『仕組まれた女神』 −第九部−

くらしろ


 

   #15

 

「な、何よこれ?」

アスカは目の前に拡がる光景を目の当たりにして、驚愕するしかなかった。

「ア、アスカ...。」

それはアスカの隣に立ち竦んでいるシンジも同じであった。

確かに、彼等が現れた場所は先程までいた洞窟であるには違いなかった。

そこにはアスカとシンジが横たえられていた寝台があった。

レイがいた舞台があった。

そして、洞窟の壁は松明の明かりによって煌々と照らされていた。

だが、そこには村人達の姿は見当たらなかった。

「みんなどこに行っちゃったんだろう?」

そんなアスカが不審に思った事をシンジが代わりに呟いた。

しかし、アスカには明らかに人の気配が感じられていた。

「いや、いるわ!」

「で、でも、どこにも見当たらないよ。」

そう返答するシンジであったが、彼もアスカと同じく何かを感付いていた。

彼等を取り囲み、今にも襲おうとする邪悪な意識を。

それは目に見えない閃光となって、耳に聞こえない咆哮となってこの空間に、そして、

アスカ達の周りを渦巻いていた。

「ええ、彼等は私達を襲う機会を伺っています。」

レイが口を開く。

「あ、綾影! アンタまた...?」

「心配要りません。私は綾影さんの体を借りているだけです。

 今の私は月の女神、以前のような邪悪な意識には支配されていません。」

「え、そんな事言っても...。」

シンジはレイに不安な表情を向ける。

「その証拠に、ここに綾影さんもいます。」

「どう言う事です。」

「碇君、心配しないで。 女神殿は私と一緒にいるわ...でござる。」

一つの口を借りて、二つの意識から発せられる言葉がシンジに向けられる。

「あ、綾波。何かよく実感できないけど、安心したよ。」

「大丈夫よ...でござる。」

「私もよく分かんないけど、信用していい訳ね。」

アスカも何とか理解したようだ。

「ええ、私を信用して下さい。

 そう言ってるわ...でござる。」

「あ〜! 何だかややこしいわね! で、これからどうしようって言うの!?」

アスカは刀を抜き、身構える。

「シンジ、行くわよ!」

「う、うん...。」

シンジもアスカに習い、身構えた。

「アスカ、分かっているよ。」

普段は情けない事を言っていても、さすがはドイツ忍者と旅をするだけの事はある。

その姿はアスカのそれよりも逞しく見えた。

だが、二人の行動をを否定するかのような声がレイの口を通じて齎される。

「それは無駄です、アス影さん。彼等に武器は通用しません。」

「じゃあ、どうやって戦うのよ?」

アスカはレイを睨み付ける。

だが、レイは淡々と前を見据え、彼女の中にいる女神の言葉を語った。

「彼等は実態のない存在。その証拠に、彼等の姿は見る事ができないでしょう。」

「う、うん。 そう言われてみれば。」

「シンジ、妙に納得している場合じゃないでしょう!

 それに、綾影! いや、女神様とやら!

 そう言うんなら、奴等と戦う方法を教えなさいよ!」

「はい...。」

レイは一歩前に歩み出た。

そして、彼女の中のもう一つの意識が発した言葉を語り始める。

「彼等は既に自らを制御できません。

 なぜなら、彼等を束ねる意識、つまり冥府の女神の意識は今や存在していないから

 です。

 いえ、厳密に言えば、今この私の意識によって覆い隠されてしまっているからです。」

「じゃあ、処置なしじゃないの?」

「いえ、方法はあります。 先程私が言った通り、アス影さん達の協力があれば。」

「具体的に言って下さい。」

シンジは決意の籠った口調で、レイの中の女神の意識に尋ねた。

「これから、私の意識を彼等に解放します。」

「それで、どうなるのよ?」

「彼等は私に向かって襲って来るでしょう。 丁度いい生贄ができるのですから。」

「ちょっと! それじゃあ、綾影は!?」

「私の意識は大丈夫...、でござる。」

今度の言葉はレイ自身のものである。

「で、でも...。」

シンジはレイに心配の眼差しを向けた。

そして、今度は女神の言葉が彼に返された。

「綾影さんの言う通り、解放するのは私の意識です。

 でも、彼等の意識は巨大な集合体になっています。

 それは、私のような下級の神の意識を飲み込んでしまう程の強力なものでしょう。

 多分、私一人だけ、いや、ここにいる綾影さんの意識を加えても抗しきれるものでは

 ないでしょう。」

「それじゃあ、やっぱり綾波も危険に曝す事になるじゃあないですか?」

「碇君、だから二人の協力が必要なの...、でござる。

 ...そうです、あなた達の心を私に貸して下さい。」

「心を貸すって?」

レイの口から漏れる二つの意識の夫々に問うアスカ。

「そんなに難しい事ではありません。

 あなた方はただ念じればいいだけです。あなた達の澄んだ心を。

 そして、その心で彼等の邪悪な魂を浄化して下さい。

 そうすれば、私は彼等の魂を帰るべき場所に導く事ができます。」

「できるのかなぁ。」

「碇君。私達ならできるわ...、でござる。」

半信半疑のシンジをレイの言葉が勇気づける。

「分かったわ! やりましょう!」

アスカは刀を鞘に収めると、拳を顔の前で強く握る。

「シンジ、いいわね!」

「分かったよ。」

そう答える少年の顔も勇気に満ちた澄んだ表情となっていた。

「ありがとう、アス影さん、シンジさん、綾影さん。」

「こんな事、ドイツ忍者として当然よ!」

「う、うん。」

「行くわ...、でござる。」

 

レイは洞窟の向こうに視線を向けた。

そこには松明に照らされた壁面が拡がっている。

だが、そこまでの空間は澱んだ空気で満たされているのが、レイ自信の意識でもはっきり

と感じ取る事ができた。

そして、彼女は前にアスカ達に見せたように両手を拡げた。

ただし、今回はその腕から垂れている衣装が輝いて見えていた。

レイは顔に恍惚の表情を浮かべ、何かを呟き始める。

それは彼女の中の女神の意識がそうさせている事は明らかであった。

なぜなら、発せられる言葉はアスカもシンジも知らない言葉であったからだ。

もし、彼等がもう少し呪術に詳しければ、それは古代語と言われるものである事が分かっ

たのであろうが、今の彼等にそれを知る術はない。

レイはそんな事を気に掛ける事なく、言葉を続け、アスカとシンジはただレイの傍らで身

構えているだけであった。

レイの詠唱の声が高まる。

それに連れて、彼女の表情は先程までの恍惚のそれから、苦悶のそれに変化して行った。

レイの体が蹌踉めく。

「あ、綾波...。」

「碇君、私は大丈夫...、でござる。」

今にも倒れるレイの体を支えようとするシンジを、レイの言葉が制止する。

そして、その言葉は女神のそれになった。

「皆さん、彼等がやって来ます。」

「シンジ、行くわよ!」

アスカはそう言うと、レイの左手を自分の右手で握った。

「うん、アスカ、綾波!」

シンジも左手でレイのもう一方の手を握る。

彼等の前に暗黒が拡がって行く。

しかし、彼等の意識は別の視界を捉えていた。

それはとぐろを巻く邪悪な渦巻。

そして、それは鎌首を擡げて、彼等に迫って来ていた。

まるで、大蛇が三匹の子鼠を飲み込もうとするように。

アスカ達の意識の戦いが始まった。

 

 

「な、何よこれ?」

アスカの意識が叫び声を上げる。

『これが彼等の邪悪な魂。その集合体。』

その声に答えるように、女神の声が届いた。

「こ、こんなのに勝てるの?」

シンジがその声に問い掛ける。

「碇君、私達なら勝てるわ...、でござる。」

レイの声が答えた、そしてレイと同じ声の女神の声が聞こえる。

『そうです。 あなた達の澄んだ強い意志であれば打ち勝つ事ができます。』

その声が終わるや否や、今度はレイの意識の声が聞こえた。

「向かって来るわ。」

「来たわね!」

「に、逃げちゃダメだ!」

アスカとシンジがレイに続いた。

 

その大蛇はアスカ達に大きな口を開ける。

その口から吐き出されたのは黒い霧であった。

いや、それは無数の邪悪な意識から構成されている粒子であった。

「こ、これは...。」

それはアスカを、レイをそしてシンジを包む。

「これは...、何?」

アスカが驚嘆と恐怖に満ちた声を上げる。

それを言葉で表現すれば、恨み、呪い、嫉み、僻み、怒り...。

この世のありとあらゆる人間の負の意識そのものであった。

「ああ、体が痛い...、辛い。」

『アス影さん、それが彼等悪霊の正体です。

 彼等を駆り立てているもの、それは人間が持つ負の意識の全て。』

「く、苦しい...。」

『シンジさん、負けないで下さい。

 その意識に負けた時、あなたの意識は闇に永遠に取り込まれてしまいます。』

「飲み込まれていくわ...でござる。」

『綾影さん、心を強く持って下さい。』

アスカ、シンジ、そして、レイの声には苦悶の響きが籠っていた。

そして、夫々に女神の励ましの声が答えた。

だが、その意識は絶え間なく彼等を襲って来る。

アスカがたまらず、女神に問い掛けた。

「でも、これでどうやってこいつらに戦うって言うのよ!?」

『アス影さん、、考えるのです。

 歓び、楽しみ、安堵、信頼、友情、そして愛情...。

 あなたが思う意識の正なる部分を』

「で、できるの?」

「アスカ、今はやってみるしかないよ!」

「そうよ...、でござる。」

そして、シンジとレイがそんなアスカを励まそうとしていた。

それに応えようとするアスカ。

「分かったわ! やってみるわよ!!」

『みなさん、頑張って下さい。 私の力もいつまで持つか分かりません。』

「言われなくても分かってるわよ!」

そう叫ぶと、アスカは考えた。

今までの楽しかった事を、嬉しかった事を、そして恋い焦がれた事を。

だが、邪悪な意識が彼女の思考の邪魔をする。

そして、それらはアスカに全く逆の事を蘇らそうとする...、彼女の心の奥底に眠る負

の思いを...。

「止めて! 私の意識を覗かないで!」

「アスカ、駄目だ! 負けちゃあ、駄目だ!!」

「だって、シンジ、こいつらは私の心を覗こうとしているのよ!

 私の悲しい過去を掘り起こそうとしているのよ!」

「駄目だ、そんな奴等に屈しちゃ!」

「でも、シンジ、こいつらは...。」

アスカの声はいつの間にか、涙声になっていた。

「アスカ、それでも君はドイツ忍者なの?

 いつも僕たちに言っている事を忘れたの?

 僕達は決して弱音を吐かない。

 僕達は決して挫けない。

 僕達は決して負けはしない!

 アスカ、そうだったんじゃないの!?」

そのシンジの声はいつもの弱気に満ちた響きではなく、勇気に満ちたものであった。

「でもシンジ...、辛いのよ...。」

「僕だって辛いさ、こいつらは僕達の意識の弱い所を突いて来る。

 そして、僕達の邪な意識を蘇らせようとする。

 でも、僕が知っている仮面の忍者アス影ならそんなものも跳ね返せるはずだ!」

シンジの言葉はアスカに忘れかけた何かを呼び起こそうとしているようであった。

やがて、アスカはその言葉の裏に隠されている意味を汲み取った。

「...分かったわ、シンジ。

 私、やってみる。 私、戦ってみる。

 それが、正義を愛する仮面の忍者アス影の使命。

 それが、綾影をそして、シンジを愛する私の願い!」

その声には決意が満ちていた。

そして、アスカは自分の持てる全ての正なる心を集中した。

正義、歓喜、友情、信頼、協力、そして愛情...。

そんな考えを思い起こすアスカに、邪悪な意志が絶え間なく襲い掛かる。

必死に耐えるアスカ。 葛藤が彼女の意識の中で渦巻く。

アスカの心を侵そうとする意志と、守ろうとする意志。

 

「...私は、絶対に負けない。

 ...私自身のためにも...、シンジや綾影のためにも...、

 ...そして、この世界の皆のためにも...。

 ...そう、負けてらんないのよ!!」

アスカはそう叫ぶと、目を瞑った。

彼女の脳裏にはシンジのそして、レイの笑顔が見えたような気がした。

そして、光がその記憶を飲み込んで行った。

その時、アスカの中で何かが弾けた感じがした。

 

「...何これ?」

アスカはゆっくりと目を開けた。

すると、彼女の周りを光の壁が覆っているのに気付く。

その光の中に、アスカは迸る命を、意志を、そして愛を感じたような気がした。

「こ、これは...!?」

『アス影さん、それはあなたの澄んだ心の壁。

 あなたの心が邪悪な意識からあなた自身を守っているのです。

 ...そして、それこそ私が待っていたもの...。』

「これが...私の?」

気が付けば、レイのそしてシンジの周りにも光の壁ができていた。

「あ、綾影、それにシンジ!」

『アス影さん、綾影さん、シンジさん、それこそ私が待っていたもの。』

やがて、悪霊達の見えない苦悶が、聞こえない絶叫が三人には感じられた。

そして、その光の壁に邪悪な意識は吸収され、消えて行く事が感じられた。

彼等の断末魔を残して。

...アスカ達を襲っていた邪悪な意識の存在が薄れて行った。

 

いつしか、ただ静寂だけが三人を包んでいた。

 

 

   #16

 

やがていつの間にか、三人の周りを無数の光の粒が飛び交っていた。

それは温かく、安らぎに満ちた光であった。

その光の粒の一つ一つから、優しさに満ちた声が響いて来ていた。

『皆さん、ありがとう...。

 あなた達の澄んだ心が邪悪な意識を飲み込んだのです。

 さあ、後は私の仕事です。』

「それってどう言う事よ?」

『あなた達の心が彼等の邪悪な心を説き伏せました。

 もう彼等にこの世の恨みはなくなりました。

 そして、私の仕事は彼等を黄泉の世界に返してあげる事。』

「どこに行くの...、でござる?」

『私は月の女神でもあり、冥府の女神でもあります。 私は彼等を冥府に導きます。』

「でも、それじゃあ、あなたは再び...。」

『シンジさん、その心配は要りません。

 私はあなた達によって目覚め、私の中の邪悪な意識の存在を知りました。

 そして、私は今この意識を押さえる事ができます。

 いま、あなた達がしたように。』

この言葉が終わった時、アスカ達は眩しい光に包まれた。

思わず、目を瞑る三人。

 

...再び目を開いた時、彼等の前に女神がいた。

彼女からは幾重もの光が生まれていた。

そして、女神はその胸に赤子を抱いていた。

 

『ありがとう、アス影さん。』

「あ...。」

その女神の神々しさに言葉が出ないアスカ。

『ありがとう、みなさん。 彼等を救ってくれて...。』

「あの、その...。」

女神の抱く赤子に気付いたシンジ。

『これは、彼等が還った姿。

 あなた達によって彼等の邪悪な意志は消え去りました。

 残ったのは澄んだ心だけ。 もはや、彼等にこの世の未練はありません。

 そして、この赤子は彼等の意識の象徴。』

「よかったわ...、でござる。」

レイが微笑んだような気がした。

すると、もう一人のレイ、女神も赤子に優しい微笑みを向ていた。

そして、アスカ達にもその微笑みを向けた。

『では、これでお別れです。

 私はこの子を黄泉の世界に連れて行きます。 この子のいるべき場所に。

 そして、私は天に帰ります。 私のいるべき場所に。』

「そうね、人も、魂も、神も本来いるべき場所にいなきゃあね!」

アスカの言葉には今は高飛車な響きはない。

『そうです。

 私はあなた達を見守り続けるでしょう。 あなた達の子々孫々の代まで。

 でも、もはや私はこの地に降りる事はないでしょう。

 もう人間に奇跡を起こす事はないでしょう。』

「うん、私達に奇跡なんか要らないわ!

 奇跡と言うものは、神に頼って起こすものではなく、自分達で起こすものですもの!」

『頼もしい言葉ですね。 これで安心して地上を照らし続ける事ができます。』

「太陽の光を照り返すだけだけどね!」

「アスカ、女神様に何て事言うんだよ...。」

『シンジさん、いいのです。 私はただ太陽の光を照り返すだけ。

 でも、人間は自ら光り輝く事ができます。

 言われてみれば、人間は私より優れているのかも知れませんね...。』

「アッタリ前よ!!」

アスカが胸を張った時、赤子が泣き始める。

その泣き声は生命の迸りを感じさせるほど澄んだ響きであった。

女神はその子を優しくあやす。

 

『どうやら、この子は帰りたがっています。

 この子が愚図つく前に返してやらなくてはなりませんからね。』

そして、女神の体はゆっくりと登り始めた。

 

「さようなら...、でござる。」

レイがもう一人の自分を姿をした少女に別れの挨拶を言う。

『さようなら、綾影さん。

 もう一人の私...。 そして、地上でもっとも私に近い存在の女性。』

 

「さ、さようなら...。」

シンジは頬を赤く染めて言う。

『さようなら、碇シンジさん。

 あなたの勇気でアス影さんを、綾影さんを守って下さいね...。』

 

「さよなら! Auf Wiedersehen!」

アスカは仮面に隠された青い瞳を輝かせて言う。

『さようなら、アス影さん。

 私はあなたが羨ましいです。 素敵な仲間に恵まれて...。

 みなさんと、お幸せにね。

 そして、お世話になりました...。』

 

女神は登り続ける。

彼女の表情は澄んだ、そして最上の慈愛に満ちていた。

それは人間を慈しむ女神そのものの真の姿であった。

やがて、眩い光が彼女を包み、そしてその光が消えた時、彼女も消えていた。

アスカ達は清々しい気持ちでその光景を眺めているだけであった。

 

最後に、彼女の言葉が響いていた。

 

『忘れないで下さい。 あなた達が経験した事を。

 忘れないで下さい。 あなた達の中にある邪悪な心の存在を。

 忘れないで下さい。 あなた達の中にある澄んだ心を。

 忘れないで下さい...、永遠に...。』

 

 

そして、静寂が訪れた。

洞窟の中には三人の人影だけが残っていた。

 

「忘れるもんですか...。」

アスカは一人ごちた。

やがて、アスカは一歩前に進み、シンジとレイの方を振り返る。

 

「行きましょう! シンジ、綾影!!」

 

                          <続く>

 



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