どこまでも澄み切った透明な青い空。
その碧空に白い綿菓子のような雲が浮いている。
いつも少女は地上から遥かに遠い空を眺めていた。
この自分がいる小さな箱庭の世界から。
ぺたんと緑の草の上に座り込んで空を見つめていた。そこは少女の世界。
 西暦2018年、初夏。
 その頃の少女の世界はとても優しくてでも少し息の詰まる場所に在った。


1章 sweets
1.Birdcage〜鳥篭或いは柔らかな檻〜


 ひんやりとした初夏を告げる風が吹く。そして森の木々の葉が音を奏でる。
少女は森の中、大きな樹の下に座って空を飽きることもなく見つめていた。
緑の葉の隙間からきらきらと木洩れ日が差し込む。空は透き通った青。大地には初夏の
輝かんばかりの瑞々しい緑に染まった木々。薄緑色の草と野に咲く花。
 少女は風を感じようと瞳を閉じていた。そしてその伏せていた瞼をゆっくりと見開く。
その開かれた瞳は蒼。風に舞う茜色の長い髪。半袖のブラウスに襟元には赤いリボンに
紺のジャンバースカートの制服。年の頃は16、7。
 4限目の授業終了のチャイムが鳴る。少女はその音に顔を上げた。
向こう側の校舎から少女と同じ制服を着た少女たちが出てくる。そろそろ行かないと
ここにもお昼を取る少女たちがやってくる。
「ああ、天気良くて授業さぼっちゃった、お姉ちゃん怒っているだろうな……」
 少女は立ち上がってスカートの裾に付いた土と草を払うと、腕を伸ばす。
そして年の離れた、半分だけ血の繋がった姉の怒っている姿が脳裏に浮かんだ。
「よりによってお姉ちゃんの授業さぼっちゃうなんて……」
 小さく溜息。そこへ人の気配がして、少女は振り返る。
少女の振り返った先には黒髪のショートボブに漆黒の双眸。ラフな服装の上に
白衣。年は30歳位。きびきびとした身のこなしで少女に近づく。
「アスカ」
 凛とした声に少女、アスカは逃げようと後ずさりする。
「逃げようとしても無駄よ」
 怒りを含んだその声音にアスカは観念する。だがその先にはにっこりと微笑む
顔。アスカは絶句する。ものすごく怒っている、それはその女性にとってごく親しい
者にしかわからないモノである。しかし、今のアスカにとってそれは恐怖でしかありえない。
「リ、リツコお姉ちゃん。何故、ここが……」
 青ざめるアスカ。
「あーら、マユキちゃんからの裏情報よ」
 マユキ、それはアスカの親友の名前。姉の言葉にアスカは親友の裏切りを知る。
「あ、あの裏切り者ー!」
 アスカの元気のいい声が今日も聖北女学院の敷地内に響き渡る。
 それは少女にとって変らない、毎日。いつまでも続く日常。

「惣流アスカさん」
 にっこりと机の上で手を組んで微笑するシスター姿の威圧感ある女性、この
アスカの通う聖北女学院の理事長、シスターマリア。
フランス人であり、ミッション系の学校である聖北女学院の理事長でアスカの姉
リツコの恩師である。
「はい……」
 先程まで姉リツコからの無言の恐ろしい圧力を受けていたアスカはしゅんとして
いる。
「今日はとてもお天気が良くて授業をお休みして外でのんびりとするには素敵な
日ですね」
 穏やかににこにこ笑うシスターマリアにアスカはついうっかり口を滑らせた。
「は、はい!今年は去年よりも四季の移り変わりがはっきりして、涼しくてとっても気持ち
良くて……と」
 慌てて自分の口を手で押さえる。その様子を苦笑するシスターマリア。
「そうね。とっても気持ちいいでしょうけど、自分の授業をさぼられた先生は気持ち良く
ないわよね?それはわかりますね」
 アスカの屈託のない天真爛漫な性格、と散々姉であるリツコに怒られたであろうに
懲りていないのがわかって可笑しいのだが、それを堪えてシスターマリアは厳しい
表情でアスカに向き直る。
「はい……わかります」
 しょぼんとした顔が又笑いを誘う。
「わかればいいです。では反省として新約聖書のコリント人への第一の手紙と
第二の手紙の部分を書き取りにしてレポート用紙に清書すること。それを明日
までにやっておきなさい」
「はい……」
 頷くアスカ。
「では理事長室から出て宜しいです」
「はい。失礼いたします」
 アスカはシスターマリアに頭を下げ、理事長室の扉を開き出て行く。
 そしてその後、理事長室に小さな笑い声が零れた。

 そのまま廊下を歩いて階段を昇ると二階に音楽室がある。さっきまでのしおらしい
態度はどこへやら、きょろきょろとアスカは周囲を見渡し姉がいないことを確認すると、
勢い良く廊下を早歩きし始めた。そして手すりに両手をかけてぴょんと階段の一段目に
飛び乗って、ぱたぱたと階段を小走りに駆け上がる。その勢いで制服のスカートの裾がふわりと
翻った。アスカは兎に角、元気がいい。階段の下の廊下を歩く生徒たちとシスターたちが
くすくす笑っている。
 音楽室から綺麗なピアノの音が聴こえてくる。アスカが階段を上がり、二階に差し掛かった所で
ピアノの音が止まり、音楽室の廊下に面した窓から少女が顔を出した。
「アースカっ!赤木先生に授業さぼったこと、怒られた?」
 くすくすと愛らしく笑う、翠の黒髪に大きな黒曜石を連想させる双眸。日本人形を思わせる
少女。アスカの親友、早瀬マユキ。
「マユキ、ひどい……。親友なら普通、教師に親友のさぼっている場所は教えないわ」
 冷めた口調でアスカは言う。言葉とは逆に拗ねた表情でぷいっと顔を横にする。
この愛らしい天真爛漫な少女はいつだって素直で人にストレートにぶつかってくる。
だから憎めない、ほおっておけない。リツコもシスターマリアもマユキも。
「ごめん、ごめん。だってアスカ、お姉さんの授業さぼったらまずいんじゃない?仮にもリツコ
先生とアスカって有名人なんだからこの学校の。先生の立場、悪くなっちゃうよ」
 アスカより少し大人びたお姉さんの視線。諭すマユキの言葉にアスカは黙り込んだ。
「うん、私が悪いよね。唯ね」
「唯?」
「すごく今日ね、空の色が綺麗だったの。透明な青い、どこまでも吸い込まれてしまいそうな天上の
色。何か大切なことを思い出せそうで」
 その瞬間、アスカは手に届かない儚い何かを探す瞳をしていた。遥か遠く遠くを見つめて。
蒼天の眸は澄んでいてどこか夢を見続けている如く。
アスカが遠くに行ってしまいそうな感覚にマユキは囚われる。別人のアスカ、が其処に居た。
嫌な予感。
「あ。マユキちゃん、コンクールいつから?」
 一転。くるりとマユキに向き直るアスカはいつものアスカに戻っていた。
「あ、うん。後一ヶ月よ、アスカだって声楽部門で出るじゃない?練習してる?」
「うん。ちゃんとやってるわよ、私」
「そう?」
 くすくすと柔らかく笑うマユキはグランドピアノの前に戻り、座る。その白魚のような長い
綺麗な指がピアノの白い鍵盤を泳ぎ始める。繊細なマユキらしい音がその指から生まれる。
優しく柔らかな少女らしさを感じさせる旋律。
 アスカはその音を聴きながら、窓から入ってくる涼しい風を頬に感じていた。
 まだこの頃、少女の世界はとても優しくて小さくて。
 少女は夢見ていた、柔らかな鳥篭の中で。


To Be Continue...


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