宇宙歴七九八年 七月
片山 京
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銀河系島宇宙には、現在三つの政治体制が併存している。
一つは、ゴールデンバウム朝銀河帝国。専制君主制を布き、ただ一人のために億民が奉仕することを当然と見なす体制とされる。近年に於いては、若き宰相のより民主的な政策によって急激な体制変化の渦中にある。
もう一つは自由惑星同盟。民主主義を称(とな)え、為政者が億民のために尽くす体制と書に記されている。建国当初は理想を体現していたようだが、現状に於いては些か疑問符をつけざるを得ない。ともかくそういった理想を掲げているのは間違いない。
そしてもう一つ。形式上はともかくもう一つの政治体制を布く国家が存在する。
銀河帝国フェザーン自治領。
帝国と同盟を繋ぐ二つの回廊の一つ。フェザーン回廊を有し、その経済力たるや両国の政治体制に大きな影響力を行使しうる。いや、もはやフェザーンの経済支援無くして継戦不可能な迄に、両大国の経済は蚕食されている。
表向きは、銀河帝国の自治領に過ぎない。だが実際は、軍事力こそ持たないものの経済力によって二大国に対し影響力を陰に日なたに行使し続けている。
コダマ・ホラギ船長に対する『要請』のようなものから、ダミー会社を使った国営水素エネルギー公社の経営権取得まで……取り上げればきりがない。さらには……
「これは警告ですよ。彼女に直接というのはいけません。それに、幹部の人事に口を出すのも警戒感を抱かせてしまうでしょう……」
現在の政権担当政党本部事務所に押し掛けてきたのは、『銀河帝国フェザーン自治領政府駐ハイネセン高等弁務官事務所高等弁務官第一秘書官』。やたら長い肩書きだが、正式名称とはえてしてそういう物だ。
あまり知られていない話ではあるが、フェザーン自治領政府は現政権担当政党への献金額がトップ一〇に入る上客である。表沙汰にならないのは、これまた複数の……いや、きわめて多数のダミー組織から少額ずつの献金を行うことで、情報公開法例の網の目をくぐり抜けるという手法によるものだ。どこの組織も似たような手段を取っており、同法令によって公開される大口の政治献金は、大概が成功した個人となるのはこのためだ。
実際の所、「警戒感を云々」と云われてももう遅い。先のアスカ・L・ソウリュウ大将の無意味な召還及び不当な拘禁にて相当警戒感を抱かせてしまっている。
年若い秘書殿の意見を無下にはできないが……
「表向きは立派な栄転です。昇格の上前途有望たる士官に見聞を広げて貰う。その間に士官教育も施すとあれば誰もが納得するでしょう」
何ともまぁ、シナリオ持参とは念の入ったことだ。つまりは「このまま献金が欲しければ実行しろ」ということらしい。応対の幹事長に選択肢を与えるつもりは毛頭ないようだ。
「しかしだね……」
せめて一言云ってやらねば気が済まない。なにせ、自分の息子よりも若い青年にこうもコケにされては面白くもない。一応は、自由惑星同盟の政界でも一目置かれる存在なのだから。
もっともらしく唸り、腕を組み背もたれに体を預け若造を見やってみる。
青年秘書官は、その様に頓着することなく二枚のカードをデスクに示してみせる。
「現在、我々が把握している関係資料です」
何事もないかのように言っているが、中身は根回し用の軍資金と報酬。フェザーンが所有している同盟企業の債券にて収められている……いつものように。
「では、吉報をお待ちしています」
立ち去るその姿が、この場の権力者が誰かを雄弁に語っている。
分厚いドアが一度開き、閉じる。それから二呼吸分待つ。
一人だけ残された完全防音の応接室に、しばらく罵声が続いたという。
八月ともなれば、軍事施設を除き要塞自体がかなり加熱される。カジあたりが頭を抱えそうなほど不経済な話だが、年単位の時間感覚の喪失を防ぎハイネセンとの同調意識を形成する上でかなり有効な手段ではある。
そうなると、各家庭やショッピングモールなどは冷房をかけるわけで、その結果……
「っくしゅ」
という人間がそこそこ生産されたりするわけだ。
「アスカさん、何か食べたいものあります?」
エプロン姿のレイが、アスカの顔を覗き込む。熱のため上気し目が潤んでいるのが同性の目から見てもなかなか色っぽい。
「食べたくない……」
ガサガサの唇からは、普段から想像も付かないほど弱々しい声が漏れる。
冷房全開で、毛布も何も蹴飛ばした上、腹を出して寝ればこうなるのは自明。まぁ、大規模戦闘の後で気がゆるんだこともあるだろう。
「残念……シンジさんが朝作ったオートミールがあるんですけど……」
「レイのいじわるぅ……食べるわよぉ」
わかりやすい反応だ。
ほほえみながら、アスカの首筋に貼っておいた体温表示シートを確認……まだ三八度を超えている。抗生物質が効く類のものではないため、こればかりは寝て治すしかない。
ハイネセンから帰ってからというもの、アスカはレイに対しては自分の気持ちを隠さなくなった。シンジに対しては、まだ、なにがしか抵抗があるらしく、さほど変化はないが……いざとなったら、リツコ先生の出番があることだろう……
で、当面の問題はこの風邪である。有給休暇を取ったレイが、すっかり子供に返ってしまったアスカをなだめたりすかしたりしながら家事に精を出す……所詮は女二人暮らし。精を出すほどの量もないか……と云えばそうでもない。その原因は……まぁ、うん、そう云うことだ。
「シンジさん……お昼、ご一緒しませんか?」
懲りないと云うか、めげないと云うか……確かに感心させられる根性とバイタリティーではある。マナ・キリシマ少佐……友人の恋愛が順調なのがどうにも焦りを誘うようだ。
「あれ? キリシマさん。どうしたの? こんな遠くまで」
「えへへ、ちょっと用事があったもので」
いたずらっぽく笑いながら告げるマナ。なかなか愛嬌がある。しかし、その用事とやらは“あった”のではなく“作った”のだが。
それを疑問に思うほどシンジは空戦隊の実務体系に詳しいわけではない。
だいたいにして、空戦隊のエリアからこの中央司令区画の間は一五キロメートルほど離れている。“偶然”とか云う手が使える距離ではない。なりふり構わないにもほどがある。
「まだお仕事残ってました?」
心配そうに問いかけているように見るが、瞳には『いやとは云わせない』との光に満ちている。警戒しなくても、別にシンジの方には断る理由などないのだが。
そうまで念を押されてしまうとシンジとて少しは考え込んでしまう。
とはいえ、今はさほど仕事があるわけではない。要塞の修復に関してはカジが頭を抱えているし、艦隊に関しては各指揮官が当たっている。スズハラ艦隊と旧トキタ艦隊の残存兵力に関しては、ムサシ・リー・ストラスバーグ大佐を准将に昇格の上暫定的な指揮官に任命し、その整備運用に当たらせている。旗艦艦長として戦場を読みながらの操艦を評価された形だ。いきなり大変な任務だが、これをこなせば艦隊指揮官として得難い経験を有することとなるだろう。
そう云うわけで、決裁書類ぐらいはまわってくるが自分の直属分艦隊の面倒を見るぐらいしか仕事をさせてもらえない。まだ年若いながら、後継者の育成に意を用いなければならない。
早い話が、閑をもてあましているわけだ。
で、本日はいつも食事に誘いに来るアスカやレイがいない――レイの休みの理由を知ってわざわざ用事を作ったのだが――先の数ヶ月の空白という大チャンスを逃したマナにとって、これ以上望みえないものに違いない。
とにかく、しばしの時間シンジを借り切ることに成功したキリシマ少佐であった。
さて……
「何が悲しゅうて、非番の日に女二人で昼飯を食うてるんやろ……」
皿に最後に残っていたパスタをのろのろとフォークに巻き付けながらぼやいてみる。
「何でそーゆー、夢も希望もない云い方するんです? 先輩」
「やっぱ、こう、身内に不幸が起こると気が滅入るというか、何というか……」
フォークに巻き付けたパスタに、ホワイトソースをこれまたのろのろと絡めはじめる。
「不幸って……チィねぇちゃんが聞いたら、また泣いちゃいますから。勘弁してくださいよ、もう」
アイスコーヒーのストローから口を放し、イマイチ疲れたようにぼやく。
「まぁ、お義姉さんのおかげで兄貴の世話せんと、こんなとこで暇しとれるんやせかいにな。ありがたいことや」
エヴァンゲリオン級参番艦が大破したあの日、巡洋艦ラーンスロットZの艦橋も一つの戦場であった。
あの時のヒカリの悲鳴が今も耳に残っているような気がする。
軍医が無針注射器で鎮静剤を投与するまでの五分間。泣き、叫び、「彼の元へ行かせて」と懇願するヒカリを仮設司令部のアスカ、イブキとの四人で取り押さえた記憶は、かなり強烈に焼きついている。
反面、羨ましさもある。二人とも、そこまで真剣につきあえる男性に未だ出会っていない。
「食べ終わったら、果報モンの顔でも見に行こか……」
最後のパスタを口に放り込み、ノゾミを見やる。
「そろそろ回診の時間……凄くわかりやすいですね。トウジさんの担当のお医者さん、カッコイイですから……」
鋭すぎる一言に、何も返せないミナミだった。
軍服というのが、色気のないことこの上ないが高級士官食堂――食堂とは云ってもかなり作りの良いレストランなのだが――にて、シンジの独占を成し遂げたマナではある。
が……緊張していた。
会話もぎこちなく途切れ気味。基本的に「カワイイオンナ」を演じるのは無理な性格……どうすればそう見えるのかさっぱり解らない。
自分のペースとはかけ離れた状態であり、そうなるとどうしても気後れして話せない。
さて、どうしよう……
声に出さず、そうは云ったところで助けなどあるわけがないわけで……ただ、ただ途方に暮れるだけ。
何というか、この前までシンジに感じなかった妙な重みというか落ち着き……たぶん、それがマナのペースを狂わせ続けている。これは何だろうか? と、この雰囲気の味をみたところで答えが出ない。
そんなことを考えてるものだから、当然料理の味も解らない。
シンジとしてもマナの様子が妙なのは分かってはいるのだが、どう切り出して良いものか……そのあたり考えるようになっただけでも、朴念仁としては成長とみるべきか。
「えっと、この前の戦闘は大活躍だったらしいね。ありがとう」
こういうとき、話題を振るのは男子たるものの役目。男女平等だなんだと云っても、こういった根っこの所では未だ古くからの習慣が続いている。習慣というものは、得てしてそう云うものなのだろう。
しかし、それが仕事の話とは……何ともはや……で、ある。とりもなさず、それは二人に接点が少ないと云うことでもあるのだが。
「まぁ……本当なら学生をやってられるようなコを、あんまり死なせたくはないですからね……」
誇るでなく、つまらなそうに呟く。
今までシンジが良く知っていたキリシマ少佐とは違った、愁いを帯びた表情。翳りのあるそれに、少しだけ感情が動く。
のーてんき一直線なマナに、違う一面を見つけてしまった。それが誰にとって良いかは別として、シンジのマナに対する印象は大きく変わらざるを得ない。
……変わる……そんな器用なことができるぐらいなら、こんなところでこんな話題になるわけがない。
何となくぼんやりした時間は過ぎ、表向き何事もなくこの日の昼休みは流れてゆく。表向きは……
本日三着目のパジャマを羽織ってはいるものの、前のボタンは一つもとめずインナー無しで全開。男性向け週刊誌のゲラビアにありそうな艶姿を惜しげもなくさらしている。
櫛が入らずぐしゃくしゃになった自慢の髪の上から頭を掻き、大あくびを一発。今、出てきたトイレのドアを踵で蹴って閉じ、パジャマのズボンのゴムがきついのか、手を突っ込んで掻いたりもする。
女所帯だからできるだらけっぷりである。まぁ、風邪を引いてからだがだるいと云うこともあるから、大目に見る……としても……目に余るだろう。
シンジのオートミールを食し微熱程度に収まったようだが、夜になればまた熱が高くなる可能性は低くはない。疲労性の発熱はそれだけ体が弱っている証拠なのだから、ただ栄養をとり惰眠をむさぼるのがよいのだが……この病人はそこの所を分かっておらず、「遊んで」「面白い番組がない」「暇」と、ろくな事も言わず、リビングと自分の部屋を往復している。こういった状況に慣れていないのは事実。
なにせ、一〇年ぶりの発熱だ。
「はいはい、アスカさん。もうすぐヒトミちゃんが来る時間ですから、ボタンぐらいとめてください」
下着の補助無しでその存在を誇示し、直接パジャマの生地を押し上げているアスカの胸を、恨めしそうに見ながらとりあえず注意を促すのはレイ。
フライングボールをやっていた頃は『邪魔にならなくていい』と強がっても云っていられたが、一六――もうすぐ一七――になるのにちっとも大きくなってくれない。ちょっとばかし、かなり焦りを覚えたりもしている。
とりあえずは、ヒトミにも負けているのが悔しくてしかたがない。
「ふぁ〜い」
これでもかと云うほど気の抜けた返事をのこし、レイの前をすり抜けリビングの巨大な黒いクッションを一つ抱えてへたり込む。そのクッションに『シンジ』と名前を付けているのは、アスカとレイだけの秘密だ。もう一つの白い同型のクッションは『カヲル』と名付けられ、レイの尻の下かペンペンの腹の下で日々過ごしている。
アカギ邸に引き取られたメグミは、この六月にジュニアハイを無事卒業した。戦時の戒厳令があったため、不足した出席日数はアスカとリツコが連名で出した一筆の威力からか、不問に付された。もとより、成績は悪くはない。
本人は、すぐにでも志願するつもりだったようだが、リツコの希望で九月の任官までは家事手伝いを通すことにしたらしい。士官教育を通信教育ないし学校以外の施設で受けつつ準下士官として任官する……人手の足りない同盟にあって、最近見かけられるようになった制度を利用するようだ。見ようによっては、イゼルローンの幹部候補生として、ハイネセンに対抗して人材を育てているようにも見える。
そのヒトミが最近よくソウリュウ邸に顔を出す。あこがれの先輩とか、超有名人の家とか理由はいろいろ思い当たるが……たまに顔を見せる銀髪の少年あたりが主要な目的でないかと思われる。
そのあたり、ちょっとばかし気になったりもするレイだ。そう云う発想が出てくるようになったあたり、カヲル的に喜ばしい状況といえるかも知れない。さすがに、あんな告白を受けて気にならないわけがない。
朝、アカギ少将にアスカと自分の欠勤を告げたから、ヒトミがそのあたり情報をつかんでいるのは間違いない。
時計はそろそろ一四時を指す。頃合いとしては、そろそろ炊事洗濯掃除が終わりとりあえず暇になっていると思われる。
ヘボヘボと、ボタンを留めているアスカを“ぼぅ”と眺めながら思うことは一つ。
(う゛〜、胸……うらやましい)
ヒトミの方がボリュームがある――ちゃんと聞いてしまうと傷ついてしまいそうだから、ヒトミにサイズを聞いたわけではない――ようだから、気になるのもしかたがない。
平穏。
まさしく、その言葉が似合うイゼルローン要塞のひととき。
「あのぅ……どうかされました?」
突然背後からかけられた言葉に、すくみ上がる二人。悪いことをしているわけではないが……
振り返れば、器具類を満載したワゴンを押した背の低い看護婦が一人。顔は知っているが、名前は出てこない。知り合いと言えば知り合い。丸顔で笑顔がよく似合う女性だ。
妙齢の婦人が二人、一人部屋の中を興味深そうにのぞき込んでいれば怪しいことこの上ない。しかも、その病室の主は先の戦闘で名誉の負傷を負ったスズハラ提督。
「いや、あのぉ……ちょーっと、入り辛いんやけど」
「チィねぇちゃんに恨まれそうですし……」
看護婦の顔に理解の色が広がる。
「ああ、スズハラ提督の妹さんと、奥様の妹さんね。で……そう言うことですか……」
些か誤解があるようだが、状況は把握いただけたようだ。『奥様』という肩書きも、この中の状況を鑑みれば、あながち遠い話でもないように思える。ミナミにすれば、自称硬派がここまでアレとは思わなかったし、ノゾミにしたところで、あのお堅い姉がこうもべったりになるとは思ってもみなかった。
とりあえず、二人とも対処法を持ち合わせていない。事態は深刻である。
もう一度中を覗き込んでみる。
『ほらほらトウジ、口開けて』切り分けたリンゴを、言われたとおりにしているトウジの口へと放り込むヒカリの図。普段の二人を知る者なら、目を疑わんばかりの光景である。
「兄貴……情けなさすぎるで」
いやがる素振りを見せながらも、その実、顔はゆるみきっているトウジを見ての一言。親族としてはやりきれなだろう。というか、ミナミ的にはとっとと始末して、公庫を隠滅してしまいたい。
それも叶わぬなら、と、ため息を一つ。意を決して拳を作り、
「兄貴〜、居るぅ?」
ドアをかなり乱暴にどつきまわす。
無表情に……それが怖すぎて看護婦も、ノゾミすらも押しとどめるどころか口を挟むこともできない。
一応、VIP待遇と云うことで、身辺警護上の都合から他の入院患者の迷惑にならない程度隔離されているのが幸いではある。
「恐るべし、コジュウトメ」
なんだか、上の姉と一脈通じるものを感じるノゾミだった。
一時的なものではあるが、現在の宇宙は平和といえるだろう。二ヶ月前に終結した第七次イゼルローン会戦は、同盟にとって最小限の出血にとどまった。とりもなさずそれは、イゼルローン駐留軍の功績であり、アスカの手柄であるわけだ。
素直に感謝しておけばよいものを、またぞろ妙なことに手を染めたりする連中もいるわけだ。「小人閑居して不善を為す」とはよく言ったもの。
かくして、一通の通信文が数千光年を駆ける。
「まったく……キサマの墓に花を手向けるのも、私だけになってしまったか……この歳でな」
首を巡らせれば僅かに離れたところで、数名の兵士が周囲を警戒している。人払いをかけたところでこの程度。
「キョウコ君も忘れたわけではない。そのうち戻ってくる。そのうちな」
墓石に刻まれた[アルベルト]の文字。
ゲンドウにとって、友人らしい友人と言えば彼ぐらいのものだった。
さて、死者に何を語るべきだろうか……
ただ数分立ちつくす。
それだけだった。
「また来る」
それだけで十分だった。
残された金蓮花と柊の枝が、ただ、夏の日射しに焼かれていた。
シンジの様子がおかしい。
ヒトミや……レイでさえ気づかない差だが、アスカだけは明敏に感じ取る事ができるもの。ひとえに、つきあいの長さだけで測るわけにはかないが、それを否定する要素はどこにもない。
指一本分、アスカから距離を置いたような……そんな印象を受ける。
そこに、後ろめたさを感じるわけではない。
ある種の迷い、とまどいが感じられる……そこが解らない。
それでいて表面上はいつもと変わらない。
今日は、身体がだるくて、問いつめるのもおっくうだ。
静観。
いつものアスカらしくはないが、解らないものに迂闊に手を触れないのは一つの判断ではある。
「……スカ、アスカ。大丈夫?」
ずいぶん長い間惚けていたらしい。顔が火照っているのがわかる。どうやら、また熱が高くなってきたようだ。
シンジがすぐ傍にいる。肩を掴み揺すっていた腕を見て、そのまま上へと辿り見慣れた顔へとたどり着く。そこで、力を抜くと勢いよく頭が下がる。今度はゆっくりとシンジの顔まで視点を戻す。ようは、うなずいて見せたらしい。
かなり、具合がよろしくない。
「ちょっと、いいかい」
アスカの返事を待たず、その額に自分の額を押し当てる。高熱とまでは云わないが、放っておけるほどでもない。それを目撃したヒトミが固まっていたりもする。角度によってはキスでもしてるように見えなくもない。
「このままベッドまで運ぶよ。レイ、ドアを開けてくれるかい」
レイの返事を待たず、巨大なクッションごとアスカを軽々と抱き上げた。
先回りしたレイの開け放ったドアを、アスカをぶつけないように慎重にすり抜け独り寝には些か大きすぎるベッドに横たえる。
力が抜けた身体の柔らかさに緊張。さすがに、いつもとは違うシンジに気がついたレイが怪訝な顔をするが、深く追求することはない。今はそれどころではない。
「氷枕、とってきますね」
使い捨ての吸熱材よりも、面倒だが使い回しがきく物の方が尊ばれる。限定された閉鎖空間であるイゼルローンの気風と言ってよいだろう。
シンジが医療キットの中にあった無針注射器で解熱剤を投与しているあいだに、レイが氷枕と濡れタオルを用意してくる。ヒトミは勝手が分からずアスカの寝室の前でおろおろ。最初の出遅れが効いている。
前線での傷病兵の手当をした経験からか、意外と手慣れているシンジ。無針注射器を片づけ、レイの手から氷枕を受け取る。
「レイ、ヒトミちゃんを送ってあげてくれるかな? 遅くなちゃったし……カヲル君でもさそってさ」
「カヲルですか? ボディーガードとしては申し分ないですけど……」
言葉尻を濁しつつ、ヒトミを横目で見てみる。もともとミーハーな彼女のことだ、どうなっているかは想像はつく。
表面上、レイとカヲルの関係はそれほど変わることがない。しかし、当人同士の心の距離はなかなか微妙な間合いを保っている。
踏み込ませず、踏み入らず。
ユイや、キョウコに言わせれば、
「自分の心理状態を把握している分、シンジやアスカよりまし」
と言うことらしい。
ヒトミの期待に満ちた視線にせかされ、しぶしぶヴィジホンに向かう。比較的物騒な区画からかなり離れてはいるが、夜間の女性の一人歩きはやはり避けた方がいい。ヒトミを送った帰りの事を考えると、カヲル一人にやらせてもいい気がするが、気分的にふたりきりにするのはいや。「フクザツなヲトメゴコロ」か「独占欲」か意見が分かれるところだが、まぁ、「可愛げ」とでもしておこう。すくなくとも、カヲルは不快に思うまい。
出がけに少しだけと、アスカの部屋を覗いてみる。
アスカを覗き込むシンジの背が、いつもと少し違う……何となくそう思った。
「いやぁ、大変な目に遭っちゃった」
いつもよりやや化粧は濃い――まだ青い顔色を誤魔化す事には成功している――が、口調には張りがある。中央司令室に三日ぶりにやってきた司令官殿のお言葉である。お気楽のんき、これぐらいがちょうどよい。
下手に指揮官が緊張していては、兵士の気も休まらない。
端末のIDと網膜照合によるセキュリティーを解除、自分の決済を待っている案件……その数二〇〇。
かなり気分は萎えたが、いやな顔をするだけで重要度の高い順に処理を始める。指紋照合によって、アスカ本人が握っている間だけ起動する電子ペンで次々にサインを書き込んでゆく。
案件の関連情報を呼び出し、一つ一つ確認しながらサインを書き込んでゆく。やはり、まだ要塞の修理に関する案件が多い。
と、その手が止まる。
「ヒカリ……」
かなり厳しい顔で副官を呼ぶ。ヒカリの方も覚悟していたのか、何も問わずアスカの側に立つ。
アスカが無言で指し示した画面には、国防委員会発の辞令が示されている。
「ご覧の通りです。昨日配信されて参りました」
ヒカリの感情を押し殺した声が、アスカの耳朶を打つ。
「そう……あの娘、なんて云うかな……」
その時、少しだけ。少しだけ、ヒカリの目にアスカが小さく映っていた。少しだけ……
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’00/05/08初稿
00/08/08修正
銀河英雄伝説は田中芳樹氏の著作物です
yoshiki tanaka (C)1982 徳間書店刊