第参拾話  6th day - More more more - (後編)

written on 1999/5/16


 

 

「も……だめ……。動けない……」

 

 テーブルに突っ伏したシンジの口から弱々しい声がこぼれた。

 

「ったくだらしないわねー。わかったわよ。あたしが行ってくる。なんでも

いいわね?」

 

「まかせるよ……」

 

 ペタペタとスリッパの音をたてて走り去るアスカをシンジは横目で見つめ

ながら、大きくため息をついた。

 口からこぼれた空気でガラステーブルの表面が白く曇る。

 なんであんなに元気なんだろ……。

 シンジはぐったりとした表情のまま、向こうのカウンターでアスカがトレ

イの上に次々と料理を乗せているのを見守っていた。

 両手はさっきからテーブルの下で足のマッサージを続けている。

 転んだ回数では比較にならないが、動き回った距離では逆にアスカの方が

遙かに多いはず。

 それなのアスカは少しも疲れを見せていないようだった。

 

 アスカはすぐに料理を乗せたトレイを運んできた。

 二人分の料理がいくつかの大きめの皿に盛りつけられている。

 そのトレイをテーブルの中心に置くと、アスカはシンジの横に回って隣に

腰掛けた。4人掛けのテーブルの片側だけがぽっかり空く格好になる。

 シンジはゆっくりと身体を起こして、アスカの顔をじっと見つめた。

 

「ん? なに?」

 

「いや……」

 

「正面で向かい合うのってなんか緊張しない?」

 

「そう?」

 

「だってさ。顔を上げると相手の顔が目の前にあるんじゃ、なんとなく食べ

づらいでしょ」

 

「ああ……。そうかもね」

 

「そうなの」

 

 こうしてなんとも気の抜けた会話を合図に二人は料理をとりはじめた。

 セルフサービスとはいえ、料理はこのレストランが入っているホテルのシ

ェフが調理しているだけに、味は満足できるものだった。

 ほどなく二人のお腹は満たされ、食後のコーヒーを飲みながら(アスカは

ミルクティーを飲みながら)心地よい疲れに身を委ねていた。

 ガラス窓一枚隔てた白銀の世界とは正反対に、店内は快適な温度に調節さ

れている。

 

「ね。これ読める?」

 

「ん?」

 

 アスカが手に取った雑誌の表紙をシンジの方に向けた。

 いわゆる週刊誌のたぐいだが、もちろん文字はドイツ語で書かれている。

 

「ちょうどこのスキー場の紹介やってるわよ」

 

「うん」

 

 ぱらぱらとページをめくりながら、目に付いたところでアスカは手を止め

た。

 

「ほら。このレストランも出てる」

 

 普通の値段で高級な料理が手軽に楽しめるとの見出しに、アスカはうんう

んとうなづいている。

 

「あ! 上のレストハウスでめずらしいアイスクリームが食べられるんだっ

て。後から行ってみない?」

 

 アスカが食い入るように見つめている紙面には、カラフルに色づけられた

アイスクリームが踊っていた。

 

「そんなに遠くないみたい。第5リフトを降りてすぐだって書いてあるし」

 

「ね?」

 

「シンジ?」

 

「聞いてんの!?」

 

 なんの反応も返さないシンジにしびれをきらして振り向いたアスカの目に

は、首をガックリとうなだれているシンジの顔が映っていた。

 

「なんだ……」

 

 シンジは気持ちよさそうに寝息をたてていた。

 疲れているうえにお腹も満ちてこの暖かさだ。

 完全に眠ってしまったようだ。

 さすがのアスカもたたき起こすのははばかられるようで、ふぅと軽く息を

吐き出すと、

 

「寝ちゃったのなら寝てるって言いなさいよ」

 

 少しつまらなさそうにつぶやいて、再び雑誌に目を落としはじめた。

 

 

        *        *        *

 

 

 こうしてシンジとアスカがスキー場で楽しんでいる頃、ジェイナはひとり

家を後にして隣駅にある集団墓地を訪れていた。

 ここには無名の戦士たちや自分で墓を持つことができなかった貧しい人た

ち、あるいは訳有りの人間たちの墓が、政府のお金で数多く建てられていた。

 こんな雪の日に訪れる人は少なく、降り積もった雪の上にはジェイナ以外

の足跡はほとんど見られなかった。

 降りしきる雪の中、彼女はコートの襟を寄せ、とある墓へと向かっていた。

 

 集団墓地の西の端にその墓はあった。

 墓石にはこう刻まれている。

 

『惣流・キョウコ・ラングレー』

 

 先日アスカがひとりで訪れた際に供えたと思われる花がまだ残っていた。

 ほとんど枯れてしまっていたが、雪の中けなげに頑張っているその姿に、

ジェイナは不意に胸の奥が熱くなるのを感じた。

 そのまましばらく無言で墓石の前にたたずみ黙とうを捧げる。

 

 次にジェイナが目を開けたときには雪は小降りになっていた。

 墓石に薄く積もった雪を払いのけながら誰にともなくつぶやく。

 

「きっと怒ると思うからここには来ないつもりだったんだけど……。昔の友

人として、そしてアスカの今の母親として、どうしても一度報告しておかな

いといけないと思ったの」

 

 次にジェイナはバッグの中からなにかをとりだすと花の隣に立てかけた。

 それはアスカとシンジと彼女の三人で撮った写真だった。

 

「これであのときの約束は果たせたかしら」

 

 そう口にした直後。

 ジェイナの顔に自嘲的な笑みが浮かんだ。

 結局、私はなにもしてあげられなかったけど……。

 逆に助けられたといってもいいわね。

 

『自分になにかあったらアスカのことよろしくね』

 

 キョウコとの約束。

 その約束を果たすため、という理由を免罪符にして、以前から好意を寄せ

ていた彼女の夫と一緒になったジェイナ。

 しかしそれはキョウコが望んでいたことではなかったのではないか。

 私はアスカを自分のために利用していたのではないか。

 ジェイナはずっとそんな思いに悩まされていた。

 アルコールに逃避する理由の多くはそれだった。

 

 いったい自分はアスカになにをしてあげられたのだろう。

 まるで腫れ物を扱うようにしか接することができなかった子供の頃。

 電話でしか接触を許されなかったチルドレン時代。

 そしてネルフ崩壊後はしばらく音信不通にさえなった。

 ようやく連絡が取れたのは、セキュリティランクがBに緩和された高校3

年の頃。

 それから少しずつ溝を埋めてきたつもりだったが、すでにアルコールに溺

れかけていた自分は、逆にアスカによって救われていたのかもしれない。

 

「ありがとう……」

 

 自然とジェイナの口から言葉が漏れた。

 

 最近では、ジェイナを苛んでいた裏切りという言葉はもう過去の思い出に

変わりつつあった。

 アスカの幸せな笑顔を見るたびに、胸の奥に深く突き刺さっていた棘が一

本一本抜けていくように感じられる。

 

「彼女は私たちと違って幸せな家庭を築くと思うわ」

 

 最後にもう一度墓石を指でそっとなぞると、ジェイナは名残惜しそうにそ

の場を去っていった。

 

 

        *        *        *

 

 

「ん……」

 

 シンジが小さく声をあげた。

 

「……っつ」

 

 小さくあくびをしながら斜めに傾いていた首を持ち上げると、凝りをほぐ

すように軽く頭を回す。

 そのうちに半開きの眼も焦点がしだいに定まってくる。

 

「おはよ」

 

 耳元でアスカの声がした。

 ぼんやりとした頭で横を向くと、すぐ目の前にあるアスカの顔を見つめる。

 

「あ……。おはよう」

 

 シンジはそのときはじめて、自分がアスカの肩に頭をあずけて眠っていた

ことに気がついた。

 

「あ……わっわっわっわ。ごめん!」

 

 アスカは読んでいた雑誌をぱたんと閉じると、ふぅと小さくため息をつい

た。

 

「別に謝るほどのことじゃないでしょ」

 

「あ、あー、う、ん。そうだけど……。ずいぶん長く眠っちゃったみたいだ

から……」

 

「それじゃ、もう元気になったわね?」

 

「え、あ、まあ、ね」

 

「今度はあの上まで行くわよ」

 

 そういってアスカが指さした角度は、さきほどまで滑っていた初級者用の

コースとは比べものにならないくらいの高さを持っていた。

 シンジはアスカの顔とその指の先で遙か山の上まで続いているリフトを、

何度か交互に見比べた。

 あの高さから斜面を転がり降りる自分の姿を想像して、シンジの笑顔がし

だいに引きつってくる。

 これは死ねるな……。

 

「ほ、ほんとに行くの?」

 

「行かないの?」

 

「……行きます」

 

 こうして午後もいっぱいシンジはアスカに引きずり回されることになった。

 そのあいだ、リフトから降りられなくて一周さらしもので回ってしまった

り(もちろんアスカの意地悪で)、この寒いのにアイスクリームを食べさせ

られたり、ブロンドの女性が落とした手袋を拾ってあげただけで肘うちをみ

ぞおちに食らったりと、シンジはとても楽しい時間を過ごせたようだった。

 

 

        *        *        *

 

 

 しだいに夕陽が空を赤く染め、外で滑っている人影もまばらになりはじめ

ていた。

 気温が急激に下がりはじめているので、みな暖かいホテルの一室に避難し

てしまったのだろう。スキー場に併設されているきらびやかな高級ホテルの

窓には、すでにたくさんの明かりが見える。

 

 ぱんぱんに張った足を引きずりながら、シンジはアスカとともに上級コー

スの第二休憩所までやってきていた。

 二人ともスキー板をはずして肩から担いでいる。

 そろそろ家に戻らねばならない時間だったが、最後に、とこんな場所まで

シンジを誘ったのはアスカの方だった。

 おそらくこのスキー場で一番景色が良い場所なのだろう。

 眼下には見渡す限り白銀の世界が広がっており、このスキー場を囲むよう

に連なる山々の頭上を、小さくちぎれた雲が速いスピードで流れていく。

 そして、今まさに山の端にかかろうとしている夕陽の美しさに、シンジも

息をのんでいた。

 

 

        *        *        *

 

 

「さむ……」

 

 アスカが小さくつぶやいた。

 太陽が山の陰に隠れてあたりが薄暗くなっても、アスカはまだじっと遠く

を見つめていた。

 その隣でシンジはただ立ちつくしていた。

 びゅうびゅうと寒風にあおられたリフトのロープがうなりを上げる。

 あたりに人影はなく、リフトで上がってくる人間も、もう十分以上前から

見かけていない。

 吹きつける風の音だけがあたりを支配していた。

 まるでこの世界には自分たち二人しか存在していないような感覚に、シン

ジはおそわわれていた。

 

「もしもシンジがあたしの前からいなくなったら、いったいあたしはどうな

るんだろうって、ときどき怖くなることがある」

 

 突然アスカがシンジの方を振り返った。

 陽の暮れた空がアスカの顔に翳りを落としていた。

 

「シンジがこっちに来てくれるって聞いたときは、本当に嬉しかった。久し

ぶりにシンジの顔を見たときは、自分でもビックリするくらい心臓がどきど

きした。それからの毎日はそれまでの何倍も楽しくなった。夜寝るときも、

同じ屋根の下にシンジがいると思うと安心してぐっすり眠れた」

 

 風はやんでおり、しんとした世界にアスカの声がよく通った。

 

「幸せを感じれば感じるほど、それを失ったときのことを想像して怖くなる

の。だから忘れようとして明るく振る舞うのかもしれない……」

 

 確かにここ一週間のアスカの様子にはシンジも驚くことが多かった。

 特に今日のはしゃぎ方は普通じゃなかった。

 身体を鍛えているシンジでさえもついていくのに精一杯だったのだから。

 

「なんでも欲しがっていた昔にはこんなこと想像もできなかった。欲しいも

のを手に入れても結局怖い思いをするなんて」

 

 アスカが感じている恐怖はシンジにも痛いほどよくわかった。

 シンジも多くのものを失ってきた。

 そしていつだって絶望や虚無感に打ちのめされてきた。

 しかし、今はこうやって、心を開いて話し合える人間がいる。

 これから家に戻れば暖かい食事と明るい笑顔だって待っている。

 

 希望、という言葉に裏切られたことは何度もある。

 絶望だって同じだ。

 彼女が死んだときに感じた絶望は、今やどこにある?

 

 ずっと考えてきたこと。感じたこと。そして得た結論。

 それはほんの気休めにしかならないかもしれないが、シンジにとっては生

きていくためにとても重要なことだった。

 

 シンジは力強くアスカに応えた。

 

「アスカも見たよね、さっきの景色。この白銀の世界が夕陽に染まった瞬間。

綺麗だなって思ったよね?」

 

 とつぜんなにを言い出すのだろう、とアスカが怪訝そうな顔でシンジを見

つめる。

 

「夏の暑い日、空の向こうにとてつもなく大きな入道雲を見つけた瞬間。

 朝、寝ぼけ眼でカーテンを開いたら、雲一つない綺麗な青空が広がってい

た瞬間。

 道端でふと目があった野良猫が、首を傾げてにゃおと鳴いたとき。

 夕暮れ時の川縁を歩いていると、母親が子供を夕御飯に呼ぶ声が聞こえて

くる、そんなとき」

 

 シンジは優しく笑う。

 まるで包み込むような笑顔。

 

「生きてるだけで素晴らしいって思えるときって、たくさんあるよ」

 

 シンジはスキー板を地面に突き刺すと、アスカの側にやってきて空を見上

げた。

 

「昔はなんとも感じなかったことが、今では強く心に響いてくるんだ」

 

「それは、たぶん、アスカや、綾波や、トウジや、ケンスケや、ミサトさん

や、いろんな人たちと出会って。いろんなことを経験してきたからだと思う

んだ」

 

「自分が生きていることを実感できたから。だから、それまでなんとも思っ

てなかったことの重みがわかるようになってきたのかなって」

 

「世界は一つのものがすべてじゃない。

 人間なんていつ死ぬかわからないよ。

 だから、こうやって今を楽しむんじゃないかな。

 その日、生きていたことを忘れないために。

 誰かと一緒に居たことを忘れないために。

 失うことの怖さがわかっていれば、持っているものの大切さもきっとよく

わかってると思う。

 だから、怖がらずにそれを大事にしていこうよ。

 未来のことなんて誰にもわからないんだから、先のことを心配したってし

ょうがないよ」

 

「だいたいさ。僕たちがはじめて出会ったときに、いずれこんな関係になる

なんて神様にだって予想できなかったと思うよ」

 

 シンジは笑っていた。

 とてもおかしそうに笑っていた。

 あの頃のことを思い出していたのかもしれない。

 アスカもつられて笑い出す。

 

 あの頃。

 そう、すでに懐かしい思い出になっているあの頃という時代。

 孤独に怯え自分を誤魔化して逃げ回ることしかできなかったあの頃とはも

う違う。

 

 いつの間にか胸の中の不安は消えていた。

 こうやってシンジの言葉に慰められるようになったのは、いったいいつの

頃からだろう。

 もう思い出せないくらい前からシンジが心の支えになっていたことに、ア

スカは今さらのように気づく。

 

 見違えるほどたくましくなったシンジの胸に、アスカはそっと額を押しつ

けた。

 

「偉そうなコト言ってんじゃないわよ……」

 

 シンジの身体がここにあるという存在感だけで、アスカの胸の中には安ら

ぎが広がっていく。

 このままずっとこうしていたい。

 そうアスカが思った瞬間。

 

「!?」

 

 とつぜん身動きがとれなくなってアスカは身を固くした。

 シンジの両腕がしっかりと背中に回されていた。

 すっぽりと抱きすくめられる格好になっている。

 

「キスしていい?」

 

 シンジが耳元でささやいた。

 はじめてだった。

 シンジが自分から求めてくるのは。

 こうしてはっきりと言葉にするのは。

 はじめてだった。

 

 アスカの心臓は、ここにくる途中、高速でスリップした時よりも、早鐘を

打っていた。

 頭の中が真っ白になって身体中から力が抜けそうだった。

 アスカはゆっくりと、少し震えながら頭を上げた。

 

 分厚い手袋に包まれたシンジの手がアスカの肩をそっと抱く。

 冷え切った唇が触れ合う感触。

 しかし冷たかったのは一瞬のことで、すぐにそこから全身へ痺れるような

熱さが広がっていく。

 

「もっと」

 

 アスカのささやく声に応えて、シンジはぐっとアスカの腰を引き寄せなが

ら、再び口づけをした。

 

「もっと」

 

 息を継ごうと離れかけたシンジの唇をアスカの言葉が追う。

 

「ん……」

 

 漏れる吐息に重なるアスカの甘い声。

 

「もっと……」

 

 それは、長い、長い口づけだった。

 

 

 

                          To be continued

 

                       7th day - Matane! -

 

 



 

 いかん。シンジ君に語り癖がついちゃった(爆)

 しっかし今度は3ヶ月以上も空いてしまいましたね(^^;)

 さらに記録更新だ(^^;)

 おかげで勢いがブツ切りになって書きづらかったなぁ……。

 内容もイマイチになってしまったような……。

 んー、物語を書き続けるのって難しい!!

 読者の方も途切れ途切れで読まされてほんと申し訳ないです(^^;)

 

 ちなみに明日は朝早くから空港に行かねばならんので、この日は二人とも

寄り道せずに帰宅しております(爆)

 



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