醜いアヒルの子

 

 いつもと変わらぬ風景。立ち上る紫色の煙を眺めなら、男は先ほどまでの情事の余韻を噛み締めていた。女は動かない。いつもと同じだ、男は煙草をもみ消しながら口の中で呟いた。情事のあとの気怠さも、肌にまとわりつく汗の匂いも、そして男に背を向けて横たわる女の涙も。声もなく、ただ泣き続ける彼女のわずかに震える肩をそっと見やって、男は新たな煙草に火をつけた。女の涙は、男には不可解だった。初めて女の涙を見たとき、初めて女と肌を重ねたとき、男は困惑したものだ。女はすでに男を知らぬ体ではなかったし、誘ったのはむしろ女のほうだった。自分の行為が至らぬせいでもなければ、想い人と一つになれた歓喜の涙にしては哀しみの色が強すぎた。半ば女との関係を諦めかけていた男だったが、しかし、女はその後も男を求め続け、そしてその度に涙した。理由もわからず女の涙を止める手だてもない男は、求められるままに、求めるままに女を抱き続けた。

 もちろん幾度となく女に涙の理由を尋ねた男だったが、しかし、そんな男の問いかけに、決まって女は一言怒声を返すだけで後は黙って泣き続けた。今では男は女の華奢な肩に手をかけることもできずに、ただ女の泣く様を眺めることしかできなかった。

 

 静寂の中で聞こえるのは、男のため息にも似た煙を吐き出す音と、女のたてるかすかな涙の音だけだった・・・・。

 

 

 

  醜いアヒルの子  中編

 

 

 

 私が目を覚ましたとき、そこには見慣れた天井のシミを見つけることはできなかった。いつもはけたたましく鳴り響いている目覚ましの音はなく、聞こえるのは規則的な機械音だった。なぜか動かない体を不思議に思いながら、一人呟いた。

 

「ここは・・・・?」

 

 蚊の泣くようなかすかな私の呟きに、それまで視界の端にあった白い物体が急に動き出した。

 

「惣流さん・・!!」

 

 身動きのとれない私をのぞき込むそれは、見慣れない女性の顔であった。驚きの色を浮かべたその女性は、不審がる私をおいて誰かを呼びに駆け出していった。

 

「先生!!患者が・・・、惣流さんが目を覚ましました!!」

 

 部屋の外から聞こえる先ほどの女性の声を、未だ覚醒し切らぬ頭の中で反芻した。

 

(先生・・・?、 患者・・・私?)

 

 私が状況を完全に把握するその前に、再び先ほどの女性とおそらくは彼女が先生と呼んだ一人の男性があらわれた。女性と同じく白い服を着たその男性は私の瞳をのぞいた後、私を安心させるように優しく口を開いた。

 

「惣流さん、気分はどうですか?」

 

 見知らぬ男性の漠然としたその問いかけに私がなにも答えられずにいると、その男性は再び優しく声をかけた。

 

「わかりますか?御自分のこと、・・・事故のこと」

 

 事故!!、その単語を耳にした途端、それまでもやのかかっていた私の思考は急に覚醒した。そう、あれは母親と一緒に行った旅行の帰り道だった。短いながらもめいっぱい母娘の時間を満喫した私たちは、予定よりもかなり遅れて帰途についていた。さすがに連日の疲れを見せる母親に休憩を勧めたのだが、この旅行のために無理をして割いた彼女の時間はもうほとんど残ってはおらず、山間の夜道で車を急がせていた。なれない道で、焦りと疲れが災いしたのだろう、結構なスピードで峠にさしかかった私たちの車は同じくスピードを出していた対向車の存在に気付いたが、もう手遅れだった。間一髪対向車を避け、しかし制御しきれなくなった車は、そのスピードのまま一直線にガードレールに向かっていった。そして感じる衝撃と浮遊感。私の意識はそこで暗転し・・・

 

「どうなったの私は?・・・・ママは!?」

 

 目の前の男性は弱々しい私の叫びを聞き取ると、穏やかな笑顔を沈痛なものに変え、言いにくそうに目を伏せ、しかし私の質問には答えた。

 

「崖から転落したあなた方の車は大破していたものの、奇跡的に炎上はしていませんでした。乗っていた貴女は全身、とくに顔に大けがを負い意識不明の重体でした。しかし、貴女の母上は・・・、救急隊員が駆けつけたときには、もうすでに・・・・」

 

 男性は言葉を濁したが、それでも私はすべてを理解した。

       

          *          *

 

 私はベッドに座り、病室の窓に映る包帯に覆われた自分の顔にうつろな視線を投げかけていた。私が意識を取り戻してから2週間、母親の死を聞かされて以来私は抜け殻同然だった。医者や看護婦は私の様子を見るに付け、気をしっかり持てとか、頑張ってなど度励ましの言葉をかけてくれるのだが、今の私にはそんな言葉など何の意味も持たなかった。 母親の死を知ったときも、そしてこの病院にいる間も私は一度たりとも涙を流したことはなかった。哀しくはなかった。すでに絶望が、私の中の人間的なもの、涙も感情もなにもかもすべてを奪い去っていった後では、ただ母親の死という現実があるのみだった。空っぽの心の中に果てしなく底の見えない黒い海が横たわっている、そんな感じだった。私は母親を愛していた。彼女だけが私のなかで暖かさを持っていた。母親は、私の周りの人間誰もが私を嫌い、嘲り、避けるなかで、ただ一人私を愛し、慈しみ、受け入れてくれた。そんな彼女がいたからこそ、私はこれまで生きてこれたのだ。彼女がいなくなった今、私には生きる意味も自信もない。自ら死を選ぶという選択肢もあったが、必死になって助けてくれた医者に悪い気がしたし、なによりも死ぬ気力さえ残ってはいなかった。生きることも死ぬこともできない私は、一緒に連れていってくれなかった母親を少し恨めしく思いながら、ただ窓に映る自分を眺め続けた。

 ふと医者の語った母親の最期を思い浮かべる。彼女の死の様子を細かく喋るのを渋る医者にせがんで聞き出した彼女の最期は、美しかった彼女にはふさわしくないものだった。事故の際フロントガラスに強烈に打ち付けられた彼女の顔は、ぐしゃぐしゃに潰れ美しい容貌のかけらさえ残してはいない有様だったらしい。彼女の死そのものよりも、彼女の美しい相貌が損なわれたことが残念に思えた。死は免れなかったとしても、せめてその美しさだけは残しておきたかった、今は包帯に覆われた醜い自分の顔に手を当てながら、そんなことをとりとめもなく思い続けた。

 

          *           *

 

 ・・・その中に彼女は存在した。私の入院生活も1ヶ月にさしかかろうとしたとき、私は彼女に出会った。

 いつものように窓に映る自分を眺めていた私に、顔なじみになった看護婦が語りかけてきた。

 

「そろそろ顔の包帯もとれるって先生が言ってたわよ。よかったね」

 

 自分のことのように喜ぶ看護婦の声は確かに私に届いてはいたけれども、私はなにも答えはしなかった。いかにも人の良さそうなその中年の女性は、そんな私の様子に気を悪くした素振りも見せずに言葉を続けた。

 

「運び込まれてきたときは、どうなることかと思ったけど順調に回復してるみたいだし、それにね、たぶん顔に傷は残らないだろうって。安心したわ、私と違ってまだまだ若いアスカちゃんにはたとえ小さな傷でも大事だからね」

 

 何の邪気もない看護婦の言葉だったが、私には皮肉に聞こえた。おそらく彼女はこの包帯の下にある顔を知らないのだろう。傷が在ろうがなかろうが、たいして変わりのない醜い顔を。私だって女だ、顔に傷が残るよりは残らない方がいい。けれども、いまさらこの顔に傷ができたからと言ってそれが何だろう。どうせ誰からも愛されることのない顔だ、傷の1つや2つ在ったほうがかえってせいせいするかもしれない。そんな自虐めいた考えを心の中で呟いて、それでもこの親切な女性に失礼のないように言葉を返した。

 

「そうですね。安心しました」

 

 そんな私に微笑みかけてその看護婦は、たぶん明日には先生が診察すると思うから、と一言残して部屋を後にした。

 

「明日か・・・」

 

 窓に映る包帯だらけの顔にそう呟いて、また明日から醜い顔とつきあっていかなければならないことを思い、気を重くした。

 

 そして次の日、看護婦の言葉通り医者がやってきて私の顔の包帯をとると告げた。私は気が進まなかったが、とくに反対する理由も浮かばなかったので、渋々その言葉に従うより仕方がなかった。シュル、シュルと解かれていく包帯の音に私の心はまるで鉛のように重くなっていった。実に1ヶ月ぶりに外気に触れた私の顔をのぞき込む医者の目をまともに見返せず私の目線は部屋中を頼りなくさまよっていた。

 

「うん、傷は残ってないようだね。どうだい、煩わしい包帯をとった気分は」

 

 そういってから医者は、手鏡を取り出して私に渡した。周りに感づかれないように小さくため息をついてから、私は恐る恐るその手鏡に自分の顔を映した。そして、その中の顔を見た。鏡を見つめたまま微動だにしない私の様子を怪訝に思ったのか、医者は言葉を続けた。

 

「何しろ、ひどく顔に傷を負っていたからね。できる限りのことはしたんだが・・・」

 

 私の様子を見て心配でもしたのか、幾分いいわけめいた台詞だったが、私は生憎と聞きはしていなかった。反応を返さない私に医者だけでなく、看護婦も何か声をかけてきたが、よくは聞き取れなかった。

 

「これが、私・・・?」

 

 かすれた声で一言そう呟いた私は、しかし、その視線を鏡の中に固定し続けた。その中にあった顔は、私が長年見続けた顔であったが、その顔は醜くはなかった。鏡に映るその顔は、私を愛し、私が愛した母親の顔そのものだった。年相応に若やいでいたが、その目も鼻も口もすべて母親のものと寸部の差もなかった。美の象徴として私が崇拝し、そして羨望に駆られていたその顔が鏡の中から私を見つめている。

 

「ママ・・・・」

 

 母親の命と美貌との引き替えに、私が手にすることはないと思いつつも、求めてやまなかったものを受け取った私の呟きは困惑に満ちたものだった。

 

 醜いアヒルの子は、白鳥になった・・・。

 

                              続く   

 



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