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         曙光――Silent scream
                     〜比翼の鳥〜

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(三)VICE――FEAR OF THE DARK

 十九番目のカード。
 太陽――幸福。

 ミサトとマコトが展望台にいた頃、シンジはレイの住む団地を訪れていた。気
怠い大気の温もりが緩やかな流れとなり頬を撫でていく。
 日は既に沈み、紺碧へと空は装いを変えつつあった。
 鉛色の雲が重々しく街へと覆い被さっていく。

 深呼吸した後、シンジはレイの部屋のドアをノックした。
「……綾波、入るよ」
「待って」
 暫くして鍵の外れる音がして、開いたドアの向こうに、懐かしくさえ思えるレ
イの顔があった。
「どうぞ」
「うん」
 入ってすぐシンジは違和感を感じた。何気なしにきょろきょろと見回してしま
う。
「掃除、したの」
 シンジの様子に気付いたのか、背中を向けたままのレイが言った。
「あ、そういえば……」
 剥き出しだった床には白いカーペットが敷かれ、部屋のあちこちもどことなく
暖かみが感じられた。
 それは以前にはなかったもの――人の住む“匂い”であった。
「変?」
 肩越しに振り返ったレイが訊いた。
「え? いや、そんなこと無いよ。何か雰囲気変わっていたから……じろじろ見
てごめん」
「いいの。碇君になら……」
 レイはまた向こうを向いてしまう。
「……? ……綾波、腕の包帯どうしたの?」
 シンジはレイの左右の二の腕に巻かれている包帯に初めて気が付いた。
「……指で……」
「指?」
 レイは包帯を隠すかのように手で覆う。
 それっきり黙り込んだレイの前にシンジは回り込んだ。
 ――泣いている?!
「綾……波……?」
「判らないの」
 レイは顔を上げた。
 止めどなく涙を流すレイの表情は、まるで捨てられた子犬のように見えた。
 そこには壊れ行く者が持つ、一種悲壮な美しさがあった。
「碇君が……わたしを……避けていて……わたし……この部屋で一人で居て、わ
たし、わたし!」
 次第に狂乱の度を強めるレイ。自らの二の腕を掴んだ指が食い込み、包帯が朱
に染まっていく。
「あ、綾波!」
 シンジはレイの腕を掴みその行為を止めさせようとした。だが渾身の力を込め
ているらしく、無理に引き離そうとすれば更に傷を深くさせかねなかった。
「綾波! ぼくは、ここに居るんだ! 今、ここに居るんだよ!!」
 シンジは叫ぶように言った。不意にレイの指から力が抜ける。シンジはレイの
指先をゆっくりと引き離した。
「手当、しないと」
 安堵の面持ちで見つめるシンジに、レイは無言で頷いた。

 レイの傷は深くはなかったが、何度も同じ事を行ったらしく、素人目にも酷い
状態だった。シンジは取り合えず化膿止めを塗って、包帯を巻くことしかできな
かった。
「病院行ってないの?」
 シンジはベッドの上に腰掛けているレイの右隣に腰を下ろしながら訊いた。
「うん」
「駄目だよ、酷くなるし」
「行きたくないの」
 その訳は容易に想像できた。
「明日一緒に行こう。それならいいだろ?」
「……うん」
 シンジは胸を撫で下ろした。
 一瞬の静寂。
「見た?」
 唐突にその質問は放たれた。シンジの脳裏に浮かぶ無数のレイの姿をしたモノ。
「うん」
 簡潔なシンジの答えに、レイは再び自分を傷つけようとする。
 立ち上がったシンジは、その手を取り自分の左腕を掴ませた。掌を重ねながら。
「碇君……」
 レイはシンジを見上げる。
「あれはリツコさんが壊してしまったよ」
 シンジはレイの指が食い込む痛みを感じながら言った。
「わたし……」
「上手く……言えないけど……綾波は綾波なんだ…………他の誰でもない…………
存在なんだ」
「でも、わたしが死んでも代わりは……」
 震え、食い込む指。
「誰も代わりにはならないよ」
 動揺の所為か思考の纏まらないレイに、シンジはゆっくりと労るように言葉を
重ねていく。
「何を言っていいか判らなかったけど、綾波と話がしたかったんだ。……これま
で避けていたから……」
「わたしも……逃げていた」
「…………」
「人と話すのが怖かった。人を傷つけてしまうのが怖かった。だから何も話さな
かった」
「……優しいんだ」
「違う! 狡いだけ。本当は自分が傷付きたくなかっただけ……そんな自分を認
めたくなかっただけ。誰かを……誰かを傷つけてしまう自分がいそうで……」
 レイはシンジの胸に頭を預け、再び泣き始めた。
 次第に指先から力が抜けていく。
 ――非力だ。
 シンジは慟哭するレイの身体を支えてやることしかできない自分に言った。
 科学という名の神と、闇の狭間に生まれた私生児。
 心を持っている。
 傷付いた心を。
 今、自分の腕の中で震えている。
 自分とどこが違う?
 何も違わない。
 己の内から出てきた答えをシンジは肯定した。

「これで、いい?」
「うん、ありがとう」
 シンジの左腕には包帯が巻かれていた。
「ごめんなさい、わたし」
「構わないよ……、そろそろ帰らなきゃ……綾波?」
 立ち上がりかけたシンジのシャツをレイが握りしめていた。
「……雨、降っているから」
 俯いたまま話す、寂しげな声。
 窓には銀糸の跡が幾本も付いていた。次第にその数が増えていく。
 程なく道路を洗う音のみが静寂に取って代わった。

「レイの所……か」
 帰宅したミサトは、テーブルの上に在ったメモを見て呟いた。
 電話に手を伸ばし、やめる。
「雨……」
 テーブルの上、コンビニで買ってきた弁当の袋が微かな音を立てた。

 雨はまだ止まない。
 カーペットの上に敷かれたやや厚手のマット。
 並べたプリントの上に置かれた缶詰、ペットボトル入りの水。
 飯事のような食事。
 囁くような雨音が聞こえる部屋で、ぽつりぽつりと取り留めのない話を二人は
交わした。
 時計の針が夜中の二時を回る頃、シンジとレイはマットの上に微睡(マドロ)みつ
つ寝転んでいた。
「何か……小学校の修学旅行みたいだな」
 薄暗い天井を見ながらシンジが言う。
「……修学旅行?」
「うん、みんなで雑魚寝して……枕投げとかして……」
「そう……なの」
「……先生が回ってくるとさ、寝た振りしたりとか……」
「わたし、そんな思い出、ない……」
 重ねられるレイの手。
「……ごめん」
 シンジもそっと握り返す。
「……いいの。もっと聞かせて……」
 微睡みながらレイが言う。シンジは繋いだ手の温もりを感じながら、自分の中
の楽しかった思い出を紡ぎ、レイに聞かせていった。
 ――結構……楽しいこと有ったんだ……。
 漠然とした思いがシンジの胸を満たす。
 ――カヲル君と一緒に話した時も……。
 胸中の痛みの理由をシンジはしっかりと受け止めた。
 ――君の……遺言……って言っていたね。未来、……明日。

 雨はいつの間にか止んでいた。レイは隣で安らかな寝息を立てている。寄り添
った身体の暖かみが何故か懐かしく感じられた。
「月……」
 シンジは夜毎に姿を変える月を見ていた。
 少し痩せた月。冷たくそれでいて儚い光。
 不思議な安らぎだけがシンジを満たしていた。
 闇がシンジの意識を覆う。
 優しい闇の抱擁の中、シンジは久しぶりに心地よい眠りに落ちていった。

 窓から舞い降りた柔らかな光の口づけが、シンジの瞼に幾度と無く繰り返され
た。
「う……ん。ん?」
 目を覚ましたシンジが隣を見ると、レイが見つめていた。
「おはよう」
 心なしか優しげに微笑みながらレイは言った。
「お、おはよう。もう……起きていたの?」
「うん、碇君の寝顔見ていたの」
「え……や、やだなぁ」
 笑いながら赤面する。
「お、起きようか」
 急に恥ずかしくなりシンジは跳ね起きた。そう、意識さえしなかった――女の
子の部屋に泊まっていたことを――まるで自然に感じていたことを。
「ええ」
 レイはそんなシンジを見て、くすっと――笑った。



(四)神話――Indigo Waltz

【遥かなる過去。神と共にアダムは地球にやってきた】
【禁忌を犯したアダムは地上へと追放される。リリスと共に】
【アダムは神の船に似せて幾つか船を作り、リリスと二人で子供――人類を産む】

「ふう……、何これ?」
 モニターに現れた文字。
 彼が残したカプセルに入っていた情報の一つ。
 旧約聖書の異本?
 時計は既に夜の一時を回っている。時間が惜しい。
 アタシは再び続きを読み始めた――。

【やがて――気持ちの擦れ違う二人】
【別離】
【孤独に耐えきれないアダムは想いを込めイヴを生み出す】
【アダムを襲う……突然の、死】
【葬送】
【アダムの傍。後を追うようなイヴと、リリスの躯(ムクロ)】
【長い年月が過ぎ、暴かれるアダムの墓地】
【蘇るリリス、イヴ】
【リリスは激昂する】
【それを阻もうとするイヴ】
【死闘】

 次の行でアタシの手は震えた。

【セカンド・インパクト。終わりと始まり】

 どのくらいモニターを見つめていたのか判らない。
 十秒だったか、十分だったか……。
 気を取り直したアタシは急いで次の行を読む。

【飛び散ったイヴ――リリスへのアダムの想い……使徒】

 文章はここで終わっていた。
 何、何なのこれ?
 これがリツコの言っていた“無くした神様”?
 アタシは椅子に凭(モタ)れ思考を巡らす。
 地下のアダム……嘘ね、あれはリリス。
 使徒がアダムの想いならリリスに近づくはず。
 これが本当なら――救われないわね、アタシたち。
 喩えるなら、自分たちを産み出した神様宛の手紙を破り捨てたことになるのか
しら?
 闇の中、十字架に掛けられた白い巨躯……リリス。
 独りぼっちのリリス。
 生きてはいないアダムを待ち続けるリリス……。
「莫迦みたい」
 アタシは声に出して言った。思わず自分と重ねてしまったから。
 八年前――別れ際の記憶が何度も脳裏を過る。
 理由を問う彼に投げ返したアタシの言葉――それは、嘘。
『好きな人が出来た』
 ――嘘も繰り返せば本当になるさ。そう思えてくるものだ。
 ちょっと……人の頭の中に勝手に出てこないでよ。――相変わらず気障な言い
回し、無精髭。
 でも……そうね。
 だからもうアタシは貴方のこと――愛していたなんて言わない。言ってやらな
い。
 嘘じゃ……ないから。
 今でも愛しているから。
 アタシの手で必ず答えを出してみせる。
 あの日の真相と、自分の行き着く先を!

 ……………………雨は止んだみたい。
 あの莫迦、とうとうこの時間まで電話して来なかった。
 帰ってきたら……。
 帰って……きた……ら……。

 扉の開く音でミサトは目を覚ました。
 ――シンジ君?!
 時計は七時三十四分を指している。
「あー、もう最悪ー」
 自室で机に伏したまま一夜を明かしてしまったことに悪態を吐きながらも足は
玄関へと向かう。
 そして腕を組み、胸を張りダイニングキッチンにて、待つ。
 入ってきたシンジはぎょっとした表情になる。
 その反応に一瞬安堵の表情を浮かべた後、そのままコワイ作り笑いをする。
「――おかえり。シンちゃん」
「あ……た、ただいま……――ごめんなさい……!」
 シンジはいきなりミサトに抱きしめられた。
「――心配、してたんだからね」
 上擦りそうになる声を、ミサトは必死に押さえた。保護者としての立場もある。
それ以外に、己がシンジに依存している部分を見せたくなかった。
「ごめんなさい……ミサトさん……ぼく、もう大丈夫ですから……」
 それを聞いたミサトの顔に笑みが戻る。
「で、レイの所に泊まったわけー?」
 さっと身を離すと、一転してからかうように訊いた。
「え……いや、その……はい。――今、綾波も来てるんです」
 しどろもどろになりながらシンジは答える。ミサトの胸の暖かさが少し名残惜
しく思えた。
「ほぇ? あら、おはよう……レイ」
 ミサトはレイが立っていたのに初めて気付き、少し照れた笑みを浮かべる。
「おはよう……ございます」
 レイは逡巡するかのようにゆっくりと二人に近づいた。
 ミサトへの一瞥。
 初めて感情の籠る紅い瞳を見たミサトは少し動揺した。
「朝御飯にする?」
 それを押し隠すかのように明るい声で訊く。
「あ、じゃあ、ぼくが用意します。……何か材料あります……よね?」
「あはは! 食パンと卵と牛乳くらいしか無いの!」
 両手を顔の前で合わせミサトが笑う。
「……じゃ、トーストにします……」
 心なしかげんなりとしたシンジへ、ミサトは手を振り笑みを送った。シンジ用
の弁当は深夜のやけ食いで既に存在していなかった。

「――シンジ君」
「はい?」
 トーストと牛乳、目玉焼きのみの簡素な食事が終わった後、おもむろにミサト
は切り出した。
「アスカのこと……話しておくわ」
「……はい」
 悪い予感がしてシンジは身構えた。
「ずっと失踪中って言ってたけど――ホントは今、入院中なの……病室は三〇三
号、この間まで危ない状態だったんだけど……今はだいぶ持ち直してるわ」
「……そんな、どうして」
「医者の診断では精神的なもの、ということよ」
「…………」
 ビルの上。震える小さな背中を思い出し、シンジは俯き、黙り込んだ。レイは
いつものように静かに聞いている。
「教えるかどうか迷ったんだけど……今のシンジ君なら大丈夫かな……って思っ
て」
 ミサトは少し身を乗り出し、シンジの様子を窺った。
 一瞬、静寂が部屋を支配する。
「……見舞い、行ってみます」
 再び顔を上げたシンジの表情を見てミサトは微笑んだ。
「やっぱり、何か変わったわね。シンジ君」
「そう……ですか? そうかな? 綾波……」
 ミサトに言われ、どぎまぎしたシンジはレイに訊いてみた。
「碇君……暖かいの」
 そう言って俯いたレイは、右手で左腕の包帯をそっと押さえた。
 ――成る程。
 その微かな表情と仕草に、先程レイの瞳の中に揺らいだ感情の色の意味をミサ
トは理解した。


<つづく>


コースケさんの部屋に戻る

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