静かな朝。

 

 少年は甘い微睡の中からゆっくりと戻ってくる。粘性を増した水が纏はり付く

感覚。振り払うようにして身を起こす。

 眠い目を擦りながら見た時計の針は、六時四十五分を指していた。アラームを

セットしてある時間まで後少し。予定時間より早く目覚めてしまった自分に、思

わず少年は苦笑する。

 アラームを解除してベッドから離れた。

 今日は彼の誕生日。そして――。

 

 インターホーンが優しい音色を奏でた。

 

「おはよう、……シンジ」

「おはよう、レイ。――入って」

 

 待ち人は七時。――約束どおりの時間に訪ねてきたのだった。

 

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        緑の街の物語 《Green-town's chronicle》

 

           第三話  祝福  -2016.6-

 

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「え? それじゃあ、五分近く待ってたの?」

「うん」

 こくりとレイは頷いた。

「別に少しくらい早くても良かったのに……」

「……約束だから」

 真顔で言うレイに、シンジは返す言葉が見つからなかった。

「朝食、用意するわ」

 用意してきたエプロンを、制服の上から着けながらレイは言った。

「う、うん。材料は冷蔵庫に入っているから。……ちょっと外の空気を吸ってく

るよ」

 何となく落ち着かず外に飛び出した。昨日、レイがいきなり朝食を作りに来る

と言ってから、ずっとそわそわしていたシンジであった。

 

「ふう……」

 深呼吸すると、爽やかな朝の大気が身体の隅々まで染み込むような気がした。

世界は再び、あの灼熱の季節を迎えようとしている。朝の大気が日増しに温み――

本当の夏がやってくる。

「今日から十五歳……なんか、実感わかないや」

 呟きながら思い切り背伸びをした。

 その時、電話の呼び出し音が、開け放したままのドアの向こうから聞こえた。

 

 レイは一瞬ためらった後、冷蔵庫から取りだしたハムと卵を流し板の上に置き、

電話を取った。

「はい、あ……碇です。――はい。そうです、レイです。……いえ――はい……」

 部屋に戻ってきたシンジは、怪訝な顔をした。レイがコードレスホンを片手に

楽しげに話している。

「……ねぇ、誰?」

 耳打ちして訊いてきたシンジに、不思議な視線と笑みを投げかけ、レイはくる

りと背を向けた。

「え? そうです。傍にいます……ええ、――……はい……」

 幸せが形をとったとしか思えない笑みが浮かんだ。

 尚も覗き込むシンジを避けるようにレイは逃げた。くすくすと笑いながら。

「――はい、それじゃ替わります――シンジ……」

 さんざん逃げ回られた所為で、少し不機嫌な顔になったシンジに、

「“お母さん”から」

 と悪戯っぽい瞳で応えながらレイは言った。

「母さんから?!」

 慌てて電話を受け取る。

「――もしもし。あ、うん、おはよう。え……あ、ありがとう……父さんからも?

うん、実感わかないけど……え? ち、違うよ! そんなんじゃないって!」

 心なしか赤くなった顔でシンジは応対していた。その背中にそっと手が伸ばさ

れる。

「え、いや……だから――うひゃ!」

 腋を擽られ、シンジは思わず叫んだ。

「ちょ、ちょっと、レイ! ――え、な、何でもないよ!」

 赤くなったり青くなったりしながら話すシンジに追い打ちをかけるように、レ

イは擽って邪魔をした。

「――うん、来週にでも行くから――うわっ! ――な、何でもないって! う

ん、じゃ、じゃあ、ありがと、……母さん……」

 

 ピッ。――乾いた電子音と共に電話は切られた。

「レイー……」

 後ろを振り返ると、シンジは恨めしげな声を上げた。微かに無邪気な笑みを浮

かべたまま、エプロン姿のレイは数歩あとずさる。

      

「……」

 シンジは無言で手を伸ばす。軽いステップでレイはその手から逃れた。

 むきになったシンジは、レイを掴まえようと更に歩を進めた。

 

 

「でも、やっぱり邪魔しちゃ悪いわよ」

「邪魔なんかじゃないわよ。親友を心底心配しての事なんだから!」

 アスカとヒカリは並んで歩きつつ、シンジの家に向かっていた。

「ヒカリは知らないからそうやってニコニコしてられるの。大体、あの莫迦、ぼ

ーっとしてる割には、エッチなんだからね!」

 鞄を持つ手を肩にやりながらアスカは言った。

「考えすぎよぉ。……でも彼女に“こころ”を送りたいから何かないかって訊か

れた時はびっくりしたけど」

「そーいう意味じゃ、ヒカリの選択は正しいと思うわよ。でもねぇ――」

「で、アスカは誰に食べさせたいから、おばあちゃんにお料理習っているのかな

ー? まさか碇君? だーめよぉ、横恋慕は」

 にこやかにヒカリが突っ込む。

「ば、ば、ば、莫迦言わないでよ。だーれがあいつなんかに惚れるもんですか!」

 顔を真っ赤にしながらアスカは抗議した。

「ふーん……アスカ素直じゃないもんねぇ」

 アスカから視線を外し、更にからかうようにヒカリは言った。

「あのねー」

「……ほんとにそんなこと無いのね?」

 やや落とした声で、先程とは打って変わった真面目な表情でヒカリは訊いた。

「無いわ! 断言するわよ!」

「そう? ……良かった。じゃあ、せーだいにからかってやろっと」

「何ですってぇ?」

「べーつにー」

 アスカは黙り込んだ。こうなるとヒカリのペースである。何を言っても軽く受

け流されてしまうのは目に見えている。

「……そりゃ、ヒカリは“愛しの鈴原君”に毎日お弁当作って上げているもんね

ー」

 敵わぬと見たアスカは、話題を変えることにした。

「やだ、もう、アスカったらぁ!!」

 

 ばん!!

 

 ヒカリの右手がアスカの背中を思い切り叩いた。

「げほっ――ヒカリィ!」

「あは、は。――ごめんっ!」

 両手を合わせ、苦笑いを浮かべ謝るヒカリを見てアスカは思った。

 ――とほほ。当てられちゃうわねー。

 

「あら、扉、あいてるわよ」

「どうしたのかしら? おはよー莫迦シンジ!」

「掴まえたっ!」

 その声は扉の向こうから聞こえた。

 

「え?」

 四人の声が揃う。

 アスカとヒカリの眼前には、後ろから抱きつくように、レイの両肩を掴んだシ

ンジの姿があった。

 時が一瞬、その動きを止めた。

「……不潔よぉ!」

 静寂を破る第一声はヒカリの叫びだった。

 

 

 放課後。

 傾き始めた陽の光が、歩道に六つの影を焼き付けている。

「ほら、速く歩かないと、お料理作るのが遅れるじゃない!」

 先頭を歩くアスカが振り返って怒鳴った。

「何で、ぼくの誕生パーティーなのに、こき使われるんだろ……」

 最後尾。材料を抱えたシンジがぼやく。

「ほら、歩いた歩いた」

 アスカの叱咤が返ってきた。くるりと背を向けると早足で歩き出す。

「なんか今日は荒れとるなぁ」

 アスカから離れること数メートル。隣を歩くケンスケに、トウジがそっと耳打

ちした。

「何かあったんじゃないー。にしても腹減ったなぁ」

「そやなぁ」

 食い気優先の二人の後ろを、にこにこ顔のヒカリが付いて歩いていた。

 

「アスカ、何怒ってるのかしら?」

 レイは隣を歩くシンジに訊いた。

「やっぱり、朝のことでしょ」

 シンジの隣からヒカリが割って入った。

「問題有るの?」

 小首を傾げ、レイはヒカリを見つめた。

「二人の仲がいいから……寂しいんだと思う……」

「ほらー! 何、もたもたしてんのよ!!」

 遠くからアスカの怒鳴り声が飛んでくる。

「ほんと御機嫌斜めだな」

「……」

「急ぎましょ」

 ヒカリに促され、シンジ達は駆け足気味に歩き出した。

 

 

「ほんとにいいの?」

 材料を手渡しながらシンジは訊いた。

「あんたは、いいの! ――ヒカリごめん、ちょっとだけ手伝ってくれる?」

「いいわよ。じゃあね、碇君。アスカの心のこもったお料理楽しみにね」

「ヒーカーリィー! 変なこと言わないでよっ!」

 エプロン姿のアスカが叫ぶ。心なしか頬が赤い。

「あはは。――用意が出来たら呼ぶから」

 ほほえみを残してヒカリは台所へと消えていった。

 

「暇やな……」

「平和だねぇ」

「……甘い香りがする」

「おばあちゃんがケーキ焼いてるんだ」

 およそ三十分が経過していた。

 公民館の椅子に四人は暇そうに座っていた。台所からは、時折、サトコの高ら

かな笑い声、アスカの悲鳴にも似た声、なだめるようなヒカリの笑い声が混ざり

合いながら聞こえてくる。

 誰一人この場を去ろうとしないのは、その声を聞いていたかったからかも知れ

ない。

 

 

「誕生日、おめでとーーー!!!」

「ありがとう」

 声を揃えての大合唱にシンジは照れながら答えた。目の前のケーキには、ろう

そくの炎が十五本、踊っている。

「さっさと消してもらって、はやいところ食べようじゃないか」

 サトコが照明の光量を絞りつつ言った。

「おばあちゃん、それって身も蓋もないわ。――あ、でも早く消してね。碇君」

 それこそ身も蓋もないヒカリの言葉にシンジは苦笑する。

「判ってる? 唾とばさないでよ」

 シンジはアスカの台詞にやれやれと思いつつ――座っているレイを見た。レイ

はシンジに微笑み返した後、不意に瞳を曇らせると、視線をテーブルの上へと落

とした。

 隣に座っているアスカも、レイの様子に気付く。

「どうしたの? あんたの誕生パーティーなら今度……あ……ごめん――」

 アスカは表情を曇らせると黙り込んだ。

「いいの」

 微かに首を振った後、俯いたままレイは答えた。

 トウジ達も思い当たる節があるのか口を閉ざす。

「どうしたんだい?」

 呆然と立ち竦むシンジの傍にサトコがやってきて訊いた。

「彼女――正確な誕生日が判らないんです――記録が無くて……」

 錐で突かれたような痛みがシンジの胸中を走っていた。

「ああ……そういう事かい……」

 サトコは頬に指を当て暫く黙った。これまで生きてきた人生の重みを感じさせ

る険しい表情が、数秒、垣間見えた。

「なら、決めてしまえばいいさ。誕生日なんて物は年に一度、この世に生まれた

ことを祝う日なだけなんだから――今日なんかどうだい?」

 その言葉にレイはゆっくりと顔を上げた。見渡した全員の瞳に優しい色が浮か

んでいる。シンジは視線が合うと、微笑んで見せた。

「おいでよ、――レイ」

 甘く優しい響きを伴った声。

 数秒の沈黙の後、レイは軽く頷くと、立ち上がりシンジの傍に歩いていった。

「じゃあ仕切直し。二人で上手に火を消しておくれよ」

 踊るように揺れる、十五本のろうそくの炎。

 その淡い明かりに照らされながら、シンジとレイは顔を見合わせた。

「せーの」

 シンジの掛け声と共に、ろうそくの火はきれいに消えた。

 

「おめでとー!」

 拍手と、クラッカーの音と共にパーティーは始まった。

 照明が元に戻される。

「はい」

 胸が締めつけられるような不思議な感情に浸っているレイに、シンジから白い

ハンカチが手渡された。

「? ……あ」

 初めて、レイは涙が頬を伝っているのに気がついた。

 ――嬉しくて、涙が出ること……あるのね……。

 鳴り止まない拍手の中、肩に添えられた掌の暖かさを感じながら、レイは席へ

と歩いていた。欲しかったのは誕生日ではなく、祝ってくれる人々。それに応え

るレイに顔には、しぜんと笑みが浮かび上がっていた。

 

「よっしゃー、喰うでぇ! 鳥唐揚げっと」

「それ、あたしが作ったんだからね。落っことしたりしないでよっ!」

 無造作に小皿に取っていくトウジを見つけ、アスカが言った。

「ふぇいふぇい……ん、前より腕、上がったんちゃうか?」

 料理を頬張りながらトウジが言った。

「あ、ほんとだ。大成功みたいよ、アスカ」

「いいんちょーはどれ作ったの?」

 こっそりとカメラの用意をしながらケンスケが訊く。

「ん、わたし? タコさんウインナーとサラダ」

「え? それじゃ殆どアスカが作ったんだ」

「そおよ。何か文句ある?」

 意外そうな声を上げたシンジを睨みながら、アスカが食ってかかった。

「いや、その……向こうにいた時は全然何もしなかったし……」

「ば、莫迦! そんな昔のこと言わないでよっ! 男らしくないわよっ!」

「昔って……一年も経ってないじゃないか」

「一日前でも昔は昔よっ!」

「ほっほっほ。これこれ、喧嘩は止めなさい」

 サトコが仲裁に入ってきた。アスカの肩を包むように掌を置く。

「だってぇ、おばあちゃん……」

 頬を紅潮させ、アスカは甘えるように言った。

「いいじゃないか……。過去は変えられない。でも未来は自分次第で変えること

が出来る。……いいね」

 サトコはそう言いながらアスカの肩をぽんぽんと叩いた。アスカはこくりと頷

く。

「……食べて」

 料理を小皿に取り、シンジの前に突き出すようにしながらアスカが言った。

「う、うん……」

 挑むような感じさえある、アスカの真剣な眼差しを受け止めながらシンジは料

理を口に運んだ。

「どう?」

「……うん、おいしいよ」

 その言葉に、ぱっと顔をほころばせたのも束の間、すぐに取り澄ますと、

「わかればよろしい」

 と言った。

「……あはは」

「……うふふ」

 同時に笑い出す二人。さざ波のように、笑い声は部屋に満ちていく。

「……変わるもんやのぉ」

「惣流のこと?」

 トウジの独り言とも思える台詞にケンスケが答える。

「おぉ。前は、なんか張りつめてた感じやったんが、えろう柔らかなりよった」

「それ言い出したらさ。ほら」

 ケンスケが軽く顎で示した先には、穏やかな表情で歓談しているレイの姿があ

った。

「……ほんま、変わるもんやなぁ……」

 と言って自分の小皿を見下ろした後、トウジは暫く固まった。

 いつの間にか、皿の上に、タコさんウインナーが山と積まれている。

「ヒ、ヒカリィ……」

 と少々間の抜けたようなトウジの声を背中で聞きながら、ヒカリは肩を震わせ

笑いを堪えていた。

「見事な攻撃だなぁ」

 眼鏡を直しながらケンスケが唸る。

 

「さぁさぁ。ケーキを切ってきたから、これも食べようねぇ」

「あ、おばあちゃん。それ待ってたの。アスカお皿取って、取って」

「はいはい。ヒカリって甘党だもんね」

「あら、わたしだけ?」

「あたしもー……いちご、いちごっと」

「あー、アスカずるーーい! いちごの所、独り占めしないでよー!」

「やーよぉ。今朝、あたしをからかった、罰ーー」

 べーっと舌を出すアスカ。

 燥ぎ回るアスカとヒカリを見て、トウジがぼそりと言った。

「なんで、ケーキであれだけ盛り上がれるんや……?」

 

 

 時計の針が八時を回る頃、パーティーはお開きとなった。

「ほんとにいいの?」

「うん、後はあたし一人でやるわ」

「……じゃ、またあした」

「うん」

「……」

 鼻歌混じりで洗い物をするアスカの背を、ヒカリは何か言いたげな表情で一瞬

見つめたが、――結局何も言わず去っていった。

 

 暫くして、ドアの開く音と、人の近づく気配がした。

「――アスカ」

 敷居の所に、レイが飄然と立っていた。

「……レイ、どうしたの? あ、手伝わなくてもいいわよ。今日はあたし一人で

やるって決めてるんだから」

 レイは無言のままアスカを見ている。

「……? ほんとにどうしたの?」

 柔らかな笑みを湛えながらアスカは言った。レイは数秒の間をおいて、

「……今日、どうして怒っていたの?」

 と訊いた。

「――ああ、あれ?」

 照れくさそうにアスカが答える。

「ちょっと……寂しかったのかも……ね。なんだか大事な……大事な兄弟を取ら

れた感じかな……」

「アスカ……」

「……変なふうに取らないでね。あいつにもあんたにも気兼ねさせたくないし、……

そうだ、ハムエッグスは上手くできた?」

「……ええ、何とか」

「シンジ、何か言ってた?」

「『おいしい』って」

「そう……」

「あした……」

「え?」

「あした、作ってあげる」

「えええ?」

 いきなりのレイの申し入れにアスカは戸惑いの声を上げた。

「七時に行くわ。……じゃ、おやすみ」

「あ、おやすみ……」

 暫くして、呆然としていたアスカの耳に、扉の閉まる音が届く。

 アスカは先程のレイの申し入れに返答していないことに気付いた。

「ま、いっか」

 アスカは片づけを再開した。洗い終えた食器が次第に山と積まれていく。

 数分して鼻歌混じりに動かしていた手が止まった。しなやかな指が、電灯のス

イッチを切り、台所は闇に包まれる。居間から射し込む薄明かりだけが、アスカ

の口元までを朧げに照らした。

「……きょうだい……か」

 呟きを洩らした唇は、微笑んでいるかのようにも見えた。

 

 

 朝。

 白く優しい指先がインターホーンのスイッチを押す。

 少女の足下には、一輪のたんぽぽの花が、風に揺れていた。

 

 

                第三話 完          (→第四話へ)

 

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 後書きです。

 

 今回主役が曖昧な気がする。

 

 なんだか、食べる話が続く(爆汗)。

 前から暖めていた誕生日ネタです。時に2016.6.6……。(汗)

 

 たんぽぽ(dandelion)って好きなんですよね。

 有り触れているから、気付かない物ってあると思いますが、野に咲く一輪の花

に凄烈な物を感じたりすることもあります。

 ユーミンの唄にもあったな。

 

 三人娘の中では、やはり、ヒカリがお姉さんですね。レイはやっと感情が判り

かけているような感触だし。

 アスカ、このお話の中では一番かわいいかも……。

 

 

 ではでは。

 

 

コースケ

 

第二版 1997年10月 4日



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