<Vol.15 ひとつのアイが消えるとき>

written on 1996/6/16


 
 

 通常は高級官僚が利用する海に近い一等地に、

 レイの最後の住まいは与えられた。
 

 アスカとシンジは青葉に手伝ってもらい、

 レイの持ち物を全てそこに運び込んだ。
 

 夏の太陽は眩しく、青い海は金色に輝いて、

 

 そして、チルドレンの、最後の一週間が始まった。
 
 
 

<月曜日>


 

 今日はみんなで過ごす初めての日。

 碇君がおいしい料理を作ってくれた。

 碇君と、アスカさんと、青葉さんと一緒。

 とびっきりの楽しい食事。

 

 でも、

 

 いい匂いのするスープが突然目の前で消えた。

 

 持ってたはずのスプーンが、いつの間にか毛布の上に落ちていた。

 

 慌てて碇君が拾い上げてくれて、汚れを布巾で拭ってくれた。
 

 『ごめんなさい。手が滑っちゃって・・・』

 

 私は笑いながら言ったけど、誰も笑ってくれなかった。
 
 
 

<火曜日>


 

 枕元に置いてある碇君に貰ったサボテン。

 ぎゅっと握りしめても痛くない。

 ぎゅうっと握りしめると血が出てきたけれど、

 やっぱりやっぱり痛くない。

 

 『何やってんの!』

 

 アスカさんが私の指を口に含んで、そしておっかない顔をした。

 

 ハンカチで傷口を縛ってくれた。

 

 『痛くないの・・・』

 

 ふと口をついて出た言葉に、またアスカさんが泣いてしまった。

 

 『ごめんなさい・・・』

 

 力強く抱きしめてくれるその腕に身体をもたれて、私は思う。

 

 私はこれからどうなるの?

 

 どこに連れて行かれるの?

 

 

<水曜日>


 

 今日は車椅子に乗って近くの海に連れていってもらった。

 

 碇君やアスカさんの姿が、

 青い空、潮風の中、金色の海のなかにかすんでく。
 

 気持ちいい。

 

 身体が溶けていくみたい。
 
 
 

<木曜日>


 

 恐ろしい夢を見たの。

 血も凍るような恐ろしい夢を。

 私の身体が透き通って、何もわからなくなる。

 碇君のことを忘れてしまう恐ろしい夢を見たの。
 

 涙がこぼれ落ちそうになったそのとき、窓の外からギターの音色が聞こえ

てきた。
 

 悲しいけれど、美しいその曲は、青葉さんのお気に入り・・・

 

 家の外で唄ってる・・・?

 

 誰のために?

 

 何のために?

 

 私が眠ってしまうまで、その音は優しく私を包んでくれた。
 
 
 

<金曜日>


 

 冷たい風を感じてふと目を覚ますと、碇君が窓辺に立って、星が降る夜を

眺めてた。
 

 『ごめん、起こしちゃった?』

 

 碇君が近づいてきて、そっと手を握りしめてくれた。

 

 『ううん・・・・・・私も、見たい・・・』

 

 碇君はちょっと顔を赤らめながら、軽々と私の身体を抱え上げてくれた。

 

 力強い足取りで窓辺にたどり着くと、

 

 『ほら、今日は星が綺麗だよ』って。

 

 私は碇君の横顔を見つめて、そしてその視線の先にある星空へ想いを馳せ

る。
 

 月の光、波の音、潮の匂い。

 

 『ほんとに綺麗・・・』

 

 そう言って少しだけ身をよじらせると、

 

 碇君の匂いがして、

 

 私は身体を預けたまま、頭を胸に埋めて、ささやいた。
 

 誰にも聞こえない声でささやいた。

 

 好き

 

 好き

 

 好き
 

 恐怖を消し去る秘密の呪文――――
 
 
 

<土曜日>


 

 『ごめんなさい・・・』

 

 碇君の声がよく聞こえないの。

 アスカさんの怒る声も、もう昔みたいには響かない。
 

 永遠の静寂が私の心を包み込むようで。
 

 『ごめんなさい・・・』
 

 碇君の温度を感じない。

 せっかく手を握ってくれてるのに。

 

 『ぬくもり』を感じないことが、こんなに心細いものだったなんて、私は

知らなかった。
 

 心だけでは足りないの?

 

 私はこれからどうなるの?

 

 どこに連れて行かれるの?
 
 
 

<日曜日>


 

 私は気づく。

 

 これが最後の朝だって。

 

 私は思う。
 

 目覚める度に朝が迎えられたら、どんなに素敵なんだろうって。
 

 私は願う。

 

 みんなが私のことをずっと覚えていてくれたら嬉しいなって。
 

 そして、私は旅立つ。
 
 
 

 「あんたがそんなことじゃ、レイも浮かばれないわよッ!」

 

 くちびるを白くなるほど噛みしめながらアスカが叫んだ。

 

 「現実に目をそむけないで。いつまでも逃げ続けないで」

 

 あふれ出る涙をぬぐおうともせず、アスカは続ける。

 

 「あなたにはレイを見届ける義務があるわ。

  あなたがレイを目覚めさせたのよ。

  最後までそばにいてあげなさい」
 

 そしてようやく僕は立ち上がった。

 アスカの心に背中を押されて歩き出す。

 

 僕は部屋の扉を開け、

 

 綾波レイ、エヴァンゲリオン零号機パイロット。
 

 一歩踏み出すとベッドに横たわる綾波の姿が見えて、
 

 綾波レイ、碇ゲンドウに創られし者。
 

 彼女は僕の姿を見て嬉しそうに笑い、
 

 綾波レイ、僕の心を虜にしたヒト。

 

 涙をこらえながら笑顔を浮かべた僕は、
 

 綾波レイ、優しくて温かくて強い心を持つヒト。
 

 彼女の側に行くと、そっと手を取る。
 

 綾波レイ、僕は君のことをずっと好きだったよ。
 
 
 

 『綾波・・・』

 碇君が私の右手を取ってくれた。
 

 『レイ・・・』

 アスカさんが左手を握りしめてくれてる。
 

 二人の声と温度を微かに感じる。

 

 最後まで大好きな人たちが側にいてくれるなんて、

 きっとこれは『幸せ』の一つ。
 

 私の小さな手に掴み取った『幸せ』。

 これが私の全て。
 
 

 ありがとう

 

  ――――私に生を与えてくれた碇司令に。
 

 ありがとう

 

  ――――私に生きる意味を教えてくれた碇君に。

 

 ありがとう

 

  ――――私が生きることのできたこの世界の全てに。
 
 

 そして、世界が、消えていく。

 

 私の身体が、溶けだしていく。
 

 碇君の顔が見えなくな・・・

 

 ・・・碇君の顔が・・・いっぱ・・い・・・?

 

 あ・・・

 

 ん・・・

 

 あったかい・・・碇君の・・・くちびる・・・・
 

 あり・・が・・・とう・・・
 

 ・・・・・・・
 

 ・・・・

 

 ・・

 

 ・

 
 
 
 

 2018年 8月23日 綾波レイ 死去
 
 

 紅い瞳と空色の髪を持つ少女は、

 満ち足りた笑顔で、その生を終えた。
 
 

<Vol.16へ続く>



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