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         曙光――Silent scream
                     〜比翼の鳥〜

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(五)人形(ヒトガタ)――RAG DOLL

 ノックの音がしてドアが開く。
 少女は一日の始まりをその少年の訪れによって感じるようになっていた。
 少女はその少年を知っていた。
 だが名前は思い出せない。
 少年が自分の名前を言うが何故か聞き取れない。少年に関する記憶も、追いか
ければ霧のように曖昧にぼやけていく。
 少女はそれでも構わなかった。
 何故なら……今、自分のことを気に掛けてくれる存在であったから……。

「おはよう、アスカ」
 返事はない。いつものことだった。三日前、初めて面会を許された時とは違い、
瞳だけでも動かして自分を見てくれるようになったことを、シンジは嬉しく思っ
ていた。
 以前の彼女と比べると死んだような瞳ではあったが。
「ブドウ、買ってきたから……食べる?」
 微かに頭を動かしてアスカが答える。
「ちょっと待ってね、今剥いて上げるから」
 シンジは病室にある狭い台所で手際よくブドウを剥いていく。
「ベッド、起こすよ」
 モータの音が微かに鳴り、ベッドの上部が起きあがってくる。
 アスカの上半身に掛かっていた掛蒲団がずり落ち、白い半袖の寝間着から痛々
しいまでに痩せ細った腕が現れた。シンジは一瞬眉を顰める。
「ほら、アスカ。口、開けて」
 スプーンで小振りのブドウを一つ一つ口に運んでやる。
 アスカはゆっくりとブドウを噛み潰し咀嚼(ソシャク)した。
 気の遠くなるような作業。
 二十三粒のブドウをアスカが食べ終わるのに一時間ほど掛かった。
 シンジは医者の言った言葉を思い出していた――アスカはシンジの手からなら
物を食べる。
 ならば。
 シンジは食事だけでもアスカの世話をしようと思った。彼女の為に今の自分が
出来ることはこれしかないのだと。

 ぷつっ。
 噛み潰すと甘さが口の中に広がっていく。
 甘いだけじゃない。
 酸っぱさ。
 微かな苦み。
 これはあたし。
 あたしが嫌いだったあたし。
 自分を自分で飾り立てていたあたし――ショーウィンドウの人形のように。
 あたしはあたしを噛み潰し、飲み込んでいく。
 嬉しかったこと。
 寂しかったこと。
 悔しかったこと。
 楽しかったこと。
 思い出を一つ一つ噛み潰して飲み込んでいく。
 憧れていた人。
 憎んでいた人。
 愛して欲しかった人。
 気になっていた……人。
 ぷつっ。
 あたしの中のあたしがまた一人消えていく。
 今、安らぎを感じている。
 昨日もそうだった。
 明日も……。
 ……………………。
 言い様のない不安。
 闇が周りに来るような気がして、あたしはその考えを振り払う。
 今はこの安らぎだけを感じていたい。
 だからゆっくりと時間を掛けて噛み潰す。
 明日も、明後日も……。
 …………不安。

 シンジがアスカの病室から出てくると、長椅子に座っていたレイが読んでいた
本からシンジへと視線を移した。
「綾波もお見舞い?」
「……碇君を待っていたの」
「ぼくを?」
「うん、わたし、彼女に会えないから……」
 そう言って再び本に視線を戻す。視点は定まっていない。どこを見るとでもな
い寂しげな瞳。
「……?」
 形容しがたい雰囲気を孕むレイに、シンジは目眩にも似た感覚に囚われた。



(六)愚者――WASTING LOVE

 プラグ内が赤い警告灯の光に包まれた。
「弐号機、神経接続を拒否」
 マヤの低い声だけが聞こえた。モニターにはプラグ内で蹲るレイが映っていた。
これで今日五回目である。パイロットにかかる負荷は想像を絶するものだろう。
それを見つめるオペレーターたちは悲愴な表情を浮かべている。中でも命令とは
いえ直接接続試験を行うマヤの顔は、惨痛の色がありありと浮かんでいた。
「変換データに間違いは無いはずだがな」
 冬月が小声でぽつりと言った。
「……予測されたことだ」
 ゲンドウはマイクのスイッチを入れた。
「実験は中止。レイを休ませろ」
「了解! 実験中止します」
 マヤは涙ぐみながら復唱した。

 もうすぐわたしは要らなくなる。
 長い間待ち望んでいた“無”に帰れる。
 彼女。
 “あの時”わたしを送り出した人。
 碇君と同じ匂いがした。
 今、初号機の中で“無”を押さえている。
 優しく、抱きしめるように。

『わたしには何もないもの』
『そんなことはないわ』

 そう言ってくれた人。
 初めて笑いかけてくれた人。
 なりたかった、存在。
 あんな風に、誰かを守りたかった。
 わたし、知ってる……。
 それは、――母親。

 “彼”に作られたわたし。
 作られた心。わたしの心は“彼”の想い。
 “彼”の愛するリリスへの……。
 あの時、全ては失われたはず……だった。
 でも、今。
 微笑むこと。
 涙すること。
 寂しさ。
 嫉妬。
 …………。
 みんながわたしに心を分けてくれた。
 今、新しい心がわたしの中に、ある。
 わたしの中のみんなが新たなわたしを作る。
 辛いときもある。
 でも――嬉しい。
 初めて思えた。

『そんなことはないわ』

 そう、そんなことない。
 やっと見つけたの。
 わたしの気持ち。

 それももう終わり。
 もうすぐわたしは要らなくなる。
 長い間待ち望んでいた“無”に帰れる。

 ――でも、今は怖い。

 日本、第三新東京市へと世界各国から集まりつつ有る暗影。
 影の数は十二。

 天井と床に奇妙な模様が描かれた部屋。恐らく狂気を擁する天才的芸術家の作
であろう。その絶妙な線の交錯、夢幻のような照明。
「搭乗可能な適任者(チルドレン)を呼び出せ。第一種戦闘配置だ」
 執務室で報告を受けたゲンドウは静かに命令を下した。
「遂に直接来たな。狂信者の老人共が」
 隣で聞いていた冬月が吐き捨てる様に言う。
「ああ、全てが終わり、再び始まる」
「長かったな……」
「ユイが望んだ世界だ……」
「お前が……ではないのか?」
 問う冬月に答える声は無かった。

 黄昏。
 昼から夜へ変化するさまは、生から死への移り変わりを思わせる。
 紅い衣を纏い陽は西に沈んでいく。
 夜を照らす月は無い。今日は新月であった。

 シンジは今日二度目のアスカの見舞いの為、病院に来ていた。
 ドアのノブに手を掛けようとしたとき携帯電話の音が響く。
「はい、碇です。……はい……えっ! …………はい……………………はい、……
判りました」
 シンジは携帯電話のスイッチを切り、いつものように長椅子に座っているレイ
に目配せした後、アスカの病室へと入った。
 顔を向けてシンジを見るアスカ。
 生気の戻ってきた顔には笑みさえ見受けられた。
「アスカ、ごめん……召集がかかったんだ、これ、置いておくから……」
 アスカの瞳が曇る。求めるようにシンジに手を差し伸べた。シンジはそっと握
ってみる。
 暖かかった。
 命のぬくもりであった。
「大丈夫……だよ。それじゃあ」
 掛蒲団の中に手を戻してやってから、少年は背を向ける。
 硬質な音と共にドアが閉まった。

「綾波!」
「急ぎましょう」
 病室を出たシンジは、レイと共にネルフ本部へと駆け出した。

 傍に置かれたバナナの入った籠。
 それを見る瞳には涙があった。
 駆けていく靴音が次第に小さくなりやがて消えた。
 …………不安。
 ……不安。
 不安。
 それは今や不安などではなく、アスカの心に昏(クラ)い影となって広がりつつあ
った。
 少年の無理矢理作った笑顔に浮かんだ緊張の翳。
 これまでにない敵が現れたのだろう。
 二度と逢えないかも知れない。
 また一人になる。
 一瞬母が自殺した時と重なり合う。
 ――いやっ!
 白濁した大気の中、アスカは一人立ち竦んでいた。
 迷霧(メイム)は視界を奪い、その明るさにも拘わらず恐怖を感じさせる。
 霧に流れが生じた。
 アスカの眼前の霧が逃げるように退いていく。
 現れる影。
 天井から吊り下がる――モノ。
 その傍に置かれている一つの棺。蓋の上には引き裂かれた人形。
 昏い顔をした亡霊たちが手招く。
 朽ちかけた棺の蓋を開け身を起こす死者。爛(タダ)れ腐臭を放つ肉を黄色い骨に
纏わせている。眼窩から蕩けだした目玉が、糸を引き、落ちる。青い目玉。殆ど
抜け落ちた茶色の髪の毛。
 綺麗な歯並びをした肉の無い口が嗤う。
 ――いやっ! いやっ! いやぁっ!!
 己の心を再び削ろうとする悪夢にアスカは必死に抵抗する。
 本人の意思に逆らって動き出す足。
 踏み出した一歩。

「どういうこと?! 国連軍が動かないなんて!」
 ミサトの叫びが第二発令所に響き渡る。
「通信回線全て不通です」
「呼び出し続けて。――目標に関するマギの判断は?」
「パターンオレンジ。判断は保留です」
「映像出ます」
 発令所に響めきが起こる。
 モニターに映し出されたそれらの姿は、鉛白色をしたエヴァその物であった。
 それらはあらゆる方向から第三新東京市を目指してゆっくりと近づきつつあっ
た。
「……こんな時だけ、アタシの勘って当たるのね」
 苦渋に満ちた表情を一瞬浮かべるミサト。
「ここへの到達予定時刻は?」
 極めて冷徹にゲンドウは訊いた。
「最短で五十八分、最長で一時間十三分です」
 シゲルが答える。
「敵の装備は判るか?」
「手に持っている剣状の物は恐らくプログレッシブナイフの強化版と思われます。
その他武器らしい物は見当たりません」
 マヤの声も重い。
「まるで中世の騎士だな。飛び道具を使わないとは余程の自信があると見える。
或いは、何か策があるのか……」
 少し嘲るような冬月の声。
「どちらにせよ我々は奴らを斃すしか道はない。これより、移動目標を使徒と看
做(ミナ)し殲滅する」
「……了解。ポジトロンライフル、パレットガンの準備を。使える射出口は――」
 ミサトの指示が飛ぶ。発令所はにわかに慌ただしくなった。
「冬月、暫く頼む」
「ああ」
 ゲンドウが昇降機で移動するのを、ミサトは見逃しはしなかった。

「じゃ、先に発令所に行ってるよ」
「うん……」
 ドア越しに、レイはシンジの足音が小さくなっていくのを聞いた。
 更衣室の中、レイは制服のままだった。
 パイプ椅子に座り、俯きながら、待つ。
 誰を。
 静寂で満たされた廊下。
 微かな音が次第に大きくなってくる。
 ドアの前まで来て足音は止んだ。
 ノブが回り背の高い人影が現れる。
「来なさい。お前はこの日の為にいたのだ」
 ゲンドウは静かに言った。
「……はい」
 レイはゆっくりと立ち上がった。

「え、それじゃぁ……」
 シンジが発令所に辿り着くと、その場にはオペレーターたちだけを残して他に
は誰も居なかった。
「僕等も参ってるんだ。葛城三佐の命令を伝えとくよ。『別命あるまで発令所に
て待機』以上」
 マコトが言った。
「了解。待機します」
 シンジは違和感を感じつつも復唱した。
 ――おかしい。何でケージじゃないんだろう。ミサトさん……。綾波……遅い
な。
 アスカの病室から出てくる時、いつも寂しそうな顔をして待っているレイをふ
と思い出す。
 刻々と過ぎていく時間。
 ――遅すぎる!
「すいません、綾波を呼んできます!」
 突き動かされるような衝動に、シンジは走り出していた。
「おい、シンジ君!」
 マコトの制止の声は虚しく空へと消えた。
 一つ溜息を吐き、席に向き直る。
 聞こえなくなっていくシンジの足音。
「――ミサトさん……」
 自爆装置のボタンを見つめながらマコトはミサトの名を呼んだ。

 ミサトはケージへと向かうゲンドウとレイの後を追う。
 ――いいのね?
 自問する。
 知り得た全ての情報を集め分析して出した結論。
 ――もし、碇司令がサード・インパクトを引き起こそうとするのなら――撃つ。
 そしてジオフロント並びに地下の使徒――リリスの破壊。
 何度も繰り返した問いと答え。
 ――その時は……ごめん、シンジ君……。アタシ、サイテーね……。
 アダムが初号機なら、レイが――使徒なら。
 無口で朝(アシタ)の露(ツユ)を思わせる少女の――はにかむように微かに浮かべた、
あの笑みをミサトは思い出す。
 ――ごめんね。
 ――ごめんね……マコト君。
 廊下の果ての頻闇(シキヤミ)へとミサトの影は溶けていく。

 重い音を立て、扉が開く。
 闇を切り裂き差し込む人工の光。
 光は一人の女性の背を浮かび上がらせた。
「この間言ったことで全てよ。もう、何もないわ……今のワタシみたいに」
 自嘲を含んだリツコの声が闇から滲み出た。
「葛城君でなくて残念だな」
 掛けられた声にリツコはゆっくりと振り向いた。
「……副司令」
「ゼーレのエヴァが来たよ」
 冬月は平素と変わらぬ口調で話し始めた。話の重大さを知ってリツコは逆にそ
の口調に怪異な物を感じる。
「碇は補完計画第二案を施行するつもりだ」
「そう……ですか」
 リツコは肩を落とした。
「ワタシの所為ですわね」
 その言葉は地下室の壁に当たって砕けた。ダミープラグを破壊した際の激情は
身を潜めたのか、悲しい女の声だけが響く。理性が勝った女性だけに自虐の念は
深い。
「もう済んだことだ」
 優しい調べを奏でるような声。
「仕方あるまい……ゼーレ――有史以来、連綿と影から人類を支配してきた連中
の人類補完計画――選ばれた者のみの楽園で飼われるくらいなら甘んじて死を選
ぶよ」
「――碇ユイに逢えるからですか?」
「それもあるな」
 冬月は破顔した。
 痛痒い古傷を触られた感触。
 レイの替わりにリツコがゼーレの尋問を受けさせられたとき、自分はこうなる
ことを予想できたのではないか。いや、敢えてしなかったのだと冬月は思った。
 恐らく自分はユイに逢いたかったのだ。悔恨の念が、心の内にどっしりと腰を
下ろしていた。
「彼女に逢ったら謝ろうと思っている」
 何時になく饒舌になっている自分を感じつつ冬月は続ける。
「『君の努力は報われなかった』、と」
 今でも胸に焼き付いている言葉。
『この子に明るい未来を見せたい』
 ゼーレの補完計画の全貌を知り、命を賭してシンクロテストに臨んだ女性。
 碇ユイ。
「そろそろ時間だ」
 冬月は腕時計を見て言った。
「一緒に来たまえ」
「置き去りにされた者同士……ですか」
 微かに微笑みながらリツコが問う。
「悪くはあるまい?」
 悲鳴を上げた扉が再び閉じられた時、闇は孤独を持て余した。



(七)相剋――DON'T TAKE THESE DREAMS AWAY

 闇があった。
 闇は巨大な人の形をしていた。
 僅かばかりの明かりに照らされ、人影が二つ佇んでいた。
「さぁ、いよいよだ。レイ」
 半ば譫言(ウワゴト)のような声でゲンドウは言った。男の中で、長い間包み隠され、
凝り固まったものが開放されつつあった。その横顔は狂気とも歓喜ともつかない
不思議な色彩を帯びていた。
「レイ!」
 俯いたまま答えないレイに、苛立ちの混じった声が浴びせられた。
「……厭」
 震える小さな声だけが返った。
「……何故だ!」
 紛れもない錯愕(サクガク)の声をあげ、ゲンドウはレイに向きなおった。
「レイ!!」
 それきり黙り込んだレイの小さな肩を掴み揺さぶる。
「お前まで、……お前まで私を拒むのか?」
 悲痛な声。
 初めてこの世界を、この小さな身体で感じたとき、傍にいた男。
 名前を与えてくれた男。
 実験中に負傷した自分のことを心配してくれた男。
 その想いは一点に凝縮され、ある形となっていく。
 指が肩に食い込む痛みに呻吟しつつ、レイはゲンドウを見上げた。
 合わさる視線。
 ゲンドウの指から力が抜けていく。
 ――ユイ……。
 顔を歪ませながら悲しげに微笑むその表情は――十一年前、ユイが今わの際に
見せた笑顔に酷似していた。
「父さん!!」
 シンジの叫びがケージ内に谺する。
「シンジか……」
 動揺の色を含みつつゲンドウはシンジを見た。
「碇君……」
 レイもシンジを見る。その顔に喜びと悲しみが錯綜した。
「父さんは綾波を使って何をしようとしてるんだよ!?」
 異様な父の行動を見たためか、絶叫に近いシンジの声が闇を裂いた。
「……人類の補完だ」
「? 人類? 補完?」
 あっさりと言ったゲンドウの言葉の意味をシンジは掴みかねた。
「薄々感じているだろう。レイは人間ではない。――十年前、ユイのサルベージ
の際、アダム――エヴァ初号機から生まれた者――敢えて言うならば“使徒”だ」
「――使……徒?! 綾波……が?」
 喉の奥がからからに乾いたようだった。舌は痺れ、言葉を紡ぐのをやめた。
 考えたくなかった。
 レイは使徒。
 使徒は敵。
 レイが――敵?
 カヲルと同じ?
 ならば……。
「アダムと再び同化することでサード・インパクトを引き起こすことが出来る」
 シンジの動揺を気にする風もなく、ゲンドウは不気味な笑みを浮かべ喋り続け
た。
「サード・インパクトとは魂の救済だ。肉体は消え去り、全ての心の欠けた部分
は他の心の一部で互いに補完され、永遠の安寧を得ることが出来る。ユイ……お
前の母さんにも逢えるのだ」
「母さん……」
 よく覚えていない母の顔。笑顔の断片だけが去来する。
「魂だけはここに在るがな」
 そう言ってゲンドウは初号機を見上げた。
「やっぱりそうなんだ……」
 ユイのことを思ってか、シンジの表情から険しさが消える。母を思う少年の狂
おしいまでの眼差しが初号機に向けられた。
 黒き巨体にユイらしき笑顔の断片が浮かび――レイになった。
 我に返ったシンジはレイに視線を転じた。
 酷く悲しげなレイの瞳があった。微かに笑うとシンジから視線を外す。
「嘘だろ? ……綾波……」
 辛うじてそれだけ言えた。血を吐かんばかりの声だった。
「本当よ……わたしがアダムと同化して……今は眠りについている“彼”の無に
帰す心に触れれば、サード・インパクトが起こる。実験の時、それに気付いたあ
なたのおかあさんは、サード・インパクトを防ぐために“彼”の中に残り、“無”
に帰ろうとしていたわたしを“ここ”に送り出したの」
 シンジは顔を微かに横に振る。
「そういうことだ、邪魔をするな……」
 そう言ってゲンドウはレイに向き直る。
「さぁ、レイ……」
 俯いていたレイは唇を噛みしめると顔を上げた。
 震える唇が言葉を綴ろうとした刹那、
「待ってよ! ――綾波はそれでいいの?!」
 その横顔の意味を感じ取り、投げかけたシンジの言葉がレイを撃つ。
 一瞬身を震わせ、張り詰めた糸のようにレイは硬直した。
 目を閉じ喘ぐように微かに唇が震える。
「……………………厭……わたし、消えたくない。――消えたくない。……みん
なと……碇君と……碇君と一緒に居たい!」
 迸る感情の波と共にその言葉は放たれた。
 ただ呆然とその言葉をゲンドウは聞いた。
 微かな少女の慟哭が闇を揺らす。
 ややあって、ゲンドウは眼鏡をゆっくりと右手で外した。
 シンジに向けた顔には、これまで見せたことのない疲れの色が浮かんでいた。
「……私の人類補完計画案は二つあった。第二案は既に述べた。第一案はセント
ラルドグマの奥深くで眠るエヴァの死骸を、アダムの細胞とダミープラグを用い
戦闘兵に仕立て、ゼーレ――あの十二体の使徒、並びに南極にある“リリスの羽”
を殲滅すること。残念だがダミーの破壊によりこの案は使えない」
 シンジの脳裏を過る――培養槽の中で崩れ落ちるレイの形をした物。
「父さん――」
 ならば何故代わりに初号機で戦えと言わないのか――シンジはそう継ごうとし
た。
 だがその言葉は飲み込まれた。――父の瞳を見たから。
 補完計画第二案。それは物質的な死を意味する。だがゲンドウの目に映った狂
気の色に混ざるものをシンジは認識した。
 深淵、余りにも深い悲しみの淵。
 ――父さん……ぼくと、同じなんだ。でも、……でも!
「――ぼくは――これまで辛いことばっかりで、何も……生きていてもいいこと
なんか無いって思っていたけど、死ぬのなんてどうってこと無いって思ってたけ
ど……綾波や、アスカや、ミサトさんやトウジやケンスケや……みんなと会えて
よかったと思ってる。やっと……やっと判ったんだ。ぼくは“ここ”に居たいか
ら、生きているんだって!」
 嗚咽するかの如く声を絞り出したシンジを、ゲンドウは静かに見つめるだけだ
った。
 一つの集約された意志がシンジの心に浮かび上がりつつあった。
「ぼくが――敵を斃すよ」
 シンジ自身が驚いた程、その言葉はハッキリと出た。
 そのシンジにゲンドウは意外な問いをした。
「これから先、お前は愛する者の死を見ることに耐えられるか?」
 斃せる、斃せないを問うものではなかった。
 シンジの初めて聞いた暖かみのある父の声。
 いや初めてではなかった。以前母が“消えた”時も聞いた気がする。
 記憶にある“悲しみ”が走馬灯のように走り去る。
 シンジは無言で首肯した。
 一瞬ゲンドウの顔に自嘲とも思える笑みが浮かんだように見えた。
「ならば、十二使徒を殲滅して見せろ。我々の生き延びる術は他にはない」
「判った」
 しっかりとした低い声で言い放った後、シンジはレイを一瞥すると踵を返しエ
ントリープラグへと向かった。
 その背中に頑強な意志を湛えて。
「……碇君……」
「……後はシンジに任せよう」
「司令……?」
 ゲンドウは息子の後ろ姿を見つめていた。
 静謐(セイヒツ)が辺りを支配した。
 見上げたレイの顔にゆっくりと笑みが広がっていく。

 ミサトは物陰からシンジとゲンドウのやり取りを伺っていた。
 拳銃を握る手が汗で濡れていた。
 張りつめていた気持ちが、徐々に溶けていく。
 ミサトの目には、少年の細い首筋と小さな背中が焼きついていた。
 駆け出して、抱きしめてやりたかった。
「碇を撃つのかね?」
 振り向いたミサトの視界に、いつの間にか立っていた冬月が入った。
「……いえ……」
 一瞬驚愕の表情を見せたミサトは直ぐさま気を取り直し答えた。
「賢明な答えね……」
「リツコ!」
「シンジ君は諦めない方を選んだわ……ワタシたちはどうする?」
 問われてミサトは目を瞑った。
「……決まってるでしょ」
 苦笑したミサトにリツコも微笑み返した――悲しげに。

 ぷつっ。
 弾ける感触。
 痛みを伴い、それでいて甘い感覚がアスカを引き留める。
 誰?
 ママ?
 振り返るアスカ。
 灼熱の井戸の中、落ちていく感覚。
 直上に見える光。
 あの時。
 諦めた自分の腕をしっかりと掴み上げた少年の姿。
 再び差し出された腕。
 今度は自分から縋る。
 二度と無くさないように。
 自ら掴み取る為に。
 絆を。
 たった一つだけ残っていた好きだった自分。
 その自分が今まで思い出せなかった少年の名を呼ぶ。
 ――シンジ!!

 閃光が全てを真白に焼いた。

 白い天井。
 間接照明の淡い明かり。
 ベッドから身を起こす。
 スリッパに痩せた白い素足が入る。
 暫くまともに使ってなかった筋肉が恨めしげに悲鳴を上げ震えた。
 病室の壁に手を突いて身体を支えつつ、アスカは立ち上がっていた。
「アスカ……行くわよ」
 それは聞き取れないほど小さな声ではあったが、力に満ち溢れていた。

<つづく>


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