第弐拾話 「MeN & WOMeN IV」

written on 1997/10/12


 

 

 コートを脱いだばかりの身体には、この暖房が入りきっていない空気は寒

いはずなのに―――

 

 落ち着かない様子でベッドの端に座ったシンジは、どこか汗ばんでしまう

緊張感を感じていた

 こんな密室でアスカ以外の女性と二人っきりになるのは、もちろんはじめ

てだった。

 

 ここは優梨の宿泊しているホテルの一室。

 お茶でも飲んでいかないかと誘われたのを断りきれなかったのだ。

 コートを脱いで薄着になった彼女は、先ほどから少し離れたところでバッ

グの中身を探している。

 

 シンジはそんな彼女からなるべく視線をはずそうと努力していた。

 

「あったあった。ほら、結構上手く撮れてるでしょ」

 

 写真を手にして戻ってきた優梨は、密着するようにシンジの隣に腰掛けた。

 優梨の身体からふわっと香水の香りが漂ってきて、シンジの鼻腔をくすぐ

る。

 その中には僅かにアルコールの匂いも混じっていた。

 驚くほど細い身体の線に、シンジは思わず身じろぎしてしまう。

 

 そんなシンジの緊張を余所に、優梨は楽しそうに一枚一枚写真をめくり始

めた。

 

「やっ。これ、なんか変な顔してる」

 

 笑う度に彼女の身体が触れる。

 時にはもたれかかるように。

 お酒のせいか彼女は頬を微かに染めており、日頃は意識していなかった女

らしさを感じさせていた。

 

 シンジはどこか罪悪感を感じつつも、他人の体温を感じられる心地よさに

身を離すことが出来なかった。

 他に誰もいない二人だけの空間であることが、シンジの気持ちを緩めたの

かもしれない。

 

 二人はしばらくの間、寄り添うようにして写真をのぞき込んで笑っていた。

 

 

 だが、時間は容赦なく進む。

 

 

 優梨の手が止まったのは、最後の一枚―――ちょうどシンジがバーを飛び

越える瞬間の写真を開いたときだった。

 

「終わっちゃったね」

 

 シンジの何気ない一言。

 

「うん………」

 

 それまで陽気に振る舞っていた優梨は、しばらくじっとその写真を見つめ

ていたが、突然うつむき加減に顔を伏せた。

 

「どうしたの?」

 

 前髪に隠れて表情はよく見えない。

 

「………だ」

 

「ん?」

 

「………やだ」

 

 突然の優梨の変化に、シンジは訳もなくゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「こんなの、やだ」

 

 絞り出すように優梨は口を開いた。

 写真を握った手にきゅっと力が入る。

 

 微かにベッドが軋む音がした。

 

「近くにいられるだけで嬉しかった頃に戻りたい………」

 

 シンジは彼女の言葉が理解できず、眉をしかめた。

 

「こんなに側にいるのに………、すごく嬉しいはずなのに………」

 

 優梨の中で何かが弾けた。

 

「どうして、碇君のこと好きになっちゃったんだろう」

 

 シンジの呼吸が一瞬止まる。

 

「碇君のこと好きにならなければ、こんなつらい思いしなくても済んだのに」

 

 微かに震えているその声は、他に邪魔するものがないこの空間によく通った。

 シンジはその言葉の意味を理解する前に、反射的に言葉を紡いだ。

 

「よ、酔っぱらってるの?」

 

「違うッ!」

 

 強い口調で頭を上げた優梨の瞳には涙が浮かんでいた。

 

「碇君、優しかった。諦めきれないくらい優しかった………」

 

「ちょ、ちょっと待っ―――」

 

 優梨は両手をベッドについて、シンジの方に身体を向けた。

 シンジはその強い視線に気圧されて、優梨から身を離す。

 

「急に、何言ってるの………」

 

 シンジの声も震えていた。

 胸の動悸が激しくなり、頭の奥が痺れるような感覚に襲われる。

 

「わたしじゃダメ? 何でもする。碇君が好きになるような女になる」

 

 心臓が早鐘のように鳴り、頭の中を血液が圧迫してシンジから冷静な思考

を奪う。

 アスカとのそれとは違う、胸が締め付けられるようなこの疼き。

 驚きの中に混じる、愛おしさと独占欲がないまぜになった高揚感。

 

「ね、碇君。わたしのこと嫌い?」

 

 いつの間にか壁際に追いつめられたシンジは、再び唾を飲み込んだ。

 潤んだ瞳と、呼吸に合わせて上下する胸元。

 自分への想いを紡ぎ出すその唇。

 

 シンジは無理矢理視線を引き剥がして天井を見上げた。

 もちろん無理に部屋を出ていくことは可能だったが、心の中のどこかで躊

躇している自分が情けなかった。

 

 何を迷ってるんだ僕は―――

 

「気づかなかった? 私の気持ち」

 

 悲しそうに優梨は言う。

 

「知らないよ! 全然……、そんなの、気づかなかったよ………」

 

「うそ。優しくしてくれたじゃない」

 

「ホントだって! だいたい会ってからまだ―――」

 

「5年になる」

 

 シンジの言葉を遮って優梨が言い放った。

 その瞳は悲しみをたたえ、ひどく美しく見えた。

 

「5年………?」

 

「わたし、5年前からずっと碇君のこと想ってた」

 

 シンジは声を失った。

 5年という期間の重さに、そしてそれほど昔から彼女が自分のことを知っ

ていたという事実に。

 

「そんな………こと、突然言われても………」

 

 シンジの瞳が空を彷徨う。

 何をどう言えばいいのか全く頭に浮かんでこないのだ。

 少なくとも優梨に好意を抱いているのは事実だったが、今までそれを恋愛

に結びつけたことは一度もなかった。

 これまで他の女性から好意を打ち明けられたことも少なからずあったが、

アスカ以外で恋愛に発展したことはもちろんない。

 

 それを、多感な少年時代を常に危険が伴う環境で育ったせいだとケンスケ

に分析されたりもした。

 

 確かに、あの頃に知り合った友人と、普通の生活に戻ってからできた友人

との間に線を引いてしまうことは今でもよくある。

 傷を負った者同士で傷を舐め合ってるんじゃないかと思うこともある。

 

 そして、それを心地よいと感じている屈折した自分がいる。

 

 例えば、エヴァに乗っていた頃の話をして彼女に理解してもらえるか?

 

 たぶん、無理だ。

 彼女にあの苦しみはわからない。

 

 

 ―――だったら、彼女につらい過去があったとして、君はそれを理解でき

    るのかい?

 

 内なるもう一つの声が聞こえてきた。

 

 ―――自分がより苦しい思いをしてきたからといって、癒やすことができ

    るつもりなのかい?

 

 それは………わからない………

 

 ―――悲しみとは計れるものじゃない。人の心の中にある感情は相対とし

    て常に揺らぎ、干渉し、幾多の尺度により計られる。絶対などあり

    得ないんだ。君はそれを学んだはずだよ。

 

 そう、かもしれない………

 

 ―――君は彼女のことが好きだ。恋愛感情を抜きにしてね。

 

 ………うん。否定はしない。

 

 ―――それは何故か?

 

 ?

 

 ―――彼女が君に接近してきたからさ。

 

 !

 

 ―――彼女は君に話しかけてきてくれた。

    彼女は君のことを見てくれていた。

    だから、君は彼女が好きになった。

    自分を認めてくれてる存在として。

 

 それは………

 

 ―――もし彼女が君に全く興味を持たなかったとしたら、君は彼女を好き

    になったかい?

 

 ………

 

 ―――君が躊躇しているのは、彼女に嫌われるのが怖いからだ。

 

 ………たぶん、そうだ。

 

 ―――君は失うのが怖いんだ。自分が好きになった人ではなくて、自分を

    好きになってくれた人を失うのが。

 

 そうさっ!

 僕は柿崎さんだから好きになったんじゃなくて、僕を好きでいてくれたか

ら好きになったんだ!!

 いいじゃないかっ、どうせ僕はそんなヤツなんだ!!!

 

 ―――別に悪いとは言ってないさ。いや、それでいいとさえ思うよ。

    人の心とは、時に残酷なものなんだ。

 

 でも、でも、僕は………

 

 ―――そんなに悩む必要はないさ。君は事実を認めればいいだけだよ。

 

 事実?

 

 ―――君にとって価値があるのは、彼女よりアスカ君だってことを。

    君にとって一番認められたい人は彼女だってことを。

 

 そう………なんだ。

 

 ―――誰かが幸せになるには、誰かが不幸になるしかないんだ。

 

    誰もが等しく幸せになれる世界は、幸せを感じられない無の世界。

 

 

 ………わかってる。

 

 

 僕がこの世界を選んだんだ。

 

 

        *        *        *

 

 

 シンジの目の前では優梨の独白が続いていた。

 

「アスカに較べたら魅力ないのはわかってる。彼女と碇君の間に特別な絆が

あるのも見てればよくわかる」

 

 優梨の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。

 

「でも、わたしにも碇君が必要なの………」

 

 その言葉はシンジの胸を深く、鋭くえぐる。

 

「あの日碇君がわたしに空を見せてくれてから、碇君の存在はずっとわたし

を支えてくれた。

 碇君も参大に進学するって聞いたとき、すごく嬉しかった。

 碇君と初めて話したとき、心臓が破裂するかと思った。

 想像してたとおり本当に優しい人だった。

 話す度にどんどん好きになっていくのがわかった。

 でも、碇君の側にはいつも彼女がいた………」

 

 何も答えないシンジに不安を感じたのか、優梨はさらに言葉を続ける。

 

「もしアスカの前に出会ってたら、わたしのこと好きになってくれた?」

 

 喉まで出かかった言葉をシンジは飲み込む。

 優梨がアスカのことを口に出したのは、シンジにとって幸いだったのかも

しれない。

 

「わからないよ………」

 

 苦しそうな表情で首を振るシンジ。

 

「でも、僕はアスカ以外の人を好きになることはないから」

 

 小さい声ではあったがハッキリとしたシンジの言葉に、優梨は肩の力を落

として両手で顔を覆った。

 半ば予期していた言葉だったが、それでも実際に聞くとなると目の前が真

っ暗になるような感覚に襲われる。

 

「どうして………」

 

 嗚咽が部屋に響きわたる。

 

「柿崎さん………」

 

「早く行ってッ!」

 

 慰めの言葉を探すシンジに、優梨は強い口調で言い放った。

 

「碇君がいるとわたし、ダメになっちゃう………

 卑怯で、ずるくて、こうやって同情を引いて………

 友達のいない間に彼氏だって奪おうとする嫌な女になっちゃうッ!!」

 

 優梨はベッドに崩れ落ちるように身を投げ出した。

 

「もぉ、こんなのやだ………」

 

 くぐもった声がシンジの心を打つ。

 

「………だから、もう………話しかけないで……

 

 優しく………しないで………」

 

 シンジは彼女の身体に伸ばしかけた手を戻すと、ぎゅっと拳を握りしめた。

 そして一度も振り返らずに無言で部屋を出て行った。

 

 

 残された空間には、ただ嗚咽のみが響きわたった。

 

 

        *        *        *

 

 

 シンジは重い足取りで歩道を歩いていた。

 

 冷え切った外気に、痺れるような月光が光る。

 

 鼻をすすって涙がこぼれ落ちないように顎を上げた。

 

 空が、ぼやけて。

 

 白と、黒が、滲む。

 

 

 でも。

 

 涙は、流さない。

 

 僕は涙を流さない。

 

 涙と一緒にこの気持ちを流してしまいたくない。

 

『ずっと好きだったの』

 

 そんな………

 

 全然知らなかった。

 

 優しい人なんて思われたのは誰からも嫌われたくなかったからなんだ。

 

 みんなに好かれたかったから優しいフリをしてただけ。

 

 僕は………

 

 他人に無視されるのが怖い………

 

 嫌われるのはイヤだ………

 

 他人に期待されるのはイヤだけど、必要とされないのはもっとイヤだ。

 

 ただ、それだけなんだ………

 

 卑怯で、ずるくて、臆病で、自分勝手で、

 

 愛してる人には同じくらい愛されたくて、

 

 好きな人には同じくらい好かれたくて、

 

 でも、嫌いな人には嫌われたくなくて、

 

 自分に都合のいい関係だけを求める最低なヤツなんだ。

 

 だから、ごめん、なんて言わない。

 

 明日からまた今まで通りの関係に戻れることを期待してる僕なんかに、

 

 ごめんなんて言う資格、ないよね。

 

 誰かを幸せにすることが、誰かを悲しくさせることもある。

 

 みんなが幸せになることなんてできないんだ。

 

 そんなこと知ってたはずなのに………

 

 

 ちくしょうっ!!

 

 

        *        *        *

 

 

 真っ暗な部屋には、カーテンの隙間から僅かに月の光が差し込んでいるの

みだった。

 

 優梨は茫然とした面もちでベッドに腰掛けていた。

 

 身体を襲う虚脱感。

 

 胸にぽっかりと空いた黒い空洞。

 

 絡んでいた蜘蛛の巣ごと羽がもぎ取られた感覚。

 

 

 右手にしっかりと握っているのは、バーを飛び越すシンジの写真。

 

 

 碇君は―――

 

 碇君は、一人だった。

 

 碇君は、傷を負っていた。

 

 碇君は、何かと戦っていた。

 

 碇君は、私の翼だった。

 

 碇君は、笑うと可愛かった。

 

 碇君は、逞しかった。

 

 碇君は、いつも遠くにいた。

 

 碇君は、私を見てくれなかった。

 

 碇君は、………

 

 

 碇君は、優しすぎた。

 

 

 バイバイ、碇君。

 

 

 涙が、止まらなかった。

 

 

                          <弐拾壱話に続く>



 

 優梨ちゃん、ゴメン!

 

 追記:優梨がシンジのことをはじめて知ったお話も含め、神泉さんがこの話

の外伝をいくつか書かれております。

 まだ読んでない方は、是非こちらも併せてお読みになるようお勧めします。

 アムリタ 〜a traveler resting by a spring〜

 「EVANGELION // Chapter0:1」内の「Chapter 0:17」のシリーズです(連載中)



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