに立ち上がった。

 

「え、あ、その、何しに行くんですか?」

 

 部屋を出て行くシンジの後を追いかけるように、慌てて雨佳も廊下に出る。

 

「ん、こっちに旅行に来てる大学の友達に会いにね」

 

 振り向きながらシンジは答えるが、その足が止まることはない。

 雨佳はフォークを片手にさらに後を追う。

 

「友達、ですか………」

 

「うん。じゃっ」

 

 雨佳の声音に混じる寂しさにシンジは気付く余裕が無かった。

 意識はしてなかったが、これからのことに気分が高揚していたのであろう。

 

 着替えるために足取りも軽く自分の部屋へと向かう。

 

「あ………」

 

 シンジが登っていった階段の先をじっと見つめる雨佳。

 クリームがわずかについているその唇から、小さなため息が一つ漏れる。

 

 肩を落としながら振り向くと、己月が廊下の向こうからひょこっと顔を出

していた。

 

 訳もなく気分がいらだった。

 

「宿題早くやりなさいよ!」

 

 雨佳の刺々しい言葉に、己月はビクっと肩をすくめると頭を引っ込めた。

 入れ替わりに虚しいワイドショーの笑い声が、雨佳の耳に飛び込んでくる。

 

「………またやっちゃった」

 

 顔を背けた雨佳は、誰にともなく唇を噛んだ。

 

 

                          <拾九話に続く>



 またまた間が空いてしまいました。ようやくの18話をお送りします。

 今回はちょっと繋ぎっぽい回になってしまいましたので、次回は一週間以

内に掲載する予定です。

 ついに優梨ちゃん炸裂!?



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