白の情景

 

                     狩野

 

 

 

 

その日の夜半、第3新東京市に雪が降った。

 

いかなる神の気まぐれか。

白く、小さな小さな粒は夜の第3新東京市に降り積もる。

 

人々はその小さな粒にどのような思いを馳せるのだろう。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 窓の外には静かに、雪が降り注いでいた。

 それを眺めるでもなく眺めている二対の瞳。

「雪……」

 葛城ミサトは呟いた。

 

「雪を見ると嫌な事を思い出すわ…」

 ミサトは軽く瞼を閉じ、自分の部屋の壁に背をもたせかける。

 と、無意識のうちに胸の古傷を撫でていた左手に気付き、けだるげに下ろしながら、

彼女は再び一人呟いた。

 

「南極。

 調査班。

 緊急避難用救助ポッド。

 目に痛いほどの閃光。

 セカンドインパクト。

 ………………………………父さん………」

 

 ふと我に戻ると、いつの間にかミサトは思わずロザリオをきつく握り締めていた。

 右手を開けばくっきりと残るロザリオの跡。

 掌(てのひら)はうっすらと汗ばんでいた。

 

 それを見て、瞳に絶望の色が浮かぶ。

「まだこだわってる、私………忘れようと思ってるのに………

 このこだわりが私を、あの子達を、危険なところへ浚(さら)いそうになる………

 その事は分かってるはずなのに……」

 

 ミサトは誰もいない筈の宙に向かって怒るように言う。

「どうして?あんなに嫌ってた父さんじゃない!…なんでよ?なんで忘れられないのよ!」

 思わず壁にもたせかけてた上半身を起こし、激昂するミサト。

 

 しかしやがて、瞳にはうっすらと涙が浮かんできて、口の端(は)が震えてくる。

 そのまま膝の前で腕を組み、頭を力なくその間に埋める。

「いい加減私の中から出てってよ……私を自由にして……お願い……」

 ミサトは細かく震えていた。怯える少女のように。

 

 必死に堪えようとしていたミサトだったが、耐え切れず瞳から涙がこぼれてくる。

 床のフローリングに小さな小さな水溜まりが幾つか出来ていく。

「…ひっく………ひっく…………ズズッ……………うぐぅ……ぅぅ…………」

 細かく震えながらすすり上げ、時にしゃくり上げる以外に、微動だにしようとしない

ミサト。

 

 どれぐらい時間がたったのか、ようやく何かから少し解放されたかのように僅かに

顔を上げ、涙の後を指で拭きながら、呟く。

「……駄目ね、私……このままじゃ。

 ……人の命に関わる仕事をしてるのに、また自分の事だけ考えてる……」

 

 二の腕でごしごしと涙を拭き、手で鼻の辺りを何度もこするミサト。

 

「そうよね。セカンドインパクトで肉親を失ったのは私一人じゃない。リツコだって、

 青葉くんや日向くんやマヤちゃんだって……なのに、私一人だけが悲劇のヒロイン

 気取りでいるなんて……ほんと、駄目ね……どうしようもない女…」

 

 しゃくり上げて来るモノをおさえ込もうと、

「ふーーーーーーっ…」 

と大きな一息をついてから言い聞かせるような口調で、一人、語り始める。

「いい、葛城ミサト、よく聞きなさい。あなたの役目はセカンドインパクトの再来を防

 ぐこと。そして、そのためには使徒を撃退する戦略を練る事、使徒撃退の唯一の戦力

 エヴァとそのパイロットを守る事。それがあなたに与えられた仕事。そして、あなた

 の仕事場は戦場。ちょっとしたミスや甘さが命取りになる場所。

 なのにあなたは何?自己憐憫に浸ってる。自分の拘りを引きずってる……。

 はっきり言うわ葛城ミサト、あの場所はそんな場所じゃないし、そんな暇も無いのよ!

 自己憐憫や拘りは捨てなさい!そんな甘っちょろいものをあそこに持ち込んじゃ駄目!

 そうでなければ、あなたはまた失う事になるわ。

 過去に失われたものに引きずられて、今あるものを失うことになるのよ?」

 

 呟くうちに、いつのまにかミサトは青ざめるほど唇を噛み締めていた。

 語勢も少しづつ強くなっており、叫ぶような、吐き捨てるような口調になっている。

「それを避けるも避けないもあなた次第なのよ、葛城ミサト!

 あなたはまたむざむざと大事なものを失ってもいいの?あなたはまだ小さい子供なの?

 そうでないなら…あなたは何をすべきか、分かってる筈よ!」

 

 ミサトは据えたような目をして強い語調で言った。その言葉の響きは、何かに縋りつ

くような、必死の様相を帯びていた。

 

 そして1分間、ミサトはそのままうずくまり。

 

 バチイイィィィィィィィィィィィィィィィィン!!

「よっしゃぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!」

 きっかり1分後、ミサトは立ち上がり、自分の両手で両頬を思いっきり叩(はた)いて

力の限り叫んだ。

 

「そうよね。くよくよ悩んだってしょうがないし、第一ガラじゃないわね、こういうの!

 よし!景気付けにエビチュでも飲みますかぁ〜♪」

 ミサトは彼女が出せるなかで最大限明るい口調で、そう言った。

 まだ目は赤く充血し、顔は少し腫れぼったかったが。

 

 部屋を出る直前ミサトはふと立ち止まり、少しだけ後ろを向いてぽつりと一言だけ。

「加持君……今ごろどうしてるかな……」

 

 そして、今度こそミサトは後ろを寸毫も振り返る事無く部屋を出て居間に向かった。

 どっしどっしという音が、主を失った部屋に響いた。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

「雪か…」

 窓のサッシを指で少しだけこじ開け、加持は呟く。

「道理で寒い訳だ。この立て付けじゃあ、まぁ、無理もないが」

 

 既に使われなくなって明らかに何年かは立つと思しき廃屋。

 その一室に加持は佇んでいた。

 無論、その場所が加持の住処という訳ではない。彼の裏の顔−すなわちゼーレでは無

いもう一つの仕事−の交渉相手『叔母さん』との情報交換の場所として、この場所が選

ばれたのだった。その情報交換も数分前に終わり『叔母さん』は何処かに消えていった。

加持はその部屋にしばし佇んでいたのだった。

 

 ゆっくりと煙草を口に持って行き、火を付ける。

 通常、彼のような仕事をしている者は煙草を吸わない。

 健康に気を配るとか、それだけの問題ではない。

 唾液のついた吸い殻は面を割る結果に結びつきかねないのだ。

 だが、加持は昔から一仕事終えた後に一服するのが癖だった。

 吸うのは両切り。これならば、全てを燃やしてしまえばフィルターが残らないから

足がつく心配も無い。

 煙草を指の中で弄びながらゆっくりとくゆらせる。

 

 やがて呟くように言葉を発した。

「雪…全てを白く包み込み、不浄を清めてくれる小さな結晶…

 ……だが、いくら雪が降っても権謀術策と裏取り引きの渦巻くこの街を白く覆う事は…」

 

 加持は火が点いたままの煙草を床に放り投げる。煙草はやがて燃え尽き、白い灰のみ

になった。

 

「俺も同じか。俺が白く染まる事が出来るのは死んで灰になる時だけだ……」

 

 加持は窓を少し開けた。と、風が舞い込んできて灰をたちまち外の世界に運び去って

しまう。微風すら無い筈の外界から風が舞い込んできたのはビル風だったのか。

 

「灰は灰に……か」

 

 少しだけ佇み、加持は口調を変えて言った。

「さぁて、NERVに戻りますか。あっちの仕事もやらないとねぇ。道化は忙しくて大変だわ」

 加持は今まで佇んでいた部屋から音も無く出ていった。

 扉が閉まる時、人間の耳には聞こえないほど微かな音が少しだけ、鳴った。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 白衣を着た怜悧な瞳の女性−赤木リツコ博士がひとりごちる。

「雪、ねぇ……確かにここ15年で降った記録が無い訳ではないけど…」

「一応、使徒との関連性についてMAGIの判断を仰いでみましょうか?」

 マヤが間髪を入れずにリツコに訊ねた。

「そうした方が良いわね。もし、セカンドインパクト以来の異常気象と同じなら、今日

 深夜から明日未明には降雪もおさまる筈。そうなれば、どんなに雪が積もっていても

 明日の午後を待たずに融ける筈よ。でももし使徒の仕業なら…」

 リツコの口から同意の言葉が零れ出るや否や、二人の手は猛然とコンソールを叩き始

める。

「止むという保証は無い。ですね?」

「そうね。第3新東京市もエヴァも寒冷地戦闘を想定して設計されてはいないわ。

 エヴァはまだ局地戦用装備を付ければ不可能ではないけれど、ジオフロントにエヴァ用

 対冷式装備は用意されていないの。他の支部から取り寄せるとなっても時間がかかる。

 もしこの雪が使徒の仕業だとすればそうとう厄介な戦闘になると思われるわ。」

 

 二人の腕は話しながらも一時も止まらない。それどころか鈍る素振りも見せない。

 その後暫く、辺りは二人が奏でるキークリック音のハーモニーのみが響き渡る。

 

「先輩!MAGIはバルタザール・メルキオール・カスパー三者とも使徒の可能性を棄却し

 ています!」

「オペレーター?」

 リツコは自分の座席から立ち上がり、オペレータ席の方を鋭く振り向きながら訊ねた。

「パターングリーン。使徒の反応は認められません!」

「そう。どうやら使徒の可能性はゼロに近いとみなしてよさそうね。」

 司令室にホッとした雰囲気が流れる。

「どうやら使徒じゃなかったみたいですね。やれやれ。人騒がせな雪だなぁ」

 オペレーターの一人がほっとした様子で軽口を叩いた。

 が、リツコはぴしゃりとたしなめる。

「まだ安心するのは早いわよ。ゼロに近いというだけ。ゼロそのものではないわ。相手

 は使徒なのだから雪が止むまでは油断は禁物よ、分かった?」

「「「はぁい」」」

 オペレータはあからさまにがっかりといった表情を浮かべる。

 しかし、

「とは言え、使徒の可能性は著しく下がったのだから警戒レベルを下げても良いでしょ

 うね。人数を半分に減らします。シフトに従って休憩に入ってもOKよ」

というリツコの言葉を聞いて、消沈しかけた気勢が再び盛り上がる。

 そう来なくちゃ、リツコ大明神様!などとふざけてるのか真面目なのか良く分からな

いセリフを叫ぶものもいたが、皆が喜んでいることだけは間違いないだろう。

 

 白衣を翻し、ハイヒールの音を響かせながら自分の座席に戻るリツコ。

「フフッ、みんな現金なものね」

 笑って呟いた。

「でも良かったじゃないですか。使徒の可能性が殆ど無くて。戦闘なんて無いのが一番

 ですよね。」

 マヤがリツコの呟きに答える。

「そうね。」リツコはかすかに微笑んで同意した。

 と、マヤがにっこり笑ってリツコの前に猫の模様の入ったマグカップを差し出す。

「コーヒーです。どうぞ?」

「ありがとう、マヤ。準備が良いのね」

「実はこんな事になるんじゃないかと思ってMAGIを弄る前に煎れておきました」

 ちょろっ、と舌を出して悪戯っ子のような表情を浮かべるマヤ。

「まぁ」リツコは笑いながらマグを受け取った。

「でも先輩も使徒とは関係ないって思ってたんじゃないんですか?」

「あら、どうして?」リツコは少し小首をかしげながら微笑してマヤに問う。

「だってシンジ君達を呼ばなかったじゃないですか」マヤは笑いながら答える。

 リツコはマヤの推理を曖昧な微笑みで躱(かわ)し、モニターに映る雪を見つめる。

 

 −白い粒。白い世界。全てを覆い尽くす白…

  まるでレイのようね…

  あの子自身は何をするわけでもないのに、

  いつのまにかあの子の存在が人の心を覆ってしまう。

  白い世界に連れて行ってしまう。

  要らないものも、大事なものも…

  あの人さえ…

 

 一瞬、狂気にも似た炎がリツコの瞳に宿るが、すぐに消える。

 あるいは意図して消したのか。

 リツコは小さく一つ溜め息をつき、コーヒーを飲もうとマグを持ち上げた。

 だが、マグの中に注がれた漆黒の液体がリツコを再び思考の海に誘う。

 

 −だから私は無意識のうちにレイを呼ばなかった、とでも言うの?

  こんな雪の日にレイが来たら…

  本当にあの人が手の届かないところに行ってしまう、と思ったとでも?

 

 リツコは思考を頭から追い出そうとするかのように、かぶりを振った。

  …こんな事を考えてるなんてマヤは夢にも思わないでしょうね…

 

 今度こそリツコはマグを傾けた。コーヒーはいつもより、苦かった。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 私は何かを抱いている。

 いえ、私じゃない。私じゃない私。

   (いいえ、あなたよ)

 まわりには何かが舞っている。

 白くて小さな……知ってるわ。これは雪。

   (そう、あなたは知ってるわ。それは雪)

 抱いているのは小さな何か。

 小さくて、暖かくて、守ってあげたいもの。

   (シンジよ)

 碇くん…抱いているのは碇くん?

 そう、そうかもしれない…

 顔も、手も、体も、何もかもが小さくて、碇くんかどうかも分からない

 でも何故か分かる。

   (そうよ。あなたは私だもの)

 それは違うわ。私はあなたじゃない。私は私。

   (違うわ。私はあなたであなたは私。

    「私は私」「あなたはあなた」「私はあなた」「あなたは私」

    全てが同じ意味なの)

 違うわ。私には分かる。何故か分かるの。

 私は私であなたじゃない。

 私とあなたは違う存在。

 手を伸ばせばすぐ届きそうなほど近い存在。

 でも、絶望的なほど遠い存在。

   (………そうね。そうかもしれない)

 私があなたであれば良かったのかもしれない。

 でも良くない気がする。何かが……

 

 あなたに手を伸ばしかける私。その時、私の手を誰かが掴んだ。

 見るとそれは

 碇司令。

 

 「私が手伝ってやろう。そうすればこの手は届く」

 それが良いのかもしれない。でも胸の中で何かがざわめく。

 

 「レイ。今日この日のために、お前は居たのだ」

 そう………なの?

 何が良くて何が悪いのか分からない。

 私には何もないから………碇司令がそういうのなら………

 

 「それは命令ですか?」

 「そうだ。」

 それなら私には反対する何物もない。

 「わかりまし」

 

 

 瞳には天井が映っていた。

 レイは体を起こしながら辺りを見回す。

 そこにはいつもと変わらない自分の部屋があった。

 脱いでそのまま床に置いた制服。剥き出しの壁。小物入れの上には錠剤と眼鏡。

 

 「今のは……夢……」

 呟く。ふと、体が震える。レイは窓の外を見た。

 窓の外には白く降り注ぐ小さな粒。

 「これは……雪……夢でも見たモノ……」

 そう呟き。

 彼女は窓の外を眺めた。

 赤い瞳から白い頬を伝って落ちた雫の跡が

 雪に映える月の光に照らし出されるなか。

 レイは飽く事なく、雪をいつまでも見つめていた。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

「雪だな」

「ああ」

 

 発令所ではゲンドウと冬月が待機して、外の様子をモニターで眺めていた。

 いつものごとく、ゲンドウは司令席に座り、冬月は傍らに控えている。

 雨が降っても雪が降っても、この位置取りに変わりはない。

 

 冬月が口を開く。

「世界を白く染め抜く雪、か……俺はいい年まで四季がある日本を知っていたからな、

 今でもまざまざと思い出す事が出来るよ。四季の移ろいをな。」

「俺もだ」

「桜の美しさ…新緑の清々しさ、清涼感に溢れた香り…紅葉、山は黄や赤に染まる。落

 ち葉を栞にした事もあったな…そして雪。身が引き締まるような冷気、しかし雪が降

 ると何故かな、暖かく感じたものだ…」

「汚いものを覆い隠すからだろう」

「俺はそうは思わんね。雪は全てに降り積もるからだ。分け隔て無く、な…」

 

 ゲンドウの言葉を受け、冬月は微かに眦(まなじり)を上げ、語気を強めた。

 一方、ゲンドウは冬月の語調に動じた風もなく答える。

「そうだな。時の流れと同じだ。時は生きとし生けるもの全てに、それのみならず命を

 持たざるものにも等しく流れ、過ぎ行く。」

 

「そうである以上、命有るものいつかは滅び、形有るものいつかは壊れる。何者も逃れ

 られず等しく降り来る運命だな」

 冬月は、自分が多少とはいえ激した事を自省したのか、口調を元に戻す。

「だが、人はそれを克服しようとした。何故なら人には死を知る知性と、死を恐怖する

 感性があったからな。どちらも無ければより幸せだった。」

 ゲンドウが答える。短時間の間の冬月の口調の変遷を察知したものか、否か。外見か

らは杳として窺い知れない。

 冬月も、そんなゲンドウに馴れているのか、何事も無かったかのように言葉をつぐ。

「死を知ろうとする事、死を恐怖する事が宗教を生み、文学を、芸術を、科学を生んだ。

 それが幸せだったのかあるいは不幸だったのか、俺には分からんがね。」

「宗教は闘争を生んだ。世界で起こった戦争の半分は宗教闘争だと言っても過言ではな

 い。愚かな人間が撒いた不幸の種だ。」

「人間に知性と感性さえなければ宗教も無く、宗教闘争も起こり得なかった、と?」

 冬月はゲンドウに思わずゲンドウに問いただした。

 しかし、相変わらずゲンドウは表情を揺るがせる事無く言い放つ。

「疑念と猜疑心も無ければな。」

「人間から知性と感性と疑念と猜疑心を取ったら人間では無いだろう…」

 冬月は苦笑する。が、ゲンドウは頬の筋肉をぴくりとも揺るがす事はなかった。

 もっとも、サングラスの奥の瞳にどのような色を浮かべているのかは分からないが。

 

 その様子を見て、冬月はほんの少し皮肉っぽい表情を浮かべ、言う。

「そういうお前がいまやゼーレという宗教的秘密結社の出先機関NERVの司令だ。面白い

 事実だな。」

「ゼーレは俺達の財布に過ぎん。」

 ゲンドウはほんの少し唇を歪めた。口が小さな三日月を作る。

「老人どもに第3新東京まで届く長い手足は無い。せいぜい首に鈴をつける程度だ」

 その言葉を聞いて冬月は僅かに眉間に皺を寄せた。

「…そう願いたいものだな……」

 冬月は小さくそう呟いた。

 

「…時に碇。」

 冬月は思い付いたように声をかける。

「なんだ?」

「シンジ君とはちゃんと連絡を取ってるのか?」

「唐突だな。」

 ゲンドウは心を動かされたふうもなく答える。

「司令という、お前の公の立場も分かる。だがシンジ君は14歳だ。まだまだ父親という

 ものが必要だろう。特に男の子の場合はな」

「『もう』14歳だ。自分の事はある程度自分で出来るだろうし、葛城君もついている。

 まして葛城君からは特に異常無しと報告が来ている。」

「……怖いのか?」

「何がだ?」

 ゲンドウの表情はあいかわらずサングラスに阻まれ、窺い知る事は出来ない。冬月は

追求を諦めた。

「……まぁいいさ。だがいずれは嫌でも携わらなければならない問題だ。いつまでも避

 けては通れんよ。老人の独り言と思って聞き流してくれても構わんがな。」

「…ああ…そうだな…」

 そう言ったゲンドウの呟きを冬月は聞いたような気がした。だが、本当にその言葉を

聞いたのか、あるいは空耳だったのか、冬月には判別できなかった。その言葉があまり

にも儚かったから。

 まるで、にわかに降った雪に覆い隠され、雪と一緒に融けて流れてしまいそうな程に……

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 碇シンジは、夕食を終えた後、自分の部屋に戻り、ベッドに横たわっていた。

 静寂が包む中、何をするでもなく。

 S-DATのイヤホンを耳に嵌め、聴くでもなく聴く。

 普段は、音楽を聴いている間は余計な事を考えない。

 その時碇シンジは一個の殻であった。

 

 だが今日は何が引き金になったのか、シンジは思考の波に揺られていた。

 

 −まざまざと思い出すことが出来る、戦闘の数々。

  そこには痛みがあった。恐怖があった。

  だけど……何故だろう、そこには奇妙なほどに現実感がなかった。

  僕がそこに参加してる、っていう実感が無かった。

  父さんに命令されてそうしてるからなのか?

  そうなんだろうか?

  でも、奇妙なことに僕はどんな場面でも確かな手応えと言うものを掴んだ記憶がない。

  努力をすればいいのか?

  …でも何をどう努力すれば良いのか分からない。

  もがき、足掻けばいいのか?

  …でもそのもがき方、足掻き方すら分からない。

 

 いつの間にか、シンジの手は握ったり開いたりを繰り返していた。

 

  ……努力すれば得られるものがある。努力してしか得られないものがある……

  だけど、それは「何を努力すれば良いか」を持ってる人の言うことだ。

  「努力すれば良いもの」を見つけられない僕は一体どうすればいいんだろう?

  周りの人達が「やりなさい」って言ったことをやればいいのか?

 

「何かが足りないんだ……僕の中の……大切な何かが……」

 シンジは手を白くなるまで握り締めていた。

 

  …一体、僕は生きているのか?

  それとも僕は誰かが動かしてるあやつり人形に過ぎなくて、その誰かが「や〜めた」

  って投げ出したら、僕は糸が切れたみたいに動かなくなるんだろうか?

 

 胸をおさえ、体をくの字に折る。

 S-DATが止まり、終了を知らせる音が鳴る。

 残ったのは、耳につけたままのイヤホンがもたらす違和感と

 何もかもが静止したような部屋空間。

 

  …誰か、くれよ、僕に…

  僕が、生きて、この世にいるって言う実感を…

  僕が、現実にこの世界にある、って言う実感を…

 

  誰か……誰か助けて………くれよ………

 

 

 ふと、体が震える。

 シンジはベッドの上で上半身を起こし、窓の外を見上げた。

 そこには、天から降ってくる白いものがちらついていた。

  ……まさか……雪?………これが………そうなんだ………

 しばし部屋の窓から外を見つめる。

 

  雪が降ってる、って言うことは外は寒いんだろうか。

  いろんなものを凍てつかせるほどに…

 

 シンジはふいに、外に出たくなった。

 

 

                     ☆

 

 

 「これが雪なの……真っ白…………」

 透き通った青い瞳、亜麻色の髪、白い肌の少女、惣流アスカ・ラングレーが呟いた。

 マンションの前の道で彼女は一人佇んでいた。

 道には走る車が一台たりとも無い。おそらく、雪などサードインパクト以来優に片手

で数えられるほどしか降っていないため、こんな日に車で走ろうと思う人間はいないの

だろう。

 外に出てから5分ばかり経つが、アスカは車どころか人っ子一人見かけなかった。

 辺りは天から降る雪とあいまって、静寂の世界に包まれている。

 まるで、世界の中に自分一人だけしかいないような錯覚に陥る。

 だが。

 アスカはふと辺りのマンションを見上げた。

 そこには幾つも点る部屋の明かり。

 その明かりの存在が、世界に自分一人、という考えを打ち消した。

 

 −そう。一人なのは私。私だけ。

  みんなはあの明かりの中で暖かさに包まれてるのね…

  でも、私は一人。

  私だけひとり……

 

 アスカは俯く。長い亜麻色の髪が顔にかかり、表情は見えない。

 

  白い雪。

  ───白い病室。

  冷たい雪。

  ───冷たかったあの部屋。病院。空気。父親……

 

  駄目!思い出しては駄目!

 

 アスカは自分の心にブレーキをかける。

 いつもそうしてきた。自分を壊さないために。

 だが、いつも結局はそこに舞い戻ってしまう自分に気付く。

 忘れたい。でも忘れられない。

 何故なら、その記憶が母親との絆でもあるから。

 たとえ、思い出すだけで自分が壊れそうなほど冷たく痛い記憶だとしても、それだけ

が母親と自分の絆なのだから。

 

「ママ…どうして私を見てくれなかったの?」 

  それさえあれば生きていけたのに。生きていけるのに。

 

 アスカは、いつの間にか目にうっすらとこみあげていた涙を乱暴に袖で拭った。

「………つまらないわね、こんなの………」 

 そう。今の私はあの頃の無力な私じゃない。ママを振り向かせることが出来なかった

ちっちゃな私じゃない。

 そんな私であっちゃ、いけない。

 

 アスカは唇を結ぶ。奥歯がきしむほど噛み締めながら。

 

 

 その時、ふいに少し離れた後ろの方から声が聞こえた。

 「………アスカ………いたんだ………」

 ごく最近聞きなれた声。そしてこんな時には聞きたくなかった声。

 アスカに声をかけたのはサードチルドレン、碇シンジだった。

 

 

                     ☆

 

 

 「アンタ…」

 アスカは獰猛な肉食動物の唸り声で言った。

 「いつから居たの」

 

 その声には明らかに敵意が含まれていた。しかし、その夜のシンジはたじろがなかった。

 「たった今、来たばかりだよ」

 ごく自然に言う。

 アスカはシンジの後ろを見た。シンジの言葉が指し示す通り、シンジが今いる場所まで

辿り着いた足跡はまだ雪の降り積もらない真新しいものだった。

 「そう………」

 アスカの声からはまだ険が完全に無くなってはいなかったが、幾分先程より柔らかい

調子で言う。だが、敵意はなくなったとしても、控えめに言ってその声には何の感情も

込められていなかった。虚無が広がっているようだった。

 一方のシンジも、その声の調子に心を動かされた様子はない。

 そうして、そのまま二人とも黙り込んだ。

 

 

 アスカと、その少し後方にシンジが立っている。白く雪が降り積もる中。

 二人は一言もしゃべらず、ただ見るともなしに雪を見ていた。

 身を切るような寒さが二人を ─── 否、一人と一人を包み込む。

 しかし、それを感じている様子も無い。

 あるいはそれぞれがそれぞれに、肌に感じる寒さよりももっと凍てつくような思いに

沈んでいたからだろうか? 

 

 

 どれぐらいそのままそこでそうしていたのか、やがてシンジはぽつりと呟いた。

 

「………………つまらないね、こんなの………………」 

 その言葉は、明らかにアスカに向けられた言葉ではありえなかった。

 かといって、この場に居ない誰かに向けたものでも無かった。

 それは単に、自らの思いに沈んでいたシンジ自身の、心の発露に過ぎなかった。

 

 しかし。ややあって。

「そうね………………つまらないわね…………………」

 アスカがそれに応えるように言う。

 とはいえ、同意の形はとってはいるが、その言葉はシンジに向かって発せられた言葉

ではなかった。

 シンジのそれと同じように、アスカの言葉もやはり、アスカ自身の思いから生じた心

の発露でしかなかった。 

 

 ややあって、二人は同時にお互いの顔を見つめあった。

 二人の顔に苦笑が浮かぶ。苦笑と言う言葉では片づけられないほどに、苦さを含んだ、

笑い。

 

 やがて苦笑がおさまると、互いの顔を見つめあったまま真顔に戻る。

 暫く見つめあってから、アスカが言った。

 今度は、明確にシンジに向けられた言葉だった。

「ねぇ」

「ん?」シンジも応える。

 

 アスカは一瞬逡巡したかのように間を置く。

「なに?」

 シンジはアスカを促す。

「…アンタが辛気臭い顔すると本当に辛気臭くなるからやめなさいよ。それでなくても

 ただでさえ辛気臭いんだから」

「そ…そんなに辛気臭い辛気臭い言うことないだろ。僕だって偶には考えることぐらい

 あるんだよ…」

「ふぅーーん……………」

 

 アスカはそれ以上シンジを追求しない。

 シンジもいつもとは違ってムキになって言い訳をしたりしない。

 

 再び静寂の世界に戻る。

 

 暫くおいて。

「アスカこそどうしたのさ、今日は………アスカ、暑くても寒くても文句言うから、

 てっきりこんな日にはお風呂でも長めに入って温まってるかと思ってたのに…」

 シンジがアスカに切り返す。

「ま、そんな日もあるわよ……たまたまそういう気分だっただけ…」

「………そう。」

「………そうよ。」

 

 シンジはそれ以上聞かなかった。アスカもそれ以上言おうとはしない。

 

 三度、沈黙が訪れる。

 

 

 雪はいまだ降り続ける。それ程激しい雪ではなくちらほらと降っているだけとは言え、

アスカの足跡は勿論、シンジの足跡すらうっすらと雪が降り注ぎ、隠れるほどになって

いた。アスカとシンジが外に出てから暫く経つが、いまだ人も車も道を通る素振りすら

なかった。 

 

 と、

「「あのさ」」

 二人が同時に口を開いた。思わず苦笑を浮かべる。

 しかし、その苦笑は先程のものとは違い、幾分和らいだものだった。

「アンタ言っていいわよ」アスカは苦笑しながら言う。

「いや、アスカから先で良いよ。さっきも先に話しかけたの、アスカだっただろ?」

 シンジも苦笑を浮かべて言う。

「………あのさ………」

 アスカは何かを言おうとして、逡巡したのか言い淀む。

 やがて、アスカの口から紡ぎ出された言葉は。

「踊らない?」

 というものだった。

 シンジはアスカの言葉を聞いて明らかに戸惑った様子だった。

 しかし、アスカも顔には殆ど出さないものの、シンジに劣らず戸惑っていた。

 

  そろそろ戻ろうか、って言おうと思ったし、アスカもそう思ってるかと思ったのに…

 

  何言ってるんだろ、私……そろそろ戻らない、って言おうと思ってたのに…

 

「踊る…ここで?………でも、僕は踊り方なんて知らないよ」

 シンジは戸惑いながらも、シンジらしい生真面目さを持ってそう答える。

「あのねぇ………教えてあげるわよ、それぐらい。」

 アスカは、シンジの生真面目な対応に救われたような気持ちになった。

 その一方で、シンジを誘った自分の心を不思議にも思う。

 だが、この白い世界で踊ることは、何故か今の自分達に相応しいような気がした。

 

「………なら…やってみようかな?」

 シンジにしても、普段のシンジなら恐らくそうは言わなかったかもしれない。

 だが、何故か今はそう答えるのが相応しいように、シンジには思えた。

 

「その代わり…………」

「うん?」

「私の足を踏んだらただじゃすまさないわよ!」

 アスカは凄んだ口調でそう断言する。

 

 と、数瞬おいて。

 

 二人が同時に笑い崩れた。

 明るさと昏(くら)さが微妙な均衡を保っている笑い。

 これから先、いずれに転ぶかは見当もつかない。が、今はギリギリで明るいなにかと

昏いなにかが秤の上で釣り合っている。

 そんな笑いだった。

 

 ひとしきり笑ったあと、シンジが笑みを浮かべたまま丁寧にお辞儀して、言った。

「よろしくお願いしますよ、お嬢さん」

 アスカも笑みを浮かべたまま、言う。

「シンジの癖に言ってくれるじゃないの。こちらこそよろしく、ぶきっちょな紳士さん」

 スカートの端を両手でつまむ素振りをして、優雅に一礼する。

 

 そして、二人は手を取り合い、雪の中、踊り始めた。

 白い舞台に、くるくると雪のように舞う少女と、不器用に踊る少年の影が映し出される。

 

 その影はいつまでも消えることが無かった。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

雪は降りそそぐ。

全てのものに分け隔てなく。

富めるものにも、貧しきものにも。

持てるものにも、持たざるものにも。

歯を食いしばって戦うものにも、羽を休め休息するものにも。

喜びに溢れるものにも、悲しみに打ちひしがれるものにも。

楽しみを享受するものにも、孤独に苛まれ寂しさに震えるものにも。

 

願わくば、この雪のように。

小さな小さな不幸せと。

それを越える大きな大きな幸せが。

これからも生きていかなくてはいけない彼らのもとに。

降り注ぎますように。

 

 

 

 

【了】


あとがき


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