第拾九話 「MeN & WOMeN III」

written on 1997/10/4


 

 

「バイトって楽器作りの手伝いだって言ってたよね。碇君がやってるチェロ

なんかもあったりするの?」

 

「うん。数は少ないけどね」

 

 ここはごくありふれた駅前の洋食居酒屋。

 シンジと優梨は奥まったところにあるテーブルで、向かい合わせに座って

いた。

 久しぶりに、とは言っても高々二週間程度なのだが、優梨にはとても長く

感じられたシンジのいない日々。

 それまでほとんど毎日のように部活で顔を合わせていただけに、その想い

はなおさらだったのだろう。

 まるで会えなかった時間を取り戻すかのように、そのくるくるとよく回る

瞳で、シンジの顔ばかり見つめている。

 

 

「ね、どうしてチェロを続けてたの? 将来もそれで食べていくつもり?」

 

 優梨の問いにシンジは軽く笑って頭を横に振った。

 

「ううん。音楽の世界で食べていけるのはホントに才能のある一握りの人た

ちだけだから。僕なんかただ続けてるだけだし、とてもじゃないけど無理だ

よ。趣味程度にはやっていくと思うけど………」

 

 もち入りピザに箸をのばしながらシンジは言葉を続ける。

 

「実はこのバイトやってたら、今度は楽器作りにも興味が出てきちゃってさ。

ほら、前にも柿崎さん言ってたじゃない。何でチェロを続けてるのかって」

 

 シンジの言葉に優梨は小さく頷く。

 小さい頃から芸術に縁のなかった優梨は、芸術科を専攻しているシンジに、

以前から何度かそういった質問をぶつけていたのだ。

 

「それで、どうしてチェロを続けてたんだろうって、僕も一度じっくり考え

てみたんだ。それで思い当たったことがあったんだけど、小さな頃に一度だ

け発表会に出たことがあって。もちろん賞をもらえるほど上手じゃなかった

けど。でも、演奏した後に少しだけ拍手をもらったんだ。名前も知らない、

顔も知らない、そんな人に少しでも喜んでもらえたのがとても嬉しくて、い

つもは声さえ聞きたくなかった父さんに電話したいって、先生に頼んだこと

を思い出したんだ。何の取り柄もなかった僕でも、ちょっとは存在価値が認

められたような気がしてたんだと思う」

 

 時折見せるシンジの少し遠くを見つめるような表情。

 そんなとき、ふと優梨はシンジを抱きしめたくなる。

 

 もちろん、今はその代わりに、ただ熱のこもったまなざしで見つめるしか

ない。

 

「結局、他人に認められたいんだけなんだけどね。だから、それはチェロを

弾き続けることではなく、楽器を作って演奏する人に喜んでもらえるのも一

緒だって、その人の演奏で多くの人を感動させられることが、僕の喜びにも

なるんじゃないかって。今じゃほとんどの楽器が自動的に機械で作られるん

だけど、やっぱり手作りにこだわる人も結構多いみたいでさ。でも、根気と

経験がいる仕事だから、なかなか後継者が育たないんだって千条さんが言っ

てたから、もしかしたら僕でも役に立てるかもしれないって―――」

 

 めずらしく流れるように喋るシンジの声が耳に心地よかった。

 

 優梨はこのシンジの生真面目さが好きだった。

 生きていることに何の疑問も感じていない自分や、周りの人々と決定的に

違う部分。

 それはアスカにも共通して言えることだった。

 自分が経験してきた挫折なんてこの人たちの前じゃ笑い話にしかならない、

と思ってしまってどこか引け目を感じてしまうこともある。

 逆に、こんな人と一緒になれたらもっと一生懸命生きていける、と強く惹

かれているのも事実。

 

 始まりは、挫折しそうになっていた自分に再び空を見せてくれたあの日。

 

 それからずっと、私の視線は彼を追うようになった。

 大会がある度に人知れず応援に行った。

 時には学校まで練習を覗きに行ったこともある。

 

 いつも彼は独りに見えた。

 

 もしかしたら、味気ない人生に彼の存在が新鮮に映っただけかもしれない。

 

 憂いを秘めたその心の奥を知りたいという好奇心なのかもしれない。

 

 それでも、今、目の前にいるこの人のことをどうしようもなく好きになっ

ている自分が、好きだった。

 

 手で触れられる距離にいるこの人が、本当に好きだった。

 

 

「碇君って、すごいよね」

 

 ぽつりと優梨の口から言葉が漏れた。

 顔を上げた優梨の瞳の中に、何かを決意したような光が見える。

 

「え?」

 

「生き方が真っ直ぐってゆーか、真剣に生きるってことを考えてるじゃない。

わたしなんていつも目の前のことしか考えてないし、仕事だってとりあえず

給料いいトコ行ければいいなって思ってるだけだし、夢は何かって聞かれた

ら、せいぜいテディ・ベアをたくさん集めることだってくらいしか言えない

もん」

 

 優梨は通りがかった店員にカンパリ・オレンジをもう一杯頼むと、

 

「あ、最後のは内緒ね」

 

 軽くウインクをして見せた。

 

 シンジは笑って答える。

 

「そんなことないよ。僕だって変わんないって。楽器作りだって、側で見て

たらホントに割に合わない仕事だなって心配になっちゃうし」

 

「そそ、そーゆー謙虚なとこ、わたし、好きなのよねー」

 

 軽い調子で、本当の気持ちを。

 

「もっと碇君、自分に自信持っていいと思うよ」

 

 言葉以上のことを、伝えられないかと、もがく瞳。

 

「そんな、ホントに僕なんて………つまんないヤツだし………」

 

 そんなことない。

 

 その全てを肯定してあげたい。

 

「他の女の子だって言ってるよ。碇君ってかっこいいって。彼女がアスカで

なければアタックするのになって」 

 

 それは、自分。

 

 今の関係を壊すのが怖くて、巧みにオブラートで包んで伝えようとしてる。

 

 もちろん、鈍感な彼が気付くはずないのはわかってる。

 

 だから、ここまで来たんだもの。

 

 

 緊張感をほぐすために頼んだアルコールが、次第に彼女の心を溶かしてい

く。

 

『あーゆー優しそうな子は、寝れば勝ちよ』

 

 突然姉の夕菜のセリフが頭に甦ってきた。

 ばっかじゃないの、と顔を真っ赤にしながら一蹴したセリフが頭にこびり

ついて離れない。

 

 シンジがちらりと時計に目をやった。

 左手を裏返して腕時計を見ると、もう9時を回っていた。

 さっきまでの高揚した気分が嘘のように寂しくなる。

 

 こうなることはわかってた。

 会わない方がまだ良かったかもしれない。

 

 もっと顔を見ていたいのに。

 

 もっと話をしたいのに。

 

 

 ずっと一緒にいたいのに。

 

 

「そろそろ出よっか」

 

 シンジの言葉が優梨を現実に帰した。

 慌てて優梨は作り笑いを浮かべる。

 

「あ、もう9時になっちゃったんだ。久しぶりに会うと、話すこと沢山溜ま

ってるね」

 

「うん。僕もずっと山奥にこもってたから、久しぶりに楽しかったよ。わざ

わざ呼び出してくれてありがと」

 

 シンジの優しい言葉に優梨は思わず言葉が詰まってしまった。

 

 こんな一言でも嬉しい。

 

 涙が出そうになる。

 

「ほらっ。早く出よ」

 

 優梨は顔を伏せると、シンジの背中を押すようにして出口へ向かった。

 

 

        *        *        *

 

 

 そして二人は店を出た。

 

 冷たい空気が頬に心地良い。

 

 既に吐く息は白く、三分ほど欠けた月が、頭上にあった。

 

「あ、そうだ。碇君にあげるものがあったんだ」

 

 ぶらぶらとバス停に向かって歩いて行くシンジの背中に向かって、優梨が

呟いた。

 隣に並ぶと、怪訝な顔つきをしているシンジの顔をのぞき込む。

 

「この前の大会の写真。現像できたから持ってきたの」

 

「ほんと? ありがとう!」

 

 夏の終わりにあった第三新東京市内の大学の親善試合。

 シンジは桐丈をおさえて二位の成績を残していた。

 公式試合ではなかったことを差し引いても、この大会によってシンジの名

前が近隣の大学に知れ渡ることになったのは事実だ。

 もちろんシンジには桐丈が手を抜いていたことはわかっていたが、成績を

知ったアスカがとても喜んでいたのを思い出す。

 

「さっそくアスカに送らなきゃ………」

 

 何気なく呟いたシンジの言葉に、バッグの中から写真を取り出そうとして

いた優梨の表情が固まった。

 

「どうしたの?」

 

「え?」

 

 バッグの中で優梨の手が止まった。

 

「あ、その、写真なんだけど、ホテルに忘れちゃったみたい。ちょっと寄っ

てってくれる?」

 

 反射的に優梨の口から自分でも予想していなかった言葉が出た。

 

 うそ! わたし、何言ってるの………

 

 次の瞬間、優梨はうつむいて目を閉じた。

 シンジの答えを待つ一瞬の間に、心拍が急上昇する。

 

「うん、いいよ。バスはもう一便後があるから」

 

 シンジは拍子抜けがするほど明るく答えた。

 何の邪心も無いその笑顔を正視することが出来ない自分。

 でも、心のどこかでほっとしている自分を、優梨は信じられなかった。

 

 笑顔を浮かべて彼の隣に並ぶ自分を、信じられなかった。

 

 

                          <弐拾話に続く>



 書いてるうちにどんどん盛り上がってしまいました。

 ちょっとヒキがいやらしくなったので、次回は今週末にアップするつもり

です。

 優梨ちゃんの心情がうまく表現できてるとよいのですが………



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