簡単な寓話のお話。
華胥の国とは中国古代の天子、黄帝が昼寝の夢に見たという理想郷。
漢詩の授業の時、先生が教えてくれた。
人々は自然に従って生き、物欲、愛憎なく、生死にも煩わされることなく
よく治まっていたという国のことを言うんだって。
だったら此処は何処。神様が造った楽園?
それともなあに?例えば此処の夢から覚めたらどうなっちゃうの?


1章sweets
2.夢を見る人(前篇)

  美瑛に位置する聖北女学院はこの夏の時期の盛りが一番美しい。まるで絵画から抜け出たような麦
の黄金色と鮮やかな濃い緑のコントラスト。広い青の空。人が植えた紫色のラベンダー、淡黄色の向日葵。
野に咲く愛らしい露草。涼やかなこの大地に風が吹き、草原が揺れる。森の木々は青々と葉をたたえ、
緑陰があちらこちらに見られる。その広大な大地に人の住む家々が見えてくる。その手前にあるのが
聖北女学院である。洋館風の造りの校舎と美しく白い壁が印象的な礼拝堂。そして少女たちの住まう寮。
その周囲を緑豊かな森が取り巻き、そして辛うじて広大な学園とわかるのが校門があるからだ。

 月曜の午後一番の5限の授業は礼拝である。この学園に欠かせない科目。
 この礼拝堂はセカンドインパクト以前からある古いとある教会から移築されたものである。中央に幼子の
イエスキリストを抱くマリアの施された美しいスタンドグラスの大きな出窓が中央に配置され、右側に時代物の
もう動かないパイプオルガン。スタンドグラスの出窓の前に祭壇。そしてシスターたちが生徒や信者たちに語る
為の壇上がある。
 壇上から小鳥のさえずるような愛らしい声音とオルガンの伴奏が響く。
賛美歌の独唱。合唱部の部員、惣流アスカの謳う賛美歌第ニ編184番。

『神は一人子を 賜うほどに
世人を愛し給う 神は愛なり
神は一人子を 賜うほどに
世人を愛し給う 神は愛なり

あぁ、神は愛なり、汚れ果てし
我さえ愛し給う 神は愛なり

罪をば犯して 神に背き
逆らう我さえ なお愛し給う
罪をば犯して 神に背き
逆らう我さえ なお愛し給う

罪許されんため 我に代わり
御子イエス十字架に 死に給えり
罪許されんため 我に代わり
御子イエス十字架に 死に給えり』

 それは少女らしい愛らしさと祈りに満ち溢れた心が込められた歌。
青空を連想させる透明で清涼感溢れる歌声。その声音はオルガンと共鳴し、一体化した音と声が水のように揺ら
めき、奏でられる美しい旋律。ゆるやかに柔らかく。その賛美歌を謳うアスカはまだ守られた外の世界を知らない
少女独特の無垢な印象を人に与える。
 普段は後先を考えない天真爛漫、元気なお転婆娘。聖北女学院高等部きってのトラブルメーカーのアスカの姿
しか知らない新入生たちはその姿に魅せられる。オルガンを伴奏する美しい少女も。
国内外で天才ピアニストとして知られる早瀬マユキ。「天使の指」と賞されるその技術と柔らかな繊細な音。
例えて言えば雨上がりに浮かぶ虹。爽やかで鮮やかなだけどどこか危ういそんな音。
高等部に在籍するこの二人の少女たちは、学園の有名人だ。

 父が童話作家で母は世界的に高名なバイオリニストの早瀬マユキ。そして姉は昔、どこかの有名な研究所に
勤めていた天才科学者で現在はこの学院の理科の教師であり、両親共高名な科学者である惣流アスカ。
二人揃って音楽の才能に恵まれている。まだゼーレという狂気の組織が起こしたサードインパクトの混乱の抜け切
ってない世界。だが此処だけは違う。温室のように少女たちを真綿の如く包み込む学園。少女たちは現実を知りな
がら、外の世界を知らぬ振りをする。目を閉じ、耳を塞ぎながらこの自分たちを守る楽園に眠る如く。
 歌が止む。そして理事長であるシスターマリアの説教が行われる前に二人の少女たちはくすくすと
笑い合い、礼拝堂の壇上から降りる。それに見惚れる他の生徒たち。
 シスターマリアが聖書を開く。それと同時に礼拝堂の空気が変わる。ぴしっと引き締まったそんな気配が
漂い始めた。
「では今日は新約聖書からマタイによる福音書のお話をします。新約聖書の第1章18から」
 シスターマリアがイエス・キリストの誕生の話を始める。清々しい口調。礼拝堂に静謐な時間が流れる。
シスターの説教を熱心に聞き込む生徒、一方では舟を漕ぎ、教師に叱られる生徒もいる。
「ではここまで」
 ぱたんとシスターマリアが聖書を閉じ、礼拝堂の壇上から立ち去る。

 少女たちは礼拝終了の鐘の鳴る音を聴き、私語が礼拝堂のあちらこちらで賑やかに飛び交う。
「ねー、惣流先輩ってあんなに歌上手だったの?私、先輩って学院きってのトラブルメーカーだと思ってた」
「何、言ってるの?惣流先輩ってば今年道立の合唱コンクールの個人の部で優勝したのよ!歌っている時だけは
先輩ってばほんと綺麗なのよねー」
「ねえねえ、早瀬先輩のオルガン素敵だったー」
 きゃあきゃあと夢見るように憧れの先輩について語る天使たち。いつかはこの守られた鳥篭から巣立ち、厳しい
現実を突きつけられることを知っていながら。否この少女たちだけは違う。
北海道にある私立聖北女学院は全国でも1、2を争う創設以来何十年も続く伝統的なお嬢様学校であり、進学校
である。中高一貫の寄宿舎に入ることが義務付けられている女子校。昔貴族が造らせた洋館を改築した校舎。
人里離れた自然豊かな環境。
 夢見ることしか知らない少女たちの楽園。無邪気で愛らしい生徒たち。だがそれは偽り。真実はサードインパクト
の後、混乱し悪化した世間から娘を守ろうと良家や金持ちの親たちがこの学園に送り込んだのだ。ここは言わば
世間から隔離された箱庭。小さな小さな世界。

 礼拝堂から校舎への通路をぱたぱたとアスカとマユキがお喋りしながら歩く。
「あー、やっと地獄の礼拝が終わったー!もうやってらんない!なーにがイエスキリストよ。もうこの世にいない爺
の話なんて聞いたって面白くもなんともない!」
 さっきまで壇上で愛らしく賛美歌を独唱していた人物とは同じと思えないアスカの口調。それに呆れるように
マユキ。
「神様はいないって?」
「そうよ!」
 いつもの愛らしく素直で天真爛漫なアスカはいない。凄まじい勢いでマユキに罵詈雑言を言い放つ。
「神様なんているわけないじゃない!ばっかみたい!あーんな風にありがたく語ってさ。神様何て何もしてくれる
わけないじゃない!ほーんと馬鹿よ!馬鹿!」
「アスカ……。気持ちはわかるけど、人の前で言っちゃ駄目よ?私やリツコ先生だったらいいけど」
 この毎週の礼拝の時間が終わると、必ずアスカはマユキにたまった鬱積を晴らすが如く喚き散らす。
それは普段明るく誰からも愛されるアスカの別の顔。サードインパクトの際に爆心地の近くに居合わせた少女は
両親を亡くし、その後遺症で15歳以前の記憶を失った。この少女は過去に怯え、生きている。
15歳以前の過去、夢に見る紅の海。そしてその場所に一緒にいた誰かに酷く憎まれている感覚。それだけが
アスカが憶えている過去の記憶。
 マユキの心配そうな声にアスカはそっと目を伏せた。
「ごめんね、マユキ……。私又やっちゃった。どうしていつもいつも礼拝の時間に神様の話を聞くとこうなるんだろう」
 アスカの蒼の双眸から水晶のように透き通った涙が溢れる。
「アスカ……」
 マユキはアスカをそっと抱きしめることしか出来ない。そんな自分が歯痒かった。
「マユキ……。私、恐い。又眠るとあの紅の夢を見るの……」
 いつもは気丈に振舞う、アスカの年相応な姿。夢に怯える少女。マユキはそんな親友が痛々しくて
堪らなかった。出来れば変わってあげたい、といつも願っていた。

 祈りは天の神に届かない、神様はいない。
 でなければどうしてサードインパクトなど起きたのだろうか?
 人が神様になったつもりでたくさんの罪を重ねたから。
 それがその頃。この二人の少女たちが考えていたこと、だった。
 小さな箱庭の世界。その中で少女たちは苦悩し、生きていた。
 だけど。
 ここは華胥の国。
 守られて生きている自分たちに気づかない、幸せな幸せな少女たち。

To Be Continue...


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