========================================================================

         曙光――Silent scream
                     〜比翼の鳥〜

========================================================================


(八)美獣――THE NUMBER OF THE BEAST

「構わんな、碇」
「ああ」
 発令所にはリツコが復帰していた。その所為かマヤの声が弾んで聞こえる。
「初号機、エントリープラグ挿入。……え?」
「どうしたの?」
 リツコが尋ねる。
「弐号機のエントリープラグに人が……アスカ?!」
「何ですって? アスカは今――」
《……ヘロウ、ミサト》
 慌てるミサトの声を遮るように一人の少女の声が聞こえた。
「アスカ!! あなた――」
 生彩を失ったかの様に見える少女の――唯一比類無き力を感じさせる双眸の光
がミサトを沈黙させた。
「アスカ! 何でそこにいるんだよ!?」
 シンジも余りの事態に驚愕する。
《……莫迦……こんなことで……一々驚かないでよ》
 暫く言葉を発しなかった為か、もどかしい舌先を呪うように一言一言区切りつ
つ話す。言葉とは裏腹にシンジに語りかける口調は優しいものであった。
「あたしは……弐号機パイ……ロットなのよ……」
「アスカ……」
 震えるシンジの声。

 そのやり取りを凝視していたリツコへとアスカの視線が投げかけられた。
 一瞬、悽惨な表情を浮かべたリツコは、マヤの肩にそっと手を置き、
「弐号機、エントリープラグ挿入して。データの書き換え、急いで」
 と低い声で言った。
「はい……先輩」
 マヤの指がコンソールを走る。アスカを乗せたエントリープラグが弐号機に挿
入されていく。
「リツコ! あなた、アスカを!」
《いいのよ、ミサト》
 リツコへの非難をアスカが断つ。
《……シンジにだけ、任せておけないわ……》
《アスカ……》
《莫迦……あたしの為よ! ……決まってるでしょ?》
 心配そうなシンジを見てくすっと笑うアスカ。

 その顔にはシンジの初めて見る微笑が浮かんでいた。

「これより両機、第二次接続に入ります」
 どくん。
 満たされたLCLの中。心音にも似た波動をアスカは感じた。
 ――お願い弐号機、力を貸して。一緒に戦いたいの……シンジと!
 どくん!
 アスカの身体全体を更なる波動が包む。揺らめく光がアスカに近づいてくる。
 光は徐々に人の形を取った。
 ――何か……懐かしい…………………………ママ!?
 光はアスカをいだくように一つとなった。
 長らく渇望した抱擁。
 幼い頃封じ込めた孤愁の残滓が、光に溶け込むように流れ出し消える。
 少女は至福の笑みを浮かべた。

 初号機エントリープラグの中。
 シンジもまた、ある人物と対峙していた。
 ――ぼくは知っていた。あの時見たんだ。母さんがエヴァ――初号機に取り込
まれるのを――辛かった――だから忘れようとしたんだ。
 震える初号機。
 ――今までありがとう、母さん――もう大丈夫だよ――ここに居る理由が判っ
たから。

「弐号機シンクロ率……九十五.四%! 初号機……九十八.二%です!!」
「いける」
 言ってリツコを見るミサト。頷くリツコ。どちらの双眸にも鈍い痛みの色が滲
んでいた。

 十九時四十分。
 十二使徒到達予定二十四分前。
 ジオフロント内に時折微震が訪れる。
 第三新東京市防衛線が奏でる、ささやかな抵抗の遠音(トオト)であった。

「エヴァー、初号機並びに弐号機。発進!」
 リフトを上昇していくエヴァ。
 二機の人形(ヒトガタ)の獣は、闇に覆われた第三新東京市へと屹立した。

 二十時零分。――可能な限りの準備が整えられた。
 弐号機はポジトロンライフルを構え、初号機と凡(オヨ)そ五百メートルの距離を
置いている。
「じゃ、弐号機。初号機が囲まれないように上手に援護すること。いいわね」
 作戦の確認をしながら、腹の底が冷えてくる様な感覚にミサトは囚われていた。
 全員を道連れにするであろう自爆を覚悟してまでゲンドウと対峙しようとした
こと。
 今、生き延びる為に子供たちを戦いの場に立たせなければならないこと。
 恐らく死ぬまで永遠に続くであろう自己矛盾。
『ほっとしましたよ』
 ゲンドウたちと共に発令所に戻ってきた時、マコトが安堵した表情でこっそり
と言った台詞が彼女の救いとなっていた。
 この戦いに勝ち残ることが今の自分の使命だと何度も何度も言い聞かせる……。

 明度を上げられたディスプレイに映る不気味な十二体の影。
 防衛線を潜り抜けた者は鉛白の機体が煤けていた。
《了解……ミサト……あれ、エヴァじゃないの?》
 言葉に詰まるミサト。
「――――使徒よ」
 ミサトは血を吐く思いで答えた。
 恐らくダミープラグ代わりに使われているであろう、シンジらの級友たちのこ
とを隠して。
《でも……でも、エヴァに似すぎているわ。もしかして……パイロットは》
 ミサトはこの時ほどアスカの勘の良さが憎らしく思えたことはなかった。それ
が――ダミープラグがどのような物であるかまで認識している――シンジへと波
及することを恐れ、そんな思考をしている自分を嫌悪した。
 だが転機は思いも寄らぬことにシンジが起こした。
「アスカ」
「! ……何?」
 静かなシンジの声が何故かアスカを怯えさせた。
「あれがエヴァなら――エントリープラグ以外を破壊すればいいんだ」
 淡々と――それでいて寒風の如き鋭さを孕みつつ言い放たれたシンジの声には、
凝縮された鉄の意志が込められていた。
「シンジ…………そう……ね」
 気圧(ケオ)されてアスカも同意する。

「お前に似てきたな」
「……あれは母親似だ」
 冬月に言われゲンドウは苦笑した。眼鏡は外したままであった。
 ――ユイ君が傍にいた頃以来だな。お前のそんな表情(カオ)を見るのは。
 冬月の顔にも苦笑とも取れる表情があった。

 二十時十三分。戦いは始まっていた。

 パレットライフルの射撃音が闇へと吸い込まれる。
 ゼーレエヴァはATフィールドを展開して防いだ。
 爆煙の向こうから飛燕の如く初号機が現れ、瞬く間にATフィールドを中和した。
 初号機の拳はゼーレエヴァに回避する間を与えずその胸部装甲中央を貫く。
 コアが一撃で破砕され、全身が弛緩したゼーレエヴァはその場に崩れるように
倒れた。

 間断無く新たなゼーレエヴァが初号機に襲いかかる。

「もう、莫迦なんだから!」
 悪態を吐きつつ弐号機のポジトロンライフルが火を噴く。闇を裂く青白い光芒。
直撃を受けたもののATフィールドによりゼーレエヴァの損傷はない。
「ちぃっ!」
 動きの鈍い弐号機の方へ二機のゼーレエヴァが迫る。アスカはATフィールドを
展開した。
「今よ!」
 ミサトが叫ぶ。
 轟音。
 足下より燃え上がったN2地雷の劫火がゼーレエヴァの動きを止めた。同時にフ
ィールド中和開始。再度撃たれたポジトロンライフルの炎が、ゼーレエヴァの腕
を足を打ち砕いていく。
 弐号機周辺には、ネルフに残存していた三十四個のN2地雷が埋められ、発令所
の操作で爆発させられるようになっていた。
 提案者は――アスカであった。
「ふぅ……」
 アスカは目を閉じ息を吐いた。
 安全な距離をリツコが算出したとはいえ、人の心は数式で割り切れるものでは
ない。
 だがその恐怖さえ乗り越えられる糧をアスカは既に持っていた。
 目を開いた少女の貌に不敵な笑みが浮かぶ。

 剣戟(ケンゲキ)の音が響く。
 パレット弾の切れた初号機はゼーレエヴァの使用していたソードを手に戦って
いた。
 蒼い残像を残して銀光が交錯する。
 剣を握りしめたままの腕が重い音を立てて地上へと落ちた。
 白い腕。
 右腕を失ったゼーレエヴァは残った左腕を初号機へと打ち込んだ。その拳を身
を右へと翻し躱す。同時に左手で掴み引き込みつつ、伸びきった腕の関節に右手
を当て、押した。
 鈍い音がして関節は本来有り得ない方向に曲がっていった。
 聞いたことのある声が苦悶の叫びを上げたような気がした。
 躊躇することなくシンジは更なる力を加えた。
 飛び散る青紫色の体液、潰裂音と共に引きちぎられる金属製の筋肉、骨格。
 痛みに因るものか巨躯は激しく身を震わせた。
 その腹部に閃光の如き初号機の蹴りが炸裂する。胴が二分され多量の体液と肉
の欠片が飛礫の如く撒き散らされた。

 主モニターに映し出される映像は地獄図の様相を呈していた。
 青紫色の血の海、巨人の轢死体かとも思われる千切れ砕かれた生体部品の山。
 疾走する傷だらけの初号機。
 白黒で映し出されているのがせめてもの救いであった。
「マヤ」
 悲壮な表情でモニターを見つめるマヤの肩にリツコの手がそっと置かれる。
「……大丈夫です。先輩」
 ――強く……なったのね。
 リツコは、自分の居ない間必死に代役を果たしたと思われるマヤの背中を感慨
深げに見つめた。
 ――こんなワタシでも慕ってくれた貴女の為にも――負けられないわ……ね。
 リツコの視線の先には、シンクロ率百五十%を越えようとする初号機のデータ
と、鬼神の如き相を見せるパイロットとが映し出されていた。
 ――もし、この前のようなことになっても……必ずワタシが何とかするから。
 胸宇(キョウウ)の誓いであった。

 爆煙とイオン化された大気中の分子の影響で戦局は混迷の一途を辿っていた。
人外に棲む者の血の霧と吐き出す瘴気に因って、闇はその昏さを増したかに思わ
れた。

 ポジトロンライフルの反動がエントリープラグへと衝撃となって伝わる。
「重いわね……、このライフル……」
 弐号機のプラグ内ではアスカが余喘(ヨゼン)ともいえる状態になっていた。
 戦闘に入ってから既に二十分余り。体力は限界に来ていた。
 ――後、六機よ、アスカ。……もう少しよ。
 心で呟くアスカ。
 その隙を突き、先程のN2地雷の爆発で大きな穴が穿たれた影からゼーレエヴァ
が突進してきた。
「!」
 振り下ろされたプログレッシブソードが身を躱し切れなかった弐号機の右腕を
付け根から切断する。
「くうぅっ!」
 苦悶の声がアスカの口から漏れる。しかし迸るような意志は激痛をも凌駕した。
「うおおおおおおおおっ!!」
 魔神と化した弐号機の四つの目が光を放つ。
 顎へと旋風の如き蹴りが放たれた。仰け反るゼーレエヴァ。重心が移るのを見
計らった右膝への一撃。
 蹴り砕かれた膝を飛散させながらゼーレエヴァは大地へと崩れ落ちた。
 振り下ろされたプログレッシブナイフがその胸に深々と突き立てられる。
 沈黙するゼーレエヴァ。
 しかしアスカが息を吐く暇無く次のゼーレエヴァが迫りつつあった。
「アスカ、三時の方向。移動して! 早くっ!!」
 ミサトの声に焦りが混ざる。

「アスカ!」
 アスカの危機に気付いたシンジが叫ぶ。
 弐号機へ向かおうとした初号機に、三機のゼーレエヴァが一度に襲いかかった。
 振り下ろされる三振りのプログレッシブソード。
「シンジ君!!」
 ミサトが胸の十字架を握りしめ叫ぶ。
「ぼくの――邪魔をするなぁっ!!」
 シンジと同調するかのように咆哮する初号機。
「初号機シンクロ率、二百%……二百五十、三百、まだ伸びます!」
 騒然となる発令所。
 三振りのソードが鈍い音を立てて大地を削った。
 初号機は忽然と姿を消していた。
 闇を照らし出す光。
「! え?」
 その光を放つものを見て、アスカは驚きの声を上げた。
 虚空を舞う初号機。
 その背中には――光の翼ともいえる十二本の光の筋が現れていた。
 再び不意に初号機は消えた。
 虚空に見た物は残像であった。
 迫り来る光を見た瞬間、ゼーレエヴァは四肢を目に見えぬ刃に切断され、重い
音を立てつつ己の血で染まる大地へと崩れ落ちて行く所であった。
 見る者の心を奪う程の鮮やかな殺戮。
 経験の差は生と死を分かつ。
「チャンス!」
 ゼーレエヴァが仲間の死の光景に気を取られた隙を突き弐号機は走った。左か
ら回り込みつつ全身のバネを使って左手の甲を打ち込む。一撃で弾け飛ぶ頭部。
 とどめを刺したアスカの目に映った影。
 全身に青紫色の血糊を浴び、光の翼を広げる初号機。アスカの無事を確認する
かのように一瞬顔を巡らす。
 アスカは笑ってみせた。

 煉獄の炎の揺らぎを背に纏わせ、初号機は最後のゼーレエヴァへと疾走した。



(九)月へ――FLY ME TO THE MOON

 初号機の右腕が最後のゼーレエヴァの胸に吸い込まれたとき、鋼の軋みと潰裂
音を最後に世界は静寂を取り戻した。
 両腕は既に断ち切られ、切断面から噴き出した血潮は地表を青紫色に染めてい
る。
 腕が血糊と千切れた肉片を纏わせつつ鉛白の機体から引き抜かれると、ゼーレ
エヴァはその場に蹲るように倒れた。

 第二発令所に安堵の感が満ちた。
 十二枚の翼を広げた初号機は天使にも見えた。悪魔の姿をした天使。それは天
より追放され地獄に落とされたというルシファーを思わせた。
「しょ、初号機パイロットは!」
 その人智を越えた美しさに暫し呆然としていたミサトが我に返り訊いた。
「――異常なしです。現在シンクロ率は九十八.三%」
「……そう」
 マヤの返答を聞きミサトはほっとした。膝が小刻みに震えている。ミサトは萎
えそうになる身体を必死で支えた。
「索敵結果は?」
「第三新東京市付近及び上空に異常なし」
「救護班の準備させて。一刻を争うわ。――弐号機パイロットは?」
「脈拍、呼吸とも不安定です、あの……」
「判ってるわ。――アスカ、聞こえる? 六十六番ルートから回収するわ、移動
して」
《――了解》
 疲弊を感じさせるものの、充実感を含んだ声が返ってきた。

 終わった。
 エントリープラグ内でシンジは漸く人心地ついた。後はゼーレエヴァからプラ
グを引き出し、級友たちを助けるだけだ。
《シンジ》
 回収中の弐号機から映像が入った。
「アスカ……」
 気が抜けたのかアスカの顔はいつもより幼く見えた。
 いや、年相応の少女の顔だ。彼女はこの戦闘で背負っていた全てのものを下ろ
したのだろう。母に守られた子供のような安堵感が漂っているのは錯覚ではない
筈だ。
 もう一度あの時のように笑ってくれるといいな――シンジは思った。モニター
に映るアスカは今にも泣きそうな顔になっている。

「! 第三新東京市周辺にエネルギー反応!」
 突如、悲鳴とも取れるシゲルの声が発令所に響いた。
「何ですって!」
 一瞬ミサトの視界に紗(シャ)の様な闇が掛かる。
 第三新東京市周囲に十二の光芒が立ち昇った。白い靄のような光は、ゆらゆら
と揺れながら闇の中に四散していく。
 それは黄泉の花を思わせる燐火であった。

 “彼女”は、自分が地下深く閉じこめられているのを感じていた。
 両手に打ち付けられた楔(クサビ)の鈍い痛み。
 幾つかの思念が自分の中に入ってくるのを感じる。
 怒り、憎しみ、怨嗟、破壊。
 “彼女”は、“それら”の思念が自分を突き動かそうとすることを知った。
 既に“死んでいた彼女”は“それら”に身を任せた。
 楔で穿たれた傷口の細胞が微細な動きを始める。じわりじわりと楔は迫()り出
し、黄金色の羊水へと落ちた。

 突如大地が鳴動した。
 発令所に緊張が走る。
 セントラルドグマの奥深く、ターミナルドグマ――ヘヴンズドアの奥から白い
影――リリスが現れ上昇を始めた。
「な、何?!」
 状況が把握しきれずミサトは周りを見回す。
 リリスが声ならぬ声を放つ。大気が震撼した。
 光の柱がそそり立つ。
 それは本部ビルの一角を突き破り、直上のジオフロント二十二層の装甲板を一
瞬で蒸発させた。
 激震。
 暗転。
 非常灯の明かりが辺りを赤く照らし出す。
 奇跡的に第二発令所はその機能を保っていた。
「予備電源、二十時間と持ちません」
「マギの一部に損害。処理能力十%減」
「偶然にしては出来過ぎね……」
 オペレーターたちの報告を聞きながらリツコが呟いた。モニターに映し出され
る状況は第二発令所、居住区以外の壊滅的打撃を伝えている。
 彼女は知っていた。誰があの一瞬にATフィールドを展開し、人々を守ったのか。
「エヴァーの状況は?」
 重い声でミサトが訊いた。
「二機とも健在です。しかし第三新東京市内電源はほぼ全て沈黙。弐号機への電
源供給は極めて不安定です」
「こちらの戦力はS2機関を取り込んだ初号機のみ……ということね」
 本能的にリリスに対し敵意を感じたミサトの胸中には昏いものが満ちていた。
 果たして初号機一機であれに勝てるのだろうか……と。
「リリスが復活したぞ」
 苦虫を噛み潰したような顔で言う冬月。
「こちらのシナリオ外だ」
 同じく辛酸を舐めたようなゲンドウ。
 大きく口を開けたジオフロントの天蓋。虚無のような闇だけが見える。
《――残念だったな》
「キール!」
 ゲンドウは思わず立ち上がった。
 ノイズ混じりの声だけがスピーカーから聞こえてくる。
 それは人間であった時『キール』と呼ばれていた者の声であった。
《お前に渡していなかった……死海文書最後の章。リリス復活の法……今成就し
た……初号機の件は我らの誤算であったが、それも神の御心のまま…………全て
神の元へと帰る……お前に止められるかな……ふ……ふふふ……》
 通信は途絶えた。

 白い巨躯は自らの半身を求めて空を裂いていた。
 目にも留まらぬ早さで駆け抜けた後を強大な衝撃波が襲う。
 大地は裂け、海は割れた。
 それを見た者がいれば奇跡が起こったと言うであろう。
 但し、生き残れればの話ではあるが。

 海の色が碧から朱へと変わる。“彼女”の流した血の色に染まった海。
 死海。
 “彼女”は四枚の光の羽の中に舞い降りた。
 羽から伸びた触手が絡み付き融合を開始する。
 数分後、融合を終えた“彼女”は蛇のような下半身を持つ魔性の者へと変化し
ていた。

 リリス。

 過去そう呼ばれていた者は憎悪を抱き虚空へと舞い上がった。
 愛する者の墓を暴いた己の子らと、自分たちをこの地獄に追放した神への復讐
の為に。
 憎悪は月へと向かった。――狂気を携えて。

《ミサトさん。さっきの光――ひょっとして地下の――》
「そうよ、“リリス”よ」
《どこに行ったんですか?》
「――――」
 淡々と状況を聞いてくるシンジにミサトは一瞬言葉に詰まった。ひょっとして
死に急ごうとしているのではないか? 怯えにも似た予感がミサトの心中を走る。
「月だ」
 ゲンドウが口を開いた。ミサトは振り向きゲンドウを見上げる。不当とは知り
つつ憎悪の念を瞳に浮かべて。
《月?》
「リリスは南極の羽と再び融合し、月へと向かっている」
《月に何かあるの?》
「……神がいる」
《? 神さま?》
「死海文書――人類創世の秘密を記す一連の書物の解析を信じればの話だ。その
羽――パワースレイヴは重力制御装置。使えるのは……おまえだけだ」
《判ったよ、父さん》
 極めて平静にその言葉は出た。迷いはなかった。少年の漆黒の瞳は新たなる決
意で満ちていた。
《待って、あたしも――》
 アスカが焦燥の色を滲ませた声で叫んだ時、その視界が眩んだ。
 操縦桿に手を突き、身体を支える。
《アスカ!?》
「弐号機パイロット、心音弱っています」
「アスカ、無理は駄目よ。シンジ君に任せなさい」
 悲愴な声でミサトが叫ぶ。
《でも、……でも!》
《……アスカ、ありがとう。大丈夫だから》
《莫迦……》
「弐号機パイロット、意識不明!」
《アスカ!》
「救護班、早く!」
 リツコの絶叫。

 シンジの目はモニターに映し出されたアスカの姿を見ていた。
 蒼白となった顔は微かに悲しげな表情を浮かべていた。
「リツコさん……」
 モニター上のリツコが振り向く。
「アスカを、頼みます」
 無言で頷くリツコ。
 決意を固めるかのようにシンジは目を閉じた。
 寂静がシンジを包む。
 億万劫ともいえる時間が流れたような気がした。
「わたしを連れていって」
 静かな、それでいて鉄の意志を感じさせる声が聞こえた。
 初号機の足下。
 レイがプラグスーツを着て佇んでいた。
 パワースレイヴの発する光に因って蒼く輝く姿態。髪を嬲るように一陣の風が
吹き抜ける。その姿は死の大地に生える勁草の様であった。
「綾波……」
「お願い、わたしを連れていって……」
 紅い瞳がシンジを射る。
 生贄に捧げられた少女と、それを喰らう悪魔の構図を思わせる対峙は暫く続い
た。
 やがてゆっくりと身を屈めた初号機は掌の上にレイを乗せた。

「エヴァ、再起動しました。シンクロ率――百八十!?」
 オペレータたちの報告が次々と届く。
「聞こえる? 初号機パイロット」
《はい、聞こえます。ミサトさん》
「座標データはマギの方で逐次解析して最新の物を送るようにするけど絶対とは
言わないわ。あくまで参考程度。頭に置いていてね」
《はい》
「必ず帰ってきてね…………シンジ君、レイ」
 自分の声が震えているのをミサトは感じていた。ひょっとすると二度と会えな
いかも知れない――言い様のない不安がミサトの胸中を覆った。
《……はい》
「……エヴァー、発進よ」
 心痛を顔に出さないように、ミサトは敢えて冷たく言い放つ。
《はい、――綾波》
《……あ》
 シンジは傍にいたレイを抱き上げると膝の上に座らせた。
 戸惑いの表情を見せるレイ。
《行って来ます》
 シンジはミサトを見つめ、哀愁を帯びた微かな笑みを浮かべた。
 背中のパワースレイヴにシンジは意識を通わせた。唸るような微細な振動が伝
わってくる。
 ジオフロントを微かに揺らしつつ、エヴァ初号機は緩やかに空へと舞い上がる。
 その姿を、ゲンドウは顔の前で指を組んだまま、身動(ミジロ)ぎ一つしないで見
送っていた。

 二人を乗せた初号機は夜の世界から抜け出し昼の世界へと移った。偽りの日の
出。次第にスクリーンの半面に広がっていく青い光。
「綺麗ね」
 レイが呟く。
「うん、そうだね」
 感慨に耽る暇もなく、それは直ぐに見えなくなり闇が二人を包んだ。
 静寂と無重力、心を潰そうとする“無”の圧迫感。

 新月――暗黒の月へと初号機は向かう。

<つづく>


コースケさんの部屋に戻る

inserted by FC2 system