L a n d s c a p e

0.

「君は、自分の記憶を信じられるかね?」
老人の声で、その夢は始まった。
暗く、冷たい。
「……ここは?」
少年はあたりを見渡し、尋ねる。
ここがどこなのか、彼にはわからなかったからだ。
あたりをどれだけ見渡してみても見える景色はただ一つだけ。
ただひたすらに闇がひろがっているのみだった。
「ここは、どこ?」
闇の中、困惑する少年の姿だけが浮かび上がっている。
どれだけ歩いても何も見つかるはずがない。
どうやら彼には気づくことができないようだった。
ここが夢の中であると。

「君は、自分の記憶を信じられるかね?」
老人が繰り返す。
静かな、冷えた音だった。
それを聞くと少年は立ち止まった。
「……だれ?」
不審な老人の声に彼は心底恐怖した。
それが君の答えを導くのに。

「君は、自分の記憶を信じられるかね?」
また、繰り返す。
闇の中、単調な問いかけに、少年は少しずつ思い出す。
そして、その問いが3度目でないことを知った少年は、目を覚ました。
 
 
 

1.

まるで、別世界のようだ。
下車したホームでの感想だった。
年明け、初詣も落ち着いた4日目ともなると妙に町が静まりかえっている。騒ぐほど栄えていないとも言えるが、この異常なまでの静けさに僕は不安を覚えた。何せ片手に余るほどしか人が見えない。
相変わらずの無人駅にはバス停もタクシー乗り場もない。改築し、面構えだけは小綺麗になったが、絶えていくような町の衰退を現すようにひっそりとここは静まりかえっている。
改札を抜け、駅の入り口までたどり着くと外の様子がうかがえた。
「勘弁……」
すでに電車の中からイヤというほど見てきた現実に、予想通り直面する。
天気予報に興味のない僕は必然気象に疎い。まさかここが今日大雪など知る由もない。
「傘なんて……売ってねーよな……」
18年間住んだこの町で、駅前で傘を売るような気の利いた店があるはずもないことは十分承知していたので、雪に降られながらコンビニを探し回るなどという無駄な行為をせずに済んだ。おそらくそうしていたなら僕は目的地にたどり着くよりも多くの距離を徘徊させられたはずだ。
「さっ、…びぃ〜」
決して今僕が下宿している街よりも寒いわけではないはずだが、この町独特の湿度の高い空気が肌に張り付き、体温を奪う。どちらかと言えば、空気の冷たさというより水の冷たさだった。
(ああ、そうだったな……)
年中通して雨量が多く、春も夏も秋も冬も、いつでも湿度が高かった。懐かしい。
(3年ぶりか……結構、経ったな……)
都会で就職が決まり3年。一度もこの町には帰ってこなかった。別に両親から奔放されたわけではなく、会いに来たい人がいるわけでもなかったので、帰ってこなかった。そう。「帰ってきたくなかった」のではなく「帰ってくる必要がなかった」からだった。
自分の、最も世の中の悪しき習慣に追随している点はおそらくここなのだろうと思う。
必然がなければ動かない。
己の意志に行動の決定権はなく、環境の必然によってのみ己の行動が決まるのだ。
自分が流されやすいタイプの人間だとは思っていないが、この活力のなさには我ながら恐れ入る。
2年間都会の学校でそれなりに頑張ったはずだったのだが、就職して安心したのかいつの間にかそれまでの自分に戻っていた。人間、そうは変われない。思い知らされている事実なのだった。
そして、今回も同じように正月だからだとか、仕事が休みだからだとか、そう言った理由ではなく、それなりに強制力を持った要因によって僕は今ここにいる。

 前略 小早川千尋様。お元気ですか。中学時代同じクラスで勉強をしていた南健二です。突然の手紙にさぞ驚いていることでしょう。どうやって調べたかは秘密です(笑)。
 さて、年の瀬、もうすぐ21世紀を迎えるにあたり、新年会&同窓会を一度に開こうかという計画を立てております。もちろん西塔中学校平成4年度卒業生96名の同窓会となります。日時は1月4日の18時からにしたいと思います。地元に残っているものは皆遠くへ行ってしまった友人たちと会いたがっています。こういった機会もそうそうつくれないと思いますので是非ご参加のほどよろしくお願いします(君には参加の義務があります。わかりますね?)。
 場所は町内の総合センターをお借りして行います。費用はいくらかさんでもいいようにたくさん持ってきてください(笑)。
 それでは。

自分宛に手紙が届くこと自体まれなのだが、その文面には本当に面食らった。8年前から全く連絡を取っていない友人からこんな手紙をもらうなど。しかも今僕の住んでいるところを知っているのは僕の家族と、あとは職場の総務くらいで同僚ですら住所は知らないはずだ。いきなりこんな手紙が届いては驚く以上におそれてしまう。
何にせよ差出人が南健二ということで僕はそれなりに納得した。まあ彼ならばそういうこともあるかもしれないと。健二という男は活発な少年で、いわゆるクラスのムードメーカーのような人物だった。よく笑い、よく怒り、何にでも興味を示す。勉強もできる方で、優等生ではなかったがそれなり以上ではあった。僕と彼とはそれほど親しい間柄ではなかったが、彼の積極的な性格のおかげで僕の認識では友人であった。誰とでもうち解けあえる彼の純粋な性格は僕にとって好印象だった。
8年後、相変わらず変わっていない彼の性格がよく現れた手紙を受け取り、一瞬で8年前に引き戻されたかのような懐かしさに駆られ、僕は思わず泣き出しそうになった。目頭が熱くなったのを思い出す。
僕はまんまと彼にその気にさせられたわけだ。成人式にすら参加しなかった僕が、何でもない、たかが同窓会だか新年会だかになぜか出たくなってしまったのだった。
そして
『君には参加の義務があります。わかりますね?』
この文面。わからない。僕には彼のいう義務とやらが思い出せない。これもまた今ここにいる理由の一つだ。手紙をもらったのが12月の頭だから、もうひとつきも悩んでいるが、これと言って思い出せる点がない。今では彼の、いわゆる彼らしいジョークなのかもと思っているが、やはり釈然としない。今日、1月4日に是非解決しておきたい疑問だった。
「わかんねーよ……」
その手紙をもう一度読み、つぶやいた。
真っ白な息とともに、言葉は空気へと変わっていった。
駅の外はまだ雪が降り続いている。
どうやら止む気配はなさそうだ。
降りてくる空と、冷たい空気。そして、彼の謎かけ。
とても静かな駅の入り口で僕は立ちつくす。
3年ぶりの故郷はどんな形で僕を迎えてくれるのか。
不安が、広がり始めた。
 
 
 

2.

「ねぇ、あれって……もしかして千尋君じゃない?」

こんな田舎で、次の電車がやってくるくらいの時間駅の入り口でぼーっとしていた僕は、ふとそんな声を聞いた。どうやらその電車から降りた客らしい。電車が去って少ししたあとに背後から、だった。
(千尋、君?)
女性の声だった。若い。
いつもなら町ですれ違う女性の会話など耳にも入らないが、さすがに自分の名前を呼ばれて聞き流すことはできない。そもそも、僕を名前で呼ぶものなどもういない――
「?」
振り向くと予想通りの年頃の女性が2人。年はおそらく僕と同じだろう。そして、おそらく、どころか間違いなく、僕の中学時代の同級生だろう。
「あ、ほら。やっぱりそうじゃない?」
さっきよりも大きな声で、一人がもう一人に声をかけた――確信は自信に繋がるらしい。
彼女たちは、僕の想像よりも田舎の女性ではなかった。そのまま今僕の住んでいる町に持っていっても決して色あせない、流行からずれない雰囲気だった。僕は少々残念に感じた。ここに至ってなお僕はいつも通りの現実、一般的な世間と向き合わなければならないかと予感すると胸が軋んだ。
せっかく帰ってきたのだから、懐かしさに落ち着かせて欲しい……
「小早川千尋君。当たり?」
流行の髪型に、かわいらしい笑顔で僕に近づき、尋ねる。
女性に縁のない僕なので、一瞬めまいを覚えたがそれも一瞬のこと。仕事での自分を身にまとい対処した。
「かもね。」
少し、笑ってあげた。
これが本心だったのか、それとも仕事流の対処法なのかは自分でもわからなかった。それはどうでもいいことで、結局は場の雰囲気に対処できればそれでよかったのだ。
「やっぱり!久しぶりねー!随分変わったね、髪も伸びちゃって……――」
…………
女性のテンションの高さには、正直堪える。このあとどれほどの精神的犠牲を払って彼女ら(主に彼女)に対応したことか。女性は静かに友情を分かち合うということができないのだろうか?おじんくさい言い分かも知れないが僕はこういった高いテンションやら騒がしいのやらはなじめない。これが18時から延々夜中まで続くのかと想像すると腰が引けた。結構かわいくなった彼女らに再会できただけで満足だ!などと言いつつ帰りたかったが、一人ぼけつっこみもむなしく、己自身で却下した。
…………
「あ、ところで、私たちの名前、覚えてる?」
しばらく会話して、そう尋ねられた。
僕が今日、さっき帰省したばかり云々の話題で、僕のペースで彼女らのテンションを極力そぎつつ同年代の男性として無難な程度の好印象を与える努力をした後だった。
(失礼な。高々96人の同級生の名前なんて全員覚えてるさ……)
その通り。仕事で何百人相手にしてると思ってるんだ。ただでさえ、僕は記憶力は悪くない。勉強はできる方ではなかったが今は頭を使う仕事をしているため、記憶することに関しては並々ならぬ自信がある。
だからカラカラと笑ってやった。
「忘れた。」
そして、これが僕のやり方だった。まるでテレビのコントのような嘘をつく。バレることが大前提の嘘をつく。悪いなどと一欠片も思っていないように、僕は笑顔を維持した。
「嘘でしょ?ひどーい!」
彼女ら(主に彼女)の反応はまずまずだった。半信半疑といったところか。人によっては信じ込まれて気まずくなることもあるが、大抵はこんな感じだ。
「嘘だよ。」
それから、すぐばらす。笑顔とともに。
僕はこういった、心臓に若干負担をかけるような驚かせ方をするのが好きだ。良くも悪くも相手の感情は揺れる。あからさまにそれを自分が制御できることがある意味楽しい。いたずらっ子の気分だ。やりすぎるとオオカミ少年になるので頻繁にはやらないが。
予想通り、彼女は怒った。もちろんしてやられた程度の悔しさだったろうが。
「もう!なによ、千尋君てこんな意地悪な人だった?」
シナリオ通りの展開に僕は満足しつつ、まあまあごめんよ、などと本当にそう思っているのかどうか、そんなことは思いもせずに彼女ら(主に彼女)をなだめた。
(そうだな、こんな娘だったな……)
懐かしさが、溢れる。
相変わらずの外の寒さとはよそに、僕には暖かさがあった。
懐かしい、あのころの思い出がよみがえる。
まだ時計は16時をすぎたばかりだった。
後2時間が待ち遠しい。
実家に帰るつもりだったが、会が始まるまで彼女たちと話をするのも悪くない。
そう、8年も経ったのだから、話をすることなどいくらでも。
いつも話をする女性とは違う彼女たちに、僕は安心し、心の壁を崩した。
僕は、僕らしくない感情に、酔いしれていた。
 
 
 

3.

僕が、中学時代の同級生に会わなくなって8年が経つ。中学を卒業してからだ。
同じ高校に進学した同級生は例外として、それ以外は絶縁というほどだった。
高校時代にあらゆる精神的問題が起こり、僕はずっと日陰で生きてきた。元々活発な方ではなかったが、高校時代はと言えば明らかに登校拒否レベルの精神的失墜があった。今その問題について取り上げることはしないが、そのほとんどの要因は僕の心が弱かったことに起因する。
ともかく、そんな様子だった高校時代の僕はあまり学校にも行かず、街にも出ず、囲まれた空間で過ごす時間が圧倒的に多かったため、こんな狭い田舎の町ですら僕は友人と顔を合わす機会を失ったのだった。

「へぇ、千尋君、学校の先生やってるんだ。なんか、すごいね。」
そう、僕自身最も信じがたい事実だ。何がすごいのかはともかく、とりあえずその事実はすごいと思う。
「まあ、先生とか言っても、特に教員免許を持ってるわけでもなし……あちこちの学校を非常勤で掛け持ちしてやってる技術屋だよ、実体は。」
彼女たちと目は合わせず、そういいながら僕はコーヒーに口を付けた。
いい加減あの寒い駅でうろうろしているわけにもいかなかったので、駅を出たすぐにあったそれなりに新しい喫茶店へ転がり込んだ。この街の喫茶店などは行ったこともなければ興味もなかったが、どうもこういった商売はすぐ経営者が変わるらしい。ここにいた18年間、僕は一つとして店の名前を覚えることができなかった。それほど看板が変わるのが早い。この店も、もちろん馴染みはない。
「でも、『先生』なんてかっこいーよね?私たちじゃなりたくてもなれない商売だよ?それ。」
それほど話題性があるのか(あるんだろうな、やっぱり)、彼女は感心しているようだった。
(なりたくないのになってしまった『先生』は格好悪いぞ……絶対……)
「そうかな。」
カップを手に持ったまま、自嘲気味に笑った。僕の真意は、彼女には伝わらないだろう。
「そうよ。千尋君て、頭よかったしね。」
それは嘘。彼女たちの知っている時代の僕の成績は、大抵中の下くらいだった。
「でもさ、千尋君てあんまり見かけなかったよね?中学出てから。どこの高校行ってたんだっけ?」
あんまり、じゃない。まったく、だ。
「あー……、山の上の、あそこだよ。」
あそこ。
「常六?」
「そうそう、常六。」
…………
何が記憶力に自信があるだ。数年前卒業したばかりの高校の名前を思い出せないなんて。
やっぱり、嫌な思い出は忘れやすいのかね。

「私たちとは反対の方向だね。普段会わないわけよね、そりゃ。」
僕の危惧する内容にはふれることなく、彼女の疑問は解決したようだった。
「恵ちゃんはどこだったの?っていうか、今どうしてるの?うちの商売手伝ってるの?」
彼女の高校時代よりも、僕は今の彼女に興味があった。
そう、いま同級生は何をしているのか?
背が低く、よくしゃべる方の彼女(主な彼女)が槙村恵。土産物屋の娘だ。小学生の頃から同じクラスになることが多く、彼女に前歯を折られそうになったというほろ苦い(?)思い出がある。けい、と言う名だが、めぐみ、と呼んでも喜ばれる。不思議なことに。
もう一人の娘はいつも恵と一緒にいる親友で、あまり僕は縁がなかったが恵とは仲がよかったので彼女ともそれなりだった。中村遼子という名だ。
「平日はOLして、休みの日にうちの手伝いしてるわ、たまに、だけどね。」
それから、遼子はだいたいその逆よ、と付け足した。遼子は山をいくつも持っている材木屋の娘で、ようは家業が忙しいため就職せずに空いている時間にバイトしているとのことだ。
この町から出ていったものは、半分はいないが3割以上はいるとのことだった。そんな中で彼女たちが地元に根を張っていることを正直誇らしく思うと同時に、自分の不甲斐なさに落胆した。なにが『先生』だ。成り行きでなっただけの商売で人にちやほやされて、よほど彼女たちの人生の方がかっこいいよ。

「でも、私のうちが土産物屋だってよく覚えてたわね?」
恵が気づいて感心したようにそう言ってくる。
「そんなの、普通忘れないって。小2の時前歯2本折られそうになったことも覚えてるぞ?」
これは僕にとって、彼女に対して押さえておかなければならない重要なポイントだった。
「あ!なつかしー。そんなこともあったわね!」
そんなこともあったわね!か。つまりおまえはそのころ僕をいじめてたんだぞ?をい。
「ホントよく覚えてるわね、千尋君。ああっ、なんか千尋君の愛を感じるわ。」
わざとらしく目をつむって指を組んでみせる。はずかしい奴……
「いくらでも感じてくれ。」
手を振って、投げやりな声で応えてやった。ある意味、このやり取りは冗談ではあるが、冗談抜きで彼女は僕に好意があるようだった。昔の仲もあるので容易に彼女にとって安心かつ信頼できる人物となり得るのだろう。そして、ここでも僕は守りに入った。見え隠れする女性の真意は「横に置いといて」、コミカルに対応することが場の雰囲気を壊さずそれまでのつきあいを維持する良策だ。ここにきて変にぎくしゃくしたくない。
別に彼女が嫌いだとかそういうわけではない。どちらかと言えば女の子の同級生の中では特に仲がよかった方だし、いま同級生云々なしにただ喫茶店でお茶してる普通の男女であれば僕にとって彼女は十分かわいい。
「なに?私のこと嫌いなの?」
そう言う彼女もわざとらしい。
「そんなことはない。愛してるぞ?恵。」
なにか、昔に戻ったみたいに心が幼くなる。こんなわざとらしいやり取りにも、涙が出そうになる。
「あんたたち、恥ずかししわ……」
隣で遼子がつぶやく。
そう、恥ずかしいことができなくなった今の僕に、彼女たちといるこの瞬間はとても充実していた。
「そだな。止めよう。」
どこまでも平静を装わなければならない自分に、絶望する。
よほど本気で好きだと言った方が気が楽だ。
僕は、もう僕じゃない。
知らない自分を、心のない自分を、いつからか飼っている。
 
 
 

4.

「ところでさ、この手紙なんだけど……」
そう言って、僕は健二から届いた手紙を取りだし見せた。喫茶店で2時間つぶせるネタの一つとしてそれはうってつけだった。
「なんか心当たりない?」
とりあえず、彼女たちに手紙を読ませてそう尋ねた。ビジネスマナーの欠片もない案内状を校正させようとかそういったわけではなく、僕は純粋にその心当たりを探っていたのだった。
「『君には参加の義務があります。わかりますね?』のこと?」
恵が指さして答える。その通りだった。
「俺にはわからんぞ?見当もつかん……」
つまり彼女たちに頼りたいほどそれは謎だった。あわよくば健二に再会する前に解き明かして安心したかったのだが……
「うーん……卒業前に約束したとか?」
らしい可能性を言う。
「そんな約束したなら忘れるか。」
男との約束を忘れるくらいなら恵の名前すら覚えていまい。
「だよね。何なの?いったい……」
当人の僕が思い出せないものを8年もたった今の恵に心当たりといっても出るはずもない。
「俺はさ、冗談で健二にからかわれてるんじゃないのかと思うんだけど……」
可能性としては最も高い。
「あー……かもね。南君ならやりそうだよ、そういうの。」
恵と、さらに遼子も同意する。
しかし
「でも、そうじゃなかったら?」
という嫌なフォローも忘れない。
「うーん……」
思いつかん。何なんだよ、いったい。
「女でも泣かしたんじゃないの?」
笑いながら、恵。
「あほか。俺はそんなドラマチックな人生歩んでないぞ……」
…………
「……なんで語尾が弱いのよ?」

「…………」
女?泣かせた?
「なに?図星なの?」
…………
「いやまて、違う。」
そう、違うはずだ。
違う、はずだ。
「不潔〜。意外と千尋君もスケコマシね。」
だって
「こら、人の話を聞け。違うと言ってる。」
あれは、解決している。
「じゃあなによ?」
あれは
「…………」
あのとき終わったんだから。
「何でもない。勘違いさ。」

終わったはずだから。
 
 
 

5.

「21世紀に、乾杯!」

健二の音頭で、新年会と同窓会が始まった。
彼の言うように、21世紀が喜べる事実であるかは別として、70人近く集まった同級生たちとの再会はとても価値があった。96人が全員で、70人参加。これだけの参加者を得るために健二がどれだけ奔走したか、想像に難くない。もちろん会が彼だけで計画されたわけではなかっただろうが、実際に行動していたのはおそらく彼だけだろう。親しかった友人たちとの会話も程々に、健二には心底感謝を述べた。こんな機会は二度と来ないだろう。幼なじみとはまた別の、僕にとって最も誇れる友人であった。

見渡すと、随分皆変わったものだ。8年。言葉にすると短いが、目の当たりにすれば感じずにはいられない年月だ。今年で24歳になる同級生たちはあまり中学時代の面影を残すものは少なく、特に男は仕事柄によって随分雰囲気を変えた。漁をするものはいかにも海の男、農家を次いだものはいかにも土くさい。サラリーマンは何となく僕によく似た雰囲気だ。まだ学生をやっているものもいる。おおむね、皆変わった。女はそれほど変わらないものが多い。恵のようにOLをやっているものが多く、そうでなければすでに家庭に入っているか、子供がいるという人までいた。たしかに、いてもいい年齢だ。そして、もうそんな年なのかと実感させられた。
「よう、千尋。随分老けたなー!相変わらずしけたつらしてんなー!」
もう、24だ。
「うるさいぞ、高須。子供連れてこい。いじめてやる。」
8年だ。彼らと会わなくなってから。
「で、そのとき孝史がさー……」
僕と同じように町をでた連中はよくはしゃぐ。
本当はこんな機会を待っていたんだろう。
「やあ、奈保子ちゃん。きれいになったね。」
酒の勢いもあってか、心に根付かない、いい加減な言葉が口から次々とでていく。
決して酔ってなどいないつもりだったが、よく喋った。本当に自分がどう思っているかなど、全く関係なく。
しばらくして、僕は騒ぎの輪からはずれた。

「健二。」
落ち着いた後、ある意味目的だったことを果たすために健二に声をかけた。
「千尋、逃げてきたのか?限度をしらん奴らが多そうだからなー」
彼は笑いながら未だ騒いでいる連中の方を横目で見やった。
「まあ、ね。俺は程々で十分満足さ。」
ああ、そんな奴だったな、そうだよ、などとお互い笑いあう。
少し、沈黙が続く。
遠くなった感じがして、喧噪を一瞥し、そして健二に尋ねた。
「なあ、これって、どういう意味だ?」
僕の手には、1通の手紙があった。
彼のよこした件の手紙だった。
それを見ると、健二は
「ふふん、なんだと思う?」
そういって、わざとらしく意地悪そうな笑みを浮かべた。
「随分考えたんだけどな、見当がつかない。恵にも聞いたがわからんと言ってる。お手上げだよ。」
正直に僕は降参した。これ以上考えてもわからない。
「なるほど、恵ちゃんに相談、ね。」
彼は笑みを絶やさない。
その含みのある言い方に、なぜか僕は子供のような焦りを覚えた。
「何だよ、やらしい言い方だな。おまえ、ちょっと性格悪くなったんじゃないのか?」
それを聞いても彼は気を悪くした様子はなく、どちらかと言えば僕の様子を見て満足しているようだった。
「違うね。変わったのは俺じゃなくておまえのほうさ。」
一口で手に持っていた酒を飲み干した。黙る。
どうやら彼の真意はその言葉の中にあるようだった。確かに笑ってはいるが、目だけは落ち着いていた。じっくりと、僕を見据えるように。
「……で、なんなのさ?」
もう一度問う。僕にはすでにそれしかできない。もう十分考えたのだから。
「残念ながら、答えてやれない。俺が言ったところで解決にはならんしな。」
…………
「なんだよ、それ。なんなんだよ!」
僕は、解決しないいらだちに語尾を荒くした。
「本当は何でもないんじゃないのか?ただの冗談じゃないのかよ?」
きつい言い方。このあたりが僕の本心なのだろう。
余裕がなくなるといつもこうだ。
「…………」
彼は、黙ったままだった。
「健二……」
…………
「……何でもなく……してしまったのはおまえなんだよ……思い出せ。」
…………
「……何?」
彼の、言葉の意味が通じなかった。
全く、理解できなかった。
「思い出せ。」
一言、ゆっくりと、はっきり告げると、彼は僕の前から去っていった。
(…………)

思い出せ?
 
 
 

6.

「久しぶりね、千尋君。」
宴も闌、すでに寝始めるものがでてきた頃。部屋の隅でいすに腰掛けぼうっとしていたところに声がかかった。
「…………」
誰だろうが、今更どうでもよかった。つきあいで反応だけはしておく。
「大丈夫?」
優しい声。酔っていない、気の利いた女性の声だった。
「……いや、健二にいじめられて心身共にぼろぼろさ。」
いつも通りの、冗談交じりの返答をした。内容はどうでもいい、単に軽く笑ってもらえればそれでいい程度の内容だった。
「ふふっ、酔ってるの?千尋君。」
それなりに期待通りの反応。満足だった。
「……いや、疲れたよ。こんな馬鹿騒ぎ、久しぶりだ。」
2度目はまじめな返答。見ると2人組だ。何となく、雰囲気で誰かわかった。
「ご無沙汰、由香里ちゃん、操ちゃん……」
彼女らは、なぜか2人でいるところをよく見かけた。ちょうど今のように。
幼なじみらしいがそれほどの仲には見えない。ま、女の友情は男には理解できないということか。
「なんだか随分雰囲気変わったわね、はじめ誰だかわからなかったよ?」
変わった……?そりゃ8年も経ってるからね。中学の時は部活の規則で坊主だったし、何より今は社会人だ。他人に飯食わせてもらってる子供じゃないんだ。見た目も、考え方も変わってるに決まってる。
「ま、現実にもまれたってことかな?」
薄く笑って言った。
「二人とも、今どうしてる?」
つきあいがてら、彼女らの現状も聞いておく。すでにそれほど興味のある内容でもなかったが。
「私?私はまだ勉強してるわ。でも、もう卒業よ。国語の教師になるつもりなの。戻ってこれたら、だけどね。」
最後は肩をすくめて、由香里。彼女は聡明な女生徒だった。こつこつまじめに勉強できる、容姿ともに優れた誰もが認める「いい女」だった。今でもそれは損なわれていないようだ。僕と同じに町をでて、下宿しているとのことだった。
「教師……か……」
その言葉に、少々何かコメントしておきたかったが、あえて言うまい。彼女は正式に認められた教師になるのだからそもそも僕とは立場か違う。
「そうよ、千尋君とご同業ね。」
由香里は軽くほほえんだ。僕が驚くのを見たいらしい。なぜ知っているのか、と。
「……恵か……あいつ、叫んで回ってるな、さては。」
ご明察、とばかりに彼女は笑顔を作った。
「千尋君が先生なんてね。ちょっと想像できないね。」
操と二人でうんうん言っている。
(一番そう思っているのは他でもない俺なんだけどね……)
「そ、現実はつらく厳しいのさ。」
訳の分からないことを言いつつ、僕の話題を終わらせた。
「操ちゃんは?」
彼女のことも聞いておかなければならない。彼女は由香里のおまけではない。由香里のそばにいるからいつも目立たないだけで、操は特に他人より劣っているわけではなく、どちらかと言えばがんばりやの明るい娘だった。彼女らは一緒にいない方が操はまわりの印象がいいんじゃないのかと、今思えばそう思える。
「?私?ふつーに事務員やってるわよ。いろいろこき使われて運動には事欠かないけどね。」
彼女らしい、皮肉が混じりながらも前向きな答えに僕は安心した。相変わらず活発な娘のようだ。
「そっか……」
しみじみと現実をかみしめ、味わった。かなりのおじんくささだ。
「もう……8年、か……」
離れていた時間を実感する。本当に、みんな変わった。それから、僕も変わったようだ。
「そ、8年。」
操も僕と同じ感慨に耽っているようだった。こんな感じで、静かに女性と話ができるのはちょっと嬉しい。それは僕のわがままなんだろうが。
まだ馬鹿騒ぎをしている連中がいるらしく、外で雪のぶつけ合いをやっているようだった。残念ながら僕はそれに参加するほどにテンションは高くない。
窓の外を一瞥して、水に口を付けた。もう、そろそろ終わりにしていい時間だ。

「私が千尋君にふられてから8年ね。」

「ブ、ハッ!」
な……
「ゴホ!ゴホ!……っ!」
一撃死、とはこういう状態を言う。完全な不意打ちと恐るべき打撃に僕は咽せかえった。
「ちょっと、大丈夫?」
由香里が気を利かせ布巾を渡してくれる。大丈夫なわけないだろ。
「……ケホッ……」
気管支に入った水も落ち着き、ようやく喋れるようになって二人を見ると、存外おもしろそうに笑っているようだった。
「はは……憶えてた?」
力無く笑い、そう言う僕はさぞみっともなかったことだろう。
「死ぬまで忘れないわよ。まったく、今までの人生で一番つらい経験だったわ。」
操は言葉ほどは怒っておらず、しかし怒ったような様子でそう言った。
…………

『女でも泣かしたんじゃないの?』

恵の言った、泣かせた女とはつまり操のことで、恵たちははぐらかしたが、事実そんなことがあった。
この町のような田舎では、子供の数はそう多くなく、町内すべてが同一学区というローカルな環境で僕らは育った。同じ年の子はすべて同級生、クラスメイトにならない子はいないほどだった。必然小学校、中学校と同じメンバーである。高校はなく隣の町に通うことになるが、それまではみんな一緒、という状態なのだ。
操とは小1から中学を卒業するまで同じクラスということで、数えてみれば9年間も同じクラスだった間柄だった。そういう見方でいけば恵よりもずっと同じ時間を過ごしてきたことになる。操は前述の通り由香里と一緒にいることが多く、そのせいあってか彼女の活発な性格ほどにはあまり目立つことはなかった。僕も彼女とはそれほど仲がいいわけではなく、いや、善し悪し以前に「普通」のクラスメイトでしかないつもりだった。普通に話をするだけで、特に込み入った内容の会話をした記憶もなければともに何かをした記憶もない。僕にとって彼女はごく普通のクラスメイトでしかなかった。それが一方的に崩れ始めたのは小5か、小6の頃か。なにやらラブレターまがいのものやら、プレゼントまがい(失礼、今思えばくだらない遊びのように感じるが、10年前の僕らにとっては十分真剣な内容であった)のものを何度かもらう。さらにそのころはゲームのように同級生間で恋愛が流行しており、ゴシップに目がないクラスメイトたちによって僕と操がいつしかそのゲームにエントリーされてしまったのだった。
そうこうしているうちに僕らはすでに中学生であったが、どうやら冗談抜きで操の僕への好意は本物のようだった。相変わらず同じクラスだったが、取り立てて彼女の積極的な何かがあったわけではなく淡々と日々がすぎていった。今思えば、「積極的な何か」は十分にあったはずだ。そのころの、相当なニブチンだった僕には全く気づきもしなかったが、彼女の人生を消費するほどのアプローチが幾度となくあったはずだ。操は活発で、明るく振る舞うことをいつも心がけていたが、その実は心は痛がりだった。傷つくことをおそれる弱い少女だった。だから僕ですらわかるほどの明確なアプローチは痛がりな彼女にとってはできかねる行為だったのだ。自分が傷つかず、それでいて好意を示そうと彼女は随分努力していたようだった。僕はそれにも気づかずにのうのうと中学卒業まで平凡な日々を送ったのだった。
今なら、そんな中途半端な状態をいつまでも続けたりしない。
何年も何年も、女性の心を宙ぶらりんの状態になどしておかない。人の心を握っていることがどれほどの責任を負わねばならないことか、よくわかる。Yes/Noの重要性はどちらかではなくそのスピードだ。僕の決断の時まで相手の心は何もできないでいる。事実、いつまでも待ち続けてしまう人もいる。僕は操の恋心を、何年も何年も奪い続けてしまっていたのだ。

『ボクハ、コノツミヲドウツグナエバイイ?』

決断の時。
中学の卒業。操とは別の高校だった。別に何とも思いはしなかったが、なれた田舎の外で習慣の違う連中と机を並べるのが一番の不安だった。それ以外、何もなかった。そして彼女は、とても勇気のある少女だった。自分の強さと、そして弱さを受け入れることができる娘だった。卒業式の前日、僕は操から告白されたのだった。つきあって欲しい。つまり、交際を申し込まれたのだった。明確に、彼女の口から彼女の声で。これが彼女にとってどれほど心を削る行為であったかは、そのときの僕にも実感できた。身体も、声も、震えていた。僕が答えたときの彼女の顔を、今でも忘れない。両手で顔を伏せて泣く声が、頭から離れない。

「思い出したみたいよ?」
由香里が、そう言う。
「…………」
しばらく僕は黙ったままで、ここではない「いつか」を見ていた。
「あ、ごめーん。そんなに暗くならないの。もう気にしないでよ?」

『オモイダシタ……?』

思いだした?そんな、そんなものじゃない。言葉ほど、僕はそれを軽くとらえていない。あのときから、一日として忘れた日などない。怖ろしいまでの自分の愚かさに、操の大事な時間を奪い続けたことに……僕は自分自身に絶望した。あの日から、僕は生きている気などしなかった。どこにいても何をしていても、暗い影がついて回り僕自身を苦しめる。自分と、愚かさと向き合う日々が続き僕の周りに人はいなくなった。ここにいる高校時代の同級生は、決して僕に話しかけない。それほどまでに僕は壊れていった。頭のイカレタ人間が通う病院にも出入りした。聞いたこともない薬を常用したこともあった。僕の高校時代など、ないに等しい。
なぜ、応えてやらなかった?Yesと言えなかった?
僕は自分自身にその言葉を打ち付けた。別に、操のことは嫌いではなかったはずだ。しかし別段好きでもなかった。だから、だからNoと言った?なんて愚かな……奪い続けた彼女の心に償いができるのは、Yesと言ってあげることだけだったのに。嫌いでなかったのならどうして!
僕は……死んだ。
僕という人間はもういない。誰かを好きになったり、嫌いになったり、ましてや他人の心を動かすような存在であってはいけない……そう、僕は誰の心にも応えない。誰の心も奪わない。この身体が朽ちるまで、僕は……僕の心は牢獄の中だ。

「……千尋君?」
何も言わない僕に、彼女らは不安になったのか、心配そうに声をかける。
もう、騒ぎ声など何も耳に入らない。
落ち着いていた僕の心に、また暗い影が差し始めた。

『思い出せ。』

思いだした。
思いだしたさ!僕はこんなところにいてはいけない。誰にも心など開いてはいけない。『僕』を知っている人の前になど出てきてはいけなかったんだ。
椅子から立ち上がり、ゆっくりと荷物をまとめる。

「……ごめん……」

あのときと同じように、たったそれだけを言って、僕は去った。
 
 
 

7.

「君は、自分の記憶を信じられるかね?」

老人の声で、その夢は終わった。
いつも以上に陰鬱な朝、冷えた老人の声が頭にこだまする。
(…………)
窓の外を見ると雪は止んでいるようで、晴れきらない空に雲が流れていた。

『信じられるかね?』

「だまれ……」
寝覚めが悪いのはいつものこと、慢性的な頭痛に最近は悩まされている。脳の病気で早死にできることを祈りながらも、痛みだけは和らげたくて頭痛薬を飲む。気休め程度にしかならないが。
下宿先の狭い部屋とは違い、この家は広く、そして寒い。空間が広いと空気が冷えやすいのだろう。3年ぶりの実家は僕に優しくなかった。もちろん家族の待遇は悪くなかったが、やはり何か違和感がある。もう、自分の家でなくなってしまったかのような、そんな気がした。

昨日の雪が残っているらしく、辺りはかなり白い。すぐ雪がとけてしまうのがこの辺りの特徴だったが、あれほど降ったのならばとけるのに今日1日はかかるだろう。田畑しか見えない実家の周囲を見渡しながら、懐かしんだ。
(この景色……)
懐かしい、本当にこの辺りは何も変わらない。僕が生まれる前から延々ひろがる田と畑の風景だけは変わらない。自然という大きな世界に、僕自身の些細な心のひずみはむなしく感じた。くだらない、ことなのだ……

「千尋、電話、鳴ってるわよ?」

階段の下あたりからか、母の声がした。電話?
見渡すと携帯電話が見あたらない。ちなみに鳴っている音も聞こえない。どうやらマナーモードのまま食卓辺りに置き去りのようだ。滅多に鳴らないため僕にはあまり重要でない道具なのだ。
(なんだよ、正月から……まさか仕事じゃないだろうな?……)
嫌な予感がよぎり、階段を下りながら心当たりを探った。1月も5日ともなれば学校関係であっても仕事を始める部署がある。そもそも滅多に鳴らないはずの僕の携帯が鳴るのは仕事の話くらいだ。まったく、勘弁して欲しい……
結構長い間ブーブー言っていたらしい携帯はまだ言い続けている。
(しつこいぞ……まさか出てこいとか言わんだろうな……)
番号を見ると、登録していない人のものだった。090……携帯か。職場付近の番号であればそのまま無視してやるつもりだったが、仕方ない。
(これで間違い電話だったらぶっ殺してやる……)
「はい?」
「おはよー!ごめん、寝てたー?」
「…………」
朝っぱらからこのテンション……だから女は嫌いなんだよ……
「……なに?」
天秤のように相手のテンションに対してガクンと落ちた僕はかなり無愛想だった。自分でもよくわかる。
「ね、今日まだ帰らない?」
…………
「…………」
何が言いたいのかは、わかっている。女の子に無頓着だった8年前とは違うんだ。
「ちょっと、聞いてる?」
聞いてる。一言たりとも逃さずに。その語調も、その意味も。
「ああ……聞いてるよ。」
一歩遅れた返事。こういったやり取りで後手に回るのはいつもの僕のやり方だ。
「今日暇だったらさ、ちょっと散歩しない?」
ちょっと、散歩……ね。
外を見る。
「…………」
嫌だ。
「……勘弁してくれ。」
「なによ、せっかく誘ってるのに、ヤなの?」
彼女らしい言い方だ。そして、彼女らしい優しさだ。
本来なら彼女はもっと傷ついた反応をしてもいいはずだ。
だから、僕は自分の非に気づかずにすむ。
「寒い。出たくない。」
どんな阿呆なわがままか、僕はそんな理由で拒否した。
「なんて根性なしなの……」
その通り。
「その通り。じゃな。」
せっかくの女の子の誘いをこんなふうに断れるなんて、さすが僕だな……などど、馬鹿な感動しつつ切断しようとしたが、怒声とともにキャンセルされた。
「ちょっと待ちなさい!そんな言い分、通らないわよ!?まだ帰らないんだったら11時に神社の鳥居のところ!寒けりゃタクシー使ってでも来なさい!いいわね!?」
…………
一方的に切られてしまった……何という力業だ。半ば呆然としならがツーツー言っている携帯電話を見つめていた。
外を眺めると、やはりどう見ても寒そうだ。それに……

(恵……もう、誰にも会いたくないんだよ……俺……)
 
 
 

8.

「…………」
恵の、第一声はそれだった。無言。
「どうだ?参ったか?」
彼女の言葉通りわざわざタクシーできてやると、彼女は唖然としているようだった。
「……なんていう……いやみな人なの?恐れ入ったわ……」
心底恐れ入ったような恵を前に、僕は深く満足した。
まあ、話題の一つになればよかったのだが、わざわざ高い運賃払ってタクシーで来たのは別のわけがある。歩いて来るには遠いし、実家にはもう僕の乗れるような自転車がない。バスに乗るなら歩いた方が早い(それほどの田舎だ)。必然、タクシーとなったわけだ。
「まかせとけ。そのへんは得意中の得意だ。」
相変わらず僕はこのペースを崩さない。空回りする歯車みたいに空虚だけれども、それは僕の『義務』だ。
「?遼子ちゃんは?」
ニブチン炸裂。今日はちょっと度を過ぎよう。これくらいが、今はちょうどいい……
「……呼んであげようか?」
いい加減愛想がつきはじめたか、恵も本気で怒り始めたようだ。そこまでは、いただけない。
「冗談だよ、ごめん……行こうか?」
これで、いい……
これでいいんだ。
「…………」
落ち着いたか、彼女は歩き出した。
そして僕も歩き出す。どこへ、かは、僕も知っていた。
町ではない、静かな方へと。

…………
まだとけきらない雪を踏みしめ、寒い風が吹き付ける海岸沿いを僕らは歩いていた。海沿いのこの町は、主要な施設がすべて海のそばにある。待ち合わせをした神社も例外ではなかった。なぜ神社かという理由は、おそらく正月だからだとか彼女の家から近いからだとか、その程度のことなのだろう。僕は宗教施設が嫌いだったし、彼女も参拝を予定していたわけではなかったらしく、鳥居の中に足を踏み入れることなく、僕らはお互い尋ねもせずに堤防沿いを歩き出した。
「寒いね……」
しばらくして、恵の言葉。普段ならこんな寒い中呼び出しておいて『寒いね』などと言われたら殺意を覚えるが、憂いをおびた恵の顔を見るといつもの皮肉が出てこなかった。
「……そうだな。」
そして、その奥の、海に視線をやる。冬の荒々しい波の音とともに、飛沫が飛び散る。海にいい思い出はない。そもそも僕が泳げない時点で海は嫌いなのだが、あの飲み込まれるような波の揺らぎと絶望的なその広さに僕は足がすくむ。恵が海側を歩いているのはつまりそういった理由だった。僕は海面を間近で直視できない。
「海、懐かしいでしょ?」
唐突に、恵の言葉。僕の思考を占める内容だっただけに、少し驚いた。
「…………」
言われて、立ち止まる。後ろには高いネットに囲まれたグラウンドがあった。野球部がよくここで練習をしていた。僕らはその周りを走り込んでいたものだ。今いる堤防も、その道の一つだ。
「どうして、そう思うの?」
海なんて、どこにでもある。僕が『懐かしい』と思っているなんて、どうしてわかった?
「千尋君、泳げないでしょ?だから一度も海なんて、行ってないんじゃない?」
「…………」
図星だった。海沿いの町で育っておきながら、僕は泳げない。水が、嫌いだった。海になんて、遊びには行かなかったんだ。
「ちがった?」
力無く、恵が笑う。昨日会ったときよりも元気がない。
「いや……図星だよ。参った……」
お手上げして、僕は自嘲した。意外に僕は見透かされてる……
防波堤にもたれて、海を見た。荒っぽい波は、静かなときの海よりも怖ろしくない。あの、飲み込まれるような景色じゃない。
(…………)
きつい磯の香りを感じながら、何か、何か思い出そうとしていた。僕は、何かを忘れている……?
「…………」
「どうしたの?」
不審そうに、恵が尋ねる。じっと海を凝視している僕に不安になったのだろう。
「……なんか、違う。」
…………
言葉が先行していた。何の意味があるのか、思いつかない。
「?……なにが?」
恵もよくわからないように聞いてくる。
「……なんていうか、想像していた海とちょっと違うって言うか……俺の記憶にある海と違う気がする……」
思っていることをその通りに言うとこんなふうに意味が分かりづらい。だが、もう、そんなこともどうでもよくなっていた。何か、頭にもやがかかったみたいに、思い出せない。
「…………」
恵は、黙っていた。おそらく僕が何を言いたいのかわからないんだろう。僕ですら、よくわかっていなかったのだから。

『この海は……こんな景色じゃない……?』

…………
ただ、ぼうっとしながら、海を見ていた。真冬の、凍るような風の吹き付ける中で。
何かが、違う。
僕の記憶と、何かズレがある。
「ねえ……」
恵が僕の腕を取って、歩き出した。
(…………)
どうして
「学校、行ってみない?」
何を泣いているの?
「…………」
促されるように見ると、僕らの学んだ中学が見えた。寒々しい鉄筋コンクリート製の外観は変わっていない。植えられていた木が、少し枯れたようだ。
「……どうした?」
どうしたの?
「……え?」
何を、泣いているの?
「大丈夫か?」
恵の表情は、ひどく弱々しかった。実際には泣いていなかったが、僕にはどうしてもそれが泣いているように見えた。何を……悩んでいる?
「うん……大丈夫……大丈夫よ。行きましょう。」
そう言って、また僕の腕を引っ張る。
別に中学校に行くのはいい。何を悩んでいるんだ?恵……

堤防を少し歩くと、すぐに中学にたどり着いた。間近に見る校舎は僕が思っていたよりも大きかった。堤防の、すぐ脇だった。とても海に近い学校で、近いどころか堤防の道を挟んですぐ海なのだから、日本で一番海に近い学校なのではないかと思ったほどだ。僕は、この学校が好きだった。海は嫌いだったけれども、窓を開けると薫る磯のにおい、授業中でも聞こえてくる波の音……とても落ち着いた。
正門へ回り、「正しく」入っていく。裏口などいくらでも知っていたが、今や僕らはこの学校の生徒ではないのだから。学校は半分が建て直されたということで、僕の知らない新しい校舎ができあがっていた。堤防から見えた建物は、そのままだった。当然だが中学生は冬休み中で、まだ部活も始まっていないようだった。敷地全体ががらんとしており中には入れないように思えたが、どうやらすでに用務員のおじいさんとほんの2、3名の教師が出勤しており、新学期の始まりが近いことが伺えた。
僕は、中にまではいるつもりはなかったが、どうやら恵が用務員のおじいさんと顔見知りのようで、快く校舎へ招いてくれた。
僕の気持ちとは裏腹に。
そう。恵の、望むとおり、あの、海の見える校舎へと。
 
 
 

9.

『もう、卒業だから……最後だから……』

ヤメロ!

『ずっと、言えなかったけど……』

ヤメテクレ!

『つきあって欲しいの……』

ヤメテ!ボクハ!

『返事を……聞かせて……』

ボクハ!ボクハ!
 
 
 
 
 
…………

「…………」
「静かね……生徒のいない学校って、とても寂しいわ……」
冷えた廊下を歩きながら、僕の方は向かずに、恵。
「…………」
玄関をくぐり、ひっそりとした長い廊下を静かに歩き続ける。
「……恵……どこまで行くんだ?」
僕は、立っていられないほどの不安に駆られた。最も、僕の行きたくない場所へ恵が導いているように思えたから。
「…………」
静かに振り向き……やはり、その表情は泣き出しそうだった。
「海の、見えるところまで……」
階段を、上がる。
僕は……
「…………」
動けない。
「千尋君……行こうよ……」
嫌だ……
「嫌だ……行きたくない……」
『そこ』は……嫌だ……
「千尋君……」
…………
どうして、恵……
「どうしてだよ?恵……『そこ』は、僕は……嫌なんだ……」
どうして、僕を連れて行くんだ……もう、二度と思い出したくない絶望の場所へ……操を捨てた、あの場所へ、僕が死んだあの場所へ……海の見える、あの廊下へと……
「……千尋君……」
……嫌だ。
「千尋君……思い出して。」
嫌だ!
「思い出して!」
イヤダ!

「嫌だ!もう、十分だ!もう十分、僕は苦しんでるさ!」
…………
それが、本音だ……もう、嫌だ……
これ以上、僕を苦しめないで……
だれが……恵が僕を責めたって、どうしようもない……
どうにもできないんだ……これ以上、僕にはできないんだ……
どんなに罪をかぶせられたって、これ以上償えないよ……
ボクハ、ボクジシンニテンバツヲアタエタンダカラ……

…………
「……これ以上……僕は償えないよ……許してもらうつもりなんてないから……もう、僕を苦しめないで……苦しめ、ないで……」

階段を、恵に引きずられるように上って3階までたどり着いた。
頭が、痛い。
痛いよ。

「違う、違うよ!千尋君!思い出して!」

『思い出す?』

あの時のこと?
忘れるはずがない、それが……僕を苛み続けているんだから……
忘れるはずが、ない……

「……はは……思い出せないよ……絶対に、忘れることなんてないんだから……」

頭のどこかが、いかれてしまったような感覚。
もう、自我が少ししか残っていないみたいだった……
もう……

「違う!思い出して!」

何を、そんなに必死になっているのさ?恵……何を泣いているの?
何をさせたいの?……僕は……

ボクハ、ジュウブンクルシンデル……

「ついたわよ……」

今までよりも、明るい……視界が開けた……塀にも、木々にも遮られていない……ここが……海の見える廊下……僕の記憶の、海の見える、廊下……

バシッ!

視界が、はじける。記憶が……フラッシュバックする……
頭が……痛い……
イタイ……

…………
「千尋君……」
 
 
 

10.

「千尋君。」

そこには、女の子が一人いた。
音のない、静かな冷たい世界。
海が見える。

「千尋君……」

だれ?

恵?操?

僕は、どうしてここにいるの?

「千尋君……」

だれ?

「千尋君、思い出して。」

…………
 
 
 
 
 
…………

「恵……」

あの時と同じ、とても寒い、冬の景色。
荒っぽい冬の波と、泣き出しそうな女の子。
何度も脳裏に明滅する、この光景。
8年。
それが、僕の8年間だった。

「恵……」

静かに立ちつくす恵は、まるであの時の操にそっくりだった。

「千尋君……」

決断の時。

「告白、していい?」

僕の、決断の時。

(止めて……)

「千尋君……」

ヤメテクレ!

「私……」

「…………」

僕は!

バシィ!

頭が……

「私、千尋君のことが好きよ……」

バヂイッ!

頭が、割れる……

僕は……

「…………」

っ!僕は!

「お願い!何か言って!」

…………っ!

「……!……!」

僕は!

「千尋君!何か喋って!声を、声を出して!!」

「……っ!……」

僕は!

「お願い!千尋君!」

僕は……

…………

『……ごめん……』

…………

違う……
違う!

僕は!

「…………っう!」

違う!

「……う!違う!」

僕は……

「千尋君……」

「違う!僕は……僕は何も言ってない、何も……言ってない!」

バヂイッ!

記憶が、はじける。

…………
 
 
 
 
 
少女は、身体も、声も、震えていた。
精一杯の、勇気だった。
僕が答えたときの彼女の顔を、今でも忘れない。
両手で顔を伏せて泣く声が、頭から離れない。
離れない。

――嘘。

僕は……何も答えていない……
何も、言っていない……
何も言えなかった、声が、出なかったんだ……
怖ろしい自分自身の、愚鈍さに、絶望して。
何か、言いたかった。けど、何も言えなかった。
ただその場を去っただけ……
僕は、どんな顔をしていたんだろう。
何を、言おうとしたんだろう。
僕は、黙って操から逃げ出した。
愚かすぎる、自分から逃げ出したんだ……
 
 
 
 
 
…………

「どうして……」

しばらく、意識を失っていたらしい。
気がつくと、僕は冷たい廊下で恵に支えながら横たわっていた。

「どうして、僕は……何も言わなかった?」

「千尋君……」

恵は、泣いていた。
悲しそうに、泣いていた。

「どうして、忘れていたんだろう?……そんなこと……」

起きあがる。
頭が、イタイ。

「そんな大事なこと忘れるなんて……僕は……」

イタイ。

「なんて、愚かなんだ……」
「違う!違うよ!」

恵が、僕に泣きつく。
何が、悲しいの?
オロカナノハボクナノニ……

「違う!千尋君は十分苦しんだよ!もう十分よ!」

…………
ちがう、マダタリナイ。
僕は、もっと……
モット、クルシマナイトイケナイ……

「せっかく真実を思い出したんだから、もうこれ以上苦しまないで!」

なぜ?

「どれだけ千尋君、今まで苦しんで生きてきたの、もうたくさんだよ!もう十分だよ!心を閉ざしてしまわなければいけないほど苦しんだんだから、もういいよ!そんなに後悔したんだからもういいよ!これ以上、これ以上もう自分を傷つけないで……」

…………

「…………」

冷たい、静かな波の音。
遠く響く。

海が、見える。
 
 
 

11.

「精神病院に入院していたの……憶えてる?」

しばらくして僕らは落ち着き、静かに恵が話し始めた。

「…………うん。思いだした……」

僕は、中学を出てしばらくして、精神病院に入院した。
気がつくと、声を出せなくなっていたらしい。
ずっと閉じこもって黙ったままだったから、誰も、僕自身も気づかなかった。
通っていたんじゃない、入院していたんだ……

「失語症……だったの。」

…………

「うん……」

声を失ったのは、絶望的な精神の衰弱と、心の弱さに起因した。
快復できない心の病。
僕は、自分自身を蔑み続けた。
喋れず、食べれず、眠れず……すべてが痩せていった。
死に至る、病だった。

「安定したのは……いつだろう……3ヶ月くらい経ってからか……」

そう、記憶をねじ曲げてまで、僕は精神の安定を手に入れた。
それはほんのわずかな歪みだったけれども、僕は『何も言えなかった自分』を消し去った。
そして、その代わりに辛辣に彼女を裏切り、交際を断った自分を作り出した。

ドコマデモ、クルシミツヅケルコトガデキルジブンヲツクッタンダ……

「生きていくために、そうしたのかな……」

生きていくつもりが、あったんだ……
どんなに自分をおとしめても、そうやって生きていくつもりが……
だから隠した。

「汚い、人間……」

「違うよ……それでもまだ足りなくて、ずっと、ずっと心を苦しめてきたんでしょう?誰にも心を開かずに、誰にも心を開けさせずに……自分の気持ちを、閉じこめてきたんでしょう?もう……十分だよ。」

「十分……」

「何も言ってもらえなかった操は確かに苦しんだだろうけど、でも彼女はもう自分で答えを出してるよ。その何十倍も、千尋君は苦しんだ。もう、許してあげてよ……自分を。」

「…………」

「…………」

「操が納得したのはいい。それでいいんだ。でも、それは僕が僕を許せないのとは関係ないよ……何も言えなかった僕は、僕自身で裁かなければいけないから……」

「じゃあ……じゃあどうして『ごめん』だったの!?今までどうしてそう思っていたの!?自分で答えを出したからじゃないの!?遅くなったけど、自分でそう決めたからじゃないの!?言えるように、なるつもりだったんでしょう!?」

「そう、かもね……でも……」

「お願い!もう許してあげて!自分を傷つけないで!心をバラバラにしておかないで!私……見ていられない……」

また、恵が泣き出す。
僕の胸にしがみついて、まるで子供みたいに。
子供なのは僕のはずなのに、僕は彼女に頼られる。
いつまでも、自分をかまっていられないんだ。

また、答えを出さなければいけない日が近づいてきている。
言わなければいけないときが、やってくるんだ。
もう、逃げられないんだ……
…………
 
 
 
 
 
…………
「どうして僕のこと、わかったの……?」

不思議なことだった。
それは極限られた人物、僕の両親と、それからごく一部の高校の人間しか知らなかったことだ。僕自身ですら、知らないことだったんだから。

「南君にね、聞いたの……」

「健二?」

「そう、千尋君のことそのころからわかってたんだって。ずっと見てた、ずっと心配してたんだって。」

「…………」

「少しだけ記憶に障害が出たけど安定してるから、このままの方がいいって担当の先生も千尋君のご両親もそう決めたんだって。」

「…………」

「南君は、歪みが残ったままにすると後でよくないと思ってたみたいだけど、ご両親の決めたことだからって何も言わなかったそうよ。」

「……そうか」

「だから手紙で、少しカマを掛けたんじゃない?治せるものならって、思ったそうよ……」

「そう……」

「手がかりが欲しかったのよ……バラバラになってしまった心を取り戻す……」

「…………」

「昨日、帰り際の千尋君を見てすごく苦しそうにしてたから……手紙のこともあったし、南君に聞いてみたの……だから……」

「…………」

「…………」

「ありがとう。」

「うん……」

ありがとう。
その日、僕はその言葉を言い続けた。
そして、泣き続けた。
 
 
 

infinity

「君は、自分の記憶を信じられるかね?」

老人の声には、聞き覚えがあった。
誰であるかは忘れたが、確かに聞き覚えがあった。
それが誰であったかは思い出せない。覚えていない。
だがそれは重要ではなかった。
今僕が必要としているのは、確かに自分であることだけだったから。
 
 
 
 
 
…………
1月6日、朝。
僕は下宿に帰ることにした――いや、戻ることにした。

「千尋、駅まで送ってやるぞ?支度できたら言えよ?」

僕の記憶よりもずっと優しい父に、感謝する。
冷えていた心が、少しずつとけていくようだった。

「いや、いいよ。まだやることが……」
せっかくの父の親切を僕は断った。
「なんだ?友達と約束でもあるのか?」
約束。
「いや、ない。」
ない。
これからだ。
これから作るんだ。

決断の時。
今度こそ、答えなければならない。
二度と、二度と繰り返すわけにはいかない。
電話を、かける。
「……はい……もしもし……?」
まだ寝ぼけているようだ。
そろそろ起きる癖を付けておけよ。
「俺、千尋。」
鼓動が、早くなる。
「あ、うん……どうしたの?」
決まってる。
「会いたい!今すぐ!」
恵、会いたい。
「……うん。」
今度こそ。
「まってろ!すぐ行く!」
今度こそ言う。絶対だ。
そのまま家を飛び出す。
自転車も、タクシーもいらない。
昨日ためらった距離を、僕は駆けだした。

懐かしい光景が流れていく。
よく遊んだ林に森、いたずらして怒られた畑。学校帰りに毎日歩いた道。
取り戻した。
やっと、この景色を取り戻したんだ。
今度こそ、絶対に手放さない。
何一つ、手放したりしない。
 
 
 

fin.

 
 
 
 
 
あ と が き

 歪んでしまった過去がないか、僕自身不安になることがあります。
 このお話のように、記憶が隠されたり、歪んでしまったりすることはそうありません。意外に記憶とははっきりしたものです。それがおこるのは物理的な脳への障害か、年齢によるものか、そういった場合がほとんどでしょう。しかし、『心』はどうでしょう。思いは、気持ちは残りますか?ずっと昔、小学生や中学生の頃にどう思っていたかなど僕には思い出せません。たとえば『好き』だったとか『嫌い』だったとか、一時的な感情を記憶で残しているような気がします。覚えているつもりでも、よく考えるとそれはまやかしのような気がします。
 僕にも好きだった娘がいます。いたんです。でも、本当に好きだったのか、今は自信がありません。はやりごとのように女の子を好きになったのかも知れません。そもそも、そのころの『好き』がどんなものだったのか、おぼえてさえいないのです。まるで、自信がありません。
 もう24の年になります。何をしていたのかわからない年を数えて、24です。振り返り、過去の頼りなさ、空虚さに驚き、おそれています。泣いて誰かにすがりたくなります。僕も心がバラバラになってしまったような気がします。まとまらない、バラバラな気持ち。どこにも、何にも根付かないのです。広い海を、僕の嫌いな海を一人で流されているような気持ちです。
 僕の先生は言いました。人生は永遠にたった一人で続ける航海のようなものだと。その言葉が、やっとわかってきた気がします。
 もう、24です。まだ、24かも知れません。
 何か、確かなものが見つかるといいのですが。

2000年12月30日 著者
(修正日 2001年1月6日)


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