第弐拾六話  2nd day - One little word -

written on 1998/8/24


 

 

 冷え切った外の空気とは無縁の暖かい空気で満たされた寝室。

 その明るい配色の部屋の中で、一人の青年が布団にくるまって惰眠をむさ

ぼっていた。

 

 とんとんとん。

 

 軽い足取りで階段を登ってくる足音が聞こえる。

 その足音はドアの前までくるとぴたりと止まった。

 

 こほん。

 

 小さな咳払い。そして一瞬の間。

 

 バタン!

 

 勢いよくドアが開いて、その向こうから左手に菜箸を持ったアスカの姿が

現れた。まるでなにかに挑むような顔つきだ。

 しかし、勢い込んで部屋に入ってきたアスカは、シンジがだらしなく口を

開けて眠っているのを見ると、拍子抜けしたようにひとつ小さなため息をつ

いた。

 

「なんだ……」

 

 しかしそのため息はすぐに微笑みに変わる。

 アスカは窓の側まで大股で歩み寄ると勢いよくカーテンを開いた。

 

「ううん……」

 

 ベッドの上のシンジが、朝の光を受けて眩しそうに布団を顔の上までずり

上げた。

 もぞもぞと身体を丸くするそのなんともだらしない姿を見下ろしながら、

アスカは大きく深呼吸をする。

 次の瞬間、大きな声が室内の静寂をうち破った。

 

「シンジ、起きなさい!」

 

「んー……もうちょっと……むにゃむにゃ……」

 

「このアタシがあんたのためにわざわざ休み取ってあげてんのよ。時差ボケ

くらいさっさと直しなさい!」

 

 ぼんやりとした頭の中に響く懐かしい怒鳴り声。

 ようやくその声の主が誰なのかに気づいたシンジが、がばっと反射的に上

半身を起こした。

 目の前に仁王立ちしているアスカの姿を確認すると、何度も目をぱちくり

とさせる。

 

「え……?」

 

「早くしないとご飯が冷めるわよ」

 

 シンジが目を覚ましたことを確認したアスカは、颯爽とエプロンを翻して

部屋を出ていく。

 

「え? え!?」

 

 アスカの姿が消えたドアをしばらく呆然と見つめていたシンジだったが、

突然ぱたんと身体を折り曲げると毛布の中にその顔を埋めた。

 

「そっか……」

 

 そして、再びアスカの怒鳴り声が聞こえてくるまで、ベッドの上でにやに

やと笑い続けていた。

 

 ドイツに到着して最初の朝は、こうして始まった。

 

 

        *        *        *

 

 

「おはようございます」

 

 そう言ってダイニングルームに入ってきたシンジを迎えたのは、こんがり

といい色に焼けた焼き魚と、暖かい湯気を上げている味噌汁と、きらきらと

美味しそうに光っている白飯であった。

 驚いたことに典型的な和食が食卓の上に並んでいた。

 

「へぇ……。すごいね、これ」

 

 お茶を煎れていたアスカが、シンジの感心したような言葉に顔を上げる。

 後ろで簡単にくくっている髪の毛が弾むようにぴょこんと揺れた。

 

「そう?」

 

 少し照れながらも得意げな表情を浮かべるアスカ。

 シンジの喜んだ顔がことのほか嬉しいようだ。

 

「彼女、何時から朝食の用意してたと思う?」

 

 二人の視線が絡み合ったところへジェイナが口を挟んできた。

 

「……ママ」

 

 ギロリと凄い形相でアスカがジェイナの顔をにらむ。

 

「あら、怖い顔だこと」

 

 ジェイナはシンジの方を見ながら、肩をすくめて口を閉じた。シンジの口

元に思わず苦笑が浮かぶ。

 あいかわらず努力を見せようとしないアスカの姿に、昔であれば弱みを見

せまいとする強い拒絶感を感じていたであろうシンジにも、今では彼女なり

の照れ隠しとして可愛く映る。

 余裕、なのだろうか。距離が縮まったような感覚。

 二人の関係がこれまでと少し変わりつつあるのをシンジは感じていた。

 

「ありがとう。気を使ってくれて」

 

「べ、べつにあんたのためじゃないんだから。最近はうちも和食が多いのよ」

 

 今度は助けを求めるように視線を飛ばしてくるアスカに対して、ジェイナ

は軽く笑って返した。

 

「さぁ、早く食べましょう。美味しいご飯が冷めてしまうわよ」

 

 

        *        *        *

 

 

「今日はどうするの?」

 

 ほとんどの皿が空になった頃だろうか。ジェイナが二人に尋ねた。

 

「んっと……」

 

 ちらっとシンジの方を見てアスカが答える。

 

「たぶん、うちにずっといるわ。しばらく忙しかったから部屋の掃除とかし

たいし。ママは出かけるのよね?」

 

「そうね、どうしようかしら」

 

「な、なに言ってんのよ。友だちとお買い物いくって言ってたじゃない!」

 

「わかってるわよ。そんなに怒らなくってもいいじゃない。ちゃんと出かけ

ます。なにピリピリしてるの」

 

「べ、べ、べつにピリピリなんかしてないわよっ」

 

「ねぇ、碇君もそう思わない? 今日のアスカへんよねぇ」

 

「え……。あ、そうです……ね」

 

 会話についていくのに必死で、シンジはたどたどしい返事を返すので精一

杯だった。

 なんともハッキリしない二人に肩をすくめるジェイナ。

 食器を流しに戻そうと立ち上がりざま、そっとアスカに耳打ちをする。

 

『ところで、もうしちゃったの? まだだったら、今日はなるべくゆっくり

帰ってくることにするけど』

 

 最初はジェイナがなんのことを言っているのかわからず、きょとんとして

いたアスカだったが、続いて短い単語を耳打ちされた瞬間、驚いて手に持っ

ていた湯飲みを落としそうになる。

 

「な、な、な……!!!!」

 

 まるで金魚のように口をパクパクさせるアスカ。

 首筋から耳の先まで真っ赤にして、わなわなと身体を震わせるばかりのア

スカをシンジが不思議そうな表情で見つめる。

 

「どうしたの?」

 

「な、なんでもないわよっ! あんたは早く食器下げなさいっ!!」

 

 いきなり強い口調で言われたシンジは目を白黒させながらも、アスカの言

葉に従って流しの方へ退散していく。

 ジェイナはそんな二人の様子を見て少し驚いたようにつぶやいた。

 

「なんだ。あなたたちまだだったの」

 

「だ、だって、そんなの、あた……しだって、シンジが、だから、し、仕方

ないでしょ!」

 

「ふうん。まじめなのね、二人とも」

 

 ジェイナは人差し指をあごにあて何か考え込むような素振りを見せていた

が、すぐに意味ありげな笑みを浮かべて、

 

「明日のプレゼント、楽しみにしててね」

 

 と、真っ赤になってまだ一人でぶつぶつ呟いているアスカに言い残して、

軽いステップで流しへと向かっていった。

 

 

        *        *        *

 

 

 ジェイナは食事の後片づけを済ませるとすぐに家を出ていった。

 取り残された二人は、しばらく食後のコーヒーを飲みながら居間のTVに

映るニュースを眺めていたりしたが、久しぶりの二人だけの空間に沈黙が続

きがちだった。

 先にその空気に耐えられなくなったのはアスカだった。

 

「そ、そーだ。最近忙しかったから、部屋の掃除しばらくやってなかったの

よねー」

 

 いきなり立ち上がって誰にともなく説明的につぶやくと、腕をぐるぐると

回しながらシンジに声をかけた。

 

「シンジはどうする?」

 

「んー……じゃ、一階の部屋の掃除でもしてるよ。時間が余ったら外に散歩

にでも出てるから。アスカは気にしないで好きにしてて」

 

「わかった。なにかあったら、あたし部屋にいるから呼びにきてね」

 

 そそくさと足早に部屋を出ていくアスカの後ろ姿を見送ると、すぐにシン

ジは掃除に取りかかった。

 しかし昨日もジェイナを手伝って同じように掃除をしていたので、すぐに

やることがなくなってしまう。

 手持ちぶさたになったシンジは、ひとことアスカに声をかけると散歩に出

かけることにした。

 

 

        *        *        *

 

 

 急に曇りだしてきた薄暗い天気の中、シンジはアスカの家の前を通ってい

る歩道に従ってぶらぶらと散歩を続けていた。

 再開発の途中だということもあってか、あたりを見渡すと建築中の高層ビ

ルや高速道路の橋げたなどが不気味に点在しているのが目立つ。

 また、どの民家も隣の家まで数十メートル以上離れており、人影は滅多に

見られなかった。

 アスカの住む街は閑散とした風景が続く静かな街だった。

 

 しばらくして道路の脇に小さな公園を見つけたシンジは、そこに一つだけ

あったベンチに座って一休みすることにした。

 そのベンチはちょっとした高台にあって、そう遠くまで見えるわけではな

かったがある程度街の様子が見渡せるようになっていた。

 

 すぐ下に見える道路を数分に一台の間隔で車が通り過ぎていく。

 工事用だと思われるトラックはわき目もふらずスピードにのって、乗用車

に乗っている運転手は、たまにシンジの姿を認めると物珍しそうに視線を投

げかけていく。

 東洋人の顔立ちが珍しいというわけでなく、この公園に人がいるのが珍し

い。そんな感じの視線だった。

 確かにシンジがこの公園に来て三十分ほど経つが、その間に見かけた人影

と言えば、毛並みの良さそうな犬を連れてジョギングする中年の男性一人だ

けだった。

 その中年の男性は立派なひげをたくわえており、その身なりからも身分の

高い人物であることはすぐにわかった。

 通り過ぎていく乗用車も高級車ばかりで、一見して豊かな暮らしをしてい

ると思える人間しか乗っていなかった。

 空港から乗った列車で多く見かけた難民のように貧しい身なりの人間は、

この街に来てからは一人も見かけなかった。

 シンジは口を真横に結んで厳しい表情でじっと地平線を見つめていた。

 

 

 それからどれくらい時間が経ったころだろうか。

 寒さで真っ赤になったシンジの耳に、後ろから誰かが近づいてくる足音が

聞こえてきた。

 わざわざシンジがいる方向へ一直線に向かってくることから、それが誰の

足音かはすぐに予想がついた。

 だがシンジは振り返らなかった。

 その足音はシンジのすぐ後ろで止まったが、まだシンジは振り返らない。

 二人の間を冷たい風が通りすぎていく。

 まるで我慢比べのような時間が続いた。

 

 ここでも先に動いたのはアスカの方だった。

 細長い人差し指を伸ばすと、ちょんっとシンジの背中を指でなぞるように

つついた。

 

「もう……」

 

 言葉とともに吐き出される息は白かった。

 

「いつからそんなに意地悪になったの」

 

「そうじゃないよ……」

 

 アスカは、じっと地平線を見つめたままのシンジの横に並ぶと、同じ方向

に視線を向けた。

 

「寂しいところだね」

 

「そうね。ここは、これから人が住むところだから」

 

「これから……か。綺麗な街になるんだろうね」

 

「皮肉のつもり?」

 

 シンジの声の微妙な変化に気づいてアスカは言った。

 

「……そうかもしれない。ここに来る途中、難民の人たちをたくさん見かけ

たよ。みんな自分の責任でもないのに辛い思いをしてる。僕らはこんな風に

平和で静かな暮らしをしているのに」

 

 シンジはまだアスカの方を見ずにつぶやく。

 

「たぶん、アスカの方がよく知っていることだと思うけど……」

 

「ええ。難民キャンプの取材はイヤと言うほどやってきたわ。最初はすごく

つらかった。なにも知らなかったとはいえ、こんなことをしでかした側にい

た人間としてはね」

 

 アスカの声によどみはなかった。

 

「でもね。うじうじ悩んでてもしょーがないじゃない。悩む暇があったら行

動すること。それが大事だってことはわかってるでしょ?」

 

 アスカの言葉からはなにかを乗り越えたような強い意志が感じられた。

 自分と離れていた間にも、アスカは仕事や家族のことを通してすごく成長

している……。シンジはつい卑屈になってしまう自分を感じていた。

 

「わかってる……。けど、僕になにができるんだろうって……」

 

「シンジにはシンジにしかできないことがきっとあるわ。それは償いでなく

てもいいと思うの。これからの世界にだってあたしたちが出来ることはたく

さんあるわ。だいたい、あたしたちだって被害者と言ってもいいくらいなん

だから。あんまり自分の中にこもらない方がいいわよ」

 

「うん……」

 

 アスカの言葉に自分を納得させるようにうなづくシンジだったが、視線は

まだまっすぐに街並みを見つめたままだ。

 アスカは少し寂しげに表情を曇らせるとうつむいた。

 

 再び沈黙が続く。

 いちだんと冷たい風が二人の間を駆け抜けた。

 アスカがふと空を見上げた。

 

「あ……」

 

 小さな声とふわりと動いた空気につられてシンジは隣を見た。

 アスカが小さく口を開けて空を見上げていた。

 シンジも同じように顔を上げてみると、ひやりとする冷たいものが額の上

に降ってきた。

 雪だった。

 小さく、まだちゃんとした結晶になっていないような雪が降り始めていた。

 その雪のいくつかがアスカの髪にひらひらと舞い降りていた。

 家にいたときには後ろで結んであったはずなのに、いつの間にかアスカの

髪は昔のように真っ直ぐ降ろされていた。

 綺麗に櫛でとかれたその亜麻色の髪は、この曇り空の下でも輝いているよ

うに眩しく見えた。

 

 じっと見つめるシンジに気づいて、アスカが『どうしたの?』とでも言う

ように小首を傾げた。

 

 一瞬の躊躇の後、すっとシンジが手を伸ばして、手の甲で雪を払うように

アスカの髪を優しくなでた。

 シンジの手が髪に触れた瞬間、アスカの身体が小さく震えた。

 

「髪、ずいぶん伸びたんだ」

 

 たった一つの言葉。

 なにげない、なんてことのない、シンジが発したその言葉。

 アスカがまばたきを一つした。

 次にまぶたが開いたとき、頬をつたってアスカの涙が地面にこぼれ落ちた。

 

「ア、アスカ? どうしたの? なにか悪いこと言った?」

 

「ううん。嬉しいの……」

 

 慌てるシンジの胸にアスカがこつん額を押しつけてきた。

 シンジは戸惑いながらもその身体を優しく抱きしめる。

 

「やっとあたしのこと話してくれた……」

 

「あ……れ……? そうだっけ……。ごめん……。せっかく会いに来たのに

変な話ばかりして」

 

「そうよ」

 

 くぐもった声でアスカが強く言った。

 

「アスカの顔を見てると色んなことを聞いて欲しくなっちゃって……。ごめ

ん……。僕もこうやってアスカの顔が見られるなんてすごく嬉しいよ」

 

 シンジの言葉が耳に届く度に、アスカはだだをこねる赤ん坊のようにシン

ジの胸の中で小さく首を振った。

 

「…………った」

 

「ん?」

 

「……あたし、さびしかったんだからね、ばかシンジ……」

 

「うん……。ごめん……アスカ……」

 

 

 次第に強くなる雪の中で固く抱き合う二人の姿は、なにものにも揺るぎな

いように見えた。

 

 

 

                          To be continued

 

                     3rd day - White Night -

 

 



 

 一ヶ月以上間が空いたような気がしますが、よーやく二日目です(^^;)

 無理な予告はもうやめよう(^^;)

 



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