第参拾弐話  ただいま、おかえり、またあした

written on 1999/9/12




 ぱちり。

 目が覚めた。

 朝が来た。

 待ちに待ってた朝が来た。

 いつもは低血圧でぼーっとしている朝も、今日は違う。

 気分は爽快。身体が動きたくてうずうずしてる。

 なんてことだろう。

 こんなに気分が浮き立つ朝があるなんて。

 あたしは勢い良くベッドから飛び出すと、足取りも軽くバスルームへと向
かった。

 ずいぶんと冷え込む朝だったけど、気にもならずにパジャマを脱いで脱衣
かごに放り投げる。

 シャワーが温まる頃には鼻歌まで飛び出していた。

 頭のてっぺんにお湯をたたきつけながら、腰の前で指を組んでううんと下
に伸びをすると、その心地よさと数時間後に待ち受けている喜びに身体が宙
に浮きそうになる。

 あたしの顔を見たらあいつなんて言うかな。

 驚いて声も出ないかしら。

 泣き出したらどうしよう。

 いろんなシチュエーションに合わせてどんな会話にしようかと頭の中でシ
ミュレーションしている自分に気づいて慌ててかぶりを振る。

 まったくあたしらしくない。

 なんであいつ相手に緊張しなきゃなんないのよ。

 あたしにこんな恥ずかしいまねさせるなんて、それ相応の罰を受けてもら
わないといけないわね。

 やっぱり無期懲役?

 はぁ……。

 こんな馬鹿げた考えでも楽しくなれるなんてビョーキだわ。

 そうね。病名は、こ、こ、こい――

 まるで頭がおかしくなったみたいにぐるぐると回りだす思考を無理やり止
めるため、ボディーシャンプーを手にとって力を入れて身体中をこすりだす。

 もうなにも縛られるものはない。

 その思いがアスカの身体中を喜びで満たしていった。

        *        *        *

 みんな要領いいよなぁ――

 かなり早い時間から教室に入っていたシンジは、滅多に顔を見ない生徒た
ちが続々と流れ込んでくるのをぼんやりと眺めていた。
 机の上にはドイツ語の教科書とノートが奇麗に並べられている。
 しばらくノートをぱらぱらとめくっていたが、最初から2、3ページ目の
ところでふと手を止めてページの隅に目を落とす。
 そこには自分の字ではない日本語が書かれていた。
 癖のある独特の文字。

『バーカ』

 その言葉とともに声が思い出され、シンジは口元を微かにゆるめた。

 参大の1年生は教養科目として必須である英語以外にもう一つ外国語を学
ばなければならなかった。
 ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、ヒンディー語。
 当然というべきかシンジはドイツ語を選択した。
 それを聞いたアスカも不要ではあったが同じドイツ語を選んだ。
 アスカにとっては他の言語も日常会話程度はこなせるので、教養科目レベ
ルの講義はどれも特に学ぶ必要はなかったからだ。

 試験前ということもあって教室内はめずらしくごった返していた。
 ほとんどさぼらずに授業を受けているシンジはこの時期は人気者になる。
 入れ代わり立ち代わり友達や友達の友達がやってきてノートの貸し出しを
頼まれるのだ。
 はじめは自分の苦労を利用されることに憤りも感じていたが、最近はそれ
ほどでもなくなっていた。
 彼らにとってはたんに単位を取るためだけのものなのだし、自分にとって
は人生で重要なものなのだから、その重みが違うのだ。
 例えば自分が苦手な数学で単位を取るためだけに理屈も理解せず公式を暗
記するのと彼らとでは程度の差こそあれそれほど変わらないのではないか。
 そう思えば腹も立たない。

 突然さきほどまでざわついていた教室が水を打ったように静まり返った。
 シンジが頭を上げると、教養部の中でも非常に厳しいことで有名なドイツ
語の教授がドアの向こうから姿を現していた。
 そして教壇に向かって歩きながら、いきなり前のほうにいた生徒を指名し
ドイツ語で質問を行う。恒例の質問タイムだ。
 落ち着いて聞いていればそれほど難しい文章ではないのだが、いきなり当
てられ戸惑っているその生徒は答えもしどろもどろだった。
 一気に教室内に緊張した空気が走る。

 そして講義が始まって数分も経たない頃。
 無神経なのか度胸があるのか誰かが後ろのドアを開けて遅刻して入ってく
る気配がした。
 一瞬教授の表情が険しくなるが、それを無視するかのようにわざわざ狭い
隙間を通って、がたがたと派手に音をたてながら、教室の右後ろに座ってい
た自分の方に近づいてくるのを、シンジは心の中で毒づいていた。
 この教授の授業では目立ちたくない。
 それがシンジの本音だった。
 ドイツ語の成績自体はトップクラスだったが、こうしてみんなが見ている
前で当てられると必要以上に緊張して胃が痛くなるのだった。
 ただでさえシンジはこの教授に気に入られておりよく指名されるので、な
るべく自分がいる場所を知られたくなかったのだ。
 しかしそれもこの騒ぎでおしまいだ。教授は明らかにシンジに気づいた。
 シンジは心の中で悪態をつくと、遅刻してきた生徒が自分の隣に座ったと
きも顔さえ見ようとしなかった。

 その生徒は女性のようだったが、座ったあともとくに教科書やノートを開
こうとせず、じっと自分の方を見ている気がして、シンジは居心地の悪さを
感じていた。
 ふんわりと漂ってくる香水の匂いはとても魅力的だったが、気のせいかも
しれないと思うと顔を確認することもできない。

 って、あれ?

 この匂いは……。

 シンジははっと、隣を向いた。

 ぶい。

 小さくVサインをするアスカの姿がそこにあった。

 彼女だと気がつかなかったのは雰囲気ががらりと変わっていたせいか。
 以前は自然に緩いウェーブがかかっていた髪の毛をストレートにし、前髪
はすっと斜めに揃えて、目元にはうっすらとアイシャドウを。
 口紅は以前より少し濃いめで光沢があり、めずらしくイヤリングまでして
いる。
 コートを脱ぐと、手ざわりのよさそうなハイネックのセーターにシルバー
のネックレスが映えている。
 大学に入った当初は清潔感のあるさっぱりした服装を好んで着ていたのが、
今日はすっかり女らしさを感じさせている。

 シンジはしばらく口をぱくぱくさせて驚くばかりだった。
 そして数秒後。やられたっとでも言いたげに額に手を当てる。
 嬉しくてしょうがないのか口元が大きくゆるんでいる。
 すぐにシンジは手元のノートの新しいページを開くと、二人の間に置いて
シャーペンを走らせた。

『おかえり』

 アスカもハンドバッグの中からペンを取りだすと、

『ただいま』

 久しぶりに癖のある文字を見てシンジは微笑んだ。

『いつ帰ってきたの?』

『きのう』

『おどろいたよ』

『おどろかせたかったの』

『お母さんからOkがでたんだ』

『うん。もうだいじょうぶだって』

『そか。よかったね』

『シンジのおかげ』

『アスカだよ」

『ふたりよ』

(ちらっと視線を交わす二人。再びアスカがペンを走らせる)

『きょうのよていは?』

『大事な用があるんだ』

『なに?』(力の入れすぎでアスカのシャーペンの芯がぽきりと折れる)

『気になる?』

『べつに。あたしもようじあるし』

『そうか。残念』

『なにが?』

『今日は一日中アスカとデートしようと思ってたんだけど』

(アスカ一瞬動きが止まる)

『あたしのようじもそれ』

『だと思ったよ』

『言ってくれるじゃない』

『アスカまた奇麗になったね』

(アスカまた動きが止まる)

『かみのうえだと雄弁なのね』

『そうかな? いつも正直だよ』

『じゃくちにだしていってみて』

『ここで?』

『そう』

(シンジ動きが止まる)

『本当にいいの?』

(シンジ真剣な眼差しでアスカを見つめ、少しずつ二人の距離をつめていく)
(シンジの顔がアスカの耳元に近づいたとき、観念したようにアスカ)

『やっぱダメ。あとで!』

(アスカ、敗北。耳が真っ赤)

 こうして講義の間ずっと二人の筆談は続いた。
 ちなみに周囲の生徒たちが、頬を紅潮させながら無心にペンを走らせる二
人に脅えていたことは言うまでもない。

 アスカが帰国して二日目、まだ寒さ厳しい1月の半ばの出来事であった。

 

 

-To be continued-

 


 

▼あとがき……みたいなもの
 遅くなりましたが第四部開始です。
 しょっぱなからとばしすぎ? っつーかバカかオレ?(笑)
 内容ないすけど。まぁ幸せならいいかってことで。

 



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