第弐拾五話  1st day - Are you ready? -

written on 1998/6/27


 

 

 次に僕が目を覚ましたのは、シベリアの大地の上だった。

 

 窓から外を覗くと、茶と緑の色が入り混じっている丘陵と、その間を柔ら

かい曲線を描いて流れていく青色の川が眼下に広がっていた。

 よく晴れている。

 そして、それら全てを覆っている雪の白。

 眺めているだけでも身体に震えがきそうだった。

 座席の前面に備えつけてある液晶ディスプレイにタッチして現在位置を確

認してみると、すでに飛行機はモスクワの近くまでやってきていた。

 到着地のルクセンブルク空港からケルンまでは、鉄道で四時間もかからな

いから、時間にしてあと六時間後くらいにはアスカに会えるはずだ。

 そのことを思うと、はじめての海外旅行に対する不安もどこかに飛んでい

ってしまう気がした。

 

 僕が第二新東京空港から乗ったのは昔ながらのジャンボジェット機。

 時間はかかるけど、これでも僕のバイト代のほとんどが消えてしまうほど

の運賃がかかる。

 とてもじゃないけどSST(超音速飛行機)には手が届かなかった。

 機内には様々な人達が乗っていた。

 いかにも出張といった感じの白髪混じりの会社員。

 赤ん坊を抱えたおばあさん。服装から察するにイスラム系の人だろうか。

 胸毛をシャツの合わせ目からのぞかせて豪快にいびきをかいている赤ら顔

の外人は、きっと観光旅行から帰国するドイツの人だろう。

 さっきからずっと窓の外を見つめている若い女性もいる。

 この中には、僕のように愛する人のもとへと向かっている人もいるんだろ

うか。

 

 僕は感傷的になっている自分に苦笑すると、バッグの中から携帯端末を取

りだしてもう一度アスカからのメールを確認した。

 ケルン駅にはアスカが迎えにきてくれることになっている。

 そして一週間ちょっとの滞在期間の間は、アスカの自宅にお邪魔すること

になっていた。

 言われたとおりアスカのお母さんの好物もお土産に持ってきているし、ド

イツ語と英語も多少はしゃべれるように努力してきたつもりだ。

 そんなに機嫌を損ねることはない……と思う。

 念のためこれまでやりとりしてきたメールを読み直しているうちに、飛行

機はとうとうルクセンブルクへ到着した。

 

        *        *        *

 

 心配していた入国審査はあっけないほど簡単に済んで、それから数時間後

には僕はケルン駅に到着していた。

 十二月のケルンはまだ雪に包まれてはいなかったけど、ホームに降り立っ

た僕の肌を刺す空気は日本よりも数倍冷たい感じがした。

 厚手のコートを身体に密着させるようにして襟元を寄せると、僕はアスカ

からメールで指示されたように、西5番の出入り口からちょっと歩いた駐車

場へと向かった。

 駅の建物から外に出た頃から一歩足を進める度に胸の鼓動が増してきて、

待ち合わせの3番ゲートが見えてきたときには息をのんだりもしたけれど。

 

 ……アスカはやっぱりまだだった。

 

 人気のないそのゲート付近を見渡して、僕はなんとなくほっとしたような

白い息を吐いた。

 彼女が時間にルーズなのはいつものことだったので、さして驚きもせずぼ

ーっと駐車場のフェンスに寄りかかって時間が過ぎるのを待つ。

 

 道行く人の声が全てドイツ語か英語なのを聞いて、改めてドイツに来たこ

とを実感する。

 若い女性の声でドイツ語が聞こえてくる度に、僕はその方向を振り向いて

いたけれど、しだいにそれも気にならなくなった。

 きっとアスカのことだ。すぐにアスカだとわかるような登場の仕方をして

くれることだろう。

 

 肌を刺す冷たい空気にさらされながら、僕はアスカに会ったら最初にどん

なセリフを口に出そうかと、そればかり悩んでいた。

 

『久しぶりだね』 ――普通すぎるか。

 

『会いたかったよ』――きっと笑われちゃうな。

 

『元気だった?』 ――これは間抜けすぎる。

 

 相変わらず気のきいたセリフが全然浮かんでこない自分にあきれて苦笑し

ていると、目の前に一台のバイクが猛スピードで走り込んできて、急ブレー

キをかけて止まった。

 厚着をしていたけれども、体つきからして乗っているのは女性だった。

 もしかして、と思った僕の予想は当たっていた。

 

「乗って」

 

 フルフェイスのヘルメットの中から、くぐもった声が聞こえてきた。

 

「アスカ?」

 

「うん。早く乗って。急いでるから」

 

 ヘルメットを手渡されてあたふたする僕をよそに、アスカはエンジンを吹

かしはじめた。

 この有無を言わせぬ強引さは、やっぱりアスカだ。

 けれど、感動の再会は果たすべくもなく。

 慌てて後部シートにまたがった瞬間、急にバイクは加速をはじめて、僕は

思わずアスカの身体に手を回して強くしがみついた。

 

 まったく慌ただしい。

 そんなに忙しいのかな……。

 

 と、味気ない再会に少し不満を抱いていると今度は急停止。

 ヘルメット同士がガツンとぶつかってしまった。

 

「どうしたの?」

 

 車の往来を気にしながら問いかけた僕の質問に対して、アスカはヘルメッ

ト越しにくぐもった声で一言だけ発した。

 

「手……」

 

「へ?」

 

 そう言われてはじめて僕は柔らかい感触を左手に感じた。

 僕の左手はしっかりとアスカの胸の膨らみを握っていた。

 

「あわわわわわわわ!」

 

 慌てて両手をほどいてアスカの身体から身を離す。

 

「ちょっと気が早いんじゃない?」

 

「え、あ、その、いや、そんなつもりじゃ……」

 

 アスカのいつものいじわるな冗談に、僕はヘルメットの下で顔を真っ赤に

した。

 

「じょーだんよ。じょーだん」

 

 おたおたと言い訳をしはじめる僕を見て、けらけらとアスカが笑う。

 

 笑ってる。

 本当に楽しそうに笑ってる。

 アスカだ。

 やっぱりアスカなんだ。

 

 ようやく僕はアスカと再会したことに実感を持ちはじめていた。

 

「じゃ行くわよ」

 

 今度は僕がちゃんとアスカの細い腰に手を回して、しっかりとしがみつい

たことを確認してから彼女はバイクを発進させた。

 すぐに周りの風景がびゅんびゅんと後方に流れはじめる。

 

「久しぶりだね!」

 

 僕はなるべく大声を張り上げてアスカの耳元で叫んだ。

 アスカはなにも答えなかった。

 聞こえなかったのかもしれないし、もし聞こえていたとしてもこのスピー

ドでは僕に返事が聞こえるはずもなかった。

 けれど。

 このアスカの存在感が、この抱きしめた華奢な身体が、この背中の暖かさ

がアスカの答えのように感じて、僕は少しだけ回した腕に力を込めた。

 

        *        *        *

 

「じゃ、あとのことはママに聞いといて。あたしこれから仕事だから」

 

 そう言い残すと、あたしは呆然としているシンジを自宅の前に残してバイ

クを発進させた。

 思いっきり加速して、路地を曲がって、シンジの姿が見えなくなってずい

ぶん経ってからようやく速度を落とした。

 心臓の鼓動が落ち着いたのは、それからまた少し経ってからだった。

 

 このあたしとしたことが、考えていたことの十分の一もしゃべれなかった。

 寒空の中、フェンスに寄りかかってぽつんとたたずんでいるシンジの姿が

目に入った瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。

 格好良くヘルメットの一つでも脱いでやろうかと思ってたのに、素っ気な

い言葉をかけるのが精一杯。

 シンジの面食らった顔がまぶたに浮かぶ。

 あたしだって自分にビックリした。

 あんなに余裕が無くなるなんて思わなかった。

 シンジは相変わらずシンジらしかったけど、あたしは少し変わったのかも

しれない、なんてふと思う。

 

 さっきもほんとはもうちょっと時間があったのに。

 声がうわずってきて、なんだかいたたまれなくなって、逃げ出すようにバ

イクを走らせてしまった。

 

「う〜〜〜〜〜、あたしのバカ、バカ、大バカッ!」

 

 あたしは自分の情けなさに毒づきながら、青になった信号を抜けて局に向

かってバイクを走らせた。

 

 けれど局についてもあたしの馬鹿さ加減は続いた。

 明日から年明けまで休みを取ることにしていたので、リーダーから今日は

早退していいってせっかく言われてたのに。

 あの馬鹿エディにからかわれたお陰で無理して局に居残ってしまった。

『あの撃墜王と呼ばれたアスカがいそいそと恋人のもとへ急ぐ姿なんて、と

てもじゃないけど見てられないなぁ』なんて大声で言われて、のこのこと帰

れる?

 そしたら案の定仕事が舞い込んできて、夜遅くまで家に帰れなくなっちゃ

った。

 

 ……ったく、バカなのはあたしね。

 

 そしてようやく家に帰ってきたと思ったらママのこのひとこと。

 

「あら遅かったわね。碇君、もう寝ちゃったわよ」

 

 せっかく会いに来てくれたシンジに申し訳ないったらありゃしない。

 でも、実は寝てると言われて、なんとなくほっとしたのも事実。

 いったいどんな言葉をかければいいのか、会話が続かなかったらどうしよ

うとか、そんなことばかり心配してたから。

 ママの前で再会の涙なんて見せてしまった日には、あと何十年からかわれ

るかわかんないしね。

 今すぐにシンジと話が出来ないのはちょっと寂しかったけど、この同じ屋

根の下にいるということだけで幸せな気分になれた。

 

「碇君ってほんとにいい子ね。今日はさっそく掃除や料理を手伝ってくれた

わよ。たどたどしいドイツ語で精一杯自分から話しかけてくれるところなん

て可愛いとこあるわよねー。あんたにはもったいないくらいかしら」

 

 荷物を置きに自分の部屋へ向かおうとしたあたしの背中に、ママの楽しそ

うな声が飛んでくる。

 あたしはママに向かってべーっと舌を出すと、笑みを浮かべながら階段を

軽やかに駆け上がった。

 

 だからずっと言ってたじゃない。

 シンジはいい男だって。

 

        *        *        *

 

 そのシンジは二階の突き当たりの部屋で寝てるはずだった。

 

 あたしは荷物を自分の部屋に投げ込むと、廊下を忍び足で歩いてシンジの

部屋の前に向かった。

 聞き耳を立ててみてもなにも聞こえない。

 隙間から漏れてくる光もない。

 

 やっぱり寝てるんだ。

 日本から二十時間近い旅をしてきたんだから無理もないわよね。

 今日はすごく寒かったし、風邪なんてひいてなきゃいいけど。

 大丈夫かな、シンジ……。

 

 気がつくと、あたしは後ろ手にドアを閉めて真っ暗な部屋の中で息を潜め

てた。

 寝息が聞こえる。

 シンジの寝息。

 

 それと、あたしの鼓動。

 

 暗闇に目が慣れてくるに従って、ベッドに眠るシンジの身体を覆っている

布団の山が浮かび上がってきた。

 

 ごくん。

 

 あたしは緊張のあまりつばを飲み込んだ。

 シンジを起こしてしまったらなんて言葉をかけようかと、必死で頭を巡ら

せた。

 けれど、シンジは熟睡しているみたいだった。

 そっと足をのばしてベッドに近づいても身動き一つしない。

 よっぽど疲れているのか、あたしがベッドの横までたどりついても、気持

ちよさそうに寝息をたてているだけだった。

 

 あたしはシンジの寝顔を見下ろした。

 その無防備な寝顔は確かにシンジだった。

 

「シンジ……」

 

 あたしは小さく呟くと、力が抜けたようにぺたんと尻餅をついてベッドの

横に座り込んだ。

 じわっと、少しだけ瞳が潤む。

 

「ここにいるんだ、シンジが……」

 

 ずいぶん伸びてきた髪の毛がシンジの顔にかからないよう、そっと手で押

さえながらその寝顔をのぞき込む。

 

 最初は髪の毛に手を触れてみた。

 次は顔のラインを確かめるように手を滑らせる。

 額から、まぶたを通って、鼻筋を。

 口元に降りたとき、指の腹にざらつく感触を覚えた。

 

「髭……生えてんだ」

 

 ふふ、とあたしは小さく笑った。

 

 首もとに指を滑らせたとき、シンジがううんと小さく唸ったので、あたし

は慌てて手を引っ込めた。

 シンジの唇がなにかを呟くように動く。

 なんて言ってるのかはわからない。

 その唇の動きを読みとろうとしているうちに、あたしはいつの間にか吸い

込まれるように自分の顔を近づけていた。

 もう少しでお互いの唇が触れ合いそうになる。

 

 でも、あたしはそれをしなかった。

 

 お互いの鼻の頭を微かに触れあわせただけでベッドから離れた。

 

「また明日ね……」

 

 あたしは名残惜しそうに振り返ると、そっとドアを閉めて部屋を出ていっ

た。

 

 

 

                          To be continued

 

                   2nd day - One little word -

 

 



 

 第三部、はじめます。

 

 p.s.遅れまくってゴメンナサイ(^^;)

 



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