蒼き月光の下、
煌々と自ら輝く街。
世界規模の災厄を経て15年。
復興の象徴として建設された街。
急速な復興は歪みを生じ。
その歪みを一身に背負う街。
投げかける影はどこまでも暗く、
生まれ出る闇は果てなく深い。
第三新東京市。
神無き街に生まれた伝説。
そう、
伝説だ。
隠〜おに〜 (前編)
「またぁ? これで今月四件目よ」
葛城ミサト警視が面倒くさそうに振り向く。態度は悪いが国家公務員試験一種(上級甲)に合格した立派なキャリアだ。報告を持ってきた加持警部としては苦笑するしかない。
警視庁第三新東京分局。本家、警視庁と規模こそ違えど、全く同じ組織を有している。将来の首都移転までの過渡期の処置として警視庁直轄とされ、第三新東京市とその周辺都市の治安を担っている。
ここは、その刑事部参事官室。
「で、今度は誰」
「黄洪全、興中会の中堅幹部です。まぁ、実働部隊のボスと言うところですか」
無精髭と無造作に束ねた髪。ややくたびれたスーツにややくたびれたワイシャツ。ネクタイは首にくくりつけぶら下げているだけ――決して締めているとは言えまい――という……この男が警官とは誰も思うまい。この街でなければ。
本来なら二人ともこのようなところにいるべき人材ではないのだが。
「今回も前三回と同じ手口ですね。文字通り肉塊です。スポーツクラブの会員証をヤツ自身が持っていなかったら……我々の耳に入ったかどうか」
人間には不可能な力をもって引き裂かれた遺体。遺体と呼ぶのもはばかられるほど解体されたそれは、一見しただけでは誰も人体とは思うまい。足りないパーツが一部あったそうだが、恐らく野犬か何かの餌となったのだろう。そう珍しいことではない。「治安の良い日本」という伝説は、この街には通用しない。
「先月の大熊組の若頭、青龍の幹部、今月に入ってクレディ兄弟の所の幹部、マイヤー一家の戦闘隊長、鳳明会の傭兵に今度の興中会。加持君の意見は?」
「抗争にしてはおとなしいですね。若いのが賑やかなのは単なるリアクションでしょう。どこかが暗殺用実験動物のテストでもやってるんじゃないですか?」
「まぁ、ゼーレあたりならやりそうなことだけど。新手の暗殺者って線はどう? そういうクスリが開発されたとか」
人間の持つリミッターを解除したとしても、ここまで派手なことは出来まい。しかし、薬物の複合使用は時として思わぬ副産物を与えることがある。
「その辺は洗っていますが、クスリの線はないでしょう。あれだけのことをやれば本人もただじゃ済みませんよ。そうそう、忘れるところでした」
ポケットから取り出す小袋。警官にはおなじみの証拠品を納めるためのそれだが……
「45口径ね。それがどうしたの」
「コイツが現場に転がってました。しかも、周辺に弾痕を確認できませんでした」
「え?」
「発射痕から、現場にあった被害者の銃から撃たれたものに間違いありません……ルミノール反応も無し。衝突したはずの物体の痕跡も、欠片も見あたらないそうです」
着弾痕のあらわな銃弾。死体の中から発見されたわけではない。何かに当たったのは確かなはずだ。
「ふーん、で、相手は人間なの?」
馬鹿馬鹿しくも深刻な問いかけに、答える材料を持たない加持だった。
「800だ」
それだけを言い、少年の手に紙袋を押しつける。
「次の依頼も受けてもらえないか?」
何か思案していた様子だが、ややあってゆっくりと頷く。
少年の動作を確認して、もう一つの紙袋を渡す。
「必要書類。条件は同じ、期日は1週間」
しかし、使い走りにこんな子供を使うとは……と、少年がこちらに注意を向けていないことに気づく。その視線の先には、月。瞳には知性の光がある。壊れたわけではないようだ。
安堵。仕事は果たせた。渡されたものを渡し、預かった台詞をそのまま伝える。こんなわけの分からないアルバイトはこりごりだ。
芦ノ湖。とある別荘。
「ふーん。それでアタシってわけ」
嘲笑を浮かべ、その形の良い足を組み替える。自分に頼ってくる大人にはいつもそうだ。汚れ仕事を押しつけてくる。「君にしかできない」などと言って。
「で、いくら?」
「エンで1000万」
「気前が良いじゃない」
美味しい餌をちらつかせ、仕事を果たせば口を封じる。昔からよく使われる手だ。払うつもりが最初から無いのだから、いくらでも大きな事が言えるわけだ。
「怪しいわね……この話、聞かなかったことにするから」
「それは困る。貴女にしかできない仕事と思ったからこそ、それだけ出そうというのだ。自分の命を購う値段と思えば高くはない」
立ち上がりかけた少女を前に、おもしろいように狼狽える男を見る限り偽りとは思えない。その言にも頷けるところがある。さて、どうするか……迷ったときにはおもしろい方を選択するのがいつもの流儀。裏があるのならなおさらだ。自分の“力”に絶対の自信を持っているから。
「1200で7日。アンタの命の対価ならこれでも安いでしょうけど、これで手を打って あ・げ・る♪」
氷蒼色の瞳は雄弁に語る「アタシを騙したらアンタの命はないわよ」と。そうでなければ、闇の中をフリーランスで泳ぎ切ることは出来まい。浮ついた口調とは裏腹に、底冷えのするような視線。冷徹なリアリストがそこにいる。金に汚いと思わせておけば危険視はされまい。後は、クライアントを決して裏切らないこと。
仕事の内容は護衛。たいていの暗殺者なら防ぎきる事が出来るだろう。実績に裏打ちされた実力は、常人がどうこうできるものではない。楽な仕事になりそうだ。
第三新東京市、比較的安全な地域にあるごく平凡なマンション。その地下には、登記されていない部屋が存在する。もちろんその存在を一般の居住者は知るはずもなく、300m先にのびている地下通路の存在は管理人すら知らない。
その裏口の終点。直上には一般家屋。塀と外壁を強化し、防弾ガラスのはまった窓ははめ殺し。直径1cmを越える鉄柱で構成された鉄格子など、この地で平和に暮らすための知恵が詰まっている。しかし、多少なりともこの街の裏を覗いたものならば手を出すことはないだろう。幾つかある中立地帯の一つ、赤木リツコ邸を。
客がいるのは珍しくもない。この家の性格上、招かれざる客というのも多いが今日は極めつけだ。旧友でなければ追い返していたところだが。
突然押し掛けてきておいて、自分の淹れたコーヒーを美味そうにすすっているだけ。本当に味が分かっているのか……一緒にやってきた男の方も知っている。彼女以上に掴み所がない。だからと言って自分から切り出すのはプライドが許さない。かくして、胃に穴の空きそうな沈黙は継続される。
3杯目のお代わりを受け取ったとき、女がやっと口を開いた。
「居場所ぐらい教えなさいよ」
と。
場所は、第二東京の某大学病院。臨床医として就職したリツコも派閥争いから逃れることは出来なかった。母、赤木ナオコの対立陣営からの誘いを蹴ったのが全ての始まり。頼まれた手術、差し替えられたカルテ。自分にそのような話が回ってくること自体おかしいと思ったが、母への対抗心がその怜悧な頭脳を曇らせた。
操作された情報がマスコミへとリークされた。カルテの取り違えは自分が成したこととされ、手術自体頼まれたものではなく野心をもって自ら望んだもの、と。当然のように病院を放逐された。「庇いきれない」との理由から。事件自体は珍しくはあったが、根底にあるものは珍しくもない幼稚な縄張り意識。
それが三年前のことだ。程度に差があるとは言え、どこでも見られる光景だ。セカンド・インパクト以降、人材の倫理観の劣化は目を覆うものがある。
昨年暮れには名誉が回復されたと聞いたが、とても表の世界に帰る気にはなれなかった。それも目の前の友人たちのおかげ。この地へ飛ばされる前にお膳立てだけは整えていたようだ。
「そう突っかかるな、葛城。リッちゃんにはリッちゃんの事情ってものがあったのさ。そうだろ?」
男臭い笑みを向ける。仕事で来たわけではないと言うことか。
第三新東京市きっての闇医者の前に。
「そう、全てお見通しってわけね。それで、何を聞きたいの?」
二人の見覚えのあるオイルライターで煙草に火を移す。この街で拾われて二年半になるか。その長くも短くもない時間の間にリツコは変わった。清濁併せ呑む度量と、凍てつく心。場数をこなしただけに医療技術者としては成長したが、引き替えとして医者としての資格は失った。免許などではなく、こころの問題として。
「そういう言い方はないでしょう! 急に姿を消すモンだから……これでも方々探したんだから……」
「あの患者が死んだから……でしょ」
ぱぁーん
加持に制止の暇を与えず、ミサトの右手が翻った。
「あんな事があった後に消えたら、誰だって心配するでしょうがっ」
最初はリツコの知人と言うことで捜査に加えられた。「何事も経験だ、陣頭指揮を執って見ろ」と。当時、警視庁捜査課第一課に在籍していた加持と再会したのもその頃だ。表向きは医療事故。実際は殺人事件としての捜査は意外な方向へと向かい、内幕の解明まで一年で漕ぎ着けた。庇い合いを排除するのにそれだけ掛かったところに根の深さがある。
その捜査の中で警察上層部の汚職の手がかりを掴み、証拠を固める段になって急にこの街へと配属された。危険で有能な部下は、最前線へと送られたのだ。
「ごめんなさい、いきなり殴っちゃって、でも……」
「謝るのはこっちよ、ミサト」
昔の事件は吹っ切れていたが、旧友には負い目があった。自分のために骨を折ってくれたのに、自分は礼を言うどころか日の当たる場所へと出ることすら出来ない立場にある事へ。今更、恨み言を言う気はない。今の仕事は充実している。
一つのきっかけとしては申し分ない。
「この街のルールに反しない限り協力しましょ」
まだ半分も吸っていない煙草をもみ消す。
「大熊組、青龍、クレディ兄弟、マイヤー一家、鳳明会、興中会。ここに変な動きはない?」 単刀直入。本気で腹を割って話す気のようだ。加持としてはミサトに任せることにしたようで、今のところ会話に参加してくる気配はない。今のところは。一瞬後は解らないが。
「ここ最近、幹部が殺られたところ? 下っ端に関しては、通り一遍の動きはあったけど」
「じゃぁ、上には普通じゃない動きがあったわけだ」
いきなり加持が割り込んでくる。まったく、油断も隙もない。
「残念。惜しいけど違うわ。
上層部は動いていないの。相手が悪すぎるから」
「相手が悪すぎる? 軍かどこかの国が動いてるってわけ?」
体面を気にするマフィアが、その程度で手を引くはずがない。ミサトとしてもこれが答えとは思っていない。リツコの口調からすれば、その“相手”とやらを知っているようだが……
「悪いことは言わないわ、手を引きなさい。今なら遅くはないから。
これは、友人としての忠告」
「何を知っているわけ?」
「私はまだ死にたくないの」
答えることへの明確な拒否。
「時間よ。私にも用事ぐらいあるから。
まぁ、貴女達のことだから止めても聞かないでしょうけど……ちょっと待ってて」
リツコが部屋を後にし、住まいの奥へと消える。
「どう思う? 葛城警視としては」
どう見ても上司に問いかけている風ではないが、今はお互いプライベートと心得ている。「嘘はついていないんじゃないの。ホントのことを言ってるとも思わないけど」
「これは厳しいな。しかし、まぁ、彼女が用心しなければならないくらい、近くに何かあるんだろうな。青葉と日向あたりに張り込ませようか?」
「やめた方がいいでしょ。リツコの方が危険になるかも知れないし」
「りょーかい」
話は終わったとばかりに、ミサトがソファーへと深く掛け直す。ドアの外に気配、リツコが戻ってきたようだ。
「内緒話は終わった?」
「別に……つまんない話よ」
リツコの手には2つの十字架……違う、十字の形をした銀の板。首から下げるように細い鎖は付いているが。
「持って行きなさい。
もし、貴女達が深入りするようなことがあったら役に立つでしょ」
「なによ、これ」
「“お守り”よ」
西三番街交差点。昼間は人でにぎわう商業地区だが、22時を一つの境にその様相は一変する。客層が変わる。
明らかに一般社会で生きてゆけない者に混じって、少年が一人。年の頃は13・4。体格はやや華奢か。身長は高くも低くもない……取り立てて何か言い立てることはない。
平凡。
だから周りから浮く。その隙のない身のこなしに気が付く者は多くない。それほど自然、流されているように。
彼が裏路地に引き込まれるのも珍しいことではない。金銭、身体――愛玩用に売り飛ばすなり、バラして移植に使うなり使い道はいくらでもある――狙う目的は幾つかあれど、彼を狙う理由は一つだ。
カモ。
その認識の甘さを思い知らされる。時にその代価を命を持って購うことになるが。
表情というものが欠落した少年の心の内を、見透かすことは出来ない。
ここでの用は済んだ。消耗品の補充。
少年は、闇へと消える。
翌、夕刻。赤木邸、地下。
事実上官憲公認となった裏家業だが、いまだミサトには話せないことの方が多い。例えば、14才の少年の保護者であるとか……
地下通路は巧妙に隠され、逃走にかかる時間を十分に時間を稼ぎ出すことが出来る構造になっている。『見つからない』などと言うナンセンスなコンセプトは真っ先に却下した。時間をかけて探せば見つかるが、開錠にはさらに時間が掛かる。そのうえ地下通路には、下水道や地下鉄の保守通路への抜け道まで用意されている。元が地下ケーブル埋設用の通路だったらしい。
地上三階、地下一階。市中の要塞の建設資金を出したスポンサー。自分に居場所を与えてくれたのがこの少年であるとは誰も思うまい。交換条件は、碇シンジの法的な保護者となること。そういった存在が居ないことは、この街であっても都合が悪いことがあるらしい。
普段は自宅――この地下通路の行き着く先にあるマンションの最上階――に居るはず。リツコが家庭教師のまねごとをしてはいるが、今は碇シンジが『仕事』中であるため休止している。そして大仰に言うならば、『仕事』のC3Iとなる。
その碇シンジだが、いつもの無表情より幾分雰囲気は柔らかいが、表情と呼べるものではない。
市内数カ所に散在する子飼いの情報屋からその成果を刈り取る。セキュリティーを考えればここほど安全なところはない。門外漢のリツコにはさっぱり解らないが、情報の分析のサポートくらいなら出来る。
一般のネット所定の位置から拾ってきた情報を、幾重にも重ねた防壁を通しローカルエリアへと放り込む。そのファイルをリツコがデータベースソフトを用いて整理する。そのくらい出来なければ医療機器の操作など諦めた方がいい。
碇シンジが定めた情報屋の階級に従って、定期的にそれなりの額を支払っている。安定収入……裏の世界の住人にとってこれほど魅力的な餌はないだろう。良質の情報を提供する者には対価を惜しまない。冷徹なリアリスト。
集められる情報は、質はともかく有利になるものは見あたらない。依頼主はとうに調べがついている。しかし、動機が見あたらない。だからといってどうと言うこともないが、気持ちが悪いのは事実。その様な依頼を受け続けた碇シンジの意図が読めず歯がゆく思う。リツコが問いただしたところで喋りはしないだろう。日常会話もろくにしないのだから。
「相手は『檻』の中よ」
何も応えず、地下通路へと消える。掌紋、網膜、DNAの三つが合えば簡単に開く。普段使用するのだから手続きを踏めば簡単に開いてくれなければ困る。ひとたびEMERGENCY MODEに入ればその手続きは途端に複雑になるが。
期日まであと5日あるはず……少年が何を考えているのか本当に解らない。
「保護者失格……か。
どっちが保護されているんだか」
深夜の芦ノ湖湖畔別荘地。5人の私服警官が藪に潜んでいる。密告――と言うより通告――をミサト自身が受け取ったから。
曰く、『一連ノ事件ノ謎ヲ説キタケレバ、スグニ神代タケシノ別邸ヘユケ。警告スル。禁忌ニ触レル事ナカレ。好奇心ハ虎ヲモ引キ裂ク』
明らかに合成された音声。公開されていないはずの参事官直通電話へのアクセス。気に入らないが確かに知りたい。どうせ事件にはならないだろう……何人死のうが法的に存在しない人間に関わっているほど分局の人間は暇ではない。セカンド・インパクト前とは違うのだから。
結局、3分で加持を筆頭に参事官室付きの中でも『使える』人材がそろうことになった。隣のオフィスから呼び出しただけとも言うが。
本庁からの腐れ縁、加持リョウジ警部。
分局刑事部、捜査第二課から引き抜いた、青葉シゲル警部補。
同、捜査第三課から引き抜いた、日向マコト警部補。
同、科学捜査研究所からなぜか引き抜いてきた、伊吹マヤ警部補。
「部下の人選は任せる」と言われたのをいいことに最初に引き抜いた面子だ。それ以降は、上からストップが掛かり関係部署からの推薦となったが、見事に厄介者のたまり場となった。有能であるが協調性がない。放し飼いにしておけば勝手に事件を拾ってきて勝手に解決をしている。管理したがる人間にとってやっかいこの上ないが、ミサトの放任主義には皆合っていた。
その中で、チームとして行動できる貴重な存在が彼ら。キャリアであるにもかかわらず前線へと出てゆくミサトの実質的な手足と言っていい。
話にあった『神代タケシ別邸』を直接見ることは出来ないが、そこへと続く道は見ることが出来る。いきなり警告に背くのは賢いやり方ではない、そこには何か理由があるはずだ。
眼前を駆け抜けるガンメタリックのkawasaki ZZR400。ミサトと加持の視線が重なる。何かが勘に障った。
「あなた達はここで監視。私たちが1時間たっても戻らなかったら……」
3人をざっと見渡す。意外と肝が据わっているのか動揺はない。これなら判断を間違うことはないだろう。
「とっとと逃げなさい。今日あったことも忘れなさい。いいわね」
「しかし……」
何か言いかけた日向を視線だけで黙らせる。権威を借りるのではなく実力がものを言う。
「あとは、頼んだわよ」
青いアルピーヌ・ルノー A−310。ミサトの愛車がその後を追う。
何があったのか、理解できていない3人だけが残された。
地軸のずれはよく話題に上るが、『黄道傾斜角』のずれまではほとんど知られてはいない。セカンド・インパクト当日まで地軸は、太陽に対し約23.4度の角度を保っていた。これを『黄道傾斜角』という。四季を生み出していたのも『黄道傾斜角』があればこそだ。
そこへ地軸をも揺るがす衝撃が襲いかかったのだ。
現在、グリーンランド北部沿岸に北極点が、旧南極大陸タスマニア島よりに南極点が観測されている。日本は、旧北回帰線上に移動したことになる。そして――これが重要なことだが――『黄道傾斜角』3.9度。終わらない夏の真相。
わずかに観測されたた『軌道傾斜角』も一役買っているか。
某国ジェット推進研究所が中心となり、10年の歳月を掛けて弾きだした結論はあまりにも無責任に過ぎた。簡単に言えば「これからどうなるか解らない」と。それだけを言うために2800ページも使って。
何に希望を持てというのか? 消滅するかもしれない未来に? 皆不安を抱えている。玻璃細工のような世界。
突然走り込んできたZZRに対し、誰何の声を上げる余裕など無かった。バッグから取り出したINGLAMが火を噴く。主観的に適当にばらまかれた9mm Paraberum弾は四人の男達を的確に捉える。腰だめに発砲したに関わらず、だ。マガジン一つで正門を制圧、サイレンサーが援軍を呼ばせない。これから役に立たぬであろうサイレンサーは取り外される。
ブルージーンズにTシャツその上から革ジャンを羽織ったライダーが、邪魔になるフルフェイスのヘルメットを取った。碇シンジ。この細い身体のどこに今の反動に耐えうる力があるというのか。
愛車をそのままに邸宅へと向かう。自作のプラスチック爆弾を蝶番の部分に過分と思えるくらいに埋め込む。
起爆。
耐爆仕様ですらなかった金属板が派手に吹き飛び、彼のために道を指し示す。さすがに今度は気がついた。不用意にのぞき込む影が二つ。とりあえず撃つ。着弾点を見て修正、本格的にばらまく。命中性能のよくないINGLAMだけにこういった派手な使い方しかできない。
一人が絶命する間にもう一人が隠れてしまう。突入。敵はあと12人いるはず。対するは正気と思えぬ侵入者。一階を無視して駆け上る。正面の階段。吹き抜けの玄関は、視界を確保してくれる。階段の途中で二人。弾倉の交換も慣れたものだ。思いだしたかのように手榴弾をポケットから取り出す。躊躇いもなくピンを抜き取り一階へ自由落下を強制する。吹き抜けを下へと、床へと。悲鳴、爆音、さらに悲鳴。
比較的安全に最上階、二階へと到着。ここの構造は頭に入っている。依頼の写真にあった赤い髪の少女。とりあえず彼女に会おう、『赤の女帝』に。近くに目的のものがあるはずだ。それを確認するために。
「派手な事するコねぇ」
第一声がそれ。門前に死体が4つ。
「こういう事をするようなやつに喧嘩売るなんて、常識を疑うわね」
「それにしても、えらくばらまいたもんだ。安くはないだろうに」
時折聞こえるサブマシンガン(SMG)特有の銃声。吹き飛んだ鉄扉。腹の底から響いてくる爆音。
放置されたバイクと散乱する薬莢。
「加持、お守りは持った?」
「御利益はあるのかねぇ」
やれやれといった様子でジャケットの内懐から件(くだん)の“お守り”を取り出す。ミサトはと言うと、朝から首にぶら下げていたのだから今更どうと言うこともない。
愛車をいつでも走り出せる状態におき建物へと向かう。いつ如何なる時も逃げ足だけは確保しておく。生き残るためのささやかな知恵。
決死の覚悟で飛び出してきた男のM1911A1が火を噴く。が、確実に碇シンジの額を撃ち抜くはずのそれが直前で弾き飛ばされる。.45ACP弾が、だ。至近距離でのストッピング性能は、ハンドガンのカートリッジでもトップクラスのはず。現実は容認できるものではない。小柄と言っていい少年が小揺るぎもしない。
なぜ、どうして、解らない。理解できない。恐慌。
「ば、化け物」
前後、挟撃されていたはずの少年が立ちつくしている。「観念した」と誰もが思った。いや、願った。とりあえず祈った。「そうであるように」と。何に? 決まっている。この場を何とか出来そうな存在だ。それを『神』と呼んでやってもいいし、『悪魔』と呼ばれる存在でも構いやしない。
男たちが全ての銃弾を使い切った。広くもない廊下を満たした硝煙が晴れた……恐怖が、顕現した。
最初に気が付いたのは誰だったか。少年が立っている。違う、そんな事ではない。皆、薄々感じていたことだ。
問題は、足下、影。右腕が……生えていた。おそらく、ヒトの。
肘が現れ、肩部フィン、頭、肩……作り物めいた紫、要所要所に散在する蛍光グリーン。身の丈、2.7mの巨人が……生えてきた。他に形容のしようがない。
床、否、影から。
彼の周囲、半径1mには銃弾が一つも落ちていない。いったい何百発撃ち込んだと思っている。たった一人の孺子相手に、だ。
全てが異常。
微かに笑った。端から見れば無表情。歪んでいる。
碇シンジが動いた。機械よりも精密な動作をもって。
“紫”が動いた。獣の如き咆哮を伴って。
「まて、おま…いや、貴女が私のもとを離れてどうするんだ」
「今の音が聞こえなかったのっ!! 銃声よ銃声。しかもSMGの」
「だからといって身辺警護のあんたまで出て行くんじゃない!」
「うっさいわねぇ。解ってるわよ、それぐらい」
ほら、今度は爆音だ。さらにSMGの音。外は彼女好みの展開になってきている。悲鳴と怒号。自分が参加するようなことがあってはならないはずだが、やっぱり参加したい。自分が傷つく可能性など全く考えてもいない。
爆音。今度は近い、玄関ホールか。あそこが落ちれば屋敷の内部の連携が切れてしまう。
誰が死んでもかまわないが、仕事がやりにくくなるのは困る。「ホントに行かなくてもいいの?」と問うつもりで振り向く。
「だめだ!」
『ば、化け物』
その声に続く咆哮。人間ではなく……なんなんだ。
続いて、扉の向こうから声が届く。続いて、パニック。乱射。
どこのバカ共だ、ハンドガンをフルオートで撃ったのは。次をどうするつもりだ、素人ではあるまいに。
不思議なほどの静寂。
次に襲ってきたのは、悲鳴と、SMGの銃声と、さらなる獣の咆吼。獣?
「まさか……ね。同じなの?」
弾薬を使い切ったINGLAMを捨て、BERETTA M92FSを取り出す。INGLAMと同じく9mm Paraberum弾を使用するこのハンドガンが最後に残された通常の武器。背後には着弾痕が鮮やかな死体。前方には肉塊。全てが叩きつぶされ、また、握りつぶされ……天井に張り付いたまま落ちてこれないものもいる。
目標へと、紅く舗装された廊下。行き着く先には扉。その間に、“紫”。
鬼が扉を開放する。
赤い髪の少女に、オイルライター。あまり似合う取り合わせではない。
「止まりなさい!」
当然、“紫”は従わない。その後背にいる碇シンジも。
「止まれって言ってんの」
燃える。オイルライターとは全く次元の違う炎が舞い躍る。凍り付く。
「やっぱり同じってわけね。このアタシと」
炎
赤
巨人
「はっ、コイツを使えるのはアンタだけじゃないって事」
ここにきて、やっと歩みを止めた。いつもより大きめに開かれた目が、内の動揺を示しているが碇シンジと初対面である少女が見分けられるはずがない。
パッと見、表情を変えない碇シンジに薄ら寒いものを覚える。目が合ってしまう。そこに隙。
アノヒトミハ、ナニヲミタンダロウ。
男が嗤う。願わくば共倒れを。
“紫”が動いた。部屋の隅で小さくなっている男には、碇シンジ自身が向かっている。“紫”の目標は、“赤”。一秒の数分の一のタイミングで出遅れる。少女がとっさに放った銃弾が彼を捉えたように見えたが、例の力“鎧”があるから効いてはいないだろう。
「退きなさい、“ツヴァイ”」
“紫”がその言葉に従おうとした“赤”=“ツヴァイ”に殴りかかる。少女の前方を完全に封じる。突っ込んでいっても何とかなりそうな気もするが、巨人たちに対して見えない“鎧”が有効なのか解らない。自分で実験してみる気は全くない。
「他人のクライアント傷つけんじゃない。聞いてんの、アンタ。返事ぐらいしなさいよ!」
眉間、手前2cm。M92FSの銃口。
写真、眼前に。赤い髪の少女。巨人たちの向こう側の少女。
「そ、それがどうした。あ、『赤の女帝』ではないか」
ゆっくりと頷く。
「何故、彼女を雇った。
誰の差し金だ」
抑揚のない平坦な声。変声期がまだなのだろう、低く抑えているようでも音質が軽い。
「知らん! オレは知らないっ。上から言われただけだ」
少女の写真をしまい込み、もう一枚の写真を突きつける。
男が怯んだ。
「なぜその写真を持っている……」
碇シンジは答えない。M92FSのグリップをわずかに握り直す。乾いた破裂音と衝撃波。反動。
少女の動きがわずかににぶる。“赤”の動きがその一瞬だけ止まった。人間がそれを知覚し、行動を起こすには足りないが“紫”には十分な時間。
“赤”を強引に掴み、壁へ叩き付ける。その衝撃が少女に伝わり、苦悶の表情がその秀麗な面に浮かぶ。いや、それよりも驚きの方が大きいか。異形の巨人を操る術を得てからと言うもの、怪我らしい怪我などしたことがない。見えない“鎧”のおかげだ。
隙だらけの“赤”にかまうことなく“紫”は転進。碇シンジを軽々と抱え上げ、防弾ガラスを事も無げに蹴破り夜の闇へと身を躍らせる。
半径1mの円が描かれている。とは言え、明確なラインがあるわけではない。様々な銃弾が転がるその中に何もない空間が存在する。何もないわけではないか。円の中心付近には9mm Paraberum弾の薬莢が散乱している。そして、後背になぎ倒されるように散らばる男たち。行く手には、あの残骸だ。ここ最近散発している人間のなれの果て。いや、違う。人間としての形は残っている。それは紛れもなく「死体」と呼べるもの。死因は不自然きわまりないが。
少し離れたところに投げ捨ててあったINGLAMに残弾はない。派手にやったものだ。
まったく、何が起こっているのやら。
どうやら、自分たちの知る現実とは違う世界に踏み込んでしまったのかも知れない。間違っても口に出来ない思いが等しく二人の心に浮かぶ。
血の海――陳腐な表現ではあるがまさしく的を射ている――と化した廊下の向こう。突き当たり、半開きのドアの向こうが騒々しい。その扉を開けば答えがある。だが、身体が動かない。比較的修羅場になれている加持が、だ。ミサトに至っては何を況や。なまじ武術の腕が良かったせいか、殺気に当てられ体が自由にならない。
そして、銃声が響いた。
失敗。
そう、初めて仕事に失敗した。依頼者は頭部を撃ち抜かれ即死。しかも自分の目の前で。
屈辱。
「傷つけられたプライドは……十倍にして返してやるんだから」
その声に合わせるように“ツヴァイ”も立ち上がる。蒼く燃える瞳は碇シンジが……少なくともその意志によって砕かれた窓へと向いている。
気が付いているのか意識的に忘れようとしているのか、如何なる形であれ初めて同年代の少年に興味を持ったことに。興味の持ち方が多分に問題ではあるが。
かん高いセルモーターの音に続いて、力強いエンジン音。
「逃がさないっ」
赤い影が少女を抱え飛び出すのと、後背のドアが開くのが同時。真っ先に飛び込んできた加持が、何とかその影を一瞬だけ視界に収めることに成功した。それが“何”であるかまでは解らない。危険を承知で慎重に壊れた窓に近づく。
見慣れた青い車が走って行く……
「葛城警視、ひじょうに言いにくいんだが……」
窓ガラスは既にない。その残骸らしきものが枠に張り付いているが、そんなものはもうどうでもいい。結果としてちゃんと外の音は届いている。たとえば、愛車のエンジン音とか。
「加持君、追いかけるわよ。よりによって私の車を持っていこうなんて、ふてぇ野郎はずぇ〜ったいオリに繋いでやるんだからっ!!」
「しかし足が……」
「日向君たちの覆パトがあるでしょ。持ってこさせなさいっ」
怒りのあまり自分を見失っているようだが、加持としてはどうもしようがない。携帯電話を懐から取り出すしかなかった。『全市に非常線を張れ』と言い出さなかっただけましか。
加持の嘆息は、湖の涼風にのって……消えた。