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         曙光――Silent scream
                     〜比翼の鳥〜

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(一)序曲――IRON MAIDEN

 夜。
 昼間の喧騒とは打って変わって静寂のみが漂う部屋。
 窓の外には息衝くかのように緩やかに星が瞬いている。
 星。
 十七番目のタロットカード。
 希望。
 フィフスチルドレンが、わたしたちに見いだしたもの。
 わたしと………………碇君。
 痛い。
 心が……痛い。
 ……何故?
 何故?!
 自分の身体を抱きしめる。思い切り。
 ここに一人でいること。
 碇君がわたしを避けていること。
 思う度に心が軋む。
 何故……?
 窓から差し込む月の光。
 ベッドから身を起こし冷光を浴びる。
 ぬるりとした感触。
 月光に照らされた指先にどす黒く映る血糊。
 煌めきを残しながら落ちる銀の滴。
「……碇君……」
 見上げた先。水の中で揺らいでいるように見える月。
 月。
 十八番目のカード。
 敵、偽りの友人……。



(二)十二使徒――SOUTH OF HEAVEN

《碇、判っておろうな》
「何のことですかな?」
 紫黒(シコク)の石版の立ち並ぶ中、静かな問いと答えが交わされた。
 ゼーレの査問会にゲンドウは招喚されていた。冷徹な顔からは表情は読みとれ
ない。
《我々は我らが僕(シモベ)としてのエヴァを完成させたよ》
 耳に触る甲高い声。
《今こそ、我らが“神”を返して貰うぞ》
「神……あれが神か。おめでたいものだな」
 揶揄を含んだゲンドウの声が返る。
《それはゼーレに対する侮辱だぞ》
 石版に怒りの色が見えた。
《最後通告だ。碇、お前を背信者として処分する。――以上だ》
 立体映像が消え、闇に覆われる部屋。

《――あなた……》
 声が聞こえた。ゲンドウの前には、水面に映る影のようにゆらゆらと揺れるユ
イが浮かんでいた。
「ユイか……もうすぐだよ。もうすぐ全て終わる」
 薄笑いを浮かべ、ゲンドウは言った。ユイはその端整な顔に悲哀の色を浮かべ
る。
「何故そんな顔をする? シンジにも間もなく逢えるのだぞ」
《人の形を失って……ですか? ……何故、今、生きているあの子を愛してやれ
ないのですか。あの子は、あの子は一人で……》
「愛する者を失って辛い思いをするよりはいい」
《あなた……》
 微かに震えの走るその声に、沈痛な面持ちで答えるユイ。
「ゼーレの老人共は生き神になるつもりらしいが……切り札は私の手にある……。
アダムの“想い”である使徒は全て滅びた。残ったのは無に帰す心だけだ」
《その為にあの娘を送り出したわけではないのよ》
 ユイの頬を一筋の煌めきが伝う。
「何故泣く? 私には――これしかないのだ」
《神様が黙っていないわ……》
 不意に、ユイは闇に溶けるように消えた。
 再び闇の中にただ一人、男は取り残された。いや、初めからこの部屋には彼以
外いなかったのだろう。
「……ならば私は喜んで神を殺そう」
 狂気の色を孕んだ瞳で、ゲンドウはにやりと笑った。

「シンジ君……ちょっち出かけてくるから」
 返事はない。
 あの日以来、シンジは部屋に引きこもり、夢と現の境を彷徨っていた。
 食事を与えれば半ば機械的に食べるが、話しかけても殆ど反応がない。
 余りにも遠い心の距離。
 それが辛くて、話しかけるのに躊躇する。
 過去の自分を見ているようで。

 言い様のない思いをいだきながら、ミサトは愛車のアクセルを踏み込む。
 両脇に見える景色が飴のように溶けて流れた。

 丘の上公園展望台。
「え? シンジ君のクラスメイトが失踪?」
「ええ、もう一週間前になりますが……」
 欄干に身を凭れさせながら話すミサトとマコト。緋色に染め上げられたアスフ
ァルトの上を長い影が這う。
「リツコはフィフスチルドレンが最後の使徒だって言っていたけど、ネルフはま
だ使徒に対する警戒態勢を解いていない……まさか!?」
「例のゼーレとかいう連中と、建造中のエヴァ……ですか」
 凄まじい戦慄がミサトとマコトを襲った。
 沈黙の時間が緩やかに過ぎていく。
「まるで血の色ね」
 壊滅した第三新東京市に出来た水面に映る夕日を見つめつつ、ミサトはふと呟
いた。
 期せずしてその言葉は彼女の愛した男の発したものと同じであった。
 ミサトの心中を影が過り、瞳に険しい光が宿る。
 その表情を横目で見つめていたマコトは瞼を閉じると俯いた。
 暗澹(アンタン)とした大気は死の香りを纏わせつつ流れていく。

 闇だ。
 シンジは思った。
 自分の周りを泥濘(デイネイ)のような闇が包んでいる。
[――また繰り返されるのか。夢の中で]
 シンジは周りの闇が更に濃くなったことを感じた。
 映像が浮かび上がる。
 あの日。
 あの時。
 自らが握りつぶした友のことを。
 自分を好きだと言ってくれた友のことを。
 指先に残る――肉が裂け、骨の砕ける感触。滴り落ちる血潮。
 何故殺した?
[ぼくが死ぬべきだったんだ]
 カヲルの最後の笑顔がシンジの心に去来する。
[でもカヲル君が自分を殺せって言ったんだ]
(彼の所為にするんだね)
 もう一人のシンジが言う。
[違う、彼を殺さないと人類が滅びるんだ。彼は使徒だったんだ。使徒は敵なん
だ。みんなが斃せって言うから]
(今度は他人の所為にするの?)
[違う……ぼくは……ぼくは……]
(どうしたかったの?)

 シンジは目を覚ました。
 ねっとりとした汗が寝間着に染み込んでいる。
 目覚まし時計は十七時を指していた。昼夜の区別が付かなくなってどのくらい
経ったのか。窓の無いこの部屋に時間はない。
 シンジは身体を起こしベッドに腰掛けた。
「怖かったんだ……」
 頭を抱え、シンジは悪夢の中の問いに答えるかのように呟いた。
「一人になることが怖かったんだ。人を好きになって裏切られることも、好きに
なった人が死んでしまうことも。――母さんの時のように!」
 一つ、二つと涙が落ちた。
 何度も繰り返した言葉。
 常識。道徳。正義。
 綺麗事で飾られた思念の漆黒の海の中。
 陽炎のような揺らぎ。
 鈍い光。
 闇は赤く染め上げられていく。
 赤い海。
 血の匂い。
 その中から浮かび上がる言葉。
「……ぼくは、ぼくは……死にたくなかったんだ……」
 頭から手を離し見つめる。
 血に塗れたエヴァの掌(テノヒラ)に自分の掌が重なった。
 その手を力の限り握りしめる。

「もう、逃げないよ。……自分から」
 長い沈黙の後、放たれたその言葉は床に当たって砕けた。


<つづく>


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