written on 1996/6/16
通常は高級官僚が利用する海に近い一等地に、
レイの最後の住まいは与えられた。
アスカとシンジは青葉に手伝ってもらい、
レイの持ち物を全てそこに運び込んだ。
夏の太陽は眩しく、青い海は金色に輝いて、
そして、チルドレンの、最後の一週間が始まった。
今日はみんなで過ごす初めての日。
碇君がおいしい料理を作ってくれた。
碇君と、アスカさんと、青葉さんと一緒。
とびっきりの楽しい食事。
でも、
いい匂いのするスープが突然目の前で消えた。
持ってたはずのスプーンが、いつの間にか毛布の上に落ちていた。
慌てて碇君が拾い上げてくれて、汚れを布巾で拭ってくれた。
『ごめんなさい。手が滑っちゃって・・・』
私は笑いながら言ったけど、誰も笑ってくれなかった。
枕元に置いてある碇君に貰ったサボテン。
ぎゅっと握りしめても痛くない。
ぎゅうっと握りしめると血が出てきたけれど、
やっぱりやっぱり痛くない。
『何やってんの!』
アスカさんが私の指を口に含んで、そしておっかない顔をした。
ハンカチで傷口を縛ってくれた。
『痛くないの・・・』
ふと口をついて出た言葉に、またアスカさんが泣いてしまった。
『ごめんなさい・・・』
力強く抱きしめてくれるその腕に身体をもたれて、私は思う。
私はこれからどうなるの?
どこに連れて行かれるの?
今日は車椅子に乗って近くの海に連れていってもらった。
碇君やアスカさんの姿が、
青い空、潮風の中、金色の海のなかにかすんでく。
気持ちいい。
身体が溶けていくみたい。
恐ろしい夢を見たの。
血も凍るような恐ろしい夢を。
私の身体が透き通って、何もわからなくなる。
碇君のことを忘れてしまう恐ろしい夢を見たの。
涙がこぼれ落ちそうになったそのとき、窓の外からギターの音色が聞こえ
てきた。
悲しいけれど、美しいその曲は、青葉さんのお気に入り・・・
家の外で唄ってる・・・?
誰のために?
何のために?
私が眠ってしまうまで、その音は優しく私を包んでくれた。
冷たい風を感じてふと目を覚ますと、碇君が窓辺に立って、星が降る夜を
眺めてた。
『ごめん、起こしちゃった?』
碇君が近づいてきて、そっと手を握りしめてくれた。
『ううん・・・・・・私も、見たい・・・』
碇君はちょっと顔を赤らめながら、軽々と私の身体を抱え上げてくれた。
力強い足取りで窓辺にたどり着くと、
『ほら、今日は星が綺麗だよ』って。
私は碇君の横顔を見つめて、そしてその視線の先にある星空へ想いを馳せ
る。
月の光、波の音、潮の匂い。
『ほんとに綺麗・・・』
そう言って少しだけ身をよじらせると、
碇君の匂いがして、
私は身体を預けたまま、頭を胸に埋めて、ささやいた。
誰にも聞こえない声でささやいた。
好き
好き
好き
恐怖を消し去る秘密の呪文――――
『ごめんなさい・・・』
碇君の声がよく聞こえないの。
アスカさんの怒る声も、もう昔みたいには響かない。
永遠の静寂が私の心を包み込むようで。
『ごめんなさい・・・』
碇君の温度を感じない。
せっかく手を握ってくれてるのに。
『ぬくもり』を感じないことが、こんなに心細いものだったなんて、私は
知らなかった。
心だけでは足りないの?
私はこれからどうなるの?
どこに連れて行かれるの?
私は気づく。
これが最後の朝だって。
私は思う。
目覚める度に朝が迎えられたら、どんなに素敵なんだろうって。
私は願う。
みんなが私のことをずっと覚えていてくれたら嬉しいなって。
そして、私は旅立つ。
「あんたがそんなことじゃ、レイも浮かばれないわよッ!」
くちびるを白くなるほど噛みしめながらアスカが叫んだ。
「現実に目をそむけないで。いつまでも逃げ続けないで」
あふれ出る涙をぬぐおうともせず、アスカは続ける。
「あなたにはレイを見届ける義務があるわ。
あなたがレイを目覚めさせたのよ。
最後までそばにいてあげなさい」
そしてようやく僕は立ち上がった。
アスカの心に背中を押されて歩き出す。
僕は部屋の扉を開け、
綾波レイ、エヴァンゲリオン零号機パイロット。
一歩踏み出すとベッドに横たわる綾波の姿が見えて、
綾波レイ、碇ゲンドウに創られし者。
彼女は僕の姿を見て嬉しそうに笑い、
綾波レイ、僕の心を虜にしたヒト。
涙をこらえながら笑顔を浮かべた僕は、
綾波レイ、優しくて温かくて強い心を持つヒト。
彼女の側に行くと、そっと手を取る。
綾波レイ、僕は君のことをずっと好きだったよ。
『綾波・・・』
碇君が私の右手を取ってくれた。
『レイ・・・』
アスカさんが左手を握りしめてくれてる。
二人の声と温度を微かに感じる。
最後まで大好きな人たちが側にいてくれるなんて、
きっとこれは『幸せ』の一つ。
私の小さな手に掴み取った『幸せ』。
これが私の全て。
ありがとう
――――私に生を与えてくれた碇司令に。
ありがとう
――――私に生きる意味を教えてくれた碇君に。
ありがとう
――――私が生きることのできたこの世界の全てに。
そして、世界が、消えていく。
私の身体が、溶けだしていく。
碇君の顔が見えなくな・・・
・・・碇君の顔が・・・いっぱ・・い・・・?
あ・・・
ん・・・
あったかい・・・碇君の・・・くちびる・・・・
あり・・が・・・とう・・・
・・・・・・・
・・・・
・・
・
2018年 8月23日 綾波レイ 死去
紅い瞳と空色の髪を持つ少女は、
満ち足りた笑顔で、その生を終えた。