『仕組まれた女神』 −第五部−

くらしろ


 

   #10

 

「シンジ...、シンジ、どこにいるの?」

アスカの声が暗闇に響く。

 

「綾影、綾影、いるの?」

だが、それに答える声は聞こえない。

 

「シンジ! 綾影!」

結果は同じである。

辺りは漆黒の闇...。

広い広い空間であるようだ。

 

...闇の中で人の気配がする。

 

「シンジ、シンジなの?」

...だが、答えは返って来ない。

「それじゃ、綾影? そうでしょう、綾影!」

...やはり返事はない。

「じゃあ、誰なのよ!!」

アスカの声が虚しく響く。

 

「そこにいるんでしょ! シンジ! 綾影!

 私はここにいるのよ! 私はあなた達のリーダーなのよ!!

 その私が命令しているのよ!! ねえ、シンジ、綾影! 返事をして!!」

アスカは有らん限りの声で叫ぶ。

「シンジ! 綾影!!

 ...ねぇ、返事をしてよう...。」

その声が先細りして行った。

そして、その声は絶望と言うより倦怠に満たされて 行った。

 

 

突然、眩しい明かりが辺りを照す。

そこには、アスカの見慣れた人影があった。

「綾影!!」

そこには、レイが月の女神の装束で立っていた。

「綾影、返事をしなさい!」

アスカの叫びを気にも留める事なく、レイはただ俯いていた。

 

「シンジ!」

レイの視線の先にはシンジがいた。シンジはレイの前にある寝台に横たえられている。

アスカは二人の許に駆け出そうとした。 しかし、彼女の体は自由が利かない。

「何?」

アスカは自分の体を見渡した。 しかし、自分の体は見る事はできなかった。

それは、まるで彼女の魂だけがこの空間に存在しているようであった。

「どうしたの、私?」

自分自身に問い掛ける。

「私は死んだの?」

だが、彼女の意識ははっきりしている。

ただ一つの例外は自分の存在がはっきりと認識できない事だけであった。

 

シンジは瞳を閉じている。 気を失っているのであろうか。

レイはそんなシンジをただ見下ろしているだけである。

 

「シンジ、綾影、私の声が聞こえないの!?」

 

レイの赤い瞳はシンジの閉じられた瞼をただ見詰めている。

やがて、レイはゆっくりと両手を拡げ、天を仰ぎ見た。

レイの口が微かに動く。 何かを呟いているようだ。

だが、アスカにはそれを聞き取る事ができない。

そして、レイは再びシンジを見詰めた。

彼女の口からは絶え間なく、何かの言葉が発せられている。

不意にシンジの体に変化が起こった。

シンジの上半身はまるで糸に操られたように起こされて行く。

レイはそんなシンジをただ見詰めているだけであった。

アスカはその時、シンジが生まれたままの姿である事を知った。

アスカは自分の鼓動が速くなって行くのを感じる。

 

レイの口が動きを止める。

そして、レイはシンジの顔を撫でた。

優しく、ゆっくりと、そして、舐めるように。

その姿は彼女の年齢以上に妖艶なものに見えた。

いや、彼女はもはやアスカの知っているレイではなかった。

彼女はその手をシンジの首に絡ませる。

まるで白蛇が木に絡み付くように、彼女の白い腕はシンジの首筋を這って行った。

 

「綾影、何て事をシンジにするのよ!!」

アスカは声を振り絞って叫ぶ。 しかし、その声は二人に届くはずもない。

 

シンジの瞼は閉じられたままである。

レイはその瞳をシンジの顔に近付け、そして、閉じた。

「あ...。」

アスカが二人に何かを叫ぼうとした時、二つの唇は重ねられていた。

その儀式は荘厳に、なおかつ艶容に行われていた。

時間だけがただ粛々と経過して行く。

...だが、その二つの影の周りの時間は凍り付いていた。

 

そして、アスカの心の中も。

 

「どくん」

 

突然、アスカの胸の中の何かが鼓動を始めたような気がした。

決して、心臓のそれではない。

事実、彼女の胸の中では早鐘のように打ち鳴らされ続けている鼓動を先程から自覚してい

た。 しかし、彼女の本能は自分の心臓とは違うもう一つの鼓動を発するもの、いや、

自分の心とは違うもう一つの意識の胎動を感じていた。

そして、彼女自身の理性が生み出す思考は、目の前で繰り広げられる光景にもはや停止寸

前の状態にまで追い込まれていた。

 

シンジの瞼は開かれる事はない。

ただ、彼の頬は紅みが少しさしたように見えた。

レイの白い頬は氷河のような神秘性を湛えいるだけである。

 

「どくん」

 

アスカの胸の中に再び鼓動が打ち鳴らされた。

その響きは前のものよりも大きく、そして深く。

 

「......。」

アスカの思考は停止していた。

正確に表現するならば、この空間における全ての事象を受け入れる事を拒絶していた。

 

 

どれだけの時間が経ったのであろうか。

シンジの表情は変わる事はなく、ただレイの唇を受け入れている。

やがて、シンジの体は沈んで行く。

だが、二人の唇は決して引き離される事はなかった。

シンジの体は再び横たえられ、レイの体もそれについて行く。

一瞬、レイの顔に苦悶の表情が浮かび、シンジの首に巻き付いた腕は寝台の上に這って

行った。 その手はシンジの頭を掻き毟る。

だが、その表情はいつの間にか恍惚のそれに変化していた。

 

「どくん」

 

アスカの胸の中のもう一つの鼓動はさらに大きく、深くなって行った。

 

レイは再び苦悶の表情を浮かべる。

...そして、儀式は終わった...。

レイの唇がゆっくりとシンジの唇を離れる。

だが、二つの唇の間には両者の唾液が糸を引いてその儀式の余韻を残していた。

そして、その掛け橋も千切れて消えた時、レイの瞳ははただ静かにシンジを見下ろして

いるだけであった。

その表情は、儀式の前と変わる所は微塵も感じさせない。

一方のシンジもただ寝台の上に横たわっているだけであった。

ただし、その頬の色は先程までの死人のようなものではなく、生気が僅かながらあるよう

に見えた。

 

二人はもはやそれ以上動こうとはしなかった。

 

...突如、再び暗闇がアスカの周りを覆った。

 

「どくん」

 

アスカの胸の中のもう一つの鼓動がまた響いた。

今度は彼女の意識がはっきりとその存在を認識する。 アスカの思考が活動を再開した。

 

「これは...、何?」

彼女の心が問い掛けを発した。

『これも、私。』

その問いに答えるように、アスカの中にもう一つの自分自身の声がした。

『いくつかあるあなたの意識の一つ。もう一つのあなた...。』

 

その声の源は先程から打ち鳴らされる鼓動と同じである事を彼女は直感的に理解した。

 

その時、彼女の目の前にもう一人の自分が現れた。

その姿は先程までのレイの姿、つまり、月の女神の装束を着ていた。

 

「あ、あなたは誰?」

アスカは目の前にいるもう一人の自分に問い掛けた。

『言ったでしょ、もう一人のあなた。』

「もう一つの私?」

『そう、人は意識の中にいくつもの自分を持っている。

 私はその中のもう一人の惣流・アスカ・ラングレー。』

もう一人のアスカは諭すように、その問いの答えを返した。

 

「嘘! 私は一人だけ!!

 私は惣流・アスカ・ラングレー、またの名を仮面の忍者アス影!!」

『アス影は惣流・アスカ・ラングレーの中の一つの形。

 私はアス影ではない惣流・アスカ・ラングレー...。』

「じゃあ、アス影でない私は一体何なのよ!?」

『アス影は正義を愛する戦士。

 でも、アス影の中にも邪悪なものは存在する。 ...それが私。』

「嘘を言わないで! 私は正義そのものよ!

 私の心の中に悪なんてものは存在しないわ!!」

『じゃあ、あの二人が接吻を交わした時にあなたの中に芽生えた感情は何?』

「そ、それは...。」

『言ってご覧なさい...。』

「...。」

『さあ、あなたが碇シンジを罵っているように、はっきりと口に出してご覧なさい。』

「...。」

『言えないの? じゃあ、私が言ってあげるわ。

 それは、綾波レイに対する嫉妬、綾波レイに対する猜疑心、そして、

 綾波レイに対する恐怖心、綾波レイに対する...』

「止めてっ!」

『まだあるわ...。

 それは、碇シンジに対する猜疑心、碇シンジに対する恐怖心...』

「止めてっ!!」

『それは、自分自身に対する欺瞞、自分自身に対する嫌悪...。』

「止めてって言ってるでしょ!」

『...気が済んだ? ...自分自身の本性を否定して?』

「...。」

『でも、これは誰にでも存在する事...。』

「...。」

『そうやって、人は自分自身を見つけて行く。 永延に続く意識の中で...。

 死と言う自我の存在の終焉が訪れるまで...。』

「...。」

『でも、それとて、自我が認識するもの...。

 所詮生と死は意識が生み出す自我の存在の証明にしか過ぎないわ。』

「私は...。」

『何も恥ずかしがる事はないわ...。

 あなたは一つ知った。

 あなたは一つ目覚めた。

 そして、あなたは一つ終焉への階段を登った...。』

「...。」

『そして、あなたは進む。 全ての収束に向かって...。』

「それって、どう言う意味?」

 

もう一人のアスカはその問いに答える事なく、背を向ける。

 

『さあ、そろそろこの閉じられた意識の中の舞台劇は幕にしましょう。

 ...、現実の私が消えてしまわないうちに...。』

「意識の中の舞台? 現実の私が消える?」

『そう、現実の世界に戻るのです。

 戦国の世に生きる惣流・アスカ・ラングレー...、仮面の忍者アス影として。』

「って、どうすれば?」

『何も心配する事はないわ。 再びあなたが目覚めた時、全ては元に戻っている。

 ただし、どんな状況に置かれているかは分からないけど...。』

「私、負けないわ! たとえ現実がどうであったって!」

『時には虚勢は必要だわ。 でも、弱音が必要な時もある...。』

「虚勢なんかじゃないわ!」

『それも、私の中の自我の一つの形...。』

「違うっ!」

 

『...、さあ、もうお喋りが過ぎたようだわ...。

 現実の世界に還りましょう...。』

 

アスカの意識が薄れて行く。

もう一人のアスカは闇に溶け込もうとしていた。

その中で、彼女の声が子守歌のように響く。

 

『忘れないで...。

 ...正義の裏には邪悪がある。

 ...友情の裏には裏切りがある。

 ...自信の裏には弱音がある。

 ...恋慕の裏には嫉妬がある。

 ...信頼の裏には欺瞞がある。

 ...尊敬の裏には恐怖がある

 ...憧憬の裏には嫌悪がある。

 

 それは全て表と裏。

 どちらが表かを決めるのは自分自身。

 

 太陽は月を照らし、月は夜空を照らす。

 でも、月は決して自分自身では輝かない。

 太陽がなければただの影。

 ...闇の中に潜む輝かない星。

 ...いつまでも自分自身の存在を知られる事のない虚像。

 

 忘れないで...。

 自分を輝かせる事ができるのは自分自身だけ。

 自分の意識を決める事ができるのは自分自身だけ。

 自分の存在を守る事ができるのは自分自身だけ。

 そして、自分の存在理由を決める事ができるのは自分自身だけ。

 なぜなら、自分を照らす事ができるのは自分自身でしかないから...。

 

 忘れないで...。

 あなたの中の多くの自分自身の存在を...。

 私達は常にあなたの側に居るわ...。』

 

アスカは消え行く意識の中で、叫んだ。

 

「私は自分の決めた道を行くだけ!

 それ以上でもそれ以下でもないわ!

 そして、もしそれが間違っていたとしても決して後悔はしないわ!!」

 

『...そう...。』

 

闇に消え入りそうなもう一人のアスカは再び振り返り、そして微笑んだ。

その微笑みは慈愛に満ちた母親のようなものであった。

 

「...私...負けない...。」

 

アスカの周りの時間と空間が闇に吸い込まれて行った。

 

                          <続く>

 



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