第弐拾弐話 「きっかけ」

written on 1998/3/29


 

 

 ぽっかりと口を開けた暗い空間の前に、一人の青年と、二人の少女が立っ

ていた。

 背の高い細身の青年はもちろん碇シンジ。

 その左側で大きく深呼吸しているのは緑川香奈。

 右側で手を後ろに組み、むすっとした表情をしているのは千条雨佳である。

 

「何が悲しくて夏でもないのにこんなとこ来なきゃなんないのよ……」

 

 雨佳は先ほどから何度もブツブツと不平の声を上げていた。

 そのたびに、めずらしくピンで止めている黒髪がゆらゆらと揺れる。

 

「寒いときの鍾乳洞。こーゆーの一度は経験しておかないと」

 

 香奈がにっこりと笑って言った。

 前方に広がる暗闇からは、何とも言えないねっとりとした生暖かい空気が

流れてくる。

 香奈のくりくりっとした瞳が、いつもよりいっそう大きくなっている。

 

「ったくぅ。せっかく新しい乗り物が出来てたのに……」

 

「だから二人で行っていいよって言ったじゃない」

 

「そ、そんなこと出来るわけない……でしょ……」

 

 慌てて声を張り上げた雨佳は、隣でシンジが小さく笑ったのを見て、最後

の方は呟くように小さな声で香奈をにらみつけた。

 遊園地に行く予定だったのが、今日の朝になって突然香奈が鍾乳洞に行き

たいと言い出したのだ。

 もちろん雨佳は猛然と反対したが、さっきのようなセリフを言われれば、

今の雨佳に抵抗するすべはなかった。

 

「ずぇぇぇぇぇっっっっっったいこの穴埋めはしてもらうからね!」

 

「うん。いいよぉ。何でもするー」

 

 呪いの言葉を吐くかのような雨佳の声に、香奈はあっけらかんと答える。

 

 そんな二人を、シンジは苦笑しながらも暖かいまなざしで見つめていた。

 気落ちしている自分を心配して、雨佳が外出に誘ってくれたことくらいは

気づいていたからだ。

 実際、久しぶりに千条家を遠く離れて、電車とバスを乗り継ぎながら、こ

んなところまで外出してみると、先日のアスカとの諍いが他愛もない喧嘩に

感じられた。

 雲一つない晴天の下、こうやって二人の少女の屈託のない会話を聞いてい

ると、すっかり気分も晴れてきて、いつかここにアスカを連れてきてみよう

かと思ったりもする。

 

 きっとアスカは鍾乳洞なんて入ったことないから、どんな反応を示すか楽

しみだな……

 

 いつの間にかシンジの口元は緩んでいた。

 だからといって、自分から全面的に謝るのは釈然としないところもあった

が、なんとかなるだろうと楽観的な気持ちになり始めたのは大きな変化だっ

た。

 

「はやく〜」

 

 いつの間にか香奈が入り口の階段を下りて、シンジたちの方を振り返って

いた。

 ピッタリと隣に寄り添っていた雨佳が、シンジの顔をのぞき込む。

 

「早く行きましょっ?」

 

 シンジは笑って頷くと、雨佳の後に続いて階段に足を下ろした。

 

 

        *        *        *

 

 

 鍾乳洞に入って10mも進まないうちのことだろうか、シンジの隣を歩い

ていた雨佳の足取りが急に遅くなりはじめた。

 一歩一歩、おそるおそる足を踏み出すように歩を進めている。

 

「ちょ、ちょっと待ってよぉ」

 

 勾配が急になった岩肌は、湿り気を帯びて滑りやすくなっていた。

 さっさと先を進む香奈から声が飛んでくる。

 

「こんなとこにそんな靴履いてくるから」

 

 雨佳は、背が高いシンジと釣り合いをとりたくて、少しヒールが高めの靴

を履いていたのだ。

 もちろん香奈は滑りにくいギザギザの入ったスニーカーである。

 

「あんたねぇ!」

 

 怒鳴った途端、つるんとすべって危うく尻餅をつきそうになった雨佳を、

シンジが素早く手を伸ばして身体を支えた。

 

「おっと! 危ないよ」

 

「え、あ、ありがとうございます」

 

 いきなり格好悪いところを見せてしまった雨佳は、胸の中にふつふつと沸

いてくる香奈への怒りを押し殺しながら、シンジに感謝の言葉を述べた。

 

「先に行ってるねー。ごゆっくりー」

 

 雨佳がとっさにしがみついたシンジの腕を掴んで体勢を立て直したときに

は、香奈の声はすでに遠くなっていた。

 二人を置いてさっさと先に進んでしまったようだ。

 後ろからも誰もやってくる気配がない。

 香奈に限って気を使っているわけではないことはわかっていたが、雨佳は

これをチャンスとばかりに、

 

「この靴滑りやすくって……」

 

 少し怖がってるような声を出して、シンジの腕にぎゅっとしがみついた。

 いつの間にか香奈への怒りが感謝に変わっていたことは言うまでもない。

 

「あの……このまま掴まってていいですか?」

 

 上目遣いでシンジの顔を見上げる。

 

「え、あ、う、うん。僕はかまわないけど」

 

 シンジはどぎまぎしながら雨佳にそう答えた。

 10歳近く離れているとはいえ相手は女性。

 アスカ以外の女性とは、異常とも言えるほど接触がなかったシンジにして

みると、相手が雨佳であっても緊張してしまうようだ。

 しがみつかれた方と逆の腕が所在なげにふらついている。

 

「意外とがっしりしてるんですね」

 

 嬉しそうにシンジの腕を掴んでいた雨佳が、歩きながら感心したように言

った。

 

「うん、まぁ、トレーニングは欠かせないからね」

 

 実際に道具を使った練習はできないまでも、シンジは長野に来てからも基

礎体力づくりだけは毎日欠かさず行っていた。

 

「ハイジャンプでしたっけ?」

 

「うん。地味な種目だけど」

 

「そんなことないですよぉ」

 

 雨佳はシンジが黙々と練習に励む様を想像しながら、頭を横に振った。

 

「格好いいと思いますよ」

 

「格好いい?」

 

 シンジは苦笑しながら言葉を続けた。

 

「そんなこと言われるの珍しいな。いつも暗い暗いって言われてるから……」

 

 シンジの頭の中に、今はドイツにいる彼女の顔がふと浮かび上がる。

 

「単調で地道な訓練が必要な割に、結局その日のコンディションに大きく左

右される競技だから、時々虚しくなっちゃうし」

 

「ふ〜ん。そんなもんですか」

 

「そんなもんだよ。ま、だからこそ、うまくいったときは感激も百倍なんだ

けど」

 

「なるほど。碇さんらしいですね」

 

「僕らしい?」

 

「そ。努力家でしょ?」

 

「努力……ねぇ。才能がないから、努力するしかないって話もあるけど」

 

「努力を続けられるのも才能のうちだと思いますよ」

 

 にっこりと微笑みを浮かべる雨佳と、照れたように下を向いて鼻の頭を掻

くシンジ。

 二人はこうして途切れなく会話を続けながら、薄明るい回廊をゆっくりと

歩いて行った。

 

 

        *        *        *

 

 

「己月ちゃんも連れてくればよかったのに」

 

 シンジがぽつりと呟いたのは、この鍾乳洞の見所である淡水に生息する夜

光虫が見学できる場所であった。

 一定の間隔でライトを消すことによって、その間は壁面がまるで星空のよ

うに美しい輝きを放つ。

 二人がここに辿り着いたのは、ちょうど今日三度目の見学時間が始まった

ところだった。

 香奈の姿がないところを見ると、彼女は待ちきれずに先に進んでしまった

ようだ。

 

 他の見学者の姿は見えず、二人っきりで最高の雰囲気を楽しんでいた雨佳

は、シンジのその一言を聞くなり途端に表情を険しくした。

 

「なにそれ? 説教でもするつもりですか?」

 

 冷たい声音でシンジの顔を睨み付ける。

 過敏な反応を示す雨佳に驚いて、シンジは慌てて頭を横に振った。

 

「ご、ごめん。そんなんじゃないけど……。せっかくの家族なのに、どうし

て仲良くしないのかなって気になっててさ」

 

 事情も事情であるし、シンジはこれまで千条家のプライバシーに首を突っ

込むことを避けてきたが、今日の朝も一言も己月に声をかけずに出てきた雨

佳の様子がどうしても頭から離れなかったのだ。

 家族というものに対するシンジの憧れ、いや幻想がそうさせるのかもしれ

ない。

 しかし雨佳から返ってきた言葉は、頑ななまでに冷たいものだった。

 

「別に家族だからっていつも一緒にいることないでしょ。己月は己月でやる

ことあるんだし。連れて行ってってお願いされるのなら、考えてあげないこ

ともないけど」

 

「そんな言い方は良くないと思うよ。己月ちゃんだって色々あったんだから

もう少し優しくしてあげなきゃ」

 

 多少は己月の事情を知っているため、シンジは少し語気を強めて言い返し

たが、逆に雨佳を刺激するばかりであった。

 

「己月、己月、己月、己月って、みんなそればっかり。なんでわたしばっか

りなのよ。おじいちゃんはいつも仕事仕事って逃げてるし、パパとママも全

然帰ってこないじゃない! お姉ちゃんだからって全部わたしに押しつけな

いでよ!!」

 

 いつの間にか雨佳はシンジの腕から手を離して、睨み付けるようにシンジ

の顔を見上げていた。

 彼女の突然の変わり様に、シンジは驚いて瞬きを繰り返すばかりであった。

 

「英語なんてロクにしゃべれないんだから、わたしだってどうすればいいか

わかんないわ! あの娘も別に寂しそうにしてるわけじゃないし、ほっとい

たっていいじゃない!」

 

 雨佳はアメリカから達明が己月を伴って帰国したときのことを思い出しな

がら、そう言い放った。

 

 新しい家族ができるという緊張感と、そして期待とを胸に抱きながら空港

のロビーで二人を迎えた雨佳に対して、己月は無表情で簡単に挨拶を返した

だけであった。

 まだその時は彼女の病状について詳しいことを知らなかった雨佳は、非常

に面食らい、そして反感さえ覚えたことを思い出す。

 悲しみを抱えた妹を暖かく迎える姉。

 そういった構図を描いていた雨佳は、その時以来、己月の心に接するきっ

かけを失った。

 それを自分の方から心を開いて向かっていけるほどは、まだ雨佳も大人で

はなかったのだろう。

 その後も雨佳には己月が自分を慕っているようには見えず、今では、彼女

の方もほとんど意地になっていると言ってもよかった。

 

「なんにもわかってないくせに! 大きなお世話よ!」

 

 雨佳は一気にまくし立てると、シンジからそっぽを向いて入り口の方を振

り返った。

 止まらない感情の爆発に自分でも驚いたのか、地面に視線を落としたまま

大きく息を吸って呼吸を整える。

 鍾乳洞の壁に当たって反響を繰り返す自分の言葉が嫌でも耳に入り、まる

で八つ当たりのようにシンジに対して感情を爆発させた自分を、雨佳は情け

なく感じていた。

 どこかに感情を吐き出す場所を求めていたのかもしれない。

 誰かに心の声を聞いて欲しかったのかもしれない。

 シンジにそれを求めていたのかもしれない。

 

 わたしって子供よね……

 

 一時の興奮が収まると雨佳は小さくため息をついた。

 背後にいるはずのシンジは微動だにしない。

 冷静さを取り戻した雨佳は、シンジの様子が気になって、おそるおそる後

ろを振り返ろうとした。

 そして頭を上げた瞬間、この広間の入り口の方で数人の客が遠巻きに二人

の方を見つめている姿が目に入った。

 自分が大声を出して、さらにはうっすらと涙さえ浮かべていたことを思い

出し、雨佳は恥ずかしくて頭に血が上ってくるのを感じた。

 すぐに振り返ると、まだ呆然とした面もちで突っ立っていたシンジの側を

通り抜けて、小走りに出口の方へ向かう。

 一拍遅れてその後を追ってきたシンジから、雨佳の背中に小さな声が飛ん

だ。

 

「……ごめん。僕には家族の事なんて何もわからないから」

 

「ちがう!」

 

 シンジの言葉を聞いた瞬間、雨佳は振り返って悲鳴のような声を上げた。

 それが大声だったことに気づいて再び首筋まで赤く染めると、シンジに先

へ進むよう促した。

 そして薄明るい回廊に出てから、ぽつりと小さく呟いた。

 

「わたしが悪いの。全部わかってるから……」

 

 それから二人は家に帰り着くまで、ほとんど会話を交わすことはなかった。

 

 

        *        *        *

 

 

 なんとなく気まずい沈黙が支配した夕食の後、仕事場へ向かった達明と、

自室に籠もった雨佳を除いて、残されたシンジと己月はテーブルに向かい合

って食後のデザートを食べていた。

 昼間のやりとりを思い出しているのか、シンジはぼーっと己月の顔を見つ

めている。

 最初は何も気づいてないように表情を変えなかった己月も、しばらく経つ

と、さすがに落ち着かない様子でシンジにちらちらと視線を向け始めた。

 それに気づいたシンジが慌てて口を開く。

 

「あ、ごめん。ちょっと気になることがあって……」

 

 細い首を傾げて己月がシンジを見つめ返した。

 

「あのさ。己月ちゃん……」

 

 思わず喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、シンジは慎重に言葉を選ん

で話し始めた。

 

「今日鍾乳洞に行ったんだけど、すごく面白かったよ。今度一緒にどこか出

かけようか?」

 

 真意を測りかねるように一回だけ瞬きをする己月。

 

 シンジはそのまま言葉を続けた。

 

「どこか行きたいトコとか、ないかな?」

 

 己月は動きを止めていたスプーンを再びヨーグルトの中に突き立てると、

珍しく小さな声で言葉を発した。もちろん英語である。

 

『気を使わないでください』

 

 そう言うと何事もなかったかのようにヨーグルトを口に運び始めた。

 その行為はこれ以上シンジに言葉を続ける隙を与えなかった。

 再びテーブルに気まずい沈黙が訪れる。

 それからすぐに己月はデザートを食べ終えると、流しに食器を運んで部屋

を出ていこうとした。

 

 その様子を心の中でため息をつきながら見ていたシンジの方を、部屋を出

る直前に己月が振り返った。

 

『わたし、今のままで十分幸せなんです』

 

 その一言には何の飾りもなく、穏やかな光を見せる瞳は真っ直ぐにシンジ

の顔を見つめていた。

 

 

        *        *        *

 

 

 もうすっかり見慣れた天井を見つめながら、シンジは腕を頭の後ろに組ん

でベッドに横になっていた。

 今日の雨佳と己月とのやりとりを思い出しながら、シンジはなんとか力に

なれないものかと頭を巡らせていた。

 お節介なことだとはわかっていても、自分の存在が刺激になってこれまで

の彼女たちの微妙な関係を良い方向に持っていけるかもしれない。

 今日のやりとりを通してシンジはそう感じていた。

 

 だが、もともと家族という関係に対する経験が乏しく、さらに親族さえも

その存在がわからないシンジにとっては、雨佳の心情はなかなか理解できる

ものではなかった。

 昔はともかく、今のシンジから見れば、家族や親族が存在するだけで羨ま

しく感じられるのに、どうして露骨に己月を避けるのか。

 しかも、彼女は己月自身を嫌っているわけでもないようなのに。

 

 何かきっかけさえあれば……

 そうすれば二人は仲良くなれるはずだ。

 

 階下から小さな悲鳴が聞こえてきたのは、ちょうどシンジが寝返りをうっ

たその時だった。

 最初はそれがなんなのかわからずベッドの中で聞き耳を立てていたが、バ

タバタと走り回る足音が聞こえてくるに従って、素早くベッドから身体を起

こすと、ドアを開けてそっと階段の方に向かった。

 階段を下りて一階の廊下を覗くと、達明が己月を抱えて洗面所へ向かう後

ろ姿が目に入った。

 辺りにはツンとくる異臭が漂い、己月のものと思われる吐瀉物が廊下に点

々と残っていた。

 シンジは慌てて二人の後を追いかけて洗面所に駆け込んだ。

 

「大丈夫ですか!? いったいどうしたんですか?」

 

 達明が己月の背中をさすりながら振り返った。

 

「起こしてしまったか。すまんな」

 

「いえ、起きてたので。それよりも己月ちゃんどうしたんですか?」

 

 苦しそうに胃液を吐いている己月の背中を見つめながら、シンジは心配そ

うに尋ねた。

 

「時々事故の記憶がな。その時のことを思い出すと気分が悪くなるようなの

だ」

 

 己月は額に汗を浮かべながら苦しそうに胃液を吐いている。

 

「ここしばらくは発作は出てなかったので、もう大丈夫かと思っとったのだ

が……。びっくりさせてすまない。話しておくべきだったな」

 

「そうだったんですか……。もしかしてPTSDですか?」

 

 シンジにはこの症状に思い当たる節があった。

 意外そうな表情で達明がシンジを見上げた。

 

「ああ、確かそんな風に医者は言っとったが。知ってるのかね?」

 

「ええ。まぁ」

 

 シンジは曖昧な表情を浮かべながら頷いた。

 PTSDとは『心的外傷後ストレス障害』を意味し、瀕死の重症を負った

り、殺人を目撃したりすることなどによる、重い精神的な傷(トラウマ)を

負った場合に生じることが多く、無力感や悪夢、頭痛や吐き気といった症状

が現れる。

 シンジも以前軽度のPTSDに悩まされたことがあり、その時の症状を思

い出したのだ。

 彼の場合は、エヴァに乗り始めた初期の頃の戦闘における強い衝撃、そし

て環境の激変による精神的負担によりPTSDと診断された。

 もともと水が苦手だったこともあり、LCLに浸かることが即ちトラウマ

を呼び起こすキーとなり、しばらくの間は水の中に顔をつけることさえ出来

なくなった。

 今はもうすっかり克服しているとは言え、その時の症状は今でも苦い思い

出として記憶の中にある。

 PTSDの治療には、もちろん医者や家族による周囲の暖かいサポートが

必要だが、何よりも自分がその忌まわしい記憶と冷静に対峙できるようにな

ることが重要であった。

 

 だからこそ、少なくとも今の段階では、彼女のために自分が何かしてあげ

られるとは、シンジにも思えなかった。

 

「廊下を掃除してきます」

 

 己月の背中に心配そうな視線を向けながらも、達明に短く言い残すと、シ

ンジは雑巾を取りに玄関へ向かった。

 

 

        *        *        *

 

 

 シンジが掃除を終えた頃には、既に己月も平静を取り戻して寝室へ戻って

おり、達明が一人洗面所の掃除を行っていた。

 

「すまんな。助かったよ」

 

 シンジの気配を察してか、背中を向けたまま達明が言った。

 

「いえ……。じゃ、もう遅いのでこれで……」

 

 シンジは疲れの色が見える達明の背中に軽く頭を下げると階段へと向かっ

た。

 達明は無言で頷くだけであった。

 

 階段を登り終えたところで、シンジはパジャマ姿の雨佳が彼女の部屋のド

アから心配そうに顔を覗かせていることに気がついた。

 眠っているところを起こされたのか瞼がはれぼったい。

 

「もう大丈夫みたいだよ」

 

 不安そうな表情を浮かべている彼女を安心させるように、シンジは努めて

明るく言った。

 

「うん……」

 

「声かけてあげたら?」

 

「……」

 

 沈黙。そして戸惑い。

 自己嫌悪を隠すように俯いた表情からは、明らかに迷っている様子がうか

がえる。

 

「今やらなきゃ後悔することって沢山あるよ」

 

 シンジは静かに、しかし力強く雨佳に言葉をかけた。

 自身の過去の経験、そして様々な後悔に裏付けられたシンジの言葉は、単

純ながらも人を動かす力を持っていた。

 雨佳は一瞬シンジの顔を見つめて、小さく下唇を噛んだ。

 葛藤が表情に現れる。

 そしてもう一度シンジの顔を見つめると、いったん部屋の中に戻ってカー

デガン羽織ると廊下にそっと足を踏み出した。

 シンジの方に向かって頭を下げると、ゆっくりと階段の方へ向かう。

 

 今やらなきゃ後悔する……か。

 

 階段を下りるまで雨佳の姿を見送ったシンジは、頭をぼりぼりと掻きなが

ら部屋へと向かって歩き始めた。

 部屋に戻ったシンジは、ベッドに戻らず机に向かうと、久しぶりに端末を

立ち上げた。

 

 

        *        *        *

 

 

 満月の淡い光がうっすらとカーテンを染め上げる中、さして大きいとは言

えないベッドに二人の少女が寄り添うように横たわっていた。

 黒髪の少女は多少居心地が悪そうに、身体を真っ直ぐに伸ばしている。

 その隣には、ブロンドに近い茶色の髪をくしゃくしゃにして、身体を丸く

した少女が寄り添うように目を閉じていた。

 

 ベッドのシーツを取り替えて部屋を出ていった達明と入れ替わるように入

ってきた雨佳に、小さな声で一緒に寝てもいいかと尋ねられた時には、さす

がに戸惑いを隠せなかった己月も、今はすっかり安心して眠っているようだ。

 

 時々己月が身じろぎをする度に、雨佳はそっと横目で彼女の様子を伺う。

 そして、たいてい次の瞬間には、己月が雨佳のパジャマの裾をきゅっと握

ってくるのが、雨佳の心を締め付けた。

 思わず手を伸ばしてその柔らかそうな髪を撫でてあげたくなる。

 

 思い出すと今までこれほど己月の近くに居たことは無かった。

 

 ごめん……

 

 雨佳の口が小さく動いた。

 薄明かりの中、チラリと己月の瞼が開いて、雨佳の瞳をのぞき込む。

 それも一瞬。

 またすぐに目を閉じて、少しだけ身体を雨佳の方に寄せた。

 

 不思議と涙が出てきた。

 

 ごめんね……

 

 涙が頬をぬらす。

 

「ごめんね……」

 

 小さく嗚咽の声を上げる雨佳に対して、己月はそっと身体を寄せて応えた。

 今の二人にはそれだけで十分だった。

 

 

                       <第弐拾参話へつづく>



 

 果たしてどこまで行ってしまうのかと危ぶまれた第二部も、お話としては

これでほぼ終わりになります。まだ彼女達については全然書き足りないので

すが、このままでは本筋から離れすぎてしまうのでばっさり切ることにしま

した。本筋の方を書き終えてまだ気力があれば、外伝か何かで補完するつも

りです。

 

 ところで淡水の夜光虫っているのかな?(^^;)

 かーなーりーいい加減な設定ですまんです(^^;)

 

 次回は四月上旬にはアップできると思います。

 



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