温かな涙の雫がぽつんと落ちる。
 きらきらと真紅の水面に反射して紅の雫となる。
 血の涙、心の血。
 突き刺すような心の叫びの結晶。
 少年は心の痛みを声でなく、心の声で私に訴える。
 私はその声に耳を塞ぐ。
 あまりに痛くて哀しくて。
 そこで夢は終わる。
 それは私の見るなくした記憶の欠片のひとつ。


1章sweets
2.夢を見る人(後篇)

 早朝。アスカは寮の自室で目覚めた。あの紅の海の夢を見た後は、
必ず早く起きてしまう。
「……嫌だな。又あの夢、見ちゃった」
 ベットの布団を蹴飛ばして、身体を起こす。目を擦りながらパジャマ姿の
アスカは憂鬱そうにベッドから降りると、カーテンを引いて窓から朝の風景を
見つめる。まだ薄暗い空と微かな月の光。森は薄気味悪く感じる。校舎には
人気などない。
 不安。いつもは考えないようにしている15歳以前の自分。サードインパクト時、
姉を訪ねて姉が勤めるNervのある第三新東京市へアスカは居た。そこでゼーレ
が発生させたサードインパクトにアスカは不幸にも遭遇してしまった。
 第三新東京都市。
そこはサードインパクトの起きた中心地。あの事件のせいでアスカのそしてリツコ
の両親は亡くなった。人を補完するという不気味な謎めいた計画。
「そのせいでたくさんの人が亡くなって……」
 人は何処まで傲慢なのか。自然を破壊し、地球の生態系を狂わし、挙句
同じ人を自分たちの計画に巻き込み、たくさんの国が今だ混乱し、人は
悲しみに暮れている。
「ゼーレなんて、Nerv何て消えてしまえばいいのに……」
 今だ姉が何かに苦しんでいることをアスカは知っている。あの気丈で
冷静な姉が人知れず泣いていることを。少女らしい潔癖さと純真さで
少女は全てを嫌悪する。

 そしてあの夢の中の誰か。おぼろげな記憶の中、線の細い少年のような
影が幻の如く紅の海と共に現れる。
 零れ落ちる涙。
 痛々しい程の叫び。
「あなたは誰……?」
 ぎゅっと自らを抱きしめ、その瞼を閉じてアスカは夢の中の少年に問い掛ける。
否自分の中の微かな欠片に。
私に何を言いたかったの?私に何を伝えたいの?
訊きたい、その涙の訳を。
あなたに会いたい……。私を憎んでいるあなたに、私に向かって泣き叫んでいる
あなたに。
「でもどうしてこんなに切ないんだろう……」
 アスカは思い出すことに恐れを感じている。でもその少年の涙に哀しいまでに
共鳴していた。ゆっくりと夢の中の少年の涙の滴がアスカの心に滲む。その涙は
理不尽な怒りと憎しみに彩られたモノ。少年の感情がアスカの心に響く。感じるのは
強い怒りと哀しみ、そして痛み。だからアスカは少年に過去の記憶に怯える。
耳を塞いで忘れようとするのだ。
 朝の到来を告げる鳥の愛らしい鳴き声がアスカの耳に囁く。もう夢から目覚めなさい
、と。そしてゆっくりと閉じていた瞼を開く。見開かれた蒼の双つの瞳は曇り気のない
澄んだ空の青、天上の色。
 記憶をなくした何色にも染まっていない真っ白な少女の心の色。

 アスカは自分が見た悪夢を振り払うようにぶんと首を左右に振る。そして自室の
カーテンを勢い良くしゃっと開いて、窓を開け放つ。窓から入ってくるのは冷たく心地
良い風。
 冷たい風が、夢の余韻を吹き飛ばすかのようにアスカの頬に当たる。冷たい風で目
が覚めたアスカはクローゼットを開き、かけてある制服を手に取った。ブラウスに手を
通し、制服を身につけて、最後にリボンを首元に結ぶ。鏡を前にゴムとピンでポニーテー
ルを結い、そのゴムの上に白いリボンを重ねる。
「よし!準備完了!」
 くるんと鏡を前に一回転。ポニーテールの白いリボンとスカートがふわりと宙に舞う。
昨日の夜用意した教科書とノートを詰めた鞄を手にすると、早朝の寮をこっそりと
抜け出す。紅の海の悪夢を見た日の朝は誰にも会いたくない。会いたいのは姉、
リツコだけ。アスカは嫌な夢を見ると姉のリツコの顔を見たくなる。
それは過去がどうであろうと自分と血の絆を確かに持つ姉の顔を見ると安心
出来るから。
『まーた、アスカは!』
 いつもそうやってクールな声音でアスカに微笑む姉はアスカにとって掛替えのない
存在で。マユキとリツコの存在が自分が此処に在ってもいいと肯定してくれている、過去
のないアスカの希望。
(私はここに居てもいいの……?今の私は誰かに必要とされているの?15歳以前の
記憶を思い出さなくてもいいよね?)
 それは少女の儚い祈り。相反するアスカの二つの心。少年に共鳴する苛烈な怒りと
残酷なまでの憎しみを感じる心と自分を大切に思ってくれる人たちと今を守ろうとする
儚くも優しい心。過去と今。二つの境界線に立つ少女。少女は今を望んでいた。
 小さくて優しい今の自分の世界。過去なんて思い出さなくてもいいから、リツコお姉
ちゃんとマユキと皆とこの学校で楽しく過ごせて行けたらいい。心に響くのは美瑛の
風と森の奏でる歌。
「風が吹いてる。大地が歌ってる……」
 アスカはうーんと初夏の緑の薫りを吸い込む。冷たい北海道独特の風が少女の心を
和ませる。
「大丈夫、大丈夫。あれは幻なんだから。ここが現実」
 アスカの声が不安に揺れた。早くリツコに会いたい、会って「大丈夫よ」といつもの
ように言って欲しい。

 まだ早朝の学校にはシスターの姿はなかった。彼女たちは朝の礼拝を行っている
のだ。この時間、学校にいるのは1限目に授業のある少数の教師と部の早練の為に
登校している生徒たち。廊下をぱたぱたと走り、姉の姿をアスカは必死に探す。やっと
辿り着いた物理学の準備室。
 バン!とアスカは扉を勢い良く開ける。そこにリツコの後姿が在った。
「誰!静かに準備室には入ってくるように……って」
 不機嫌な声で振り返ったリツコは準備室の入り口に妹の姿を認めた。今にも泣き出し
そうな表情のアスカ。
「……アスカ」
 声が柔らかくなり、リツコは妹に優しく微笑む。
「……っ」
 アスカは何も言わず、リツコの胸に飛び込み、抱きつく。アスカは泣かない、泣こうと
しない。そうしたら今の幸福を否定することになる。過去に怯えて時折過去の断片を夢
見てはこうやって今を確認する為にリツコに抱きついてくる。
「又なくした15歳以前の記憶の夢を見たの?」
「……うん」
 口にしたら幸福な今が崩れ落ちそうな気がしてアスカは小さな声でリツコに応える。
だから絶対に夢の少年のことをリツコに話さない。あれは私の作った幻。過去に怯える
私が造り上げた存在。
「大丈夫よ、アスカ。あなたは私が守ってあげる。ずっと傍に居るわ。あなたは私に
残されたたった一人の妹で希望なのよ」
「うん……」
 ふわりとリツコがアスカの背中に腕を回す。暖かな温もり、言葉。リツコの腕の中で
アスカはやっと安堵する。いつもの自分を取り戻す。窓から目映い光が差し込んでくる。
その窓から緑の鮮やかな光景が広がっていた。アスカの大好きなこの美瑛の優しい自然。
姉に笑いかけようと顔を上げた。その時、アスカは姉の机の上のノートPCに表示されて
いる文字を目にした。
『セカンドチルドレンの病状と現在について』
 アスカはそのノートPCの文字から目を離せなかった。
「あ……」
 その瞬間アスカは何か違和感を感じた。その単語セカンドチルドレン。
じっとその単語を凝視する。
「アスカ……?」
「あ、ううん。何でもないの」
 アスカは首を振ってリツコに微笑む。その太陽の如き笑顔。屈託のない愛らしい仕草
。いつものアスカ、だ。
「そう?」
 リツコはほっとする。
「うん」
 ぎゅっと不安を振り払うかのようにアスカはリツコにしがみついた。しっかりとその
存在を確かめるように。

 大丈夫。あなたたちが傍にいてくれる限り、夢で感じた怒りも悲しみも感じないよ、
痛みも。リツコお姉ちゃん、マユキ……。
 アスカは瞳を閉じてリツコの腕の温もりに身を任せる。
 私が大好きな人たち、私を愛してくれる人たちが此処に居る。
 それは確かな現実、大切な今。
To Be Continue...


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